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2015年12月

「理不尽な進化」からみた生命の大躍進

Imgp9046 2015.12.03)  東京の国立科学博物館に続いて、名古屋市の科学館で開かれている

 生命大躍進 脊椎動物のたどった道

という特別展を先日、拝見した。簡単に言えば、地球上の生物進化史を化石の実物やレプリカ、あるいは復元模型で時間を追って系統的に展示。その過去の物語を市民にわかりやすく、私たちの人類に至るまでについて紹介しようというものだった(右は、会場の様子=ほ乳類のクジラのような巨大魚類、デボン紀。食べようとしているのは巨大なウミサソリ)。

 拝見して驚いたのは、展示されていた化石などの考古資料のほとんどが実物であったこと。これほど多くの貴重な実物を展示する特別展示というのは、なかなかないと感じた。つまり、説得力と迫力のある展示だった。

 第二に感じたのは、論ではなく、事実をして語らしめようという主催者側の意図が明確に、そして徹底して追及されていたこと。復元模型やレプリカづくりにあたっても、できるだけ論より証拠に基づくという科学的な姿勢を貫いていた。わからないことは、現状ではわかっていないと明記していたのは好感された。

 ● 眼、あご、足、胎盤の獲得

 具体的に言えば、脊椎動物の大躍進のポイントは

 まず眼の獲得。第二以下は、あご、足、胎盤という順序で獲得したこと。

 このことが解剖学的な記述でもって連続性のある合理的なプロセスとして詳しく語られていた。

 Imgp90631 その上で、言うのだが、この特別展示を見て感じたのは、

 タイトルに生命の大躍進とはついているものの、これまでの地球上に登場した生物の種のうちのほとんどは、今はもう見ることのできない絶滅種である

ということだった(左=6億年前にいた眼を持ったアノマロカリス=1メートル以上もある復元模型)。かつて登場した生物種の99.9%は、なんらかの理由で絶滅してしまった。展示会場について言えば、会場の出口にあったわたしたちホモ・サピエンスの種と、会場入り口の30億年以上前のバクテリアの仲間ぐらいしか、今はもうこの世にはいない。サルから分岐して進化してきた人類についても、

 約20種近いホモ属の200万年の歴史で今も残っている種というのは、わたしたちホモ・サピエンスたった1種

なのだ。わたしたち現生人類にもっとも近い種はネアンデルタール人だが、約4.0万年前までには地球上から、理由は不明だが、姿を消している(ネアンデルタール人とわたしたちとのDNA配列の違いは0.1%とごくわずか。わたしたちとチンパンジーとの違いは1.0)。

 これまで登場した99.9%の種は、今みんな地下世界に眠っている。

 絶滅していったのは、地球にいん石が衝突した影響で、運悪く、6500万年前までに絶滅していったとされる恐竜だけではない。ほとんどの種は、何らかの理由で絶滅していった。

 ● 偶然という不運、必然メカニズムの自然淘汰

 絶滅の理由には、いん石衝突という、地球上の生き物にとってはまったく偶然の不運もある。これは偶然の絶滅である。

 が、一方で、偶然ばかりではなく、進化の必然としての絶滅もある。ダーウィンの言うような、時々刻々に生じている進化のメカニズム、

 つまり適応主義仮説に基づく自然淘汰のメカニズム

である。ゆるやかな絶滅といっていいかもしれない。必然の絶滅である。

Imgp9066700jpg  こう考えてくると、

 進化とは、偶然と必然が織りなす、ある意味「理不尽な」歴史

といえるかもしれない。過去から降り積もってきたその時、その時の歴史的な状況にうまく適応した適者だけが生き残ってきたのではない。適応してきたものも、適応であまりに特殊化したために、次の歴史的な大きな状況に対応できず、絶滅することもあるからだ(右=現代日本人と700万年前の最初期猿人との出会い。サヘラントロプス・チャデンシス、出土アフリカのチャド)。

 逆に、ある歴史的な状況に適応できずにいた生物も、偶然にやってきた次の大状況にはうまく適応できたかもしれない。ほ乳類の登場とその後の大躍進は、恐竜の絶滅と無関係ではないのがこの事例だ。

