旅行・地域

人類はかくして生きのびてきた        - 世界一番紀行

(2013.06.03)  世界一番紀行という3日続きのプレミアムアーカイブス番組を拝見した。この5、6年の間にシリーズとして1年おきぐらいに放送されたもの3本をアーカイブスとして早朝に放送したものである。

 ● 最寒地、シベリア・オイミャコン

 番組が最初に訪れたのは、

 人の定住地としては地球でもっとも寒い

 ロシア・オイミャコン(人口900人、シベリアのサハ共和国)。

  冬場の平均気温は氷点下約50度。氷点下約40度にもなるエベレスト山頂、氷点下約30度になる南極よりも寒い「寒極」。記録としてはっきりしているのは氷点下71.2度。

 番組ではこの地を2月上旬に訪れていたが、氷点下53度というものずごさ( 注記1 )。この環境でも、そして加熱しなくても大切な水が常に凍らないように、ドラム缶などに上手に貯蔵されていたのには感心した。

 ● 強力なフェーン現象のアフリカ・ジブチ

 次に訪れたのは、一転、年間の平均気温(毎日の最高気温の年間平均と、毎日の最低気温の年間平均との間でさらに平均を取った値)が、

 34.5度のアフリカ・アファール三角地帯のジブチ。

 ジブチ共和国の首都、ジブチのここは、大雑把に言えばエチオピアの東隣りで、人類最古の骨、たとえば、350万年も前の人骨が何体も出土している海面より低い低盆地(旧フランス領)。今も35万人が生活している。

 番組で訪れたときには真昼間で48度。体温よりも12度も高い。日本の暦で6-9月の乾季には、日中では最高気温が50度になるという。よくこんなところで、人類は焼け死にもせず生き残って、進化してこれたものだとおどろく( 注記2 )。

 ● 富士山より高い90万都市、エルアルト

 最後は、富士山よりも高い4150mの高原に90万人が暮らす大都市

 ボリビア・エルアルト。

 ブログ子が暮らす政令市、浜松市より10万人も多い。気圧は浜松の3分の2程度とかなり薄い。有名なチチカカ湖が近いので水源には困らないのだろうが、それにしてもよくも高山病にならないものだ、とこれまた感心した。

  これは言ってみれば、

 天空都市

である。人類はこんなところにも文明を築いてきたのだ。

 ボリビアの首都、ラパスを見下ろすエルアルトのアルティプラノ高原(4000m級)にはインカ文明以前に栄えていた古代文明ティワナク文明があった。1000年以上の繁栄を誇ったという。高山帯のため樹木はなかったが、高原では今もジャガイモが大量に収穫されており、大人口を支えている。水の確保はチチカカ湖だっただろう。

 4000m級でも人類は100万都市を築いて生きのびることができる。

 これらの地について、まとめて紹介してくれたおかげで、むしろ人類はたくましく生きてきたというすがすがしさを感じた。

 そればかりか、人類、とりわけ現在の人類に直接つながる現生人類は何回も、何回も長期にわたって続いた大氷河期をどのように生きのびてきたのか

というブログ子の疑問も氷解した。照りつける砂漠状態が続いても人類がそう簡単には滅びるものではないというのもうなづけた。

 ● やがて快適な海底都市も

 この世界一番紀行は、

 人類はなぜ生きのびてこれたのか

ということを、生きのびたいという意志さえあるならばという主体性の条件はつくものの、具体的な事実でもって明解に物語ってくれていた。

 このことから、ふと思った。現在の人類はやがて

 海中あるいは水中都市、さらには海底都市

に快適に暮らすときがくるであろうと。そして、それどころか、

 月にだって都市を建設するであろう

と。いや、火星にだって暮らす日が来るだろう。ひょっとすると、ブログ子がまだ生きているうちに。

 進化には遺伝子の突然変異を通じたとてもゆっくりした生物学的な進化の仕方と、人間の拡張としての道具、たとえばこん棒、弓矢、ウェアラブル端末、さらにはマイクロAIロボットの体内組み込みなどを通じた非生物学的で、また主体的かつ急速な進化の二通りの方法があるように思う。

 人類は生物学的な進化では、失敗であり、絶滅に向かっているとの見方がある。しかし、もう一つの文化依存性の進化という知恵を働かす仕組みがある。

 そう考えると、人類の未来が少し明るくなったように感じる。

 意外にも、広い視野で人類について考えさせる番組だったと思う。

 ● 注記1 オイミャコンはなぜこんなに寒い

 簡潔に言えば、北極海という海洋性の暖の気象条件を享受できない、その上内陸性の厳しい寒の気候条件をまともに受けている。さらに、町の標高が高い、さらに言えば、冬季に居座るシベリア大寒気団の真下に位置する-など、悪要件が重なったせいなのだ。

 ● 注記2 ジブチはなぜこんなに暑い

 こちらも簡潔に言えば、もともと赤道に近いこともあるが、インド洋からの大気による三角地帯のフェーン現象のせいであり、もうひとつ、海面より低い盆地状三角地帯のプレートテクトニクス的な原因、つまり火山活動が地下で盛んなせいなのだ。熱水が地下から湧き出ているためそもそも地面が熱水で熱せられているという、点火したコンロ上のフライパン現象がジブチにはある。

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魚はなぜ横向きに描くか 常識を疑おう

(2014.09.05)  シニアとなったブログ子も、夏なのだから、やはり日常を離れて夏休みをとりたいと、とあるサマースクールに先日、参加した。

 Imgp5132 行き先は、琵琶湖北西岸の安曇川近くの小さな川。そこでの生き物探しなのだが、親子連れ、学生たちにまじって、高齢者仲間3人が魚取り用の網やバケツを担いでの1泊旅行となった。夜は野外でワイワイとバーベキューを楽しもうというごくごく安上がりなサマースクールだった。

