日記・コラム・つぶやき

雨にも表情 広重の「東海道五十三次」

(2016.06.06)  テレビニュースによると、東海地方は先日梅雨入りしたとみられる。そんな日曜日の朝、Eテレの日曜美術館というのをぼんやりとみていたら、

 風景の叙情詩人、広重「東海道五十三次」

という番組を放送していた。国立歴史民俗博物館教授の大久保純一さんが読み解くというので、見てみた。

 雨にもいろいろな表情がある

という話をしていたのには、感心した。

 ● 庄野のしのつく雨、土山のやわらかな春雨

  具体的には、

 庄野(三重県)の、激しい、いわゆる「しのつく」雨。それとは対照的な、土山(滋賀県)の春雨のようなやさしい雨。広重はさまざまな技法を使って雨のかもし出す表情を表現している。しかも、その技法はそこに描かれている人々の何気ない姿とあいまって一層見事に、そのときどきの風景の雰囲気を伝えるのに役立っていると話していた。

 また、その場合、広重の風景のなかに登場する人々は、たとえそれが小さくても、Image235453雨の表情を表現するときのいわば重要なアイテムになっている。

 このことを言葉で表現するよりも、ブログ子が持っている平凡社版「広重東海道五十三次」(1960年)で見比べてみるとおもしろい。上の写真が庄野、下が土山である。

 ● 大磯の夏の通り雨

 大久保さんが好きな雨というのも紹介されていたが、

 大磯(神奈川県)の「虎ヶ雨」という春雨よりもさらにやさしい雨である。言ってみれば、

 夏の雨の、いわゆる通り雨

である。構図の左端に描かれている大磯の海が明るいことから通り雨であることが想像できるのだ。

 ところで、こうした雨の表情を、どのように何枚もの版木で表現するのであろうか。

 その実演を番組では取材していた。これが出色。取材先は

 Image235653 東京伝統木版画工芸協同組合

で、高橋由貴子理事長が解説していた。実演では、五十三次の場合、雨の版木は2種類。薄い色のパラパラ線模様と、濃い線が密に彫られたものである。

 それらを重ねた刷り上がりでは、見事に広重の風景画を再現していた。

 ブログ子も東海地方に暮らすので、広重の版画書籍は持ってはいる。しかし、ここまで注意し、しげしげと見入ったことがなかったので、その技にいたく感心させられた。

 雨以外についても、大久保さんは、広重の五十三次に描かれている人々には、お互いに離れ去っていくという構図、つまり仕掛けがあると話していた。東海道を行き交うというよりも、出会い、そしてすぐに分かれゆくという動きのある構図が多いのに、ブログ子も気づいた。

 そんな指摘に、なるほどと納得させられた。

 この番組を拝見し、風景叙情詩人、広重のすごさをあらためて知った。

 ちょっと早起きするのも、なかなかいいものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

芭蕉は「奥の細道」旅先で何を食べていたか - 人生の終い方

(2016.05.21)   大型連休も終わり、いよいよ新緑競う5月。300年以上も前、松尾芭蕉もこんな季節に江戸を立ち、「奥の細道」の旅に出たのであろう。奥の細道、矢立初めの地というのは、住み慣れた芭蕉庵のあった深川から隅田川をさかのぼった千住大橋らしい。そこには旅立ちを示す石碑が立っている。

 行く春や鳥啼き魚の目に泪

と最初の俳句を詠んでいる。この句からは芭蕉のこの旅立ちにかける相当の覚悟が感じられる。芭蕉庵を引き払い、人生、最後の旅という思いだったろう。

 先日、BSスペシャルで、旅先で詠んだ俳句ではなく、

 いったい芭蕉は旅先で何を食べていたのだろうか

という発想で、その再現に協力した料理の鉄人、道場六三郎が登場していた。題して

 奥の細道、幻のレストラン

である。芭蕉は、生まれ故郷を離れるまでは、ある屋敷の台所で下ごしらえなどの下働きをしていたことから、こうした番組が企画されたらしい。初回放送は1997年だが、今回はそのアーカイブス放送。

