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2016年4月

国民を守る番犬か、権力の飼い犬か ------ メディア考 文春「なぜスクープ連発?」

(2016.04.28)  このところ、BS-TBSの

 外国人記者は見た !

というのをときどき見ている。ニューヨークタイムズ記者など、東京に駐在している日本語の達者な海外紙、通信社、テレビ放送局のベテラン記者たちが、日本人記者や論説委員も交えて、そのときどきの時事を取り上げて

 日本診断

をするという趣向。司会者のパトリック・ハーランド(通称、パックン)キャスターの好リードで次第に視聴率が上昇しているらしい。のだが、当然だが、日本診断の見解がお国柄によってずいぶんと異なる。そのところが、ブログ子としてはおもしろい。

 ● 大手メディア、萎縮して自主規制

 先日は、週刊文春「なぜスクープ連発 ?」

というのがテーマだった(このテーマには微妙な問題があるので、ヤバイところを放送前にカット編集できるようおそらく収録したもの)。

 辞任に追い込まれた甘利大臣政治資金疑惑、SMAP解散騒動、清原覚せい剤事件、有名コメンテーター経歴詐称騒動、元少年A直撃取材など確かに今年に入ってからもスクープを連発している。

 文春といえば、かつて、そして今も首相退陣のきっかけをつくった

 1970年代の田中金脈問題の立花隆氏

が有名だが、番組では元文春記者もゲストとして出演していた。

 連発の要因として、

 最近の安倍内閣のメディア締め付け姿勢のなかで「大手メディアは(事なかれ主義の企業体質からくる)過剰な自主規制で萎縮している」(ニューヨークタイムズ記者)のが原因、一方「文春は(中国では考えられないほどの)取材自由度が高い」(北京放送記者)のも要因。これらの要因のほか「文春の編集部には(確実ではなくとも確度の高い取材をするためには長期にわたる綿密で多角的な取材が必要だが、そのための)潤沢な経費を惜しまない(という伝統がある)」(元文春記者)との趣旨の発言が番組で出ていた。

 このほかの外国人記者からも、熊本地震において意識的にかどうか近くにある(川内)原発について(安倍内閣の恫喝を恐れてか)ほとんど報道していないなど「大手メディアには報道する勇気が失われている」との厳しいコメントも出ていた。

 ● ブログ子の見解

 Imgp9611 これらの議論を拝見して、ブログ子の結論を言えば、「報道の自由」を標榜するなら、確実ではなくとも一定の確度があると確信できるならば、そのことを明記した上で、またその確信の具体的な根拠を示した上で、

 疑わしきは報道する

という責任があるということ。

 なぜなら、かつて世界的に知られたジャーナリスト、W.リップマンがその著書『世論』(岩波文庫、1922。写真)で喝破したように、ニュースと真実は同一ではなない、それらははっきりと区別しなければならないと強調した上で次のように述べているからだ。

 「ニュースの働きは一つの事件の存在を合図することである。真実の働きはそこ(事件を指す)に隠されている諸事実に光をあて、相互に関連づけ、人びとがそれを拠りどころとして行動できるような現実の姿を描き出すことである」

と、ニュースと真実の関係、つまりニュースは真実に迫る入り口が当該記事にあることを合図するものであると言及し、このことこそが近代ジャーナリズムの存在理由であると明解に述べている。この発言から100年近くたったが、この存在理由は今も依然として正しい。

 ● ニュースと真実の区別

 なぜなら、疑わしきは報道することによって初めて、メディアは権力から国民を守る番犬足りえるからだ。 疑わしきは報道せず、権力の発表するものだけを「確実な真実」として報道するというのは、疑わしきは権力の利益にという論理であり、悪しき発表ジャーナリズムである。これでは、

 (現在の中国のように)メディアは権力の飼い犬

になって、国民のメディアに対する信頼は地に落ちてしまう。蛇足だが、疑わしきは罰せずという裁判原則は、権力から国民としての被告人を守るための法理なのだ。

 中国には、国民の声という意味の世論というものが存在しない。あるのはごく一部の声=共産党の声だけである。なぜか。それは中国には近代ジャーナリズムが存在しないからだ。言い換えれば、権力の飼い犬しかいないのが中国なのだ。

 そうならないためには、そして「報道の自由」という権利を行使するには、番犬としての責任と勇気が大手メディアには求められる。

 今回の文春連発問題は、勇気あるジャーナリズムとは何かということを、そして何をやってはいけないかということを、具体的に大手メディアに突きつけたのだと思う。

  番組司会のパックン、お笑い芸人だそうだが、そのレベルの高さ、さすがハーバード大学を卒業しただけのことはある。

  ● 注記  舛添都知事「私的支出」問題でも 2016年5月15日

 この記事を書いてから2週間ほどたった大型連休明けには、件の週刊文春がまたまた、数年前の政治資金収支報告書を精査し、

 舛添都知事の政治資金「私的支出」問題

をスクープしている。各紙、たとえば大手メディア、朝日新聞は5月14日付の1面と3面で、後追いトップ記事を書いている。今回の件について舛添知事自身も当時の経理担当者の処理ミスで起きたことを認め、返金手続きをすると記者会見で語っている。

 しかし当時の経理責任者の単純ミスというよりも、参院議員以来からささやかれていた公私混同体質のあらわれであるとして、都知事に辞任を求める声が都民から上がっているらしい。返金すればいいという問題ではない。その政治姿勢が問われるのは当然であり、都議会の判断が注目される。とともに、これで週刊文春の番犬ぶりが一層きわだってきており、取り組みは本物であることを示している。 