 ● サマースクール2014安曇川に参加して

 こういう場合、たいていは日常生活からは思いつかない「ハッとする話」や体験をするものだが、また、それを期待して参加したのだが、やはりそんなことに出合った。

 川で魚を取るということで、このスクールでは、川や魚の見分け方に詳しい専門家が同行していた。その人が、

 魚はたいてい真横向きに描くが、人間の場合のように、目や顔を真正面から見る観察も大事

という趣旨の解説を、川遊び体験後の夜の学習会で披露してくれた( トップ写真 。写真右 = 展示ケースの中の魚は捕ったばかりのカワギス )。

 Imgp5124 つまり、常識を疑おう

というのだ。そういえば、たとえば左下の写真の図鑑でも、表紙ばかりか、本文の魚もほとんどが真横からだけしか描かれていない。美しい縞模様がよくわかるからだろう。また専門的な魚類図鑑もたいていそうなっている。

 しかし、魚がどの仲間に入るのか、その種類を見分けるには、体の縞模様がよくわかる横からだけではなく、真正面から、さらには下から観察する。このことが、確かな識別には非常に重要であることは、科学的、合理的であるばかりか、ある意味当然だといえよう。

 なぜなら、そこから、魚は人間とよく似た体形をしていることがわかるからだ。

 ● 今森光彦さんの昆虫写真展

 Imgp52412013 こんなエキサイティングな話を、子供たちや夜のくつろいだ雰囲気の中で聞いていたら、ふと、5年前の夏(2009年)、静岡市にある静岡アートギャラリーで開かれた

 写真家、今森光彦「昆虫4億年の旅」写真展

というのを思い出した。

 昆虫の目や顔をほぼ真正面から撮り、しかも、人間の顔の大きさにまで引き伸ばして展示していた。昆虫の表情のなんと豊かで、ユーモラスなのだろうという印象が今も記憶に鮮明に残っている。

 昆虫というのは、何億年もの遠い昔、人間の先祖と分かれたので、人間とはほとんど無縁の、いわば虫けらの存在だと思っていた。が、ブログ子は、この写真展を見てから、虫けらと思っていた昆虫も人間とあまり変わらないと確信するようになった。

 今回の夜の学習会では、昆虫だけでなく、さらに魚たちの仲間でも、より一層、真正面からみることが重要であることを理解した。人間と魚とは、顔、手足の付き方、さらには体形は基本的に同じなのだということがよくわかった。

 ● 生きた魚の見方が変わった

 Imgp5211_2 こうなると、翌日のサマースクールで訪れた琵琶湖博物館の生きて泳いでいる魚類の観察もこれまでとは、まったく異なる視点で観察するようになった

 つまり、魚を下からも見るようになったのだ(写真右= 琵琶湖博物館水族展示のギギ)。また真正面からも見るようになった。

 そして、さらに偶然、先日拝見した今森光彦さんのかかわったプレミアムBSのミニ番組

 命の小宇宙、田んぼ

の見方もずいぶん変わった。この番組は、サマースクールと似たような琵琶湖に流れ込む川の上流の田んぼ(棚田)でのナマズなどの魚や水生昆虫の生態を美しい映像でとらえたものである。

 どういうように変わったか。

 それは、昆虫というものを横からだけではなく、人間の顔を見るのと同様、真正面から観察するようになった。

 そのことを示す参考として、以下のようにテレビ画面を眺めたということをここに書いておきたい。

 画面いっぱいに映し出されたこれらのゲンゴロウもタガメも、サマースクールの川遊びでブログ子自身が網やザルですくい取ったものと同じ種類のものだった。それを真正面から眺めるようになったのだ。

 このように、生き物の生態観察の視点、仕方が具体的にわかった旅行だったと思う。

 ● 追記 「陸の水」サマースクール報告 2014年11月14日記

 このスクールの実施内容報告については、日本陸水学会東海支部会ニュースレター「陸の水」No66(2014年11月14日発行)に詳しい。(閲覧希望者は、最後にあるブログコメント用の通信メールにてご連絡ください)。

 ● 追記2  古代湖、びわ湖

 湖としては途方も長い歴史を持つびわ湖の成り立ちについては、琵琶湖博物館の専門学芸員による次のような解説があります。

 http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/203233.html  

 これを読むと、もともとは琵琶湖は三重県伊賀市あたりにあったらしい。400万年かけて北上してきたという。そのエネルギーは何か。この「視点・論点」はとても参考になる。 

 (以下は、いずれも2014年9月5日放送のBSプレミアムミニ番組「命の小宇宙 田んぼ」のテレビ画面から)

 Imgp5245

Imgp5246_2  

 

 

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芭蕉の義仲寺を訪れて

Imgp5174ok (2014.09.04)  ちょっとした機縁で知り合った仲間たちと、念願の

 義仲寺(ぎちゅうじ、大津市馬場1丁目)

を訪れた( 写真 )。琵琶湖畔が目の前の国指定の史跡で、しかも写真の山門の真ん前が旧東海道になっている。

 寺内奥には松尾芭蕉の墓所( 写真左下 )がある。かの有名な辞世の句、

 旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻る

という文字が、墓の隣りの大きな句碑にくっきりと刻まれていた( 写真下 )。句碑の大きさは、人の背丈をかなりこえた大きなものだった。

 中学校の教科書に出ていた芭蕉の俳句に出合って50年、ようやくその墓参りができたことがうれしかった。

 Imgp5160 義仲寺でいただいた由緒書によると、元禄7(1694)年10月、芭蕉が大阪でなくなる直前、この句とともに、

 「骸(から)は木曽塚に送るべし」

との遺言を残したことで、ここに葬られた。

 木曽塚というのは、平安末期の

 木曽義仲(源義仲)の墓所

のこと。義仲は平家討伐の挙兵を行ない、朝日将軍となった人物である。

 その墓がもともとからこの寺にあったのを、芭蕉はしきりに句会などでこの寺を利用していたことから知っていたのであろう。

 ブログ子は、義仲がこの寺あたりで敗死したことは、吉川英治の『新平家物語』を読んで知っていた。が、芭蕉と隣り合わせに葬られていたとは知らなかった。

 さらに、この小説にも出てくるが、側室だった巴御前の塚も、なんと、義仲の墓の隣りに寄り添うようにおかれてあったのにはびっくりした。寺の入り口には、巴地蔵堂まで設けられていた。

Imgp5162_1  巴塚の少し後ろには、芭蕉の

 古池や蛙飛こむ水の音

というのもあった。

 現在のこの寺では、芭蕉が句会をしばしば開いていた場所は無名庵と名づけられた。句会や詩吟の集いの場になっており、付近の市民に開放しているらしい。また、史料館まで具わっていたのには感心した。

