(2016.01.09) 日本語に翻訳された直後の10年前、かなり高いのに買った上下巻本を、このお正月の10日あまりで、ついに上巻だけを読み終えた。いつか暇になったら読もうと思っていた
『社会生物学論争史 誰もが真理を擁護していた』(みすず書房、2005)
であるが、著者はウリカ・セーゲルストローレというフィンランド生まれの社会科学者(ハーバード大教授)。
上下巻で約800ページ近くもあるものの、まあ10日もあれば当然読破できると思った。のだが、どうしてどうして、メモを取り、考えながら読み進んでいったこともあり、三部構成のうち最初の
社会生物学論争で何があったのか (上巻)
だけだった(残り二部からなる考察は下巻)。人間の行動の基盤は遺伝子が決めるのか、それとも生まれた後の環境が決めるのかというそもそものテーマ自身が入り組んでいるということもあるが、フィンランド人の英語を日本語に翻訳するのだから、ベテラン名翻訳家の垂水雄二さんもさすがに苦悶したことだろう。それでもなお、意味がとりにくいところが多数存在し、読み違えそうになったことが幾度とあったことをここに記しておきたい。
これが第一の感想である。第二の感想は、この大作は国際的に見ても第一級の科学社会学の成果といえるというものだった。日本における科学社会学の水準をはるかに抜く。
● 100年前のポアンカレ以来
その上で、読後感の結論を先に言えば、20世紀半ば、C.P.スノーがいみじくも指摘したこと、つまり、
文学的人種(文系)と純粋な科学者と応用科学者(理系)という「二つの文化」を統合することが、20世紀後半も終わりに近づいてもなお、いかにむずかしいかということを、四半世紀も延々とつづいた論争はまざまざと見せ付けてくれている
というものだった。20世紀初頭、大数学者で物理学者のアンリ・ポアンカレが、その畢生の著作『科学と方法』(1908年)のなかでロシアの文豪、レフ・トルストイの
「科学的な真理よりも、道徳的な価値を優先するべきだ」
との趣旨に厳しく批判している論争をほうふつさせるものがあった。
上巻を読んで思うのは、自然科学の成果と人文・社会科学との成果とがともに「科学」と呼べるものであるならば、
必ずそれらは両立しなければならない
というものである。その意味から言えば、どちらが勝者となったのかということよりも、道徳的/政治的な価値に対して、科学の価値とは何かということも考えさせる論争だった。ポアンカレもトルストイとのやりとりから『科学の価値』(1905)において深く考察している。
この意味で、E.O.ウイルソンやR.C.ルウォンティンなどの当事者たちの消耗戦もあり、論争は生産的であったとまではいえないだろう。しかし、第三者からみると、論争は双方ともに有益であったと判定できるのではないか。つまり、双方ともに社会との関係で何が根本的に問題なのかということについて、あらかじめ慎重に見極めることが大事であるということが具体的に理解できたからである。
別の角度からの感想をあえて述べれば、吉川英治の長大な大長編
『新・平家物語』(全8巻、講談社)
を読み終えたときのような感慨、
雨降って地固まる
というものだった。論争というと、どちらが勝ったか負けたかということにとかく関心が集まりそうだが、むしろともに武士として公家に代わる武家政権の確立に貢献した。今の場合でも論争における「二つの文化」統合は、ともに科学者であるとの共通認識のもとに真摯な研究をすすめれば、困難はあるが可能だと思う。つまり、強姦、ないし反目ではなく、互いに尊敬しあえる結婚は、科学論争である限りはできる。
以上は中間報告だが、以下、下巻読了後の総括に向けた備忘録をメモ風に書き留めておく。
(なお、この著作の章ごとの詳しい書評については、分子生物学的系統分類学者の三中信宏氏(みなかのぶひろ)がネット上に公開している。これまた長大だが、必読の批評である。2005年4月4日閲覧)
● 備忘録メモ
・ ノーベル医学・生理学賞(1973年)を受賞したN.ティンバーゲンは、名著『本能の研究』で、
動物の行動の科学的研究(エソロジー)においては、次の4つの「なぜ」に同時にこたえることが重要である
と語っている。
まず、行動の直接的な要因。
