小が大を呑む情報戦 なぜ「真田丸」か
(2016.04.05) 真田昌幸と信繁(通称、幸村)/信幸(のちの信之)という「父と子」が活躍する大河ドラマ「真田丸」の第一の山場
第一次上田城合戦(1585年夏)
が先日の日曜日に放送された。本能寺の変からわずか3年後の事件である。1月の第一回「脱出」という信繁たちがいきなり逃げ惑うユニークなシーンから始まった「真田丸」だが、弱小の真田一族がいよいよ「大」=徳川家康軍に立ち向かう最初の見せ場である。大軍の徳川軍を敵に回しての籠城情報戦を展開、徳川軍を撃退、大勝している。
このときの徳川軍はブログ子が暮らす浜松市の浜松城から遠路はるばる上田城まで出陣する。挙句の果てに大敗。その秋に疲れ果てて浜松城に帰陣しているので、今回のドラマは格別に興味を持った。
(写真右上は、今回の原作ではないが、池波正太郎さんの大作『真田太平記』(全16巻、1970年代後半連載)。今回の大河ドラマには原作はない)
● 三谷幸喜さんの狙い
ブログ子はこの見せ場を拝見して、脚本担当の三谷幸喜さんが、どういうテーマで、どういうようにストーリーを展開するつもりなのか、そしてなぜ大河ドラマのタイトルを
「真田丸」
としたのかということのおおよその察しがついた。
テーマは、
数に物を言わせて押してくる強大な勢力に対しては、弱小集団は優位に立つ情報力で、生き残れ
というものである。そういう趣旨のことを信繁(堺雅人)が一言つぶやくシーンもドラマではあった。情報戦では、この大河ドラマでも、そして池波正太郎さんの『真田太平記』(=写真上)でも、
草ノ者、忍びの者、乱波
という情報機関をたくみに活用しているシーンがよく登場する。
こう考えると、第一次上田(城)合戦に続くストーリーとしては、関ヶ原合戦に駆けつける途中での徳川秀忠率いる
第二次上田城合戦(1600年秋)
が第二の山場、見せ場として描かれるはずだ。この前後の籠城しての情報戦を制して、数で押してくる徳川軍を翻弄する。
注意すべきは情報戦といっても籠城作戦に勝つには必ず近くに援軍が期待できるもう一つの味方城が必要なこと。第一次、第二次の籠城した上田城の場合、それは北部にあった砥石(といし)城だった。
そして、
第三次上田城合戦は20万とも言われる徳川家康軍を大阪城に籠城し、迎え撃ち翻弄する
大阪冬の陣(1614年冬)
である。これは、いわば
第三次真田丸合戦
だろう。
大河ドラマ第一回の「脱出」ではただひたすら「逃げるが勝ち」とばかり、真田軍は逃げろや逃げろの作戦。これは言ってみれば、織田信長・徳川家康連合軍を迎えてのまだ上田城もない状況での右往左往、いわば
第ゼロ次上田城合戦(1580年前後、つまり本能寺の変直前。真田家主筋の武田(勝頼)家滅亡)
と位置づけられるかもしれない。つまり、考えた末の籠城情報戦ではなかった。しかし、それからの第一次、第二次上田城合戦では、小でも大軍に立ち向かえる頭を使った籠城情報戦に生き残りをかけたというわけだ。
そして、いわば第四次上田城合戦と位置づけられるのが
大阪夏の陣「真田丸」合戦(1615年夏)
である。大阪の陣ではもはや援軍の期待できる城は近くにはない。ので、籠城情報戦だけでは勝機はない。とみての真田丸からの
家康本陣への意表を突く斬り込み
となり、ついに敗れ、その壮絶な覚悟の生涯を終えたのである。そして、信繁の人生の倍、90歳まで生きた兄、信之(松代初代藩主)が幕府とも切り結ぶしたたかな一族生き残りへとつなげ、明治維新まで小藩ながら存続させることに成功する。
だから、三谷氏は今回の大河ドラマのタイトルを、小が大をのむ上田城合戦の仕上げとして大阪城という大舞台のなかで「真田丸」を選んだのだと思う。
つまり、真田丸で、小が大をのむには何が必要なのかということを象徴的に表現したかったのだろう。
援軍を当てにした結束の籠城だけではなく、最後には意を決して打って出る決断力も必要。これが真田兄弟の人生をかけたわたしたちへの遺言であろう。
● 情で死に、理で生き残った
それだけでなく、情報戦といえども、幸村の死地に向かう大いなる勇気とともに、兄、信之の次の時代を読む忍耐の要る冷徹な自重がなければ、戦国の世を行き抜けない、大平の世は開けなかったということも脚本家、三谷氏は描きたいのだと、ブログ子は思う。
情の幸村、理の信之
という構図である。情で死に、理で生き残った。これが真田一族の魅力といえそうだ。
以上の推測が当たっているかどうか、今後の大河ドラマの展開が楽しみである。
● 三方が原合戦でクロスした昌幸と家康
ところで、今回の大河ドラマでは草刈正男さん演じる父、真田昌幸が重要な役割を果たしている。これからもそうなるであろうが、浜松に暮らすブログ子としては、浜松で展開された三方が原合戦(1572年)で家康を震え上がらせた武田信玄/勝頼軍の有力武将だった真田昌幸にとって、
家康の洟(はな)垂れ小僧
などに負けてたまるかという意地があったであろうと想像する。ただ、三方が原合戦当時の幸村はまだ数えで6歳、今で言えば小学一年生ぐらい。だったので、この父親の敵愾心は理解できないであろう。幸村が颯爽としてその実力を世に知らしめたのは、
秀吉の小田原攻め(1590、幸村23歳ぐらい)
からだ。以後、46年の生涯の幸村にとってまさに大阪城真田丸に向かってひた走る、言い換えれば
人の世の情に生きる後半戦
がここに始まるのである。
● 新田次郎『武田信玄』を読む
また、昌幸は武田信玄や勝頼に付き従った有力な側近武将だったことから、さらに甲斐源氏の武田家の盛衰を知りたくなって、今
『武田信玄』(全4巻。新田次郎。1960年代後半月刊誌連載=写真左)
を読んでいる。
幸い、BSプレミアムでもこの小説を原作とした1988年度大河ドラマを今後毎週一年間にわたって再放送するというのだから、ありがたい。再放送で、あるいは再読で真田一族の生きた乱世の時代背景や時代の風をあらためて感じてみたい。
そのことで、甲斐源氏の流れを組む武田一族と一地方豪族にすぎない弱小真田一族との異質性と同質性を見極めたいと思う。それは同時に信濃人の筋を通す国柄を垣間見ることにつながる。
新田次郎さんは、北信濃の諏訪市の出身だから、信玄時代の政治背景にはことのほか造詣が深い。また、気象庁勤務の経験が長い。ので川中島の戦いのように気象に左右される戦いには独自の見解を小説のなかに生かしたり、織り込んだりしているのがおもしろい。加えて実在はしたらしいのだが、山本勘助というなにやらあやしい〝軍師〟も登場し、戦国の物語を盛り上げている。
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