文化・芸術

そして傑作の辞書、「言海」が生まれた

Image2276 (2016.01.30)  辞書好きのブログ子だが、先日の

 THE歴史列伝  そして傑作が生まれた

で、明治の海外事情にも詳しいエリート官僚、大槻文彦(おおつき)を取り上げていたのがおもしろかった(BS-TBS)。

 日本で初めて語釈のある現代的な辞書を一人で、11年間かけて完成させた人物で、約4万語を掲載。しかも当初は文部省の命令でスタートしたものの、出来上がった草稿がいつまでたっても公刊される見込みが立たなかったことから、結局は私費(今でいう自費出版)で出版するはめになる。

 ● 私費出版でベストセラー

 私費出版を決意し、出来上がっていた草稿を4巻本として刊行するまでに、手直しや増補、校閲、校正などでさらに3年もかかった。刊行されたのは、明治24(1891)年というから、明治憲法ができた2年後である。

 初版は4分冊で、第二版(明治24年)は合本だった(写真右。定価6円)。巻頭には天皇、皇后両陛下をはじめ、皇太子殿下からも献呈に対する感謝状が掲載されている。このこともあり、当時としてはベストセラーとなったらしい。

 文明開化の時代を反映して、まだまだ珍しかった外来語も積極的に取り入れ、苦心の語釈をつけている。

 たとえば、

 パン (名) 〔葡萄牙語、Pan.〕小麦粉二甘酒ヲ加へ、水二捏ネ合ハセテ、蒸焼キニシタルモノ、饅頭ノ皮ヲ製スルガ如シ、西洋人、常食トス。アンナシマンヂユウ。

  これを現代の辞書、たとえば1995年に初版の出た「大辞泉」と比較してみると、

 〔ポルトガル pao〕 ① 小麦粉・ライ麦粉などを主原料とし、少量の塩を入れて水でこね、酵母で発酵させてから天日などで焼いた食品。② 生活の糧。また、食べ物。「人は-のみにて生きるものにあらず」

などとなっている。大槻の語釈が100年後に書かれた現代のものと比べて遜色がないのには驚かざるを得ない。大槻は、こうした作業を11年間に4万回くりかえしたことになる。Imgp9203_2

「言海」の改訂版「大言海」が倍増の総語数約9万語で完成したのは大槻の死後で、2・26事件の翌年、つまり昭和12(1937)年。というのだから、いかに辞書づくりというのは難事業なのかがわかる。このときは改訂に6年、冨山房(ふざんぼう)が出版元となり、大槻死後では東京帝国大学国語教室が協力したという。こうして戦前の昭和を代表する辞書、「大言海」は誕生した。

 それはさておき、近代日本語辞典の出発点となった「言海」には、大槻文彦自身の語釈で、傑作の項目は次のようになっている。

 けつさく 傑作 詩、文章ナドノ出来ノ勝レテ好キモノ (写真上。ダブルクリックで拡大)

 言葉の海のなかで生涯悪戦苦闘した大槻文彦の畢生の「言海」もまた、その一つであろう。

 偉大な先人をしのび、今宵は、この言葉の海のなかで少し遊んでみたい。そして、大槻文彦の世界に浸ってみたい。エリート官僚のなかにも、出世を投げ打ってでもやらなければならない仕事があり、それに私財を投じ、見事に成し遂げた人材がいることを忘れてはなるまい。

 明治の男の気骨が伝わってくる辞書といえよう。

 ● 補遺

 ブログ子は、この明治24年の合本(第二版=写真)を古本屋で10年前、わずか1万円で入手した。なお、戦後の国語辞書の代表的なものとして、たとえば

 日本国語大辞典(日国大、小学館、全20巻、初版=昭和51(1976)年)

がある。ブログ子の手元にも置いてはいるものの、これまで利用しているとは言い難いことを恥ずかしく思っている。

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絶滅したネアンデルタール人に会いたい ---- サピエンスとの交替劇の真相

(2015.12.01)  前回ブログで「生命大躍進」展について書いたが、この展示でも一つの人気コーナーは、

 ネアンデルタール人はなぜ滅んだか

というものだった。ネアンデルタール人の骨からゲノムを抽出して調べてみると、ホモサピエンスとほとんど同じだったことがわかった。のだが、ネアンデルタール人が足を踏み入れていないはずの東アジア、たとえば中国人、日本人にネアンデルタール人由来のDNAが、本家ヨーロッパ人よりも大きな割合で存在しているという。

 どういう経緯で、東アジアの中国や日本列島にやってきたのか、これからの研究課題らしい。

 ● 日本の人類考古学50年

 ところが、先月末、東大理学部で

 日本人研究者による旧人ネアンデルタール遺跡調査

についての公開講演会が開かれた(写真下。本郷キャンパスの東大理学部)。

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  大変に興味深いので、ブログ子も聴講に出かけた。日本では東大が中心になって1960年代から今まで60年近い発掘の積み重ねと研究の歴史があるというのにはおどろいた。

 とりわけ、赤沢威(たける)さんのシリアにおける長年の発掘成果を元に行われている

 ネアンデルタールとサピエンス交替劇の真相

に注目が集まっていた。交替の環境説という観点が有力な中、あえて難題のアプローチ

 学習能力の進化に基づく実証的研究

をこの5年間続けてきたのだから、おもしろくないわけがない。

 ● 学習能力の進化的違い仮説

 環境説というのは、化石の骨などの身体構造とその機能から、ダーウィン的な発想で交替劇を解き明かそうというもの。

 Imgp8852_1 これに対し、赤沢さん(写真右)たちは、

 脳の構造とその機能

というソフト面からアプローチ。互いの学習能力の進化的違いが交替劇を生んだという仮説を立てて、解明に挑んだ。当然だか、脳は化石として残らないのだから、実証研究といっても、間接証拠に止まらざるを得ない。そういう限界がこの仮説証明にはあろう。

 それでも、現代の狩猟採集民の石器づくりとネアンデルタール人の残した石器のバラエティの比較から学習能力の違いが交替劇の真相だという結論に至ったらしい。

 ● 恐るべき執念で全身骨格発掘 

 ブログ子には、この結論が正しいのかどうかは、わからない。ただ、そういう仮説が成立しうるというのはおもしろい。すくなくとも否定されなかったというのは大きな成果だったと感じた。