 ● マツタケ汁、鴨肉も

 芭蕉は伊賀上野の生まれだったことから、忍者説もあり、忍者の食べ物

 保存食のかたやき(今のクッキー)、カボチャのタネ

 あるいは

 健康食品の梅干し

などが紹介されていた。そのほか、吟行ということもあり、旅先の季節の食材、たとえば、

 ベニバナ、シラウオ、干しゼンマイ、シメサバ、イブリガッコ(東北風タクアン)、エビ

などを組み合わせた、道場さん特製の

 「おくのほそみち」弁当

も、番組参加者にふるまわれた。その間には、おそらく道中、大きなマツタケを使った汁物、鴨肉も食べたであろうとのことだった。

 芭蕉は酒をたしなんだことから、風流な

 マスホガイ入りの杯

も映像で登場していた。北陸道の敦賀の「種(いろ)の浜」を詠んだ俳句や和歌にも

 「ますほの小杯」

というのが出てくるらしい。実際、芭蕉もこの旅で

 波の間や小貝に混じる萩の塵

と詠んでいる。種の浜のさびしい秋の夕暮れ時を読み込んだものであり、うまい歌だと思う。

 結びの地、大垣では

 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

と詠んでいる。矢立初めの地「行く春や-」に始まり、結びの地「-行秋ぞ」ときちんと句集としてととのえているのがおもしろい。

 この5か月にわたる旅から帰った芭蕉は、推敲に5年をかけ、奥の細道を完成させる。それとほぼ同時に、51歳でこの世を去っている。

 ある意味、

 人生の終い方の達人

だったように思う。

    以下の写真は、木曽義仲と並んでおかれた芭蕉の墓。遺言どおりのこの義仲寺(ぎちゅうじ、大津市)には有名な最後の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」と刻まれた大きな石碑も墓の隣りにおかれている。

    Imgp5160

 

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「黒い草」の30年 - チェルノブイリの今

(2016.04.27)  ウクライナ語で、チェルノブイリとは

 黒い草、ニガヨモギ

のこと。その名の通り、その葉は少しにがい。そのせいか、聖書でも縁起のいい植物としては描かれていない。むしろ、死と結びついたイメージがある。

 チェルノブイリ原発事故(1986年4月)から30年。各局とも、原発事故関連の番組をこの1週間に何本も放送した。

 その感想を一言で言えば、未曾有の東日本原発震災の日本では

 チェルノブイリ事故はもはや歴史のなかに風化しつつある

ということ。再放送だったものも多く、番組がセピア色の写真をみているような印象、感覚にとらわれたというべきかも知れない。

 チェルノブイリは遠くになりにけり

 しかし、放射能の脅威は、30年たったこれから、その姿を現すだろう。

 ニガヨモギの苦さを、今、人類は思いだすべきではないか。

 チェルノブイリからわずか3キロくらいのところにあるゴーストタウン、かつて花が咲き乱れていたプリピャチの街全体が廃墟と化した映像をみて、ブログ子はそう思った。

  Image2324_1

   わたしたちなきあと地球はどうなるのだろう

| | コメント (0) | トラックバック (0)

内部被ばく告発の新藤映画「第五福竜丸」 -- 発見された乗組員たちのカルテ

Image2321 (2016.04.18)  あるこじんまりした会合で先日、

 60年ぶりによみがえる幻のドキュメンタリー映画

 「第五福竜丸」(新藤兼人監督、1959)

というのを見た。世界で初めて、放射能を浴びたり吸い込んだりした体内残留放射能からの内部被ばくの恐ろしさを描いている。

 被ばく半年後に死亡した無線長、久保山愛吉さんを宇野重吉が熱演している。その妻を演じたのが乙羽信子。監督の独立プロダクション(近代映画協会)時代の作品である。

 ● 幻の映画、東日本原発震災後にDVD化

 製作資金難や上映配給難をかかえながらも、大映が配給を引き受けることで、なんとか公開にこぎつける。しかし、興行的にはなぜか国民の関心事とはマッチせず失敗。既存の映画づくりにはない独立プロの鋭い批判精神が作品に息づいているのがリアルであり、見ものなのだが、その後劇場で上映されることはなかった。しかし、ビギニ事件から60年後の2014年春にDVDでよみがえる。

 こうした経緯をたどったDVD版には、東日本原発震災後の今、放射能というものの恐ろしさや過去の被ばく事実に今一度向き合って考えてみてほしいという関係者の願いが込められていると言えよう。

 ● 死因、日米で異なる結論

 事件から5年後の1959年に公開されたこの映画には、東日本原発震災時の避難住民の内部被ばくの放射能問題でも話題になった

 半減期が約28年のストロンチウム90

という放射能を持つ物質が登場する。吸い込んで体内にとどまった「死の灰」は数十年間にわたり放射線を出し、体の内側からその人の体を少しずつむしばむ。半年後に死亡する第一番目の犠牲者が、年長だった久保山さんである。

