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2016年5月

原作がないことの視聴者メリット       -- 大河ドラマ「真田丸」の面目躍如

(2016.05.30)  絶好調といってもいいくらいの勢いで、

 大河ドラマ「真田丸」

が進行している。その原因は、今回のドラマには原作がないということだろう。脚本家、三谷幸喜さんの持ち味が存分に引き出されている。いくら三谷さんでも、原作があれば、たとえば、池波正太郎さんが1970年代に書いた

 『真田太平記』

にもとづいて、脚本を書いたとすれば、こうはいかなかっただろう。

 ● 好調支える三谷脚本

 歴代大河ドラマでこれほどコメディタッチを脚本にうまく取り入れた作品も珍しい。ドラマが始まった当初は、このコメディ部分をかなり控えていた、あるいは抑えていたように思った。が、高視聴率ということで、今では全開の様相になってきている。

 ちなみに、1980年代に1年にわたって放送されたNHK大型時代劇「真田太平記」は、池波原作にほぼ忠実に描かれており、当時、これまたそれなりに高い視聴率をとっている。ブログ子も何回か拝見したが、今回とは対照的に重厚感があったと記憶している。

 その時の真田幸村役だったのが、草刈正雄さん。30年後の今回は、幸村の父、真田昌幸役を演じている。もちろん、このなんとも味なアイデアは、脚本家、三谷幸喜さん一流のものだろう。

 今回の大河ドラマ「真田丸」には原作がない。ここにこそ、脚本家、三谷さんの新境地を開こうという気概が感じられる。

 こうなると、ラストをどう描くか、そこが見ものである。

 堺雅人さんの幸村と茶々(淀殿=竹内結子)とは、「同じ日に死ぬ」とすでにドラマの中でラストを予言する台詞もあった。このことからも、三谷の三谷らしいラストが見ものである。

 真田幸村の悲劇性をコメディ調で描く。そこに一層の悲劇性がある。このブログ子の言い草が的を射たものかどうか、12月には判明する。

 ● 新境地開けるか「おんな城主 直虎」

 こうなると心配なのが、浜松に暮らすブログ子として、浜松が舞台の

 来年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」

である。こちらも原作はない。しかし、高視聴率とは言わないまでも、果たしてそこそことなるかどうか、今から心配である。

 視聴率ではない視聴「質」が問題だ

と虚勢をはるような無残なことにならないためには、よほどの脚本力が求められるだろう。

 直虎役の柴咲コウさんはともかくとして、いいなづけ直親役の三浦春馬さんなど、先日発表された出演者の顔ぶれをみて、不安になったことを正直にここに書いておきたい。

 原作がないというメリットを生かし、合戦や戦を売り物にはしない人間ドラマの新境地を開く。踏み込んで言えば「女性が輝く」とはどういうことかということを心にしみる入る脚本を強く期待したい。悲恋物語では、もちろん失敗だろう。

 ひとことで言えば

 史実をなぞるのではない。そこに秘められた現代に通じる道を開く。

 「真田丸」に続いて、ここからも新境地を切り開いてほしい。

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今、小保方晴子さんの『あの日』を読む

Image2343 (2016.05.23)  今から2年以上も前の華々しい「あの日」。その日の主役は小保方晴子さんだった。そのご本人の

 手記『あの日』(講談社)

を読んでみた。世界的科学誌「ネイチャー」に画期的発見論文を掲載したとして記者会見に臨んだあの日(2014年1月28日)からちょうど2年たった今年1月に出版されている。のだが、発売当時ベストセラーにはなったものの、もはやSTAP細胞だの、小保方何某だのということは世間からは忘れ去られようとしている。

 読んでみたのには、だからこそ、あの出来事について、今、冷静に考えてみたいし、考えることができるとの思いがあった。

 ● 2008年9月、ハーバード大医学部留学

 手記は、2008年9月、あの日の発表に至る生物の細胞に関するアイデアを手に入れることになるハーバード大への留学のため、大学のあるボストンへと旅立つところから始まる。青雲の志をいだいての渡米であり、小保方さん24歳の秋だった。

 そして、手記は、閉ざされた研究者の道というタイトルのついた第15章で終わっている。ここでは彼女の理学博士の学位が早稲田大学から落ち度があったとしてはく奪されるまでの顛末を語っている。

 Image2344 この本には、小保方さんを世界に押し出そうと指導した世界的な研究者、笹井芳樹氏が登場する。笹井さんは、小保方さんがハーバード大留学から帰国した後、所属することになる理化学研究所の発生・再生科学総合研究センター(CDB)グループ・ディレクター(副センター長、元京大再生医科学研究所教授)。