 1時間足らずの墓参りだったが、古池やの句の横には

 木曽殿と背中合せの寒さかな( 又幻(ゆうげん) ) 

という句もあり、訪れてよかったとの思いを一層強めさせてくれた。

 以下の写真は、上= 巴御前塚、下=義仲の墓(左端に巴塚の一部が写っている)。義仲忌は毎年1月の第3日曜日に営まれる。いずれも義仲寺で撮影( 写真のダブルクリックで拡大できる )

Imgp5157_2 

Imgp5158

 ● 芭蕉翁の座像に扇子を供える「奉扇会」

 寺内の翁堂(写真下)では、毎年5月の第二土曜日に奉扇会が執り行われる。

 Imgp5169

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科学・技術を見直す「ダークツーリズム」

(2014.07.12)  「光」を観ると書いて、観光と書く。この伝で言えば、

 「影」を観る

というのは、どういうのだろう。そんなことを、一度もブログ子は考えたことはなかった。

 ● 「影」を観にいく

 先日、富士ゼロックスの季刊誌

 「グラフィケーション」(2014年7月号)

というのを、見ていたら、観光学者の井出明さんがインタビュー記事で

 戦争、災害、事故など近代の悲しみの跡を訪ね、受け継ぐ旅

が、ダークツーリズムであると語っていた。近代の科学・技術を見つめ直す旅でもあるわけだ。

 そういえば、ブログ子も、この春、旅行会社企画の福島県富岡町のJR富岡駅など津波や原発事故による放射能の傷跡を見て回るツアーに参加した。

 これなども

 原発事故ダークツアー

なのだろう。ただ、ブログ子は企画に参加して、地域の負の歴史を目の前にして、あるいは体感して、どんな意味があるのだろうと、帰りのバスの中で考えあぐねた。なかなか納得いく答えが出せなかった。

 ● わが事として何度でも

 しかし、このインタビューを読んで、

 近代の科学・技術を見つめ直す旅である

ことに気づいた。単に悲惨な状況を覗き見する、人の不幸を見に行くというのとは、ダークツアーは違う。実感を持って、人の悲しみを自分のこととして受け継ぐ行為なのだ。

 だから、他人のうらやましい環境や状況について物見に行く観光のように1回行けばいいというものではない。自分のこととして受け入れるのだから、何度でも同じところに出かけ、考えるということが大事であるということがわかった。

 ここに観光とダークツアーの違いがある。  

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秋野不矩美術館を訪ねて

Imgp4432 (2014.07.10)  10年ぶりぐらいに、静かな山の中の秋野不矩美術館(浜松市天竜区二俣)に出かけた。日曜日の午後だったが、その静かなアプローチやそこから眺められるたたずまいにホッとした(写真上の2枚)。森に隠れるようにひっそりと建っているのがいい。いかにも女性らしい画家専用の個性的な施設である。

 館内を見て回った感想を一言で言えば、画業後半期の画風は

 やわらかいタッチで、平山郁夫さんのような描き方に似ている

というものだった。こういう言い方は、失礼な言い方かもしれないのだが、正直に言えば、シルクロードの平山郁夫さんに対し、

Imgp4434  インドの秋野不矩さん

というイメージを持った。

 たとえば、「ヴァラーハ」(1992年)。そのほか、「廃墟 II」という作品。1988年のインドへの旅行で目にした砂漠気候のカッチ地方の廃墟が描かれている( 写真右下= 同館が販売している絵葉書から)。

 「沼」(1991年)というタイトルの絵では、増水した泥沼の中で水浴びをする水牛の群れを高いところから見下ろすように描いている。全体的に薄暗い色調なのがいい。

  07_07_2_2 そういえば、チケットのデザイン図版に使われた作品(写真下= オリッサの寺院、部分、1998年)も、どことなく、平山郁夫さんの画風に似ているような気がした。

 力強いというよりも、静かな宗教的なものが伝わってくる。

 秋野不矩さんが文化勲章を受けたのが1999年、亡くなったのは2001年、91歳。

 そんな贅沢な時間を過ごした1、2時間だったと思う。

 07_07_0

  ● 補遺 不矩美術館の景観配慮について 2014年8月14日記

 この美術館のアプローチがとても心地よいものである理由とは何だろうか。そんな思いがあったが、放送大学の「環境デザイン 第14回」(仙田満東京工大教授)の講義を聴いて、ようやく理解できた。

 周りの自然環境のなかで、建物が一体感をかもし出しながら、近づくにつれてその視覚的な様相が少しずつ変化していくというストーリー

になっているからなのだ。短く言えば、心理学的な環境デザインという基本手法を取り入れている。

 もう少し、立ち入った言い方をすれば、この美術館は、緑多い天竜という自然環境に敬意を払ってつくられている。建物が自ら主張しない謙虚さをもっている。

 だから、訪れる人々にある種の心地よさを与えているというわけ。

 これとは対照的に、ブログ子が金沢市で働いていたときに出入りしていた建物は、周りの歴史的な建物を真上から睥睨するようなつくりになっていた。秋野不矩という画家の人柄がしのべるようで、ブログ子はつくづく感心した。

 こうなると、

 建築は人なり

ということになりそうだ。

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4年目の「沈黙の春」 福島浜通りをゆく

Imgp3757_12ok_2 (2014.04.22)  事故をおこした福島第一原発の地元、双葉町出身の若者(はままつ・東北交流館、右下写真)が企画した原発震災被災地ツアーに先日、浜松市から参加した。

 福島県いわき市から、いわゆる「浜通り」といわれる国道6号線など海岸沿いの道をバスで北上、双葉町近く、第一原発が遠望できるところまで現地を見て回った。

 通行許可証明書や参加者の身分証明書の提示が求められる検問所を何箇所か通り抜けての念願の取材旅行となった。

 ● 結論的な感想

 1泊2日の取材だったが、ブログ子の結論的な感想を先に要約すれば、次のようになるだろう。

 4年目を迎えてもなお、放射能の線量が高く原則人の立入りが禁止されている「帰宅困難区域」や居住制限区域という沈黙の廃墟を見て、

 津波は去ったが、人間は原発とはとうてい共存などできない

のだということを痛感させられた。ここが阪神大震災との大きな違いだった。

 Imgp3604_16_2 とくに、このことを、居住制限区域の真ん中にあるJR常磐線「とみおか」駅前の海沿いの廃墟を拝見して、思い知らされた。

 東北の春の海は取材中、鏡のように静かな海面だった。だがしかし、明るい太陽のもとで感じたのは、静かな海の奥に人間にはあらがいがたい脅威がいつも隠されているという現実だった。

