« 猛暑中、団塊世代が『1Q84』を読む | トップページ | 浜松大空襲の体験を語る »

日常のなかの異常を描いた『黒い雨』

Image2207 (2015.08.12)  8月はなんといっても高校野球であり、原爆投下もあり、「祈りの季節」でもある。そんななか、先日、井伏鱒二原作の映画

 「黒い雨」(田中好子主演、今村昌平監督、1989)

をテレビで拝見した(NHKプレミアムシネマ)。黒い雨とは、放射性物質を含んだ雨という意味だ。原爆の爆風で地上から舞い上がった土ぼこりが混じて黒い雨になった。

 この機会に、ずいぶん昔に古本屋で買った原作単行本(1966年、新潮社)も読んでみた。映画と比較してみたが、こんな言い方が適切かどうか、わからない。が、

 原作にほぼ忠実にわかりやすくつくり替えてある映画

だと感じた。

 どういう事情からか知らないが、原作は途中から、日記風な作品に変わっている。映画はそのへんをうまくカバーしている。通常の物語、つまり、敗戦から5年後の姪の結婚話を中心にストーリーは展開する。原爆投下の昭和20年8月当時の姪の行動については、姪の被曝日記を、姪が世話になっている叔父夫妻が清書するという手法でフラッシュバックしていた。ベテラン今村監督の腕だろう。わかりやすい。映画はごく一部を除いて原作をほぼ尊重したつくりになっている。

 原作と映画をみて、思ったのは、原爆映画というと、お決まりの

 原爆許すまじ

という肩肘張ったものがほとんどなのに対し、井伏作品は、日常という正常さを起点に原爆の異常性を淡々と描いている点である。

 原爆がいかに異常なことなのかを、日常の正常さから描いている。黒い雨というのも、その文学的な昇華であろう。

 もともとの発表当時の小説タイトルは

 「姪の結婚」

というものだったらしい。それが、連載途中から「黒い雨」に変わった。井伏氏は、原爆というものの恐ろしさを姪の結婚というささやかな日常から描き出そうとしていたことが、これでよくわかる。

 このことを知って、ブログ子は、文学者というのは、すごい仕事をするものだと感心した。

 黒い雨という異常を知るには、姪の結婚という日常のなかにそれを描いてこそ、異常の人間的な意味がわかるというわけだ。

 井伏はそこに文学的な昇華を注ぎ込んだ。とてもじゃないが、ブログ子のようなものごとの表面しかみていないへぼジャーナリストには、到底できない力技だと思う。

 この正常と異常のはざまを、あの元キャンデーズの田中好子が見事に演じていたのには、びっくりした。

 ラストシーン。

 原作も映画もまったく同じ終わり方なのだが、ここに井伏がこの作品に込めた意図が明確に表れていた。

 原作のラストはこうだ。

 「今、もし、向うの山に虹が出たら奇跡が起る。白い虹ではなくて、五彩の虹が出たら(原爆症が発症した姪の)矢須子の病気が治るんだ」

 どうせ叶わぬことと分っていても、(叔父の)重松は(姪がたった今救急車で運ばれていった)向うの山に目を移してそう占った。

 映画では、その向うの山がナレーション(字幕)とともに、クローズアップで映し出されていた。しかし、いつまでたっても、そこには虹は表れてこなかった。

 昭和25年ごろの山間のこの描写こそが、原爆の恐ろしい記憶をいつまでも色あせさせない力を、読むものに、そして観る者に与えていた。

 文学者とはおそろしい職業である。

|

« 猛暑中、団塊世代が『1Q84』を読む | トップページ | 浜松大空襲の体験を語る »

映画・テレビ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/533942/62069423

この記事へのトラックバック一覧です: 日常のなかの異常を描いた『黒い雨』:

« 猛暑中、団塊世代が『1Q84』を読む | トップページ | 浜松大空襲の体験を語る »