学問・資格

浜名湖の水と生き物をめぐる集い 

(2013.12.16)  去年に続いて、今年もまた「浜名湖をめぐる研究者の会」(東大弁天島水産実験所、浜松市)に先日、出かけた。世話人は、今春まで同実験所の教授だった鈴木譲氏。

 Imgp2375_2 浜名湖の水環境や生き物の生態について、多角的に語り合おうという集いで、大学研究者のほか、漁業関係者あり、高校生あり、地域住民あり、またブログ子のようなジャーナリズム出身者ありと、去年に比べて、一段と学際的なワークショップとなった( 写真上= 同水産実験所 )。

 ブログ子の発表は、先日のこの欄でも取り上げた

 「ラムサールへの道 何が課題か その自覚と覚悟」

というもの( =写真最下段はそのパネル展示の様子。発表の要約と考察は「補遺」 )。

 あなたは、自分の仕事を社会の動きと結びつけて学際的に語れますか

というのが、訴えたい内容だった。

 この視点から、パネル展示を拝見して、とくに2つの注目すべき発表があったので、報告しておきたい。

 ● 放射能汚染のコイへの影響

 時事性のある現在進行形の深刻な社会問題に切り込んだのは、世話人の鈴木譲氏の

 福島原発事故による放射能汚染のコイへの影響

というパネル展示( 写真中。右端が鈴木氏 )。まきちらされた放射性セシウムの主に白血球数などコイの免疫系への悪影響を調べたもの。

 Imgp2380_1 事故現場に近い福島県飯館村3か所の孤立した池で捕獲した天然コイと、比較的に影響の少ないと考えられる栃木県芳賀町の1か所の池で捕獲したコイを比較した。福島県内の採取地の空間線量は年換算値で平均して10mSv/年とかなり高い(このほとんどは放射性セシウムによるもの)。

 それによると、白血球数も、リンパ球数も、栃木県のコイに比べて明らかに減少していることが分かった。

 ただし、対照とした検体の採取場所が栃木県内一か所であることから、採取サンプルの偏り(= 地域特性)を排除できないので、確定的なことは言えないという。サンプル採取が少なくとももう一か所別のところ(たとえば、より影響が少ないと考えられる浜松市)があれば、かなりの確率でこのサンプル採取の系統的な偏りを補正できたであろう。

 また、福島県内に限ったコイについては、放射性セシウム濃度の高いコイほど、白血球数は少なくなるという、統計処理上有意に、負の相関があることも分かった。この分析結果でも、放射線の影響を強くうかがわせる。

 これらの結果はほかの生物調査からもある程度予測されたことであり、今後さらに継続した調査と分析が必要であると思う。

 ● コイの臓器に通常みられない異変

 鈴木氏やその協力者たちは、こうした定量分析に加えて、コイの組織そのものの注目すべき顕微鏡検査も実施している。

 Imgp2367_1_2 それによると、脾臓、肝臓、腎臓などの組織に、通常では見られないマクロファージ集塊などの異変が起きている。こうした異変は、長年、コイ研究をしてきた鈴木氏自身ほとんど見たことのない異常であるという。

  右図( 会場の展示パネルより。写真はダブルクリックで拡大できる )がそれである。

  コイと人間とは種が離れているとはいえ、また、異変には個体差がかなりあったとはいえ、今回の事故の放射能汚染が今後長期にわたって人間に悪影響をおよぼさないなどという結論は少なくとも下せないことになる。

 となれば、むしろ、万一に備え、疑わしきは安全の側に立った対策をとるという原則からは、無視し得ない悪影響が人間にも出てくるとの前提で対策をとるべきだ。

 たとえば、飯館村への住民帰還を考える場合、このままでは今はともかく、将来、重大な健康問題を引き起こす可能性がある。そのリスクを帰還住民にきちんと説明することが求められる( 注記 )

  そのためにも、コイを含めた生き物について、もっと組織的、継続的な調査が必要だと強く感じる(以前、この欄でも、進化生物学者、T.ムソー教授のチェルノブイリや福島県におけるツバメなどの野鳥の突然変異とその遺伝状況調査を紹介した。今回の鈴木氏の発表はそれとも整合性があり、不気味ですらある。

 この鈴木氏の研究については、その要旨が以下にまとめられている(2014年5月10日、国学院大における飯館村放射能エコロジー研究会シンポ発表)。

 「IISORA2014-05-10suzukiyuzuruyoushi.doc」をダウンロード

 なお、ムソー教授の調査についての講演は、「注記 」参照 )。

 ● 奥浜名湖の産廃最終処分場問題に切り込む

 浜名湖をめぐる社会の動きに切り込んだもう一つの発表は

 奥浜名湖(奥山地区)の産廃最終処分場立地計画に対する問題提起

である( 写真下= 総合討論で発言する小野寺秀和氏(日本地質学会会員 )。

 Imgp2420_1 奥山地区環境保全対策協議会によるもので、計画のベースになるはずの浜松市発注の調査そのものが、たとえば活断層報告などにきわめてずさん、かつ多くの重大な誤りがあると批判している。その上で、この立地場所では、大規模な地すべりが起きる可能性がきわめて高く、処分場としては適格でないことを実証してみせている。

 この破砕崩壊地形に、もし仮に処分場を立地すれば、将来、大規模な崩壊で下流にある浜名湖の環境に深刻な水質汚染などの悪影響が出るという。

 もともと砂利の採取場だったこの地形ではかつて地すべりを起こしているという事実にも言及しており、この予測に強い信憑性を与えている。

 全体の論旨も、土台となる地質構造の専門的な知識に裏付けられた事実に基づいて展開されているなど、この調査結果は明解かつ、きわめて実証的である( なお、より詳しい発表内容は以下の「補遺」で見ることができる )。

   こうした地域に密着し、しかも時事性のある問題について、多角的に論議する場から、

  浜名湖の「ラムサール」への道

も開かれてくるように思う。

  ● 注記 除染の見直しと帰還 2013年12月27

  環境省は、これまで2014年3月までに完了するとしていた除染工程を最大で3年間延長する見直し案を公表した。これに伴い、帰還に当たっての被ばく線量の管理についても、これまでのモニタリングポストの空間線量計からの推計管理から、東電作業員並みの個人線量計測による実測に切り替える。

