(2014.11.06)
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホさま。
お手紙拝見しました。浮世絵の国、日本から、突然、返信をさしあげます。というのも、先月、古九谷のふるさと石川県加賀市の
硲伊之助美術館
を訪れたときのことを思い出したからです。その折、片隅ではありましたが、あなたの書いた膨大な手紙を日本語に直し、弟、テオドル宛のものなど宛先別にまとめた書簡集
『ゴッホの手紙』(硲伊之助訳、岩波文庫、1955年、写真)
を見つけたからです(硲= はざま)。あなたがお生まれになってからおよそ100年後、お亡くなりになってからでも60年以上もたってから翻訳されたものです。
しかも翻訳されてから60年近くたつ今の時代、そして国柄のことなる日本では、セピア色にくすんでおり、それほど意味のあるものではないとは思いながら、それでも手にとってみました。
ところが、その内容にとても驚きました。手紙数の多さもさることながら、その中身が具体的な生活の詳細にわたっていたからです。
そして、もっとも驚いたのは、その生活の詳細が色で語られ、色彩の鮮やかさで表現されていたことです。理系育ちのわたしですが、芸術とは、こういうものかという衝撃を受けました。
● 二つの結論 絵を描くということ
あなたは、第1信の若き画家、ベルナールに宛てた「このあいだ急に君を振り切って別れたのをあやまりたいと思う。この手紙でまずそれを果して置く」で始まるこの晩年にしたためた書簡集で何を語りたかったのでしょう。そして何と闘っていたのでしょう。一言で言えば、わたしが衝撃を受けた正体はなにか、ということです。
書簡集にはあなたが投函した膨大な手紙はあります。が、ベルナールあるいは弟、テオドルからどのような返事が届いたのかについては、書簡集には載っていないので、わかりません。
何度も読み返すうちに、何を語り、何と闘っていたのかについて、100年後に生きているわたしは次のような結論に到達しました。それをお知らせしたくて、ここに、頼まれてもいない返信をさしあげたのです。
その第1の結論とは、
絵を描くということは、描く対象を通して描き手の生活を表現することであり、この二つを分離することはできない
ということではなかったでしょうか。しかも、そのことを絵具の色の持つ遠近性で画布に表現しようと闘っていたのではないでしょうか。その着想は、あるいは浮世絵から得ていたのかもしれません。
すこし大げさに言えば、浮世絵を通じて自然と人間とは一体のものであるという東洋思想の考え方を感じ取り、それを西洋の油絵に取り入れようとしていたともいえましょう。客体と主体の分離を当然だとする西洋思想にはなかなかない考え方です。
こう考えれば、よく言われるあなたの生涯の悲劇性は理解できます。それはあなたが天才だったからではありません。西洋絵画と闘っていたからです。その唯一の味方だったのが、日本から届いた浮世絵だったのでしょう。
書簡集の第2信(ベルナール宛。1888年3月)のアルルの空気は
「澄んでいて、(風景の)明解な色の印象は日本を想わすものがある」
というアルル到着の第一印象を日本の風景にたとえて記述していたのを拝見し、私は大変うれしく思いました。
先の第1の結論から出てくるもう一つの結論は、あなた自身お気づきになっていなかったと思うのですが、
お書きになった膨大な色彩に富んだ手紙自身が、弟、テオさまと共同でおつくりになった、そして言葉でつづられた絵画作品だった
という点です。「ゴッホの手紙」というタイトルの絵画作品なのです。
これを第1の結論との関連で言えば、生活をつづったはずの手紙が、絵画作品となったということです。これが色彩のある手紙に私が衝撃を受けた正体だったのです。
以上二つの結論に至った理由について、以下、あなたの手紙を中心に、あえてその具体的な細部に立ち入ってお返事をさしあげたいと思います。
● 詳細な色見取り図
お話を始める前に、私があなたの手紙で一番驚いた手紙の中の色について、まず、お話したい。上、中、下巻のいたるところに詳細な色見取り図をしたためている点です。
たとえば、ほんの一例ですが、いよいよゴーガンがアルルにやってくるという高揚した時期、そして、ひまわりの絵を仕上げた直後の手紙には
