芸能・アイドル

心のリセット 「高橋真梨子in静岡」コンサートのため息 

  久しぶりに、懐かしい高橋真梨子のコンサート(静岡市)に出かけた。相変わらず中年の女性が多いのに驚く。団塊世代の小生のような男性団塊世代はむしろ少ないほうだ。

 結論を言えば、ため息の出るような、華やかな2時間だった。ため息をつくと、幸せが逃げていくと言われたりもするが、小生にとって、浜松に転居して初めてのコンサートとあって、

 ため息が出るような「心のリセット」

となった。『ため息健康法』という著書のある武蔵野大学非常勤講師の原山建郎氏によると、

 ため息とは、無意識に出してしまう「身体知」による呼吸反射。これに対し、

 深呼吸は、「頭脳知」による呼吸動作。

 ため息とは、心のリセットと出ていた。コンサート帰りに、浜松に戻る新幹線の中で読んだ「Y !ニュース」に、そう出ていた。

 身体が無意識に行う「心のリセット」。

小生の場合、まさしくそうだった。このコンサートが、在住20年の石川県金沢市から、ある思いで、意を決して静岡県に来て、

「人生のリセット」

を始めた時期にあたっていたから、余計にそう感じたのかもしれない。

 思えば、ペドロ&カプリシャス時代の高橋真梨子(1973年-1978年)の6年間は、ちょうど、小生の京都での大学院時代にあたる。ペドロ梅村がリーダーで、彼女は2代目ボーカリスト。この時聴いた「ジョニーへの伝言」「五番街のマリーへ」がヒットした。これが、その後、ソロ歌手としてデビューするきっかけとなったのだろう。コンサートでも、こうした歌は、高橋真梨子にとって、忘れられない大切な曲で、今もコンサートなどで歌っているという。記念碑的な曲なのだろう。

デビューから35年。その歌唱力は少しも衰えを見せていないし、童顔の美貌は今もほとんど変わっていない。これが、実力ボーカリストとして、ちょっといい中年女性に受けているのだろう。年齢としては、二十歳でデビューしたとしても、もう60歳に近いだろう。舞台ではとても、そんな風には見えない。このことが根強くファンを弾き付けているのだろう。

 コンサートでは、フルート、サックス、キーボードを器用にこなすヘンリー広瀬(高橋の夫)が、バックバンドでギターを弾いていた。結婚15年である。2009.06.27

 追伸。今、気づいたが、小生の人生

 20歳ぐらいまでは福井の時代。その後、40歳ぐらいまでの20年間は京都時代。そして、定年60歳までの20年間は、金沢での新聞社暮らし時代。そして、60歳からの静岡時代(静岡市+浜松市)というふうに、約20年ごとに区切りがある。

 さて、これからの定年後。これまで言ってきたように

 めざせ定年後ダンス天国

となるかどうか。この自由の時代を楽しみながら、かねてから温めてきた新しい取材・著作に取り組む時期がすこしずつ来ている。そんなことを心に誓う、「心のリセット」となったコンサートだった。

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出会いは偶然の、そのまた偶然 森光子「放浪記」2000回の快挙

 森光子の代表的な当たり芝居『放浪記』がついに、公演数2000回に達成した。しかも、1961年の初舞台(当時森さん41歳)から48年間、半世紀をかけた快挙である。しかも、この日は、89歳の誕生日というから、驚きである。

 寂しいのは、5月10日付朝刊静岡新聞が、写真付きとは言え、第二社会面左下という気づきにくい紙面取りでのベタ記事扱いというのには、あきれた。ひどい。いくら芸能記事だとは言え、女優としてこの放浪記も含めて評価されて文化勲章を四年前に受賞している大女優の快挙にベタ扱いはないだろう。科学ジャーナリストの小生でさえ、この扱いは不当、大不満である。朝日新聞は、三段扱いの囲み記事風でこれも冷遇といえる。

 それではと、5月10日付「日刊スポーツ」を買って開いてみた。なんと、一ページカラー特集「『死ぬものか』で2000回」の大見出し。林尚之さんのスペシャル雑感まで付いている。下欄には、詳しい年表と世相が、森光子さんの若いときの写真やそのときどきの写真をちりばめてのものには、観劇、いや感激した。

 林尚之さんのコラムで知ったが、森さんは、病気と闘う半世紀を過ごしてきたのだ。戦争中の1944年、慰問先の南京で「肺浸潤」、1949年に「肺結核」。その後も、40代半ばで乳がん、肝炎、日焼けが大敵の白斑病。だから、「死ぬものか」でがんばったのだという。

  ただ、忘れてはならないのは、病気と闘っただけでなく、2000回達成のあいさつで、森さんが披露したように

 あいつより うまいはずだが なぜ売れぬ

 という句を胸に辛い下積みの時代を黙々と、歯がみしながら芸に励んで、いつの日か主役の座を掴むぞと戦っていたことだ。この悔しい執念が、主役を演じるようになっても忘れず、おごらずに精進し、2000回につなげたのであろう。2000回はこの悔しい執念がなさしめたものである。

 ただ、この林さんのコラムには書いてないことを一つ、紹介したい。それは、林芙美子の『放浪記』を芝居にした当時の人気劇作家、菊田一夫氏と、遅咲きの森光子がどのようにして出会ったかというエピソードである。森光子があるテレビで語っていることだが、

