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幕末の浜松城安政地震被害に似た熊本城 - 大戦中の巨大地震は極秘に

Imgp954620160416 (2016.04.17) 熊本地震の異常な余震が続く中、ブログ子の自宅近所にある浜松市博物館で

 「浜松の地震」展(写真左)

が開かれている。地震といっても過去の歴史のなかで発生した地震についてなのだが、先日の土曜日、展示を手がけた学芸員が詳しくその展示内容を解説するというので出かけた。さすが専門家の指摘はおもしろい。ブログ子は意外な3つの発見をしたので、ここに報告したい。

 ● 日本書紀に最古の地震記述

 Imgp9538_2 ひとつは、日本の公式な歴史書、つまり正史に文字で記載された最古の大地震というのは、天武天皇時代の684年の

 東海・南海地震の白鳳南海地震(推定M8.0、684年)

だったという事実。この場合の正史とは、日本書紀(720年成立)。このとき地震があったことについては、考古学的にも、たとえば浜松付近では袋井市の遺跡で確認されているが、日本史上初めての正史として文字に残された大地震だった。それほどに当時の奈良の都においても人々の記憶のなかでは忘れられない地震だったのだろう。

 以上は全国の状況なのだが、ブログ子が暮らす遠州地域という浜松周辺の最古の正史記録はいつの地震だったかということが気になる。

 それは、日本書紀の続編である「続 日本紀」(平安初頭の797年成立=最後の写真)第6巻にある

 Imgp9539 和銅遠江地震(推定M6.4。715年)

である。記述内容の訳文は、写真右(ダブルクリックで拡大)のとおりで、

 山崩れで天竜川がせき止められ、数十日後に決壊した。民家170戸が水没。

とある。よほどの大地震だったことがこれで想像できる。

 第二の発見は、幕末の安政地震(1854年11月、M8.4クラスが二回)で浜松城が受けた被害は、現在続いている熊本地震と似たような惨状だったらしいこと。

 どうしてそんなことがそんなに詳しくわかるのかというと、本震と余震というこの二つの大地震で破壊された浜松城を修築するための普請設計絵図

 安政元年浜松城絵図(写真下に全景)

の下書き絵図が今日まで残されていたからだ。この記述(写真)を見ると<熊本城の被害と似通った状態だったことがわかる。

 ● 戦争中、巨大地震発生を極秘に

 Imgp9548 最後に発見したのは、意外なことだった。東南海地震とか、南海地震とか、あるいはそれらが連動する南海トラフ巨大地震の最後というのは、東海道沖で津波を伴って発生した

 東南海地震(M7.9、1944年12月)

である。にもかかわらず、幕末の安政大地震の時のような膨大な記録が、ほとんどといっていいほど見つかっていない。この点について、後日、博物館学芸員にその理由を尋ねたところ、

 戦争中、とりわけ敗戦真近ということもあり、軍が国民の動揺を恐れ、極秘扱いにした

ことが原因ということだった。きちんとした調査がなされなかった。日記など民間個人の記録もほとんどないのは不思議だ。処罰を恐れて記録化しなかったか、記録はしたが秘匿したまま忘れ去られ、隠されたままの状態になっている可能性もある。

 Imgp9547_2 東海地方に暮らすブログ子としては、近い将来確実に発生するとされる南海トラフ巨大地震について、貴重なデータがこのようなことで消えてしまうとしたら、大変な損失だと、学芸員の説明を聞いて感じた。

 この3つ目の発見がこの日の解説会でもっとも注目した点。

  大戦中だとは言え、この被害状況を当時詳しく調査しておけば、将来のトラフ地震の減災に大いに生かせたであろう。

 今からでも遅くない。記録が本当にないというのなら、当時の被災者たちの記憶を掘り起こし記録化する。とともにその過程を通じて、

 埋もれた昭和19年12月巨大地震の被害記録文書が個人宅や神社などに忘れ去られたままになっているのではないか

ということ今後検討し、発掘することで減災につなげたいものだ。

 熊本地震の報道を聞きながら、そして、博物館展示を見ながら、そんなことを痛感した。

 (いずれの写真もダブルクリックで拡大)

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生命のいる〝第2の地球〟発見はいつか

Imgp86882015 (2015.11.08)  ブログ子は、毎年「文化の日」に浜松市で開かれる「新しい文化論」というコンサート演奏&講演会(浜松ホトニクス)を楽しみにしている。今年の講演テーマは、国立天文台副台長の渡部潤一さんの

 「宇宙に生命はいるか」

だった。これは、一昨年の林正彦国立天文台長の

 「現代天文学と宇宙における生命」

に続いての宇宙生命にかかわるホット講演。最近では宇宙ものが続いている。

 渡部さんの講演には

 天文学からのアプローチ

というサブタイトルがついていた(写真右)。

 ● TMT完成後の2020年代後半か

 この講演の結論を先に言ってしまえば、

 生命のいる太陽系外惑星はそこらじゅうにたくさんある。今ハワイに建設中の国際共同巨大望遠鏡(TMT、国立天文台も主要な参加機関)が完成すれば、必ず発見されるだろう。その時期は望遠鏡が運用を開始する2020年代前半から間もないころ、つまり20年代後半である。そのターゲットとなる太陽系の外にある「第二の地球」の有力候補は、20光年ぐらい離れている星、グリーゼ581の周りをぐるぐる回っている地球型惑星、グリーゼ581g(581自身はM型主系列という太陽とほぼ同じタイプの星)。

という、非常に具体的で、明解な話だった。 

Imgp8687   この系外惑星には大気があり、そこからの光のなかから生命が盛んにつくりだしている酸素分子をTMTでとらえる。そういう壮大な計画なのだ。大気中に酸素が分子の形で存在すれば、われわれのような地球型生命の存在は確実だという発想である。

 ブログ子も、ひょっとすると生きている間にも朗報が聞かれるかもしれないと、講演での予測、予言の的中に期待したい気持ちである。

 生物学からの悲観的なアプローチとは対照的に、いかにも天文学者らしいきわめて楽観主義の講演だった(注記)。

 ● 酸素分子、そして光合成の発見。

  まず第一に大気の中に酸素分子の存在が確かめられれば、そしてまた液体の水の存在が確かめられれば、生命の存在はほぼ確実。その上での確証は、つまり決め手は惑星の分光観測から光合成が行われていることの発見だろう。太陽系内の惑星や衛星には、地球以外では、その形跡はない。

 知的生命であるかどうかはともかくとして、もしこの手法で、ともかく観測的、あるいは分光学的に生命が確認されれば、ノーベル賞受賞は確実だろう。

 思うに、このアプローチでの成功には、日本の光学的な「すばる望遠鏡」、国際共同のアルマ電波望遠鏡、そしてNASAのハッブル宇宙望遠鏡の連携が不可欠になる。

 ● パラドックス「みんなどこにいるのだろう」

 Image2240_3  ただ、気がかりなのは、この楽観主義の講演内容にもかかわらず、依然として、フェルミのパラドックス

 いるとしたら、なぜ宇宙人から連絡がないのか

という難問が、提出されてから60年以上たった今でも未解決のままなことである。これだけ電波望遠鏡で50年以上にわたっていろいろと探しても宇宙人からのメッセージ信号が地球に届いていないということは、

