(2012.12.29) 安倍第二次内閣が先日発足し、大型の経済対策が打ち出されつつある。来年度予算と一体化させた「15か月予算」という言葉も聞かれる。切れ目のない対策という意味だろう。
ところが、これほど経済問題が焦眉の急なのに、経済学者の登板の機会はそれほど多くはない。 関与があるとしても、お飾り程度で、主導するというようなことはまずない。
そんな折り、講談社の読書人の雑誌『本』11月号を見ていたら、その理由がわかった。
経済学への「愛」と「がっかり」
という、数学者でもある異色の経済学者、小島寛之さん(帝京大教授)が書いた一文である。この中で、
「経済学の現実説明力はがっかりするほど乏しいと実感するようになった」
とある。現実解析の科学であるはずなのに、
「現状の経済学では、不況や格差などの社会問題を解決することは到底不可能だと失望」
してしまったとまで書いているのには、びっくりした。 これでは、政府が経済対策で、経済学者の手を借りようとは思うまい。
数学とのかかわりでも、今の経済学は、既存の数学を安易にあてはめることで、真実性を失い、荒唐無稽化してしまっているとばっさり。
● 今の経済学は経験則の学問
経済学は、数学の有力な、そして有用な応用分野であると、ブログ子などは思っていた。しかし、そこから得られる結論には、社会的な真実性が抜け落ち、荒唐無稽化しているという。 これをはっきり言えば、
今の経済学は、実証性のない、ただの金儲けのお話
ということに帰着する。床屋談義と変わらない。とても実証性、再現性が求められる科学の範疇には、経済学は入らないというわけだ。地震予知の現状と同様、数学的な装いはほどこされてはいるものの、しっかりした土台はなく、せいぜいが経験則をよりどころとしたあやしげな学問ということになろうか。
経済学には、一物一価という経験法則があるが、これとて実証されたものではない。現実ともずいぶん異なる。株価の変動や為替変動といった経済現象には正規分布が経験則として取り入れられているが、これもまた証明されたものではない。いわば仮定である。また現実にもそうではなく、冪(べき)分布らしいことも、最近わかってきた。
こういう目で経済学を見渡してみると、経済学の基礎には、なにひとつ、物理学のような揺るぎのない土台が存在しないことに気づく。
こうした経済学に対する「がっかり」感に対して、経済分野を物理学の有力な、そして有用な応用先としているのが
経済物理学( 写真 )
である。今世紀に入って目覚しい進展を見せている。
従来の経済分野に単に数学を持ち込むのではなく、数学に加えて実証ずみの物理法則をも同時に持ち込む。そのことで現実解析の科学にする。たとえば、物理現象として分析の過程で
相転移現象、カオス現象、フラクタル現象
といった物理学の概念を適用し、これまでの経済学がなしえなかった予測性を生み出すなど、大きな成果を上げている。
現在の経済学では、ミクロ経済学とマクロ経済学は別物である。このことを経済学者は当然のように受け取っているように見える。が、よく考えてみると、木に竹をついだようで、一貫性がなく、おかしい。
これに対し、経済物理学では、ミクロの経済現象と、それらを足し合わせた結果であるマクロ経済の現象とは、きちんとつながっている。
それというのも、あたかも、統計物理学が、ミクロな物理現象と、私たちの日常の物理現象とをみごとにつないで、統一的に記述できるのと、同じである。つまり、ミクロな現象の物理量から、マクロな物理量を導出できるのだ。
ブログ子は、大学時代、久保亮五東大教授のあの分厚い名著『大学演習 熱学・統計物理学』に取り組み、そうした導出が見事にできることを知り、感激した懐かしい思い出がある。
● 株価暴落を予測する経済物理学