  上に、同氏の当時の活躍ぶりを紹介している「日経サイエンス」2011年12月号「挑む」を紹介しておく(写真のダブルクリックで拡大。写真の左端は小保方手記)

 この小保方本には触れられていないが、笹井さんは、研究不正の発端となる「あの日」を境に窮地に立たされる。その結果、遺書を残して「あの日」から半年後に自殺する。

 ● 集団的な過熱過激取材の犠牲者   

 そんなこんなの内容なのだが、手記を読んだ感想のまとめは次の通り。

 第一。

 この手記の第10章メディアスクラムにその実態が描かれているが、小保方さんは、メディアのすさまじい集団的で過激な過熱取材、つまりメディアスクラムという報道機関の暴走の被害者だったということである。きわめて重大な人権侵害であることをマスメディアは反省すべきであろう。国民の知る権利を負託された行為とはとても思えない。何が問題なのか、当事者にも国民にもわからなくさせる効果しかなかった。

 下品な言い方をすれば、水に落ちた犬を岸にいるみんなでいっせいに棒でたたく卑劣な行為である。マスメディアにはこうした行為を好む人種が多いことをあらためて思い知った。

 その意味で、この手記はメディアスクラムの実態を具体的に暴きだした貴重な著作であると断言したい(下記の補遺参照)。

 その上で第二。

 結局のところ、この手記は遺書を残して1人の有能な世界的研究者が自殺するまでの理系現場の人間模様を描いたもの、ということになる。

 比較として、思い出すのは、J.ワトソンの

 『THE DOUBLE HELIX(二重らせん)』(1968)

である。こちらは、発見のカギを握った有能な女性研究者を巻き込み、栄光をつかむまでの男たちの人間模様を描いていた。こちらも科学誌「ネイチャー」に発見論文を投稿するまでの息詰まるような緊迫の様子が描かれている。

 もっともこちらのほうには、1950年代のイギリスとアメリカでの出来事であり、メディアスクラムはなかった。

 ● 近い将来、また起こる第二の「あの日」

 それはともかく転落物語であれ、栄光物語であれ、共通しているのは、ともに描かれた人間模様が、世界的な反響のなか、悲劇的なスキャンダルに彩られている点である。

 手記を読んであらためて思うのは、悲劇的なスキャンダルを回避する方策を理系現場はとっているだろうかということだった。

 「あの日」の前後で何も変わってはいない。これでは、近い将来、第二の「あの日」が起こるだろう。

● 補遺 「婦人公論」に対談記事 2016年5月29日

 「婦人公論」6月14日号には、今回の本を公にした後の最近の心境について、小保方さん自身が語っている記事が掲載されている。瀬戸内寂聴さんと京・嵯峨野の寂庵で対談した記事「あなたは必ず蘇る」である。

 驚いたのは、小保方さんの外見の劇的な変化。「あの日」の小保方晴子さん本人とはとうてい思えないほどである。いかにメディアスクラムがすさまじかったかをうかがわせるには十分である。 

 そんななか、寂聴さんが対談を引き受けたのは、この対談にも寂聴さんが語っているように

 困ったときに助けてくれるのが、本当の親切

という思いからだったろう。寂聴さんの「あなたは必ず蘇る」という言葉を、ブログ子も信じたい。

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芭蕉は「奥の細道」旅先で何を食べていたか - 人生の終い方

(2016.05.21)   大型連休も終わり、いよいよ新緑競う5月。300年以上も前、松尾芭蕉もこんな季節に江戸を立ち、「奥の細道」の旅に出たのであろう。奥の細道、矢立初めの地というのは、住み慣れた芭蕉庵のあった深川から隅田川をさかのぼった千住大橋らしい。そこには旅立ちを示す石碑が立っている。

 行く春や鳥啼き魚の目に泪

と最初の俳句を詠んでいる。この句からは芭蕉のこの旅立ちにかける相当の覚悟が感じられる。芭蕉庵を引き払い、人生、最後の旅という思いだったろう。

 先日、BSスペシャルで、旅先で詠んだ俳句ではなく、

 いったい芭蕉は旅先で何を食べていたのだろうか

という発想で、その再現に協力した料理の鉄人、道場六三郎が登場していた。題して

 奥の細道、幻のレストラン

である。芭蕉は、生まれ故郷を離れるまでは、ある屋敷の台所で下ごしらえなどの下働きをしていたことから、こうした番組が企画されたらしい。初回放送は1997年だが、今回はそのアーカイブス放送。

