「隠された真実」という陰謀論の正体
(2016.03.30) 何かと話題になるBSプレミアムの番組、
幻解 ! 超常ファイル
だが、先日は世の中にあまたある陰謀論を取り上げていた。
私だけが本当の真実を知っている。その隠された真実とは何かというたぐいの話である。このときは、9.11同時多発テロは過激派組織、アルカイダの仕業とされているが、実はアメリカ政府の陰謀だという説を取り上げている。当然だが、番組ではその陰謀論の根拠のないことを暴露している。UFO=宇宙人説もこのたぐいだろう。
● 幻解 ! 超常ファイル
そんな陰謀論、たいていの人は、おもしろがってはいるもののまともには信じていないだろう。このときの案内役の女優、栗山千明さんだって信じてはない様子だった。
当然である。
ではなぜ、そんな陰謀論が次から次へと登場し、根強く生き残り、ささやかれ続けているのか、ということが問題になる。
『世界の陰謀論を読み解く』(講談社現代新書 =写真右)
の著者、辻隆太朗さんが登場し、この謎解きに答えてくれていて、とてもおもしろかった。北海道大学文学部大学院(宗教学)出身というせいか、なかなか鋭い分析をしていた。
要するに、こうだ。
陰謀論というのは、それを主張する人物の心に巣くう単純な思い込み、さらには恣意的あるいは意図的な偏りから生じるものであり、偏りを受け取る読者もまたその偏りに誘導されがちなことから、それらが互いに同調、シンクロして虚構物語(フィクション)としてできあがったもの
というのだ。意図せざる場合にしろ意図的な場合にしろ、この偏りに都合がよい証拠のみが提示され、都合の悪い現象は黙殺するという非科学的な偏りから虚構あるいは物語が出来上がるというのだ。言ってみれば
陰謀論=「私だけが知っている」という物語論
なのだ。
だから、ここから抜け出すにはどうすればいいのか。辻さんの答えは明解かつ傑作だった。
こうだ。
● 疑う心を合理的に疑う
陰謀論にかぎらず、疑う心を持つこと自体は正しい認識を得るためには重要である。しかし、同時にその疑う対象のひとつとして
自分自身の心のあり方自身も(バイアスや偏りがないかどうか)疑ってみる
ことも大事であるということだった。正しい事実を知っているのは自分だけだというのは虚構かもしれないと疑ってみること。これが陰謀論を主張する人にも、それを信じる人にも求められるのだと辻さんは言いたそうだった。
このブログのテーマは正しいと思っている常識を一度は疑ってみようというもの。だが、この一度は疑ってみるということ自体が、偏りのない正しい認識に至る近道なのかどうか、もっと別のアプローチがないかどうか疑ってみることもあるいは必要なのかもしれないと気づいた。
たとえば、科学は、宗教の場合と同様、信じることから始めるという(意外な)アプローチがありはしないか。既存の知識を疑うことはより正しい認識を得るには欠かせない。しかし、未知の水平線のかなたを洞察するには、
こうなっているはずだという偏りのない合理的な信念
にしたがって、行動する勇気も必要だろう。これは陰謀論のご都合主義論理とは異なる。
疑うことができるためにはその前提として疑う対象が人間に認知できて初めて可能となる。のだが、人間の脳で認知できないからといって、その未知の世界が存在しないとか、そこには合理的、科学的な真実がないとはいえない。
つまりは、疑うだけでは
科学する心
としては一定の限界がある。
そんなこんなで、いろいろと考えさせられた番組だった。
● 補遺 今西進化論について
このいろいろ考えさせられた、というのの一つに、生態学者、今西錦司さん(故人)の正統派に対するダーウィン批判、
『主体性の進化論』や『私の進化論』
も、ひょっとするとこの陰謀論のたぐいではないかと思ったことが挙げられる。今西さんの「私だけが進化の真実を知っている」という「疑う心」を疑ってみることも必要な気がする。日本には今西ファンが(今も)多い。だが、「主体性の進化論」というのは陰謀論同様、同じ偏りを共有する、あるいはひきずる共同幻想、つまり真実とは無関係な物語論なのかもしれない。
言ってみれば今西さん一流の「生物の世界はこうなっているはずだ」という信念の表明だったのかもしれない。信念には原因と結果を解明する必要はないので「種は変わるべくして変わる」という(科学的には一見おかしな)論法がまかり通ることになった。
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