 少なくとも知的な宇宙人は、宇宙広しといえどもいない

ということかもしれないのだ。これが正しいとすれば、パラドックスはパラドックスではなくなり、解決したことになる(右写真は、10年前に青土社から出たゆかいなパラドックスをめぐる好著)。

 ● 1995年、マイヨールの第一号発見

 これまでの太陽系外の惑星探索から、現在では、夜空の星の100個に一つは惑星系を持つと考えられるようになった。そのうちの10個に一個は地球のような「ハビタブル」にある。ということは、私たちの銀河系には

 生命あふれる可能性を持つ惑星をしたがえる星の数は1億個

という膨大な数になる。あとは、このうちどれくらいの割合で、その惑星に生命が発生するのかという難問だけが残る。1億分の1よりもずいぶん小さいようなら、わが銀河系には生命の惑星は存在しないことになる。

 逆に1億分の1よりもずいぶんと大きな割合で生命が惑星に発生すると観測などから推定されれば、宇宙には生命の惑星はありふれたものとなる。

 こういう推定値もTMTはいずれ答えを出してくれるだろう。

 さらに言えば、その芽生えた生命が知的な生命にまで進化するかどうかということも将来の課題だろう。その場合でも、進化はしたけれど、人間がたどった道のりとはおよそかけ離れていたということもおおいにありえる。

 天文学者、M.マイヨールたちが、主系列のペガサス座51番星に太陽系外惑星第一号(木星並みの大質量)を1995年に発見してから20年、もし仮にノーベル賞が将来、生命のいる第二の地球発見に与えられるとしたら、

 M.マイヨールの功績

を忘れてはならないだろう。そして、電波望遠鏡で長く挑み続けた「オズマ計画」のF.ドレイク博士の苦闘も。

 ● 注記

 世界的に高名な進化生物学者、J.グールド博士(元ハーバード大教授)は、かつて

 「この宇宙広しといえども、宇宙の全体構造(というような知的な事実)を知っているのは、地球人だけだ」

と言い切っていた。生物学者の悲観的な見解の代表である。これは裏返すと、生物というものには、驚嘆すべき精妙さが具わっているということでもある。

 ● 補遺 人間中心主義のおろかさ

 20光年先にあるグリーゼ581を周る惑星、グリーゼ581gが発見されたときには、ある天文学者は、早速、電波で〝あいさつ文〟をこの惑星に向けて発信している。交信の往復には40年かかるが、必ず返事が返ってくるというわけだ。かほどさように、天文学者は知的生命の存在には楽観的である。

 この背景には、これまでの3000年にわたる歴史において天体に関する認識で、いかに人間中心主義が愚かであったかをくり返し、実証し続けてきたという自負がある。宇宙の中心は人間の住む地球であるというのもしかり、宇宙には知的生命がいるのは地球だけであるというのも、またしかりだというわけだ。

 ブログ子も、宇宙的な視野では、人間中心主義は完全に誤りであると確信している。人間の存在などというものは、宇宙のどこにでもありえる普通の出来事に過ぎない。それでも人間に偉大さがあるとすれば、自分たちの存在が神に選ばれた特別なものなどというものではなく、ごくごくちっぽけなものに過ぎないということを自覚するところにある。 

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  ● 読書案内

 最近の宇宙生命、地球外生物、宇宙生物学の一般書にはづきのようなものがある。

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南部陽一郎さん死去の反響 

(2015.07.28)  この欄に10日ほどまえ、物理学者の南部陽一郎さんの訃報について

 「紙も鉛筆もいらない」の天才物理学者

というブログを書いた。ブログ子は、福井市出身であり、福井育ちの南部さんに対し、思い入れのある評伝を紹介した。

 ● 福井市在住の読者から

 どこで、どう伝わったか、その内容をみた福井市のある読者から、お便りメールが届いた。

 南部さんは、生まれて間もないころに発生した関東大震災で焼け出され、父親の出身地、福井市に東京から転居してきたこと、現在の福井県立こども歴史文化館(福井市城東)には、南部さんが研究者として長年愛用した黒板、学生時代の直筆ノート、ノーベル賞公式レプリカメダルなどが公開展示されていること

などを知らせてきてくれた。

 とくに、ブログの内容について感想というものはなかったが、南部さんは晩年

 「好きなことに夢中になれ」

と若い人に説いていたという。一度、お知らせいただいたふるさとに建つ文化館を訪ねて、南部さんの人となりにふれてみたいと思った。

 ● ベテラン科学ジャーナリストから

 もう一つの反響として、初任地が福井市だったベテラン科学部記者からもコメントをいただいた。同郷のよしみで書いた評伝というのは、身びいきがどうしても入り込む。だから、ポイントを突いていないことが多い。

 そう心配していたのだが、案の定、このコメントにはブログ子の心配した点を鋭く突いた指摘があった。

 その内容を要約すると

 理論物理の南部さんを尊敬する最大の理由は、対称性の破れという重大な概念を超伝導の物理学者から学んだ、という逸話にある。つまり、やれ素粒子だ、やれ物性だという縄張り意識を持たずに、あるいはとらわれないで好奇心のおもむくまま自然界の原理を見つけ出そうとしていた。このところにこそ科学者の手本があったという思いである

というものだった。

 自然界は人間の都合に合わせて存在などしていない。専門というたこつぼに閉じこもった研究では限界がある。こういう指摘こそ、ジャーナリストなら指摘すべきであったと深くブログ子は反省した。

 実は、上記の最初の反響読者も

 南部さんは好きなことに夢中になれと若い人たちに説いていた

と指摘している。これは単なる言葉だけのことではなかった。自らの人生を振り返ったときの実感だったのだ。 

 身びいき原稿は冷静さを欠き、恐い。

 ● 補遺 中日新聞の南部死去社説

 7月27日付中日新聞第2社説。いろいろなエピソードを交えて、社説に仕上げているのは「評伝」同様、好感できる。南部さんの周辺に詳しい論説委員の筆になることがわかる論説である(中日新聞名古屋本社には科学部がないのになぜこんな社説が書けるのか、ちょっと不思議だが)。

 ただ、難点は主張の「知の探求を続けたい」というのは意味不明であり、ユニークな内容に不似合い。はっきり言えばいかにも陳腐。

 せめて、内容からも言えることだが、

 好きなこと夢中になれ

と出来なかったか。

 (写真のクリックで拡大できる)

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「紙も鉛筆もいらない」の天才物理学者

(2015.07.19)  さまざまな分野の10年先の未来を切り開く「物理学の予言者」と言われた南部陽一郎さん(94歳)がなくなった。世界的な理論物理学者であり、7年前にはノーベル物理学賞も受けている。

  Image2200_2 生まれは東京都。だが、戦前、戦後と時代はことなるが青春時代をブログ子同様、福井市内で過ごしたということで、尊敬とともに、なにかと親しみも感じていた(南部さんは旧制福井中学 = 現県立藤島高校出身)。

