経済・政治・国際

ボランティアによるアフリカ支援  ------  今、何が問題なのか

(2016.09.06)  はやいもので、リオ五輪が終わって2週間がたつ。最終日、小雨の中を各国選手がひた走る花形、マラソンをいまも思い出す。ケニアのキプチョゲ選手が2位を1分以上引き離して優勝、堂々たる金メダルである。

 ● リオ五輪、その華やかさの影で

 2位の銀メダルは、手を高く振り上げながら、というよりもフラフラになっているような姿のエチオピア、リレサ選手だった。さすが、アフリカ勢はマラソンが強いとブログ子は感心した。ところが、

 9月5日付きの地元紙、静岡新聞「核心/核論」

 競技者の覚悟 信念貫いて圧政に抗議

という論説コラムを読んでびっくりした。なんと、英雄になるはずのリレサ選手、選手団の帰国便にはその姿はなく、エチオピア政府の圧政に抗議し、米国に亡命を希望しているのだという。リレサ選手、なにもフラフラになってゴールしたのではない。記事によると、政府への抗議の印として「額の前で両手を交差させるポーズをしながらゴールした」。何に抗議したかと言うと「土地の強制収用を巡り政府への抗議デモが活発化」「90人以上が治安部隊に殺害された」ことに対してらしい。

 ● 信頼にこたえ骨埋める覚悟

 Imgp0071 アフリカの多くの国々は、それぞれに難問や内戦、混乱、腐敗がはびこっている。日本でも、アフリカ支援は喫緊の課題である。

 しかし、JICA(国際協力機構)のシニアボランテイアとしてエチオピアに2年間赴いた辻野兼範さん(浜松市、写真左)によると、

 ボランテイアによるアフリカ支援、たとえばエチオピア支援の現状は、

 場当たり的な短期バラマキ型であり、その支援効果はずいぶんと疑わしい

と先日の派遣報告会で具体的に話してくれた。真の自立のための支援には

 現地の信頼にこたえ骨を埋める覚悟と、日本政府、具体的にはJICAの長期的な援助戦略こそが必要

と訴えていた。

 先日ケニアで開かれた日本が主導するアフリカ開発会議では支援額のことばかりが話題になった。しかし、今、必要なのは、圧政を終わらせ、現地民衆が自覚的に自立に向かうためには、この覚悟と戦略がボランティアや日本政府に求められるのだと辻野さんは強調した。

 ● 「もう一度、エチオピアに行きたい」

 強力な援助が、かえってますます圧政強化に手を貸す結果になってはなるまい。そうならないための自立の第一歩は、継続的で、有効な教育を支援すること。

 現地の教育現場をつぶさに体験してきた元高校教諭の真剣なまなざしから、そんなシニアの熱き憤りを感じた。

 「もう一度、エチオピアに行きたい」

 インタビューを終えた彼の別れ際の言葉だった。

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最大多数の最小不幸               予見のできる科学ジャーナリズムの思想

(2013.02.13)  「科学・技術と社会」を考えるこのブログは、科学・技術の限界について

 予見のできる科学ジャーナリズムの確立

を目指している。

Image1169 それでは、その基盤となる思想とはどのようなものであり、従来の、公平・中立、あるいは客観報道を装ったジャーナリズムとは、どこが、どんなふうに異なるのか、原則は何か、また、なぜ、今、「限界」予見性が必要なのか、まとめておきたい。

 ● ジャーナリズムとは何か

 まず、ジャーナリズムとは何か。こうである。

 よりよい社会をつくるために

 ありきたりではない出来事を

 批判精神をもって価値判断し(つまり、取捨選択し)、

  その結果を5W1Hのニュースとして、あるいは

  主張のある評論として、

 社会に伝えていく

 言論活動

のことである。

 ● 公平・中立、客観報道の幻想

 ポイントの第一。記者がニュースとして、あるいは評論として取り上げる段階で、何を、どう書くかという段階で、すでに価値判断がなされているという点に注意すべきである。

 記事によるか、あるいは写真やビデオ映像、音声によるかなどということには無関係に、何を、どう取り上げるかという価値判断は、記者がそれを意識しようとしまいとにかかわらず、ジャーナリズムには必然的につきまとう。批判精神があるかどうかはともかく、記者は、何らかの基準の下に、この判断を強いられている。

 実は、それどころか、記者であれ、デスクであれ、報道関係者なら、誰でも、記事化しないという極めて重要な価値判断を毎日のように現場で強いられていることは、経験でよく知っている。

 選択などせず、また主観を交えず、見たものをありのまま、そのまま書けばいいというかもしれない。が、そんなことは限られたスペース、限られた時間では不可能なのだ。映像でもできない。

  新米記者から出稿されてきた5W1Hの20行程度の記事にも、また訃報記事ですらも、写真を付けるのかどうか、評伝を書くのかどうかなど、さらには、どの面のどこにその記事を置くのかなど、きりがないほどの価値判断が、社内にいる受け手側の紙面整理に当たる整理記者を悩ませている。

 したがって、ニュースにしろ、評論にしろ、たとえ、そこにジャーナリズムに必須の批判精神がなくとも、価値判断の伴わない、いわゆる公平・中立な報道というものがあると信じるのは、報道界も含めた社会の共同幻想であり、にぎにぎしく言われる客観報道というのも、報道界の虚構に過ぎない。

 ポイントの第二。「よりよい社会をつくるために」というところにも、目的というべきか、思想というべきか、先ほどより、積極的な価値判断が要る。

 なければ、それはジャーナリズムの名に値しない。取捨選択の基盤、基準、あるいは大原則がないのだから、世の中にはこんなおもしろいものがありますよという娯楽的な意味はあっても、もともとの批判精神の伴うジャーナリズムとしての存在意義はない。