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「黒い草」の30年 - チェルノブイリの今

(2016.04.27)  ウクライナ語で、チェルノブイリとは

 黒い草、ニガヨモギ

のこと。その名の通り、その葉は少しにがい。そのせいか、聖書でも縁起のいい植物としては描かれていない。むしろ、死と結びついたイメージがある。

 チェルノブイリ原発事故(1986年4月)から30年。各局とも、原発事故関連の番組をこの1週間に何本も放送した。

 その感想を一言で言えば、未曾有の東日本原発震災の日本では

 チェルノブイリ事故はもはや歴史のなかに風化しつつある

ということ。再放送だったものも多く、番組がセピア色の写真をみているような印象、感覚にとらわれたというべきかも知れない。

 チェルノブイリは遠くになりにけり

 しかし、放射能の脅威は、30年たったこれから、その姿を現すだろう。

 ニガヨモギの苦さを、今、人類は思いだすべきではないか。

 チェルノブイリからわずか3キロくらいのところにあるゴーストタウン、かつて花が咲き乱れていたプリピャチの街全体が廃墟と化した映像をみて、ブログ子はそう思った。

  Image2324_1

   わたしたちなきあと地球はどうなるのだろう

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内部被ばく告発の新藤映画「第五福竜丸」 -- 発見された乗組員たちのカルテ

Image2321 (2016.04.18)  あるこじんまりした会合で先日、

 60年ぶりによみがえる幻のドキュメンタリー映画

 「第五福竜丸」(新藤兼人監督、1959)

というのを見た。世界で初めて、放射能を浴びたり吸い込んだりした体内残留放射能からの内部被ばくの恐ろしさを描いている。

 被ばく半年後に死亡した無線長、久保山愛吉さんを宇野重吉が熱演している。その妻を演じたのが乙羽信子。監督の独立プロダクション(近代映画協会)時代の作品である。

 ● 幻の映画、東日本原発震災後にDVD化

 製作資金難や上映配給難をかかえながらも、大映が配給を引き受けることで、なんとか公開にこぎつける。しかし、興行的にはなぜか国民の関心事とはマッチせず失敗。既存の映画づくりにはない独立プロの鋭い批判精神が作品に息づいているのがリアルであり、見ものなのだが、その後劇場で上映されることはなかった。しかし、ビギニ事件から60年後の2014年春にDVDでよみがえる。

 こうした経緯をたどったDVD版には、東日本原発震災後の今、放射能というものの恐ろしさや過去の被ばく事実に今一度向き合って考えてみてほしいという関係者の願いが込められていると言えよう。

 ● 死因、日米で異なる結論

 事件から5年後の1959年に公開されたこの映画には、東日本原発震災時の避難住民の内部被ばくの放射能問題でも話題になった

 半減期が約28年のストロンチウム90

という放射能を持つ物質が登場する。吸い込んで体内にとどまった「死の灰」は数十年間にわたり放射線を出し、体の内側からその人の体を少しずつむしばむ。半年後に死亡する第一番目の犠牲者が、年長だった久保山さんである。

 この映画を見て、ブログ子は、次の二つの点に注目した。

 一つは、久保山さんの死因は何か、という点である。

 実際の事件においては、主治医師団のカルテでは、肝炎発症はあるものの、それには放射線障害による影響が大きいとして「放射能症」と記載されている。いわばこれは放射能症主因説である。これに対し米国側は治療にあたって投与された売血を輸血した医師団をとがめている。つまり、この輸血が主な原因でウイルスに感染、急激に肝炎が悪化させた「血清肝炎」としている。血清肝炎主因説であり、どちらが正しいのか、今日まで決着はついていない。

 現在では、この中間、被ばくで免疫力が低下していたところに、売血の輸血によってウイルスに感染。それによる肝炎が、年齢もほかの乗組員より高いこともあり、急激に悪化したという複合原因説がどちらかといえば有力視されている。

 一方、映画では、主治医師団の見解をより重視した、つまり肩入れした描き方をしている。血清肝炎についてはほとんど触れられていない。放射能症単独説に近い。

 ● 事件から45年後にカルテ発見

 そんなおり、2009年7月、行方不明だった久保山さんの死亡までの治療記録(カルテ)が東京の国立国際医療センター(カルテ保管庫)で発見された。また、翌年にはほかの乗組員16人分のカルテも発見された。

 今回、DVDをみて、双方の死因見解が分かれているのだから、この発見されたカルテをもとに、現代の知見に照らし久保山さんの死因の真相がはっきりするのではないかと思った。それには、久保山さんの臓器の組織標本の再検討も大事だろう。組織標本の保存先は同医療センターなどであることを思えばなおさらだ。

 かつての乗組員23人のうち、15人以上はすでになくなったが、現在でも、第五福竜丸の冷凍士だった大石又七さんをはじめ何人かは、肝炎や肝がんなど一部障害を抱えながら暮らしている。カルテの発見を契機に、きちんと死因を解明し、その教訓を生かさなければならない。

 ● 東海村臨界事故の治療記録を生かす

 Imgp9588jco もう一つ注目したのは、第五福竜丸事件(1954年)とカルテ発見(2009/2010年)の間にはウラン加工工場での

 東海村臨界事故(1999年)

があるという点である。

 放射能を持たない中性子だが、連続的な核分裂という臨界に伴い発生する中性子線を大量に浴びることの危険性を具体的に示した日本で初めての事例である。

 わかりやすい言い方をすれば、広島、長崎の「ピカドン」の恐さである。

 これは放射能による内部被ばくではないが、これもまた放射線障害事故であることに変わりはない。死因は多臓器不全で、二人の作業員が亡くなった。全体で約20Sv(シーベルト)と、致死量をかなりこえる非常に強い中性子線を一瞬で浴びた作業員(35歳)は、3か月後に死亡。もうひとりの作業員(40歳)も7か月後に亡くなっている。

 今回の新藤監督映画を見て、死因の解明とは別に、あらためて外部被ばくや、内部被ばくの詳細について、現時点での知見に基づいて解明する必要性を痛感させられた。 

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科学者の社会的責任、日本はどうだったか - 湯川、朝永著作集を読む

