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開発者が語る原発安全性の意外な過去 -- 物理学者、「ダイソン自伝」を読む

(2016.04.12) ひょんなことから、そして遅まきながら、工学にも並々ならぬ才能をもつ世界的な物理学者、F.ダイソン氏の自伝、

 『宇宙をかき乱すべきか』(ダイヤモンド社、1979年。日本語版1982年)

を読んでいる(写真右)。

 Image2309 1940年代、アメリカの原爆開発の現場で総指揮をとったのはR.オッペンハイマー博士である。原爆開発の父といわれる所以。し烈な冷戦が始まる1950年代、原子力の平和利用として原発開発に、オッペンハイマー博士のもとでその才能を発揮したのが、件のダイソン博士である。

 具体的な二人の関係を言えば、戦後はプリンストン高等研究所(ニュージャージー州)の所長だったオッペンハイマー博士にその数学や物理学の才能と実力を認められ、同研究所の教授に採用されたというもの。その後、ダイソン博士は、所長がなくなるまで20年近い研究生活をこの研究所で共に過ごしたことで知られる。

 ● 1960年代に変質した原発開発

 自伝のなかの「小さな赤い校舎」という原発開発にかかわる初期秘話の章によると、ダイソン博士が本格的に原発開発に乗り出したのは

 1950年代半ば

からである(この廃校となった赤い校舎はかつてカリフォルニア州サンディエゴにあった)。その当時においては、挑戦心旺盛な科学者や技術者が廃校小学校のなかで、さまざまなタイプの原子炉の安全設計と効率性に夢中になって取り組んだという。

 しかしとして、以下のように続く。

 「1960年と1970年との間のあるときから、この(原子力のこと)産業のなかから面白味が失われてしまったのである。冒険家や実験家や発明家は追い出され、経理士と経営家が支配するようになった。民間企業のなかばかりか、ロス・アラモスやリバモアやオークリッジやアルゴンヌの国立研究所でも、非常にさまざまな型の原子炉の建設や発明や実験に取り組んできた若い有能な人々のグループが解体された。(中略) それに伴い既存の型の原子炉の枠を超えた根本的な改良の機会も消えうせた。今日(この自伝の書かれた1970年代後半のことだろう)残って運転されている原子炉はごく少数の型に限られており、そのどの型も巨大な官僚機構の中に凍結されて重要な改良がまったく不可能になっており、どの型も種々の点で技術的に不満足なものであり、どの型も以前に放棄された他の多くの可能な型より安全性が劣る。」

と回顧している。その結果を総括し、

 「もはや誰も、原子炉をつくるのに面白味を感じない。あの小さな赤い校舎の精神は死んでしまった。私の考えでは、これが原子力発電の誤りであった。」

と結論付けている。

 注目すべきは、この文章が書かれたのが、あのスリーマイル島原発事故(1979年3月)の起きた同じ年であるということであり、この事故が念頭にあってこんな文章を書かせたに違いない。そしてダイソン博士は

 原子力発電は、どこが間違ってしまったのか

という自ら歩んだ道をじくじたる思いで、1960年代を真摯に振り返ったのである。

 ● 小型の技術はより速く進化

  Image23142 このあと、さらに続けて、1960年代においては、もはやさまざまな違った型の安全性や効率について試してみる忍耐力を持たなくなったと指摘。その上で、

 「その結果、本当によい原子炉は発明されなかった。(中略) 小型のものは、大型のものより容易に進化する」

として、一見無駄に思える(技術的な)試行錯誤が安全性や効率性を高める鍵だと指摘している。その場合、小型のほうが、生物の進化に限らず、その技術はそれほど予算をかけずに速やかに何回も手直しできる。つまりはより速く進化するというわけだ。

 これには、より安全な原発開発に向けて、なぜもっとさまざまなタイプの、そしてより小型原発の開発に取り組まなかったのかというじくじたる思いが、ここに込められているように思う。

 重要な示唆であることに鑑み、以上の引用について正確を期するため自伝の該当部分を以下の

 補遺

に省略のない形で掲載しておく。

 ● トリウム原発の可能性 「液体」「トリウム「小型」

 上記のダイソン自伝に出てくる文章のなかに、オークリッジ国立研究所でもさまざまなタイプの原子炉開発が行われていたと書かれている。これは具体的には、1960年代後半に臨界に達し、数年間にわたる無事故の正常運転に成功した

 トリウム溶融塩炉実験炉(MSRE)

のこと。固体燃料ウラン原発とはまったく発想が異なる液体燃料のトリウム原発である。

 その稼働時の見学の様子が、日本原子力研究所主任研究員だった古川和男博士の

 『原発安全革命』(文春文庫、2001年。増補新版2011年5月)

に書かれている。ベテラン技術士で技術市民として活躍する井上祥一郎氏のご教示で知った。もう一つ、最近の本としては

 『原発、もう一つの選択』(金子和夫、ごま書房新社)

が注目される。井上さんは、愛知県内で環境問題に精力的に活躍する一方で、技術士の社会的責任から、この

 トリウム原発の可能性

に取り組んでいることは、その誠実さのあらわれとして注目したい。

 ● 原発は本当に人間と共存できない技術か

 ダイソン自伝を読んで、少し考えてみると、

 原発はすべてダメ、危険でとても選択できない。脱原発に限る。原発はもう要らない。

という、「3.11」原発事故以来、国民に広く行き渡った先入観が本当に正しいのか、

 原発は人間とは共存できない

ということについて、一度は、あらためて疑ってみる必要があるように思う。すくなくとも、科学者や技術者はその検証結果を国民に公開する必要があるのではないか。

 端からダメ

というのは科学的な態度ではないだろう。

 国民一般がそう思うのは当然である。しかし、その尻馬に乗って、時流に乗ってというべきか、専門性のある科学者や技術者もそれに同調するようでは、もはや科学技術者の社会的な責任を放棄したとも言えはしないか。

 ブログ子も、先ほど紹介した2冊を、今、じっくり読み始めている。

 ダイソン博士のように、アメリカの1950年代当初の原発開発の様子を身を持って体験し、その後の1960年代に苦い経験を味わわされ、そして足元のスリーマイル原発の事故の恐怖をまじかに知った人たちの警告は今後の原発の行方を考える上で生かさなければならない。

 ● 補遺 写真のダブルクリックで拡大できる

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