 ● マツタケ汁、鴨肉も

 芭蕉は伊賀上野の生まれだったことから、忍者説もあり、忍者の食べ物

 保存食のかたやき(今のクッキー)、カボチャのタネ

 あるいは

 健康食品の梅干し

などが紹介されていた。そのほか、吟行ということもあり、旅先の季節の食材、たとえば、

 ベニバナ、シラウオ、干しゼンマイ、シメサバ、イブリガッコ(東北風タクアン)、エビ

などを組み合わせた、道場さん特製の

 「おくのほそみち」弁当

も、番組参加者にふるまわれた。その間には、おそらく道中、大きなマツタケを使った汁物、鴨肉も食べたであろうとのことだった。

 芭蕉は酒をたしなんだことから、風流な

 マスホガイ入りの杯

も映像で登場していた。北陸道の敦賀の「種(いろ)の浜」を詠んだ俳句や和歌にも

 「ますほの小杯」

というのが出てくるらしい。実際、芭蕉もこの旅で

 波の間や小貝に混じる萩の塵

と詠んでいる。種の浜のさびしい秋の夕暮れ時を読み込んだものであり、うまい歌だと思う。

 結びの地、大垣では

 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

と詠んでいる。矢立初めの地「行く春や-」に始まり、結びの地「-行秋ぞ」ときちんと句集としてととのえているのがおもしろい。

 この5か月にわたる旅から帰った芭蕉は、推敲に5年をかけ、奥の細道を完成させる。それとほぼ同時に、51歳でこの世を去っている。

 ある意味、

 人生の終い方の達人

だったように思う。

    以下の写真は、木曽義仲と並んでおかれた芭蕉の墓。遺言どおりのこの義仲寺(ぎちゅうじ、大津市)には有名な最後の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」と刻まれた大きな石碑も墓の隣りにおかれている。

    Imgp5160

 

  

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羽生名人、世界の人工知能開発現場をゆく - ポスト・ヒューマンへの想像力

(2016.05.16)  きのうの日曜夜、NHKテレビで、将棋の羽生善治名人が

 世界の人工知能開発の現場をゆく

05_16_0_2 という内容の番組を拝見した。羽生さんは、人間にしかできないこととは何かということ考え続けているせいか、人工知能にことのほか興味を持っているという。その結論として、人間にできる、いわば最後の砦は

 臨機応変

ではないかとも、最近語っている。確かに、あらかじめプログラムしたことしかできないというのがロボットや人工知能AIだとするならば、そうかもしれない。

 しかし、ブログ子はその臨機応変も人間の独壇場ではないのではないかと考えている。人工知能にもいずれできるようになる。

 ただ、今のところ、たとえば囲碁では盤面情報だけが認識できる入力情報であるので、臨機応変といっても、限界がある。これに対し、人間は盤面の視覚情報だけを頼りに勝負しているわけではない。体調はもちろん、周りからの情動的な超知覚情報も取り入れ、臨機応変に判断している。つまり、身体知をフルに活用している。

 ● AI「アルファ碁」の衝撃

 さて、最近、囲碁の世界チャンピョン棋士に人工知能「アルファ碁」が圧勝した。番組では羽生さんはその開発を行ったグーグル傘下の

 英国ベンチャー企業「ディープマインド社」

にも足を運び、開発者自身にもインタビューしている。それだけではなく人工知能が切り開く、たとえば医療や交通の革命ともいうべき未来について、案内、ないし思索の旅をしていた。

 その結果、番組の最後で、羽生さんは

 人間の使い方次第で、あるいはこれからの対応次第で、AIは天使にも悪魔にもなれる

という至極穏当な結論をのべていた。

 この番組をみて、あらためてブログ子は、あらかじめプログラムされたことを忠実に実行するだけではなく、AIロボットは自らも独自に学ぶことで知識を生み出し、それが倍々ゲームで蓄積されていく時代に入りつつあることに驚いた。同時に、その蓄積をもとにして、すでに人間もおよそ及ばない発見的「ディープラーニング」学習もできる高みにまで、AIは到達していることを知った。

 ● 物理学や数学への波及も

 こうなると、この驚異と衝撃は、チェス、囲碁、将棋などのゲーム分野だけにはとどまらないはずだ。たとえば、高い創造力が求められる物理学や数学といった学問分野にも必ず波及するだろう。重要な物理法則の発見や数学的な定理が人工知能によって発見されたりする日がやがて来る気がする。この100年以上にもわたって未解決の

 素数に関するリーマン予想

という、超難問もAIによって解決できるような予感がする。そのほか、重力理論と調和した超弦理論の完成なども、人工知能がやすやすと成し遂げるかもしれない。

 ● 天使か悪魔か

 そうなると、当然不安になるのが、

 人類の未来はどうなるか

ということ。人工知能は生物進化の影響を受けない。ので、現在の人間にはある進化ステージの生物学的な制約を、AIはいとも簡単に乗越えていくことができる。

 これからのAIの進化は、これまでの人間のような

 炭素カーボン脳

によるものではない。言い換えれば、その進化は、指数関数的な途方もないスピードで非生物学的に進む。いってみれば、シリコン脳の時代。そのスピードにはホモサピエンスは到底かなわない。ゆっくりとしか進化できないホモ・サピエンスの絶滅は、そう遠くない。たとえば、21世紀中にも起るような気もする。

