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2015年7月

南部陽一郎さん死去の反響 

(2015.07.28)  この欄に10日ほどまえ、物理学者の南部陽一郎さんの訃報について

 「紙も鉛筆もいらない」の天才物理学者

というブログを書いた。ブログ子は、福井市出身であり、福井育ちの南部さんに対し、思い入れのある評伝を紹介した。

 ● 福井市在住の読者から

 どこで、どう伝わったか、その内容をみた福井市のある読者から、お便りメールが届いた。

 南部さんは、生まれて間もないころに発生した関東大震災で焼け出され、父親の出身地、福井市に東京から転居してきたこと、現在の福井県立こども歴史文化館(福井市城東)には、南部さんが研究者として長年愛用した黒板、学生時代の直筆ノート、ノーベル賞公式レプリカメダルなどが公開展示されていること

などを知らせてきてくれた。

 とくに、ブログの内容について感想というものはなかったが、南部さんは晩年

 「好きなことに夢中になれ」

と若い人に説いていたという。一度、お知らせいただいたふるさとに建つ文化館を訪ねて、南部さんの人となりにふれてみたいと思った。

 ● ベテラン科学ジャーナリストから

 もう一つの反響として、初任地が福井市だったベテラン科学部記者からもコメントをいただいた。同郷のよしみで書いた評伝というのは、身びいきがどうしても入り込む。だから、ポイントを突いていないことが多い。

 そう心配していたのだが、案の定、このコメントにはブログ子の心配した点を鋭く突いた指摘があった。

 その内容を要約すると

 理論物理の南部さんを尊敬する最大の理由は、対称性の破れという重大な概念を超伝導の物理学者から学んだ、という逸話にある。つまり、やれ素粒子だ、やれ物性だという縄張り意識を持たずに、あるいはとらわれないで好奇心のおもむくまま自然界の原理を見つけ出そうとしていた。このところにこそ科学者の手本があったという思いである

というものだった。

 自然界は人間の都合に合わせて存在などしていない。専門というたこつぼに閉じこもった研究では限界がある。こういう指摘こそ、ジャーナリストなら指摘すべきであったと深くブログ子は反省した。

 実は、上記の最初の反響読者も

 南部さんは好きなことに夢中になれと若い人たちに説いていた

と指摘している。これは単なる言葉だけのことではなかった。自らの人生を振り返ったときの実感だったのだ。 

 身びいき原稿は冷静さを欠き、恐い。

 ● 補遺 中日新聞の南部死去社説

 7月27日付中日新聞第2社説。いろいろなエピソードを交えて、社説に仕上げているのは「評伝」同様、好感できる。南部さんの周辺に詳しい論説委員の筆になることがわかる論説である(中日新聞名古屋本社には科学部がないのになぜこんな社説が書けるのか、ちょっと不思議だが)。

 ただ、難点は主張の「知の探求を続けたい」というのは意味不明であり、ユニークな内容に不似合い。はっきり言えばいかにも陳腐。

 せめて、内容からも言えることだが、

 好きなこと夢中になれ

と出来なかったか。

 (写真のクリックで拡大できる)

Image2204_2 

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「紙も鉛筆もいらない」の天才物理学者

(2015.07.19)  さまざまな分野の10年先の未来を切り開く「物理学の予言者」と言われた南部陽一郎さん(94歳)がなくなった。世界的な理論物理学者であり、7年前にはノーベル物理学賞も受けている。

  Image2200_2 生まれは東京都。だが、戦前、戦後と時代はことなるが青春時代をブログ子同様、福井市内で過ごしたということで、尊敬とともに、なにかと親しみも感じていた(南部さんは旧制福井中学 = 現県立藤島高校出身)。

 一度も直接お会いしたことはない。しかし、それでもいつも気になる存在だった。

 ● 「中日」評伝が、わかりやすくベスト

 そんな関係で、7月18日付朝刊各紙の南部さん「評伝」を読んだ。各紙、大筋では似たような書き方であり、評価だった。物理学の予言者、物理学の巨人という見出しが多い。

 もちろん、それで一応は当たっているのだが、何かもう少し物足りないというのがブログ子の感想だった。

 ともかく、一般読者にとって理解しやすいという意味で、出来のよいものから順位をつけてみた。

 記者の体験を交えた「中日」が1位(注記参照)。評伝の見出しも「10年先見通す「予言者」」とわかりやすい。2位が優等生らしいバランスのとれた「朝日」。

 意外な出来だったのが、3位の「日経」。

 見出しは常識的だったが、中身では「日本人が生んだ最高の物理学者。湯川秀樹先生や朝永振一郎先生よりもすごいと思う」と湯川さんの弟子だったノーベル賞の益川敏英さんの正直な印象をそのままズバリ、引用している。さらに「ノーベル賞を2、3回取ってもおかしくなかった」とこれまたノーベル賞の小柴昌俊さんのコメントも引用している。