 偶然の、そのまた偶然

が重なった結果なのである。京都出身の森さんは、戦後、38歳になってもまだ、十年以上も大阪の映画館で、映画と次の映画の始まる合間に行われていた10分程度のコントやショウに出ていた。場つなぎタレントである。そこに何かの用事で訪れた劇作家で、「君の名は」で知られる東宝映画社の重役だった菊田一夫氏が打ち合わせを済ませて出てきた。しかし、呼んだ車に乗ろうとしたが、その車がなぜかまだ到着していなかった。そこで、待ち時間の暇つぶしに映画館の劇場を偶然のぞいた。そのとき、ちょうど幕間で、森さんが、コントかショウをほんのわずかな時間出演していた。それを見た菊田さんは、一目でその才能を見出し、上京を促した。そして、三年後、初の主演舞台『放浪記』に森さんが抜擢されたという。森さん、41歳でついにチャンスをつかんだのである。1000回は1990年だから、もう二十年近い前であり、「日刊スポーツ」によると、「秋には新舞台を予定。来年以降の「放浪記」上演に意欲をみせている」そうだ。

 小生、金沢在住時代に地元のテレビ金沢「じゃんけんぽん」に毎週一回、レギュラーコメンテーターとして出演していた。番組は月曜から金曜日まで週五回。これが1000回目を迎えたときの出番がちょうど小生にあたり、金沢中心街のアトリオで公開生中継したのを記憶している。塚田誉キャスター、人気抜群の平見夕紀キャスターコンビだった。これが2000回を迎えたときも、偶然だが、小生の出演日だった。主役の森光子とは比較にもならないが、それにしても、2000回も番組、芝居を続けると言うのは、本人はもちろん、スタッフの努力なしには、そして執念なしにはできないことだけは確かである。

 これだからスポーツ紙は不滅なのである。全国紙、地方紙だけでは、紙メディアはとっくの昔に消滅していただろう。ありがとう、スポーツ紙。2009.05.10

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エロ・グロ・ハイセンス落語 快楽亭ブラックの毒演会in浜松

 桂米朝一門の落語を知っているだけでは、落語の奥深さは分からない。立川談志一門の落語を聞いていても、こんな落語があるのか、ということにも気づくまいというような毒演会だった。その立川談志に入門したという快楽亭ブラックの落語(毒演会)が浜松市(クリエート浜松)で開かれるというので、入場料を払って出かけてみた。なにしろ、放送禁止用語を連発する過激な下ネタに根強いファンも多いとパンフレットにあった。「生涯変態」というのが信条らしい。そうかと思うと、2000年には芸術祭優秀賞という立派な賞ももらっているというのだから、面白いに違いない。

 女性客も結構いたが、大熱演の結論を先に言ってしまえば、

 エロ・グロ・ハイセンス落語

ということだろう。感動した。こういう落語を企画して、会場まで貸し、呼び込みに一汗かいていたまじめ一方の「クリエート浜松」の度量の広さにも感心した。何が感心したかと言えば、人間も含めて動物が等しく持っている「ひわいな」本能と、人間だけが持っている想像力を高度に生かした「想像落語」であったからだ。人間国宝、桂米朝にはできない芸術の世界だ。小泉八雲の「耳なし芳一」をもじった「マラなし芳一」など、なかなか聞かせる落語であった。

 おそらくブラック氏がここまで到達するには大変な苦労があったに違いない。何しろ、40年前(1969年)、立川談志一門に入門してから、芸名が

 立川ワシントン、立川リンカーン、立川ルーズベルト、立川ケネディ、立川アデナゥアー、立川マグサイサイ、立川マンデラ、立川汪兆銘、立川ファルーク、立川ナポレオン、立川成吉思汗、立川ターザン、立川チョンボ、立川大旦那、立川マカライボ、立川ジンジロゲ、立川北海道、立川北千住、立川佃煮、立川レントゲンと、わずか三年ぐらいで20回も改名したというから、なかなかの苦労人なのだろう。いや、楽しんでいるだけかもしれない。

 その後、桂三枝門下に移籍。ジョニー三ノ介、桂三ノ介、桂三Q。

 再び、立川談志門下に戻り、立川談トンに改名するが、すぐ立川二つ目にまた改名とめまぐるしい。それから、立川カメレオン、立川丹波守、英国屋志笑、立川レフチェンコ、立川世之介、立川フルハムロード、立川小錦

 とインフルエンザ・ウイルスもびっくりするほどに、改名変異を繰り返す。そして、ようやく

 快楽亭セックス(別名、立川マーガレット)

にたどり着く。その後も、元号が平成に変わって、立川平成に。

 1992年、二代目快楽亭ブラック襲名、真打昇進

とパンフレットにある。今から、17年前のことである。初代が誰であったかは、パンフレットからは分からないが、これもこの人の人生の尋常ならざる一面を示しているのかもしれない。2005年、立川流自主(?)退会し、今日に至るというのだから、相当な人生の荒波をかぶってきたことをうかがい知ることができる。

 「快楽亭ブラックの出直しブログ」によると、なんでも、退会とは言うものの、多額の借金を理由に立川流を除名されたのだとか。その直後に、心筋梗塞と大動脈瘤解離を併発、生死の境をさまよったというから、すごい出直しとなったらしい。今回の毒演会でも、入り口でDVDを販売していたが、

「不敬罪」、「非国民」、「大迷人」

というタイトル。ここからも、今回の毒演会の内容がわかろうというものだ。

 毒演会の最後に自ら、アンコール拍手にこたえてとして、エロ・グロ・ハイセンスな小話三題を披露していた。中学生向き(メス馬カウボーイ)、高校生向き(口移植)、高度な大学生向き(T字貞操帯=ギロチン式)であったが、ブラック氏も大学生向きはなかなかそのオチは分からないかもしれないと、注釈していたが、小生にも分からなかった。150人くらいの会場のなかで、即座に爆笑、理解したのは、半分もいなかったのではないか。その意味でも

 ハイセンスでインテリ向きの落語

だったと信じている。

結論=人間国宝、桂米朝の落語だけでは、落語の奥深さは分からない。2009.0510

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