Imgp9549_2 (2016.04.17)  久しぶりに、このブログの読者から、辛口のコメントをいただいた。

 先日来、1940年代の原爆開発のオッペンハイマー博士のこと、あるいは1950代の原発開発のダイソン博士という科学者を取り上げ、

 科学者の社会的責任

について論じた。読者のコメントというのは、米科学者を責めるだけでは無責任であり、片手落ちではないかという酷評だった。

 論ずべきは、日本の科学者たちの責任についてただすべきなのだ

と指摘された。指摘もっともで、あらためて、日本の著名な核科学者がその当時どのように行動し、世の中に訴えようとしていたのか、調べてみた。

 ● 自覚的な行動はまれ

 取り合えず、湯川秀樹著作集と朝永振一郎著作集を広げて、見た。湯川博士には、

 湯川著作集第五巻「平和への希求」

があり、朝永博士には

 朝永著作集第五巻「科学者の社会的責任」

というのがある(写真)。 

 アメリカの科学者たちは原爆、水爆、原発の開発者であったことから、社会とのあつれきの中で悪戦苦闘していた。これに対し、日本の科学者については、比較的にのんびりした他人事として、あるいは言葉遊びのような会合を開いているのが、これらの著作集を読むとはっきりする。

 ● 大衆運動に結びつかず

 アメリカの水爆実験で被ばくした第五福竜丸事件では、日本国内で有権者の半数が

 核実験禁止

に署名するなど運動は盛り上がった。しかしその段階になっても、また1950年代後半以降になっても、科学者たちがそれらと結びつくことはなかった(注記)。

 あくまで国内的にも海外的にも科学者だけの間のサロン的な情報交換、あるいはせいぜい哲学者や文学者の間の高等遊民的な会議に終始した。科学者は体制側にたった意見を述べるにとどまり、明確な大衆とともに歩む方針を打ち出すことはなかった。この点では、オッペンハイマー博士の骨身を削った対応とは極端に異なる。

 さらに、言えば、核兵器に関する解決策についてもユートピア的な世界連邦政府づくりにはなかなか熱心だったが、当時焦眉の急だった原発については、ダイソン博士が忸怩たる思いで闘ったのとは異なり、ほとんど有効で批判的な論点を打ち出すことはなかった。

 総括として、1950年代、1960年代を通じて、日本の科学者が本当の意味で市民の側に立ってその社会的責任を果そうとしたといえるような具体的な行動や言論はなかったと言ったら、言いすぎであろうか。

 ● 例外は気骨の猿橋勝子博士

 その例外としては、福竜丸の死の灰について、これが放射性の核物質であることをアメリカの科学者と対峙する形で、そしてまた職(気象庁気象研究所)を賭して明確にした放射化学者、猿橋勝子博士ぐらいだ。もう一つ、当時の例外を挙げるとしたら、あるいは福竜丸被ばく直後、死の灰の正体を調べるためビギニ環礁の現地に若い科学者たちを乗せた水産庁調査船をいち早く派遣した例がある。

 主流の原子核研究者、あるいは当時の学術会議メンバーの中においてはこうした社会的責任を自覚した勇気ある行動をとった人はごくまれであったように思う。

 メンバーではないが、ごくまれな人物をあえて挙げるとするならば、1980年代以来、一貫して市民側に立って科学や技術のあり方を考え、実践し続けた放射科学者の高木仁三郎氏だろう。

 ● 注記 原水協と原水禁に分裂

  福竜丸事件で当初3000万人以上の核廃絶署名を集めるなど当初、超党派だった原水協(原水爆禁止日本協議会)は、東西冷戦の中、組織内部路線論争/対立が原因となり、後に原水協のなかの旧社会党系・旧総評系が分離。分裂後の1965年には、原水禁(原水爆禁止日本国民会議)が原水協とは別組織として設立される。

 新たにできた原水禁(旧社会党系・旧総評系)はいかなる国の核兵器も廃絶すべきであると訴えているのに対し、もともとの草の根運動とは大きく変質した1960年代の共産党系の原水協は「ソ連の核兵器は善であり廃絶する必要はない。しかしアメリカの核兵器は悪であり、廃絶すべきだ」としている。こうした路線論争による日本国内の反核運動の混乱は、その後の日本の原爆被爆国としての国際的立場を大きく損なう結果を生み出した。今もこの影響は小さくない。 

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幕末の浜松城安政地震被害に似た熊本城 - 大戦中の巨大地震は極秘に

Imgp954620160416 (2016.04.17) 熊本地震の異常な余震が続く中、ブログ子の自宅近所にある浜松市博物館で

 「浜松の地震」展(写真左)

が開かれている。地震といっても過去の歴史のなかで発生した地震についてなのだが、先日の土曜日、展示を手がけた学芸員が詳しくその展示内容を解説するというので出かけた。さすが専門家の指摘はおもしろい。ブログ子は意外な3つの発見をしたので、ここに報告したい。

 ● 日本書紀に最古の地震記述

 Imgp9538_2 ひとつは、日本の公式な歴史書、つまり正史に文字で記載された最古の大地震というのは、天武天皇時代の684年の

 東海・南海地震の白鳳南海地震(推定M8.0、684年)

だったという事実。この場合の正史とは、日本書紀(720年成立)。このとき地震があったことについては、考古学的にも、たとえば浜松付近では袋井市の遺跡で確認されているが、日本史上初めての正史として文字に残された大地震だった。それほどに当時の奈良の都においても人々の記憶のなかでは忘れられない地震だったのだろう。

 以上は全国の状況なのだが、ブログ子が暮らす遠州地域という浜松周辺の最古の正史記録はいつの地震だったかということが気になる。

 それは、日本書紀の続編である「続 日本紀」(平安初頭の797年成立=最後の写真)第6巻にある

 Imgp9539 和銅遠江地震(推定M6.4。715年)