 わかりやすい表現である。説得力もある。ブログ子もこの評価は正鵠を射ていると思う。

 第4位は、物理学の巨人とした「読売」。具体的な業績を上げてバランスよく解説している。しかし、一般読者にはその解説内容はチンプンカンプンだろう。せっかくの評伝がいくぶん無味乾燥になった。正確ではあるが、一般読者には理解しにくい評伝だった。

 むずかしいことを、核心をつかんでわかりやすく解説する。これが記者の腕の見せ所という観点から少し辛い点数になったかもしれない。

 しっかりした科学記者、科学担当の論説委員/編集委員の多い毎日新聞には期待した。のだが、ブログ最後にその評伝を掲載しておくので、その出来についてはブログ読者自身にお任せしたい。

 ● ブログ子の南部「評伝」

 これらの評伝を少し物足りないと書いたが、それではお前は南部さんに対してどういう評価をするのか、言ってみろといわれそうだ。

 一晩考えたのだが、その結果はこうだ。

 手足が不自由でほとんど動かせない

 「車椅子の天才物理学者」

というのはイギリスの高名なS.ホーキング博士。南部さんは

 手足が不自由でなくても、

 「紙も鉛筆もいらない」という天才物理学者

といえる。なにしろ、ある記者が紙と鉛筆でどのようにして(アイディアを)考えているのかと質問。これに対し

 「紙の上で考えるより、数式を頭の中だけで操作、(新しいアイディアを)考えている。そのほうが正確ですから」

と語ったというエピソードが残っている。複雑な理論物理の計算を頭の中だけで処理しているというのだ。理系出身のブログ子だが、これはおどろくべき才能だと断言できる。

 「中日」評伝のサブ見出しには

 不出世の物理学者

とあったが、これを具体的に、かつ一本見出しで表現してみた。

 ● 南部さん「最後の予言」

 そんな不出世の予言者の「最後の予言」を紹介しておく。

 今の現代物理学の基礎理論、つまり素粒子の標準理論が予想する超対称性粒子の存在についてある記者から問われた南部さん、

 「超対称性粒子は存在しないと思う」

と、多くの物理学者の予想とは異なる大胆な確信を公の場で語っている。10年先が見通せる予言者の面目躍如たる発言ではないだろうか。

  こうした粒子の探索はすでにヨーロッパでは始まっている。存在しないということを証明するのは厳密にはむずかしい。しかし、10年ぐらい先には、この確信が正しいのかどうか、その方向性はわかるだろう。

 予言が当たっていれば、大統一理論への新たな道が模索されることになる。それとも、意外な方向から示唆を得て、今の標準理論が完成するのだろうか。

 それはともかく、南部陽一郎さんのご冥福を祈りたい。

  ● 『素粒子の宴』(初版1979年)から

 この最後の予言に関して、おもしろいのは、対称性の自発的破れや研究哲学などを語った南部陽一郎インタビュー『素粒子の宴』(工作舎、1979年。上記写真は2008年発行の新装版)。南部さんはインタビューにこうこたえている。

 「(物質というのは)本当に究極的なものがあるかどうか私は疑問ですねえ。」「現在知られているもの、それだけで世界観を閉じてしまう考え方はきらいなんです。世界はどこまでいっても無限に前進する螺旋構造で、経験的に言ってもそうなっている。」(いずれも同書p149)

 35年も前の発言だが、現在の標準理論がほぼ確立した時期のものだけに気になる。標準理論の螺旋構造の「次」とも考えられる超対称性粒子は存在しない、つまり行き止まりだという最後の予言とは整合性は取れていないからだ。

 それとも、この最後のメッセージは、素粒子は「点」ではないという弦理論の創始者としての深遠なる予言なのであろうか。

 このほか、南部さんのすごいところは、こんな発言もしていることだ。

 「ハイゼンベルグの立てた理論はあまりにもおそまつだった。新しいことは何も予言できなかったし、いままでに知られている現象をすべてひとつの方程式で説明できるんだと主張したけれど、結局全部失敗した。彼のやったことは手品にすぎません。ひとつの方程式で、と言いながら、そこには根本的原理などなかったし、美しさもなかった。」(同書p173)

 いかにも「物理学の予言者」らしい堂々たる主張である。

 ただ、

「(素)粒子がいくつも発見されて、それがいろいろな質量を持っていること、これがいまの私の最大の疑問」(同書p172)

としながらも、「それをいったいどう解決するか」については、ついに何も予言することなくこの世を去ったのは惜しまれる。

 これについてブログ子の感想をひとこと言えば、最大の関心事なのに、ついに予言できなかったこと自体、いまの標準理論がかかえる根本的な問題点を鋭く突いているのではないかと思う。