ミクロとマクロをつなぐことが、経済分野でもできるようになったのは、大量の、それも時々刻々変化する膨大なデータが入手できるようになったかららしい。
たとえば、株価暴落をある程度予測できるようになってきている。具体的には、
「株価暴落前後特殊な揺らぎ」
として、2006年2月16日付富山新聞「経済情報BOX」欄=共同通信社配信にこんな記事が掲載された。
「1987年のブラックマンデーで株価が暴落した前後に、株価指数に「臨界揺らぎ」と呼ばれる特殊なパターンが出現していたことを東京大の清野健研究員や山本義春教授らが15日までに見つけた。
臨界揺らぎは、大きな揺らぎ、小さな揺らぎが同じ確率で起きている特殊な状態で、その発生の有無は株価データを解析すればリアルタイムで検知できる。現状では暴落の時期や規模は予測できないものの、株式市場が暴落につながる〝危険水域〟に入ったことを探知するのに使える可能性がある。」
写真の
『経済物理学の発見』(光文社新書、高安秀樹、2004年)
には、市場の臨界的な性質について章立てし、
くみこみでインフレの方程式を導く
という大変に興味ある記述もある。市場原理の予測性という問題にも触れている。最後には、経済物理学からの政策提言として年金問題などが取り上げられている。
こうなってくると、経済物理学は予測のできる、そして実証性のあるりっぱな科学ということになる。たんなる経験則ではない。さらには、将来、
デフレの克服や不況の回避
という喫緊の切実な問題に対しても、物理学の知識を駆使した経済物理学は役立つような気がしてくる。ということは、いずれ
経済政策の立案に、経済物理学という応用物理学は、有効
と考えたくなる。これまでの理論経済学や数理経済学では、到底なしえなかったことが、経済物理学という応用物理学ならできる。つまり経済分析の有用なツールになる。
● 破局を防止する経済物理学を
ただ、有用なツールにするには、留意すべきことがある。
優秀な数学者を動員してつくりあげた金融工学という学問分野が、リーマンショック(2008年9月)を引き起こしたという点だ。金融工学にも不十分ながら、物理現象の相転移現象の考え方が組み込まれていた。
金融工学のからくりを簡単に言えば、消えるはずのないリスクを〝飛ばし〟見えなくし、あたかもリスクが存在しないかのように金融関係者を欺く数学的なマジックである。それが金融工学が生んだ金融派生商品の正体だった。
この商品はアメリカ社会に、もっと、もっとのギャンブルまがいの
強欲資本主義
を生み出し、強欲を歯止めなく世界全体に拡げた。その結果、制御が不可能なまでにリスクが膨れ上がり、ついに、ないはずのリスクが一気に弾け、世界中にリスク破局の連鎖をまきちらした。
経済物理学が威力を発揮するのは、金融危機などの破局を招かない理論づくりではないか。金儲けの金融工学には、そもそもこれがなかった、というか、もともとできなかった。
先ほどの新聞記事もそうだが、株価暴落、金融危機など破局の防止に経済物理学の成果をどう生かすか。これは喫緊の課題だ。確たる基礎が確立していない今の経験則の経済学では、こうした破局の予測はもとより、破局回避のためのリスク制御は到底不可能のようにみえる。
一言で言えば、経済物理学の目的は金儲けではない。最終的には資本主義のがんとも言われる株価暴落などの破局の予測とその回避、破局に至る過程のリスク制御理論の構築だろう。
こうした現実解析の科学として今の経済学を鍛え直す、あるいは革新する。ここに経済物理学を研究する意義があろう。
金儲けなら、従来の「役立たず」の経済学で十分だ。なにも物理学が、そんなことにわざわざ手を貸す必要はない。
● 補遺 現実解析の経済学と、価値が伴う経済思想との関連について