 この映画を見て、ブログ子は、次の二つの点に注目した。

 一つは、久保山さんの死因は何か、という点である。

 実際の事件においては、主治医師団のカルテでは、肝炎発症はあるものの、それには放射線障害による影響が大きいとして「放射能症」と記載されている。いわばこれは放射能症主因説である。これに対し米国側は治療にあたって投与された売血を輸血した医師団をとがめている。つまり、この輸血が主な原因でウイルスに感染、急激に肝炎が悪化させた「血清肝炎」としている。血清肝炎主因説であり、どちらが正しいのか、今日まで決着はついていない。

 現在では、この中間、被ばくで免疫力が低下していたところに、売血の輸血によってウイルスに感染。それによる肝炎が、年齢もほかの乗組員より高いこともあり、急激に悪化したという複合原因説がどちらかといえば有力視されている。

 一方、映画では、主治医師団の見解をより重視した、つまり肩入れした描き方をしている。血清肝炎についてはほとんど触れられていない。放射能症単独説に近い。

 ● 事件から45年後にカルテ発見

 そんなおり、2009年7月、行方不明だった久保山さんの死亡までの治療記録(カルテ)が東京の国立国際医療センター(カルテ保管庫)で発見された。また、翌年にはほかの乗組員16人分のカルテも発見された。

 今回、DVDをみて、双方の死因見解が分かれているのだから、この発見されたカルテをもとに、現代の知見に照らし久保山さんの死因の真相がはっきりするのではないかと思った。それには、久保山さんの臓器の組織標本の再検討も大事だろう。組織標本の保存先は同医療センターなどであることを思えばなおさらだ。

 かつての乗組員23人のうち、15人以上はすでになくなったが、現在でも、第五福竜丸の冷凍士だった大石又七さんをはじめ何人かは、肝炎や肝がんなど一部障害を抱えながら暮らしている。カルテの発見を契機に、きちんと死因を解明し、その教訓を生かさなければならない。

 ● 東海村臨界事故の治療記録を生かす

 Imgp9588jco もう一つ注目したのは、第五福竜丸事件(1954年)とカルテ発見(2009/2010年)の間にはウラン加工工場での

 東海村臨界事故(1999年)

があるという点である。

 放射能を持たない中性子だが、連続的な核分裂という臨界に伴い発生する中性子線を大量に浴びることの危険性を具体的に示した日本で初めての事例である。

 わかりやすい言い方をすれば、広島、長崎の「ピカドン」の恐さである。

 これは放射能による内部被ばくではないが、これもまた放射線障害事故であることに変わりはない。死因は多臓器不全で、二人の作業員が亡くなった。全体で約20Sv(シーベルト)と、致死量をかなりこえる非常に強い中性子線を一瞬で浴びた作業員(35歳)は、3か月後に死亡。もうひとりの作業員(40歳)も7か月後に亡くなっている。

 今回の新藤監督映画を見て、死因の解明とは別に、あらためて外部被ばくや、内部被ばくの詳細について、現時点での知見に基づいて解明する必要性を痛感させられた。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

生物多様性はなぜ必要か 経済学的視点で - または、外来のアライグマの独り言

(2016.02.16)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

直感も大局観も自ら学習する人工知能 ---- 囲碁プロチャンピョンに5戦全勝

Ai20160128 (2016.01.29)  経済紙なんて滅多に読まないブログ子だが、暇つぶしに入った喫茶店の日経新聞(2016年1月28日付朝刊)をふと手に取ったら、一面の真ん中に

 人工知能、囲碁プロチャンピョンにも5戦全勝

という内容の記事が大きく出ていたのには、びっくりした(写真右は3面解説。ダブルクリックで拡大)。

 ついに、人工知能が人間の能力を超えるときが来た

ということだろう。それも、意外に早く訪れたのではないか。

 チェスとか将棋とかという論理ゲームの世界では、人工知能は人間より優位に立てることがぼ実証されそうな情勢。しかし、広い盤面の碁石のパターンから次の勝てる一手をさすには大局観や直感、あるいはひらめきまでがより重要になる囲碁では、人間を追い越すのはまだまだ先だと思われていた。数値データの演算ならともかく、画像に対する高度のパターン認識は人間の独壇場だと思われていた。のだが、現実は人間の能力をこえる人工知能の時代が急速に始まろうとしているかのようだ。