 このことと、予想される超対称性粒子が存在しないという予言とは矛盾しない。

 ● 「評伝」クリップ 

 以下の写真(= 2015年7月18日付「毎日」朝刊)、ダブルクリックで拡大できる。

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 ● 7月18日付「中日」評伝(社会面)

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再論 ポスト・ヒューマンの誕生 

Image2121 (2015.07.17)  このブログに「人はどこまで進化するか」というタイトルで人類の未来について書いてから、2カ月たった。レイ・カーツワイルの

 『ポスト・ヒューマン コンピュータが人類の知性を超えるとき』(NHK出版、2007年、原著=2005年)

について書いたもので、知性を超える時、つまりシンギュラリティ(特異点)は2040年代だろうという論考だ。ブログ子もまだ生きていて、そのときを体験できるほどの近未来である。

 ● 未来はそんなに明るいか

 この「人はどこまで進化できるか」という論考に対し、ある読者から、カーツワイル説に反論した最新刊

 『人工知能 人類最悪にして最後の発明』(J.バラット、ダイヤモンド社、2015年)

という本が出版されていると教えられた( 写真= 著者は高名なフリーの米テレビ・プロデューサー )。つまり、カーツワイルのいうように

 AIの未来はそんなに明るいか

というもの。未来は鉄腕アトムのような世界ではなくて、むしろ

 機械が人類を支配する「ターミネーターの世界」

だというのだ。

 Image2196 ターミネーター映画では高度に発達したAIロボットが自らの判断で核戦争を引き起こす。その後、2029年には、人類を奴隷として滅亡に追い込んでいるという想定だ(第一作=1984年。1990年代に第二作、第三作)。

 最新のバラット本でも、その帯に

 2045年、AIは人類を滅ぼす

というキャッチコピーがついていた。似た結論である。

 ● 「ターミネーター 新起動」最新作から

 そんななか、今月に入って、第一作から30年ぶりに、設定はそのままにその後の展開ストーリーを一新したというJ.キャメロン監督の

 ターミネーター 新起動(3D映画)

が公開されている。新起動というからには、従来作とは異なる新趣向があるはずだ。それは何か。とはいえ、まさか、明るい鉄腕アトムの世界に戻るというストーリーではあるまい。

 というので、そのキャメロン監督の発想の変化を知りたくて、わざわざ劇場まで見に出かけた。「アバター」以来久しぶりに、3Dメガネをかけ封切り映画を拝見した(3D料金込みで1400円)。

 この映画は、初回同様、タイムトラベルものに分類される映画である。しかし、その鑑賞のポイントは、

 上記の2著作とどのような関係にあるか、また新視点はあるか

という点だった。第一作から第3作までは、シュワルツネッガー演ずる非情な悪人AIマシンはまったく人間性はない。プログラムされた殺人マシンそのものである。

 これを、今度の映画でどう新起動しているかが見ものであった。

 ● 人間とAIの合体

 結論を先に言えば、

 第一作から30年たったシュワルツネッガー殺人マシンは老マシンに変貌、ロートル化した。が、笑いやユーモアを解するなど人間性のある心を少し持つようになったというもの。

 人間でもない。さりとてプログラムされただけの凶悪乱暴なAIロボットでもない。それら以上である。そんなふうに進化していた。

 あえていえば、やや鉄腕アトムに似た人間AIロボットに変身、というか進化していた

というもの。

 これはつまり、人間とは何か、意識とは何かという問題を提起したカーツワイル説に近い描き方になっていた。あえていえば、

 第一作-第三作           バラット説

 第四作(2015年)新起動  カーツワイル説

という印象だった。つまり、AIロボットも進化し、人間と共存可能になる。もっとわかりやすくいえば、鉄腕アトムの世界と違うのは、互いに生殖可能になり、人間とロボットが合体できるというものだった。この新しい合体から、

 ポスト・ヒューマン

という今の人類とは別の新種が生まれてくるということを想像させる。

 ここにはナノロボット技術が進み、細胞レベルまでにおよんでいるという映画の想定がある。キャメロン監督の独自の結論だろう。

 進化の文化依存性という観点からすると、この映画はあらたな視点を提供している。あながち荒唐無稽な映画ではない。進化論的にも、現代科学技術論的にも一定の合理性があるといえるだろう。

