絶滅したネアンデルタール人に会いたい ---- サピエンスとの交替劇の真相
(2015.12.01) 前回ブログで「生命大躍進」展について書いたが、この展示でも一つの人気コーナーは、
ネアンデルタール人はなぜ滅んだか
というものだった。ネアンデルタール人の骨からゲノムを抽出して調べてみると、ホモサピエンスとほとんど同じだったことがわかった。のだが、ネアンデルタール人が足を踏み入れていないはずの東アジア、たとえば中国人、日本人にネアンデルタール人由来のDNAが、本家ヨーロッパ人よりも大きな割合で存在しているという。
どういう経緯で、東アジアの中国や日本列島にやってきたのか、これからの研究課題らしい。
● 日本の人類考古学50年
ところが、先月末、東大理学部で
日本人研究者による旧人ネアンデルタール遺跡調査
についての公開講演会が開かれた(写真下。本郷キャンパスの東大理学部)。
大変に興味深いので、ブログ子も聴講に出かけた。日本では東大が中心になって1960年代から今まで60年近い発掘の積み重ねと研究の歴史があるというのにはおどろいた。
とりわけ、赤沢威(たける)さんのシリアにおける長年の発掘成果を元に行われている
ネアンデルタールとサピエンス交替劇の真相
に注目が集まっていた。交替の環境説という観点が有力な中、あえて難題のアプローチ
学習能力の進化に基づく実証的研究
をこの5年間続けてきたのだから、おもしろくないわけがない。
● 学習能力の進化的違い仮説
環境説というのは、化石の骨などの身体構造とその機能から、ダーウィン的な発想で交替劇を解き明かそうというもの。
脳の構造とその機能
というソフト面からアプローチ。互いの学習能力の進化的違いが交替劇を生んだという仮説を立てて、解明に挑んだ。当然だか、脳は化石として残らないのだから、実証研究といっても、間接証拠に止まらざるを得ない。そういう限界がこの仮説証明にはあろう。
それでも、現代の狩猟採集民の石器づくりとネアンデルタール人の残した石器のバラエティの比較から学習能力の違いが交替劇の真相だという結論に至ったらしい。
● 恐るべき執念で全身骨格発掘
ブログ子には、この結論が正しいのかどうかは、わからない。ただ、そういう仮説が成立しうるというのはおもしろい。すくなくとも否定されなかったというのは大きな成果だったと感じた。
ネアンデルタール人に会いたい
という数十年にもわたる恐るべき執念の持続にはほとほと感心した。
そして、講演の最後に赤沢さんが、一区切り付いた今、考えているのは、
こうした交替劇は、今のホモサピエンスといえども例外ではない
と語っていたことに、ブログ子は注目したい。ホモサピエンスの絶滅はあり得るというのだ。
ホモサピエンスは、後戻りのない知識の前進的な蓄積とその活用力、および、新しい知識を創造的に生み出す能力によって、人工知能というものまでつくるという位置に躍り出た。しかし、この結果、ホモ・サピエンスと
ポスト・ヒューマンとも言うべき人工知能との交替劇
があるかもしれないと、最近の人工知能関連の著作を紹介しながら警告している。このブログでも紹介したカーツワイルの2040年代「シンギュラリティ」説のことかもしれない。
絶滅について、われわれも例外ではない
というのは真実だと思う。人工知能に取って代わられる未来が来るかもしれないという予感をブログ子は持っている。早ければ、ブログ子がまだ生きているかもしれない数十年以内に。
● 未来の交替劇の鍵握る人類進化の過去と現在
赤沢さんによれば、本当にそうなるのかどうか、その未来の交替劇の真相解明の鍵を握っているのは、
人類進化の現在と過去
である。未来において本当にそうなるのかどうかを見極める鍵は、人類進化の現在と過去の解明が握っているというのだ。さらに踏み込んで発掘現場こそがそのもっとも重要な鍵だとも言いたげだった。
いかにも発掘現場に立って人類進化の探求に生涯を賭けた老研究者らしい考え方だ。
会場のこうした赤沢さんの意気軒昂を拝見し、
老兵はいまだ去らず
という強い印象をいだいた。
(写真下は、1993年、赤沢たちの子どもネアンデルタール人発掘の様子。シリアのテデリエ洞窟で。写真のダブルクリックで拡大)
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