である。記述内容の訳文は、写真右(ダブルクリックで拡大)のとおりで、

 山崩れで天竜川がせき止められ、数十日後に決壊した。民家170戸が水没。

とある。よほどの大地震だったことがこれで想像できる。

 第二の発見は、幕末の安政地震(1854年11月、M8.4クラスが二回)で浜松城が受けた被害は、現在続いている熊本地震と似たような惨状だったらしいこと。

 どうしてそんなことがそんなに詳しくわかるのかというと、本震と余震というこの二つの大地震で破壊された浜松城を修築するための普請設計絵図

 安政元年浜松城絵図(写真下に全景)

の下書き絵図が今日まで残されていたからだ。この記述(写真)を見ると<熊本城の被害と似通った状態だったことがわかる。

 ● 戦争中、巨大地震発生を極秘に

 Imgp9548 最後に発見したのは、意外なことだった。東南海地震とか、南海地震とか、あるいはそれらが連動する南海トラフ巨大地震の最後というのは、東海道沖で津波を伴って発生した

 東南海地震(M7.9、1944年12月)

である。にもかかわらず、幕末の安政大地震の時のような膨大な記録が、ほとんどといっていいほど見つかっていない。この点について、後日、博物館学芸員にその理由を尋ねたところ、

 戦争中、とりわけ敗戦真近ということもあり、軍が国民の動揺を恐れ、極秘扱いにした

ことが原因ということだった。きちんとした調査がなされなかった。日記など民間個人の記録もほとんどないのは不思議だ。処罰を恐れて記録化しなかったか、記録はしたが秘匿したまま忘れ去られ、隠されたままの状態になっている可能性もある。

 Imgp9547_2 東海地方に暮らすブログ子としては、近い将来確実に発生するとされる南海トラフ巨大地震について、貴重なデータがこのようなことで消えてしまうとしたら、大変な損失だと、学芸員の説明を聞いて感じた。

 この3つ目の発見がこの日の解説会でもっとも注目した点。

  大戦中だとは言え、この被害状況を当時詳しく調査しておけば、将来のトラフ地震の減災に大いに生かせたであろう。

 今からでも遅くない。記録が本当にないというのなら、当時の被災者たちの記憶を掘り起こし記録化する。とともにその過程を通じて、

 埋もれた昭和19年12月巨大地震の被害記録文書が個人宅や神社などに忘れ去られたままになっているのではないか

ということ今後検討し、発掘することで減災につなげたいものだ。

 熊本地震の報道を聞きながら、そして、博物館展示を見ながら、そんなことを痛感した。

 (いずれの写真もダブルクリックで拡大)

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原爆開発を急がせたのは日本の真珠湾攻撃  - 責任者、オッペンハイマー博士の証言

Image2318  (2016.04.14)  前回、このブログ欄で、どういう経緯で戦後、アメリカが原発開発に乗り出したかということについて、フリーマン・ダイソン博士の自伝をもとに論じた。

 核エネルギーをゆるやかに取り出す原発に対し、一瞬にして取り出す原爆とはともに原理は同じ。原爆開発、つまりマンハッタン計画の現場総責任者であり、戦後、ダイソン博士の師とも言うべき立場にあったロバート・オッペンハイマー博士について、知りたくなった。

 ● アメリカのプロメテウス

 そこで、10年ほどまえ、ピュリッツァー賞をとった

 『オッペンハイマー』(上下2巻、PHP。原著2005=写真上)

を読んでみた。日本語訳のサブタイトルは

 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇

というもので、原タイトルは

 AMERICAN PROMETHEUS(アメリカのプロメテウス)

である。プロメテウスはギリシャ神話に出てくる巨人の名前で、天上の全能の神、ゼウスから火を盗んで人類にもたらしたとされている。これにちなんで、オッペンハイマー博士を

 「原子の火」を人類にもたらしたアメリカの巨人

とたとえたのであろう。うまいネーミングである。

 ● 科学者の社会的責任の変質

 それはともかく、読み終えての感想は、

 科学者の社会的責任とは何か

ということを、原爆開発という問題を通じて考えさせる好著であるという点だった。その答えとも言うべきことが、戦後を歩むオッペンハイマー博士の誠実で悲劇的な人生に見事に表現されていた。

 博士にとって、その社会的な責任というのは、開発に本格的に着手し、日本に投下するまでは、アメリカ陸軍の強い要請の下、いかなる困難が待ち受けていようとも、なんとしても

 指定された期日までに開発を成功させること

だった。その喜びの成功が科学者として栄光となった。社会的な責任を全うした喜びである。政府の要請に忠実にこたえることが社会的責任だった。

 しかし、投下後では、

 原爆や水爆はもはや開発すべきではない、国際管理の下におくべきだと政府に訴えること

という真反対の正義に変質した。戦争終結や投下で、国際情勢が一変、それに伴いアメリカのいわゆる国際政治におけるプレゼンスも一変したのだ。その変質が博士と国家との間にあつれきを生み、戦後の博士の人生を大きく狂わせ、悲劇に陥れた。

 これは、つまり、戦後はなんと政府の核政策に反対することが科学者の責任だったのだ。博士が凡庸な科学者だったら、決して味わうことのなかった栄光と悲劇であろう。

 戦後において、

 原爆許すまじ

とは誰でもが能天気でいうことができる。しかし、戦前にそのことを言うことはきわめて困難だったのだ。それはむしろ悪の帝国に味方することでもあった。

 ドイツよりも早くなぜアメリカ政府は原爆開発に取り組まないのか

というのが科学者の良心だった。その良心の先頭に立って実践したのが博士だった。

 ● 新しい発想で原発を見直す

  しつこいようだが、もっとはっきり言うと、戦後、米原子力委員会がオッペンハイマー博士にそれまで許可していた国家機密へのアクセス権を聴聞会の結果を受けて取り消したことは、