 ● 最大多数の最小不幸

 そこで、いよいよ、予見のできる科学ジャーナリズムの大原則とは具体的には何か、ということになる。

 経済学には、あるいは法哲学には、目指すべき社会として、今から200年ほど前の法哲学者、J.ベンサムの有名な

 最大多数(国民)の最大幸福

という思想がある。功利主義といわれる考え方、価値基準である。これになぞらえて言えば、予見のできるジャーナリズムの思想とは

 最大多数(国民)の最小不幸

であると思う。つまり、社会には幸福な人、不幸な人、幸福でも不幸でもない普通の人がいる。科学・技術の限界を予見できるようにするには、幸福な人や普通の人たちではなく、限界によって不幸な目にあう人たちに注目するというわけだ。

 もちろん、「科学・技術と社会」を論ずる以上、何ごとも無条件ではあり得ず、

 ただし、少数者のほうに対し、最大限の尊重を必要とする基本的人権を侵害しない限りという条件がつく。あるいは、

 ただし、公共の福祉に著しく反しない限りという条件がつく。

 これを予見のできる科学ジャーナリズムの

 最小不幸の原則

と名づけたい。

 これは一見、ベンサムの思想と同様、社会正義とは必ずしも合致しない功利主義のように思うかもしれない。しかし、ふたつのただし書きをつけることで、少数者のほうに極端な犠牲を強いらせることのないよう、つまり非倫理的な事態を少数者側に押し付けないよう功利主義の対極、規範主義によって歯止めをかけたことになる。

 逆に言えば、ダメなものはダメというような書生論的な規範主義は、問題解決の手段としての予見のできる科学ジャーナリズムではとらないという立場である。

 このようにして、ジャーナリズムを、経済学や法学のように人々の幸福を考える活動としてではなく、事故、薬害、健康被害、公害、貧困、戦争、犯罪など社会で起きるさまざまな好ましからざる不幸をできるだけ少なくする活動ととらえる。つまり、科学ジャーナリズムというのは、

 不幸や不利益の優先回避の言論活動

と考えるわけだ。この最小不幸の原則は、よりよい社会をつくるために、不幸や不利益に焦点を当てた思想であるとも言える。

 この最小不幸の原則を、批判精神をもって価値判断する言論活動の基盤、すなわち思想に据えたい。

 こうすると、「限界」予見性のジャーナリズム活動の実践が、法哲学の思想と整合性を持たせることができるという視野の広さが獲得できる。経済思想としても、この原則は有効であろう。少なくともバッティングすることはないので、わかりやすい。

 ● 疑わしきは、国民の利益に

 最小不幸の原則というジャーナリズムの思想から、

 疑わしきは、国民の利益に

という「よりよい社会をつくるため」の具体的な指針が出てくる。その意味は、

 疑わしきは、(不利益をこうむる、より多くの)国民のほうの利益に

というものである。さらに、突き詰めれば

 疑わしきは、(不利益をこうむる、より多くの)国民の安全側に立った判断をする

というのが、予見のできるジャーナリズムの価値判断の基準となる。

 したがって、科学的な根拠を示して明確に断定できないからといって、(不利益をこうむる、より多くの)国民の安全側に立つことを拒否する立場はとらない。これが予見のできる科学ジャーナリズムの立場となる。

 ここが、公平・中立を標榜する言論活動とは、重大かつ基本的に異なる。客観報道を装うジャーナリズムの欺瞞性とも異なる。

 一見簡単そうだが、実は1960年代、犠牲者が急速に増加した水俣病は、公平・中立、客観報道の幻想に終始し、安全側に立つことを拒否したジャーナリズムが引き起こしたともいえる悲劇だった。

 科学・技術の限界に対し、予見のできる科学ジャーナリズムは、この貴重な教訓を今に生かすところから出発しなければなるまい。

 ● 求められる専門性

 幸福とは違って、不幸の有り様は、一様ではない。貧困ひとつとっても、さまざまな質の異なる不幸がある。それだけに最小不幸の原則は、単純ではないという点は注意すべきであろう。

 最大多数の最小不幸の、この難点を克服し、どこに限界を置くべきなのか、その予見性を発揮するには、何が多くの国民にとって不幸であり、不利益なのか、多様な視点や選択肢を、最小不幸の原則から、きちんと提示できることが極めて大事である。

 それには、今のような科学ジャーナリズムのアカデミズム(大学)依存体質から抜け出すことが、まず求められる。

 アカデミズムというのは、価値判断をしたがらない領域だからだ。実は、それだからこそ、ジャーナリズムがそれらに依拠して公平・中立を装う。しかし、以上述べたように、公平・中立、客観報道というのは、社会の不幸に目を向ける活動である以上、幻想にすぎない。

 これは、裏を返せば、皮肉なことに、今もって日本には、学問的な方法論を持たないという意味で

 今もって日本には科学ジャーナリズムが不在

というアカデミズム側から鋭く批判される原因ともなっている。ジャーナリズムとアカデミズムの相互不信は依然として根深い。ただ、批判を善意に解釈すれば、

 公平・中立、客観報道といってごまかさないで、きちんと方法論を持ちなさい

といっているともいえよう。

 科学ジャーナリズムが独立した専門職として、科学・技術者とは別に、きちんとした方法論を持つ。もう少し詰めた言い方をすると、さまざまな専門家の見方に、最小不幸の原則に照らして、それらを取捨選択する、つまり限界の設定の方法論を持つ。

 アカデミズムからの批判は、公平・中立、客観報道という幻想に代わって、ジャーナリズムが専門性をもって社会を見る目を養うという意味の

 科学・技術の社会学

という方法論を学びなさいという示唆ではないか。社会の中の科学・技術という視点であり、そこから見えてくる限界に目を向ける方法論である。

 ● なぜ今、予見性なのか 「限界」を分析する目

 科学や技術の専門家は、当然だが、その成果を最大幸福に資するものとして語る。それは、科学や技術の成果が輝かしいものとして、限りなく進展していく場合には、さしたる問題は起きない。科学ジャーナリズムも、その成果を好ましいものとして、啓蒙活動を続ければいい。いわば、最大幸福という名の幸せなジャーナリズムの時代と言えるだろう。