 帰還の目処については、

 長期目標としてこれまでの「年間1mSv以下」

は維持する。

 (国際放射線防護委員会の勧告では、事故が収まるまでの一時的な空間線量としては、年間換算で20mSvまでは容認している。が、環境省は、帰還住民の健康にかかわるこのへんの取り扱いについて、明確な指針をいまだに打ち出していない。年間1mSv以下というのではあまりに厳しく、杓子定規。帰還の目処はとうてい立たず、現実的ではない。この長期目標を維持すると、今回の除染期間延長もあり、帰還がますます困難になっていくとの悲観論がますます広がるだろう。

 この点について、年間換算で5mSvでも影響が懸念されるなど、チェルノブイリ事故後の健康調査結果も加味したブログ子の推定では、年間換算で3mSvが健康被害に大きな影響がでない個人線量の妥当な目安であろう。20mSvというのは、高すぎであり、帰還定住基準値としては容認できない。) 

 ● 注記 本当に役に立つ「汚染地図」

 飯館村などの福島での汚染地図については、最新刊の

 『本当に役に立つ「汚染地図」』(沢野伸浩、集英社新書)

に詳しい。事故直後、現地入りした米国家核安全保障局(NNSA)の専門家がGIS(地理情報システム)技術で精密な汚染マップを作成した事実に注目したもの。この公開情報があれば、飯館村の一軒一軒の汚染レベルまでが精密に割り出せるという。京都大学原子炉実験所助教の今中哲二氏も推薦している好著。

Imgp2379_1

● 注記  T.ムソー教授のツバメ調査

 今、福島のツバメに何が起きているか=

   http://lowell.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-dcae.html

● 補遺

 「12_16_2.JPEG」をダウンロード 

 「12_16_3.JPEG」をダウンロード 

 「12_16_7.JPEG」をダウンロード 

 「12_16_6.JPEG」をダウンロード 

 ● 補遺2  ラムサールへの道 何が課題か

    - その自覚と覚悟

 発表内容の要約 - 考察と結論  =

   「ramusaaru.doc」をダウンロード

 

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自然を数字であらわす 名古屋市科学館

(2013.10.02)  所用で名古屋を訪れたついでに、先月末、名古屋市科学館(白川公園内)に出かけた。浜松科学館でボランティアをしていることもあり、興味を持った。

 Imgp0945 外観は右写真の通りで、なかなか規模は大きい。H-IIBロケットの実機のテスト用試験機が玄関口に置かれていた(当然だが、実機は打ち上げると宇宙空間に捨てられるので残っていない)。全体で50メートルくらいはありそうだ。ユニークな建物の球形ドームの上半分がプラネタリウムとなっている。

 科学館として、どんなコンセプトで来館者の興味を引こうとしているのか。それがひとめで分かる展示を見つけた。

 それが左下写真の

 自然を数字であらわす

というパネルである。重さ、長さ、時間の単位について、解説していた。

 おもしろいいざないであると感心した。

 ところが、この一見自明な考え方も、実は、歴史的にはなかなか理解されなかった。

 というのは、そもそも、数字であらわすためには、その前提として、

 Imgp1070 自然は数字であらわすことができる

という考え方がなければならない。そんれを見事に証明して見せたのは

 I.ニュートンの大著

 「自然哲学の数学的原理(プリンキピア)」(1987年、ラテン語)

である。古代ギリシャ以来、幾何学、つまりユークリッド幾何学では論証と証明ということで自然を理解していた。自然界は幾何学のように合理的にできていることは西欧人は古くから理解していた。

 それが、さらに、自然界のすべての現象は数字であらわすことができる。しかも、数学の式、数式であらわすことができるということを見事に実証してみせたのがニュートンなのだ。17世紀前半のガリレオなどもこれに近い認識を持ってはいたものの、それは幾何学的な比例の量(したがって幾何学同様、単位はない)についてであり、ニュートンのような単位を持つ絶対値の数式ではなかった。

 そんなことを考えながら、館内を一巡したのだが、開放的な休息コーナー(写真下)や、入り口玄関のエントランスホールのスペースを広く取り、多彩なイベントができるように工夫していたのが目を引いた。

 訪れた日のエントランスホールでは、巨大なロケットエンジンの前で、コーラス講演会のような集いが行なわれており、来館者も熱心に聞き入っていた(写真最下段)

 浜松科学館は、これらの点では、ずいぶん見劣りすると感じた。

 Imgp1064  Imgp1071 

Imgp1077_1 

 

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拝啓 地震学会殿  風通しはよくなったが-

(2012.11.08)  先月開かれた注目の日本地震学会の秋の函館大会について、「週刊ポスト」が最新号(11月9日号)で現地ルポの形で取り上げている( 写真 )。

 Image1253_2 東北大地震を予知できなかったことから、予知について、学会はどう対応していくのか、またM9.0の大地震は日本では起きないとの思い込みがあったという昨年秋の静岡特別反省シンポジウム。この反省に立って、具体的にどういう学会改革をするのか、論議が交わされた。その様子をジャーナリストの伊藤博敏氏がまとめていた。

 静岡大学で開かれた去年の静岡特別シンポでは、ブログ子も地元ということで、参加した。その時に比べて、記事を読むとずいぶん風通しがよくなっていた。予知などできるわけがないなどとする若手研究者と主導的な地震予知学者とが、それこそ喧々がくがく、渡り合ったらしい。

 この点は、評価したい。

 しかし、どうも、まだまだ、全体的には相互批判が希薄で「仲良しクラブ」の域は出ていないようだ。新しく学会長になった加藤照之(東大地震研教授)の

 「新しい組織に生まれ変わりたい」

というには、ほど遠い。なにしろ、具体的な対策として、

 地震予知

という用語の使い方の見直しをこれから検討していくことになったという程度なのだ。その手始めに、

 学会の地震予知検討委員会の名称変更

を検討するという。あたかも予知ができるかのような印象をあたえるからというのが理由だ。他愛もない話だが、提案者自身も、もちろん、看板の架け替えにすぎないことは承知だろう。

きっと

 地震調査検討委員会

という名称に変わる。そんな言葉遊びをしているほど、地震学会は暇ではあるまい。

 Image1254 いつまでも、予知がらみで研究費を獲得するためだけの「錬金術」にうつつを抜かしていれば、国民からの信頼は地に落ちるだろう。

 今回の学会では、事実上、阪神大震災後の15年前、国の測地学審議会地震火山部会の報告書(いわゆる「レビュー」= 写真下 )の

 「現段階では、地震の予知は困難」

という認識をそのまま追認したにすぎない。

  ことにあたって学者に 決断力を求めるのは無理かもしれない。しかし、学者に良心を求めるのは決して無理ではない。とするならば、こうだ-。

 なぜ、自分たちは、この50年間失敗し続けてきたのか、本格的な学際研究を学会挙げて取り組むことが信頼回復の王道だ。「失敗学」の権威ある、そして格好の教科書となるだろう。

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蒲(ガマ、別名はカバ)って、ナンですか ?