①(行動の仕組み)
ある動機(解発刺激)がきっかけとなってある行動が引き起こされるその生理的、心理的、社会的なメカニズムとは具体的にどのようなものか。これは生物種ごとの脳の構造とその機能の解明を意味する。
②(行動の発達)
その行動は、個体の一生において、どのように習得され、発達するか。
次に、行動の進化的な要因。
③(行動の価値)
その行動は、環境との関係において、どのように適応的か。つまり、その行動の進化的な機能は何か。
④(行動の進化)
その行動は、系統的進化の過程において、どのように祖先型の行動から出現したか。
ティンバーゲンは1950年代、動物行動学の切り口をこの4つに整理した。昆虫の本能の観察に没頭したファーブルは①と②に関心があり、進化論にたどり着いたダーウィンは③と④の要因研究に生涯を捧げた。
ティンバーゲンは、動物行動学の目標は、この4つの要因に同時にこたえることだと主張したのである。
なお、集団遺伝学の泰斗、マイヤー(1961)は、国際会議でネオダーウィニズムの学問を
機能生物学(物理・化学的な因果性を追究。①と②)
と
進化生物学(集団遺伝学など自然選択理論に基づく適応の因果性の追及。③と④)
とに二分することを提案し、ほぼ広く受け入れられた(生態学の伝統が長い日本では、ナチュラリストを中心に後者は進化生態学と呼ばれている)。
・ そして、1970年代のアメリカ。
1975年に『社会生物学 新しい(知の)統合』を世に問い、人間の本性とは何かという挑戦的なテーマに還元主義の下に挑んだ。人間の文化や行動の生物学的な基盤は遺伝的な変異(遺伝子)であるという仮説の提示である。遺伝子が文化の引き綱になっているという数学モデルも提示している。その遺伝子は利己主義的な振る舞いではなく、利他的な適応主義を掲げ、包括適応度という数学モデル(ハミルトン論文、1965年)を援用しているなど、きわめて数学的な、定量的な仮説になっている。
しかし、この生物学的な仮説(遺伝子決定論)の考え方は、素人である大衆には現在の世界は考えうる中で最善のものであり、不平等、人種差別、性差別は当然であり、自然であり、結局、解釈次第では不可避的に人間のなかに組み込まれている遺伝子のせいであると簡単に結び付けられる、あるいはそう映る。だから、生まれた後の環境要因決定主義者から「われわれは遺伝子の中にはいない」として猛反発を招く。仕掛けられた大論争の始まりである。
科学の真理と道徳的/政治的な価値の関係をめぐって
遺伝子が人間の文化や行動の引き綱になっている
Vs
われわれは遺伝子の中にはいない
の対決が、70年代は比較的に科学論争を基調に、80年代は道徳的/政治的な論争を基調に、そして、90年代には、サイエンス・ウォーズなど、拡散含みの様相に変化しながら、アメリカ、続いてイギリスで激突した。
・ 1970年代のアメリカでこうした論争が起きた原因として、一つは1953年のDNA構造の発見によってその後1960年代アメリカで、遺伝子の構造や機能の理解が分子レベルで急速に高まったこと、およびアメリカで当時も今も根強い人種差別に対する批判、たとえば黒人公民権運動など社会的/政治的な高まりが挙げられるだろう。
・ 残念なのは、こうした論争に日本の進化生物学界、科学社会学界がほとんど関与しなかったこと。日本の学問は明治期以来、完成整備されたものを輸入する方式で成り立っており、学問の根本を論争するという基盤ないし気風がそもそも根付いていなかったことが大きいだろう。
さらに、その学問内部における背景についても、いずれ、たとえば
講座進化第二巻 進化思想と社会(岸由二)
などで検討してみたい(東京大学出版会、1991年)。同時代に生きた生物学者、今西錦司氏の独自進化論との関係も興味深い。
● 1980年代前半、突然〝開国〟
・ なぜ、日本にはこうした学問論争がなかったのかについて、進化生態学者の岸由二氏は、上記論考、
現代日本の生態学における進化理解の転換史
で次のように〝断罪〟している。
「戦後の日本の生態学界およびその周辺には、(ソ連の生物学界を断続的な大論争に巻き込んだルイセンコの遺伝・進化理論の強い影響を受けたこと以外に)もうひとつの、きわめて顕著な反ダーウィニズムの動向があった。いわゆる今西進化論と呼ばれる論説で、これもまた、日本の生態学界をネオダーウィニズムにそう進化生態学の動向から厳しく隔絶させるうえで、大きな影響力を示したものである」