 ● ネイチャー誌最新号に論文

 ところで、今回の何がニュースかというと、人工知能が人間に勝ったのは去年秋なのだが、そのグーグル開発の人工知能の仕組みについて書かれた論文が

 Image2273 英科学誌「ネイチャー」最新号(1月28日号)

に掲載されているというところである。早速、その原著論文(第一著者はD.Silverで以下20人以上が名を連ねている)を読んでみた(写真左)。原理自身は1980年代からあった

 ディープラーニング(深層学習)

というネットワーク技術。人間の大脳と同じような思考パターンをコンピューターにもわかるようなアルゴリズムで表現し、開発した。

 詳しいことはよく理解できなかったが、どうやらこの技術は囲碁に特化したものではなく、幅広い汎用性があることに気づいた。今回、このアルゴリズムの有効性が「Go(囲碁)」を例にして実証されたというわけだ。

 こうなってくると、先日この欄で紹介した公立はこだて大学で進行中の

 人工知能作家

の開発話も、まんざら夢ではなくなってくる。直観力、大局観、ひらめきに加えて、創造性や独創性も発揮する人工知能の登場はありえる。

 今回のニュースを拝見して、10年前、コンピューター開発技術者、レイ・カーツワイルが2040年代には人類の進化は特異点に至り、

 ポスト・ヒューマンの時代が来る

と詳細なデータによる根拠を示して予測したのも、うなづけるような気がする。

 こうなると、これまでのような

 人間とは何か

などというのんきな話ではなく、

 人間とは何だったのか

という過去について考える時期に来ていることに気づく。

 これからの人類進化の文化依存性

に注目したい。

 ● 重要な余談

 ここまで書いてきて、はたと気づいた。というのは、グーグルは今、世界のあらゆる大学から大量の図書、文献を借り出し、デジタル化し超巨大電子図書館プロジェクトを強力に進めている。いわば人類が生みだしたすべての知的な文化遺産のデータベース化である。

 もし、これを今回の人工知能と組み合わせたらどういうことが起きるのだろう。こんな巨大人工知能に、人間の知能は太刀打ちできるであろうか。人間のやりそうなことは事前にかんたんに察知されてしまうであろう。ましてやそこに創造性や独創性、ひらめきが組み込まれていた場合には、おそろしいことがおきそうだ。

● 読者からのコメント追記 2016年1月30日記録

上記の「余談」を書いたら、早速読者からおもしろいというか、鋭いというか、次のような趣旨のコメントが届き、ありがたかった。

 一番簡単な今回の人工知能の利用は、余談で書かれているような遠い将来の話なんかではないというのだ。具体的には、現在までに発行された

 英科学誌「ネイチャー」と米科学誌「サイエンス」のデジタル化され画像になっているすべてのバックナンバーに接続すること

だというコメントだ。これならいますぐにでも実行可能なプロジェクトであろう。この100年間の科学技術の宝庫を、今回の人工知能にさまざまな条件をつけて、ある目的を達成するため直観力と大局観とひらめきで遂行させる。

 推理力や論理力も活用すれば、おどろくほど多くの成果が飛び出してくる可能性は高いだろう。人工知能の助っ人としてその間に人間の研究者を介在させれば、ますます効率化される。

 思うのだが、そうして導き出された事実の発見や理論の著作権は誰のものになるのだろうか。これまでなら発見した人であり、理論家であることは自明だった。しかし、これがもしすべて人工知能のものになるとすると、開発したグーグルの研究開発の能力は、いずれほかを圧倒し爆発的に伸長するだろう。 

 私たちは、自ら学習する人工知能の時代への備えは出来ているのだろうか。今回の研究論文を読んでいると、そんなことを問いかけられているような気がした。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

椿寿をことほぐ社会 大寒に思う

(2016.01.27)  大寒をすぎて、そろそろ寒椿の美しい季節になる。そんな折、知人でいやしの植物セラピーとでもいえる日本フィトセラピー協会顧問の山崎和恕さんのfacebookを先日のぞいていた。美しい白椿の写真とともに

 椿寿(ちんじゅ)

について書いていたのが、おもしろかった。

 古希、喜寿、傘寿、米寿、そして数えで90歳の卒寿、99歳の白寿、100歳の上寿の7段階をまとめ、一括して椿寿というと書いている。日本人は長寿社会に入るずっと前から、今でいう高齢をことほぐ椿寿を知っていた。いまではなかなかこの言葉を知っている人はいない。また小さな辞書では見当たらない。なんだか、嫌老社会が来そうで、高齢者のブログ子も心穏やかではない。

