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生物論争史、今も重要な何かが欠けている

(2016.02.03)  お正月というまとまった時間を利用して、この1か月間、上下2巻からなる浩瀚な

 『社会生物学論争史』

を読んだ。中間報告はこの欄1月10日付に書いておいたが、最終的な結論は以下の通りである。

 C.P.スノーが問題を提起してから55年以上、火付け役のE.O.ウイルソンが論争末期に自分の考えを論争を踏まえて整理した『コンシリエンス』(1998)=日本語訳『知の挑戦』を出版してからでも20年近く経過した。しかし、現在でも、理系、文系という

 「二つの文化」の統合を目指そうという挑戦には、今も重要な何かが欠けている

というものであった。

 念のため、先ほどのウイルソンの

 Image2275 『知の挑戦 科学的知性と文化的知性の統合』(2002)

も読んでみた。

人間の本性の生物学的な基盤は遺伝子と、そこから生み出される文化との共進化の結果

というのが主な内容だった

どういうことか、少し引用してみる。

 「今日、生物学者や社会科学者が理解している遺伝子=文化共進化においては、因果的事象が遺伝子から細胞や組織へ、ひいては脳や行動へと波及する。これらの事象が物理的な環境や先在する文化と相互作用をし、文化進化を偏向させる。しかし、この連続事象-遺伝子が後生を通して文化におよぼす影響-は、共進化の環の半分にすぎない。残りの半分から提起されるのは、人間の本性の根底にある遺伝子の変異や組み換えの選択に対して、文化がどう関与しているのかという問題だ」(同書p202)

 「このつながりの最後の段階は、もっとも重要で、異論のあるところでもある。それは遺伝子の拘束の問題で具体化される。先史時代を通して、とくに現代型ホモ・サピエンスの脳ができあがった10万年前までは、遺伝子進化と文化進化は緊密に結びついていた。新石器時代の社会が出現し、文明が発生すると、文化進化は全速力で疾走し、それに比べればとまっているも同然の遺伝子進化は取り残された。では、この最後の指数関数的な局面で、後生則は、異なる文化がどのくらいまでわかれてへだたっていくのを許したのであろうか? 遺伝子の拘束はどのくらい強かったのだろうか? これが鍵となる質問だが、答えは部分的にしか出せない。」(同書p193)

「後生則から文化の多様性への移行については、まだきわめて不完全な知識しかないので、実際の例をあげて説明するのがいちばんいいのではないかと思う」(同書p193)

として、その単純な例として言語によるコミュニケーションを挙げている。共進化の二つ目の例として、複雑だが、今のところ詳しく調べられている

 色の語彙

を取り上げている。

 その上で、

 「人間の条件を把握するには遺伝子と文化の両方を(その共進化の観点から)理解しなくてはならない(同書p200)

と語っている。

また、「遺伝子と文化の結びつきは、感覚器官や脳のプログラムに見られるはずだ。この過程がもっと知られ、考慮されるようになるまでは、遺伝子進化と文化進化の数理モデルは非常に限られた価値しかもたないだろう」(p185)とも語っている。ものの、そして、その自信に満ちた語り口にもかかわらず、

 文化も遺伝子の影響を受けるとする(自然科学的)人類学、(狩猟採集)文化は遺伝子とは無関係とする(人文科学的)人類学、現代の人間行動を社会的、政治的システムから解明しようとする(社会科学的)人類学=社会学

の間においてすら、現在までのところ統合の兆しは見当たらない。いずれも科学を標榜するのなら、少なくとも共通の基盤の上にいずれとも両立しなければならないのに、それが今に至るもない。 

 四半世紀にわたる論争当時はもちろん、今もって、重要な何かが欠けている状態であるといえるだろう。

 さらにあえて言えば、この統合の実現には、進化論とか、人類学とかという小さな枠の中ではとうてい解決できない。要素還元論、全体論の枠外に、つまりそこから帰納するところから解決の道が見出されるような気がする。

 ● 勝者はなかった

 結局、論争はいずれの陣営に対しても、道徳的な面、政治的な面でより慎重な姿勢を求めただけといえるのではないか。どちらの陣営も何がしかの利益は得たものの、一方的な勝者はいない。