Image1081 (2012.10.13)  浜松市に暮らしていると、カバザクラとか、蒲冠者(かばのかじゃ)とか、地名でも蒲公園、蒲小学校とか、「蒲」というのがよく出てくる。

 蒲冠者とは、兄が源頼朝であり、弟が源義経という浜松出の源氏の武将、源範頼(のりより)のこと。平家都落ちを義経とともに追撃したことでも、義経ほどではないが、知られている。

 ブログ子の自宅近くの佐鳴湖北岸には範頼の別邸跡が残っていて、片隅に蒲桜が植えられていることは、以前、このブログでも紹介した。このあたりの湿地や湖岸にはカバが多く自生していたのであろう。だから、そこの出身ということで蒲冠者というわけだ。

 ところで、現在、ブログ子は、浜松科学館(浜松市)で、子どもたちを相手にサイエンスボランティアをしている。ささやかな社会奉仕だが、この夏、子どもたちから、突然、

  「蒲、カバっていうけど、先生、この茶色い〝フランクフルト〟のようなものはナンなの ? ソーセージのようなお肉 ?」

という素朴な質問を受けて、ハッとした。かつてブログ子も子どものころ、同じ疑問を持ったことを思い出したからだ。しかし、この50数年、一度もそれを確かめようとしたことはなかった。不覚だった。

  早速、カバを取ってきて、自宅で育ててみた。3週間ほどで、それが先日、写真のように、フワフワの羽毛のような白い花を咲かせていたのに、びっくりした。

 表面が堅い茶色いフランクフルト(花穂というらしい)は、なんと、茶色いタネ(雌しべ)がびっしりと並んでいるものだった。フワフワを一つ一つよく見ると、ごくごく小さなバドミントンの羽根の形をしている。羽子板遊びの羽根のほうがより正確かもしれない。羽根の先の点が茶色のタネだった。これが花粉のように秋風に乗せられて周りに飛んでいくのだろう。

  50数年ぶりに、子どものころの疑問が解けた。そう子どもたちに報告したら、

 「先生、だったら、おしべは、どこにあるの」

とかわいい女の子に言われて、絶句した。答えられなかったのだ。風に飛ばされるのは受粉後であろうから、カバ自身におしべがあるはずであるが、わからなかった。

 仕方がないので、カラー写真や図解が多いので20年以上前に買った『日本大百科事典(ジャポニカ)』で調べてみたら、なんと

 おしべは、フランクフルトから突き出ている20センチほどの細長く、硬い角(少し黒くなっている写真上部のつのの部分)

にくっついていた。雌しべに比べて、おしべの数はずいぶんと少ないことも知った。

 古事記(印旛の白兎)にも出てくる蒲(カバ、ガマ)だが、予断のない子どもたち相手にボランティアをしていると、子どもたちに導かれて、思わぬ〝大発見〟をすることがある。ブログ子にとっては、iPS細胞うんぬんよりも、こちらのほうが、ずっとすごい出来事だった。 

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素粒子は粒子か ?    「ヒッグス」発見以後

Image781 (2012.07.30)  ものに質量を与えるとされるヒッグス粒子の発見からまもなく1か月がたつが、「日経 サイエンス」9月号が、この粒子について特集を組んでいる ( 写真 )。

 素粒子の理論分野でノーベル物理学賞を与えられた小林誠さんや、益川敏英さんが編集部インタビューに応じ、発見の意義や今後の理論研究の展開について語っているのが、興味を引いた。

 この粒子の発見の決め手は、理論的に予想される粒子のいくつかある崩壊パターンに実験結果が合致し、かつ、その質量は125GeV付近にある確率がほぼ100%に近かったことだ。小林さんは、これについて

 「実験結果を素直に解釈すれば、今回の実験でヒッグス粒子が見つかったと考えるのが自然だ」

という表現で成果を高く評価している。残された最後の粒子の発見は「一種の完結」というわけだ。

 問題なのは、当初予想されていた質量140GeVではなく、なぜ125GeVだったのかという点だ。このズレから、ひょっとすると、発見されたのは、いくつかあるヒッグス粒子の中のひとつかもしれないという。ヒッグス理論では、ヒッグス粒子は一つであると証明していない。だから、ほかの基本粒子と同様、3種類(世代)あってもおかしくないというわけだ。

 それと、もうひとつ、質量を与えるヒッグス粒子そのものの質量がなぜ125GeVなのかという点だ。ヒッグス理論ではこれは説明できない。

  こうしたことから、発見に至ったデータをもとに、質量を与えるヒッグス機構を詳しく調べると、

 新たな理論の入り口

に至るのではないかと話す。つまり、単に45年前に予測された粒子が今見つかったというだけでなく、突破口(ブレイクスルー)になるということだ。

 益川さんも、

「 (1980年代以降) 30年間のこの理論の無風状態に新たな展開が期待できる」

と話す。たとえば、標準理論にある多くの任意パラメーターの確定、また、なぜそのような値になっているのか、さらには基本粒子の質量にはなぜ規則性がなく、ばらばらなのか-といったことが、今回の実験結果の先に見えてくるのではないかと期待を示した。

 Dsc00249 その先とは、ひも理論、超対称性理論などのことを指しているのだろう。今回の新粒子は、こうした最近の理論によって説明される可能性が高いと益川さんは、インタビューで語っている。

 これらの記事を読んで、

 〝素粒子〟は、果たして粒子か ?