 一度も直接お会いしたことはない。しかし、それでもいつも気になる存在だった。

 ● 「中日」評伝が、わかりやすくベスト

 そんな関係で、7月18日付朝刊各紙の南部さん「評伝」を読んだ。各紙、大筋では似たような書き方であり、評価だった。物理学の予言者、物理学の巨人という見出しが多い。

 もちろん、それで一応は当たっているのだが、何かもう少し物足りないというのがブログ子の感想だった。

 ともかく、一般読者にとって理解しやすいという意味で、出来のよいものから順位をつけてみた。

 記者の体験を交えた「中日」が1位(注記参照)。評伝の見出しも「10年先見通す「予言者」」とわかりやすい。2位が優等生らしいバランスのとれた「朝日」。

 意外な出来だったのが、3位の「日経」。

 見出しは常識的だったが、中身では「日本人が生んだ最高の物理学者。湯川秀樹先生や朝永振一郎先生よりもすごいと思う」と湯川さんの弟子だったノーベル賞の益川敏英さんの正直な印象をそのままズバリ、引用している。さらに「ノーベル賞を2、3回取ってもおかしくなかった」とこれまたノーベル賞の小柴昌俊さんのコメントも引用している。

 わかりやすい表現である。説得力もある。ブログ子もこの評価は正鵠を射ていると思う。

 第4位は、物理学の巨人とした「読売」。具体的な業績を上げてバランスよく解説している。しかし、一般読者にはその解説内容はチンプンカンプンだろう。せっかくの評伝がいくぶん無味乾燥になった。正確ではあるが、一般読者には理解しにくい評伝だった。

 むずかしいことを、核心をつかんでわかりやすく解説する。これが記者の腕の見せ所という観点から少し辛い点数になったかもしれない。

 しっかりした科学記者、科学担当の論説委員/編集委員の多い毎日新聞には期待した。のだが、ブログ最後にその評伝を掲載しておくので、その出来についてはブログ読者自身にお任せしたい。

 ● ブログ子の南部「評伝」

 これらの評伝を少し物足りないと書いたが、それではお前は南部さんに対してどういう評価をするのか、言ってみろといわれそうだ。

 一晩考えたのだが、その結果はこうだ。

 手足が不自由でほとんど動かせない

 「車椅子の天才物理学者」

というのはイギリスの高名なS.ホーキング博士。南部さんは

 手足が不自由でなくても、

 「紙も鉛筆もいらない」という天才物理学者

といえる。なにしろ、ある記者が紙と鉛筆でどのようにして(アイディアを)考えているのかと質問。これに対し

 「紙の上で考えるより、数式を頭の中だけで操作、(新しいアイディアを)考えている。そのほうが正確ですから」

と語ったというエピソードが残っている。複雑な理論物理の計算を頭の中だけで処理しているというのだ。理系出身のブログ子だが、これはおどろくべき才能だと断言できる。

 「中日」評伝のサブ見出しには

 不出世の物理学者

とあったが、これを具体的に、かつ一本見出しで表現してみた。

 ● 南部さん「最後の予言」

 そんな不出世の予言者の「最後の予言」を紹介しておく。

 今の現代物理学の基礎理論、つまり素粒子の標準理論が予想する超対称性粒子の存在についてある記者から問われた南部さん、

 「超対称性粒子は存在しないと思う」

と、多くの物理学者の予想とは異なる大胆な確信を公の場で語っている。10年先が見通せる予言者の面目躍如たる発言ではないだろうか。

  こうした粒子の探索はすでにヨーロッパでは始まっている。存在しないということを証明するのは厳密にはむずかしい。しかし、10年ぐらい先には、この確信が正しいのかどうか、その方向性はわかるだろう。

 予言が当たっていれば、大統一理論への新たな道が模索されることになる。それとも、意外な方向から示唆を得て、今の標準理論が完成するのだろうか。

 それはともかく、南部陽一郎さんのご冥福を祈りたい。

  ● 『素粒子の宴』(初版1979年)から

 この最後の予言に関して、おもしろいのは、対称性の自発的破れや研究哲学などを語った南部陽一郎インタビュー『素粒子の宴』(工作舎、1979年。上記写真は2008年発行の新装版)。南部さんはインタビューにこうこたえている。

 「(物質というのは)本当に究極的なものがあるかどうか私は疑問ですねえ。」「現在知られているもの、それだけで世界観を閉じてしまう考え方はきらいなんです。世界はどこまでいっても無限に前進する螺旋構造で、経験的に言ってもそうなっている。」(いずれも同書p149)

 35年も前の発言だが、現在の標準理論がほぼ確立した時期のものだけに気になる。標準理論の螺旋構造の「次」とも考えられる超対称性粒子は存在しない、つまり行き止まりだという最後の予言とは整合性は取れていないからだ。

 それとも、この最後のメッセージは、素粒子は「点」ではないという弦理論の創始者としての深遠なる予言なのであろうか。

 このほか、南部さんのすごいところは、こんな発言もしていることだ。

 「ハイゼンベルグの立てた理論はあまりにもおそまつだった。新しいことは何も予言できなかったし、いままでに知られている現象をすべてひとつの方程式で説明できるんだと主張したけれど、結局全部失敗した。彼のやったことは手品にすぎません。ひとつの方程式で、と言いながら、そこには根本的原理などなかったし、美しさもなかった。」(同書p173)

 いかにも「物理学の予言者」らしい堂々たる主張である。

 ただ、

「(素)粒子がいくつも発見されて、それがいろいろな質量を持っていること、これがいまの私の最大の疑問」(同書p172)

としながらも、「それをいったいどう解決するか」については、ついに何も予言することなくこの世を去ったのは惜しまれる。

 これについてブログ子の感想をひとこと言えば、最大の関心事なのに、ついに予言できなかったこと自体、いまの標準理論がかかえる根本的な問題点を鋭く突いているのではないかと思う。

 このことと、予想される超対称性粒子が存在しないという予言とは矛盾しない。

 ● 「評伝」クリップ 

 以下の写真(= 2015年7月18日付「毎日」朝刊)、ダブルクリックで拡大できる。

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 ● 7月18日付「中日」評伝(社会面)

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目で見えない情報を見る JR切符の場合

(2015.07.15)  先月末ごろ、Eテレ「2355}というミニ番組を見ていたら、見えない情報を見るというのをやっていた。

 Imgp7901_2 JR切符を改札口にある読み取り機に通すと、瞬時にその切符記載の情報を読み取る。機械は表面に書かれている文字を読み取っているわけではない。コードを読み取っている。

 そんなことは、誰でも知っているし、しらなくてもたぶんそうだろうと想像している。

 しかし、その想像は本当か、というわけだ。

  それが、簡単な方法でわかる。

 切符の裏の黒い部分に、乾燥剤(脱酸素剤、酸素吸収剤)をふりかければいいという。そんな薬剤はどこにあるか。それはインスタントコーヒーなどに入っている乾燥剤である。

 Imgp7897_2 写真のようにその黒い粉のような中身を取り出し、使い古しの切符の裏に振りかけてみた。

 切符の裏に、今までなかったなにやら3本の帯が浮かび上がった。その帯のなかには、規則正しくバーがずらりと並んでいる。しかし、写真のように、ところどころにそれとは異なる太いバーコードが浮かび上がった。

