« 2016年1月 | トップページ | 2016年3月 »

2016年2月

自動運転車、そのプログラムは〝運転手〟か -- 電脳建築家、坂村健の目

(2016.02.19)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

身体知 - 人工知能は人間のように柔軟で臨機応変な脳を再現できるか

(2016.02.19)  人工知能と臨機応変との関係について、以下のような情報科学的な論文があったので、紹介しておく。もし仮に、再現できるとなると、先般この欄で論じたように、もはや人間と人工知能との電脳将棋対決はほとんど意義はないことになる。

 論文クリックで、拡大できる。

02_19_020041

02_19_120042

| | コメント (0) | トラックバック (1)

生物多様性はなぜ必要か 経済学的視点で - または、外来のアライグマの独り言

(2016.02.16)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

シジミ博士の「本気でやるのなら」 ------ 日本一小さな研究所の誇りと志操

(2016.03.10)  宍道湖はその美しい夕日で全国に知られている。その絶景ポイント近くに

 日本一小さな研究所

がある。シジミ博士(水産学)として知られる中村幹雄さん率いるわずか10坪ぐらいのスペースしかない日本シジミ研究所(島根県松江市)である。場長だった島根県水産試験場を早期退職し中村さん1人で立ち上げてまもなく14年、今ではシジミに魅せられた若者男女10人以上が調査に毎日汗を流しているという。研究所は狭いが、自慢は調査船が10隻以上もあることだ。

 Imgp9231_13 ブログ子が、そんな研究所を宍道湖で早朝操業するシジミ漁船のなかから拝見したのは、昨年9月だったが、先月2月、佐鳴湖シジミプロジェクト協議会が企画した講演会

 汽水の恵み -ヤマトシジミ - 

の講師としてお招きした。その折、浜松市内で酒を酌み交わしながら、お話を聞く機会にめぐまれた(写真右=浜松市内の居酒屋風ダイニングで)。お酒も適度に回り、いろいろな話がでたところで、研究所の運営について聞いてみた。

 「オレについてこいということだ。本気で研究所で働くつもりならば」

という強いリーダーシップだった。オレの子分になる気があるか、というのだ。これこそ小回りの効く研究所の持ち味を引き出すコツであると言いたかったのだろう。

 いかにも、定年を待たずに早期退職した中村さんらしい。大学卒業と同時に、アフリカのケニアに青年海外協力隊員として2年間出かけた中村さんの個性ともいえる。これには卒業した北大というユニークな校風もまた影響しているにちがいない。

 そんな話を聞いた翌日、講演を聞いたわけだが、講演中も、終わったあとの行政も含めた参加者たちとの間の活発なやり取りの間にも、しばしば

 「本気でやるのならば」

という言葉を使っていた。これが元行政組織の長であった中村さんから発せられると、辛口の鋭い響きに聞こえる。大きな組織にかぎらず、その場かぎりの事なかれ主義があまりにも多い。中村さんはこのことと、40年以上も闘ってきたのだろう。

 そこには、小さくはあっても研究所をなんとか率いてきた男の志操と誇りが込められている。そして、それは、ブログ子たちのシジミプロジェクト協議会の活動のあり方に対しても向けられているのだと感じたし、真摯に受け止めなければならないとも思った。

 ● 来年秋、松江で全国シンポ

 シジミとかかわってかれこれ40年、中村さんは、今から10年前に

 「シジミの日」(4月23日)

を日本記念日協会に登録した。細る一方のシジミ漁やシジミそのものについて考える機会と位置づける。これにはかつてのように放っておいても、湧くように漁獲できた時代はもはや遠くすぎたという思いもあろう。

 宍道湖のシジミ漁船の上で、ブログ子は、

 そんな男にほれられた宍道湖のシジミはなんと幸せなんだろう

と思ったものである。

 中村さんは、その愛情の総仕上げとして、

 来年秋、全国シジミシンポジウム

を松江市で開きたいと、今、再調査も兼ねてせっせと全国の汽水湖行脚を続けている。

 ここに、厳しさと誇りとは別の、シジミにそそぐ心温かきもうひとつの熱情を感じるのは、ブログ子ひとりだけではないだろう。

 ● 補遺 同行のシジミ研究所研究員杉山ゆかりさん

    佐鳴湖シジミハウスで

Imgp9242

  ハウス排水口付近で(右奥はせせらぎ水路)