という南部陽一郎さんが行ったある講演(1985年4月、東北大学理学部。 注記 )のタイトルを思い出した。素粒子は〝粒子〟ではなく、閉じたひも、つまり、ごく小さい輪ゴムのようなものであるという理論である。

 ここまでくると、実証性が求められる物理学も数学的、抽象的になりすぎて、とても、実験にかかるまでにはまだまだ遠い道のりだろう。

 注記

 南部陽一郎『素粒子論の発展』(岩波書店、2009)  「〝素粒子〟は粒子か」

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現代の進化学 分子レベルでは「中立説」

(2012.06.13)  集団遺伝学を取り込んだネオ・ダーウィニズムもふくめてダーウィン進化論は、最近の分子レベルの研究から、ずいぶん分が悪くなっている。

 「種は変化する」というダーウィンの卓見は依然ゆるぎないが、種の変化はコツコツと遺伝的な変異を親から子へ蓄積していった結果だという論の土台となる考え方の漸進主義や、そのほか、たとえば進化論の核心 = 種の分化の仕組み、個体の形態変化の分子レベルの機構などの点でこの進化論の総合説が、理論的な整合性により、1960年代のように進化論の分野に君臨していられた時代は、今や完全に終焉したと言えそうだ。DNA本体の解明が急速に進んだ威力だろう。

 このことの一例を、前回のDNA版「ファーブル昆虫記」で紹介した。それでは、ダーウィン進化論はどのようなものと置き換わろうとしているのだろうか。

 進化論だって進化する。そう考えれば、いまだ包括的な理論、ないしは指導原理はないのも不思議なことではない。しかし、その進化の方向はみえてきており、分子レベルの進化論のパラダイム転換がすでに始まっている。1970年代の世界的な論争を経て、1980年代にほぼ確立した

 分子進化の中立説(論)

である。突然変異は、自然淘汰で(最)適者として生き残れるという意味で個体の生存に有利なものが生き残り、進化に寄与する。しかし、そうではない突然変異はすべて生存に不利であり、何代にもわたって生き残れず、したがって、進化には寄与しないという、ダーウィン以来の暗黙の前提が正しいのか、どうか。日本の木村資生氏が打ち立てた中立説(1968年)の出発点は、ターウィン進化論のこの暗黙の前提を吟味することから始まった。

   この吟味をするために、木村氏は、1968年論文で、分子レベルの進化速度、つまりほ乳類などの生物で実際に起きている突然変異の世代あたりの推定値と、細胞分裂に伴うDNA複製時の複製エラーとしての理論的な突然変異の世代あたりの発生割合を比較した。その結果、理論値の割合が、圧倒的に(2、3桁も)大きいことがわかった。このことから、

 「塩基配列によってひきおこされた突然変異の大部分は、淘汰をほとんど受けない中立なもの」

との結論に達した。言い換えれば、先の暗黙の前提は崩れた。むしろ、生物体内で実際に進化に寄与する突然変異のほとんど大部分は、その個体の生存に有利でも、不利でもない、いわば沈黙の突然変異なのだ。

 言われてみれば、明解で単純な指摘だが、集団遺伝学に精通し、しかも、1960年代という勃興期の分子生物学の成果をいち早く貪欲に取り入れた40代半ばの木村氏だったからこそ到達できた成果だろう。

 注意すべきは、上記の木村氏の結論は、分子レベルの進化速度という測定可能な観察データを土台にして、それと整合性のとれる数学理論として中立説を導き出している点だ。したがって、これを否定することは容易ではないばかりか、観察に基づいた理論であるだけに、理論の適否の指標でもある未知の物理量を予測し、観察データと比較すらできる。予測値から観察値を調べてみると、予測通りだった例もある。集団遺伝学のように繁殖率など、パラメーター依存が不要になったのだ。

 木村氏は、その著『生物進化を考える』(岩波新書、1988年)で「中立説は決してダーウィンの自然淘汰説(そのそもの)を否定するものではない」と書いている。その淘汰の働きが大きく変わり、有利な突然変異を持つ(最)適者が生き残るのではなく、遺伝的な浮動とい偶然、つまり(最も)運のいいものが生き残るというわけだ。自然淘汰はダーウィンの「適者生存」から中立説の「幸運者生存」にパラダイムがシフトしたといえるだろう。

 Image629 ここに、進化論が、いまだ包括的な指導原理はないものの、総合説を乗りこえ、真の意味で科学の分野として歩み出したといえるだろう。この意味で、中立説というより、今では中立進化論、あるいは中立進化学というべきかもしれない。

 大きな成果として一例を挙げておく。

 この中立進化論(たとえば、木村氏の1990年論文「進化の緩急」)によると、種の個体群のなかに有利でも不利でもない突然変異が大量に蓄積される静かな時期と、環境の激変によって、その蓄積された突然変異が一気に自然淘汰にかかる時期とがある( 注記2 )。

   この予測は、12年後の2002年に、前回のこのブログで書いたように、大澤氏のオサムシ分子系統樹の研究で大筋でその通りであることがわかった( 注記 )。

  木村氏の偉大さは、卓抜な研究論文(1968年Nature論文)そのものもさることながら、自分の説を最終的にきちんと整理して、世界に向けて、あるいは後身に向けて残し、一般の読者、社会にも学問の進展と成果をわかりやすく還元したことであると指摘しておきたい。

  具体的には、まず、『分子進化の中立説』(英文版、1983年)で、その成果を体系化し、世界の研究者に引渡し、日本国内については、大学院生など若き後身に向けて、その翻訳(1986年)を出版し、便宜を図った。同時に、一般の人々にも中立説のポイント解説した「生物進化を考える』(岩波新書、1988年)を上梓し、提唱者としての責任を果たしている( 写真 )。

  後身を育てるという意味では、所属していた国立遺伝学研究所(静岡県三島市)を世界の三大研究所にまで育て上げ、若い人材を継続的に輩出させる仕組みを、遺伝研に入所した戦後間もないとろから一貫して心掛けていたことを挙げておきたい。いまや、

 遺伝研は世界のミシマ

と言っていい存在になっている。ここに、ダーウィンもできなかった人材育成に心血を注いだ木村氏の真骨頂があったと思う。国立遺伝学研究所の斎藤成也教授(遺伝学)の『自然淘汰論から中立進化論へ』(写真= 右。NTT出版、2009年)はそうした継承の好例だろう。

 1994年、70歳で不慮の事故で亡くなったが、もう少し長生きしていれば、あるいはノーベル賞にも手が届いていたことだろう。

   注記

  前回のブログの大澤省三氏のオサムシ分子系統樹の結果のところでも述べたが、種は変わるべきときがきたら個体は一斉に変わるという、正統派学界からはほとんど無視された今西進化論の根幹とも合致することに注目したい。