 これが、目には見えなかった情報の正体なのだ。機械はこれを読み取っている。

 Imgp7899 なぜ浮かび上がったか、その仕組みを知ることは大事だ。しかし、もっと大事なのは、世の中には、そして身近な生活のなかに、見えない情報が埋め込まれているのだということを体験することではないか。

 つまり、見えないというところにも情報は存在する。とすれば、人間の五感には感じない、見えないところにも、情報は存在するはずたということになる。

 ● 情報とは何か

 さらには人間以外のほかの動物には、きっと人間にはわからない情報を巧みに使っているのだろう。人間の知りえる情報は、情報全体からすればまだまだわずかであることを、この切符の縞模様は教えてくれているような気がする。

 つまり、この目でみたものしか信じないというのは、あまりにも科学的ではない。

 切符の裏の浮かび上がったバーコードを見ながら、つくづくそう思った。

 情報とは何だろうか、ということに思いを馳せさせるミニ番組だった。

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むのたけじの無念 - やめる潔さより戦争の〝遅すぎた真実〟報道こそ

(2015.06.30)  100歳のジャーナリスト、むのたけじさんの講演会が開かれるというので、浜松市から硲伊之助美術館(はざま、加賀市吸坂)に梅雨空のなか先日出かけた。

Imgp7860  タイトルは

 戦争と人間と文化

で、人類がいま直面している根本の問題は何か、私たちはそれをどのように解決するか、その判断について話すという(写真=硲伊之助美術館、6月27日)。

 ● 戦争と人間と文化

 長年、新聞業界にいたブログ子のカンでは、講演会のタイトルに

 何々と何々

とつけられた話にはしっかりしたものは少ない。本人もよくわかっていないことを、その場かぎりの無責任な内容が多い。

 ましてや、今回のタイトルには、

 何々と何々と何々

というように「と」が二つもあるのだから、失礼な話だが、老人の寝言だろうと想像した。落語の三題ばなしのたぐいかもしれない。

 しかし、それでも、戦後、ほそぼそと30年間もタブロイド版新聞「週刊たいまつ」を発行し続けた男の矜持は残っているはずだ。要領のいいいまどきのエリート記者にありがちな与太話とは考えにくい。これが1980年代の3年間、大阪のタブロイド夕刊紙で記者修行したブログ子のもう一つのカンだった。

 どっちに転がるかはわからない。が、

 Imgp7863 この講演会にはきっと何かがある

とふんで、出かけた。

 「感謝」という言葉から始まったその自由闊達な話し振りや、初恋の思い出話に及んだあたりまでは、元気な大声に感心しながらも、やはり落語の三題ばなしかと失望しかけていた。のだが、最後にきてアッとおどろいた。

 タイトルの三つの言葉、戦争、人間、文化というのはただ横に並んでいるのではないことに気づいた。話の「起」、「承」、「転」という論理展開のキーワードに相当しているのだ。

 そして「結」に向かう。

 その「結」に説得力を持たせる事例として、自身の無念と、いかにも謙虚なジャーナリストらしい執念の「ラストメッセージ」があった。

 飾らずざっくばらんではあるが、よく練られた一貫性と具体性のある構成になっている

 どんな一貫性と具体性なのか、結論に当たる無念のラストメッセージ=人間の誇りと責任とはどういうことか。

 それを以下に、語ってみたい。

 ● 考え抜かれた起承転結の構成

 むのさんが生まれたのは、第一次世界大戦がヨーロッパで始まった翌年、1915年。それから生きた100年は、2度にわたる大戦の世紀と重なる。2度目の大戦では、20代青春の真っ只なか、自らも従軍記者として大陸の戦場にも出かけている。

 Imgp7870 だから、むのさんの戦後70年というのは、平和の時代ではない。第三次大戦がまた起きるのではないか。そうなれば原爆・水爆が確実に使われるであろうという恐怖と不安の時代だった。

 戦争を知らない団塊の世代のブログ子などは、のんきで、まさかそれは考えすぎだととかく考えがちだ。無知の恐ろしさである。しかし、むのさんのように2度も大戦を知り、自ら体験もしている世代からすれば、3度あると考えるのが、よほど自然であろう。

 むのさんの生涯にとって戦争とは身近な存在であり、決して遠い過ぎ去った他人事ではない。だから、講演でも真っ先にその実態を話したのだと思う。講演のタイトルの最初に「戦争」とつけたのも偶然ではない。戦争が心の中にこびりついている。しかも3度目の大戦こそ、人類最後の滅亡戦争になるだろう。そんな焦燥感が講演から伝わってきた。

 つまり、むのさんは自分の戦争体験を、話の起承転結の「起」に持ってきた。

 普通のジャーナリストなら、たとえば、ブログ子なら、

 だから、今、国会で審議中の安保法制案の是非

というホットな話題に移り、「承」として講演を進めるところだ。

 ところが、むのさんは、そういう安っぽい進行はしなかった。

 代わりに、

 人間の、人類の見地から過去、現在、未来を考えることが今は大事

という話を始めた。人間の歴史は戦争の歴史であり、戦争と戦争の合間に少しだけ休息の平和があった。そんなことを言う人も多い。しかし、果たしてそれは本当だろうかという問題の立て方だ。

 タイトルに書かれていた人間という言葉が、実は話の「承」にあたる構成になっている。当初は、そんな話はうろんだと思った。

 講演では、むのさん自身、ジャーナリストなのに考古学(人類学)の勉強を怠ってきたことを、悔いていたのが印象的だった。これではいいジャーナリストにはなれないというわけだ。

 なぜか。

 700万年という人類の歴史(あるいは進化)を「もう一度学び直してみる」と、そのほとんどでは、人間同士の戦争などという野蛮なものはなかった。むしろ、生きるために家族同士、「助け合う」「感謝しあう」歴史だった。これこそが何度も、何度も訪れてきた厳しい氷河期をなんとか生きのびてきた人類(今の現生人類)の姿だった。

 「そうじゃないですか」

と、むのさんの大声が会場にとどろく。

 地球規模で戦争に明け暮れるようになったのは、せいぜい数百年、いや、この100年だろうといいたかったのだろう。

 このことを、むのさんは講演中「そうじゃないですか」と大声で何度も繰り返していた。

 ● 数万年さかのぼる芸術文化

 そして起承転結の「転」。これが、講演タイトルに書かれている「文化」である。

 戦争と文化

とがどのように結びつくのか、ブログ子は講演前にはわからなかった。

 むのさんは、人間が文化を持つようになったのは「およそ5万年前」と話していた。ブログ子も、最後の氷河期が終わりはじめる今から数万年前ごろから、ヨーロッパ洞窟壁画など芸術や文化があちこちで広がっていった。石器など道具づくりも文化だが、このころから宗教などの精神文化、みごとな芸術文化が急速に広まっていく。ほかの動物にはない現象である。