 投下前は、科学や技術が国家を正義と繁栄に導き、

 投下後は、国家が科学や技術を正義と繁栄に導く

というように、科学者の社会的責任の考え方が大きく国家従属へと変質したことを意味する。

 以上の話は、アメリカの遠い昔の原爆にかかわる話。だが、今の日本の原発再稼働において、原発研究者や技術者の社会的な責任にも通じる。日本も社会的責任の国家への従属に甘んじないとするならば、 

 原発推進か、脱原発か

という二者択一の思考停止から、新しい発想で原発を見直す

 第三の選択がないか

模索するのが、原発研究者や技術者の社会的な責任であると思う。そのことを前回ブログで紹介したF.ダイソン博士は訴えているのだと思う。

 原発震災前と原発震災後で、なにも変わらないというこの日本の無責任な現状を今見たとしたら、オッペンハイマー博士はなんと言うだろう。そして、ダイソン博士はなんと嘆くだろう。

 ● 歴史の皮肉の原爆投下 

 もうひとつ、注目したのは、アメリカが本格的に原爆開発に乗り出したのは、モンロー主義の孤立政策を守っていたアメリカが参戦を決意することになった直接の原因、つまり、

 日本の真珠湾奇襲攻撃

だったという記述である。オッペンハイマー博士は、上巻によると、彼は後に証言するがとして、

 「日本軍による真珠湾奇襲攻撃を耳にした後、彼(オッペンハイマー)は次のように決心する。「スペイン(内戦)の大義はもう十分に実践した。世界には、これよりも緊急な問題があるのだ」」

と後の証言をもとに書かれている。ドイツ人科学者によるウラン核分裂の発見からわずか3年後、博士37歳のときのことだった。

 この「後の証言」は、米原子力委員会(AEC)の博士への「保安許可」をめぐるオッペンハイマー聴聞会(1954年)でなされたもの。

 この決意から生まれた原爆は当初予定のドイツに対してではなく、日本に投下されることになったのはなんとも歴史の皮肉であり、悲劇である。これには戦後をにらんだ政治的な非情ともいえる当時のトルーマン大統領の意図があった。あえてその意図をあからさまに言うならば、

 アメリカが原爆を落とすまでは日本を降伏させてはならない

という意志である。だからこそ、、アメリカは今にも降伏しそうな日本をハラハラしながら原爆完成を死に物狂いで急いだのである。この『オッペンハイマー』上巻末尾の証言記録によると、軍側の総責任者、グローブス将軍が厳命した原爆完成の期限について

 1945年「8月10日近辺という日付が、謎めいた最終期限」

だった。これはソ連参戦が始まった日である。

 こうなれば日本の降伏は確実。だから、アメリカはそうなる前に大急ぎで、8月6日に広島にウラン原爆を、8月9日に長崎にプルトニウム原爆を、一発勝負の大規模な実地の人体実験として投下した。それも、種類の違う原爆の威力をこの際実際に試してみたいという意図で投下したといえるだろう。

 その詳細な実地調査については、降伏と同時に手回しよくただちに広島や長崎に派遣された米戦略爆撃調査団が担ったのである。こう考えると、非情な言い方だが、アメリカが日本に参戦したメリットは、この人体実験だけに限ったとしても、そして多大な犠牲を米側も大戦中に払ったとしても、十分にあったといえる。 

 なお、最後に正確を期するため、この項冒頭のオッペンハイマー博士の真珠湾奇襲攻撃を聞いて開発決意を固めたという点について、この上巻の該当部分を下欄の「補遺」にそのまま引用しておく。

 ● 補遺 写真のダブルクリックで拡大

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開発者が語る原発安全性の意外な過去 -- 物理学者、「ダイソン自伝」を読む

(2016.04.12) ひょんなことから、そして遅まきながら、工学にも並々ならぬ才能をもつ世界的な物理学者、F.ダイソン氏の自伝、

 『宇宙をかき乱すべきか』(ダイヤモンド社、1979年。日本語版1982年)

を読んでいる(写真右)。

 Image2309 1940年代、アメリカの原爆開発の現場で総指揮をとったのはR.オッペンハイマー博士である。原爆開発の父といわれる所以。し烈な冷戦が始まる1950年代、原子力の平和利用として原発開発に、オッペンハイマー博士のもとでその才能を発揮したのが、件のダイソン博士である。

 具体的な二人の関係を言えば、戦後はプリンストン高等研究所(ニュージャージー州)の所長だったオッペンハイマー博士にその数学や物理学の才能と実力を認められ、同研究所の教授に採用されたというもの。その後、ダイソン博士は、所長がなくなるまで20年近い研究生活をこの研究所で共に過ごしたことで知られる。

 ● 1960年代に変質した原発開発

 自伝のなかの「小さな赤い校舎」という原発開発にかかわる初期秘話の章によると、ダイソン博士が本格的に原発開発に乗り出したのは

 1950年代半ば

からである(この廃校となった赤い校舎はかつてカリフォルニア州サンディエゴにあった)。その当時においては、挑戦心旺盛な科学者や技術者が廃校小学校のなかで、さまざまなタイプの原子炉の安全設計と効率性に夢中になって取り組んだという。

 しかしとして、以下のように続く。

 「1960年と1970年との間のあるときから、この(原子力のこと)産業のなかから面白味が失われてしまったのである。冒険家や実験家や発明家は追い出され、経理士と経営家が支配するようになった。民間企業のなかばかりか、ロス・アラモスやリバモアやオークリッジやアルゴンヌの国立研究所でも、非常にさまざまな型の原子炉の建設や発明や実験に取り組んできた若い有能な人々のグループが解体された。(中略) それに伴い既存の型の原子炉の枠を超えた根本的な改良の機会も消えうせた。今日(この自伝の書かれた1970年代後半のことだろう)残って運転されている原子炉はごく少数の型に限られており、そのどの型も巨大な官僚機構の中に凍結されて重要な改良がまったく不可能になっており、どの型も種々の点で技術的に不満足なものであり、どの型も以前に放棄された他の多くの可能な型より安全性が劣る。」