  注記2

    詳しくは、『自然淘汰論から中立進化論へ』(斎藤成也、NTT出版、2009年)の第8章21世紀における中立進化論参照。中立進化の本来の定義は、機能が変化しないのではなく、(機能が変化しても、それが)自然淘汰を受けないということであるとして、表現型を含む大規模な進化の起こる仕組みを、中立論をもとに木村氏が提唱した4段階仮説でやや詳しく説明、紹介している(具体的には、同書p163以下)。 

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進化に「動」と「静」  現代「ファーブル昆虫記」

(2012.06.12)  先月27日付のこのブログで

 ファーブルはなぜ進化論に否定的だったのか

について、書いたら、少し反響があったことを、同じこの欄で先日述べた。今から100年以上も前に刊行された

 『ファーブル昆虫記』(全10巻、1879-1910年)

は、昆虫の行動や生活誌を具体的に明らかにし、その驚くべき本能について解明しようとしたものであった。

 そこから、本能の精妙さは、まるで当初から神から与えられたものであり、徐々に変化してきたものでは到底あり得ないとの結論に到達する。つまり、進化論には反対したというわけだ。これはマクロな視点からの結論だ。

 Image623 それでは、現代の虫好き、昆虫好き、いわば「現代のファーブル」たちは、どのような態度をとっているのであろうか。環境のわずかな変化にその時、その時、最もうまく適応できたものが生き残り、その遺伝的な変異が長い時間をかけて親から子に遺伝し、生存に有利な遺伝情報が種内に次第に広がっていく。このことで、種は環境的にも時間的にもゆっくりと変化してきたとする漸進主義のダーウィン進化論(ネオダーウィニズムも含む)をファーブルのように否定しているのであろうか、それとも肯定しているのであろうか。

 この問題については、アマチュアと協力して、世界中からオサムシ(甲虫類)を収集し、そのDNAの塩基配列のわずかな違いをたどって、種の分化の歴史を探ろうとした日本の研究がある。

  のちにこうした研究を分子系統進化学と呼ばれるようになるのだが、大澤省三名古屋大学名誉教授を中心に1990年代に本格的に行われたオサムシの分子系統樹づくりは、その嚆矢であろう。

 その成果は、「歩く宝石」とも言われるオサムシの図鑑でもある

 『DNAでたどるオサムシの系統と進化』(大澤省三 et al.、哲学書房、2002年)

という大著にまとめられた。人類遺伝学の尾本惠市東京大学名誉教授は、この本を「分子進化研究のバイブル」とまで激賞している。

 ブログ子も、この美しい本を持っているが、

 DNA版「ファーブル昆虫記」

と思っている( 写真 )。

   完成間もない2002年4月18日付日経新聞「文化」欄に、大澤氏自身の

 オサムシ、進化論を覆す ?

というタイトルで、かいつまんだ結果報告ではあるが、それでも長文の刺激的な寄稿がある。

 それによると、

 「世界のオサムシは、約四千万年前、短期間で一斉に主なグループが分化したようだ。三千万年たっても形の変わらないものもあれば、ずっと変化のなかった系統から突如形態の変わった別種が出た例もある。どうやら、進化には激しく分化する「動」の時期と「静」の時期があるらしい」

ということになる。つまり、ダーウィンの進化の漸進主義を否定している。大著の最後の結論の冒頭部分でも、この部分に触れて

 「主要な属は、5000-4000万年前のごく短期間にほぼ一斉に出現したことが分子系統樹によって示された」

としている。これは(適応)放散現象を思わせる。さらに、

 「「静」の時期を経た後に、時がくれば種は爆発的に、または不連続的に誕生するのである。」

としている。「静」の時期というのは、突然変異が蓄積される時期に対応するのだろう。時がくれば、というのは、隕石の衝突など環境の激変を指す。

「このように「動と「静」の組み合わせによる進化のメカニズムについて、分子遺伝学の立場からいろいろな仮説を提唱することも可能である」

として、今後の仮説の実証研究に期待をかけている。

 以前の川の流れでコロ、コロと角張った小石が転がるうちに、丸まった滑らかな石に変わるたとえ話をした。動と静について、そのたとえで言えば、

 Image6276 滝などの環境の激変があれば、小石は少しずつの変化ではなく、滝に落ちて、二つに割れて分化したり、川の外に放り投げられたりして転がることをやめる。つまり、絶滅するということだろう。進化とは静かな流れと滝や急流が交互に訪れる川の流れに、この分子系統樹進化学の成果からは、あるいはたとえられるかもしれない。

 今西錦司氏は『私の進化論』(1970年、思索社)で

 「種は変わるべきときが来たら、種内の個体は一斉に変わる。個体間に区別はない。環境激変期には、いちいちランダムな突然変異など待ってはいられない」

と指摘している(たとえば、同書p173など)。環境激変期に、そんな悠長なことをしているようでは、種は滅びてしまうというわけだ。生物の観察を長く続けてきた経験がそうした確信を生んだのだろう。

 今西錦司氏は、生物学者として遺書のつもりで書いた『生物の世界』(1940年)以来、半世紀にわたり一貫して、そして繰り返し、上記の主張をしてきたが、これまであり得ないこととして、正統派の学界からはほぼ完全に無視されてきた。しかし、1992年の彼の死後からは、皮肉にも、大澤氏の研究などからもわかるが、上記の主張を中核とする今西進化論の全体像は正しいのではないのかという情勢になりつつあるように思う。

 この件については、あらためて、再論、今西錦司の進化論 = 主体性の進化論は死んだかとして、後日取り上げてみたい。

 

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ファーブルはなぜ進化論に否定的だったか

(2012.05.27)  ファーブルの昆虫記は、冒頭、

 「ざっとこんな具合に話が進んでいった。」

で始まる(  写真 =  『完訳 ファーブル昆虫記』(奥本大三郎、集英社) )。そして、ただちに、くそ虫、スカラベの行動のおどろくべき観察の様子が語られるのである。なんとしても多くの読者に知らせたい、わかってもらいたいという気概が伝わってくる簡潔な出だしだ。ずばり核心を突く書き方と言ってもいい。全10巻のこの大著、原題は「昆虫学的回想録」。この不朽の名作となったこの著作で、著者、ファーブルは、何を読者わかってもらいたかったのだろう-。

