« 2015年5月 | トップページ | 2015年7月 »

2015年6月

なぜ実名にしなかったのか 『絶歌』に絶句 

(2015.06.30)  このごろ、20年近くも前に神戸で起きた

 連続児童殺害事件

のことがニュースで取り上げられている。いまごろなんだろうと思っていたら、その犯人だった中学生、いわゆる「少年A」が最近、事件について手記を出版したというのだ。忌まわしい過去は忘れたいのが人情なのに、名乗り出て、堂々と、というか赤裸々に事件について話すというのにはよほどの勇気がいると感心した。

 ところが、手記『絶歌』の著者は実名ではなく、

 元少年A

だと聞いて、あきれて絶句してしまった。あまりにひどい。

 その理由は以下の通り。

 ● 覚悟と誠実さのない出版

 第一。

 加害者にも、しでかした事件について出版する「表現の自由」はある。ただし、それには、10年ほど前に制定された犯罪被害者等基本法が言うように

 「国民は、犯罪被害者らの名誉または生活の平穏を害することのないよう十分配慮する」(同法6条)

という努力義務が伴う。この義務を果たす担保としては、無責任な元少年Aではなく、実名で書くという覚悟が要る。それがない。

 第二の理由。

 加害者がかかわった事件について出版するに当たっては、被害者の関係者に

 内容についての了解まではとらないとしても、事前に意見を求める

という誠実さが要る。今回のように出版された手記がいきなり、遺族のもとに謹呈本でもあるかのように届けられるというのは異常である。これまた基本法6条を踏みにじるものである。

 今回の出版はこうした覚悟も誠実さもない。 その意味で、今、30代になった元少年Aの著者は、今も幼稚な「少年A」なのが残念だ。大人になりきれていない。つまり、かわいいのは自分だけなのだ。

  かつて少年法の恩恵をたっぷりと受けた少年A。今度は憲法の「表現の自由」の恩恵をこれまたたっぷりと受け、人生を歩んでいる。人間のクズの浅ましさだろう。

 (書かないことで)ぼくは、ぼくでなくなる、と本の表紙に書いている。今回、書いたことで、元少年Aだったこの本の著者はかつての幼稚な少年Aに戻ってしまった。

 このことは、せっかくの更正教育も失敗だったことを意味する。

 ● 出版社にも問題

 出版社の責任についても、これでは言いたくはないが、浅ましい

 「やらずぶったくり」のゼニもうけ出版

といわれても仕方がない。表現の自由を担う出版社として実名にするよう説得したり、社会的に意義のある内容にするなどの努力をしただろうかと、その対応に不信感を持つ。

 このままでは、人によっては「表現の自由」の乱用と非難するだろう。口の悪い人などは、

 食い逃げ出版

というかもしれない。出版社としても経営が苦しいので、背に腹はかえられないのだろう。たとえそうではないとしても、またどんなにりっぱなことが書かれているとしても、ブログ子は読む気がしない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

急げ、急げ。憲法はこうして誕生した   - 佐藤達夫の最も長い昭和21年3月4日

(2015.06.24)  最近の国会での安保法制審議をめぐっては、これほど憲法がクローズアップされたのも珍しい。憲法がとても身近になった。

 Image2191 具体的な法案を目の前にしているだけに、立憲主義とか、憲法に基づかない非立憲主義とかいう専門用語も自然に理解できた。安倍政権は、今の憲法の枠組みをはみ出し、時の政権が国の枠組みを自由に決めることができるとする非立憲主義の政治を目指しているという専門家の説明も納得できた。

 その意味で違憲性がとても強い安保法制をごり押ししようとしている安倍政権に感謝しなければならない。

 そこで、そもそも今の憲法はどのようにして制定されてきたのか、ということが気になりだした。ずいぶん昔に古本屋で買った

 『史録 日本国憲法』(児島襄、文藝春秋、1972)

を読んで見た( 写真 )。また、買ったものの中身をきちんと読んでいなかった

 『帝國憲法改正案委員小委員会速記録』(帝國議会衆議院、衆議院事務局、1995)

も読んでみた(写真)。昭和21年6月、帝國議会に帝國憲法の改正案として提出された新しい憲法案について、まず最初に委員会審議に先立って秘密会で審議された小委員会の速記録である。秘密会の委員は森戸達夫など14人(委員長は芦田均)。

 この秘密会には政府委員として、内閣の法制局次長だった佐藤達夫が出席している。

 憲法の微温的な松本政府案、主権在民、戦争放棄などを盛り込んだ過激なGHQ案、そのGHQ案の政府修正案、その挙句の徹夜仕事でバタバタと皇居端のGHQの一室で取り組んだ共同修正案、帝國議会提出の政府原案づくりなど生々しい現場を自らも当事者として見つめてきた法制官僚である。

 そのバタバタの徹夜1夜仕事でわが国の戦後の「国のかたち」を官僚として決めざるを得なかった佐藤達夫の心中はいかばかりだったろう。

 速記録にはその雰囲気はまったく伝わってこなかった。しかし、児島の著作では生々しく伝わってきた。

 一言で言えば、突然訪れた思いもしなかった狂気の一夜であり、

 生涯で最も長い日

だったろうと推察できた。その日とは、

 昭和21年3月4日から5日にかけての30時間

だった。わずか30時間で戦後日本の「この国のかたち」が決まったのだ。

 このバタバタとことを急いだ背景には、3月7日に正式に、日本の今後をどうするのかということの基本を決定できる連合国の極東委員会が設立されるというGHQ側ののっぴきならない焦りの事情があった。そんなうるさいことになる前に、憲法の概要をさっさと決めておきたいというマッカーサーの思惑があったらしい。

