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再論 ポスト・ヒューマンの誕生 

Image2121 (2015.07.17)  このブログに「人はどこまで進化するか」というタイトルで人類の未来について書いてから、2カ月たった。レイ・カーツワイルの

 『ポスト・ヒューマン コンピュータが人類の知性を超えるとき』(NHK出版、2007年、原著=2005年)

について書いたもので、知性を超える時、つまりシンギュラリティ(特異点)は2040年代だろうという論考だ。ブログ子もまだ生きていて、そのときを体験できるほどの近未来である。

 ● 未来はそんなに明るいか

 この「人はどこまで進化できるか」という論考に対し、ある読者から、カーツワイル説に反論した最新刊

 『人工知能 人類最悪にして最後の発明』(J.バラット、ダイヤモンド社、2015年)

という本が出版されていると教えられた( 写真= 著者は高名なフリーの米テレビ・プロデューサー )。つまり、カーツワイルのいうように

 AIの未来はそんなに明るいか

というもの。未来は鉄腕アトムのような世界ではなくて、むしろ

 機械が人類を支配する「ターミネーターの世界」

だというのだ。

 Image2196 ターミネーター映画では高度に発達したAIロボットが自らの判断で核戦争を引き起こす。その後、2029年には、人類を奴隷として滅亡に追い込んでいるという想定だ(第一作=1984年。1990年代に第二作、第三作)。

 最新のバラット本でも、その帯に

 2045年、AIは人類を滅ぼす

というキャッチコピーがついていた。似た結論である。

 ● 「ターミネーター 新起動」最新作から

 そんななか、今月に入って、第一作から30年ぶりに、設定はそのままにその後の展開ストーリーを一新したというJ.キャメロン監督の

 ターミネーター 新起動(3D映画)

が公開されている。新起動というからには、従来作とは異なる新趣向があるはずだ。それは何か。とはいえ、まさか、明るい鉄腕アトムの世界に戻るというストーリーではあるまい。

 というので、そのキャメロン監督の発想の変化を知りたくて、わざわざ劇場まで見に出かけた。「アバター」以来久しぶりに、3Dメガネをかけ封切り映画を拝見した(3D料金込みで1400円)。

 この映画は、初回同様、タイムトラベルものに分類される映画である。しかし、その鑑賞のポイントは、

 上記の2著作とどのような関係にあるか、また新視点はあるか

という点だった。第一作から第3作までは、シュワルツネッガー演ずる非情な悪人AIマシンはまったく人間性はない。プログラムされた殺人マシンそのものである。

 これを、今度の映画でどう新起動しているかが見ものであった。

 ● 人間とAIの合体

 結論を先に言えば、

 第一作から30年たったシュワルツネッガー殺人マシンは老マシンに変貌、ロートル化した。が、笑いやユーモアを解するなど人間性のある心を少し持つようになったというもの。

 人間でもない。さりとてプログラムされただけの凶悪乱暴なAIロボットでもない。それら以上である。そんなふうに進化していた。

 あえていえば、やや鉄腕アトムに似た人間AIロボットに変身、というか進化していた

というもの。

 これはつまり、人間とは何か、意識とは何かという問題を提起したカーツワイル説に近い描き方になっていた。あえていえば、

 第一作-第三作           バラット説

 第四作(2015年)新起動  カーツワイル説

という印象だった。つまり、AIロボットも進化し、人間と共存可能になる。もっとわかりやすくいえば、鉄腕アトムの世界と違うのは、互いに生殖可能になり、人間とロボットが合体できるというものだった。この新しい合体から、

 ポスト・ヒューマン

という今の人類とは別の新種が生まれてくるということを想像させる。

 ここにはナノロボット技術が進み、細胞レベルまでにおよんでいるという映画の想定がある。キャメロン監督の独自の結論だろう。

 進化の文化依存性という観点からすると、この映画はあらたな視点を提供している。あながち荒唐無稽な映画ではない。進化論的にも、現代科学技術論的にも一定の合理性があるといえるだろう。

 人間とロボットは、生殖細胞レベルでも共存できる。これがキャメロン新作のメッセージであろう。

 実は、極端なオーバーアクションのためか、映画を見ているときには、この視点は気づかなかったことを正直に書いておきたい。

 ● 未来は決まっていない

 最後にもうひとつ。この映画はタイムトラベル映画であるという側面もある。この観点から言うと、キャメロン監督のもう一つのメッセージとして

 「未来は決まっていない」

というものがあろう。時々刻々、可能性としての未来があるだけであり、確実に起きると決まった未来は存在しない。逆に言えば、人間は、未来を選択できる。

 この考え方は、現代物理学の考え方とも一致している。

 ● 注記 ある読者から

 別の読者からは

 『こうして世界は終わる 2093年』(ナオミ・オレスケス/E.コンウェイ、ダイヤモンド社、2015年)

 今から300年後の視点で、熱波、海面上昇、人口移動、資本の集中、市場の失敗、爆発的な感染パンデミックなどが語られ、警告されているという。

 かくのごとく、丁寧にいろいろとご教示いただける読者がいるというのは、ブログ子としてはなんともありがたい。

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