  地球温暖化という避けられない問題があるとしても、 日本のこれからのエネルギー問題の「解」は原子力ではあり得ない

 Imgp3593_1_2 これがブログ子の結論である。

 以下は、この結論に納得してもらうための現地ルポである。

 ● 楢葉町 荒地に除汚土、一時保管   

 いわき市から、事故をおこした原発から20キロ圏外の広野町に入ると、すでに帰還が始まり、国道沿いにある瀟洒なガラス張りの広野町役場も業務を再開していた。なのに、まことに住民の姿はまばら。ポツンと立っていたガソリンスタンドで、原発関連作業車が給油している姿を見たぐらいである。  

 いわき市に避難し、仮設住宅で暮らしていた人たちも、3年という年月の間に、半数以上がふるさと広野町に帰る気力を失っているという。

 北上して、20キロ圏内の楢葉町(避難指示解除準備区域)に入ると、殺風景な場所にコンビ二があるにはある。コンビ二の若い店員もいわき市から通勤しているらしい。利用しているのは

 第一原発作業関連専用バス

と書かれたバスの乗客がほとんど。一見、普通の路線バスのようにみえるが、そうではない。いわき市や広野町の道路沿いの簡易モーテル宿舎から作業要員を福島第二原発まで運ぶ(通勤)バスである。第二原発で防護服や線量計を身につけ、事故のあった第二原発に向かうという。

 いまだ除染中の楢葉町のバス内線量はおおむね0.1μSv/時

と比較的に線量は低い。年間許容量1mSv/年に対して、約半分くらいである。

 だが、楢葉町には、今問題になっている

 除染した放射能汚染土をつめた袋が大量に、荒地化してしまった田畑の真ん中に一時保管されている。それがツアー車窓の両側に延々と続いている(左上写真 )。

 福島県内の各地にあるこうした一時保管の仮置き場の汚染土をきちんと保管するための正式な国の

 中間貯蔵施設

については、中間保管した土などは30年以内に県外で最終処分するというのが国(環境省)の方針。2015年1月から施設に搬入開始を目指している。このため、環境省はこの3月に大熊町や双葉町両町に対し、建設の具体的な提案を示している。

  ● 今も廃墟のJR常磐線「とみおか」駅前

 常磐道を左に見ながら、さらに北上を続けると、楢葉町と富岡町の境界あたりにある福島第二原発前を通過する。富岡町はほとんどが居住制限区域であり、人は住めない。

 第二原発には排気塔はもともと3基あったのが、なぜか現地視察時には1塔しかなかった。

 Imgp3624_1jr 廃墟となったJR常磐線とみおか駅前の惨状にはおどろいた。ここは海の見える繁華街の中心。訪れたときの線量は

 0.5-0.6 μSv/時 ( 屋外 )

と、やはり高い。

 その一連の様子を写真で示すと以下の通り。

 一階がなく、ベランダの付いた二階だけが流されてきた家屋があった(写真下)。くしゃくしゃにつぶれた多数の車が折り重なったり山積みになったりもしていた。

  Imgp3637    

Imgp3644_1

Imgp3650_10386  

Imgp3654_3  

  震災で大きな津波被害にあいながらも、原発被害のなかった岩手県の三陸鉄道が震災から3年たったこの4月(2014年)、全線復旧開通を果たしたのとは、あまりにも対照的であった。

  そして、そこからさらに北上すると、いよいよ富岡町北部と第一原発のある大熊町。いずれも帰宅困難区域、入るには通行許可証(被災地元住民)と同行者の身分証明書の提示が求められる検問所(右下写真。その下はバス内での身分証明書照合の様子)

 この入り口付近では

 1.7-1.9μSv/時

と相当高い。年間にすると8mSv/年と常駐許容線量(約1mSv/年)の8倍。

 双葉町出身の件の案内者によると、

  これまでの最高は30μSv/時(第一原発に通じる入り口付近)

だったという。ツアー時の第一原発に通じる入り口付近では

 8μSv/時 (年間換算で約30mSv/年)

   環境省の基準では、20mSv/年以上は「帰還困難区域」であるから、大熊町や双葉町が今も帰還困難区域であるというのはうなづける。 

 ● 浪江町から第一原発を遠望

 今回のツアーでは、案内者の出身地で第一原発のある双葉町、たとえば、JR常磐線ふたば駅前の様子は検問所の関係で見学できなかった(左下の車は、第一原発の方向に向かう警備会社の車)。

 Imgp3698 そこで、いくつかの検問所を通り抜けて北から南の第一原発を遠望した。浪江町には荒れた田畑に10数頭の牛が放し飼いにされていた。

 遠くに太平洋が見える荒れた田畑の中には津波で運ばれてきた漁船があちこちに捨て置かれていた。がれきも大量に放置されていたが、ほとんどは漁具類であった。

 浪江町と双葉町の境界あたりからは事故をおこした福島第一原発の排気塔やクレーンなどの一部が遠望できた。

 風向きの関係か、持ち込んだ線量計では

 線量は0.1μSv/時

 近くに設置されていた線量モニタリングポストでも、同程度だった。

 双葉町側では津波の痕跡もなまなましく、3メートルくらいの高さまで到達いていたことが家屋の窓ガラスの横泥スジで確認できた。

 バスを降りて、双葉町出身の案内で双葉町について説明を聞いたが、まずは原発震災のこの現状を全国の人々に知ってもらうことが東北出身者のつとめであると強調していたのが印象に残った。

 感傷的な言い方かもしれないが、4年目になっても鳥の声ひとつ聞かなかった「沈黙の春」の浜通りを取材して、原発に未来を信じた自分の愚かさをしみじみと感じたことを正直に書いておきたい。

  ● 4月19日付福島民報から

 Imgp3655_1_2 ツアー中の4月19日付きの福島民報によると、

 政府が18日に発表した福島県内の

 年間被曝推計(帰還した場合)

