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斬りたいから斬る 「大菩薩峠 完結編」

(2015.09.25)  中里介山の未完の超々大長編時代小説『大菩薩峠』を原作とする映画

 「大菩薩峠 完結編」(森一生監督、市川雷蔵主演、大映、1961)

をBSプレミアムシネマで、先日見た。三部作のうちの最後なのだが、大正時代から30年近くも書き続け、真珠湾攻撃が始まろうとしていたときになってもなお書き終わらなかったといういわくつきの作品である。

 原作は名だたる作家たちも高く評価していたというのだが、連載中の、しかも未完の小説が高く評価されるというのもおかしな話。しかも、原作は未完なのに、映画のほうは完結編となっているのも変。それなのに、戦前から1960年代までの戦後を通じて、4回も映画化されている。

 暇なこともあり、何がこの作品を引き付けているのか、映画の完結編から探ってみたいと思った。

 完結編では、盲人になってしまっていたが、音無しの秘剣の使い手、机(つくえ)竜之助を中心に物語が進行する。「斬りたいから、人を斬る」というのが机の考え。

 物語は、幕末の山梨県の大菩薩峠での机の人斬りから始まる。そして、そのかたき打ちをめぐって、おいつおわれつで全国を駆け回る。

 そして、途中には新撰組の話も出てくるのだが、完結編では、再び笛吹川の上流、大菩薩峠の故郷に戻ってくる。そこで最後の果し合いが行われる。のだが、突如、川が大氾濫。机は、果し合いの最中、わが子の名前を叫びながら、その濁流にのまれ、消えていく。

 ● 業や業苦を描いたのか

 単純に考えれば、そのあわれな姿に、人斬りという原因と、その報いという結果、つまり仏教思想の

 因果応報

を象徴させたともいえる。具体的に、そして矮小化して言えば、

 敵討ちの無意味さ

を象徴させていたともいえる。

 ただ、それだけのことを言うのに、30年もの間書き続けなければならなかったというのも、おかしな話。この作品にはそうした勧善懲悪をこえた何かがあるようにも思えたが、映画を見ている間にはそれが何であるかはわからなかった。

 ただわかったのは、この映画は、単なるチャンバラ映画、ヤクザ映画ではないということぐらいだった。このことは、机がついに盲人になってしまったこと、そして、虚無僧として敵討ちから逃げ回っていたことでもわかる。

 では、何だといわれると、正直、よくわからなかった。映画を見た翌日思いついたのだが、あるいは原作者は、あるいは映画監督は

 理性ではどうにもならない心の動き、つまり仏教に言う「業」、それに伴う業苦

を、机を通じて描きたかったのかもしれない。

 ● ドストエフスキーの『罪と罰』か

 もしそうだとすると、この作品は、ひょっとすると、キリスト教世界での

 『罪と罰』(ドストエフスキー)

のテーマに通じるのかもしれない。ラストで濁流にのまれていく机は、孤独で罪深いラスコリーニコフにあたる。大菩薩峠のラストの意味は、仏教の世界に生きる主人公に再生はあるのかということを読者に考えさせる点にあるのかもしれない。

 これが人々をして、この作品に引き付けられる理由かもしれない。こう考えていると、小説のタイトルも作品のテーマを暗示しているかのようにも思えてきた。

 ストイックな中里にはロシア文学に傾倒した時期もあった。とはいうものの、『罪と罰』に通じるというのは、少し買いかぶり、あるいは考えすぎかもしれない。

 少なくともいえるのは、くどいようだが、この作品は単なるチャンバラ映画ではないということだ。

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