 人間とロボットは、生殖細胞レベルでも共存できる。これがキャメロン新作のメッセージであろう。

 実は、極端なオーバーアクションのためか、映画を見ているときには、この視点は気づかなかったことを正直に書いておきたい。

 ● 未来は決まっていない

 最後にもうひとつ。この映画はタイムトラベル映画であるという側面もある。この観点から言うと、キャメロン監督のもう一つのメッセージとして

 「未来は決まっていない」

というものがあろう。時々刻々、可能性としての未来があるだけであり、確実に起きると決まった未来は存在しない。逆に言えば、人間は、未来を選択できる。

 この考え方は、現代物理学の考え方とも一致している。

 ● 注記 ある読者から

 別の読者からは

 『こうして世界は終わる 2093年』(ナオミ・オレスケス/E.コンウェイ、ダイヤモンド社、2015年)

 今から300年後の視点で、熱波、海面上昇、人口移動、資本の集中、市場の失敗、爆発的な感染パンデミックなどが語られ、警告されているという。

 かくのごとく、丁寧にいろいろとご教示いただける読者がいるというのは、ブログ子としてはなんともありがたい。

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ニセの人生を歩まされた男 渥美清残酷論

(2015.07.15)  俳優とは因果な商売とはいうものの、なくなった後も自由にさせてはもらえなかった残酷さを知って、渥美清ほど悲劇的な俳優も珍しいのではないかと思った。死後にも衆人環視のなかで聖人化させられ、むしろ食い物にされた俳優といってもいいかもしれない。

 こうなると、生前、渥美清が戦前の狂人俳人とも言われた尾崎放哉(ほうさい)に傾倒したのもわかる気がする。放哉の「咳しても一人」の境地になりたかったのだろう。

 国民的な俳優の悲劇というには、あまりに非人間的な人生だった。なにしろ、数十年にわたってニセの人生を歩まされ、死後も無理やり聖人というイメージを振りまかされた人間の哀れさは筆舌につくしがたい。

 ● 追悼映画「虹をつかむ男」

 それというのも、最近、山田洋次監督の渥美清追悼映画、

 「虹をつかむ男」(主演=西田敏行、1996年)

をBSフジでみたからだ。渥美清を聖人化したこの映画の最後には、

 「この映画を敬愛する渥美清さんにささげる」

と表示されている。ある意味、これほど渥美清を侮辱した映画も珍しい。

 生前の国民的な人気シリーズ「男はつらいよ」は50作近くにのぼった。みんなあんなふうに美女とともに自由気ままな人生を送れたらという憧れの存在。それが寅さんであり、それを演じたのが渥美清である。しかし、最初はもちろん、当たり映画であり、有頂天になったことは間違いない。しかし、シリーズの半分、20作前後から、

 「もううんざり、まっぴら」

と思ったことは、間違いない。予定調和的なハッピーエンドのいかがわしさにうんざりした。こんな体制擁護の映画に吐き気や嫌悪感を覚え、放埓な放哉の世界に入ろうとした。

 しかし、もはやわがままは許されない。周囲はイメージダウンを恐れる。あまつさえ、なくなってもなお追悼映画に寅さんとして〝出演〟させられた。大衆のあこがれの存在、虹をつかんだ男として。

 いくら渥美清が突然なくなったからといって、また制作にドタバタがあったからといって、こんな「虹をつかむ男」の映画を死んだその年につくる。なんて、監督のその器用な才能は認めるが、そしていくらゼニカネの渡世だからとはいえ、ちょっと信じがたい芸当だ。

 ● 死してなおの残酷さ

 見終わって、誤解かもしれないが、死んだ俳優になおムチを加えることをやめない山田洋次という監督。なんと残酷な男なのかと思った。一生、俳優にニセの、仮想の世界を歩ませたのだ。

 ただ、見方を変えれば、映画監督というのは、かように残酷でなければつとまらない商売なのかもしれない。

 渥美清も

 「渥美清はつらいよ」

と晩年、苦しみ続けたであろう。

 これは、晩年自身のかかえたがんという病苦よりも辛いことだったろう。

 せめてあの世だけは、寅さんに、自由に放哉の世界に浸らせてやりたい。

 そして、寅さん映画をまともに一作も見なかったことに、ブログ子は誇りを持った。なくなってまもなく20年、きっと渥美清、こと田所康雄もこのことについては喜んでくれているだろう。

  ● 米コメディ映画「トゥルーマン・ショウ」 

 このブログを書いた直後、ある映画ファンから、感想として

 まるで「トゥルーマン・ショウ」のような人生だったのですねえ

というのが届いた。1998年というから渥美さんがなくなって2年後に公開された映画。だが、どんな映画か、ブログ子はその内容を知らない。

 そのファンによると、ある平凡なアメリカ人がある島で生活している。小さいときからのその生活はすべて隠しカメラを通し生テレビ放送で世界に配信されているという衆人環視の設定。彼以外の人たちはすべてショウを支える俳優。しかし、いつしか、自分の人生はおかしいと気づく。そして、その虚構の世界を決意、島抜けするというものだ。そして意外な結末が最後に待っているというものらしい。