 そうなると、かつてこの欄でも取り上げた

 カーツワイルの予言 : 2040年代にも人類の進化は〝特異点〟に到達する

というコンピュータ技術者の宣託は、あながち考えすぎとはいえまい。

 最近の「アルファ碁」の衝撃は、人類進化に対する晩鐘であり、非生物的なポスト・ヒューマン(= ポスト・ホモサピエンス)の時代の幕開けを告げているのかもしれない。

 しかし、それはわれわれにとって悪夢であろう。悪夢を追い払ってくれる天使は、果たして出てくるのだろうか。この不安はブログ子だけではないだろう。

 これに対するブログ子の結論は、こうだ-。

 悪魔を追い払ってくれる天使は出てくる。しかし、それは臨機応変に対応できる今の人類の中からしか出てこないだろう。AIが臨機応変を自ら学ぶまでには、まだ時間がかかる。それに、たとえ短期間で学ぶことができたとしても、それが人間にとって天使となるかどうかはわからない。おぞましい天使という場合もある。

 この猶予期間にホモ・サピエンスがAIについてどう対応するのかによって、種が絶滅するのか、それとは逆に新たな進化段階に飛躍するのか決まるだろう。

 この結論について、ひょっとすると、その正否はまだブログ子が生きている間にも判明するような気がする。それほどAI技術の進展はすさまじい。テレビを見ていて、そんな予感をいだいたことを、正直に書いておきたい。

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人はなぜ地図をつくるのか 映画「点の記」

Imgp9716_3 (2016.05.09)  大型連休明けの雨の午後、BSプレミアムで

 映画「剣岳 点の記」(木村大作監督、2009年)

を見た。簡単に言えば、明治国家が近代国家としてその威信をかけて取り組んだ国内地図づくり物語である。具体的には陸軍が主導する陸地測量部が周辺の地形が空白となっている剣岳の山頂に正確に3等三角点を設置しようとするまでの苦労とその意外な顛末を描いている。

 公開時には劇場で拝見した。本物の美しい山岳映像と、俳優の香川照之が実在した山の案内人、宇治長次郎役を好演しているのは、ともに同じ印象だった。が、この映画が何をテーマにしているのかという主題について、劇場では思い至らなかった点を、今回発見した。

 なぜ人は地図をつくるのか

というのがテーマだったと気づいた。さきほど、近代国家としての威信をかけてと書いたが、

監督が言いたかったのは、「あなたはなぜ山に登るのか」とある高名な登山家に新聞記者が尋ねたようなもっと哲学的なことだったと気づいた。

 それは、この映画のラスト10分くらいのところで描かれていた。

 人はなぜ、そんなに苦労してまで地図をつくるのか。その答えを要約すれば、こうだ。

 自分の位置を客観的に知って、

 人間とは一体何者なのか

ということを思い知るために、人は地図をつくる。それは国家の威信のためでも、戦争に必要だからでもない。

 この原作にはないシーンを拝見して、最初は冗長だと思ったが、監督のこの映画づくりの動機ではなかったかと、ブログ子は思う。

 ● 人間とは一体何者なのか

 地理上の「地球の発見」とも言われる16世紀のヨーロッパ人の大航海時代はもとより、近代天文学者たちによる20世紀の太陽系地図づくり、さらには21世紀の宇宙望遠鏡による宇宙地図づくりはまさに、

 人間とは、人類とはいったい何者なのだ

Imgp9717kiso という問いかけに対する答え探しだった。そして、それは私たちが思っているほど私たち自身は偉大でも、優れてもいない、ほんのちっぽけな存在に過ぎないということを思い知らされた営みと驚きの連続だった。

 その意味で、この映画は美しい映像があふれる 山岳映画ではない。それではあの美しい山岳映像はなんなのか。それは、いかに人間の存在が小さなものなのか、それを見る人に言葉ではなく、視覚で伝えるためではなかったか。このことを、今回発見した。

 いい映画は2度鑑賞する。いや、3度観れば、原作では味わえない発見がある。映画「点の記」はそんなことを思わせた映画だった。

 (以下の写真は、ブログ子の仕事部屋の様子)

 私たちの住んでいる銀河系の地図やその銀河系の周りの様子を観測データから再現した宇宙図がふすまに貼り付けてある。ビッグバンから現在までの宇宙進化の時間地図まである。

 Imgp9714

 

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