では、林業が最も高く2.3mSv/年、次いで農業の1.9-1.2mSv/年。

 平均ではなく、生活パターンによってそれらも変わりえる。

 Imgp3674_1_2 この民報は、

 福島第一原発、凍土壁認可 結論持ち越し

   規制委 着工時期、混迷深まる

として、規制委が技術的手法に新たな指摘をしていることを伝えている。

 ● 福島民報「論説」から

 この日の民報「論説」は

 本県への誤解偏見

と題し、一部雑誌に掲載された「福島に蔓延する「タカリ体質」」という記事に対し、

 反論含めた情報発信を

と訴えている。執筆した論説委員は「タカリ体質」を示す具体的な資料は少なく、取材相手の「感想」あるいは推測にもとづいていると記事を批判している。内容の正否よりも見出しが「独り歩き」しがちだと懸念している。

 これを読んでジャーナリストとして強く感じたことは、

  やはり現場を踏むことの重要性

である。遠く離れた東京にいては原発震災のおそろしさや現状はわからない。

 現地に立って考え、ものをいう

 これこそが基本だということを改めて教えられた。

  このツアーについては、2014年5月14日付中日新聞に記事が出ている(写真をダブルクリックすると拡大)

 05_18_0_120140514

 また、以下に、第一原発が南に遠望できる浪江町と双葉町の境界付近(浪江町請戸地区)の被災の現況をいくつか紹介する(最下段写真は浪江町からみた福島第一原発遠望)。 

Imgp3710

Imgp3684_1jpg   

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不運の名将か、幸運の凡将か 西本監督考

(2013.07.01)  野球体育博物館を改称し、新装なった野球殿堂博物館に出かけた。東京ドームの中にある博物館で公益財団法人(理事長は今、話題の「あの」加藤良三氏)。

 ● 安倍首相の直筆銘入り「金のバット」

 土曜日の午後なのに入館者はそれほど多くはなかったが、長嶋茂雄氏が、松井秀喜氏とともに国民栄誉賞をもらったというニュースもあり、そこそこにぎわっていた。

 Dsc0186420130629 安倍普三首相から長嶋氏に贈られた記念品、

 金のバット(写真)

が飾られていた。

 安倍首相の直筆で「長嶋茂雄」の銘がバットに刻まれていた。純銀製で、表面を金メッキしたものらしい。金メダルのつもりだろう。

 こうなると、このダブル栄誉賞もなにやら政治的な、もっと言えば、間近かに迫っている参院選目当ての人気取りのにおいもする。 それに付き合わされた長嶋さんはともかく、松井さんは、いい気持ちではなかったかもしれない。

 ● 殿堂入り180人の博物館

 名称変更しただけあって、名球会などから殿堂入りした元選手や元監督など180人のりっぱなレリーフがずらりと飾られたホールはなるほど圧巻だった。

 そのなかで、野球にそれほど詳しくないブログ子の目に留まったのは、400勝の金田正一氏とならんで、1988年に殿堂入りした西本幸雄氏。レリーフには

 監督歴20年、8度のパ・リーグ優勝

という文字があった。監督として8回もリーグ優勝を果たしたというのは、確かにすごいことであることはわかる。

 だが、一度も日本シリーズを制覇し、日本一に輝いたことはない。

 人は、これを称して

 不運の名将

というらしい。

 どのくらい不運なのだろうか。レリーフの前で考えた。

 ● 過去引きずった日本シリーズ8連敗

 日本シリーズに出てくるくらいだから、双方の力は五分五分だろう。とすると、2分の1の確率で、8回も続けて負け続けるというのは、

 256分の1= 0.4%

に過ぎない。社会現象の統計学的考察では、どのくらい確からしいかを示す有意水準は一般に95%に設定することになっている。

 つまり、5%より小さい確率は無視してよい、起こらない

ということになる。

 すると、西本監督の日本シリーズ8連敗= 0.4%というのは、一回、一回、前回の目がなんであったかには無関係なサイコロを振るような意味の偶然では決してあり得ないことになる。それほど異常に小さい数字である( 注記 )。

 その原因は何なのだろう。

 それは、前提とした、つまり、1回、1回の日本シリーズは独立しているという仮定が間違っているのだ(と思う)。独立していないというのは、たとえば試合の土壇場で

 またこれまで同様、負けるのではないか、という心理が選手にも西本監督にも去来した結果

ではないかということを意味する。肝心のところで過去におびえるトラウマである。

   不運にしろ、幸運にしろ、いずれにしても、8連続日本一を逃すというのは偶然ではあり得ない。江夏の21球の場合のような行き詰るような試合では、似た過去のいやな、すなわち負けた記憶が監督にも、選手にもよみがえり、土壇場で自滅する。

 そんな影響が出た。

 ● 自らは「幸運の凡将」

 西本監督自身は、名将と言われることについて、あえて言えばと、ことわりながらも、

 幸運の凡将

と述べている。リーグ優勝の原動力となった有能な選手を多くかかえながら、監督として申し訳ないとの意味が込められているのだろう。

 これは自嘲や謙遜とばかりはいえない。

 西本監督は、パリーグ一筋20年の監督だった。このことが余計に過去を引きずる原因になったのではないかと推測する。すくなくとも、それと8連敗とは無縁ではないのではないか。

 このように、原因を探っていくと、トラウマにとらわれたという意味では、大変に失礼な話だが、自ら言うように

 西本監督は凡将

なのかも知れない。過去を振り払い、その場の勝負に徹し切れなかった。

 素人考えだが、どうも、そんな気がする。

 そう考えると、殿堂入りしたほどの名指揮官にもそんな心のゆらぎがあったのかと、かえって

 人間・西本監督

に惹かれた。人間は、サイコロではない。そのことを自らの野球人生でファンに示したように思う。

  ● 注記 シリーズの負け確率は平均70%前後か

 それでは、五分五分ではないとしたら、日本シリーズに立ち向かう西本監督はどれくらいの負け確率なのだろう。

 仮に、50%の負け確率が、トラウマのせいで、各シリーズ平均して75%の負け戦だとする。

 この確率で日本シリーズ8連敗となる確率は、0.75の8乗で、

 約10%

となる。これは社会的な有意水準5%より高い。したがって、十分に社会で起こりうると考えてよい。負け確率が70%だと、それが5.8%となり、ぎりぎり有意水準をこえていて、95%の確かさで起こりえると考えてよい。