 渥美清は、映画出演期間の晩年数十年間、自分の実生活についてその自宅の所在を含めて監督などスタッフにも極端に秘密にしていた。

 渥美さんは、この映画を見たわけではないが、本能的に虚構の生活に反発していたのだろう。映画と違って、渥美さんは死ぬまで、いや、なくなってからも、映画の虚構から抜け出せなかったのは、異常なまでの残酷さと言えるだろう。

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目で見えない情報を見る JR切符の場合

(2015.07.15)  先月末ごろ、Eテレ「2355}というミニ番組を見ていたら、見えない情報を見るというのをやっていた。

 Imgp7901_2 JR切符を改札口にある読み取り機に通すと、瞬時にその切符記載の情報を読み取る。機械は表面に書かれている文字を読み取っているわけではない。コードを読み取っている。

 そんなことは、誰でも知っているし、しらなくてもたぶんそうだろうと想像している。

 しかし、その想像は本当か、というわけだ。

  それが、簡単な方法でわかる。

 切符の裏の黒い部分に、乾燥剤(脱酸素剤、酸素吸収剤)をふりかければいいという。そんな薬剤はどこにあるか。それはインスタントコーヒーなどに入っている乾燥剤である。

 Imgp7897_2 写真のようにその黒い粉のような中身を取り出し、使い古しの切符の裏に振りかけてみた。

 切符の裏に、今までなかったなにやら3本の帯が浮かび上がった。その帯のなかには、規則正しくバーがずらりと並んでいる。しかし、写真のように、ところどころにそれとは異なる太いバーコードが浮かび上がった。

 これが、目には見えなかった情報の正体なのだ。機械はこれを読み取っている。

 Imgp7899 なぜ浮かび上がったか、その仕組みを知ることは大事だ。しかし、もっと大事なのは、世の中には、そして身近な生活のなかに、見えない情報が埋め込まれているのだということを体験することではないか。

 つまり、見えないというところにも情報は存在する。とすれば、人間の五感には感じない、見えないところにも、情報は存在するはずたということになる。

 ● 情報とは何か

 さらには人間以外のほかの動物には、きっと人間にはわからない情報を巧みに使っているのだろう。人間の知りえる情報は、情報全体からすればまだまだわずかであることを、この切符の縞模様は教えてくれているような気がする。

 つまり、この目でみたものしか信じないというのは、あまりにも科学的ではない。

 切符の裏の浮かび上がったバーコードを見ながら、つくづくそう思った。

 情報とは何だろうか、ということに思いを馳せさせるミニ番組だった。

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「納豆にハチミツ」で熱々朝ごはん 

(2015.07.14)  先日、NHK夜7時のニュースを見ていたら、番組の最後に「納豆の日」にちなんだ街ネタ

 Imgp7971 納豆にハチミツ

という話題を取り上げていた。食べ放題のサラダバーならぬ

 納豆バー

である。納豆をさまざまなたれで味わう。そのなかにこのハチミツたれで楽しむというのがあって、納豆歴40年以上のブログ子は、びっくりしてしまった。

 なにしろ、若い人たちが

 「とてもうまい、おいしい」

と長々と糸を引くハチミツ納豆を味わっていたのだ。

 ● 実際に味わってみる

 ニュース映像からは東京のちょっとオシャレなお店のようだったが、どこかということは、わからなかった。たぶん、納豆県、茨城の納豆メーカーの東京店ではないか。東京・銀座1丁目には、「茨城マルシェ」というのもあるらしいから、そこかもしれない。

 ともかく、その翌日の朝、ブログ子も、

 ハチミツ納豆の熱々ごはん

を恐る恐る味わってみた。写真がそれである。

 結果は、どうも、あまりおいしくは感じなかった。確かに、糸引きが普段よりは長くなったが、シニアにはあわないように思う。

 ただ、納豆バーが、ブログ子の暮らす浜松にもあったら、確かに納豆好きだから、やみつきになりそうだ。

 そして、そこで納豆談義を楽しみたいとは思う。

 糸引き納豆は、どうやら日本独自の伝統食として発達したらしい。のだから、これくらいの誇りとゆとりを持ちたいものだ。

 ひさしぶりで、ニュースにおどろかされた。

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軍監直政、敵ト聞テ只居ラレルモノカ

Imgp7909 (2015.07.08) 徳川家康がなくなって、今年でちょうど400年ということで、ブログ子の暮らす浜松などの東海地方では

 家康公400年祭

が趣向をこらして、去年あたりからあちこちでにぎやかに開かれている。そんななか、先日、家康の、いわゆる四天王のひとり、

 戦国武将、井伊直政

に関する講演会が、直政の菩提寺、龍譚寺(りょうたんじ)のある浜松市北区で開かれた(写真上)。井伊家とか井伊氏といえば、今の滋賀県の彦根藩を思い出す。しかし、それは直政やその嫡男(次男)、直孝が出世し、大名になった後の話。もともとは、浜松市北区の浜名湖北岸井伊谷あたりの出らしい。だから、井伊家は滋賀県の大名というよりも、浜松市が〝本家〟というわけだ。