ただ、注意すべきは、現実解析の科学としての経済学を鍛え直す、あるいは革新すると言っても、そこには一定の限界があることだ。
というのは、現実解析の経済学は、自然科学とは違って、その土台には、こうあるべきだという経済思想、つまり価値判断が紛れ込んでおり、いくら数学や物理学といった論理性で導き出した結論のつもりでも、一義的に決まらないことが多々ある。
経済学には、物理学と違って、何を重視するかによって、たとえば重商主義なのか、重農主義なのかによって何々学派というのがあるのは、この理由による。
とすると、たとえば、消費者は経済合理性に従って行動するという公理から、数学や物理学を駆使して導き出した結論、つまり命題を、社会で起こっている経済的な事実と照らし合わせて検証したとする。別の学派は、また別の経済思想が紛れ込んだ公理をもとに演繹し、結論、つまり命題を導き出し、事実と突き合わせて検証したとする。
ところが、出発点の公理にそれぞれの学派の価値判断がまぎれこんでいるのだから、つまり物理学のように共通の公理にもとづく基礎方程式がないのだから、事実に照らし合わせて検証しても、いずれの学派も正しいという結果になることもあり得る。どの学派の経済分析が正しいというように一義的な検証はできないということになる。
この一義的な検証不可能性は、物理学や数学の問題ではない。倫理観も含む経済思想という「べき」論に原因がある。つまるところ、論理性や解析力の問題ではなく、その前提となる倫理的な選択の問題。したがって、経済物理学と言えども、そこに一定の限界がある。
● 公理から経済思想という価値観を峻別できないか
こうなってくると、公理と、そこに知らず知らずに紛れ込んでくる経済思想の価値観とを峻別できないかという問題が出てくる。結論を先に言えば、できないということになろう。
その理由をわかりやすく言えば、ニュースという一見客観的な事実を取り上げているようでも、そこには記者のなにを取り上げるかという主観的な取捨選択が働いている。客観報道が意外にも幻想であるのと同様、客観的な経済事実などというのも、実は意外なことだが、幻想なのだ。
事実、かつて、J.シュンペーターは、峻別できる確信し、その大著『経済分析の歴史』に取り組んだが、ついにこの晩年の大著をもってしても、その峻別がいかに難しいかを思い知るはめになる。
また、経済学に数学を持ち込み、独自の見解を展開した新古典学派のA.マーシャルも、
Cool Head But Warm Heart
ととなえ、
冷静な事実分析とともに、しかし、人間らしい価値判断を持て
と訴えた。が、その間を峻別することはきわめて困難なことは、新古典学派の流れをくむ今の新自由主義者の多くも認めている。
価値判断が大きく影響する
貧困と失業問題
を経済学が、いまだにまともに、どこからの異論もなく自然科学のように、きちんと解答できていないことは、なによりも雄弁に、峻別不可能性を証拠立てている。
● 「経済思想」物理学が要る ?
そもそも「経済」という言葉は、経世済民、つまり世を経(おさ)め、民を済(すく)う、という意味に由来する。したがって、経済学というのは、どういう価値判断で、おさめすくうのかという点で、政治学であり、経済学であり、倫理学・哲学であり、それらを総合した実践学である。そこには、いくら分析が科学的になったとしても、科学では決して扱わない価値判断が伴う。
だから、いくら経済物理学が優れているとは言っても、そこには、経済学ほどではないにしても、やはり、役立つ実践学であろうとすると、価値観の選択が伴う。
ということは、
経済物理学は科学か、実証性の乏しいただのお話か
という悩ましい問題からは依然として逃れなれない。
夢想だが、これを解決するには、つまり経済物理学を完全な科学の範疇にするためには、
経済思想物理学が要る !