 このことを、ブログ子はずいぶん以前から気にしていた。

 折りしも、BS-プレミアムで、先日、三夜連続で

 「ファーブル昆虫記」

を再放送していたので、深夜にもかかわらず、見た。

 Image575 ハイビジョンの美しい映像と、虫好きの仏文学者、奥本大三郎さんと昆虫写真家、海野和男さんの二人の案内がうまく調和していて、楽しい番組に仕上がっていた。ファーブルが100年前の南フランスで観察したこと、実験したことを、南フランスと似た環境、気候の長野県小諸市の海野別荘兼研究室にある現代のハイテク機器で再現したり、ファーブルがしようとしてできなかったことをやってみせていた。虫好きの執念と恐ろしさに感嘆した。これには天国のファーブルも手をたたいて、喜んだであろう。

 それらを通じて、ファーブルの著述意図は、どうやら

 本能とは何か。その驚くべき精妙さを知ってほしい、わかってほしい

ということだったことが、理解できた。

 回想録の大部分がハチの記述に費やされているのも、そのせいなのだろう。というのも、本能の働きは、生き物の中では昆虫、特にハチやアリで高度に発達しているからだ。昆虫の生活誌や行動をつぶさに観察したり、実験したりすれば、本能とは何かが具体的にわかる、というわけだ。

 たとえば、テレビでも再現されていたが、ジガバチの例。上記の本によると、このハチは、イモムシやシャクトリムシなどのガの幼虫を麻痺させたまま、つまり生きたまま、地中に蓄え、それに卵を産みつける狩りバチの仲間。産みつけるその穴も事前に自分で掘る。穴は獲物を〝収納〟したあと、その入り口を、それこそ後足で砂をかけて、きちんと閉じる。その外敵対策の周到さにはびっくりする。

 一方、地中の幼虫は、その生かした獲物を殺してしまわないよう、順序を〝考え〟ながら、少しずつ食べて、ついに獲物がなくなるころ、成虫になる( 奥本完訳の第1巻下 )。

 ハチはまた、生まれながらの〝麻酔の名人〟だという。

 アラメジガバチの例。それはまさに「もっとも高名な解剖学者もうらやむような巧妙さ」だと、ファーブルは感嘆している。毒針を用いて獲物の筋肉に刺激を送る大もとの神経中枢を刺す。この瞬間の再現実験( 海野和男氏)がテレビで紹介されていたが、確かにその正確無比は現代の腕のいい解剖学者でも、とうていマネはできないだろう。ファーブルが

 「獲物についての正確な解剖学的知識が、ハチの針を導いているのである」

と記しているのも、うなづける( 第2巻上)。

 獲物をこのように殺さずにその運動能力だけを奪う。その鮮やかな狩りを司るものはものは何か。神業とも言うべきその見事な麻酔技術が、ダーウィンの言うように、少しずつ進歩(進化のこと)していくことなどあり得ないと言うのである。

 ここから、ファーブルは、ハチは生まれながらにして麻酔の名人であり、

 その「本能は、獲得されるものではなく、もともと具わっていたもの」

と結論付けている。

 ファーブルは、具体的には、まずアラメジガバチの観察と実験とが合わないことから進化論を疑うようになった

ということだろう。その後、いろいろ疑問が出てきたのだ。 

 その一方で、ファーブルは、このおどろくべき本能も、いったんスイッチが入ると、その後状況が変化しても、その変化に対応して、とるべき方策を類推し、その結果をもとに行動するという、人間ならだれでも備えている柔軟性はないとも指摘している。

 さらに、第2巻下では、ヌリハナバチに関する観察をもとに、

 「昆虫の心理についての短い覚え書」

という興味ある一章を設けて、昆虫には、人間のような類推能力はないと結論づけている。理性はないといいたいのだろう。

 これらの観察事実は、当時、ヨーロッパの科学界をにぎわしていたダーウィンの進化論に深刻な〝つまづき〟を与えたらしい。 ファーブルは、これでもかと言わんばかりに

 「進化論への一刺し」

との皮肉たっぷりの一章も設け、狩りバチの獲物と適応力について、論じている。

 進化論の説明のためにダーウィンが導入した「適応力」がもし本当にあるとするならば、なぜ動物は食物を限定するのか。ダーウィンの言う激しい生存競争に勝つためには何でも食べたほうが有利なのに、狩りバチは獲物をきちんと選んでいて、決まっている。なぜ昆虫にはそんな雑食性はないのか。

 進化論では、昆虫の食物選択を説明することはできない

と、手厳しく、批判している。これには、生前、ダーウィン自身も、心中穏やかではなく、ファーブルの精密、綿密極まる観察と実験は頭痛の種だっろうことは容易に想像できる。

 捕食、生殖や育児にかかわる昆虫の本能に関するファーブルの40年近い観察の結果、本能の精妙さや堅実性を根本的にゆるがす(ダーウィン進化論的な)事実はなかったとして、全10巻完成(1910年)後に書かれた、つまり決定版とも言うべきハードカバー判の「序」には

 「特に、知性を持ち出して昆虫の行う多くの行為を説明出来ると信じた進化論は、その主張を少しも証明したとは見えない。本能の領域は我々のあらゆる学説が見逃している法則によって支配されているのだ」(『完訳ファーブル昆虫記』山田吉彦・林達夫訳、岩波文庫、1993年)

と結論付けている。ここから、ファーブルは

 「いくら昆虫の形態を分類学的に吟味しても昆虫の習性はわかるものではない」

との理解に到達している(山田/林完訳第7巻)。むしろ、進化論の論理とは逆に、本能が形態を支配するとさえ説いているのだ。本能が昆虫の形を決め、本能が道具を使わせているというのだ。

 いわば、ダーウィン進化論では種の変化の方向は漸進的な自然選択説であるのに対し、ファーブル進化論は本能決定説であり、種は変化するとしても、漸進的ではない

ということになる。

  それでは、ファーブルの言う「本能の領域は我々のあらゆる学説が見逃している法則によって支配されている」ときのその法則とは何か。

 この点については、ファーブルは、それ以上言及していないようだが、思うに、

 当時のフランス哲学者、H.ベルクソンの主著の一つ『創造的進化』(1907年)