 Imgp8964 そのうえで言うのだが、赤沢さんたちの

 ネアンデルタール人に会いたい

という数十年にもわたる恐るべき執念の持続にはほとほと感心した。

 そして、講演の最後に赤沢さんが、一区切り付いた今、考えているのは、

 こうした交替劇は、今のホモサピエンスといえども例外ではない

語っていたことに、ブログ子は注目したい。ホモサピエンスの絶滅はあり得るというのだ。

 ホモサピエンスは、後戻りのない知識の前進的な蓄積とその活用力、および、新しい知識を創造的に生み出す能力によって、人工知能というものまでつくるという位置に躍り出た。しかし、この結果、ホモ・サピエンスと

 ポスト・ヒューマンとも言うべき人工知能との交替劇

があるかもしれないと、最近の人工知能関連の著作を紹介しながら警告している。このブログでも紹介したカーツワイルの2040年代「シンギュラリティ」説のことかもしれない。

 それはともかくとしても、

 絶滅について、われわれも例外ではない

というのは真実だと思う。人工知能に取って代わられる未来が来るかもしれないという予感をブログ子は持っている。早ければ、ブログ子がまだ生きているかもしれない数十年以内に。

 ● 未来の交替劇の鍵握る人類進化の過去と現在

 赤沢さんによれば、本当にそうなるのかどうか、その未来の交替劇の真相解明の鍵を握っているのは、

 人類進化の現在と過去

である。未来において本当にそうなるのかどうかを見極める鍵は、人類進化の現在と過去の解明が握っているというのだ。さらに踏み込んで発掘現場こそがそのもっとも重要な鍵だとも言いたげだった。

 いかにも発掘現場に立って人類進化の探求に生涯を賭けた老研究者らしい考え方だ。

 会場のこうした赤沢さんの意気軒昂を拝見し、

 老兵はいまだ去らず

という強い印象をいだいた。

 (写真下は、1993年、赤沢たちの子どもネアンデルタール人発掘の様子。シリアのテデリエ洞窟で。写真のダブルクリックで拡大)

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軍監直政、敵ト聞テ只居ラレルモノカ

Imgp7909 (2015.07.08) 徳川家康がなくなって、今年でちょうど400年ということで、ブログ子の暮らす浜松などの東海地方では

 家康公400年祭

が趣向をこらして、去年あたりからあちこちでにぎやかに開かれている。そんななか、先日、家康の、いわゆる四天王のひとり、

 戦国武将、井伊直政

に関する講演会が、直政の菩提寺、龍譚寺(りょうたんじ)のある浜松市北区で開かれた(写真上)。井伊家とか井伊氏といえば、今の滋賀県の彦根藩を思い出す。しかし、それは直政やその嫡男(次男)、直孝が出世し、大名になった後の話。もともとは、浜松市北区の浜名湖北岸井伊谷あたりの出らしい。だから、井伊家は滋賀県の大名というよりも、浜松市が〝本家〟というわけだ。

 講演は、家康の出身地、愛知県岡崎市で長年家康研究に従事し、現在は同市で歴史教室を主宰する市橋章男氏。

 ブログ子の関心事は、そんな二人がどういう経緯で出会ったか、ということ。

 Imgp7920 家康は、1568-69年にかけて岡崎から井伊谷を経由、浜松城というルートで遠州侵攻を成功させる。井伊谷城には直政の父親で城主、井伊直親がおり、どうやら反今川派としてこの侵攻を積極的に支援したらしい。直親はその後、今川方に殺されてしまう。家康も、その後、信玄との三方ヶ原合戦(1572年)で大敗する。そんな殺伐としたなか、やがて3年後の1575年、浜松城(曳馬城)から井伊谷あたりに鷹狩にきていた家康は、わずか15歳の直政と出会う。

 このとき直政は、井伊家の衰亡のなか、井伊家の嫡男ではあるもののすでに他家の養子になっていた。しかし、出会いでの名乗りは井伊万千代。遠州侵攻が首尾よく成功したのも直政の手引きその他の功績である。そう考えた家康は、このとき直政をただちに取り立て、井伊家再興を督励したという。

 それから9年後、秀吉軍に圧勝した家康の小牧・長久手の戦いで

 「先鋒の将として、赤備え隊を率いて参戦、武功をあげる。」(下記の著作年表)

 このように二人の出会いは、偶然であった。

 しかし、これが直政を一国人から戦国大名にスピード出世させる出発点となった(講演会で販売されていた著作(左上の写真)に基づき経緯を要約)。この著作は、

 井伊直政の生涯とその時代背景 家康との関連年表から

といった内容になっており、おもしろい。この著作の著者(編集者)は龍譚寺の前住職、武藤全裕氏= 写真下は講演会場で親しい参加者と言葉を交わす様子)。

 こうした出会いもおもしろいのだが、講演やこの著作からは直政の

 肉声

まではなかなか聞こえてこなかった。

 Imgp7916 ただ、一つ、著作年表には、家康とともに出陣した関ヶ原の合戦での肉声エピソードが載っている。

 戦うことを義務付けられていない軍監だったが、敵中突破で敗走する島津義弘大将に対し、

 「敵ト聞テ只居ラレルモノカ」

とばかり、軍監だというのも忘れ、自ら猛追撃したという(同著作より)。直政の行動の勇猛果敢さを物語るものだろう。

 そのほか、この著作には、こうした肉声ではないものの直政の生き方をほうふつさせる事跡が多く並べられている。

 たとえば、直政の嫡男、直孝もこの直政の性格を受け継いだのか、直政がなくなってから12年後の

 大坂冬の陣

では、

 「直孝率いる井伊隊、(大坂)城南の「真田出丸」に対峙、直孝、軍令に反し攻撃し、多大の犠牲を出す。」

とこの年表にある。

 年表をみていると、仮にこれが直政だったら、どうだったろうかと想像してしまう。

 おそらく、嫡男、直孝と同様、自慢の赤備え隊は、先陣を切っていたのではないか。そうなれば、秀吉方の真田軍をずいぶんと苦しめたことであろう。

 ひょっとすると、翌年の夏の陣はなかったかもしれないとさえ、思った。

  以下の写真は、講演した市橋章男氏= 講演会パンフより。

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ピカソにひかれた日本画家、加山又造    - 新緑の秋野不矩美術館にて