と書いている。具体的には、今西錦司氏が定年直前に本格的に反ダーウィニズムを宣言した論文
「進化の理論について- 正統的進化論に対する疑義」(京都大学「人文学報」第20巻(1964))
を挙げ、停滞させた主犯の今西氏をはじめ、弟子たち京都学派を批判している。おもしろいのは、岸氏は
「しかし、日本の生態学界はなぜこの時点(1980年代前半)で、しかも京都大学を拠点として、進化生態学に、そしてネオダーウィニズムに開国する方向を選んだのだろうか」
と鋭く切り込んでいることだ。開国の具体的な動きとして、国の予算的な主導の下で、しかも京都学派中心の大型プロジェクト
特定研究「生物の適応戦略と社会構造」(1982-85年)である。
この突然の開国について、当時活発に進行中の社会生物学論争など進化生態学(の世界的な)流行のインパクト、国内研究者の世代交替の開始、今西進化論という対抗的進化理解の無力の自覚、ルイセンコ学説など「脱イデオロギー化」の四つを、岸氏は開国要因として挙げている。
わかりやすく言えば、日本生態学界のそれまでの主導権と権威が失墜するという危機感が京都学派を、国主導の特定研究という開国に走らせたというわけだ。岸氏は、幕末から明治維新において、イデオロギーにとらわれて黒船打ち払いを叫んでいた尊皇攘夷派が、明治維新とともに一気に(現実に目覚め)開国に走ったのと同じ現象であると京都学派を痛烈に揶揄している。
さらに、岸氏は、この時点で日本ではなんら論争がなかったことについては、(ネオ・ダーウィニズムを混乱なく早急に日本に輸入するという点では)むしろ喜ばしいことだったと回想している。京都学派への痛棒であり、同時代を苦々しい思いで歩んできた同業人ならではの見方として真実味があっておもしろい。
・ 日本に、日本動物行動学会が京都学派を中心に設立されるのは、特定研究がスタートする同じ年、1982年であることも注目される。さらに、
「不幸」にしてこれまで「広い視野で進化を論じる学会」がなかったとした上で、「生物科学全体の正常な発展を望み、」「生物の進化と多様性の解明」に向け
日本進化学会
が設立されたのは、今西錦司氏がなくなって7年後のようやく1999年10月だった(カッコ内は設立趣旨からの引用)。今西氏が本格的に反ダーウィニズム宣言をしてから35年後であり、戦後間もないころいち早くできた日本生態学会(1953年)からでは46年、半世紀近くも後だったことは忘れるべきではないだろう。
なお言えば、正統な進化の総合説として「ネオ・ダーウィニズム宣言」が国際的に行われたのは、1947年のプリンストン大での国際会議だった。日本進化学会が設立されたのはそれからまさに50年以上たってからであり、この半世紀の出遅れは今も解消していないと言えるだろう。
なお、現在では日本進化学会の関連学会として、このほか、
日本遺伝学会、日本分子生物学会、日本人間行動進化学会
などがある。
これに関し、ブログ子の意見を述べると、日本人の学問観には、明治以来
学問の大枠は海外から完成した形で輸入するものである
という考え方が根強い。基礎よりも経済活動につながる成果を手っ取り早く手に入れる方法論である。しかし、これに対し今西氏の独自進化論はこれに大いに異論を唱えたものであり、その点については正しく評価しなければならないと思う。
今西に誤りがあったとすれば、それは自らの学説に自信を持つあまり、謙虚に海外研究に正当に耳を傾けなかった意固地さにあったといえよう。文化勲章受章者として、また生態学の日本の指導者として器量に欠けた晩年だったと言ったら言いすぎだろうか。
・ 岸氏の論考と並んでおもしろいのは、
正統的な進化論について、日本語で読める唯一の現代進化論入門書(研究者用あるいは大学院生用)としては、
D.J.フツイマ『進化生物学 原書第2版 』(岸由二ほか訳、蒼樹書房、1991年)