Imgp9238

   

       

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人工知能ではとても無理 藤沢『残日録』

(2016.02.07)  亡くなった藤沢周平さんの『三屋清左衛門残日録』(写真=文春文庫)を原作とした新作ドラマが、先日、BSフジで放送されていた。北大路欣也さんが主演で、今で言えばエリートの男性サラリーマンの定年後の哀愁がしみじみと伝わってくる作品である。

 Imgp9213  原作の中では、

  零落

という短編が気に入っていたのだが、ドラマでは

  霧の夜

というのがよかった。どちらもそうだが、エリートでなくても社会から次第に取り残されていくという言いようのない寂しさを強く感じ始めているブログ子の心のうちを見透かしたようなドラマだった。

 こういう男の心理は、今話題になっている人工知能作家には当分無理、いや、とうてい書けないだろう。そう思った。

  日残りて

     暮るるに

        いまだ遠し

 しかし、そう思っているのは本人だけであり、もはや周囲ではとっくに日は沈んだとみられている。せいぜいが薄明かりだろう。その薄明かりがドラマではほんのりと輝いていたのがうれしかった。

 威勢のいいフジテレビも、たまには心に響くドラマを放送すると感心した。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

電脳将棋、理詰めや定跡から臨機応変へ

(2016.02.04)  将棋のプロ棋士、勝又清和さんが、先日、「視点・論点」(Eテレ)で

 将棋とコンピューター

というタイトルで話していたのを、偶然拝見した。途中から見るともなく見ていたのだが、タイトルからして

 マァ、たいした話ではあるまい。ステレオタイプな内容のくり返し、蒸し返しだろう

と軽く聞き流していた。ところが、人間(トッププロ棋士)とコンピューターソフトのチャンピョンとのこれからの本格的な電脳タイトル戦に話が及んだ後半で、羽生善治4冠の話として

 将棋定跡の格言にはいろいろあるけれど、最後に大事なのは、結局、臨機応変ということではないか

との趣旨を紹介していたところから、俄然おもしろくなった。

 ソフトの実力はこの十年、飛躍的に向上しており、今後はプロ棋士側が連戦連敗することも十分考えられる。その場合、

 プロ棋士の存在意義とは何か

という深刻な事態が人間側に出現する。もはやトッププロといえども、人工知能ソフトには到底勝てない。そんな日がきわめて近い将来確実にやってくる。四則演算の速さや正確さでは、人間はもはやコンピューターに勝てないというのと同様の状況である。

 それでもなお、勝ち負け以外にどんなおもしろさが、ゲームとしての将棋にあるのか

という問題意識を勝又さんは提起していた。

 鋭い指摘だが、勝又さんによると、

 いかにも人間らしい、定跡(あらかじめ定められた格言)にとらわれない臨機応変な名「次の一手」を鑑賞したり、味わったりすることになるという。このこそが、これからのゲームのおもしろさなのだと、概略そう語っていた。

 至言だと思う。

 以下これについて、勝又さんが言いたかったことについて、もう少しわかりやすくブログ子なりに解説してみたい。

 まず、羽生四冠の言った「臨機応変」について

 臨機応変とは「その時その場に応じて、適切な手段をとることができること」である。ところが、あらかじめアルゴリズムがプログラムされている人工知能には、この格言を実行することは原理的に不可能であり、人間にしかできない格言なのだ。人工知能には、その時その場で自由意思を発揮するなどということはできない。

 わかりやすい言い方をすれば、人工知能には融通無碍はありえない。

 人間対人工知能ソフトの電脳戦のおもしろさはここにある。もっとも融通無碍や臨機応変な自由意思があるからといって、勝てるという保証はない。臨機応変には、勝つ確率の高い手を指すというよりも、定跡を踏襲するというよりも、