 このころの世界各地にある洞窟に書かれた絵画は、どれもみなおどろくほど見事な出来栄えである。そして、どこかしらそこには祈りがある。あきらかに文化とは、祈りとはこういうものだという神聖さがそこから今でも伝わってくる。

 文化とは、精神を耕す祈り

であり、

 「助け合う、敬いあう、学びあう」

なかから始まる。文化は生きるすべとして、心を耕すすべとして次の世代に受け継がれていく。

 つまり、むのさんの言いたいことは、

 連綿と受け継ぎ、耕してきた「文化」にもっと感謝する心こそ

といっているのだ。戦争はその感謝する営みを破壊する。憎しみを生み出す。人類700万年の歴史にはそんな破壊はほとんどなかった。現状こそ異常なのだといいたいのだろう。

 これはなにも美術館での講演だからというわけではない、むのさんの本音だろう。文化というものを数万年前にさかのぼって具体的に考古学的に論じているからだ。

 そして、

 「もう一度、(戦争と人間の関係という)問題を自分自身引き戻して考えよう」

と訴えている。

 その上で、起承転結の最後「結」へと向かう。

 問題を自分に引き戻すとは、700万年の人間の歴史と、数万年続く文化という大きな見地から、かけがえのない自分という人間を考えることである。そこから生きるすべの文化を築いてきた人間であるという誇りが生まれる。その誇りが中身のある本物となるためには、生きた時代の歴史に一人一人がきちんと責任を持つ、あるいは果たすことであるということが自然と出てくる。

 ブログ子は、むのさんの話をそんな風に受け止めた。

 こういう論法は、視野が現在にしかないただのジャーナリストにはとうていとりえない。伊達に年はとっていないと感じた。

 またしても

 「そうじゃないですか」

というむのさんの大声が会場に響いた。

 ● 会場からの質問にこたえて

 これは、具体的にどういうことだろうと思っていたとき、会場からこんな質問が出た。趣旨は

 「先の戦争の敗戦で、むのさんは決然と新聞社を退社されたが、どんな思いだったか」

という内容だ。

 この返答がすごかった。

 「いち早く会社を辞めたが、今はこれを誇りとは思っていない。これではケジメにはならない。終戦3日前の8月12日に敗戦を記者として知った。のに、なぜこのことをいち早く国民に知らせなかったのか。敗戦直後でも、遅すぎたとはいえ戦争の真実を国民になぜ伝えようとしなかったのか。まず(ジャーナリストとして)やるべきことはこれであり、会社を辞める(という個人的な)ことではなかった。(ケジメをつけるというのなら)まずは伝えることだ」(発言趣旨の要約)

 自分という人間に誇りと責任を持つというのは、

 (こんな退社するという)「中途半端は一番ダメ」で「やるなら、(残って)命がけでやる」

ことだと断じた。

 再び、

 「そうじゃないですか」

という大声が聞こえてきたように思えた。 

 ● ラストメッセージ「誇りと責任を持つ」

 20世紀以来の「戦争と人間」の問題については、文化を持つ人間として決然たる誇りと(その上に立った)責任を持ち、果たさなければならない。人類700万年の歴史において、そのほとんどの時代には戦争はなかった。

 これこそ今の根本問題を論じた講演の「結」であり、戦争の世紀を生きたジャーナリスト歴80年の、しかも自らを振り返った無念のラストメッセージであろう。

 このことを単刀直入に訴えたいがために、わざわざ講演タイトルに「と」を二つも並べたのだ。

 ブログ子なりの解釈を少しだけ加えるとすれば

  「ジャーナリストよ、今こそ汝自身を知れ」

ということだ。ブログ子もジャーナリストとしてこれには忸怩たる思いもあり、とくに身にこたえた。 

 最後に、むのさんは、

 誇りを持ち責任を果たす努力をした上で、

 「人間、最後はニコニコ笑って死にたい」

とユーモラスに締めくくった。 

 人間、むののもうひとつの「ラストメッセージ」と言っていいだろう。

  ● 補遺 2015年8月12日記

 報道の過ち 繰り返すな むのたけじ 中日新聞 =

 「20150804m203000000030100.pdf」をダウンロード  

 ● スナップ写真

 講演冒頭であいさつをする硲伊之助美術館長の硲紘一さん(上)。

 しめくくりのお礼をのべる九谷吸坂窯上絵師、海部公子さん(下)。海部さんの左脇に小さく写っているのは、むのさんに付き添ったご子息。

Imgp7859_2  

Imgp787820150627jpg

 

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動く秒針まである家康のゼンマイ洋時計

Imgp7821_32015.06.24)  日本で使われた最古の機械時計というのは、久能山東照宮博物館(静岡市)に保存されている

 家康の洋時計(1584年、ベルギー・フランドル製)

である(製作者=ハンス・デ・エバロ)。1611年、スペイン国王が晩年の家康に贈ったものらしい。

 時計の日(6月10日)を前に、出来上がったばかりのその精巧な複製品がブログ子の近所にある浜松市博物館に展示されている。というので、散歩がてら先日拝見しに出かけた。

 ● 浜松市博物館にその複製品

 館内には、写真のように家康の「しかみ像」の近くに展示されていた(写真右)。そこに添えられた説明は、至極あっさりしている。のだが、よくよく、このレプリカを見ていて、おどろくべきことを〝発見〟した。

 本物にもあるのだが、複製品に、時針と分針のほか、なんと、真正面の文字盤の中心に小さくはあるが、

 動く秒針

まであった(写真)。動くことは、このブログに写った写真のいずれも秒針の位置が異なることからもわかるだろう。

Imgp782845_3  もしや、と思って、秒針が2回転するまでの時間を計ったら、きっちり2分だった。1回転が1分と正確に機能している。そこでふと気づいた。時針も分針も正確なのだ。

 この写真を撮ったのは、夕方の4時ちょうどくらいから4時20分くらいの間。写真をみるとわかるように、時針も分針もほぼ正確に動作し、時を刻んでいる。つまり、時計をカメラで撮った時刻がほぼ正確にその文字盤に写っている。

 これはどういうことだろう。

 今から430年も前に制作されたゼンマイ時計が、こんなに正確に時を刻むことができるはずはない。この時計が製作された前年の1583年、振り子の等時性がガリレオによって発見された。それが秒単位という精度の高い振り子時計として実用化するのはほぼ100年後の1650年代以降。ましてや秒単位で時の刻みを一定に保つには精度のよくないゼンマイ仕掛けの家康時計ではできないはずだ。

 そんなこんなで、博物館の学芸員にこの疑問をただしてみた。こうだった。

 Imgp7835416_2 今から考えると無意味に思える。しかし、今と同様に1日24時間、時間の刻みは時針で、分の刻みは分針で行う。1分=60秒という基本的な考え方を、そのままゼンマイ動力源と、複雑に組み合わされた歯車だけで実現しようとしたのではないかという。

 つまり、1秒を60回刻むと1分、その1分を60回繰り返すと1時間。その1時間が24回歯車で数えればちょうど1日が終わるように歯車群の組み合わせをうまくセットするというわけだ。