 地球上の、社会の中の科学や技術なのだから、何の問題もなく限りなく、いつまでも無限に進展していくということは、あり得ない。何がしかの問題が次第に起こるようになる。科学・技術に内在する問題だけでなく、社会的な制約に起因する問題、科学・技術の限界も次第にみえてくる。

 事実かどうかは疑問もあるが、地球温暖化問題が社会的なテーマになるのもそうだし、安全神話が通用しなくなった原発の事故もまさに、この限界論議なのだ。

 なのに、科学・技術を対象とする科学ジャーナリズムは、依然として、啓蒙時代の幸福な時代そのままに公平・中立、客観報道を信仰し続け、無力を露呈している。ジャーナリズムも、「限界」分析のジャーナリズムとして、今、変革の時期に来ている。

 そうした場合、往々にしてその分野の専門家という内部にいる人にはみえない問題、つまり限界あるいは社会の不幸に目を向けるのが科学ジャーナリズムの役割であろう。

 限界に対し、予見のできる科学ジャーナリズムが、幸福ではなく、

 最小不幸の原則

をかかげるのは、ある意味、必然といえよう。

 その意味で、予見のできる科学ジャーナリズムというのは、限界を設定する最小不幸という名の

 不幸な時代の科学ジャーナリズム

と言えるだろう。

 さらに、突き詰めて言えば、最小不幸の原則、あるいはそこから出てくる「疑わしきは国民の利益に」というのは、「科学・技術の限界」を判断するジャーナリズムの尺度

ということになろうか。この限界尺度は、最大幸福を旨とする専門家からは出てこない価値基準であろう。

 だからこそ、予見のできる科学ジャーナリズムの独自視点となり得る。これからのジャーナリズムの専門性とは、「限界」の予見性のことである。 

 そして、最後に、これは、専門家依存体質からは決して出てこない性質のものであることを、再度言及しておきたい。

  注記 

 「限界」予見性の科学ジャーナリズムにとって、

 科学技術社会論(STS)のアプローチを取り入れた

 科学論『科学論の現在』(金森修+中島秀人、2002年 )

は、有益だろう。パラダイムシフトという概念を用いた1960年代の『科学革命の構造』(1962年、トーマス・クーン)の科学哲学は、もはや現代には通用しない。『科学論の現在』はそれに代わる新しい科学論を海外事例を総覧し、日本のあり方を模索した労作である。クーンの限界を認識し、どのようにして、西欧の科学論研究者が

 社会的な意思決定の場に貢献する科学論

にたどり着こうとしてきたのかがわかる。その道のりには、科学ジャーナリズムが科学啓蒙時代からどのようにして抜け出せばいいのかというヒントが提示されている。

 なお、戦略提言「政策形成における科学と政府の役割及び責任に係わる原則の確立に向けて」 (科学技術振興機構研究開発戦略センター)も、原発事故の反省に立った提言が含まれており、科学論研究者とは異なる政策立案者の立場からのSTSアプローチの具体的な実践事例として、参考になる。

 科学に対する国民の信頼を回復するには、政策決定にあたって政府側と科学・技術者側の間の意思決定のあり方や、互いの行動規範をどう構築するのかについて論じられている。とくに、政策決定の手順の原則について海外事例が各国ごとに具体的に示されているのが特徴。

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経済学は科学か、それともただのお話か

(2012.12.29)   安倍第二次内閣が先日発足し、大型の経済対策が打ち出されつつある。来年度予算と一体化させた「15か月予算」という言葉も聞かれる。切れ目のない対策という意味だろう。

 ところが、これほど経済問題が焦眉の急なのに、経済学者の登板の機会はそれほど多くはない。 関与があるとしても、お飾り程度で、主導するというようなことはまずない。

 そんな折り、講談社の読書人の雑誌『本』11月号を見ていたら、その理由がわかった。 

 経済学への「愛」と「がっかり」

という、数学者でもある異色の経済学者、小島寛之さん(帝京大教授)が書いた一文である。この中で、

 「経済学の現実説明力はがっかりするほど乏しいと実感するようになった」

とある。現実解析の科学であるはずなのに、

 「現状の経済学では、不況や格差などの社会問題を解決することは到底不可能だと失望」

してしまったとまで書いているのには、びっくりした。 これでは、政府が経済対策で、経済学者の手を借りようとは思うまい。

 数学とのかかわりでも、今の経済学は、既存の数学を安易にあてはめることで、真実性を失い、荒唐無稽化してしまっているとばっさり。

 ● 今の経済学は経験則の学問

 経済学は、数学の有力な、そして有用な応用分野であると、ブログ子などは思っていた。しかし、そこから得られる結論には、社会的な真実性が抜け落ち、荒唐無稽化しているという。 これをはっきり言えば、

 今の経済学は、実証性のない、ただの金儲けのお話

ということに帰着する。床屋談義と変わらない。とても実証性、再現性が求められる科学の範疇には、経済学は入らないというわけだ。地震予知の現状と同様、数学的な装いはほどこされてはいるものの、しっかりした土台はなく、せいぜいが経験則をよりどころとしたあやしげな学問ということになろうか。

 Image554 経済学には、一物一価という経験法則があるが、これとて実証されたものではない。現実ともずいぶん異なる。株価の変動や為替変動といった経済現象には正規分布が経験則として取り入れられているが、これもまた証明されたものではない。いわば仮定である。また現実にもそうではなく、冪(べき)分布らしいことも、最近わかってきた。

 こういう目で経済学を見渡してみると、経済学の基礎には、なにひとつ、物理学のような揺るぎのない土台が存在しないことに気づく。

 こうした経済学に対する「がっかり」感に対して、経済分野を物理学の有力な、そして有用な応用先としているのが

 経済物理学( 写真 )