 もっとも、この椿寿という言葉、中国(の古典)が原産らしい。手元にある小学館の大辞泉によると、

 上古大椿という者あり、八千歳を以って春と為し、八千歳を秋と為す「荘子」

から、長生きすること。長寿。特に、人の長寿を指すとある。同じ辞書に具体的に大椿の一年は8000歳×4季で、32000年にもなる。大椿という言葉には、長生きを意味し、それを祝うという意味も込められている。

 ● 高齢者に三戒あり

 そこで思うのだが、高齢者にも賢い老人、賢老として社会で末永く活躍するには、それなりにわきまえる心得が必要なことを忘れてはなるまい。

 行動がわがままでずうずうしい様、横着を慎め

 身なりがだらしない様、ずぼらを慎め

 物事をゆがめて考える精神的な性向、ひがみ根性を慎め

である。たいていの人はこれらに思いあたることがあるだろう。老害をあらためる三戒としたい。

 そうすれば、活躍の春は確実に近づいてくる。

 まもなく立春。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

産卵場探しの時代は終わった ウナギの未来

(2016.01.24)  (ニホン)ウナギの産卵地探し40年、世界で初めてその場所をピンポイントで特定した、うなぎ博士、塚本勝巳さんの公開講演が先日、浜松市内であった。

 Imgp9172 広大な広さの南太平洋のなかで産卵地を少しずつ絞り込み、2009年5月の調査でついに複数個その卵を採取し、グアム島西方約100キロの海(の海山部分)という具体的に特定。講演では特定までの苦労話と、さまざまな問題を抱えるこれからのウナギの未来について、熱く、そして子どもたちにもわかるよう会場の人々に語りかけた。

 その結論を先に言えば、

 2010年代に入り、ウナギの産卵地探しという探検の時代は終わった。2010年代からは、産卵生態の解明など、その応用的、実用的な展開に入った

というもの。絶滅が危惧されるウナギの完全養殖に向けた取り組みへのエサや育て方などデータ提供も視野に入ってきた。すでに人工衛星などを利用した生物ロギング技術

 ポップアップロガー

によるウナギの日周垂直移動の様子をとらえた生態記録が紹介されていた。

 塚本さんは、最後に基礎から応用、ウナギの自然科学、資源としての「うなぎ」という社会科学、鰻という文化に関わる人文科学をまるごと理解する学問を、無類のウナギ好きの日本人の手で確立したいという趣旨の今後の抱負を語った。

 それは、塚本さんが自ら「うなぎ博士」と名乗り、全国の小学校で出前授業「うなぎキャラバン」を始めた理由でもあろう。

 ● 講演スナップ

Imgp9168

Imgp9175

Imgp9191

Imgp9198

Imgp9181

Imgp9187

Imgp9193  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ロボット法学の4つの「NEW」って何 ?

(2016.01.20)  ロボット工学という分野について、詳しい内容はともかく、たいていの人はそのおおよその内容は理解できる。たぶん人工知能に関係がある研究や技術開発であると想像する。

 しかし、ロボット法学という言葉について、聞いたことのある人はまれであろう。ブログ子もとんと知らなかった。しかし、近々、ロボット法学会という組織が誕生しそうだと聞いて、ロボットという文字のつかない法学会と、どこが異なるのか、ちょっとわからない。

 法学というのは、当然ながら、人間法学のこと。社会における人間と人間の間の関係を法的に規定する法律やそのあり方を研究する学問。したがって人間が一人しかいない世界では法律は要らない。これに対し、ロボット法学は社会における人間とロボットの間の関係を法的に規定する法律やそのあり方を研究する学問である。当然ながら、人工知能はもちろん、簡単なロボットのなかった時代にはロボット法学は要らない。

 先日のロボット法学に詳しい弁護士、小林正啓さんの

 視点・論点「ロボット法学と4つのNEW」(Eテレ)

を聞いて、そのことがようやくわかった。たとえば、車の形をした人工知能ロボット、かんたんに言えば自動運転車など、高度なロボット時代を迎えるにあたり、そんな車同士が衝突事故を起こしたときにはどう裁けばいいのか、あるいは人間と自立型ロボットが同じ職場で働いていた場合のトラブルはどう考えればいいのか、そこが問題なのだ。