 職人魂が秒を刻む秒針歯車まで製作させた。そして、その精巧さ誇ろうとしたのであろう。

 ここで種明かし。

 それにしてもブログ子は展示複製品の今も正確に1秒、1秒を刻む精巧さにおどろいたのだが、実は、これ

 複製したのは外観だけで、中身の歯車群は複製していない。中身は今日の電波時計でそっくり代用、電波時計の出力をそのまま復元した文字盤に伝えているだけ

という説明を学芸員から聞いて、またびっくり。この複製時計、ゼンマイでは動いていないのだ。つまり、中身は電波時計。

 それにしても、秒針、分針、時針が400年以上たってもうまく連動して文字盤上に時を告げているところはやはり、感心せざるを得ない。

 ( 注記 2015年10月21日、修理されたこの国宝時計とともにNHK番組に出演した久能山東照宮の宮司の説明によると、文字盤中央のごく小さな針は、目覚ましの時刻をセットするためのものだという。秒針、分針という話はどうやら見当違いらしい )

 ● 当時は不定時法で実用性はなかった

 もうひとつ、贈られた家康はこの時計を手元に置いて大切にした。というのだが、実は当時の日本は当時のヨーロッパのような定時法ではない。したがって同じ日でも夜と昼とで1時間の長さが異なる。また、同じ昼でも夏と冬とで、つまり季節の違いで1時間の長さが異なる。

 だから、家康も床の間の飾りとして重宝したらしい。定時法を前提につくられたこの時計は日本に適した実用時計としては使われなかった( 補遺 )。

 じつは、このことが幸いした。というのは、実用としては使わなかったので外観、中身が製作された当時のまま保存されることになった。実用品として使っていた場合には、故障したら当然、部品を入れ替え、修理する。当時高価な実用品だったヨーロッパではこのため製作当時の中身のまま残っている時計は極めて珍しいという。

 数年前の大英博物館の専門家の鑑定でも、「極めて貴重」との結果が出ている。

 ● なるか、国宝

 このそっくり残ったという僥倖が

 家康の洋時計を国宝指定に

という運動を生んだといえよう。ここ数年、この時計の世界史的な貴重さから、文化庁あたりでも国宝指定の動きが本格化しているらしい。

 そんなことに思いを馳せた博物館への小雨模様の散歩だった。

 以下の写真は、晩年の家康が愛用したとされる目器(めがね、レンズも復元したレプリカ)。贈られた洋式時計のとなりに展示されている(久能山東照宮博物館にあるレンズのない本物は重文)。

  このメガネ、ふと思ったのだが、今の眼鏡のような耳にかける部分がない。こちらのほうは、実用品であるはずだからどのようにして使ったのだろうという素朴な疑問がわいた。そうした説明がないのはいかにも不親切だと思った。不明というのであれば「実際の利用法は不明」と書くべきだった。

 Imgp7825

 ● 注記

 家康の洋式時計の詳細については、久能山東照宮の落合偉洲宮司による

 『家康公の時計』(2013年、平凡社)

という著作がある。大英博物館の専門家による詳しい調査と鑑定の様子も詳しく書かれている。

  ● 補遺 不定時法の腕時計

 独立時計師の菊野昌宏さんは、2015年の時計国際見本市(バーゼル)で

 不定時法時計「和時計改」

を発表している。しかも、おどろくべきことにコンパクトな腕時計である。昼と夜、また季節が変わるごとに12個ある時針文字の間隔が変化する。つまり、普通の腕時計とは違って、この時計は今、夜なのか昼なのか、また季節はどうなのか、ちゃんと知っているのだ。デジタル時計ならいざ知らず、歯車だけの組み合わせでどうコンパクトに実現させるか、その秘密を、きっと菊野さんは江戸の時計職人から学んだのだろう。

 分針の12個の刻みは等間隔(区切りだけで文字の表示はない)。秒針はない。動力源はゼンマイ。

 お値段は1800万円らしいのだが、これだったら、家康も実用性があるので腕にはめたであろう。セイコーは製品化の段階で協力しているという。

 なお、参考までに、このバーゼル国際時計見本市2015(3月開催)のほかの出品作品については、

 取材班を派遣した「週刊ダイヤモンド」(2015年7月11日号に、

 新作腕時計図鑑

として、100点近い腕時計が紹介されている。数十万円から1億円を超える

 リシャール・ミル社のトゥールビヨン「フルール」

までをカラーで紹介している。5分置きに文字盤にある花びらが開閉するというスイス製芸術品。この時計、2015年秋には、30台限定で発売されるらしい。

 

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大阪市のふり見てわが浜松ふり直せ 

(2015.05.28)  3年前にできた大都市地域特別区設置法に基づいて、大阪市をなくし、東京都のように特別区を設置する住民投票が僅差で否決されてから10日がたった。

 Image2181 大阪市南部の区に暮らす高齢者の「既得権がなくなる」という危機感が、若者やビジネスマンの多い北部区の人々に勝った結果だろう。都市やそこでの産業の発展には効率的な広域行政が不可欠なのは誰でもわかる。が、特別区になるとかえって住民福祉やサービスが低下する。これはこまるという高齢者などの社会的弱者の本音、はっきり言えばエゴが

 大阪都構想

をつぶしたという見方もできるだろう。大阪市の将来にはおおむね関係がないのに、高齢者が大阪市の将来の発展について拒否反応を示し、重大な判断を下した格好になった。明日の100万円よりも、今日の10万円のほうが大事だと思ったのだろう。いかにも、大阪人らしい。

 これが大阪で3年仕事をしてきたブログ子の正直な感想だ。

 ● 政令市にも勝ち組と負け組

 こうした背景を受けて、次に有力な政令市、横浜市などは特別区設置に向けては慎重になるだろう。

 むしろ、政令市の枠組みを残したまま広域行政を強力に行うため、府県並みに財源なども含めて権限強化を図る

 特別自治市

に向かうような気がする。なぜなら、法律はまだできていないが、政令市長会が5年前から盛んに提案しているからだ。

 それに、市を廃止するという選択には、大阪市民に限らず、多くの市民にとってはやはり抵抗感がある。それよりむしろ残し、権限の強化を図ったほうが受け入れやすい。その場合、摩擦が生じるのは、広域化に伴う隣接市町の間であり、その利害関係をどう調整するのかがむずかしい課題だろう。

 総務省あたりから声高に、そしてせき立てるような「地方消滅」の声が聞こえてくる。そんな中、こういう自治体側の動きをみていると、政令市が20あるといっても、大阪、横浜といった比較的に人口の多い上位グループと、過疎法適用の過疎地を抱える浜松市、静岡市など下位グループに政令市は2極化するような気がする。

 露骨な言い方をすれば、政令市でも勝ち組と負け組に分かれる。そんなシナリオが現実味をおびだしている。

 ● 浜松の30年後、人口15万人減

 人のふり見てわがふり直せというわけでもないが、わが浜松市も、大阪市同様、莫大な借金(市債残高約5000億円、年間利払い80億円強)をかかえ、10年越しの区再編問題に取り組んでいる。7区を合区、5つか、できれば3つにして行政コストを減らそうとしている。