「僕(ゴッホ)は人間の激しい情熱を、赤と緑で表現しようとした。部屋は鮮血のような赤と暗い黄色、中央には緑の玉突き台、オレンジ色と緑の放光に包まれたレモン黄の四つのランプ。紫と青の陰鬱ながらんとした部屋や、眠りこけている若いよた者たちや、到るところに非常に違った赤と緑の対照と衝突がある。例えば鮮血のような赤と玉突き台の黄緑とは、バラの花束のある酒売台のルイ十五世風のやわらかい緑と対照をつくっている。
この赤熱した雰囲気の片隅で番をしている亭主の白い服は、レモン黄色と明るい淡い緑に変わる。僕はこれを素描して水彩で調子をつけたから、明日君(弟、テオ)に送って、大体どんなものか見てもらおう」(中巻p218、弟、テオ宛ての第533信= 1888年9月)
という調子なのです。こういうのが、全巻の至るところにあり、私をとてもおどかせました。
これらの色がすべてあなたの頭の中に入っているのですから、驚くばかりです。ここからは、あなたが、いかに色彩の調和というか、その見取り図に真剣に向き合っているのか、その情熱がはっきりと伝わってきました。
この驚きの正体を知るために、先の二つの結論に向けて、以下のように考えてみたというわけです。
● 発見した「太陽の黄色」
そこで、まず、ほぼ年齢順に並べられた色のある書簡集の全体構成について。
上巻は、おおむね若き画家、ベルナールに宛てたあなた自身の芸術観、絵画論を述べたものといえましょう。
そして、弟、テオに宛てた中巻は、
芸術と生活の実践的関係論の見取り図
を自らのアルルの生活をもとに描いたものであり、これまたテオ宛ての最晩年につづった下巻は
関係論の見取り図を言葉という絵筆で絵画的にまとめたもの
だったと思います。
色の言葉、たとえば、黄色という言葉が全巻を通じて頻繁に出てきます。お亡くなりになる2年前に描かれた、かの有名な「ひまわり」もそうです。また、アルル近郊のサンレミ病院に入院したときに描かれた
「黄色い麦畑と糸杉」(1889年)
もそうですし、書簡集の巻頭を飾っている自画像もそうです。黄色い帽子とやや薄い青のコントラストが遠近感とともに、互いに補色の関係にあるからでしょうか、よく調和しています。
しかし、その中でも、色の調和をめぐるあなたの芸術観の到達点、あるいはその芸術観がどこから来たのかを知る手がかりとして、私がもっとも注目したのは、アルルからパリに戻った最晩年、亡くなる直前に描かれた
「カラスのいる麦畑」(1890年)
です。黄色い麦畑が画面の半分以上を占めています。そして、その向こうに黄色と補色の関係にあるやや暗い青の空。
このように最後まで一貫している色、黄色へのとりこが、どこからきたのか。私は理系出身ですので、その起源がわかりました。
それは、太陽です。太陽への憧れ、あるいは太陽の色の発見と言ってもいいかもしれません。
一般に太陽からの光線は白色光といわれています。しかし、このなかに含まれる色のうち、実は、太陽のような中くらいの重さの星では、最もエネルギーの多く含まれている部分が黄色の部分なのです。
あなたは手紙で、
「神の如き太陽と並んで」(第520信、中巻p182)
あるいは
「今まで孤独でいるのを気にしないほど、(アルルの)強烈な太陽が自然に与える効果に興味を持てた」(第508信、中巻p136)
と語っています。
最晩年になると
「ここの強烈な太陽の下では、ピサロの言葉や、ゴーガンが僕(ゴッホ)への手紙で言った同じような言葉と壮重さということは、僕もほんとうだと思った」(第555信、1889年10月、アルル)
と書いています。
これらの言葉は、ベルナール宛の芸術論(たとえば、第5信= 1885年5月下旬、たとえば第21信= 1889年12月初め)の中で盛んに展開される黄色と(補色関係にある)青についての見取り図の延長線上にあると感じられます。あなたの太陽、とりわけ黄色い光に対する発見と感性にもとづくものなくして、こうした手紙は書けなかったと思います。
人間の網膜で最も感受性が強いのは、太陽の色、黄色の光線なのです。そこにあなたは自身の感性を重ね、苦闘していたのだと思います。
● なぜ何点も「ひまわり」を描いたか
第二に、なぜ、あなたは「ひまわり」を何点も、正確には7点も描いたのでしょう。
ひまわりについては、2枚のひまわりを並べて、論じている手紙もあります。また、
「いつも糸杉に心ひかれる。ひまわりを扱ったように描いてみたいのだ」とも書いています(第596信、1889年6月、アルル)。
