そして傑作の辞書、「言海」が生まれた
THE歴史列伝 そして傑作が生まれた
で、明治の海外事情にも詳しいエリート官僚、大槻文彦(おおつき)を取り上げていたのがおもしろかった(BS-TBS)。
日本で初めて語釈のある現代的な辞書を一人で、11年間かけて完成させた人物で、約4万語を掲載。しかも当初は文部省の命令でスタートしたものの、出来上がった草稿がいつまでたっても公刊される見込みが立たなかったことから、結局は私費(今でいう自費出版)で出版するはめになる。
● 私費出版でベストセラー
私費出版を決意し、出来上がっていた草稿を4巻本として刊行するまでに、手直しや増補、校閲、校正などでさらに3年もかかった。刊行されたのは、明治24(1891)年というから、明治憲法ができた2年後である。
初版は4分冊で、第二版(明治24年)は合本だった(写真右。定価6円)。巻頭には天皇、皇后両陛下をはじめ、皇太子殿下からも献呈に対する感謝状が掲載されている。このこともあり、当時としてはベストセラーとなったらしい。
文明開化の時代を反映して、まだまだ珍しかった外来語も積極的に取り入れ、苦心の語釈をつけている。
たとえば、
パン (名) 〔葡萄牙語、Pan.〕小麦粉二甘酒ヲ加へ、水二捏ネ合ハセテ、蒸焼キニシタルモノ、饅頭ノ皮ヲ製スルガ如シ、西洋人、常食トス。アンナシマンヂユウ。
これを現代の辞書、たとえば1995年に初版の出た「大辞泉」と比較してみると、
〔ポルトガル pao〕 ① 小麦粉・ライ麦粉などを主原料とし、少量の塩を入れて水でこね、酵母で発酵させてから天日などで焼いた食品。② 生活の糧。また、食べ物。「人は-のみにて生きるものにあらず」
などとなっている。大槻の語釈が100年後に書かれた現代のものと比べて遜色がないのには驚かざるを得ない。大槻は、こうした作業を11年間に4万回くりかえしたことになる。
「言海」の改訂版「大言海」が倍増の総語数約9万語で完成したのは大槻の死後で、2・26事件の翌年、つまり昭和12(1937)年。というのだから、いかに辞書づくりというのは難事業なのかがわかる。このときは改訂に6年、冨山房(ふざんぼう)が出版元となり、大槻死後では東京帝国大学国語教室が協力したという。こうして戦前の昭和を代表する辞書、「大言海」は誕生した。
それはさておき、近代日本語辞典の出発点となった「言海」には、大槻文彦自身の語釈で、傑作の項目は次のようになっている。
けつさく 傑作 詩、文章ナドノ出来ノ勝レテ好キモノ (写真上。ダブルクリックで拡大)
言葉の海のなかで生涯悪戦苦闘した大槻文彦の畢生の「言海」もまた、その一つであろう。
偉大な先人をしのび、今宵は、この言葉の海のなかで少し遊んでみたい。そして、大槻文彦の世界に浸ってみたい。エリート官僚のなかにも、出世を投げ打ってでもやらなければならない仕事があり、それに私財を投じ、見事に成し遂げた人材がいることを忘れてはなるまい。
明治の男の気骨が伝わってくる辞書といえよう。
● 補遺
ブログ子は、この明治24年の合本(第二版=写真)を古本屋で10年前、わずか1万円で入手した。なお、戦後の国語辞書の代表的なものとして、たとえば
日本国語大辞典(日国大、小学館、全20巻、初版=昭和51(1976)年)
がある。ブログ子の手元にも置いてはいるものの、これまで利用しているとは言い難いことを恥ずかしく思っている。
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