 政令市になる前の旧浜松市域を合区し、一つの区にまとめることを視野に入れているものの、市としての明確な判断は先延ばしにされている。

 浜松市の人口は10年前の政令市発足時には約79万人。一時80万人を超えたが、その後減り始め、いまや80万人弱。最近では毎年5000人の人口減。このままでは30年後には政令市にふさわしい70万人以上というのを下回り、66万人にまで減ると見込まれている。

 人口減の中身は少子化と高齢化のバランスで決まる自然減のほか、社会減という市外への人口流出(転入から転出を差し引いた差)のほうが深刻。消費は減少し、税収も落ちこむ。これでは市の発展は覚束ないだろうということは容易に想像できる。

 4次、10年にわたる市行革審議会の論議を受け、今、その後継の浜松市行政経営諮問会議が具体的な答申を、この2月にまとめ、市長に提出している( 写真 = 答申内容について緊急座談会を掲載した「浜松情報」2015年3月号外)。地元経済人だけの座談会ということもあり、以上の問題点のほか、公共施設やインフラの老朽化問題にも切り込んでいる。

 緊急座談会には浜松商工会議所のメンバーがほとんど。が、有権者である市民の議論が活発にならない限り、行政や議会は動かず、本腰の改革にはつながらないだろう。

 ここにも、今回の大阪同様の構図があることを忘れてはなるまい。

 議論だけの段階はとっくに過ぎ去った。答申内容を実行しながら、市民に負担を求めるだけでいいのかなど、論議のすそ野をもっと広げたい。

 7年にもわたる都構想論議のあった大阪。同様に、浜松市も政令市として勝ち組に残るための決断のときが迫っている。

  ● 注記 静岡県知事は

 気になるのは、今回の投票結果を受けた静岡県知事、川勝平太さんの意見。静岡県でも、二重行政は是正していく必要があるとした上で、

 「浜松市は特別自治市を目指して県から自立すればいい。(もう一つの政令市で、今にも人口70万人を切りそうな)静岡市は広域行政を担える状況ではなく、県と一体化することで行政の一元化を目指していくべきだ」

との見解を示した(2015年5月19日付中日新聞朝刊)。静岡市の今後についてさらに突っ込んで

 「特別自治市を声高に求めるよりも、政令市として実力をつけていくことが先決。(実力をつける)その中で県との連携(一体化も含めて)を模索することが必要

とも冷静に分析している。連携の具体策として「知事が静岡市長を兼務する」という大胆なものだ。これには地方自治法などの法律改正が必要だが、静岡市が政令市のなかの負け組にならない方策を、知事自ら具体的に示したと受け止めたい。

 浜松市の場合も、二重行政の是正や行政のスリム化を図ることは、政令市として負け組にならないためには、当然だろう。加えて特別自治市を目指すとするならば、区再編問題の3区案導入などの思い切った、それも早期の断行は不可欠だろう。今のような7区もかかえていては、特別自治市にかせられる広域行政の中核を担うことは困難だ。

 2018年度中に再編するかどうか決めるという工程スケジュールは、論議スタートから13年もかけており、いかにも悠長にすぎないか。負け組に甘んじるという行政の消極的な姿勢が垣間見える。

 ● 付記 心配な日本海側

 このブログを書いていて気づいたのは、日本海側にある政令市は新潟市だけである点だった。

 つまり、政令市にも勝ち組と負け組が今後出てくるような情勢では、日本海側の自治体の〝消滅〟に対する危機感は強まるばかりだろう。

 総務省あたりが言っている

 地方創生

というのは、撤退戦であり、それも日本海側からの撤退という意味に聞こえてしょうがない。ブログ子のふるさとは福井県であり、定年までの20年間暮らした金沢市の奮闘を願わざるを得ない。国頼みの北陸新幹線も大事ではある。が、撤退戦に巻き込まれないためには国の施策を待っていては、追い立てられるだけだろう。

 新幹線の開通にわく金沢を遠くの浜松から覚めた目で見ていると、そんな気がしてくる。

 浜松についても、金沢についても地方創生政策の成否は東京五輪後の5、6年後にははっきりわかるだろう。

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第2の「明日の神話」にするな          - 浜岡原発の停止から4年

(2015.05.15)  南海トラフ巨大地震が直下で起きる可能性があるところから、日本でもっとも危険な原発といわれている

 浜岡原発(静岡県御前崎市)

が政府の要請で全機が停止してから、丸4年がたった。発生すれば、ブログ子の暮らす浜松市あたりは最も激しく揺れる可能性が高い。地盤がかたくて運がよくても、震度6強は覚悟する必要がある。おそらく最悪の震度7だろう。

 東北大震災とは違って、直下型地震だから、激しい揺れが続いているうちに、大津波が発生から数分後に原発を襲う。原子炉の緊急停止が果たして間に合うかどうか、専門家でも自信をもって大丈夫という人はいない。たぶん無理だろう。激しい揺れの中、核暴走が始まることを覚悟しなければならない。

 日本の大動脈の真ん中で、そうなれば、立地の御前崎市、静岡県などという小さな問題ではない。少し大げさに言えば、

 日本沈没の悪夢

である。南海トラフ巨大地震はこれまでに何回も起きている。が、これに原発核暴走が加われば、日本列島誕生以来、最悪の大惨事になることは間違いない。

 ● 「回答保留」多い首長アンケートから

 そんななか、5月14日付中日新聞朝刊に、浜岡原発の再稼働の是非を直接首長に問うアンケート結果が掲載されている。調査に応じたなかで「再稼働賛成」と明言した首長はいなかった。多かったのは「回答保留」で、態度表明を保留したのが一番多かった。

 立地自治体の御前崎市の石原茂雄市長ですら

 「回答保留」

なのはいかにも象徴的である。1990年代、あれほど5号機の建設を、しぶる中部電力に要請しその願いをかなえてもらった地元でさえ、再稼働してほしいと明言できないで、今くるしんでいる。

 お隣りの牧之原市の市長は、デメリットばかりでまったくメリットのないことから、明確に

 「認めない」

と明言している。議会も全会一致で同じ内容を決議している。

 川勝平太静岡県知事も

 回答保留

だ(任期は2017年6月まで)。知事はこのところ少しずつトーンは落ちてきてはいるものの

 「現状では再稼働できる状況ではない」

と再稼働に否定的、ないし稼働するとしても高いハードルを設定している点では一貫している。要するに、ポイントは

 「再稼働は反対、認めない」

とまでは言いきっていないことだ。少なくともこれまで一度も明言はしていない。

 なぜだろうか。

 これには、一つには、中部電力に期待を持たせて、最大限の安全対策をやらせるだけ、やらせるという政治的な駆け引きであろう。態度の明確化は安全対策上、得策ではないとの判断である。