である。今世紀に入って目覚しい進展を見せている。

  従来の経済分野に単に数学を持ち込むのではなく、数学に加えて実証ずみの物理法則をも同時に持ち込む。そのことで現実解析の科学にする。たとえば、物理現象として分析の過程で

 相転移現象、カオス現象、フラクタル現象

といった物理学の概念を適用し、これまでの経済学がなしえなかった予測性を生み出すなど、大きな成果を上げている。

 現在の経済学では、ミクロ経済学とマクロ経済学は別物である。このことを経済学者は当然のように受け取っているように見える。が、よく考えてみると、木に竹をついだようで、一貫性がなく、おかしい。

 これに対し、経済物理学では、ミクロの経済現象と、それらを足し合わせた結果であるマクロ経済の現象とは、きちんとつながっている。

 それというのも、あたかも、統計物理学が、ミクロな物理現象と、私たちの日常の物理現象とをみごとにつないで、統一的に記述できるのと、同じである。つまり、ミクロな現象の物理量から、マクロな物理量を導出できるのだ。

 ブログ子は、大学時代、久保亮五東大教授のあの分厚い名著『大学演習 熱学・統計物理学』に取り組み、そうした導出が見事にできることを知り、感激した懐かしい思い出がある。

 ● 株価暴落を予測する経済物理学

 ミクロとマクロをつなぐことが、経済分野でもできるようになったのは、大量の、それも時々刻々変化する膨大なデータが入手できるようになったかららしい。

 たとえば、株価暴落をある程度予測できるようになってきている。具体的には、

 「株価暴落前後特殊な揺らぎ」

として、2006年2月16日付富山新聞「経済情報BOX」欄=共同通信社配信にこんな記事が掲載された。

 「1987年のブラックマンデーで株価が暴落した前後に、株価指数に「臨界揺らぎ」と呼ばれる特殊なパターンが出現していたことを東京大の清野健研究員や山本義春教授らが15日までに見つけた。

 臨界揺らぎは、大きな揺らぎ、小さな揺らぎが同じ確率で起きている特殊な状態で、その発生の有無は株価データを解析すればリアルタイムで検知できる。現状では暴落の時期や規模は予測できないものの、株式市場が暴落につながる〝危険水域〟に入ったことを探知するのに使える可能性がある。」

 写真の

 『経済物理学の発見』(光文社新書、高安秀樹、2004年)

には、市場の臨界的な性質について章立てし、

 くみこみでインフレの方程式を導く

という大変に興味ある記述もある。市場原理の予測性という問題にも触れている。最後には、経済物理学からの政策提言として年金問題などが取り上げられている。

 こうなってくると、経済物理学は予測のできる、そして実証性のあるりっぱな科学ということになる。たんなる経験則ではない。さらには、将来、

 デフレの克服や不況の回避

という喫緊の切実な問題に対しても、物理学の知識を駆使した経済物理学は役立つような気がしてくる。ということは、いずれ

 経済政策の立案に、経済物理学という応用物理学は、有効

と考えたくなる。これまでの理論経済学や数理経済学では、到底なしえなかったことが、経済物理学という応用物理学ならできる。つまり経済分析の有用なツールになる。

 ● 破局を防止する経済物理学を

 ただ、有用なツールにするには、留意すべきことがある。

 優秀な数学者を動員してつくりあげた金融工学という学問分野が、リーマンショック(2008年9月)を引き起こしたという点だ。金融工学にも不十分ながら、物理現象の相転移現象の考え方が組み込まれていた。

 金融工学のからくりを簡単に言えば、消えるはずのないリスクを〝飛ばし〟見えなくし、あたかもリスクが存在しないかのように金融関係者を欺く数学的なマジックである。それが金融工学が生んだ金融派生商品の正体だった。

 この商品はアメリカ社会に、もっと、もっとのギャンブルまがいの

 強欲資本主義

を生み出し、強欲を歯止めなく世界全体に拡げた。その結果、制御が不可能なまでにリスクが膨れ上がり、ついに、ないはずのリスクが一気に弾け、世界中にリスク破局の連鎖をまきちらした。

 経済物理学が威力を発揮するのは、金融危機などの破局を招かない理論づくりではないか。金儲けの金融工学には、そもそもこれがなかった、というか、もともとできなかった。

 先ほどの新聞記事もそうだが、株価暴落、金融危機など破局の防止に経済物理学の成果をどう生かすか。これは喫緊の課題だ。確たる基礎が確立していない今の経験則の経済学では、こうした破局の予測はもとより、破局回避のためのリスク制御は到底不可能のようにみえる。

 一言で言えば、経済物理学の目的は金儲けではない。最終的には資本主義のがんとも言われる株価暴落などの破局の予測とその回避、破局に至る過程のリスク制御理論の構築だろう。

 こうした現実解析の科学として今の経済学を鍛え直す、あるいは革新する。ここに経済物理学を研究する意義があろう。

 金儲けなら、従来の「役立たず」の経済学で十分だ。なにも物理学が、そんなことにわざわざ手を貸す必要はない。

  ● 補遺 現実解析の経済学と、価値が伴う経済思想との関連について

 ただ、注意すべきは、現実解析の科学としての経済学を鍛え直す、あるいは革新すると言っても、そこには一定の限界があることだ。

 というのは、現実解析の経済学は、自然科学とは違って、その土台には、こうあるべきだという経済思想、つまり価値判断が紛れ込んでおり、いくら数学や物理学といった論理性で導き出した結論のつもりでも、一義的に決まらないことが多々ある。

 経済学には、物理学と違って、何を重視するかによって、たとえば重商主義なのか、重農主義なのかによって何々学派というのがあるのは、この理由による。

 とすると、たとえば、消費者は経済合理性に従って行動するという公理から、数学や物理学を駆使して導き出した結論、つまり命題を、社会で起こっている経済的な事実と照らし合わせて検証したとする。別の学派は、また別の経済思想が紛れ込んだ公理をもとに演繹し、結論、つまり命題を導き出し、事実と突き合わせて検証したとする。

