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国民を守る番犬か、権力の飼い犬か ------ メディア考 文春「なぜスクープ連発?」

(2016.04.28)  このところ、BS-TBSの

 外国人記者は見た !

というのをときどき見ている。ニューヨークタイムズ記者など、東京に駐在している日本語の達者な海外紙、通信社、テレビ放送局のベテラン記者たちが、日本人記者や論説委員も交えて、そのときどきの時事を取り上げて

 日本診断

をするという趣向。司会者のパトリック・ハーランド(通称、パックン)キャスターの好リードで次第に視聴率が上昇しているらしい。のだが、当然だが、日本診断の見解がお国柄によってずいぶんと異なる。そのところが、ブログ子としてはおもしろい。

 ● 大手メディア、萎縮して自主規制

 先日は、週刊文春「なぜスクープ連発 ?」

というのがテーマだった(このテーマには微妙な問題があるので、ヤバイところを放送前にカット編集できるようおそらく収録したもの)。

 辞任に追い込まれた甘利大臣政治資金疑惑、SMAP解散騒動、清原覚せい剤事件、有名コメンテーター経歴詐称騒動、元少年A直撃取材など確かに今年に入ってからもスクープを連発している。

 文春といえば、かつて、そして今も首相退陣のきっかけをつくった

 1970年代の田中金脈問題の立花隆氏

が有名だが、番組では元文春記者もゲストとして出演していた。

 連発の要因として、

 最近の安倍内閣のメディア締め付け姿勢のなかで「大手メディアは(事なかれ主義の企業体質からくる)過剰な自主規制で萎縮している」(ニューヨークタイムズ記者)のが原因、一方「文春は(中国では考えられないほどの)取材自由度が高い」(北京放送記者)のも要因。これらの要因のほか「文春の編集部には(確実ではなくとも確度の高い取材をするためには長期にわたる綿密で多角的な取材が必要だが、そのための)潤沢な経費を惜しまない(という伝統がある)」(元文春記者)との趣旨の発言が番組で出ていた。

 このほかの外国人記者からも、熊本地震において意識的にかどうか近くにある(川内)原発について(安倍内閣の恫喝を恐れてか)ほとんど報道していないなど「大手メディアには報道する勇気が失われている」との厳しいコメントも出ていた。

 ● ブログ子の見解

 Imgp9611 これらの議論を拝見して、ブログ子の結論を言えば、「報道の自由」を標榜するなら、確実ではなくとも一定の確度があると確信できるならば、そのことを明記した上で、またその確信の具体的な根拠を示した上で、

 疑わしきは報道する

という責任があるということ。

 なぜなら、かつて世界的に知られたジャーナリスト、W.リップマンがその著書『世論』(岩波文庫、1922。写真)で喝破したように、ニュースと真実は同一ではなない、それらははっきりと区別しなければならないと強調した上で次のように述べているからだ。

 「ニュースの働きは一つの事件の存在を合図することである。真実の働きはそこ(事件を指す)に隠されている諸事実に光をあて、相互に関連づけ、人びとがそれを拠りどころとして行動できるような現実の姿を描き出すことである」

と、ニュースと真実の関係、つまりニュースは真実に迫る入り口が当該記事にあることを合図するものであると言及し、このことこそが近代ジャーナリズムの存在理由であると明解に述べている。この発言から100年近くたったが、この存在理由は今も依然として正しい。

 ● ニュースと真実の区別

 なぜなら、疑わしきは報道することによって初めて、メディアは権力から国民を守る番犬足りえるからだ。 疑わしきは報道せず、権力の発表するものだけを「確実な真実」として報道するというのは、疑わしきは権力の利益にという論理であり、悪しき発表ジャーナリズムである。これでは、

 (現在の中国のように)メディアは権力の飼い犬

になって、国民のメディアに対する信頼は地に落ちてしまう。蛇足だが、疑わしきは罰せずという裁判原則は、権力から国民としての被告人を守るための法理なのだ。

 中国には、国民の声という意味の世論というものが存在しない。あるのはごく一部の声=共産党の声だけである。なぜか。それは中国には近代ジャーナリズムが存在しないからだ。言い換えれば、権力の飼い犬しかいないのが中国なのだ。

 そうならないためには、そして「報道の自由」という権利を行使するには、番犬としての責任と勇気が大手メディアには求められる。

 今回の文春連発問題は、勇気あるジャーナリズムとは何かということを、そして何をやってはいけないかということを、具体的に大手メディアに突きつけたのだと思う。

  番組司会のパックン、お笑い芸人だそうだが、そのレベルの高さ、さすがハーバード大学を卒業しただけのことはある。

  ● 注記  舛添都知事「私的支出」問題でも 2016年5月15日

 この記事を書いてから2週間ほどたった大型連休明けには、件の週刊文春がまたまた、数年前の政治資金収支報告書を精査し、

 舛添都知事の政治資金「私的支出」問題

をスクープしている。各紙、たとえば大手メディア、朝日新聞は5月14日付の1面と3面で、後追いトップ記事を書いている。今回の件について舛添知事自身も当時の経理担当者の処理ミスで起きたことを認め、返金手続きをすると記者会見で語っている。

 しかし当時の経理責任者の単純ミスというよりも、参院議員以来からささやかれていた公私混同体質のあらわれであるとして、都知事に辞任を求める声が都民から上がっているらしい。返金すればいいという問題ではない。その政治姿勢が問われるのは当然であり、都議会の判断が注目される。とともに、これで週刊文春の番犬ぶりが一層きわだってきており、取り組みは本物であることを示している。 

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