ではなかったか。「生の哲学」あるいはキーワード「生命の跳躍(あるいは飛躍)」という考え方である。

 ダーウィンのような進化の漸進主義ではなく、あるとき突然創造されたとでも言うべき、生命の飛躍的なある種の変化が、生き物の本能の起源である。

 そうファーブルは考えていたとしても、不思議ではない。

 これを身近な事例でたとえると。

 天竜川の上流でかけて小石ができたとする。そのでこぼこの石が数百キロという気の遠くなるような距離を長い長い時間をかけてコロコロと転がるうちに、ついに河口付近では美しい滑らかな小石になる。これがダーウィン流の考え方。小さな変化が、途方もない時間をかけて、最初には想像もできないほどの驚くべき変化につながる。人間も昆虫もその結果だというわけ。

 これに対し、ファーブルの考え方。

 そうは言っても、その美しく、滑らかな小石は小石である。もともととそう変わらない。いくら時間をかけても、腕時計のような精密機械にまで変化することは到底無理だ。本能という働きは、その精密腕時計ほどの見事なものなのだ。ダーウィンの考え方は本能にもとづく行動を等閑視しすぎている

というわけだ。

 この考え方をさらに現代流に〝発展〟させたのが、神の御手による創造説の変種、ID説。インテリジェント・デザインという意味だ。神の御手を現代的に言い換えて、人間を、あるいは精妙な行動をする昆虫を生み出したのは、知的な設計者によるものだという考え方である。知的設計者とは「神」の言い換えであろう。先のたとえで言えば、石を腕時計にまで跳躍させたのが、知的設計者なのだ。ダーウィンの言うような、自然の川の流れではないというわけだ。

 実証主義者のファーブルは、ここまでは主張しないであろうが、ダーウィン進化論よりはベルクソンの考え方、「生の跳躍」には、驚嘆すべき本能の働きを知っただけに共感を持ったであろうことは想像できる。

 同時代に生きたダーウィンとファーブルの研究成果やその解釈の違いはどこから来るのだろうか。

 これまた、たとえで言うと。

 南フランスをフィールドとして昆虫を観察したファーブルは、「地球は平坦」と考えた。

 これに対し、

 ビーグル号で世界を回ってさまざまな生物にであったダーウィンは、「地球は丸い」と考えた

 この違いであろう。

 少し解説すると、ダーウィンは世界周航でも地質学的な時間スケールで過去を記述したライエルの『地質学原理』を携えるなど、時間軸を研究に取り込み、生物の外側から「種は(時間的に)変化する」「種は(環境的にも)変化する」ことを示そうとした。

 これに対し、ファーブルは、時間軸ではなく、昆虫の生活誌や行動を、その内部に入り込んで本能とは何かを研究の軸とした。その態度は、観察するだけでなく、そこから仮説を立てて昆虫の行動を実験で確かめるという実証主義的なもので、ダーウィンを上回る徹底したものだった。

 生命の設計図DNA時代を迎えた現在では、ダーウィンの進化論は、生物の形態変化の謎を除けば、1980年代に進化中立説にとってかわられている。種は変化するというダーウィンの慧眼は正しいが、その原因はダーウィンの考えた自然選択によるものではないことがわかっている。環境に適した適者生存ではなく、運のいいものが生き残る、ただそれだけなのだ。

 また、ファーブルの本能とは何かという点については、今も謎のままであり、解明が待たれている。その意味で、100年前の研究態度は甲乙つけがたいし、すぐれたものだったというべきだろう。 

 もう一つ、この貴重な番組をみて、考えさせられたことがある。それはファーブルの生き方である。

 ファーブルが昆虫記という回想録を後半生をかけて書こうと決心したのは、教師を辞めさせられたことで、定収入がなくなったことがきっかけだったことだ。家族をかかえ、貧困に苦しんだが、

 「よし、働こう」

と、果然、二足のわらじから、昆虫観察や著述業に専念したのだ( 注記3 )。ライフワークに没頭するかたわら、科学普及書を書き出した。そのわずかな印税で、40年近くの後半生の生計を立てた。

 ファーブルの生涯を一言で言えば、逆境に強い一生だった

ようだ。

 このことが、徹底した観察に基づく洞察力とともに、この大著を世界的な感動の名著にしたように思う。

 忘れてならないのが、生計は苦しかっただろうが、その暮らしぶりはそれまでとはくらべものにならないほど、ファーブルにとっては

 至福の歳月

だったと思う。そのことは大著の回想録からも伝わってくる( 注記2 )が、50代からの後半生を過ごした南フランスの田舎村、セリニアンの自宅、つまり

 自由に昆虫観察ができる自然いっぱいの広い前庭と、研究室を兼ねた自宅

からもよくわかる。狭いベッドの脇で、いきいきと観察に没頭した様子がテレビ番組でここを訪れた奥本さんの案内でよくわかる。

 「アルマス(荒地)」とファーブル自身が名づけたこの場所は、昆虫記10巻を完成させたところでもあり、現在、博物館になっている(ファーブルは47歳のとき教師を辞めさせられたが、54歳の時、昆虫記第1巻を刊行。インクであろうか、表面が真っ黒に汚れている執筆に使った小さな机も展示されている 「注記」 )。

 ブログ子が、ファーブルの生き方に感動するのは、五木寛之氏の言う

 人生、下山の時代こそ、実りの時

との主張に対し、ここにその具体的な事例があると気づいたからだ。さらに言えば、経済的に余裕のある下山の時代よりも、かえって貧窮の下山である場合、より大きく花開くものである。富裕な一生を送ったならば、ファーブルは果たしてあの不朽の名著をものにしただろうか。環境さえ整えれば、良い研究ができるとは限らない。そんな思いがした。

 お金に困らない富裕な一生を送り、国葬並みの葬儀が行われたC.ダーウィン。種は変化すると喝破するなど、確かに偉かった。しかし、同時代に生きたH.ファーブルは、その生き方においてそれ以上に偉大であったと信じさせる番組であった。

  「人生に生きる価値はない」と書いた、あるいは主張する哲学者が日本にはいる。言葉のお遊びに明け暮れる哲学者のひねくれ人生は、あるいはそうかもしれない。しかし、ファーブルの92年の人生には、生きる価値が十分にあったと確信して言える。

 最後の第三夜は徹夜に近い視聴だったが、そんなことを知っただけでも、うれしかったことを正直に告白しておこう。

 注記 

 物理と数学の教師となったファーブルが昆虫に本格的に興味を持ったのは、番組によると、南フランス本土から地中海の孤島、コルシカ島に中学物理教師として赴任したことがきっかけらしい。太陽輝くこの島の海辺の生き物に