経済物理学の永遠のテーマだろう。
補遺
経世済民として、つまり実学として経済学がいかに、役に立たないかは、物価の番人として金融政策の当事者であるはずの日銀の政策を見てもわかる。
この15年、デフレ脱却政策に向けた政策決定で、手を代え、品を代え、あるいは総裁を何人代えても、そこから一向に抜け出せない。しかも、その原因すらいまだに解明できていない。このことをみれば、
経済学は実際の役には立たない
というのは明白だろう。予見性も回避性も効果的に、あるいは定性的にも示せないというのでは、経済学は科学ではない。ただの与太話といわれても仕方あるまい。
● 余談 ケインズか、ハイエクか
今風に言えば、
「大きな政府」という経済思想のJ.M.ケインズか、はたまた
「小さな政府」のF.A.ハイエクか
という問題も、つまるところ、時代精神を反映した経済思想という価値観も問題であり、またそれぞれの歩んだ人生の環境の違いもあり、論理だけで決着するものではないことがわかる。
言い換えれば、
失業対策では公共投資すべきとする経済社会主義のケインズか、それは「隷従への道」として排斥すべきとする自由市場主義のハイエクか
ということになる。この世紀の経済論争は、結局、今もって決着していないのも、むべなるかなである。
というのも、東西冷戦が社会主義の崩壊で終結し、一見、ハイエクが論争に勝利したかにみえる。しかし、2008年のリーマン・ショックという〝暴走する〟強欲資本主義という形で自由市場主義も敗北する。ハイエクもまた論争の最終的な勝者ではなかったことをこのショックは示した。
その結果、アダム・スミスの市場の自由放任主義という経済思想がますます万能のように、今もってばっこしている。200年以上たった今も、この「神の見えざる手」を公理とする経済学(古典学派)をこえる経済学派は、実践学としては存在しないように思う。
● 余談 『貧乏物語』の河上肇か、『厚生経済』の福田徳三か
同様に、日本でも経済思想という価値観の伴う経済論争が、関東大震災前後に起きている。
主著『貧乏物語』の河上肇(京大教授)と、主著『厚生経済研究』の福田徳三(一橋大教授)の間の
貧困をめぐる論争
である。かたや河上は、貧困は本人の怠惰というような個人的な要因などではなく、貧困の装置化ともいうべき自由市場の景気循環、つまり社会的な要因が原因と主張。今で言う
ワーキング・プア
を直視した。かたや福田は、個人主義を標榜し、怠惰は処罰すべきと主張する。利他主義の河上、個人主義とも言うべき利己主義の福田ということもできそうだ。
この論争は、関東大震災を契機に、学問論争から、とるべき具体的な経済政策、あるいは失業労働者の生存権をめぐる論争にまで及び、激越を極めたらしい。
その行き着くところは、河上の革命による経済改革、福田の現体制内で経済改革というイデオロギー色の強いものになっていった。
ただ、ともにクリスチャンであったせいか、あるいは当たり前の思想であったせいか、二人の間には、世をおさめ民をすくうには
人間中心主義の経済であるべきだ
という点では共通している。大震災から立ち直るには、まず、
人間を復興する経済学であるべきだ
という倫理的な点では差がなかったのである。
違いは、河上のように経済社会主義で現状を根本から立て直すのか、それとも福田のように、弱肉強食のような人間性をまるで否定するような野放しを規制することで労働者の生存権を保障し、現状の自由市場主義を押し広げ、立て直すのかという点であった。
福田のこの考え方は、戦後、憲法25条の「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」との努力目標としての生存権の確立に結実する。
福田は、そのための土台として、経済効率と所得分配を考慮した
『厚生経済研究』(全3巻)
という浩瀚な主著を晩年にまとめている。今で言うと、競争と共生を両立させる
「共生経済」
ともいうべき著作。
一言、コメントすると、世をおさめ民を救う経済は、人間復興でなければならないという経済思想から出てくるということ。これを今の問題で言うと、
東北大震災からまもなく2年、いまだに32万人もの人々が仮設住宅に〝放置〟されている現状は、とても経済の名に値しないということになろう。生活再建、住宅再建の経済、復興財源をもっと人へ。これが人間復興の経済なのだ。
「コンクリートから人へ」というスローガンだけで、すまない問題だ。
● 参考文献
以上の経済学のひどい状況に対して、経済思想家はどうみているか。この点について、経済思想が専門の猪木武徳・前国際日本文化研究センター所長が
近著『経済学に何ができるか 文明社会の制度的枠組み』 (中公新書)
という本を書いている。執筆の動機が
経済学は無力
という批判に対して、真摯にこたえたいという思いがあるからだろう。いかにも、まじめな経済学者らしい。いまほど経済学者がつらい立場にたたされたことはかってない。それだけに、経済学の道に40年、その経験を生かし、歴史的な視点から、何ができるのか、考察している。
ほとんど何もできないということを確認するには、一読の価値はあるだろう。先の小島氏とは違い、オーソドックスな経済学者の貴重な言い分、言い訳を知ることができる。
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