 小林さんの話によると、新しい概念に基づく新しい法律の制定でしか対応できない新しい事態が二つと、これまでの法律で対応できるが、法解釈の変更が必要になる新しい事態がある。最後に、これらの3つの新しい事態に対応できる新しい人材(NEW Genelation)の育成が急務であるという。だから、ロボット法学会の設立を法曹界は急いでいるのだろう。

 第一のNEW。

 人間によってあらかじめプログラムされているとはいえ、そのアルゴリズムによって自ら考え、行動する自律した人工知能の登場は、従来の機械とはまったく違うNEW Machineであるという事態。これは従来の機械の延長線上にあるものでもないという意味である。

 その場合でも、判断の責任は人間にあるという原則を堅持し、ロボットに任せてはならないという原則が必要だとしている。ロボット同士の事故の場合、事故回避の手順についてあらかじめ優先順位を決めておくなど、ロボットの監督責任は人間側にあるという考え方である。

 第二のNEW

  次に、人間とロボットの間の関係をあらかじめ明確にしておかなければならないという新しい事態のことである。これは人間同士の関係を規定した従来の法学にはなかった。

 人間と動物の関係を定めた法律に動物愛護法があるが、ロボット愛護法が必要になるだろうという考え方である。捨て猫をしてはいけないように自立型ロボットを野放しにしてはならないという禁止法も必要だろう。これは機械とは異なる対応である。ロボットの殺処分のありかたも今後論議を呼ぶだろう。感情表現できる人間に近い人工知能が登場しつつあるが、それであればなおさらだろう。

 第三のNEW

  刑事であれ、民事であれ、従来の法律には

 過失とは何か

ということが厳格に法律で規定されている。この場合の過失とは人間の過失のことである。

 社会通念上、当然払うべき注意をしてさえすれば、事態の予見は可能であり、かつ結果の回避の可能性もあったのに、それを怠った。これを過失としている。

 それでは、

 ロボットの過失とは何か

ということが問題になる。つまり、社会通念上、当然払うべき注意とは何か。従来の過失の解釈変更が求められるというわけだ。ロボットを刑務所に入れたり、損害賠償請求訴訟を起こすことは出来ないのだから、この場合、ロボットの過失と人間の過失の関係の規定がポイントになる。

 自動運転でひき逃げ事件が発生した場合、乗っていた人間には過失はなかったと主張できるのかどうか。さりとて、すべての責任は乗っていた人間にあるのは当然というこれまでの常識的な考え方が通用するのかということも問題になろう。

 第四のNEW

  こうした新しい、そして込み入った問題に的確に、従来の「人間法学」と整合性をもって対応できる人材を育成することは喫緊の課題であるというのは、その通りだと理解した。

 こう考えてくると、ドローン規制の場合のように従来の法律、航空法を改正して規制だけすればいいという考え方では、人工知能ロボットの到来という世界の潮流やそれが引き起こす新しい産業革命に乗り遅れるだけでなく、その恩恵に預かる機会を逃すことにもつながる。

 むずかしい時代に入ったと思うのは、人工知能を相手にするのが苦手なブログ子だけであろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

公的な図書館も初売りの「福袋」

(2016.01.09)  高齢者の老人になって、そうそうお金もないので、手元にない本についてはできるだけ図書館を利用することにしている。

 お正月とあって暇なので、JR浜松駅の近くにある浜松市立図書館(駅前分室)に出かけたら、なんと、

 福袋

と書かれた紙袋が受付カウンター横に並んでいた。売り物かなと思ったら、係りの人は

 「おすすめする本をまとめて、お貸ししています。いかがですか」

とこたえてくれた。普通の福袋と同様、どんな本が入っているのか、その中身はおおよその分野はわかるのだが、借りる時には、具体的な書名まではわからないのがミソ。開いてのお楽しみというわけだが、

 自分の読みたい本だけを借りる

という発想の転換を求めているらしい。それだと、視野が狭くなりがち。新たな発見や読書範囲も広がらない。これまでの常識を年に一度、お正月のときに破ってみようという狙いがありそうだ。

 いかにも市民思いのやり方に感心した。

 しかし、よく考えてみると、図書館側にもせっかくの蔵書をより多くの人に貸し出したい〝販売促進(販促)〟という思惑もある。

 そんなことを考えていたら、いつのまにか件の福袋が貸し出されてしまったのか、帰るころにはカウンターからみんななくなっていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