 勝負に対する私の美意識ではこうだ

というところから出てくるような気がする。将棋の真理はこうなっているはずだという主張である。その真理が勝ちを呼び込む。

  ● 臨機応変の「次の一手」への関心

 第二は、偶然と必然について

 ただ、臨機応変や融通無碍に見かけ上みえるような差し手を人工知能も指すことはあり得る。

 しかし、それは

 サイコロを振って決めるような因果関係のまったくない偶然

 と

 あらかじめ確実に予測できる決定論的な必然

のどちらかを選択しているにすぎない。選択の条件はあらかじめ決められている。しかし、人間の場合、

 この偶然でも、必然でもない、その間の推理をこえた何ものか

を臨機応変に直感で把握できる。人間(だけでなく生物のすべて)は偶然と必然の間の選択をある種の美意識で意思決定できる。少し大げさに言えば

 人間という生き物の本性とは臨機応変である

ということになる。これが勝負で問われる。非生物の人工知能にとっては偶然か必然のどちらかであり、直感的にその間の何ものかを掴み取るというような主体性はない。

 逆に言えば、人工知能には、いくら人間に勝ち続けていても臨機応変な「次の一手」は生まれてこないことになる。合理性がすべてなのだ。美意識は関係ない。

 Imgp9207_2 以上から

 これからの電脳戦の興味は、人間と人工知能のどちらが勝つか負けるかというものから、

 定跡にとらわれない臨機応変の名「次の一手」

への関心に移るだろう。平たい言葉で言えば、

 理詰め定跡から、ひらめき、直観力、さらには美意識へ

という時代になる。その意味では、ゲームとしての将棋の質はこれまで以上に高まってくるともいえる。

 勝つためには、あらかじめの人工知能なんかにできることを超えて、プロ棋士はその時その場に応じて次の一手を指す必要がある。

  一方、人工知能側にとってのおもしろさは、人間側の出たとこ勝負の臨機応変に対抗して勝つ

 究極の「あらかじめ論理」とそのアルゴリズムの発見

にあるだろう。人間の大脳に迫る人工知能づくりということになる。ひょっとすると、数百万年かけて進化してきた人間の大脳の機能を大きく超える人工知能が開発されるかもしれない。

 となると、人間同士の勝負の時とは違って、これからの電脳戦に臨むプロ棋士にとっては

 人間プロ棋士としてその真価が問われる時代

になったとはいえよう。

 こうなると、日本将棋連盟会長もつとめた日本を代表するトッププロがかつて言い放ったように

 人工知能ソフトとの対戦は所詮、遊びやで

というのは、もはや通用しない。

 (写真は、日本百科全書(ジャポニカ。小学館)の「将棋」の項目から)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

謝った者勝ち 水に流す日本の謝罪文化

(2016.02.04) 先週に引き続き、

 外国人記者のみたニッポン

という討論番組がおもしろかった(BS-TBS)。先週はイルカ漁は反日、日本たたきの道具ではないかというものだったが、今週は

 おかしくない !? 日本の謝罪会見

というのがテーマ。経済再生担当の甘利大臣の謝罪した上での辞任会見を取り上げている。情に訴え、形だけの(無責任な)謝罪に記者たちの批判が集中していた。政治家や会社が日本の謝罪文化を悪用しているとも語っていた。

 ロイター通信記者は

 謝った者が勝ち

とズバリ、核心を指摘していた。このほか、シンガポールの記者、アメリカの「フォーブス」記者、韓国の京郷新聞記者も参加していた。海外、たとえば最近のフォルックスワーゲンでは、言い訳ととられるような説明などしない、この日本独特の謝罪会見を都合のよい幕引きに悪用しているのではないかとも指摘している。言い訳ではないきちんとした説明をする

 調査報告書

の公表が悪用されないためには必要だと具体的に提案した記者もいた。ブログ子もそのとおりであると思う。

 ● 「すみません」ではすまない風潮こそ

 日本の精神文化の特徴として

 水に流す

という言い方がある。これについて、日本国語大辞典(小学館)では、次のような語釈と実例を挙げている。

 過去にあったことをすべてなかったことにする。過ぎ去ったことをとがめないことにする。水にする。水となす。歌舞伎に「多年の恨みさっぱりと、水に流して折々は」。はやりうたに「この場限り、水に流して下さるのですね」。