Imgp7707 (2015.06.03)  老人というか、シニアというか、そういう世代になると膝関節が時々痛くなる。ブログ子も例に漏れず医者からは筋肉の衰えを指摘され、これ以上悪くならないために、歩くことを強く勧められている。だから、土日には歩く。近所の毎月一回開かれる佐鳴湖やまちなかノルディック・ウォークにも参加し始めている。

 しかし、たまには歩くだけでなく、楽しみながら歩けないかと思い、わざわざ佐鳴湖のほとりの高台にある自宅から少し遠い浜松市天竜区二俣の秋野不矩美術館にまで出かける。天竜川にかかる鹿島橋をわたり年に2回、コースのほとんどは電車を利用する。

 のだが、美術館の正面玄関までのゆるやかにカーブを描いた上り坂のアプローチを、ブログ子はとても気に入っている( 写真上 )。

 Imgp7705_2 また二俣川にかかる登り口の二俣大橋からの眺めも素晴らしい。晴れた先日土曜日に訪れたときには、新緑のなか学童保育の子供たちが若い母親たちと一緒に多数魚取りの川遊びに来ていた(写真。橋の近くには句碑も)。

 ● キュービズム的発想の「若い白い馬」

  さて、散歩のお目当て、秋野美術館では

 特別展 加山又造展

が開かれていた。「春秋波涛」の絵画で知られているが、よくは知らない。

 今回は

 淡月

というタイトルで、桜の老大木に淡いピンクの花びらが無数に咲き誇っている満開の様子を描いた4曲(たたみ4枚の大きさ)が展示されていた。圧倒的な迫力である。さすがは高名な日本画家だと感心した。日本の伝統的な装飾絵画とはこういうものかと理解できた。

 そんななか、落款(完成したことを示すサイン)もない二枚の初期作品に目がとまった。

 若い白い馬 1950年

 月と縞馬 1954年

である。加山20代の作品。最初期の「若い白い馬」は、あきらかにピカソのキュービズムの影響のあるもので、小屋の前で後ろ足で立ち上がろうとしている瞬間を下から見上げるアングルでとらえている。画面の真正面に前足のひずめが前に突き出されているという大胆な構図にもおどろいた。

 ● シュールな「月と縞馬」にびっくり

 もう一枚のは、縞馬を二匹重ねて描いたもので、垂直に立てた足が不釣合いに細い。しかもなんと、足が14もある。ひづめの数を何度も数えたが、まちがいなく14個あった。

 青白い月というのも

 なんと、球ではなく、とがった正八面体風

なのだ。エジプトのピラミッドの形をしたもの2つを底面同士でくっつけたもの。それなのに、足の多さにしても、月の形にしても、まったく違和感がない。画面の中で安定して存在している。なんだか、錯覚させられているような気分になる。

 一言で言えば、この絵はサルバドール・ダリの絵を見ているような

 シュールな絵

といったらわかりやすいかもしれない。

 そのほか、キュービズムほどではないが、

 紅鶴 ( 1957年)

は、ツルを描いたといっても相当にデフォルメされている。見たものをそのまま描いたものではない。伝統的な日本画では決してみられない作品だろう。こちらも、少しも日本画として違和感がないというのも不思議だった。この絵にも落款はなかった。

 会場にあった年譜をみてみると、

 1952年 (25歳)  ピカソに惹かれ、アンリ・ルソーの絵を好んだ

とあった。絵を志した若き日の加山又造が、キュービズムやシュールリアリズムのほか、あの、若きピカソをも感激させた「下手うま絵画」の不思議な世界、遠近法を無視したようないわば奇想の世界を愛したとは知らなかった。

 ● 「春秋波濤」の革新性

 Imgp7712 下り坂の帰り道、加山の有名な

 春秋波涛 ( 右図 )

も、日本装飾絵画を革新したいという模索の中から生まれたのだと気づいた。装飾画とはいっても、見たものをそのまま美しく配置したものではない。日本的で

 シュールな加山の世界

なのだ。

 実は、秋野不矩もまた、加山と同時代を歩み、革新の模索を続けた同志だったのだろうと思った。

 豪華な散歩が終わろうとしていたころ、ようやく秋野不矩という人物のことが少しわかりかけてきた。彼女の画風は、シュールではないものの、単なる日本の装飾画家でもない。

 写真下は、シュールな散歩を楽しんだこの日、二俣大橋のたもとで見つけた句碑。

Imgp7706

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空想以外の何を愛せようか 久里洋二のこと

(2014.12.31)  この一年を振り返ってみたのだが、科学や技術、あるいはその社会との関係に興味をもっているせいか、どうも美術館に足を運んだというのが、とても少なかった。

 ただ、テレビなどの、たとえば日曜美術館(Eテレ)などはよく見る。のだが、本物を見にわざわざ出かけることは、少なかった。

 そんななか、足を運んだのは、秋の特別展

 デ・キリコ回顧展 ( 浜松市美術館 )

と、夏に出かけた常設の秋野不矩美術館 (浜松市天竜区)だけだった。後者については、7月のこのブログで書いたので、ここでは、イタリアの前衛画家、キリコについて、書いてみたい。

  出かけたのは、パンフのキャッチコピー、謎を愛した画家とか、ピカソが最も畏れたとかいう言葉につられたのかもしれない。

 いわゆるシュールな世界だったが、その感想を、本人の言葉で一言で言えば、

 謎以外の何を愛せようか

ということだった。もうすこし、その愛し方を噛み砕いて言えば

 不安を込めて

ということだろう。不安を込めて、その謎を愛した。

  そして、会場を見て回りながら、ふと、そのシュールさに、ブログ子の出身高校の大先輩の絵にどこか似ているところがあると気がついた。

 その大先輩とは、イラストレーターの久里洋二さんで、長い間、医学広報情報誌「SCOPE」(日本アップジョン)の表紙を飾るイラストを描いているのを、ブログ子は知っていた( 以下の「補遺」参照 )。

 たとえば、その事例として写真右を見てもわかるのだが、これまた、シュー Image2043scope199409_3 ル。

 友人から電話で、リンゴを送ったと言ってくると、受話器からそのリンゴが出てくるというイラスト。お金を送ったといえば、受話器からお札が出てくるというわけ。

 なのだが、

 空想以外の何を愛せようか

という雰囲気がある。ただ、キリコと違うのは、不安ではなく、

 ユーモアを込めて

その空想を絵にしている点。

 そんなことを考えながら、回顧展を見て回った。

 ● 補遺 久里洋二作品集

 この月刊広報誌の表紙になったもののなかから厳選したイラストが、後に

 『KURI YOJI 久里洋二作品集』(求龍堂、1991年、非売品)

