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原爆開発を急がせたのは日本の真珠湾攻撃  - 責任者、オッペンハイマー博士の証言

Image2318  (2016.04.14)  前回、このブログ欄で、どういう経緯で戦後、アメリカが原発開発に乗り出したかということについて、フリーマン・ダイソン博士の自伝をもとに論じた。

 核エネルギーをゆるやかに取り出す原発に対し、一瞬にして取り出す原爆とはともに原理は同じ。原爆開発、つまりマンハッタン計画の現場総責任者であり、戦後、ダイソン博士の師とも言うべき立場にあったロバート・オッペンハイマー博士について、知りたくなった。

 ● アメリカのプロメテウス

 そこで、10年ほどまえ、ピュリッツァー賞をとった

 『オッペンハイマー』(上下2巻、PHP。原著2005=写真上)

を読んでみた。日本語訳のサブタイトルは

 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇

というもので、原タイトルは

 AMERICAN PROMETHEUS(アメリカのプロメテウス)

である。プロメテウスはギリシャ神話に出てくる巨人の名前で、天上の全能の神、ゼウスから火を盗んで人類にもたらしたとされている。これにちなんで、オッペンハイマー博士を

 「原子の火」を人類にもたらしたアメリカの巨人

とたとえたのであろう。うまいネーミングである。

 ● 科学者の社会的責任の変質

 それはともかく、読み終えての感想は、

 科学者の社会的責任とは何か

ということを、原爆開発という問題を通じて考えさせる好著であるという点だった。その答えとも言うべきことが、戦後を歩むオッペンハイマー博士の誠実で悲劇的な人生に見事に表現されていた。

 博士にとって、その社会的な責任というのは、開発に本格的に着手し、日本に投下するまでは、アメリカ陸軍の強い要請の下、いかなる困難が待ち受けていようとも、なんとしても

 指定された期日までに開発を成功させること

だった。その喜びの成功が科学者として栄光となった。社会的な責任を全うした喜びである。政府の要請に忠実にこたえることが社会的責任だった。

 しかし、投下後では、

 原爆や水爆はもはや開発すべきではない、国際管理の下におくべきだと政府に訴えること

という真反対の正義に変質した。戦争終結や投下で、国際情勢が一変、それに伴いアメリカのいわゆる国際政治におけるプレゼンスも一変したのだ。その変質が博士と国家との間にあつれきを生み、戦後の博士の人生を大きく狂わせ、悲劇に陥れた。

 これは、つまり、戦後はなんと政府の核政策に反対することが科学者の責任だったのだ。博士が凡庸な科学者だったら、決して味わうことのなかった栄光と悲劇であろう。

 戦後において、

 原爆許すまじ

とは誰でもが能天気でいうことができる。しかし、戦前にそのことを言うことはきわめて困難だったのだ。それはむしろ悪の帝国に味方することでもあった。

 ドイツよりも早くなぜアメリカ政府は原爆開発に取り組まないのか

というのが科学者の良心だった。その良心の先頭に立って実践したのが博士だった。

 ● 新しい発想で原発を見直す

  しつこいようだが、もっとはっきり言うと、戦後、米原子力委員会がオッペンハイマー博士にそれまで許可していた国家機密へのアクセス権を聴聞会の結果を受けて取り消したことは、

 投下前は、科学や技術が国家を正義と繁栄に導き、

 投下後は、国家が科学や技術を正義と繁栄に導く

というように、科学者の社会的責任の考え方が大きく国家従属へと変質したことを意味する。

 以上の話は、アメリカの遠い昔の原爆にかかわる話。だが、今の日本の原発再稼働において、原発研究者や技術者の社会的な責任にも通じる。日本も社会的責任の国家への従属に甘んじないとするならば、 

 原発推進か、脱原発か

という二者択一の思考停止から、新しい発想で原発を見直す

 第三の選択がないか

模索するのが、原発研究者や技術者の社会的な責任であると思う。そのことを前回ブログで紹介したF.ダイソン博士は訴えているのだと思う。

 原発震災前と原発震災後で、なにも変わらないというこの日本の無責任な現状を今見たとしたら、オッペンハイマー博士はなんと言うだろう。そして、ダイソン博士はなんと嘆くだろう。

 ● 歴史の皮肉の原爆投下 

 もうひとつ、注目したのは、アメリカが本格的に原爆開発に乗り出したのは、モンロー主義の孤立政策を守っていたアメリカが参戦を決意することになった直接の原因、つまり、

 日本の真珠湾奇襲攻撃

だったという記述である。オッペンハイマー博士は、上巻によると、彼は後に証言するがとして、

 「日本軍による真珠湾奇襲攻撃を耳にした後、彼(オッペンハイマー)は次のように決心する。「スペイン(内戦)の大義はもう十分に実践した。世界には、これよりも緊急な問題があるのだ」」

と後の証言をもとに書かれている。ドイツ人科学者によるウラン核分裂の発見からわずか3年後、博士37歳のときのことだった。

 この「後の証言」は、米原子力委員会(AEC)の博士への「保安許可」をめぐるオッペンハイマー聴聞会(1954年)でなされたもの。

 この決意から生まれた原爆は当初予定のドイツに対してではなく、日本に投下されることになったのはなんとも歴史の皮肉であり、悲劇である。これには戦後をにらんだ政治的な非情ともいえる当時のトルーマン大統領の意図があった。あえてその意図をあからさまに言うならば、

 アメリカが原爆を落とすまでは日本を降伏させてはならない

という意志である。だからこそ、、アメリカは今にも降伏しそうな日本をハラハラしながら原爆完成を死に物狂いで急いだのである。この『オッペンハイマー』上巻末尾の証言記録によると、軍側の総責任者、グローブス将軍が厳命した原爆完成の期限について

 1945年「8月10日近辺という日付が、謎めいた最終期限」

だった。これはソ連参戦が始まった日である。

 こうなれば日本の降伏は確実。だから、アメリカはそうなる前に大急ぎで、8月6日に広島にウラン原爆を、8月9日に長崎にプルトニウム原爆を、一発勝負の大規模な実地の人体実験として投下した。それも、種類の違う原爆の威力をこの際実際に試してみたいという意図で投下したといえるだろう。

 その詳細な実地調査については、降伏と同時に手回しよくただちに広島や長崎に派遣された米戦略爆撃調査団が担ったのである。こう考えると、非情な言い方だが、アメリカが日本に参戦したメリットは、この人体実験だけに限ったとしても、そして多大な犠牲を米側も大戦中に払ったとしても、十分にあったといえる。 

 なお、最後に正確を期するため、この項冒頭のオッペンハイマー博士の真珠湾奇襲攻撃を聞いて開発決意を固めたという点について、この上巻の該当部分を下欄の「補遺」にそのまま引用しておく。

 ● 補遺 写真のダブルクリックで拡大

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