 ところが、出発点の公理にそれぞれの学派の価値判断がまぎれこんでいるのだから、つまり物理学のように共通の公理にもとづく基礎方程式がないのだから、事実に照らし合わせて検証しても、いずれの学派も正しいという結果になることもあり得る。どの学派の経済分析が正しいというように一義的な検証はできないということになる。

 この一義的な検証不可能性は、物理学や数学の問題ではない。倫理観も含む経済思想という「べき」論に原因がある。つまるところ、論理性や解析力の問題ではなく、その前提となる倫理的な選択の問題。したがって、経済物理学と言えども、そこに一定の限界がある。

  ● 公理から経済思想という価値観を峻別できないか

 こうなってくると、公理と、そこに知らず知らずに紛れ込んでくる経済思想の価値観とを峻別できないかという問題が出てくる。結論を先に言えば、できないということになろう。

 その理由をわかりやすく言えば、ニュースという一見客観的な事実を取り上げているようでも、そこには記者のなにを取り上げるかという主観的な取捨選択が働いている。客観報道が意外にも幻想であるのと同様、客観的な経済事実などというのも、実は意外なことだが、幻想なのだ。

 事実、かつて、J.シュンペーターは、峻別できる確信し、その大著『経済分析の歴史』に取り組んだが、ついにこの晩年の大著をもってしても、その峻別がいかに難しいかを思い知るはめになる。

 また、経済学に数学を持ち込み、独自の見解を展開した新古典学派のA.マーシャルも、

 Cool Head But Warm Heart

ととなえ、

 冷静な事実分析とともに、しかし、人間らしい価値判断を持て

と訴えた。が、その間を峻別することはきわめて困難なことは、新古典学派の流れをくむ今の新自由主義者の多くも認めている。

 価値判断が大きく影響する

 貧困と失業問題

を経済学が、いまだにまともに、どこからの異論もなく自然科学のように、きちんと解答できていないことは、なによりも雄弁に、峻別不可能性を証拠立てている。 

 ● 「経済思想」物理学が要る ?

 そもそも「経済」という言葉は、経世済民、つまり世を経(おさ)め、民を済(すく)う、という意味に由来する。したがって、経済学というのは、どういう価値判断で、おさめすくうのかという点で、政治学であり、経済学であり、倫理学・哲学であり、それらを総合した実践学である。そこには、いくら分析が科学的になったとしても、科学では決して扱わない価値判断が伴う。

 だから、いくら経済物理学が優れているとは言っても、そこには、経済学ほどではないにしても、やはり、役立つ実践学であろうとすると、価値観の選択が伴う。

 ということは、

 経済物理学は科学か、実証性の乏しいただのお話か

という悩ましい問題からは依然として逃れなれない。

 夢想だが、これを解決するには、つまり経済物理学を完全な科学の範疇にするためには、

 経済思想物理学が要る !  

 経済物理学の永遠のテーマだろう。

 補遺

 経世済民として、つまり実学として経済学がいかに、役に立たないかは、物価の番人として金融政策の当事者であるはずの日銀の政策を見てもわかる。

 この15年、デフレ脱却政策に向けた政策決定で、手を代え、品を代え、あるいは総裁を何人代えても、そこから一向に抜け出せない。しかも、その原因すらいまだに解明できていない。このことをみれば、

 経済学は実際の役には立たない

というのは明白だろう。予見性も回避性も効果的に、あるいは定性的にも示せないというのでは、経済学は科学ではない。ただの与太話といわれても仕方あるまい。

 ● 余談 ケインズか、ハイエクか

 今風に言えば、

 「大きな政府」という経済思想のJ.M.ケインズか、はたまた

 「小さな政府」のF.A.ハイエクか

という問題も、つまるところ、時代精神を反映した経済思想という価値観も問題であり、またそれぞれの歩んだ人生の環境の違いもあり、論理だけで決着するものではないことがわかる。

 言い換えれば、

 失業対策では公共投資すべきとする経済社会主義のケインズか、それは「隷従への道」として排斥すべきとする自由市場主義のハイエクか

ということになる。この世紀の経済論争は、結局、今もって決着していないのも、むべなるかなである。

 というのも、東西冷戦が社会主義の崩壊で終結し、一見、ハイエクが論争に勝利したかにみえる。しかし、2008年のリーマン・ショックという〝暴走する〟強欲資本主義という形で自由市場主義も敗北する。ハイエクもまた論争の最終的な勝者ではなかったことをこのショックは示した。

 その結果、アダム・スミスの市場の自由放任主義という経済思想がますます万能のように、今もってばっこしている。200年以上たった今も、この「神の見えざる手」を公理とする経済学(古典学派)をこえる経済学派は、実践学としては存在しないように思う。

 ● 余談 『貧乏物語』の河上肇か、『厚生経済』の福田徳三か

 同様に、日本でも経済思想という価値観の伴う経済論争が、関東大震災前後に起きている。

 主著『貧乏物語』の河上肇(京大教授)と、主著『厚生経済研究』の福田徳三(一橋大教授)の間の

 貧困をめぐる論争

である。かたや河上は、貧困は本人の怠惰というような個人的な要因などではなく、貧困の装置化ともいうべき自由市場の景気循環、つまり社会的な要因が原因と主張。今で言う

 ワーキング・プア

を直視した。かたや福田は、個人主義を標榜し、怠惰は処罰すべきと主張する。利他主義の河上、個人主義とも言うべき利己主義の福田ということもできそうだ。

 この論争は、関東大震災を契機に、学問論争から、とるべき具体的な経済政策、あるいは失業労働者の生存権をめぐる論争にまで及び、激越を極めたらしい。

 その行き着くところは、河上の革命による経済改革、福田の現体制内で経済改革というイデオロギー色の強いものになっていった。

 ただ、ともにクリスチャンであったせいか、あるいは当たり前の思想であったせいか、二人の間には、世をおさめ民をすくうには

 人間中心主義の経済であるべきだ

という点では共通している。大震災から立ち直るには、まず、

 人間を復興する経済学であるべきだ

という倫理的な点では差がなかったのである。

 違いは、河上のように経済社会主義で現状を根本から立て直すのか、それとも福田のように、弱肉強食のような人間性をまるで否定するような野放しを規制することで労働者の生存権を保障し、現状の自由市場主義を押し広げ、立て直すのかという点であった。