として、まとめられている。久里洋二式「空想庭園」と書かれた腰巻がおもしろい。おもわず、「なるほど」とうなづき、にこりとしてしまうイラストがたくさんあって、たのしい。

 ブログ子の座右の書である。

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お手製の「第九」を歌う 音楽文化の街

Imgp667220141221 (2014.12.21)  ブログ子が暮らしている浜松市は、ピアノなどの楽器の街であり、いずれは

 音楽文化の街

となることを目指している。それには人材輩出のための音楽大学の創設を望みたいが、それはともかく、国際ピアノコンクールやいまでは、国際オペラコンクールも盛んになってきている。

 音楽文化といえば、そして12月といえば、楽聖、ベートーベンの「第九」演奏会。40年の歴史を持つ地元、浜松フロイデ合唱団(NPO法人)が今年も演奏会を浜松市中心部の大ホールで開いている。

 クラシックにはとんと縁のないブログ子も、年に一度のこの演奏会だけは出かけるようにしている。近くに住む友人がテノールパートを歌うからで、先日午後、仲間数人と出かけたというわけである。

 指揮は山下一史氏。管弦楽は日本センチュリー交響楽団。最後の第4楽章の合唱は、地元の浜松フロイデ合唱団。そのときの演奏前の華やいだ様子が写真上( アクトシティ大ホール、12月21日 )。

 ● 尺八とエレクトーンのコラボも  

 Imgp6650 実は、今年の「第九」に出かけたのには、友人に誘われたということもあるのだが、もう一つ狙いがあった。それは、本物の「第九」演奏に先立って、ブログ子の加わっている会員制の小さな会で

 お手製の「第九」を歌おう

という大胆な試みを行なったからである。十数人の会員が、伴奏のエレクトーンと尺八のコラボレーションの下、わずか数時間の練習で、ともかく第4楽章の「合唱」のさわりの、そのまたさわりの部分を歌うというものだった。

 どういうわけか、オンチのブログ子が指揮者になってしまったのだから、参加したたいていの会員は、

 まあ、成功は無理ではないか

と思っただろう。

 それでも、歌いやすいように、4拍子のテンポをずいぶんとゆっくりにした。当然だが、ドイツ語の歌詞を、日本人シニアにも歌えるように、一部省略したり、思い切って「丸め」たりした。さらに、テンポがずれないように、本物の合唱とは異なり、最初から最後まで、緩急はつけずに、大胆にもテンポは一定で通した。

 このように「編曲」したオリジナル日本語歌詞が写真下。

 演奏では、すこしでも本物に近づけようと、合唱だけでなく管弦楽の味をだすという意味で

 尺八の独奏

の部分も設けるよう工夫した。

 これを関係者による打ち合わせと練習に半日。当日は本番前1時間のリハーサルで実演した。

 予想に反して、初めて「合唱」を歌う会員ばかり10数人が、頼りない指揮ではあったものの、男女混声、ともかく、その場で初めてみた歌詞にそって見事に歌いきった。

 これには、指揮を担当したブログ子もびっくりした。

 ● 「音楽文化の街」づくりは市民参加で

 それはそうなのだが、このお手製の「第九」が、本物の「第九」とあまりにかけ離れてしまってはいないかどうか、それが心配で、確かめに演奏会を聴きに出かけたというわけだ。

 その結論だけを言うと、自画自賛だが、

 ベートベンも、笑いながら、何とか合格点

を出してくれたのではないかと思った。このことを、正直にここに書いておきたい。

 音楽文化を育む

というのは、音楽家だけでできるものではない。本物であろうと、お手製であろうと、市民の下からの盛り上げ、情熱があってこそ、その夢はかなう。しかも、それは、その気になれば、手が届くということが、今回、おぼろげながらもわかった。

 そんなことを思う演奏会だった。

 ● お手製「合唱」の歌詞と本物 (演奏会プログラム = 下 )

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  ( 浜松フロイデ合唱団 第九演奏「プロググラム」から)

 ● 新聞記事

 今回の「第九」、地元紙、静岡新聞記事

 2014年12月23日付朝刊

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   ● 追記

  以下は、聖夜の歌詞。

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ゴッホへの返信 - 『ゴッホの手紙』を読む

(2014.11.06) 

  ヴィンセント・ヴァン・ゴッホさま。

 お手紙拝見しました。浮世絵の国、日本から、突然、返信をさしあげます。というのも、先月、古九谷のふるさと石川県加賀市の

   硲伊之助美術館

を訪れたときのことを思い出したからです。その折、片隅ではありましたが、あなたの書いた膨大な手紙を日本語に直し、弟、テオドル宛のものなど宛先別にまとめた書簡集

 『ゴッホの手紙』(硲伊之助訳、岩波文庫、1955年、写真)

を見つけたからです(硲= はざま)。あなたがお生まれになってからおよそ100年後、お亡くなりになってからでも60年以上もたってから翻訳されたものです。

 Imgp5353かも翻訳されてから60年近くたつ今の時代、そして国柄のことなる日本では、セピア色にくすんでおり、それほど意味のあるものではないとは思いながら、それでも手にとってみました。

 ところが、その内容にとても驚きました。手紙数の多さもさることながら、その中身が具体的な生活の詳細にわたっていたからです。

 そして、もっとも驚いたのは、その生活の詳細が色で語られ、色彩の鮮やかさで表現されていたことです。理系育ちのわたしですが、芸術とは、こういうものかという衝撃を受けました。

 ● 二つの結論 絵を描くということ

 あなたは、第1信の若き画家、ベルナールに宛てた「このあいだ急に君を振り切って別れたのをあやまりたいと思う。この手紙でまずそれを果して置く」で始まるこの晩年にしたためた書簡集で何を語りたかったのでしょう。そして何と闘っていたのでしょう。一言で言えば、わたしが衝撃を受けた正体はなにか、ということです。

 書簡集にはあなたが投函した膨大な手紙はあります。が、ベルナールあるいは弟、テオドルからどのような返事が届いたのかについては、書簡集には載っていないので、わかりません。

 何度も読み返すうちに、何を語り、何と闘っていたのかについて、100年後に生きているわたしは次のような結論に到達しました。それをお知らせしたくて、ここに、頼まれてもいない返信をさしあげたのです。