と回顧している。その結果を総括し、

 「もはや誰も、原子炉をつくるのに面白味を感じない。あの小さな赤い校舎の精神は死んでしまった。私の考えでは、これが原子力発電の誤りであった。」

と結論付けている。

 注目すべきは、この文章が書かれたのが、あのスリーマイル島原発事故(1979年3月)の起きた同じ年であるということであり、この事故が念頭にあってこんな文章を書かせたに違いない。そしてダイソン博士は

 原子力発電は、どこが間違ってしまったのか

という自ら歩んだ道をじくじたる思いで、1960年代を真摯に振り返ったのである。

 ● 小型の技術はより速く進化

  Image23142 このあと、さらに続けて、1960年代においては、もはやさまざまな違った型の安全性や効率について試してみる忍耐力を持たなくなったと指摘。その上で、

 「その結果、本当によい原子炉は発明されなかった。(中略) 小型のものは、大型のものより容易に進化する」

として、一見無駄に思える(技術的な)試行錯誤が安全性や効率性を高める鍵だと指摘している。その場合、小型のほうが、生物の進化に限らず、その技術はそれほど予算をかけずに速やかに何回も手直しできる。つまりはより速く進化するというわけだ。

 これには、より安全な原発開発に向けて、なぜもっとさまざまなタイプの、そしてより小型原発の開発に取り組まなかったのかというじくじたる思いが、ここに込められているように思う。

 重要な示唆であることに鑑み、以上の引用について正確を期するため自伝の該当部分を以下の

 補遺

に省略のない形で掲載しておく。

 ● トリウム原発の可能性 「液体」「トリウム「小型」

 上記のダイソン自伝に出てくる文章のなかに、オークリッジ国立研究所でもさまざまなタイプの原子炉開発が行われていたと書かれている。これは具体的には、1960年代後半に臨界に達し、数年間にわたる無事故の正常運転に成功した

 トリウム溶融塩炉実験炉(MSRE)

のこと。固体燃料ウラン原発とはまったく発想が異なる液体燃料のトリウム原発である。

 その稼働時の見学の様子が、日本原子力研究所主任研究員だった古川和男博士の

 『原発安全革命』(文春文庫、2001年。増補新版2011年5月)

に書かれている。ベテラン技術士で技術市民として活躍する井上祥一郎氏のご教示で知った。もう一つ、最近の本としては

 『原発、もう一つの選択』(金子和夫、ごま書房新社)

が注目される。井上さんは、愛知県内で環境問題に精力的に活躍する一方で、技術士の社会的責任から、この

 トリウム原発の可能性

に取り組んでいることは、その誠実さのあらわれとして注目したい。

 ● 原発は本当に人間と共存できない技術か

 ダイソン自伝を読んで、少し考えてみると、

 原発はすべてダメ、危険でとても選択できない。脱原発に限る。原発はもう要らない。

という、「3.11」原発事故以来、国民に広く行き渡った先入観が本当に正しいのか、

 原発は人間とは共存できない

ということについて、一度は、あらためて疑ってみる必要があるように思う。すくなくとも、科学者や技術者はその検証結果を国民に公開する必要があるのではないか。

 端からダメ

というのは科学的な態度ではないだろう。

 国民一般がそう思うのは当然である。しかし、その尻馬に乗って、時流に乗ってというべきか、専門性のある科学者や技術者もそれに同調するようでは、もはや科学技術者の社会的な責任を放棄したとも言えはしないか。

 ブログ子も、先ほど紹介した2冊を、今、じっくり読み始めている。

 ダイソン博士のように、アメリカの1950年代当初の原発開発の様子を身を持って体験し、その後の1960年代に苦い経験を味わわされ、そして足元のスリーマイル原発の事故の恐怖をまじかに知った人たちの警告は今後の原発の行方を考える上で生かさなければならない。

 ● 補遺 写真のダブルクリックで拡大できる

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手でドアを開ける器用な小恐竜 ------------ 再見「ジュラシック・パーク」

(2016.04.07)  晩酌をしながら、日経新聞系のBSジャパンを見ていたら、偶然、20年以上も前に公開された

 映画「ジュラシック・パーク」(S.スピルバーグ監督、1993)

を放映していた。懐かしさもあったので、しばらく見ていたら、思わず、20年前には気づかなかったものを発見した。

 Imgp9512 建物の中で恐竜が大暴れして、子どもたちや大人の主人公を追いかけるシーンで、比較的に小さな恐竜が後ろ足に比べて小さな前足(手)でドアカギを回し、逃げ込んだ主人公たちのいる頑丈な部屋に入り込もうとする。その手は3本指(鋭いツメ)だが、なんと人間の親指同様、ほかの2本のツメと向かい合わせになっていて、ドアの向うのカギやロック装置が巧みにつかむ。映画ではその様子をクローズアップで数回、映し出していた。

 これにはびっくりした。なにしろ、1億年か2億年前に栄え、6500万年前に絶滅した恐竜が現代の建物のドアロックを、いくらよみがえったとはいえ、何の苦もなく開けてしまいそうになるというのだ。

 そんなバカな

と思ったのだ。そしてまた、厨房に隠れていた子どもたちを、恐竜がいかにも注意深く、そして俊敏に探し回る。まるで人間のように、である。爬虫類とはいえ、霊長類ばりの頭のよさとすばしこさを映し出していた。

 思ったのだが、まあ、娯楽映画だから、このくらいのいい加減さは、このくらいのむちゃくちゃは仕方がない

と晩酌の酔いも手伝って笑ってしまった。のだが、S・スピールバーク監督ともあろうものが果たしてそんなハチャメチャなことを根拠もなく映画化するかと思った。

 ので、手元の資料(写真上=左端に晩酌用の徳利)を念のため調べてみて、また、びっくりした。

 そういうことも、あり得るのだ。

 写真の図録は、世界的な恐竜研究機関、ロイヤル・ティレル古生物学博物館(カナダ)が発行したもの。ブログ子の故郷、福井県の県立恐竜博物館での恐竜特別展示の際、ブログ子が購入した(2001年購入)。