どうしてそんなにひかれるのでしょう。そのヒントは、「ゴーガンは健康な姿で(アルルに)到着した」で始まる
第557信(1888年10月、アルル。下巻)
にあります。ゴーガンと共同生活ができる喜びを弟、テオに伝えている手紙です。
この直前の10月に、あなたは、かの有名な
「ひまわり」(1888年の夏)
を描いています。アルルの強烈な夏の太陽に向かう黄色いひまわりを、待ち望んだパリから来るゴーガンにプレゼントしようとしたのだと思います。それも部屋を飾る共同生活の場の中におこうとしたのです。
このようにひまわりを何度も描いていたのは、絵画と生活の実践的関係論の証しであり、象徴だったのです。
● 最後の手紙
ゴーガンは、あなたが亡くなってから十数年後にタヒチでなくなります。あなたはお知りにならないでしょうが、ゴーガンはタヒチで過ごす最晩年、
いすの上のひまわり
という作品を残しています。ゴッホの花を、ゴーガンは、和解のしるしとして描いたのでしょう。
このように考えてくると、
絵画の対象と、その描き手との関係は分離できない
ということがよくわかります。こう考えると、描くということは、描き手の生活を、もう少し大きく言えば思想を色で表現することなのだというあなたの主張がとてもよく理解できるように思います。ゴーギャンもそのことについては、あなたと同意見に到達した。だからこそ、それを言葉ではなく、晩年に絵で示したかったのでしょう。
ゴッホは孤独のうちになくなったと、一般には考えられています。しかし、あなたが、この事実を知れば、もはやそんなたわごとに心をわずらわされることはないでしょう。
あなたの最後の手紙は、
「そうだ、自分の仕事のために僕(ゴッホ)は、命を投げ出し、理性を半ば失ってしまい- そうだ -でも僕の知る限り君(弟、テオ)は画商らしくないし、君は仲間だ、僕はそう思う、社会で実際に活動したのだ、だが(そうすることができなかった僕は)どうすればいい。」
と結ばれています(あなた自身が自殺の当日に持っていた手紙のことです)。
これに対する回答として、この返信の冒頭に挙げた二つの結論をあなたにささげたいと思います。
あなたの人生をかけた色彩のある手紙というりっぱな絵画があったのです。それはまさに、弟、テオとの共同の作品だったのです。これ以上の作品を、あなたが望むとは、私には思えません。
なぜなら、一点ものの絵とは違って、この作品はだれでもが、いつでも、そしていつまでも色あせることのなく鑑賞できるからです。私もまた今、それをしているのです。
この手紙の翻訳者もきっと、このことを信じていたと思います。
● アルルへ、補色の旅
お手紙が少し、長くなってしまいました。
お許しください。
ここまで書いてきて、ふと私は、あなたのたどった
パリからアルルへ、そしてサンレミへ。そして再びパリへ
という旅、いってみれば、絵画と生活が互いに引き立てあう、
補色の旅
にいつしか出かけてみたいという気持ちになりました。アルルを、モンマルトルの丘をそういう目で見た場合、きっと
これまでのゴッホとは違う出会い
があるように思えるのです。このこともお伝えしたくて、この返信をしたためた次第です。
蛇足ですが、プロバンス地方のアルルの北、アビニョンには、あなたと同時代を生きたA.ファーブルも生活していました。私の尊敬する「昆虫記」で知られる生物学者です。アルルの近くのセリニャンにお墓もあり、補色の旅の途中にでも出かけたいと思っています。
その墓石には、ラテン語で
死は終わりではない。より高貴な生への入り口である
と書かれているそうです。これは、ファーブルの生物学者としての到達点であったのでしょう。
私もそうでありたいと思っていますが、あなたの死も、また、そうであったと信じています。
最後になりましたが、弟、テオさまによろしくお伝えください。
白玉の歯にしみとほる秋の夜の
酒は静かに飲むべかりけり
日蘭交流400年、2014年11月
浮世絵の国の酒好きの一老人より
● 追伸
なお、別便にて、硲伊之助美術館が最近発行しました陶芸作品集
『九谷吸坂窯』(2013年)
をお届けします。
なぜ、これをお送りしたのか、この返信をお読みいただいたあなたならきっとその理由をおわかりいただけるものと確信しています。
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