 その第1の結論とは、

 絵を描くということは、描く対象を通して描き手の生活を表現することであり、この二つを分離することはできない

ということではなかったでしょうか。しかも、そのことを絵具の色の持つ遠近性で画布に表現しようと闘っていたのではないでしょうか。その着想は、あるいは浮世絵から得ていたのかもしれません。

 すこし大げさに言えば、浮世絵を通じて自然と人間とは一体のものであるという東洋思想の考え方を感じ取り、それを西洋の油絵に取り入れようとしていたともいえましょう。客体と主体の分離を当然だとする西洋思想にはなかなかない考え方です。

 こう考えれば、よく言われるあなたの生涯の悲劇性は理解できます。それはあなたが天才だったからではありません。西洋絵画と闘っていたからです。その唯一の味方だったのが、日本から届いた浮世絵だったのでしょう。

 書簡集の第2信(ベルナール宛。1888年3月)のアルルの空気は

 「澄んでいて、(風景の)明解な色の印象は日本を想わすものがある」

というアルル到着の第一印象を日本の風景にたとえて記述していたのを拝見し、私は大変うれしく思いました。

 先の第1の結論から出てくるもう一つの結論は、あなた自身お気づきになっていなかったと思うのですが、

 お書きになった膨大な色彩に富んだ手紙自身が、弟、テオさまと共同でおつくりになった、そして言葉でつづられた絵画作品だった

という点です。「ゴッホの手紙」というタイトルの絵画作品なのです。

 これを第1の結論との関連で言えば、生活をつづったはずの手紙が、絵画作品となったということです。これが色彩のある手紙に私が衝撃を受けた正体だったのです。

 以上二つの結論に至った理由について、以下、あなたの手紙を中心に、あえてその具体的な細部に立ち入ってお返事をさしあげたいと思います。

  ● 詳細な色見取り図

  お話を始める前に、私があなたの手紙で一番驚いた手紙の中の色について、まず、お話したい。上、中、下巻のいたるところに詳細な色見取り図をしたためている点です。

 たとえば、ほんの一例ですが、いよいよゴーガンがアルルにやってくるという高揚した時期、そして、ひまわりの絵を仕上げた直後の手紙には

 「僕(ゴッホ)は人間の激しい情熱を、赤と緑で表現しようとした。部屋は鮮血のような赤と暗い黄色、中央には緑の玉突き台、オレンジ色と緑の放光に包まれたレモン黄の四つのランプ。紫と青の陰鬱ながらんとした部屋や、眠りこけている若いよた者たちや、到るところに非常に違った赤と緑の対照と衝突がある。例えば鮮血のような赤と玉突き台の黄緑とは、バラの花束のある酒売台のルイ十五世風のやわらかい緑と対照をつくっている。

 この赤熱した雰囲気の片隅で番をしている亭主の白い服は、レモン黄色と明るい淡い緑に変わる。僕はこれを素描して水彩で調子をつけたから、明日君(弟、テオ)に送って、大体どんなものか見てもらおう」(中巻p218、弟、テオ宛ての第533信= 1888年9月)

という調子なのです。こういうのが、全巻の至るところにあり、私をとてもおどかせました。

 これらの色がすべてあなたの頭の中に入っているのですから、驚くばかりです。ここからは、あなたが、いかに色彩の調和というか、その見取り図に真剣に向き合っているのか、その情熱がはっきりと伝わってきました。

 この驚きの正体を知るために、先の二つの結論に向けて、以下のように考えてみたというわけです。

 ● 発見した「太陽の黄色」

  そこで、まず、ほぼ年齢順に並べられた色のある書簡集の全体構成について。

 上巻は、おおむね若き画家、ベルナールに宛てたあなた自身の芸術観、絵画論を述べたものといえましょう。

 そして、弟、テオに宛てた中巻は、

 芸術と生活の実践的関係論の見取り図

を自らのアルルの生活をもとに描いたものであり、これまたテオ宛ての最晩年につづった下巻は

 関係論の見取り図を言葉という絵筆で絵画的にまとめたもの

だったと思います。

 色の言葉、たとえば、黄色という言葉が全巻を通じて頻繁に出てきます。お亡くなりになる2年前に描かれた、かの有名な「ひまわり」もそうです。また、アルル近郊のサンレミ病院に入院したときに描かれた

 「黄色い麦畑と糸杉」(1889年)

もそうですし、書簡集の巻頭を飾っている自画像もそうです。黄色い帽子とやや薄い青のコントラストが遠近感とともに、互いに補色の関係にあるからでしょうか、よく調和しています。

 しかし、その中でも、色の調和をめぐるあなたの芸術観の到達点、あるいはその芸術観がどこから来たのかを知る手がかりとして、私がもっとも注目したのは、アルルからパリに戻った最晩年、亡くなる直前に描かれた

 「カラスのいる麦畑」(1890年)

です。黄色い麦畑が画面の半分以上を占めています。そして、その向こうに黄色と補色の関係にあるやや暗い青の空。

 このように最後まで一貫している色、黄色へのとりこが、どこからきたのか。私は理系出身ですので、その起源がわかりました。

 それは、太陽です。太陽への憧れ、あるいは太陽の色の発見と言ってもいいかもしれません。

 一般に太陽からの光線は白色光といわれています。しかし、このなかに含まれる色のうち、実は、太陽のような中くらいの重さの星では、最もエネルギーの多く含まれている部分が黄色の部分なのです。

 あなたは手紙で、

 「神の如き太陽と並んで」(第520信、中巻p182)

あるいは

 「今まで孤独でいるのを気にしないほど、(アルルの)強烈な太陽が自然に与える効果に興味を持てた」(第508信、中巻p136)

と語っています。

  最晩年になると

 「ここの強烈な太陽の下では、ピサロの言葉や、ゴーガンが僕(ゴッホ)への手紙で言った同じような言葉と壮重さということは、僕もほんとうだと思った」(第555信、1889年10月、アルル)

と書いています。

 これらの言葉は、ベルナール宛の芸術論(たとえば、第5信= 1885年5月下旬、たとえば第21信= 1889年12月初め)の中で盛んに展開される黄色と(補色関係にある)青についての見取り図の延長線上にあると感じられます。あなたの太陽、とりわけ黄色い光に対する発見と感性にもとづくものなくして、こうした手紙は書けなかったと思います。