 講演は、家康の出身地、愛知県岡崎市で長年家康研究に従事し、現在は同市で歴史教室を主宰する市橋章男氏。

 ブログ子の関心事は、そんな二人がどういう経緯で出会ったか、ということ。

 Imgp7920 家康は、1568-69年にかけて岡崎から井伊谷を経由、浜松城というルートで遠州侵攻を成功させる。井伊谷城には直政の父親で城主、井伊直親がおり、どうやら反今川派としてこの侵攻を積極的に支援したらしい。直親はその後、今川方に殺されてしまう。家康も、その後、信玄との三方ヶ原合戦(1572年)で大敗する。そんな殺伐としたなか、やがて3年後の1575年、浜松城(曳馬城)から井伊谷あたりに鷹狩にきていた家康は、わずか15歳の直政と出会う。

 このとき直政は、井伊家の衰亡のなか、井伊家の嫡男ではあるもののすでに他家の養子になっていた。しかし、出会いでの名乗りは井伊万千代。遠州侵攻が首尾よく成功したのも直政の手引きその他の功績である。そう考えた家康は、このとき直政をただちに取り立て、井伊家再興を督励したという。

 それから9年後、秀吉軍に圧勝した家康の小牧・長久手の戦いで

 「先鋒の将として、赤備え隊を率いて参戦、武功をあげる。」(下記の著作年表)

 このように二人の出会いは、偶然であった。

 しかし、これが直政を一国人から戦国大名にスピード出世させる出発点となった(講演会で販売されていた著作(左上の写真)に基づき経緯を要約)。この著作は、

 井伊直政の生涯とその時代背景 家康との関連年表から

といった内容になっており、おもしろい。この著作の著者(編集者)は龍譚寺の前住職、武藤全裕氏= 写真下は講演会場で親しい参加者と言葉を交わす様子)。

 こうした出会いもおもしろいのだが、講演やこの著作からは直政の

 肉声

まではなかなか聞こえてこなかった。

 Imgp7916 ただ、一つ、著作年表には、家康とともに出陣した関ヶ原の合戦での肉声エピソードが載っている。

 戦うことを義務付けられていない軍監だったが、敵中突破で敗走する島津義弘大将に対し、

 「敵ト聞テ只居ラレルモノカ」

とばかり、軍監だというのも忘れ、自ら猛追撃したという(同著作より)。直政の行動の勇猛果敢さを物語るものだろう。

 そのほか、この著作には、こうした肉声ではないものの直政の生き方をほうふつさせる事跡が多く並べられている。

 たとえば、直政の嫡男、直孝もこの直政の性格を受け継いだのか、直政がなくなってから12年後の

 大坂冬の陣

では、

 「直孝率いる井伊隊、(大坂)城南の「真田出丸」に対峙、直孝、軍令に反し攻撃し、多大の犠牲を出す。」

とこの年表にある。

 年表をみていると、仮にこれが直政だったら、どうだったろうかと想像してしまう。

 おそらく、嫡男、直孝と同様、自慢の赤備え隊は、先陣を切っていたのではないか。そうなれば、秀吉方の真田軍をずいぶんと苦しめたことであろう。

 ひょっとすると、翌年の夏の陣はなかったかもしれないとさえ、思った。

  以下の写真は、講演した市橋章男氏= 講演会パンフより。

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むのたけじの無念 - やめる潔さより戦争の〝遅すぎた真実〟報道こそ

(2015.06.30)  100歳のジャーナリスト、むのたけじさんの講演会が開かれるというので、浜松市から硲伊之助美術館(はざま、加賀市吸坂)に梅雨空のなか先日出かけた。

Imgp7860  タイトルは

 戦争と人間と文化

で、人類がいま直面している根本の問題は何か、私たちはそれをどのように解決するか、その判断について話すという(写真=硲伊之助美術館、6月27日)。

 ● 戦争と人間と文化

 長年、新聞業界にいたブログ子のカンでは、講演会のタイトルに

 何々と何々

とつけられた話にはしっかりしたものは少ない。本人もよくわかっていないことを、その場かぎりの無責任な内容が多い。

 ましてや、今回のタイトルには、

 何々と何々と何々

というように「と」が二つもあるのだから、失礼な話だが、老人の寝言だろうと想像した。落語の三題ばなしのたぐいかもしれない。

 しかし、それでも、戦後、ほそぼそと30年間もタブロイド版新聞「週刊たいまつ」を発行し続けた男の矜持は残っているはずだ。要領のいいいまどきのエリート記者にありがちな与太話とは考えにくい。これが1980年代の3年間、大阪のタブロイド夕刊紙で記者修行したブログ子のもう一つのカンだった。