 第二は、自民党支持が多数派を占める県議会への配慮だ。県議のなかにも、再稼働反対とはっきり主張する人はいるが、しかしそれは10人にもみたないごく少数。事実、ほとんどの県議で構成する超党派議連が2年にわたる論議をしたにもかかわらず、意見がまとまらないまま2014年11月に解散している。スムーズな議会対策を図りたい川勝知事としては、議会のこの状況を無視した発言はできないだろう。その結果が態度保留ということになる。

 わが浜松市の鈴木康友市長も

 「回答保留」

としている。その理由として「複雑な要因のなかで判断しにくい」と、ある意味正直に回答している。再稼働はやむを得ないと思っていても、すぐには明言できないという産業都市としての市政の苦悩もある。

 ● 前衛画家、岡本太郎の遺言

 先日、NHKプレミアムを見ていたら、20年近く前になくなった前衛画家、岡本太郎の

 明日の神話

や太陽の塔の制作秘話を紹介するドキュメンタリーを放送していた。明日の神話とは、以前、このブログでも取り上げたが、岡本太郎が1954年3月に起きた

 ビギニ環礁の第五福竜丸被曝事件

をテーマにして描いた巨大壁画のタイトルである。科学・技術の進歩と調和の果てで引き起こされた悲劇を前衛的に描いたものであり、悲劇の舞台は静岡県焼津市である。

 核兵器によって平和を保とうというのは根拠のない神話であり、幻想

だといいたかったのだろう。何が進歩だ、何が調和だというわけだ。

 そんな私たち静岡県民が率先して、原発、とりわけ

 危険な浜岡原発が人々の幸福を約束するかのような幻想の「明日の神話」

をふりまいてはなるまい。浜岡原発の再稼働断念が静岡県の総意となれば、その影響は全国の原発の再稼働の流れにも広がるだろう。

  ● 早ければ2030年代に巨大地震

 これまでの南海トラフを震源とする巨大地震のくり返しを調べてみると、3連動(東海、東南海、南海)の巨大地震はおおむね1000年に1回。最近では1707年の宝永大地震が知られている。だから、M9クラスの次の巨大地震は西暦2700年ごろと予想される。今から約700年後である。

 しかし、連動地震、東海地方の場合には、東海地震+東南海地震については、最近の歴史記録や考古学的な痕跡から、90年から150年でくり返している。

 直近は東南海地震1944年/南海地震1946年である。このことから、次の連動巨大地震は

 早ければ2030年代後半に迫っている

ということになる。何時起きるかの詳しい特定はできないものの、具体的な発生時期についてそう想定している地震学者は少なくないだろう。

 東海地震がこれまで単独で起きたことはないという事実や、繰り返しのある程度の誤差を考慮すると、大津波を伴って東海地方を襲う連動大地震については、今から15年後の2030年代から発生の危険水域に入る。

 こうなると、はっきり言えば、いまのような態度保留という名の体制支持の現状は、日本沈没の引き金を引こうとしている状況にあるといえまいか。

 一番危険な原発をかかえる静岡県が率先して賢明な破滅回避の道を選んでこそ、日本の未来は開かれるだろう。 

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お祭りとは何だろうか ハレとケ

(2015.05.04)  今の大型連休の時期、全国どこもそうなのだろうが、浜松もお祭りでにぎわっている。遠州灘の中田島砂丘の凧揚げ合戦、夜の御殿屋台の引き回し運行は、普段静かな郊外をとくに盛り上げている。

 ● 浜松では170以上の町内が参加

 Imgp7523 右の写真は、ブログ子の町内や連合町内が持っている佐鳴台般若連御殿屋台の夜の帰町運行の様子。昨日(5月3日)夜の8時半ごろに市中心部から戻ってきたところを撮影したのだが、小さな子どもたちも大人たちに混じって屋台をひいているのが、おもしろい。屋台は着飾った女性が乗り込んでいるなど、若者が主体の祭りである。

 というのも、浜松まつりはそもそも子供の誕生を祝うまつりで、今では市内170町以上が参加している。準備はまだ寒い2月ごろから始まり、参加に必要な法被販売、寄付活動など、それぞれの自治会や町内会所が手分けして行なっている。

 ● 共有する価値観の再確認 

 わかっているようで、なかなかなその核心をつかむのがむずかしいのが、まつり。まつりとは何か、あらためて手元の辞典などで調べてみた。

 愛用の新明解国語辞典(三省堂)はもちろん、大辞林(三省堂)、広辞苑(岩波書店)、大辞泉(小学館)、さらには新潮日本語漢字辞典(新潮社)、そしてさらに本格的な専門辞書、日本国語大辞典(小学館)や古語大辞典(小学館)まで調べてみた。が、いずれも

 神さまや先祖を迎え、よろこばせ、なぐさめるため、時にはいけにえをささげたりする儀式

というぐらいの語釈であった。儀式の日をハレ(晴れ、非日常の意)といい、これに対し日常をケ(穢れ)というようにとらえられているらしい。

 しかし、ブログ子は、なんとなくわかったような気分になったものの、まだなんとなくその意味の実感を感じることができなかった。

 現代において、まつりがこれほどに盛り上がるには、伝統的な儀式の持つ機能が今も有効に働いている証拠なのだが、それは何か。これが、この語釈では伝わってこない。

 そこで、押入れにしまい込んでいた、かつて愛用していた

 日本大百科全書(ジャポニカ、小学館)

の項目を調べてみて、はじめて納得した。長い説明を要約すると、

 まつりには、そこに参加する人々になにがしかの共通の価値観をもっていることを互いに再確認させ、彼らを結集させる機能がある

というものである。ハレとケを行き来することによる帰属意識の確認がまつりなのだ。ケの世界では忘れそうになっていた価値観、アイデンティティを、あらためて参加者がお互いに思い起こす機会が祭りなのだ(民衆のこの結集力を恐れる場合には、そこには祭りは行なわれない)。

 その意味では、祭りの主役であるはずの神さまや先祖は脇役にすぎない。

 ● 祭りの核心は神聖な夜

 そのハレの舞台は、日常がやみに包まれる神聖な夜なのだ。

 ブログ子が長く暮らした京都の祇園祭も、宵山、宵々山の夜が本番であり、翌日昼に行なわれる山鉾巡行は儀礼としてのクライマックスにすぎない。五山の送り火ももちろん、夜が本番。

 まつりへの参加によって、自分が日本人であることを再確認する、浜松人であることを確認する。それがまつりの核心。祭りは、見物人を含めて直接参加することに意義がある。テレビ放送のニュースとして見るだけでは意味はない。

 世界の祭りのほとんどはその核心部分に夜が位置づけられていると思う。この意味で言うと、だから、祭りのない国はないのではないか。共通の価値観があれば愛国心はなくても国づくりはできる。しかし、これに対し共通の価値観やアイデンティティを必要としない国づくりは支配し、支配される関係はあっても、価値観の共有がないので、国をまとめていくことはむずかしい。

 これを要して、あえて言えば、今うねりとなっている反グローバリズムとは、価値観の共有なき経済グローバリズムの危うさを訴えていると言えるだろう。

 そんなことも気づかせてくれた般若連の夜の帰町運行だった。

             JR浜松駅前で=2015年5月5日夕方

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