 人間の網膜で最も感受性が強いのは、太陽の色、黄色の光線なのです。そこにあなたは自身の感性を重ね、苦闘していたのだと思います。

 ● なぜ何点も「ひまわり」を描いたか

 第二に、なぜ、あなたは「ひまわり」を何点も、正確には7点も描いたのでしょう。

 ひまわりについては、2枚のひまわりを並べて、論じている手紙もあります。また、

 「いつも糸杉に心ひかれる。ひまわりを扱ったように描いてみたいのだ」とも書いています(第596信、1889年6月、アルル)。

 どうしてそんなにひかれるのでしょう。そのヒントは、「ゴーガンは健康な姿で(アルルに)到着した」で始まる 

 第557信(1888年10月、アルル。下巻)

にあります。ゴーガンと共同生活ができる喜びを弟、テオに伝えている手紙です。

 この直前の10月に、あなたは、かの有名な

 「ひまわり」(1888年の夏)

を描いています。アルルの強烈な夏の太陽に向かう黄色いひまわりを、待ち望んだパリから来るゴーガンにプレゼントしようとしたのだと思います。それも部屋を飾る共同生活の場の中におこうとしたのです。

 このようにひまわりを何度も描いていたのは、絵画と生活の実践的関係論の証しであり、象徴だったのです。

 ● 最後の手紙

 ゴーガンは、あなたが亡くなってから十数年後にタヒチでなくなります。あなたはお知りにならないでしょうが、ゴーガンはタヒチで過ごす最晩年、

 いすの上のひまわり

という作品を残しています。ゴッホの花を、ゴーガンは、和解のしるしとして描いたのでしょう。

 このように考えてくると、

 絵画の対象と、その描き手との関係は分離できない

ということがよくわかります。こう考えると、描くということは、描き手の生活を、もう少し大きく言えば思想を色で表現することなのだというあなたの主張がとてもよく理解できるように思います。ゴーギャンもそのことについては、あなたと同意見に到達した。だからこそ、それを言葉ではなく、晩年に絵で示したかったのでしょう。

 ゴッホは孤独のうちになくなったと、一般には考えられています。しかし、あなたが、この事実を知れば、もはやそんなたわごとに心をわずらわされることはないでしょう。

 あなたの最後の手紙は、

 「そうだ、自分の仕事のために僕(ゴッホ)は、命を投げ出し、理性を半ば失ってしまい- そうだ -でも僕の知る限り君(弟、テオ)は画商らしくないし、君は仲間だ、僕はそう思う、社会で実際に活動したのだ、だが(そうすることができなかった僕は)どうすればいい。」

と結ばれています(あなた自身が自殺の当日に持っていた手紙のことです)。

 これに対する回答として、この返信の冒頭に挙げた二つの結論をあなたにささげたいと思います。

 あなたの人生をかけた色彩のある手紙というりっぱな絵画があったのです。それはまさに、弟、テオとの共同の作品だったのです。これ以上の作品を、あなたが望むとは、私には思えません。

 なぜなら、一点ものの絵とは違って、この作品はだれでもが、いつでも、そしていつまでも色あせることのなく鑑賞できるからです。私もまた今、それをしているのです。

 この手紙の翻訳者もきっと、このことを信じていたと思います。 

 ● アルルへ、補色の旅

 お手紙が少し、長くなってしまいました。

 Imgp6054 お許しください。

  ここまで書いてきて、ふと私は、あなたのたどった

 パリからアルルへ、そしてサンレミへ。そして再びパリへ

という旅、いってみれば、絵画と生活が互いに引き立てあう、

 補色の旅

にいつしか出かけてみたいという気持ちになりました。アルルを、モンマルトルの丘をそういう目で見た場合、きっと

 これまでのゴッホとは違う出会い

があるように思えるのです。このこともお伝えしたくて、この返信をしたためた次第です。

 蛇足ですが、プロバンス地方のアルルの北、アビニョンには、あなたと同時代を生きたA.ファーブルも生活していました。私の尊敬する「昆虫記」で知られる生物学者です。アルルの近くのセリニャンにお墓もあり、補色の旅の途中にでも出かけたいと思っています。

 その墓石には、ラテン語で

 死は終わりではない。より高貴な生への入り口である

と書かれているそうです。これは、ファーブルの生物学者としての到達点であったのでしょう。

 私もそうでありたいと思っていますが、あなたの死も、また、そうであったと信じています。

 最後になりましたが、弟、テオさまによろしくお伝えください。

    白玉の歯にしみとほる秋の夜の

           酒は静かに飲むべかりけり

        日蘭交流400年、2014年11月

        浮世絵の国の酒好きの一老人より           

 ● 追伸 

 なお、別便にて、硲伊之助美術館が最近発行しました陶芸作品集

 『九谷吸坂窯』(2013年)

をお届けします。

 なぜ、これをお送りしたのか、この返信をお読みいただいたあなたならきっとその理由をおわかりいただけるものと確信しています。

          

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現在の宇宙の年齢と、現在の観測可能な宇宙の広さとの関係は、どうなっているか

(2014.10.25)   先日、ちょっとした縁で、ブログ子の近くにある浜松大平台高校(浜松市)の物理室に午後うかがった。生徒たちの授業を参観させていただいたのだが、この教室の入り口に

 宇宙の進化を一目でながめられる宇宙図

というのがあるのに気づいた。見開き2ページの新聞くらいの大きな紙に、宇宙の始まりのビッグバンから現在までの様子が詳細な説明と関連カラー写真を付して鳥瞰図のように見事に描かれていた。

 ● 浜松大平台高の物理室で

 その真ん中の部分が下段の写真。下のほうがビックバン。上に行くにしたがって宇宙は進化し、現在の姿になっていく。

 見ての通り、いやはや細かい文字でぎっしり書かれており、目のいい生徒たちでも、全部を読むのには、丸1日はかかるだろう。そしてまた、その意味を理解するには、さらに1週間はかかりそうだ。

 宇宙好きのブログ子もこれほどの詳細を書き込んだ1枚ものの宇宙図を拝見するのは初めてである。

 この宇宙図をみて、一番驚いたのは、細かいことは別にして、

 縦軸に目盛られた「現在の宇宙の年齢」は約138億年であるのに対し、横軸の

 「現在の観測可能な宇宙の広さ」は約450億光年

と、宇宙の年齢を大きくオーバーしていたこと。

 この違いを、最初はとても不思議なことに思われた。

 なぜなら、宇宙が大爆発し生まれたビッグバンの光が、膨張する空間のなかを約138億年かけてようやく今の地球にやってきたのだから、

 宇宙の今の広さは、現在の宇宙年齢と同じ138億光年の大きさ

であることは自明のような気がしたからだ。今、大きな巻尺で地球からビックバンの起きた地点まで一気に測ったら、まちがいなく光の速さで測って138億年、つまり、138億光年になるのは当たり前だからだ。