 この図録のなかには、この映画に出てくるつとに有名な巨大肉食恐竜

 T.レックス(いわゆるブラック・ビューティ=図録表紙)

の実際の発掘の様子の写真も掲載されている。映画の中では野外パークで大暴れする。もうひとつ、図録には映画の厨房で追い回したり、ドアをこじ開ける小さな肉食恐竜にあたると思われる、

 トロオドン

の復元模型も載っている。説明によると、

 「トロオドンの脳は(中略)現生の鳥類やほ乳類と同じくらいだといっていい。(中略)トロオドンは鳥類的な特徴を多く持っており、鳥に近縁。目は前向きについており、立体視が可能になっている。手は、我々と同様に親指のおかげでものを上手に扱える。足は長く、快走する動物のプロポーション」

というのだ。1993年製作のこの映画もこうした事実を踏まえていることがわかる。

 恐竜というと草食性の巨大なもの、この映画でも冒頭近くで長い首の

 巨大イグアノドンの群れ

を登場させている。が、手は(三本ツメではあっても)器用ではない(だろう)。

 Imgp9513_2 しかし、この映画を見て、小さな肉食恐竜が

 やがて空を飛ぶほ乳類の鳥に進化していった

という話につながったとしても納得できる気がした。小さくなっていった前足が羽毛のついた羽に進化していったというわけだ。

 (小)恐竜が空を飛ぶ

というのも、こう考えると荒唐無稽ではない。

 ● 2億年後には「空飛ぶ魚」「水中に生息する鳥」も

   -- だったら、陸に生息するイカとタコも

 意外におもしろい学術的にしっかりした娯楽映画を見たので、ふと、2億年も前の恐竜時代のついでに、

 今から2億年後の生物界はどうなっているか

について、知りたくなった。こういうおよそ浮世とは関係ない話が飛び出すのも、晩酌の酔いのせいだろう。そこで調べてみた。

 ブログ子の本箱に、驚異の進化を遂げた2億年後の生命世界とサブタイトルのついた

 『the FUTURE is WILD』(ダイヤモンド社、2004年)

という愉快な翻訳がある(日本語訳の監修は松井孝典東大大学院教授)。ある世界的な米生物学者も科学的に根拠があるとして推薦しているこの本によると、2億年後の地球には

 空飛ぶ魚

 水中に生息する鳥

が繁栄しているらしい。それどころか、

 イカやタコも陸に生息している

というのだから、驚く。もっとも、小さいものに限るとはいえ恐竜も空を飛ぶのだから、魚が空を飛んでもなんら不思議ではない。しかし、これはダーウィンが主張したように、回りの地球環境に適応するように自然選択がおこなわれるという仮定をした場合の話。

 それにしても、変われば変わるものである。

 そういえば、かつて手も足もあり陸地でのそのそと四足で歩いて生息していたほ乳類のクジラ。これだって、今はより環境に適応するために手も足も退化させた。そして再び、3億年くらい前の魚類時代に生息していた海にほ乳類の体制をたもったまま戻っていってしまった。

 ● よみがえった恐竜は生き残れるか

 この映画から、ブログ子はいいヒントをもらった。一つは、

 今の生物観は不変なものではない

ということである。環境に応じて変化する、進化するとしたら

 普遍な生物観とはなにか

ということを考えさせられる映画だった。言い換えれば、これは生物世界の基本的な性質の生物多様性とは何かという問いかけでもある。

 もう一つは、この映画では6500万年前に絶滅した恐竜が、遺伝子工学の技術で現代によみがえるとしている点にかかわる。

 この点、よく考えると、おかしい。たとえ遺伝子工学で生命の設計図DNAどおりに恐竜が現代によみがえったとしても、この6500万年の間の地球環境の劇的な変化のなかで、生きながらえることなどできるだろうか。

 大気の酸素濃度も気候も恐竜が栄えた時代とは大いに異なる。極端な不適応で子孫を残すことはもちろん、生存することすらとうてい無理だろう。

 この映画では、

 進化とは歴史であり、生物は後戻りのできない因果関係によって規定されている

という考え方が完全に欠落している。生物の進化では、その間の環境変化を抜きにした、時間をジャンプさせるようなタイムトラベルは科学的には意味がない。 

 夜更けに、そんなことを考えていたら、せっかくの酔いがだいぶさめてしまった。

 (写真はダブルクリックで拡大できる)

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小が大を呑む情報戦 なぜ「真田丸」か

Imgp9220_1 (2016.04.05)  真田昌幸と信繁(通称、幸村)/信幸(のちの信之)という「父と子」が活躍する大河ドラマ「真田丸」の第一の山場

 第一次上田城合戦(1585年夏)

が先日の日曜日に放送された。本能寺の変からわずか3年後の事件である。1月の第一回「脱出」という信繁たちがいきなり逃げ惑うユニークなシーンから始まった「真田丸」だが、弱小の真田一族がいよいよ「大」=徳川家康軍に立ち向かう最初の見せ場である。大軍の徳川軍を敵に回しての籠城情報戦を展開、徳川軍を撃退、大勝している。

  このときの徳川軍はブログ子が暮らす浜松市の浜松城から遠路はるばる上田城まで出陣する。挙句の果てに大敗。その秋に疲れ果てて浜松城に帰陣しているので、今回のドラマは格別に興味を持った。

 (写真右上は、今回の原作ではないが、池波正太郎さんの大作『真田太平記』(全16巻、1970年代後半連載)。今回の大河ドラマには原作はない)