 「圧倒的に屈服した」

とファーブルは大著でその興奮を回想しているらしい。4年間のこの島での生活により、(無味乾燥な) 数学の sin、cos の世界から生き物、とくに昆虫の世界にのめりこむことになる。ファーブル25歳前後のことだというから、昆虫記刊行の30年も前のことである。番組では触れられていないが、このころすでに、ファーブルは、発表されたばかりのダーウィン進化論について、自分独自の見解(おそらく、懐疑的な)を持っていたらしい。 

  注記2

  スカラベの行動観察から始まった昆虫記だが、第1巻出版から18年後に出版された第5巻には、ついに、それまでどうしても突き止められなかった

 スカラベの食料付きゆりかごとも言うべき「育児球」づくりの一部始終の発見

が報告されている。その秘密の全貌が克明に図入りで説明されているのを見ると、ファーブルの100年前の感動が今も伝わってくる(奥本完訳第5巻上)。ファーブル70代に入ってからの発見である。そして、全巻完成に向かって、あと12年の歳月が流れたのである。

 この輝ける、そして、あくなき不屈の闘いこそ、ファーブルにとっての至福のときであり、不朽の名作につながった理由であろう。

  注記3  回想録を書こうと決意した動機は何か

  それは、ダーウィンの進化論『種の起源』(1859年)の続編ともいうべきベストセラー『人間の由来』(1871年)を失業直後の48歳のころに読んで、これは誤りだと確信したからだろう。以来、それまでの観察結果を整理し、コツコツと原稿に書き溜めて、54歳の時に回想録第1巻として出版にこぎつけた。第1巻の終わりに、ジガバチの事例を進化論に懐疑的な証拠として紹介されているのも、これだとうなづける。全10巻の最初から疑問をいだいていた証左だろう。

 上梓して確信を得たファーブルは、第2巻では、別の事例、つまりアラメジガバチの麻酔名人ぶりを紹介。さらに「進化論の一刺し」や「心理についての覚え書」を執筆することで、ますます、ダーウィン進化論は到底受け入れ難い誤りであると主張するようになった。

 そう考えると、回想録の執筆動機は、48歳ごろに読んだダーウィンの『人間の由来』(1871年)であり、その根本的な誤りをただしたい、世に問いたいためだったといえそうだ。

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「天竜川の石」は中央構造線からの手紙

(2012.05.22)  雪の結晶の研究で世界的に知られる科学者、中谷宇吉郎さんの有名な言葉に、

 雪は天からの手紙である

というのがある。地上に降ってくる雪の結晶には、驚くほどさまざまな形があるが、そのひとつひとつは、温度や湿度など上空の大気の状態の違いを反映したものであるという意味であろう。いかにも名随筆集『冬の華』の著者らしい的確で、美しい言い方である。

 この伝で言えば、

 天竜川のさまざまな石は、大断層である中央構造線からの手紙である

と言えるだろう。

  Image551_2 浜松科学館では、子どもたちを対象にした人気の「サイエンスアドベンチャー」活動を継続して行っている。先日、その一環として、天竜川の河原にころがっている石の標本をつくろうと、その河口に40人近い小学生とともにボランティアとして出かけた (  写真 )。

 広い河川敷には、いろとりどり、それも大小さまざまな石がそれこそ折り重なるようにごろごろとあったのには、驚いた。

 ブログ子は、生まれ故郷の九頭竜川やサラリーマン時代を過ごした金沢に近い手取川、大阪の淀川などを少し知っているが、そうそういろいろな石がころがっていたとは記憶していない。いずれも天竜川と同じ一級河川なのに、天竜川河口にこれほどいろいろな石が雑多にあるのを不思議に感じた。

 この違いは何なのだろう。

 指導、引率していただいたK先生によると、

 ほぼ北上する天竜川が、水窪、佐久間町(いずれも浜松市天竜区)あたりで北東に走る大断層・中央構造線と交差する

からだと教えていただいた。だから、いくら大河でも、構造線のかなり東側を流れていて交差しないお隣の大井川や、構造線のかなり西側を流れる矢作川の河川敷では、石の種類は多くはないのだそうだ(構造線に交差したり、沿ったりしながら流れる西隣りの豊川は、おそらく河川敷に天竜川同様、多様な石があると予想される)。

 中央構造線は、いわば地質的な境界であり、その境界は破砕帯となっており、川の浸食で地表では谷になっている(  注記 )。だから、ころころ石が流れてくる。

 調べてみると、中央構造線の東側には黒色片岩、緑色片岩が南北に配列している。天竜川と交差する佐久間ダム周辺では、花崗岩、ホルンフェルス、砂岩もある。これらが砕けて、みんな河口にころころとやってくるのだから、天竜川のあの広い河口付近は石の宝庫になるはずだ。

 こう考えると、なるほどと、

 天竜川河川敷で石の標本をつくろう (  写真 )

というK先生の着眼、慧眼に感心した。

 Image5592  事実、川原には、砂岩、緑色片岩、黒色片岩だけでなく、石の中に石が混じっているれき岩、天竜石とも言われる美しい模様が特徴の流紋岩、さまざまな花崗岩が容易に採取された。

  なかには、シェール石油を含んでいる粘土質の黒っぽい頁岩(けつがん、黒いようかんのような質感)、赤などさまざまな色と手触りのよいチャートもあった。そのほか、ブログ子にはとても石の名も判断できないような奇妙な石もいろいろあって、専門の先生を一瞬困らせる場面もあったようだ。

   高校時代に習った地学には、楽しい思い出はあまりなかったが、この体験学習でずいぶん地学が身近になった。親子版「サイエンスアドベンチャー」としても、十分通用するだろう。

注記 中央構造線について

 静岡県については、西から東へ、渥美半島の突端、伊良湖岬から北東に進み、豊川、豊橋を通り、水窪(みさくぼ)、青崩峠を進み、糸魚川-静岡構造線( 本州中央部を南北にわける、いわゆるフォッサ・マグナ)に行きあたる。

 このうち構造線が走る長野県大鹿村には、この地質境界が露頭しているところがあり、そこでは、はっきりと地質の違いを体感することができる。

 西へは、紀伊半島のど真ん中、紀ノ川あたりを横断し、四国の吉野川に沿って西に進む。さらに九州にまで届いているなど、第一級の地質境界線となっている

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