 より具体的には、双方ともに、真理を主張した。ものの、その前提となる方法論に共通の基盤がない。あるいは共通の基盤づくりに取り組む姿勢が双方ともにない。そのため、主張の正しさを相手に説得力をもって提示できていない。その結果、論争当初からの要素還元主義と全体論主義の対立がそのまま残った。

 こうなると、二つの文化を共通の基盤の上に統合しようという

 人間社会の進化生物学的な体系確立

は、そもそも可能なのだろうかというそもそもの思いにかられる。

 ● 遺伝子と文化と

 人間の本性に迫るため必要な統合が仮に原理的に可能だとして、ではどうすれば、統合の道筋がつくのか。

 べき論とは逆の帰納法的なやり方はどうか。

 人間の本性の実例としては、さまざまな研究から

 見返りを期待しない家族愛ルールとギブアンドテイクの社会性ルールの両立

 今だけではなく過去や未来を想像できる能力

 想像のできる能力から出てくる相手に共感する能力

 利己的な行動と利他的な行動の使い分け能力

 言語習得の優れた能力

などが思いつく( 蛇足的なコメント2 )。いずれもほかの動物では見当たらない人間の本性であろう。もはや二足歩行や道具の使用は、ほかの動物にもみられることから、人間独自の本性とは考えにくい。

 体系的な理論構築には、こうした事実を当然ふまえる必要性はあるものの、これだけでは十分ではないのではないか。現在の枠組みだけで構築できるという前提は果たして正しいのだろうか。統合は単なる寄せ集めではないからだ。

 人間社会の進化生物学的な考察

には、既存学問の枠組みをこえた新しい概念が必要な気がする。そんな印象を持ったことをここに正直に書いておきたい。

 そんな思いもあり、論争史以前の名著、たとえばオーストリアのK.ローレンツの

 『攻撃 悪の自然史』(上下巻、みすず書房、1970年。原著=1963年)

をあらためて読んでみたい。比較動物行動学から人間の社会行動に考察を加えているからだ。にもかかわらず、論争史のようなイデオロギー論争に終始してはいない。そのくせ、この本自体が発行当時の冷戦構造に彩られているようにブログ子には感じられるからだ。

 ● 補遺 『生命とは何か』

 Image2282 もう少しはっきり言うならば、

 遺伝子と文化との共進化を規定するまったく新しい上位概念が必要ではないか

ということである。ブログ子の考えでは、人間の本性とは何かという問題に切り込むには、かつて、物理学者、E.シュレーディンガーが

 『生命とは何か 物理的にみた生細胞』(岩波新書)

で論じたように、生命の根本をえぐるような考察が必要な気がする。シュレーディンガーはこの本の元となった講演のなかで、エントロピーの重要性を指摘しているのが参考になるかもしれない。

 人間の本性とは何か

の議論は、なにも社会生物学者や集団遺伝学者、進化生物学者だけの専売特許ではない。繰り返すようだが、

 四半世紀にわたる論争にもかかわらず、依然として重要な何かが欠けている。それは、エントロピーと情報とを統合する新しい関数概念の創出ではないか。

 より具体的に言えば、新概念を示す関数のヒントは、統合の対象となっている遺伝子も文化もともにエントロピーや情報と強く結びついているという点である。

 このように論争に中途半端さを強く感じたのは、なにも論争史を書いたのが社会科学者だったからだけではない。感情的なわだかまりに双方が埋没しているうちに、論争の内実に迫るもっと本質的で革新的な事柄の抽出作業がおろそかになった。そして、ついに論争では見出されずに終わってしまったような気がする。

 ● 蛇足的なコメント

 最近の文化の成果の中には、

 ダーウィン医学(進化から見た病気学)、ダーウィン工学(生物模倣技術)、進化心理学(=人間社会の進化生物学としての社会生物学の重要な一分野)というのも登場しているのは興味深い。

  ● 蛇足的なコメント2

  Image2283 進化心理学、あるいは認知科学の分野では、人間の本性について古くから議論されている。最新の成果についてわかりやすく書かれたものとしては、社会生物学を支持するS.ピンカー教授(ハーバード大心理学教室)の

 『人間の本性を考える 心は「空白の石版」か』(NHKBooks、日本放送出版協会、2002年)

が好著である。

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