 しかし、それはまちがいで、なんと450億光年と、3倍以上も現在の宇宙は広いのだという。どういうことなのだろう。すっかり宇宙図のある物理室の前で考え込んでしまった。

 ● 風船の膨張とは違う

 家に帰って、あれこれと図を描いて考えてみた。そして、ようやく翌日、そのからくりの謎が解けた。

 宇宙が爆発し、膨張しているという言い方に問題があったのだ。

 宇宙の膨張というのは、たとえとしてよく言われるように、風船のなかの空気が膨らむイメージとは全然違うのだ。宇宙の膨張は、風船の場合とは異なり、空間自身がボコボコ湧き出てきて、それで小さな宇宙だったものが段々大きくなる。

 ビッグバンの光源から出た光は、光速で138億年かけて地球に届くのだが、その間にも、刻々と光源と地球の間の進路空間では空間が至るところ湧き出ているのだ。そのため地球とビッグバンの光源は、そこから出た光が地球に向かって出発したあとも、どんどん離れ続けているのだ。

 だから、光が地球に届いた138億年後には、光源は約450億光年もの先に遠ざかってしまった。宇宙年齢と、光の速さで測った宇宙の広さとは一致しないのはこの理由があるからだ。

  蛇足かもしれないが、付け加えておくと、今、地球から写真などを撮って物質世界の観測ができるのは時間にして138億年前までなのだが、その宇宙は、やわらかいモチを引き伸ばしたように現在の観測可能な宇宙の広さにまで引き伸ばされている。

 言い換えると、宇宙を眺める時期によって、つまり後になればなるほど、宇宙は間延びして見えるのだ。このままでは、かつて狭苦しくにぎやかだった宇宙は、大きな閑散とした離れ離れ風景の宇宙に、たぶんなるだろう。

 ブログ子にも、宇宙が膨張しているという本当の意味がこれでようやくわかった。風船がふくらむというのと全然意味が違うのだ。

 ● 宇宙の果てをめぐる最新宇宙論

Imgp5925  この考え方、解釈が正しいことは、ビジュアル月刊科学誌

 「ニュートン」2013年5月号

 村山斉博士が語る

 宇宙の果てをめぐる最新宇宙論

の中で詳しく説明していることと一致した(写真右)。東大教授の村山さんは、日本の宇宙論研究では最先端の科学者。

 村山さんのこの記事によると、現在の膨張する宇宙が観測可能なのは、現在では450億光年先まで。ここから先は、遠ざかる膨張後退速度が光速をこえてしまうので、たとえその先に宇宙が存在していたとしても、その観測は原理的に不可能ということになる。

 観測可能な宇宙の〝外側〟には、

 端のない宇宙が存在している

という。

 ここで、想像する。もし、仮に今の宇宙が突然、膨張をやめてしまったらどうなるか。そのときは、宇宙はどこまでも観測可能になり、宇宙の全貌が観測可能になるはずだ。

 ● 宇宙の果ては異次元につながる

 それでは、もう一つ、その先を想像する。その先の

 端のない宇宙の果てはどうなっているか

という想像である。

 村山さんは、この点について明確には答えていない。ブログ子は、この点については、

 私たちの住む空間3次元とは異なる別の異次元宇宙とつながっている

とこたえたい。

 Imgp59922 別の異次元宇宙というのは、いわば

 パラレル宇宙論

である(写真左= このような宇宙論を紹介した解説書。左は講談社ブルーバックス、右はNHK出版)。

 また、この宇宙には端がないということを考えると、その果てとは、450億光年以上先ではなく、意外にも、

 私たち地球の周りのすべての、ごくごくごくごく微小な空間

において通常の空間3次元構造が壊れており、そこから宇宙の〝向こう側〟に行けるのではないかと思う。この3次元空間の破れの領域(やぶれ穴)の大きさは、原子核や素粒子よりもはるかに小さい。

 とまあ、このようにいろいろと考えさせてくれた物理室の宇宙図だったように思う。

 学校というのは、このようにワンダーランドなのだ。 

 ( 写真はいずれもダブルクリックで拡大できる )

 Imgp5853

 

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岡本太郎の水爆版「ゲルニカ」 

(2014.10.14)  息子が東京で働いている関係で、また親戚が住んでいたせいで、ブログ子はJR渋谷駅を時々乗り降りに利用している。だから、その渋谷駅と京王井の頭線渋谷駅の連絡通路に、横幅が30メートルはあろうかというバカでかい壁画があるのは知っていた( 写真 )。

 ● ビギニ事件がモチーフの「明日の神話」

 Imagejr2008 しかし、どこかで見たことがある絵とは思っていたものの、それが誰の作品で、何の絵か、またなぜこんなところに抽象画が描かれているのか、その経緯は何も知らずに過ごしてきた。

 それがなんと、大阪万博の「太陽の塔」などでも知られる前衛画家、岡本太郎さんの作品だとは、つい先日知った。また、「明日の神話」と名づけられたこの壁画のテーマが

 米ビギニ水爆実験(1954年3月)で被ばくした第五福竜丸事件

をモチーフにしたものとは知らなかった。

 これは、ピカソを尊敬した岡本太郎さんの、いわば

 水爆版「ゲルニカ」

ともいえる作品だったのだ。

 スペイン出身のピカソは1930年代、ヒットラーの全体主義と戦ったスペイン内戦を体験している。その内戦をテーマに、巨大な虐殺反戦絵画「ゲルニカ」を描いている。おそらく、太郎さんはそれにならったのだろう。

 ● 「太陽の塔」とは対照的な運命

 さて、その大壁画は、岡本さんが今から45年以上も前にメキシコのホテル経営者に依頼されて現地で制作され、大阪万博の前年の1969年に完成した。正面玄関に飾る予定だったが、それが、いつの間にか、公開を待たずに行方不明になってしまった。