 どっちに転がるかはわからない。が、

 Imgp7863 この講演会にはきっと何かがある

とふんで、出かけた。

 「感謝」という言葉から始まったその自由闊達な話し振りや、初恋の思い出話に及んだあたりまでは、元気な大声に感心しながらも、やはり落語の三題ばなしかと失望しかけていた。のだが、最後にきてアッとおどろいた。

 タイトルの三つの言葉、戦争、人間、文化というのはただ横に並んでいるのではないことに気づいた。話の「起」、「承」、「転」という論理展開のキーワードに相当しているのだ。

 そして「結」に向かう。

 その「結」に説得力を持たせる事例として、自身の無念と、いかにも謙虚なジャーナリストらしい執念の「ラストメッセージ」があった。

 飾らずざっくばらんではあるが、よく練られた一貫性と具体性のある構成になっている

 どんな一貫性と具体性なのか、結論に当たる無念のラストメッセージ=人間の誇りと責任とはどういうことか。

 それを以下に、語ってみたい。

 ● 考え抜かれた起承転結の構成

 むのさんが生まれたのは、第一次世界大戦がヨーロッパで始まった翌年、1915年。それから生きた100年は、2度にわたる大戦の世紀と重なる。2度目の大戦では、20代青春の真っ只なか、自らも従軍記者として大陸の戦場にも出かけている。

 Imgp7870 だから、むのさんの戦後70年というのは、平和の時代ではない。第三次大戦がまた起きるのではないか。そうなれば原爆・水爆が確実に使われるであろうという恐怖と不安の時代だった。

 戦争を知らない団塊の世代のブログ子などは、のんきで、まさかそれは考えすぎだととかく考えがちだ。無知の恐ろしさである。しかし、むのさんのように2度も大戦を知り、自ら体験もしている世代からすれば、3度あると考えるのが、よほど自然であろう。

 むのさんの生涯にとって戦争とは身近な存在であり、決して遠い過ぎ去った他人事ではない。だから、講演でも真っ先にその実態を話したのだと思う。講演のタイトルの最初に「戦争」とつけたのも偶然ではない。戦争が心の中にこびりついている。しかも3度目の大戦こそ、人類最後の滅亡戦争になるだろう。そんな焦燥感が講演から伝わってきた。

 つまり、むのさんは自分の戦争体験を、話の起承転結の「起」に持ってきた。

 普通のジャーナリストなら、たとえば、ブログ子なら、

 だから、今、国会で審議中の安保法制案の是非

というホットな話題に移り、「承」として講演を進めるところだ。

 ところが、むのさんは、そういう安っぽい進行はしなかった。

 代わりに、

 人間の、人類の見地から過去、現在、未来を考えることが今は大事

という話を始めた。人間の歴史は戦争の歴史であり、戦争と戦争の合間に少しだけ休息の平和があった。そんなことを言う人も多い。しかし、果たしてそれは本当だろうかという問題の立て方だ。

 タイトルに書かれていた人間という言葉が、実は話の「承」にあたる構成になっている。当初は、そんな話はうろんだと思った。

 講演では、むのさん自身、ジャーナリストなのに考古学(人類学)の勉強を怠ってきたことを、悔いていたのが印象的だった。これではいいジャーナリストにはなれないというわけだ。

 なぜか。

 700万年という人類の歴史(あるいは進化)を「もう一度学び直してみる」と、そのほとんどでは、人間同士の戦争などという野蛮なものはなかった。むしろ、生きるために家族同士、「助け合う」「感謝しあう」歴史だった。これこそが何度も、何度も訪れてきた厳しい氷河期をなんとか生きのびてきた人類(今の現生人類)の姿だった。

 「そうじゃないですか」

と、むのさんの大声が会場にとどろく。

 地球規模で戦争に明け暮れるようになったのは、せいぜい数百年、いや、この100年だろうといいたかったのだろう。

 このことを、むのさんは講演中「そうじゃないですか」と大声で何度も繰り返していた。

 ● 数万年さかのぼる芸術文化

 そして起承転結の「転」。これが、講演タイトルに書かれている「文化」である。

 戦争と文化

とがどのように結びつくのか、ブログ子は講演前にはわからなかった。

 むのさんは、人間が文化を持つようになったのは「およそ5万年前」と話していた。ブログ子も、最後の氷河期が終わりはじめる今から数万年前ごろから、ヨーロッパ洞窟壁画など芸術や文化があちこちで広がっていった。石器など道具づくりも文化だが、このころから宗教などの精神文化、みごとな芸術文化が急速に広まっていく。ほかの動物にはない現象である。