 福田のこの考え方は、戦後、憲法25条の「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」との努力目標としての生存権の確立に結実する。

 福田は、そのための土台として、経済効率と所得分配を考慮した

 『厚生経済研究』(全3巻)

という浩瀚な主著を晩年にまとめている。今で言うと、競争と共生を両立させる

 「共生経済」

ともいうべき著作。

  一言、コメントすると、世をおさめ民を救う経済は、人間復興でなければならないという経済思想から出てくるということ。これを今の問題で言うと、

 東北大震災からまもなく2年、いまだに32万人もの人々が仮設住宅に〝放置〟されている現状は、とても経済の名に値しないということになろう。生活再建、住宅再建の経済、復興財源をもっと人へ。これが人間復興の経済なのだ。

 「コンクリートから人へ」というスローガンだけで、すまない問題だ。

 ●  参考文献

 以上の経済学のひどい状況に対して、経済思想家はどうみているか。この点について、経済思想が専門の猪木武徳・前国際日本文化研究センター所長が

 近著『経済学に何ができるか 文明社会の制度的枠組み』 (中公新書)

という本を書いている。執筆の動機が

 経済学は無力

という批判に対して、真摯にこたえたいという思いがあるからだろう。いかにも、まじめな経済学者らしい。いまほど経済学者がつらい立場にたたされたことはかってない。それだけに、経済学の道に40年、その経験を生かし、歴史的な視点から、何ができるのか、考察している。

 ほとんど何もできないということを確認するには、一読の価値はあるだろう。先の小島氏とは違い、オーソドックスな経済学者の貴重な言い分、言い訳を知ることができる。

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浜名湖の生き物が持続できる水環境づくり       - 研究者の会

Image1351_3 (2012.12.11)  このブログが機縁で、

 「浜名湖をめぐる研究者の会」

という会合に先日参加した。

  東大農学部大学院の付属水産実験所(浜松市西区弁天島)が毎年1回、今ごろ開いているごく気軽なワークショップ(WS)で、今年で21回目らしい。全国からの研究者だけでなく、会場には地元高校生、静岡大学の大学院生なども成果をポスターに張り出し参加している。総合討論では地元漁師が発言をリードしたり、市会議員あり、県庁の技師あり、と多様な分野の人たちが浜名湖やその周辺の環境について、日ごろの成果をまとめたパネルを前に熱っぽく語り合っていた( 写真上 )。

 この実験所は、浜名湖の海水を使ったトラフグの研究が有名で、ここの鈴木譲教授がこの10年手がけている( 写真 )。通常のオスのトラフグは「XY」の性染色体を持つのに対し、遺伝子解析と何世代もの育種で「YY」の染色体を持つ、いわば

 「超」オス

をつくりだすのに成功した。いわゆる

 オス、メスの産み分け技術

がトラフグで確立した。こうした技術を使うと、生まれてくるフグがすべてオス、あるいはすべてメスという産み分けができるので養殖への利用も考えられているという。

 Dsc00465 ブログ子も、そのYYの「超」オスの2010年ものと、まだ少し小さい2012年ものが、実験水槽のなかで元気に育っている様子を見せてもらった。WSのポスターセッションでは、この産み分けの仕組みを鈴木さん自身が解説してくれていた( 写真右と下の2枚 )。

 このほか、浜名湖のウナギの生態についての特任研究員の成果など、地域研究にも力を入れていた。どうやら、ウナギは、11月ごろに銀化という体制を整え、南のマリアナ海溝めがけて南下していくらしい。その、よし行くぞ、とウナギが決心するのは、ある特殊なホルモンが関係しているらしいことも突き止められたという。

 ブログ子も、「科学・技術と社会」という見地から、ポスターセッションで参加した。内容は、このブログの

 http://lowell.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-18f9.html 

と同じ、

 「論説 あなたは、自分の仕事を社会と結びつけて語れますか」

というもの( 写真中 )。

 Image1356 地域と研究者とジャーナリズムと - 非線形型社会を考える

というサブタイトルも付けた。

 こうした観点から、会場のポスターを見て回った。

 浜名湖北部の「最終処分場計画の危険性」(奥山地区環境保全対策協議会)や「浜名湖地域の6次産業- 県内事例から見た浜名湖の可能性」(静岡県経済産業部水産振興課)の発表が目を引いた。「いのちを守る森の防潮堤をつくろう」(NPO法人縄文楽校)では、今回の大震災の教訓を生かした取り組みである。

 見て回って、ふと、づいた気づいた。この会合というのは、研究者それぞれはバラバラに研究しているようにみえるが、つまるところ

 浜名湖の生き物が持続できる水の環境づくり

ということを考える会ではないのかという点だ。ポスターセッションの佐鳴湖のヤマトシジミ再生の取り組み(静岡県立浜松北高校)などはその典型だ。シジミを再生させるには、上流河川からの、いわゆる「押し水」が必要なのだ。単に水を浄化するだけでは再生にはなかなかつながらないことがわかってきたという。

 そこで、去年の14件のポスターセッション予稿集にも目を通したが、大きなくくりとしては、持続可能な水環境づくりと関連しているテーマが多い。

 持続できる水環境づくりは、また、浜名湖の「豊かさ」とは何かを、その変遷を通じて問うことでもある。

 こうした枠組みで、これまでの講演要旨一つ一つを時系列をいったんはなれて、たとえば、フィールドデータなどの発見的なまとめ方、KJ法で分類、整理して総合的に分析する。きっと