が初めてだという事実。原書の初版(1979年)、第2版(1986年)は、1980年代、世界の標準的な進化生物学の教科書として定着していた。それが1990年代に入って、原著だけでなく、ようやく日本語でも読めるようになったことは、正統派の現代進化生物学の日本における受容が1990年代に入って堰を切ったように加速度的に、そして広く一般にも浸透し始めたことを意味する象徴的な出来事といえる。日本進化学会の設立(1999年)もこうした動きを背景にしたものと理解できる。
● 自然哲学者として
・ 最近、弟子として、あるいはジャーナリストとして身近で今西学問を見つめてきた斎藤清明氏による評伝
『今西錦司伝 「すみわけ」から自然学へ』(ミネルウ゛ァ書房、2014)
が出版された。斎藤氏は、評伝を締めくくって、
「今西の進化論は、自然学という自然観に昇華していったのだとおもう。進化の要因を考えないという今西だが、それでは(科学的な)セオリー・メーカーとして、十分に応えたことにはならないのだが、(部分ではなく全体自然を理解しようとする哲学的な)自然観ということになれば、それはそれでいいのではないだろうか」
と書いている(かっこ内はブログ子の補い)。斎藤氏は「まるごとの生きた自然を相手にせよ、と」今西氏は訴えているとも解説している。
要するに、晩年の今西氏は
もはや科学者でも生態学者でもなくなっていた
ということである。あえて言えば、
分析的な自然科学のあり方の根底を問う全体論的な自然哲学者
となっていた。今西氏の戒名の最初が「自然院」となっているのは、その証拠だろう。とすれば、ブログ子が、科学者として晩年の意固地さを指摘したのは筋違いということになる。
最後に、ブログ子の手元にあるそんな今西氏の一般書を年代順に掲載しておく。
『生物の世界』(1941年)
『私の進化論』(1970年)
『ダーウィン論』(1977年)
『主体性の進化論』(1980年)
『進化論も進化する』(1984年)
『自然学の提唱』(1984年)
最初の『生物の世界』の解説を後に書いた上山春平氏(京大名誉教授)は、独自の思索と体験をふまえ、この本によって
「今西さんは、哲学から生物学への道をつけた」
と述べている。この本を著してから50年。最後は生物学者から再び、哲学者に戻っていった生涯、それが今西氏の歩んだ道だったといえそうだ。
今西氏は科学者ではなく、終始、山登りの好きな哲学者であり続けたということが、日本の生物進化の理解において、あるいは不幸だったかもしれない。
・ 適応主義のネオ・ダーウィニズムVs適応主義は要らないとする今西進化論の対決は、
ネオ・ダーウィニズムのドーキンスVs多元主義のグールドの構図であるともいえる。社会生物学論争の一変形、あるいは日本版なのだ。
ドーキンスが擁護する適応主義は観察を実地に数学モデルで厳格に検証するための適応仮説なのだ。この仮説でどうしても説明できないような、あるいはどんなモデルでも説明できない観察があれば、その時はそれも包含するような新たな仮説を設けるというヒューリスティックな科学方法論のひとつである。これ以外にどんな科学的な方法があるのかというわけだ。これに対し、グールドは、現状こそ最適だというパングロス主義的な適応主義は検証不能な、トートロジーに陥る「なぜなぜ物語」になってしまう方法論だと、その非科学性を批判する。
全体論的な今西進化論は仮説検証型ではないので、検証が不可能なのだ。哲学論争ならばともかく、これでは研究が前にはすすまない。「種は変わるべくして変わる」というのでは科学ではない。ここに多元主義のグールド同様の科学方法論としては致命的な欠陥があった。
社会生物学論争では、もうひとつ、
自然界はどうなっているかということを突き止めるための仮説をめぐる議論
と
その仮説が道徳的/政治的に許されるかどうかという価値をめぐる議論
とが、互いに錯綜し、かつ誤解したまま激突した。この二つの議論は別の話であり、一つにまとまることはない。日本には人種差別の問題がほとんど社会問題にならないこともあり、今西批判では科学論争だけに限定され、このややこしい誤解論争がなかったことは、幸運だったろう。別の言い方をすれば輸入学問であることが幸いしたともいえる。
● 下巻へのメモ
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