 このころの世界各地にある洞窟に書かれた絵画は、どれもみなおどろくほど見事な出来栄えである。そして、どこかしらそこには祈りがある。あきらかに文化とは、祈りとはこういうものだという神聖さがそこから今でも伝わってくる。

 文化とは、精神を耕す祈り

であり、

 「助け合う、敬いあう、学びあう」

なかから始まる。文化は生きるすべとして、心を耕すすべとして次の世代に受け継がれていく。

 つまり、むのさんの言いたいことは、

 連綿と受け継ぎ、耕してきた「文化」にもっと感謝する心こそ

といっているのだ。戦争はその感謝する営みを破壊する。憎しみを生み出す。人類700万年の歴史にはそんな破壊はほとんどなかった。現状こそ異常なのだといいたいのだろう。

 これはなにも美術館での講演だからというわけではない、むのさんの本音だろう。文化というものを数万年前にさかのぼって具体的に考古学的に論じているからだ。

 そして、

 「もう一度、(戦争と人間の関係という)問題を自分自身引き戻して考えよう」

と訴えている。

 その上で、起承転結の最後「結」へと向かう。

 問題を自分に引き戻すとは、700万年の人間の歴史と、数万年続く文化という大きな見地から、かけがえのない自分という人間を考えることである。そこから生きるすべの文化を築いてきた人間であるという誇りが生まれる。その誇りが中身のある本物となるためには、生きた時代の歴史に一人一人がきちんと責任を持つ、あるいは果たすことであるということが自然と出てくる。

 ブログ子は、むのさんの話をそんな風に受け止めた。

 こういう論法は、視野が現在にしかないただのジャーナリストにはとうていとりえない。伊達に年はとっていないと感じた。

 またしても

 「そうじゃないですか」

というむのさんの大声が会場に響いた。

 ● 会場からの質問にこたえて

 これは、具体的にどういうことだろうと思っていたとき、会場からこんな質問が出た。趣旨は

 「先の戦争の敗戦で、むのさんは決然と新聞社を退社されたが、どんな思いだったか」

という内容だ。

 この返答がすごかった。

 「いち早く会社を辞めたが、今はこれを誇りとは思っていない。これではケジメにはならない。終戦3日前の8月12日に敗戦を記者として知った。のに、なぜこのことをいち早く国民に知らせなかったのか。敗戦直後でも、遅すぎたとはいえ戦争の真実を国民になぜ伝えようとしなかったのか。まず(ジャーナリストとして)やるべきことはこれであり、会社を辞める(という個人的な)ことではなかった。(ケジメをつけるというのなら)まずは伝えることだ」(発言趣旨の要約)

 自分という人間に誇りと責任を持つというのは、

 (こんな退社するという)「中途半端は一番ダメ」で「やるなら、(残って)命がけでやる」

ことだと断じた。

 再び、

 「そうじゃないですか」

という大声が聞こえてきたように思えた。 

 ● ラストメッセージ「誇りと責任を持つ」

 20世紀以来の「戦争と人間」の問題については、文化を持つ人間として決然たる誇りと(その上に立った)責任を持ち、果たさなければならない。人類700万年の歴史において、そのほとんどの時代には戦争はなかった。

 これこそ今の根本問題を論じた講演の「結」であり、戦争の世紀を生きたジャーナリスト歴80年の、しかも自らを振り返った無念のラストメッセージであろう。

 このことを単刀直入に訴えたいがために、わざわざ講演タイトルに「と」を二つも並べたのだ。

 ブログ子なりの解釈を少しだけ加えるとすれば

  「ジャーナリストよ、今こそ汝自身を知れ」

ということだ。ブログ子もジャーナリストとしてこれには忸怩たる思いもあり、とくに身にこたえた。 

 最後に、むのさんは、

 誇りを持ち責任を果たす努力をした上で、

 「人間、最後はニコニコ笑って死にたい」

とユーモラスに締めくくった。 

 人間、むののもうひとつの「ラストメッセージ」と言っていいだろう。

  ● 補遺 2015年8月12日記

 報道の過ち 繰り返すな むのたけじ 中日新聞 =

 「20150804m203000000030100.pdf」をダウンロード  

 ● スナップ写真

 講演冒頭であいさつをする硲伊之助美術館長の硲紘一さん(上)。

 しめくくりのお礼をのべる九谷吸坂窯上絵師、海部公子さん(下)。海部さんの左脇に小さく写っているのは、むのさんに付き添ったご子息。

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