 私たちが見たのはこんな状態の西本日本シリーズ人生だったのだろう( 負け確率がもう少し低く平均0.60だとすると、8連敗の確率は1.7%と有意水準を下回ってしまい、そんなに低い負け確率ではないことになる )。

 これとは対照的なのが、川上哲治巨人監督。1965年に野球殿堂入りを果たし、1970年代には日本シリーズ9連覇を果たしている。

 こちらは、実力もさることながら、いわゆる「勝ちぐせ」がついていたのであろう。打撃の神様、川上巨人にファンが飽き飽きしたのも無理はない。ドラマのない予定調和では、スポーツはおもしろくない。

 そんなことも知った殿堂見学だった。

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真剣勝負の「愛ふたたび」 金沢で考えたこと

Dsc0093320130119_2 (2013.01.22)  定年後の現在、ブログ子は、浜松に生活しているのだが、先日、ふと、懐かしさもあって20年間暮らした雪の金沢を訪れた( 写真 = 兼六園・唐崎の松 )。今も付き合いのある男友達、女友達との語らいを楽しんだ。

 雪明りの夜は、かつての仕事仲間と、行きつけの赤提灯やおでん屋で、ワイワイと話が弾んだ。

 「老いても、やっぱり恋だよねえ」

という話に落ち着いた。

 そんななか、昨年夏から全国の10以上の地方紙、あるいは夕刊紙「日刊ゲンダイ」で次々に始まった渡辺淳一さんの

 「愛ふたたび」

が話題になった。話題というのは、あろうことか、あまりに過激なので、作者にことわりもなく、新聞社のほうで連載中止、あるいは中断、あるいは、渡辺さんにことわりもなく「終わり」としてしまった社がいくつかあったらしい。

 『老人力』の著作でも知られる渡辺さんだから聞き流すかと思いきや、これには渡辺さんも怒った。連載依頼に対して過激ですよ、いいですねと、渡辺さんは念を押した。これに対し、結構です、思い切って書いてくださいと新聞社のほうでも、配信元を通じて了解したらしい(「週刊新潮」2013年1月24日号の渡辺氏の連載エッセー「あとの祭り」= 中断された新聞小説。注記)。

  それなのに、中断とはなんだと渡辺さんの怒りはおさまらない。

 無理もない。

 渡辺淳一、愛ふたたび。

 こうくれば、たいてい、そのストーリーは想像できる。読んでいないブログ子なども、このタイトルだと、例によって例の如く、不倫だろうと、思った。せいぜい、老いらくの恋。いつものことで、不倫先は京都への旅か、寒い札幌と相場が決まっている。

 しかし、今回は様子が違った。結論を先に言えば

 渡辺さん、人生最後、真剣勝負の新聞連載「愛ふたたび」

とブログ子は直感した。それを、いわば、知らぬまに中断させられた。

 真剣勝負だったことは、79歳になる渡辺さんが連載に当たって、昨年7月の「日刊ゲンダイ」に載せた「作者の言葉」からも、うかがえる。

 大事な点だから、短いので、全文を引用する。

 「私はこの連載で、日本人の固定観念を根底から覆したい。実に殺伐として詰まらない社会に一石を投じ、老いというものを前向きに捉え、多彩で豊かな人間関係を築くための、起爆剤にしてほしいと思っている。これまでにない、人生と性の深遠に鋭く迫る作品を目指します」

と、日本初のインポテンツ(性交不能、勃起不全)問題を真正面から取り上げる「愛ふたたび」の執筆動機を披瀝している。渡辺さん自身がどうやらインポテンツに悩んでいるらしいので、小説に迫真性があるのも当然だろう。

 Image619 そこで、ホテルに帰って、その日の、地元紙、北國新聞夕刊で「愛ふたたび」(第12部 京への旅(4) = 写真)を読んでみた。雅号「気楽堂」と名乗る70代前半の整形外科医(渡辺さんの分身らしい)が弁護士の愛人と京都の法金剛院を訪れる場面であり、どうということはない。純文学だ。

 数日前のストーリーでは、同級生同士の会で、話しづらいインポテンツについて、正直に話し合い、さまざまな気持ちを分かち合い、主人公は心地よい気持ちになるというもの。

 これなら、ブログ子も共感できる。まじめな、言ってみれば、小説だ。おそらく、インポテンツを乗越えた先に、

 本当の愛とは何かが見えてくる

ということを、自分の体験からにじみ出るような筆致で描き、渾身のライフワークとして完成させたい。そんな意欲が感じられる。性交を離れて、愛は成立するかという深遠な問いかけでもあろう。

 いかにも、

 老いても恋を

というのを終生の持論としている渡辺さんらしい。

 渡辺さんは、これまで、

 40代主人公の『失楽園』

 50代主人公の『愛の流刑地』

 60代主人公の『エアロール それがどうしたの』

と、自分の体験も織り交ぜ、自分の実年齢に重ねて、書いてきた。それの完結編が、今回の

 70代主人公の『愛ふたたび』

ではないか。おそらく、気力という点でも、最後の新聞連載だろう。テーマも医師だった渡辺さんらしいものであり、ほかの作家ではとうていリアルには描けまい。それだけに、渡辺文学の「愛」の集大成にしようと、力が入っていたと思う。ほかに類をみない恋愛小説の到達点を目指した社会派的な小説とも言えるような気がする。

 こう考えると、新聞連載を中止した地方紙のほうが悪い。渡辺さんに対する偏見あるいは誤解というよりも、渡辺文学の理解を間違えている。

 先の「作者の言葉」を待つまでもなく、渡辺さんは、79歳の体に鞭打って渾身の力で執筆していたのだと思う。

 「週刊新潮」連載エッセー「あとの祭り」で、渡辺さんは、かつて、読者に自分史を書くことをすすめていた。その渡辺さん自身、自分史を書いているかと問われて

 「書いていない。すべて小説として書いている」

と告白している。今回の〝事件〟で、これが 事実だと知った。 

 作家とは、なんと恐ろしい、因果な商売なのだと思った。

 注記 2013年1月27日

 「週刊新潮」1013年1月31日号の「あとの祭り 小説を検閲するとは)によると、

 連載が中止となっているのは、

 十勝毎日新聞、福井新聞、岐阜新聞、山陽新聞、山陰中央新報、日本海新聞、大阪日日新聞、山口新聞、徳島新聞、愛媛新聞、四国新聞、長崎新聞、大分合同新聞、宮崎日日新聞、琉球新報、デーリー東北