 ● 三谷幸喜さんの狙い

 ブログ子はこの見せ場を拝見して、脚本担当の三谷幸喜さんが、どういうテーマで、どういうようにストーリーを展開するつもりなのか、そしてなぜ大河ドラマのタイトルを

 「真田丸」

としたのかということのおおよその察しがついた。

 テーマは、

 数に物を言わせて押してくる強大な勢力に対しては、弱小集団は優位に立つ情報力で、生き残れ

というものである。そういう趣旨のことを信繁(堺雅人)が一言つぶやくシーンもドラマではあった。情報戦では、この大河ドラマでも、そして池波正太郎さんの『真田太平記』(=写真上)でも、

 草ノ者、忍びの者、乱波

という情報機関をたくみに活用しているシーンがよく登場する。

 こう考えると、第一次上田(城)合戦に続くストーリーとしては、関ヶ原合戦に駆けつける途中での徳川秀忠率いる

 第二次上田城合戦(1600年秋)

が第二の山場、見せ場として描かれるはずだ。この前後の籠城しての情報戦を制して、数で押してくる徳川軍を翻弄する。

 注意すべきは情報戦といっても籠城作戦に勝つには必ず近くに援軍が期待できるもう一つの味方城が必要なこと。第一次、第二次の籠城した上田城の場合、それは北部にあった砥石(といし)城だった。

 そして、

 第三次上田城合戦は20万とも言われる徳川家康軍を大阪城に籠城し、迎え撃ち翻弄する

 大阪冬の陣(1614年冬)

である。これは、いわば

 第三次真田丸合戦

だろう。

 大河ドラマ第一回の「脱出」ではただひたすら「逃げるが勝ち」とばかり、真田軍は逃げろや逃げろの作戦。これは言ってみれば、織田信長・徳川家康連合軍を迎えてのまだ上田城もない状況での右往左往、いわば

 第ゼロ次上田城合戦(1580年前後、つまり本能寺の変直前。真田家主筋の武田(勝頼)家滅亡)

と位置づけられるかもしれない。つまり、考えた末の籠城情報戦ではなかった。しかし、それからの第一次、第二次上田城合戦では、小でも大軍に立ち向かえる頭を使った籠城情報戦に生き残りをかけたというわけだ。

 そして、いわば第四次上田城合戦と位置づけられるのが

 大阪夏の陣「真田丸」合戦(1615年夏)

である。大阪の陣ではもはや援軍の期待できる城は近くにはない。ので、籠城情報戦だけでは勝機はない。とみての真田丸からの

 家康本陣への意表を突く斬り込み

となり、ついに敗れ、その壮絶な覚悟の生涯を終えたのである。そして、信繁の人生の倍、90歳まで生きた兄、信之(松代初代藩主)が幕府とも切り結ぶしたたかな一族生き残りへとつなげ、明治維新まで小藩ながら存続させることに成功する。

 だから、三谷氏は今回の大河ドラマのタイトルを、小が大をのむ上田城合戦の仕上げとして大阪城という大舞台のなかで「真田丸」を選んだのだと思う。

 つまり、真田丸で、小が大をのむには何が必要なのかということを象徴的に表現したかったのだろう。

 援軍を当てにした結束の籠城だけではなく、最後には意を決して打って出る決断力も必要。これが真田兄弟の人生をかけたわたしたちへの遺言であろう。

 ● 情で死に、理で生き残った

 それだけでなく、情報戦といえども、幸村の死地に向かう大いなる勇気とともに、兄、信之の次の時代を読む忍耐の要る冷徹な自重がなければ、戦国の世を行き抜けない、大平の世は開けなかったということも脚本家、三谷氏は描きたいのだと、ブログ子は思う。

 情の幸村、理の信之

という構図である。情で死に、理で生き残った。これが真田一族の魅力といえそうだ。

 以上の推測が当たっているかどうか、今後の大河ドラマの展開が楽しみである。 

 ● 三方が原合戦でクロスした昌幸と家康

 ところで、今回の大河ドラマでは草刈正男さん演じる父、真田昌幸が重要な役割を果たしている。これからもそうなるであろうが、浜松に暮らすブログ子としては、浜松で展開された三方が原合戦(1572年)で家康を震え上がらせた武田信玄/勝頼軍の有力武将だった真田昌幸にとって、

 家康の洟(はな)垂れ小僧

などに負けてたまるかという意地があったであろうと想像する。ただ、三方が原合戦当時の幸村はまだ数えで6歳、今で言えば小学一年生ぐらい。だったので、この父親の敵愾心は理解できないであろう。幸村が颯爽としてその実力を世に知らしめたのは、

 秀吉の小田原攻め(1590、幸村23歳ぐらい)

からだ。以後、46年の生涯の幸村にとってまさに大阪城真田丸に向かってひた走る、言い換えれば

 人の世の情に生きる後半戦

がここに始まるのである。

 ● 新田次郎『武田信玄』を読む

 Image2308 また、昌幸は武田信玄や勝頼に付き従った有力な側近武将だったことから、さらに甲斐源氏の武田家の盛衰を知りたくなって、今

 『武田信玄』(全4巻。新田次郎。1960年代後半月刊誌連載=写真左)

を読んでいる。

 幸い、BSプレミアムでもこの小説を原作とした1988年度大河ドラマを今後毎週一年間にわたって再放送するというのだから、ありがたい。再放送で、あるいは再読で真田一族の生きた乱世の時代背景や時代の風をあらためて感じてみたい。

 そのことで、甲斐源氏の流れを組む武田一族と一地方豪族にすぎない弱小真田一族との異質性と同質性を見極めたいと思う。それは同時に信濃人の筋を通す国柄を垣間見ることにつながる。

 新田次郎さんは、北信濃の諏訪市の出身だから、信玄時代の政治背景にはことのほか造詣が深い。また、気象庁勤務の経験が長い。ので川中島の戦いのように気象に左右される戦いには独自の見解を小説のなかに生かしたり、織り込んだりしているのがおもしろい。加えて実在はしたらしいのだが、山本勘助というなにやらあやしい〝軍師〟も登場し、戦国の物語を盛り上げている。

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