 海域、浜名湖の喫水域+淡水の佐鳴湖、河川流域という水循環の今後の展望

が見えてくるのではないかと思ったりもした。KJ法というのは、東工大教授(文化人類学者)だった川喜田二郎さんが開発した野外調査のためのデータの発見的なとりまとめ技法である。

 Image1345 主催者側の現時点でのブレーンストーミングも取り入れて、20年間分の講演要旨をこの方法でまとめれば、これまで関係ないと思っていた取り組みが時間を飛び越えて、思わぬところでつながる、あるいは死角となっていた課題も浮かび上がってくるのではないか。

 その結果、きっと、発見的な地域研究にまとまる。また、そうすれば、生き物の水環境の展望を開く出口戦略も、ポスターセッションでも展示されていた「浜名湖の可能性」(木南竜平)よりも、さらに具体的に見えてくるのではないか。

 一言で言えば、浜名湖をめぐる生き物が持続できる水環境の構築というこの20年間を俯瞰する発見的なまとめ報告がほしい。

 そんな、こんなで、いろいろ考えさせてくれたワークショップ会合だったように思う。

 補遺

 Image1381jst このまとめ提案は、たとえば、国立環境研究所が中心になり、さまざまな研究者が協力し現場重視で行っている

 「持続可能な水利用を実現する革新的な技術とシステム」(「JSTnews」2012年12月号に概要説明 = 写真左)

の生物版であり、フィールドも浜名湖やその周辺に絞ってより具体的にアプローチするものにあたるであろう。

 別の言い方をすれば、

 社会のための科学・技術という見地に立つ

 科学技術公共政策における

 「アウトリーチ活動」の推進

ということになろう。異なる専門分野が分野をこえて協力し、よりよい社会技術を開発しようという試みである。

  補遺2   2012.12.14

   今回の会合には、これまで謎だったニホンウナギの産卵場所を特定したことで数年前話題になった

 塚本勝巳教授( 東大大気海洋学研究所)

も参加していた。

 塚本さんに、話をうかがったら、特定は偶然ではなく、

 成長しながら回遊するウナギの回遊ルートは海水の潮目ときっと密接に関係があるとの仮説を立てたらしい。そこから、ウナギの仔魚(しぎょ。レプトセファルス)を手繰り寄せ、ついに、

 ニホンウナギの天然魚卵

をグアムなどのあるマリアナ諸島の西方深海で発見した。つまり、日本人におなじみのニホンウナギの産卵場所が、世界で初めて特定されたというわけだ。2009年5月のことだった。このとき、塚本さんの40年にわたる執念が実ったという。

  201207242055931n_3 そんな挑戦については、塚本さんの近著

 『ウナギ大回遊の謎』( PHPサイエンス・ワールド新書。写真右)

に詳しい。浜名湖にやってくるニホンウナギは、そのマリアナ諸島の深海の産卵場所からやってくるというわけだ。そして、また、そこに帰ってゆく。進化とも関係しているらしい大回遊といっていいだろう。

 注記 参考文献

 浜名湖の動的な水環境については、

 『浜名湖水のふしぎ 内湾の自然と海水の動き』(松田義弘、静岡新聞社、1999年)

が名著だろう。著者の30年近い研究の成果を、23のテーマと問題意識に分けて、丁寧に、しかも、グラフや図でわかりやすく書かれている。

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地方は世論のもとなり               - リアルタイム調査の危うさ

(2012.12.02)  きょう、日曜日午前、これまでほとんどなったことのないわが家の固定電話がなった。発信元を確認する表示には「表示圏外」とあった。どうせ、商品の勧誘だろうと思ったが、久しぶりに固定電話の声を聞いてみたくて、受話器を取った。

 Image13332 いきなり、総選挙の世論調査です、お答えできる範囲で結構ですのでご回答くださいとあらかじめ録音されているらしい無機質で平板な女性の声が流れてきた。当然ながら有無を言わせぬ一方的な言い方であり、質問は7つだと押してきた。

 従来の支持政党、今度の投票に行くかどうか、投票する候補者を決めているかどうか、今回投票する政党、あるいはどの党の候補者に投票するか、その基準、回答者の性別と年齢層などを、いくつかの選択肢の中から選んで、その番号をプッシュする。 そして、どこの世論調査なのか、はっきり聞き取れないうちに電話は5分ほどで切れた。

 いわゆる電話帳からの無作為抽出による電話世論調査である。

 ブログ子としては、回答時にはできるだけ正直に回答したつもりだったが、がく然としたのは、電話が切れた直後なのに、

 どう回答したのか、肝心なことは覚えていない

という事実であった。録音の声にただこちらも機械的に反応しただけであり、考えた末のものではなかったせいだからだろう。手間や暇がかかる紙に書いてもらう調査、あるいは面接調査とは違う電話調査の大いなる弱点であり、限界だろう。

 みんながみんな、ブログ子のようなそこつなことをしているわけではないにしても、お手軽で素早い電話世論調査のずさんな実態が垣間見えて、恐ろしくなった。

 なにしろ、薬師寺克行東洋大教授の分析によると、

 「世論調査を気にしすぎる政治が民主党を徐々に侵食し、変質させ、政権運営の失敗につながった」( 「世論調査政治」の落とし穴 『本』(講談社、2012年11月号) )

からだ。同氏は、複数の民主党政権幹部の証言インタビューからこの結論を引き出している。その世論なるものの調査は、かくもいい加減なものなのだ。薬師寺氏は、

どれだけやれば気が済むの ?