 Imgp5745 だから、

 幻の大壁画

だったことになる。いかにも、若い時期、ピカソの作品に強烈に感激した岡本さんらしい作品であるが、しかし同じ時期に完成し、大反響を呼んだ大阪万博の「太陽の塔」とは対照的な運命をたどった太郎さんの代表作といえる( 写真左 = BSプレミアム「日本の巨人」放送テレビ画面から )。

 それがどうして渋谷駅の連絡通路に飾られているのだろうか。

 その全貌を知ったのは、先日のBSプレミアム

 アーカイブス 日本の巨人

というハイビジョン特集番組を偶然に見たからだった。それも、番組終了に近いところでわかった。番組の多くの時間は「太陽の塔」( 写真 )にまつわる話だった。

 番組によると、渋谷駅に飾られることになったきっかけは、行方不明の壁画が妻、岡本敏子さんの努力により、2003年、メキシコのある会社の倉庫で眠っていたこの壁画が発見されたこと。だが、相当に痛んでおり、2005年に修復プロジェクトがスタート、2006年にほぼもとの姿によみがえった。

 その後、お披露目のための展覧会が開かれた後、一般の人に末永くみてもらいたいという遺族の願いから、2008年、人通りの特に多いJR渋谷駅連絡通路に恒久的に設置されたものらしい。

 ● 対極主義の壮大なる結晶

 岡本さんが、この大壁画をその場の思いつきで制作したのではないことは、ビギニ事件後の1950年代、60年代の絵を見ればわかる。大壁画の原画の一部ではないかと思わせる「燃える人」、あるいは「瞬間」といった人間と原爆、水爆とは相容れない、つまり対極にあるということをテーマにした作品を何枚も描いている。

 一言で言えば、たどった運命は大きく違ったが、太陽の塔も、明日の神話も対極主義という芸術観の壮大なる結晶だったといえるだろう。一方は三次元の結晶であり、もう一方は二次元の結晶という違いがあるに過ぎない。

 そして、結晶のそれぞれの中身は「人類の進歩と調和」という大阪万博の崇高な理念に対するアンチテーゼだったということでは一致している。

 ● 原発版「ゲルニカ」

 そして、ふと思った。

 20年近く前に亡くなった岡本さんだが、福島原発事故後の今、生きていたら、どんな対極主義の作品をつくりあげるだろうかと思った。

 きっとそれは原発版「ゲルニカ」として歴史に残る大作になったと思う。ここでも「人類の進歩と調和」に対するアンチテーゼが表現されていただろう。

 そう考えると、太郎さんの抽象作品は、きわめてリアルでエネルギッシュな社会性を持ったものであることに気づく。けっしてシュールレアリズム(超現実主義)などではない。

( 写真下= 太郎さんの自宅兼記念館に今も残る「明日の神話」の下絵の原画。- BSプレミアム「日本の巨人」2014年10月放送テレビ画面から )

Imgp5740

 ● 補遺 岡本太郎とは 2015年5月13日記

 5月12日の夜のBSフジ「プライムニュース」は、昭和の90年間を代表するというか、特筆する芸術家の肖像として岡本太郎を取り上げていた。ゲストは岡本さんと親しかった元東京都知事で作家の石原慎太郎さんと、岡本さんの沖縄文化論など同氏の再評価に取り組んでいる明治学院大学文学部教授(山下)。

 まとめると、岡本太郎とは

 前例とか「常識を突き破る創造力」(教授)を生涯持ち続けた男であり、芸術界の「反乱」(石原)者

ということになる。同感である。時代に反逆するその代表作品が

 太陽の塔

である。進歩と調和をかかげた国家プロジェクトに自ら乗り込み、そのテーマに反乱してみせた。何が進歩だ、何が調和だという憤怒があの縄文土偶をかたどった太陽の塔なのだ。大喧嘩の末、丹下建三のお祭り広場の大天井を突き破って立つ憤怒の太陽の塔こそ、岡本太郎そのものだったのだろう。

 生前、岡本太郎さんがある人から、あなたの肩書きは、と問われて、

 オレの肩書きは人間だ

とこたえたという逸話も紹介されていた。そんな岡本太郎を今の政界にもほしいが、もう出てこないような気がする。ゲストの石原さんは、最後にさびしそうにそう語っていたのが印象に残った。

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再論 春樹氏はなぜ文学賞をとれないか

(2014.10.09)  昨年のいまごろも、村上春樹氏はなぜノーベル文学賞を取れなかったのかというテーマでブログを書いた。書いたのだが、その後しばらくして、これを読んだある若い女性の春樹ファンからこっぴどく反撃され、ほとほと困ったとも書いた。

 ブログ子の主張が正しいかどうかは、次の発表でわかると「捨て台詞」風に書いた。のだが、案の定、今年も受賞しなかった。

 ● 取り巻きが障害に

 Imgp5810 しかし、だからといって、春樹文学の表現方法の独創性は認めるが、作品のなかに出てくる「謎」のなかに含まれているはずのメッセージ性が不明確というブログ子の指摘は正しかったとまでは言わない。言わないが、今年もかまびすしい「文学賞なるか」という発表直前のメディア騒ぎ( 写真= 10月7日付中日新聞 )を見ていると、

 取り巻きのミーハーファンがなくならない限り、受賞はムリ

と強く感じた。ひいきの引き倒しになっていて、さらし者の春樹さんが、ちょっとかわいそうな気がしないでもない。もっと辛らつに言えば、

 このままでは、ひいきのひき殺し

になりかねないのだ。

 ● 思わせぶりな「謎」

 同時に、春樹氏も、思わせぶりに「謎」にもったいをつけるだけでなく、その中身をきちんと文学的に昇華した形で表現することが、受賞には不可欠だろう。このことは春樹ファンを覚醒させるのにも役立つはずだ。

 独創性に優れているだけでは、アンパンマンのやなせたかし氏にも、宇宙戦艦ヤマトの松本零士氏にも、すでにおよびがかかってもいいはずだ。が、いっこうにそんな風はない。

 それとも、ひょっとすると、ノーベル文学賞の古い体質の選考基準と村上文学の新しい表現基準とは大きくズレているのかもしれない。つまり、ノーベル賞の評価基準は社会性とか、歴史性という現実との苦闘を評価において大事にする。これに対し、村上文学はそれらが希薄というズレだ。希薄というか、「謎」かけでごまかしている。そんな気がする。

 それはともかく、何につけても、とかく取り巻きというのは、傍若無人で厄介なものだ。

 今回も、そのことを痛感する。

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