の16紙(これらは、なんと、2012年12月9日に、いっせいに、作者にことわりもなく掲載を中止したという)。これに対し、掲載を続けているのは

 日刊ゲンダイ、北國新聞、富山新聞

の3紙。見識だろう。検閲ではないかと、怒る渡辺氏は、しかるべきところに提訴も考えているらしい。提訴先として、裁判ではなく、「もし提訴するなら、日本ペンクラブがいいか、とも考えている」と「あとの祭り」連載のこの号で書いている。

 あとの祭りで終わらせたくないという決意のあらわれであろう。当然である。

 提訴となれば、

 平成の「わいせつ」裁判

という話題性があろう。

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ローエル再発見の旅  没後100年を前に

Dsc00208_2  (2012.09.28)  ちょっとした縁で、10年前に設立した日本ローエル協会( 小尾信弥会長=東大名誉教授 )の研究集会に先日、1泊合宿で参加した。

 P.ローエルというのは、100年以上前、あの火星人説をとなえたアメリカの天文学者。1889(明治22)年5月には東京から中部日本を横断し、能登半島の突端近くの穴水町まで旅行した。

 だから、今回のワークショップ( WS )も、穴水町で開かれた。

 今、なぜローエルかという、研究対象の現代性と、もう一つ、なぜローエルは能登半島にやってきたのかという、探検といってもいい旅行の目的、そして、なぜ、旅行後、火星人説を唱えるようになったのか、その合理的な理由、最後に、文系、理系に秀でた大富豪のローエルとは、結局、何者だったのかという人物評価にブログ子はこれまで興味を持ってきた。

  結論を先に言えば、今回のWSは、ようやくブログ子なりに、その人物評価ができそうなローエル再発見の旅だった。

 ローエルは、天文学者というよりも、当時としては珍しい国際ジャーナリストだった

というのがブログ子の仮説である。WSでは、このことを裏付けるような発表がいくつかなされたように感じた。

 一つは、ハッとさせられた金沢市在住の会員の発表。旅行中に撮られた大量の写真に関する分析であるが、何を被写体にしているかという観点から、人物に焦点を当ててはいるものの、ローエルは人物の後ろや脇に、山や道標、目印の石、目印の家など背景をたくみに写しこんでいる。

 このことは、人物だけでなく、その人物と背景との関係を見るものに知らせようとローエルが考えていた証拠である。

 まさに、報道写真、つまり「ニュース写真」の撮り方

なのだ。写真が何の目的で、どこで、いつ撮られたか、あとでわかるように工夫している。単なる文化人類学的な手法ではない。ましてや人物だけを写す記念写真や珍しいもの、あるいは見栄えのいいものを撮る観光写真のやり方ではない。人物を写すにしても風景を重視した撮り方なのだ。これはローエルがジャーナリスト的な目で旅行していることを示唆している。

 第二は、現代日本文明論を大学で講義している東京都在住のゲスト研究者の発表だった。

 Image1004_2 『極東の魂』( 1888年 )、『オカルト ジャパン』( 1894年。注記 )など、ローエルの日本人論は多くの外国人に影響を与えたが、その一人に、ラフカディオ・ハーンがいることはよく知られている。来日前のアメリカでは「タイムス・デモクラット」紙の新聞記者であり、来日後には神戸市で発行していた「クロニクル」紙の記者を引き受けている。小泉八雲として日本に帰化までしている。

 ローエルがジャーナリストの目を持っていたからこそ、同じ新聞記者だったハーンもローエルに引き寄せられるように来日したのであろう。

 ブログ子の先の仮説が妥当であるとすれば、ハーン以外にも、国際的に活躍する新聞記者が当時まだまだいたはずだと思う。

 その一人が、ゲスト研究者が取り上げた

 グアテマラ生まれで、パリでコラムニストとして活躍していたE.G.カリージョ

だと知って、驚いた。やっぱりいたのだ。

 同氏によると、カリージョの文学論、社会論、紀行などはスペイン語圏の人々をとりこにしたという(2003年7月1日付読売新聞夕刊「海外の文化」)。

 同氏は今回の研究会で、

 「カリージョを『ラテンアメリカのハーン』と形容しても、さほど唐突ではなかろう」

と発言している。元グアテマラ大使だった同氏であるだけに、重みのある指摘であると思う。

 第三は、ベテラン会員によるローエル死去に伴う追悼演説の翻訳紹介。この追悼は、C.M.マコーレーによって書かれたものであるが、ローエルは一つの枠にとらわれないで国際的な活躍をしたことが如実にわかる演説である。 

 それでは最後に、そんなローエルはなぜ、日本横断を企画し、実行し、その結果を『NOTO 人に知られぬ日本の辺境』(1891年)にまとめたのだろう。能登行きはこの2年前の1889年5月。

 この著作の冒頭では「ふとした思いつきで能登に出かけることにした」と書いてはいる。その思いつきは、どこから得たのであろうか。この著作の翻訳に心血を注いだ協会の名誉会長は、かつてブログ子に「ある意味、それは謎」と話してくれた。

 それは、まだ推測だが、米ジャーナリストで、アマチュア探検家、H.スタンリーの世界的なベストセラー『暗黒大陸横断記』(1878年)に刺激を受けたのではないか。横断記には、イギリスの探検家でアフリカで行方不明になったリビングストン救出の様子が詳しく書かれている。

 もう一つ、コンゴなど、当時よくわからなかった中央アフリカの内陸部の様子をいきいきとつづった、これもスタンリーの『暗黒のアフリカ』(1980年)にも、この本の発行前からのさまざまなジャーナリスティクな情報などにより、ローエルに能登行きを決意させたのではないか。