 この意味では進化論、進化学というのは事実を原因と結果について説明するサイエンスであるとともに、実は事実を解釈する歴史学の一分野でもあるのだ。このことから、進化学には、うっかりサイエンスを踏み外さないよう、あるいは原因を結果論で論じないよう、ある種の慎重さが必要だと思う。踏み外したとき、進化学はエセ科学となる。

 ただ、事実として言えるのは、この5、6億年で5回くらい起ったとされる生物種の大量絶滅では、その後にそれまで以上に大量の種が誕生していくということ。偶然が巻き起こすかく乱が、生物種の多様性を生んでいる。

 生物種の大量絶滅というかく乱は、爆発的な種の多様性を生み出す起爆剤になっている。これには進化の必然メカニズム、自然淘汰による適応放散がかかわっているのだろう。これが種の間に活力を与えている。そんなことも知った。

 ● 過去に無縁の偶然と、過去が制約条件となる必然

 この展示を拝見して、

 過去には無縁の偶然と、過去の歴史が制約条件となる必然。進化とは、それらが織りなす理不尽さの結果

であることを、具体的な展示物と解説で悟った。

 そして、ふと、このことは、生物に限らず、製品開発の現場でも起きている。そんなことすら想像させた。

 ● ドーキンスとグールド

 これまでこのブログで、『理不尽な進化』(吉川浩満)を、大変に示唆に富む著作として紹介してきた。さらに踏み込んで

 『祖先の物語』(R.ドーキンス)や『ワンダフルライフ』(J.グールド)をもう一度読み返してみたいという気に特別展はさせてくれた。

 いずれも浩瀚で刺激的なライバル同士の、進化の歴史を語ったライフワークだと思う。ワンダフルライフのほうは、通常の歴史の順に、そして最近刊行されたドーキンスの本は、歴史をさかのぼるという奇抜な手法で語るなど対抗意識もあり、互いに対照的な著作である。.

 歴史とは無縁の適応主義者ドーキンスは、今や進化学の教祖的な存在になっている。晩年、ドーキンスに挑み続け、最後は惨めな敗北に帰したといわれている多元主義のグールド。本当に二人の間に、それほどの大差があったのか。

 進化を考えるとはどういうことなのか、ブログ子も吉川氏同様、これらの著作を通して見極めてみたい。

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日本人初の宇宙飛行士の25年  ------- それからの農業と反原発と 

(2015.12.04)  地球を離れて、小惑星に向かおうとしている

 探査機はやぶさ2

が、以下のような壮大なというべきか、雄大なというべきか、地球(右)と月が20万キロも離れている様子の写真を地球に送ってきた(2015年11月29日付中日新聞朝刊)。300万キロも離れた宇宙から届いたこんな映像をもし仮に、はやぶさ2に乗っている人間が見たとしたらどんな感慨をいだくだろうか、という思いにとらわれた。

 この地球上にあらわれては消えていったいかなる哲学思想も太刀打ちできないほどの思想変化が飛行士に起こるだろう。

 論より証拠のカルチャーショック

だろう。

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 ● 思想の転換迫る宇宙

 日本人初の宇宙飛行士は、毛利衛さんより先、1990年12月にロシア宇宙船で飛び立ったジャーナリスト、秋山豊寛さんだった。ワシントン支局長だったこともあるTBS記者である。現在は70歳をこえているが、今は京都の私立大学教授。

 地球を周回飛行し無事帰還して5年後、ジャーナリズムの一線に立てなくなるなどのむなしさからテレビ局を退職、農業に従事したり、反原発の活動にたずさわったりした25年だった。

 農業にたずさわるようになったのは、宇宙から地球をみて、生きるためにいちばん欠かせない農業もなにも知らない自分に気づいたからだという。裏を返せば、華やかではあるが、テレビジャーナリズムのそもそもの虚業性に気づいたのかもしれない。

 宇宙には、思想の転換を迫る魔力がある。天文学の持つ魅力といってもいいかもしれない。

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絶滅したネアンデルタール人に会いたい ---- サピエンスとの交替劇の真相