と警告している。

 「だから有権者に言いたいのは、世論調査に重きを置かずに、自分で考えて投票してほしい」( 「週刊現代」12月8日号の総選挙特別対談記事 以下の「補遺」参照 )

と呼びかけている。薬師寺氏は、元朝日新聞政治部長であり、論説委員だった人だが、この指摘はその通りだろう。

 Image1331 最近では、その世論調査も、分単位のリアルタイムでなされるようになっている(写真下 =12月1日付朝日新聞。11人が一堂にそろった党首討論に対するツイッター投稿分析)。どの党首のどういう発言にネットは反応しているかが分単位でわかるというものすごさである。

 こんなことに一喜一憂する政治、あるいは政党は明らかにばかげている。

 しかし、現実には、この反応に踊らされて、投票行動したり、政党は政策を変更している。大衆迎合主義も、ここに極まったというべきだろう。たとえば、国民の関心を集めている「維新の会」の右往左往ぶり、あるいは変質ぶりはまさにしかりである。

 注意すべきは、だからと言って、世論など、あるいは地方の世論など無視してよい、聞く耳を持たなくてよいといっているわけではない点だ。そんなことをすれば、独裁政治になってしまう。人気取りの政治はするなということだ。

 わか家には、写真上のような

 「地方是輿論的本也(地方は世論の本なり)」

という掛け軸があり、この20年、大切にしている。地方の切実な問題に政治家は真摯に耳を傾けよ、というぐらいの意味で、ブログ子の信念でもある。

 もともとは、北陸のある地方紙の創刊者であり、主筆でもあったジャーナリスト、赤羽萬次郎の信念だった。赤羽は、今から100年以上も前の明治時代に、いくつかの新聞を渡り歩いて活躍した。近代日本のジャーナリズムの先駆けとなった反骨の新聞人だったと言っていいだろう。

  そんなこんなで、今朝かかってきた無機質な電話は、図らずも、世論調査政治などに惑わされずに、自分の頭でよく考えてから、投票するようにと警告してくれた、ありがたいメッセージであったと思う。政治が悪いのは、国民の民度も低いからなのだ。そんなことがわかったのだから、今時の固定電話の効用も、ばかにはならない。

 注記

 自分の頭で考える場合、各党の公約、マニフェストを比較出るサイトとして、

 http://d.hatena.ne.jp/scicom/20121216/p1 

は、参考になる。ここには、科学技術政策を各党ごとに公約が要約してまとめられている。

 また、第三極の新党や政党を選択する場合、どうせ、総選挙後は、解党、合併などの離合集散が避けられないだろうから、党を選ばず、将来性、実績などから人を選ぶのは、一票を国政に生かす賢明な策であろうとブログ子は考えたい。

 補遺

 この特別対談の相手は、共同通信社の元政治部長、元編集局長だった政治コラムニストの後藤謙次氏。

 同氏の講演を何度か聞いたことがあるが、そして、政治予測が好きな割には、あまり当たらなかったことを記憶している。

 ちなみに、同氏は、薬師寺氏との対談で、総選挙公示直前時点で、政党の獲得議席を次のように「ざっくりした数字」と断ってはいるものの、予言している。

 解散時118議席だった自民党「200議席超」

 解散時230議席の民主党「復元力が維持できる100議席超」

 第3極の筆頭、維新の会「100議席にどこまで迫れるか」

 公示直前結成の新党未来については、週刊誌発行後とあって言及はない。ただ、合流する小沢一郎氏率いる

 解散時40議席前後の「国民の生活が第一」は「10議席超。20議席に届くかどうか」

と読んでいた(ただし、数字の根拠の明示はない)。

   この後藤氏の予測は、おそらく、おおむね、あたらないだろう。ちなみに、後藤氏は、民主党支持派とみられている。

 衆院解散時21議席の公明党、同9議席の共産党については、言及なし(公明党は比例も含めて30議席の大台、共産党も倍増を目指している)。公明党は、総選挙後は自民党との連立を視野に入れている。

 なお、読売新聞・日本テレビなど読売新聞系の最新の電話10万人世論調査では、自民党は過半数241議席を上回る勢い(「ニュースZERO」12月5日夜で発表)

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日米同盟50年 日本は主動的な外交をしてきたか

 NHKスペシャルで

 日米安保50年

を放送している。このシリーズ放送を見終わって、思った。50年前の改定時の日本防衛の義務付けにしろ、1960年代の核政策にしろ、1980年代の条約の軍事同盟化にしろ、1990年代の冷戦後の見直し・再認識論議にしろ、そして、21世紀に入っての周辺事態対応にしろ、

 日本は、アメリカに追随するばかりで、主体的に、もっと強く言えば主動的に、時代の要請にこたえようとしていたか、

という疑問だ。アメリカは終始、日本に対して主導、あるいは主動的な対応をしていたのは間違いない。しかし、日本はひたすらアメリカの意向をうかがい、云いなりだったように感じた。

 そこで、思い出したのだが、今から100年以上も前の

日英同盟

のことだ。これについては、今放送中の「坂の上の雲」にも出てくる。

 『ロシア戦争前後の秋山真之 明治期日本人の一肖像』(全2巻、島田謹二、朝日新聞社)

という浩瀚な大労作がある。「坂の上の雲」にはない詳細な同盟前後の背景が紹介されている。たとえば、

 満韓をめぐる外交のつばぜりあい

は、行き詰るような緊張感が漂ってくる。結論的に云えば、

 「この桂内閣の外交政策が今までの慣例を変えて、日本が主動者の地位に立って、英米両国を誘導し、清国を啓発し、ロシアをたじたじとさせている。それは外交史上空前の成功と一部の有力政党員からは評価された」

となる。日本もかつては、知力を振り絞って自らの運命を切り開こうとしていたのだ。決して、日本はもともと外交苦手ではなかったのだ。以心伝心の文化だけではないと、この大労作を読み終えて、感じた。

 そんなことを考えさせられた。

 それにしても、原作の司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」もすごい大歴史小説だが、島田謹二さんの大労作は、それ以上にすごい著作だ。島田さんの晩年20年間の執念の著作だというから、なお驚く。秋山真之のロシア戦争前夜の行動をこれほど克明に掘り起こせるものか。歴史学者はすごい。2010.12.11

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