 というのも、ローエルもスタンリーも、野望をいだくと、行動は大胆であり、学会と対立することもいとわないなど、性格が似ている。ローエルも負けていられなかった。

 ローエルはスタンリーの行動を聞くにつけ、自分も能登までの日本横断記を書いてみたいと競うように思ったとブログ子は想像している。これが能登旅行を「ふと思いついた」理由である。

 Dsc00237_2 だが、ローエルの場合、ユニークな日本人論にはたどり着いたものの、スタンリーのようなジャーナリスティクな、あるいは欧米人を驚嘆させるような劇的な発見はなかった。

 この点、当時はまだダーウィンの死後まもないころで、ダーウィンの進化論との関係で、アフリカに欧米人の関心が高まっていたのとは、大きな違いがあった。

 すでに外交官たちが良港探しでローエルよりも先に能登に訪れていることを旅行先で知ったのも、ローエルを大いに落胆させたであろう。

 しかし、穴水湾を小さな船で航行するうちに、当時ヨーロッパで論争になっていた「火星表面の線状模様」は火星人による〝運河〟ではないかという着想に、進化論との関係から、たどり着いた。能登と火星の接点がここに生まれる( ローエルが船から穴水に上陸した地点=写真下、穴水町川島 )。

 ローエルがなぜ能登旅行後、あんなに火星にのめりこんでいったのか、その謎がこれで解けそうだ( ローエルは1895年に『火星』を出版している。同じ年には、なんと改訂版『NOTO』も出版している )。ローエルをして地球文明論にまで踏み込ませたのが、穴水旅行だったと思う。このことは、先のマコーレーの追悼文の中にあるローエルの進化論的な考え方とよく符合する。

 以上は、まだ仮説だが、一応のつじつまは合うと思う。

 こうした解釈や仮説から、ローエルの現代性に対する見通し、たとえば学際研究の重要性なども、概略見えてきた。火星人説も、それまでとは違って科学的に検証可能な仮説にした点で、学際研究から生まれたものだったように思う。

 4年後の2016年は、ローエル没後100年。それを前に、久しぶりに知的な刺激を受けた。ローエル再発見の予感を感じさせた1泊2日の旅だったように思う。

  注記

 このWSでは、会員によってこのローエルの著作が日本で初めて日本語に翻訳され、近々、出版の運びになったとの報告があった。ローエル以後の日本人論に、いいにつけ悪いにつけ、大きな影響を与えた著作であり、特筆に価する。日本人あるいは日本文明論を論ずるときの基本文献の役割を果たすよう、期待したい。  

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下心の「恋」から、心が真ん中の「愛」へ      「終活」の旅  

(2012.09.28)  定年後は、ゆっくり下る「下山の時代」を楽しむというのがブログ子の信条である。まだまだといいたいところだが、就活ならぬ人生の最後をどう生きるか、どう締めくくるか自ら考える「終活」の歳でもある。

 60歳の還暦をすぎたら、これまでの生き方をガラッと変えて、経済的にはともかく、悠々とした生き方がしてみたい。

 そうはいっても、なかなか悟りとまではいかない。

 そう思っていたら、ふと、同世代かそれよりも少し上の先輩世代の人たちとバス旅行がしたくなって、快晴の先日、ある会( NPO法人「きずなの会」 )の旅行に参加した。岐阜県山県(やまがた)市富永の清流、武儀(むぎ)川のほとりに、ちょっと季節外れではあるが、アユ料理を食べに出かけた。もう少し西に行くと、明治の濃尾大地震( M8.0 )でできた根尾谷断層が地表に現れているという。

 食事をしながら、互いが寄り添って生きている人たちとの語らいは、なんとも穏やかで、家族的な雰囲気があった。

 Image1028 語らいながらの食後、ひとり清流に足を浸し、口をすすいで向こう岸を眺めていると、生きるというのは、こういうことを言うのかもしれないと感じた。

 近くにある

 あじさいの山寺、三光寺( 山号は龍王山 )を訪れ、住職の法話に耳を傾けた。弘法大師の真言宗の寺である。

  日暮しの、というか「終活」の極意とは、

 終わり良ければ、すべて善し

ということらしい。まだ間に合うという意味だろう。ありがたい。また、

 これまでのようなイエス、ノーだけのドライな2進法の暮らしから、

 1から0の間にいろいろな段階のある10進法の暮らし

を大切にすることだとも教えてくれた。なるほどと感心した。そして、最も印象に残ったのが、

 下心の「恋」から、心が真ん中の、いとしい「愛」へ

と説いていたことだった。仏の心とは、そういうことを言うのだろう。つまり、

 下山の時代は、心が真ん中にある暮らしを

といっているのだ。丁寧な暮らし、いとしい暮らしといってもいい。その通りだと確信した。

  もっとはっきり言えば、こころが真ん中にある高齢者福祉には、さまざまな悩みをいやしてくれるなど

 「安心して死んでいける仕組み」

こそが大事なのだということに気づいた。これに比べれば、バリアフリー対策などは、要らないとは言わないが、ごく、ごくささいなことなのだ。

  今回の旅で、アルツハイマー病の発症原因は、脳内に老人班、アミロイドβというたんぱく質が大量に蓄積し、脳神経細胞を破壊することだという話におびえていた自分がバカらしく思えてきたのは不思議だった。そんなことは、人生を生きる場合、なにほどのことだということがわかった。せいぜいが、高血糖値になるような食事習慣を控えようというぐらいのものなのだ。

 70歳代で2度のエベレスト登頂に成功しているプロスキーヤーで冒険家の三浦雄一郎さんは、今、79歳。誰にでもできるわけではないが、来年、80歳になるまでに3度目の登頂を目指してトレーニング中なんだそうだ。80歳になるまでに中国側からのルートでチョモランマ登頂。世界記録になるそうだ。その三浦さんは、老けない、ボケないためのトレーニングの一つとして、

 毎日、歯磨き後に舌出し体操、100回

をすすめている。これにより、脳が活性化するという。これなら、誰でもできる。ブログ子も始めている。

 そんな風で、心がなごみ、参加してよかったと思える「終活」の旅だった。この日の天気のように、ブログ子の心は晴れたように思う。つまり、心を真ん中にした丁寧な暮らしをしていこうと決意した日だった。

 帰りのまちなかでは、自民党新総裁に安倍晋三氏が選出されたことについての反響ニュースがかしましく、また騒がしく流れていた-。

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