(2015.12.01)  前回ブログで「生命大躍進」展について書いたが、この展示でも一つの人気コーナーは、

 ネアンデルタール人はなぜ滅んだか

というものだった。ネアンデルタール人の骨からゲノムを抽出して調べてみると、ホモサピエンスとほとんど同じだったことがわかった。のだが、ネアンデルタール人が足を踏み入れていないはずの東アジア、たとえば中国人、日本人にネアンデルタール人由来のDNAが、本家ヨーロッパ人よりも大きな割合で存在しているという。

 どういう経緯で、東アジアの中国や日本列島にやってきたのか、これからの研究課題らしい。

 ● 日本の人類考古学50年

 ところが、先月末、東大理学部で

 日本人研究者による旧人ネアンデルタール遺跡調査

についての公開講演会が開かれた(写真下。本郷キャンパスの東大理学部)。

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  大変に興味深いので、ブログ子も聴講に出かけた。日本では東大が中心になって1960年代から今まで60年近い発掘の積み重ねと研究の歴史があるというのにはおどろいた。

 とりわけ、赤沢威(たける)さんのシリアにおける長年の発掘成果を元に行われている

 ネアンデルタールとサピエンス交替劇の真相

に注目が集まっていた。交替の環境説という観点が有力な中、あえて難題のアプローチ

 学習能力の進化に基づく実証的研究

をこの5年間続けてきたのだから、おもしろくないわけがない。

 ● 学習能力の進化的違い仮説

 環境説というのは、化石の骨などの身体構造とその機能から、ダーウィン的な発想で交替劇を解き明かそうというもの。

 Imgp8852_1 これに対し、赤沢さん(写真右)たちは、

 脳の構造とその機能

というソフト面からアプローチ。互いの学習能力の進化的違いが交替劇を生んだという仮説を立てて、解明に挑んだ。当然だか、脳は化石として残らないのだから、実証研究といっても、間接証拠に止まらざるを得ない。そういう限界がこの仮説証明にはあろう。

 それでも、現代の狩猟採集民の石器づくりとネアンデルタール人の残した石器のバラエティの比較から学習能力の違いが交替劇の真相だという結論に至ったらしい。

 ● 恐るべき執念で全身骨格発掘 

 ブログ子には、この結論が正しいのかどうかは、わからない。ただ、そういう仮説が成立しうるというのはおもしろい。すくなくとも否定されなかったというのは大きな成果だったと感じた。

 Imgp8964 そのうえで言うのだが、赤沢さんたちの

 ネアンデルタール人に会いたい

という数十年にもわたる恐るべき執念の持続にはほとほと感心した。

 そして、講演の最後に赤沢さんが、一区切り付いた今、考えているのは、

 こうした交替劇は、今のホモサピエンスといえども例外ではない

語っていたことに、ブログ子は注目したい。ホモサピエンスの絶滅はあり得るというのだ。

 ホモサピエンスは、後戻りのない知識の前進的な蓄積とその活用力、および、新しい知識を創造的に生み出す能力によって、人工知能というものまでつくるという位置に躍り出た。しかし、この結果、ホモ・サピエンスと

 ポスト・ヒューマンとも言うべき人工知能との交替劇

があるかもしれないと、最近の人工知能関連の著作を紹介しながら警告している。このブログでも紹介したカーツワイルの2040年代「シンギュラリティ」説のことかもしれない。

 それはともかくとしても、

 絶滅について、われわれも例外ではない

というのは真実だと思う。人工知能に取って代わられる未来が来るかもしれないという予感をブログ子は持っている。早ければ、ブログ子がまだ生きているかもしれない数十年以内に。

 ● 未来の交替劇の鍵握る人類進化の過去と現在

 赤沢さんによれば、本当にそうなるのかどうか、その未来の交替劇の真相解明の鍵を握っているのは、

 人類進化の現在と過去

である。未来において本当にそうなるのかどうかを見極める鍵は、人類進化の現在と過去の解明が握っているというのだ。さらに踏み込んで発掘現場こそがそのもっとも重要な鍵だとも言いたげだった。

 いかにも発掘現場に立って人類進化の探求に生涯を賭けた老研究者らしい考え方だ。

 会場のこうした赤沢さんの意気軒昂を拝見し、

 老兵はいまだ去らず

という強い印象をいだいた。

 (写真下は、1993年、赤沢たちの子どもネアンデルタール人発掘の様子。シリアのテデリエ洞窟で。写真のダブルクリックで拡大)

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