 人情の世界ではこれらは今も通用するだろう。しかし、政治や経済の世界では通用しまい。

 気持ち中心の謝罪から、説明と理屈中心の謝罪へ

切り替えることが必要だと思う。

 あいまいで無責任な「すみません」ではすまない謝罪会見

という政治経済文化が今、求められている。

 いつまでも「負けるが勝ち」では困る。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

生物論争史、今も重要な何かが欠けている

(2016.02.03)  お正月というまとまった時間を利用して、この1か月間、上下2巻からなる浩瀚な

 『社会生物学論争史』

を読んだ。中間報告はこの欄1月10日付に書いておいたが、最終的な結論は以下の通りである。

 C.P.スノーが問題を提起してから55年以上、火付け役のE.O.ウイルソンが論争末期に自分の考えを論争を踏まえて整理した『コンシリエンス』(1998)=日本語訳『知の挑戦』を出版してからでも20年近く経過した。しかし、現在でも、理系、文系という

 「二つの文化」の統合を目指そうという挑戦には、今も重要な何かが欠けている

というものであった。

 念のため、先ほどのウイルソンの

 Image2275 『知の挑戦 科学的知性と文化的知性の統合』(2002)

も読んでみた。

人間の本性の生物学的な基盤は遺伝子と、そこから生み出される文化との共進化の結果

というのが主な内容だった

どういうことか、少し引用してみる。

 「今日、生物学者や社会科学者が理解している遺伝子=文化共進化においては、因果的事象が遺伝子から細胞や組織へ、ひいては脳や行動へと波及する。これらの事象が物理的な環境や先在する文化と相互作用をし、文化進化を偏向させる。しかし、この連続事象-遺伝子が後生を通して文化におよぼす影響-は、共進化の環の半分にすぎない。残りの半分から提起されるのは、人間の本性の根底にある遺伝子の変異や組み換えの選択に対して、文化がどう関与しているのかという問題だ」(同書p202)

 「このつながりの最後の段階は、もっとも重要で、異論のあるところでもある。それは遺伝子の拘束の問題で具体化される。先史時代を通して、とくに現代型ホモ・サピエンスの脳ができあがった10万年前までは、遺伝子進化と文化進化は緊密に結びついていた。新石器時代の社会が出現し、文明が発生すると、文化進化は全速力で疾走し、それに比べればとまっているも同然の遺伝子進化は取り残された。では、この最後の指数関数的な局面で、後生則は、異なる文化がどのくらいまでわかれてへだたっていくのを許したのであろうか? 遺伝子の拘束はどのくらい強かったのだろうか? これが鍵となる質問だが、答えは部分的にしか出せない。」(同書p193)

「後生則から文化の多様性への移行については、まだきわめて不完全な知識しかないので、実際の例をあげて説明するのがいちばんいいのではないかと思う」(同書p193)

として、その単純な例として言語によるコミュニケーションを挙げている。共進化の二つ目の例として、複雑だが、今のところ詳しく調べられている

 色の語彙

を取り上げている。

 その上で、

 「人間の条件を把握するには遺伝子と文化の両方を(その共進化の観点から)理解しなくてはならない(同書p200)

と語っている。

また、「遺伝子と文化の結びつきは、感覚器官や脳のプログラムに見られるはずだ。この過程がもっと知られ、考慮されるようになるまでは、遺伝子進化と文化進化の数理モデルは非常に限られた価値しかもたないだろう」(p185)とも語っている。ものの、そして、その自信に満ちた語り口にもかかわらず、

 文化も遺伝子の影響を受けるとする(自然科学的)人類学、(狩猟採集)文化は遺伝子とは無関係とする(人文科学的)人類学、現代の人間行動を社会的、政治的システムから解明しようとする(社会科学的)人類学=社会学

の間においてすら、現在までのところ統合の兆しは見当たらない。いずれも科学を標榜するのなら、少なくとも共通の基盤の上にいずれとも両立しなければならないのに、それが今に至るもない。 

 四半世紀にわたる論争当時はもちろん、今もって、重要な何かが欠けている状態であるといえるだろう。

 さらにあえて言えば、この統合の実現には、進化論とか、人類学とかという小さな枠の中ではとうてい解決できない。要素還元論、全体論の枠外に、つまりそこから帰納するところから解決の道が見出されるような気がする。

 ● 勝者はなかった

 結局、論争はいずれの陣営に対しても、道徳的な面、政治的な面でより慎重な姿勢を求めただけといえるのではないか。どちらの陣営も何がしかの利益は得たものの、一方的な勝者はいない。

 より具体的には、双方ともに、真理を主張した。ものの、その前提となる方法論に共通の基盤がない。あるいは共通の基盤づくりに取り組む姿勢が双方ともにない。そのため、主張の正しさを相手に説得力をもって提示できていない。その結果、論争当初からの要素還元主義と全体論主義の対立がそのまま残った。

 こうなると、二つの文化を共通の基盤の上に統合しようという

 人間社会の進化生物学的な体系確立

は、そもそも可能なのだろうかというそもそもの思いにかられる。

 ● 遺伝子と文化と

 人間の本性に迫るため必要な統合が仮に原理的に可能だとして、ではどうすれば、統合の道筋がつくのか。

 べき論とは逆の帰納法的なやり方はどうか。

 人間の本性の実例としては、さまざまな研究から

 見返りを期待しない家族愛ルールとギブアンドテイクの社会性ルールの両立

 今だけではなく過去や未来を想像できる能力

 想像のできる能力から出てくる相手に共感する能力

 利己的な行動と利他的な行動の使い分け能力

 言語習得の優れた能力

などが思いつく( 蛇足的なコメント2 )。いずれもほかの動物では見当たらない人間の本性であろう。もはや二足歩行や道具の使用は、ほかの動物にもみられることから、人間独自の本性とは考えにくい。

 体系的な理論構築には、こうした事実を当然ふまえる必要性はあるものの、これだけでは十分ではないのではないか。現在の枠組みだけで構築できるという前提は果たして正しいのだろうか。統合は単なる寄せ集めではないからだ。

 人間社会の進化生物学的な考察

には、既存学問の枠組みをこえた新しい概念が必要な気がする。そんな印象を持ったことをここに正直に書いておきたい。

 そんな思いもあり、論争史以前の名著、たとえばオーストリアのK.ローレンツの

 『攻撃 悪の自然史』(上下巻、みすず書房、1970年。原著=1963年)

をあらためて読んでみたい。比較動物行動学から人間の社会行動に考察を加えているからだ。にもかかわらず、論争史のようなイデオロギー論争に終始してはいない。そのくせ、この本自体が発行当時の冷戦構造に彩られているようにブログ子には感じられるからだ。

 ● 補遺 『生命とは何か』

 Image2282 もう少しはっきり言うならば、

 遺伝子と文化との共進化を規定するまったく新しい上位概念が必要ではないか

ということである。ブログ子の考えでは、人間の本性とは何かという問題に切り込むには、かつて、物理学者、E.シュレーディンガーが

 『生命とは何か 物理的にみた生細胞』(岩波新書)

で論じたように、生命の根本をえぐるような考察が必要な気がする。シュレーディンガーはこの本の元となった講演のなかで、エントロピーの重要性を指摘しているのが参考になるかもしれない。

 人間の本性とは何か

の議論は、なにも社会生物学者や集団遺伝学者、進化生物学者だけの専売特許ではない。繰り返すようだが、

 四半世紀にわたる論争にもかかわらず、依然として重要な何かが欠けている。それは、エントロピーと情報とを統合する新しい関数概念の創出ではないか。

 より具体的に言えば、新概念を示す関数のヒントは、統合の対象となっている遺伝子も文化もともにエントロピーや情報と強く結びついているという点である。

 このように論争に中途半端さを強く感じたのは、なにも論争史を書いたのが社会科学者だったからだけではない。感情的なわだかまりに双方が埋没しているうちに、論争の内実に迫るもっと本質的で革新的な事柄の抽出作業がおろそかになった。そして、ついに論争では見出されずに終わってしまったような気がする。

 ● 蛇足的なコメント

 最近の文化の成果の中には、

 ダーウィン医学(進化から見た病気学)、ダーウィン工学(生物模倣技術)、進化心理学(=人間社会の進化生物学としての社会生物学の重要な一分野)というのも登場しているのは興味深い。

  ● 蛇足的なコメント2

  Image2283 進化心理学、あるいは認知科学の分野では、人間の本性について古くから議論されている。最新の成果についてわかりやすく書かれたものとしては、社会生物学を支持するS.ピンカー教授(ハーバード大心理学教室)の

 『人間の本性を考える 心は「空白の石版」か』(NHKBooks、日本放送出版協会、2002年)

が好著である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年1月 | トップページ | 2016年3月 »