 読み終えて、ふと思った。

 だから、今の憲法をやめて、新しい自主憲法をつくらなければならない

という感慨には、およそ至らなかった。

 なぜだろう。

 バタバタではあっても、そこには二度と戦争はしてはならないという熱情が、日本政府にもGHQにもあった。今のように、熟議、熟議と言うはけれど、丁寧に説明、丁寧に説明とは言うけれど、その中身の空虚さに幻滅しているからだろう。

  ● 重要補遺

   東大法学部教授「すでに明確な違憲で決着」

 国会で審議中の安保法制案が違憲か合憲かで迷走するなか、東大法学部の石川健治大学院教授(憲法学)が、BSフジ「プライムニュース」に出演、

 「明確な違憲ですでに決着している」

と明言した。2015年6月25日夜の番組である。同番組には、政府法案を擁護する立場から元防衛相の森本敏氏も出演していた。石川教授は、合憲の根拠として砂川最高裁判決の、そのまた補足意見(田中耕太郎長官)を引用するのは(法律論としては)論外であり、とうてい根拠にはなり得ないと断言、この判決を根拠とする政府の合憲説を切り捨てた(石川教授は補足意見をつまみ食いしたとすらいえないほどひどいものとの趣旨の下、政府見解を酷評)。

 番組の最後の提言コーナーでも、石川氏は、念を押すように

 「理 対(Vs) 無理」

と書いて、合憲などという「無理」のごり押しは許されないと強調した。ついに国立大法学部、それも現役の東大教授までが違憲を明言したことで、この安保法制案の違憲性はほぼ確定、決着したといえそうだ。

 こうした発言が、BSフジの情報番組から飛び出すとは思わなかった。出演していた反町理キャスターの〝手柄〟ではないか。

 ● 参考 

 『平和憲法の深層』(古関彰一、ちくま新書、2015)

 一般に、制定を急いでいた当時のGHQは独自のGHQ案を有無を言わさず一方的に日本政府に突きつけ、押し付けたといわれている。しかし、この著作は、そのもととなったのは、当時の民間日本人の手になった憲法草案(いわゆる憲法研究会案)であり、それをベースに手を加えたものであると説いている。

  映像メディアでは、象徴天皇と戦争放棄の二部構成の

 「憲法はまだか」(NHKの大型ドラマ、1996年秋放送)

がある。憲法公布50周年記念ドラマで、脚本はジェームス三木。秘密会の小委員会議事録が秘密解除になったことを受けた時期の作品。松本丞治国務相役を津川雅彦が演じている。

 この小説化としてジェームス三木は

 『憲法はまだか』(角川書店、2002)

を書き下ろしている。

  児島さんの史録が日本政府側(松本国務相)から憲法成立の経緯を書いているのに対し、この小説は、GHQ側からその歴史の裏舞台を描いている。

 マッカーサーは日本に急かした。

 「憲法はまだか」

というのがタイトルの意味だろう。GHQに急かされて出来上がった憲法という視点である。 

 さらに、民間側の視点から描いた作品に、憲法学者、鈴木安蔵を中心とした憲法研究会を軸にした単館独立系映画

 「日本の青空」(大澤豊監督、2007年)

がある。憲法施行60周年の映画で、当時の民間研究会のリーダー、高野岩三郎役を加藤剛が演じている。

 こうした戦後の憲法成立史を、明治10年代の帝國憲法の成立過程の模索と決着を論じた

 『明治憲法史論・序説』(小林昭三、成文堂、1982)

と比較してみると、おもしろい。ともに外圧が憲法づくりの原因となっている。また保守と革新という当事者たちの社会的な立場の違いからくる対立と、同じ立場でも個々人の保身をかけた思惑と葛藤という構図の点では類似している。内発的な変革はむずかしいことがわかる。

 この意味では、今、安倍内閣が成立を目指す安保法制案は現行憲法の枠をはみ出すものであるのに、法律の必要性や正当性を具体的に裏付ける立法事実が存在しない、つまり外圧に基づくものではないという点で、法律論としても、歴史的経緯の点からしても異質である。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ウォール街のラブ・コメディ        -  新自由主義の正体

(2015.06.24)  2008年に起きたリーマンショックをテーマにした史上最強のマネー・エンターテインメントとうたった

 「キャピタリズム マネーは踊る」(M.ムーア監督、2009)

Imgp784420150621 をある小さな勉強会で見た。原題は

 キャピタリズム あるラブストーリー

だった。

 見た感想を言えば、原題のほうが内容とよくマッチしている。異常なまでにお金を愛するウォール街の人たちを、毒舌を通り越し、皮肉たっぷり、ユーモアたっぷりに描いているからだ。

 監督が言わんとすることは、

 マネーは踊る、されど誰も罰せられず。これこそが歯止めなき新自由主義の正体だ。この事態を「21世紀の資本」は乗越えられるか。このままじゃ、とても無理でしょう

というものだ。

 ● M.ウェーバーの言葉

 100年前にドイツの社会学者、マックス・ウェーバーが、資本主義はどこから生まれてきたのかということを分析した

 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

が有名だ。資本主義の精神はキリスト教の教えからであり、その倫理というのは、勤勉と合理精神に伴う禁欲である。

 それなのに100年後の現代において、プロテスタント的な倫理が、いったいどうして非人間的なお金がすべてという強欲資本主義の精神を生み出す結果になってしまったのか

というのが、正直な感想だった。

 ましてやプロテスタントのなかでもひときわ禁欲的なピューリタンの国、アメリカがなぜこんなに、歯止めのない金、金、金という欲望の世界にのめり込んでいってしまったのかというのが、とても不思議である。

 倫理観が資本主義の精神を培ったと分析して見せたマックス・ウェーバーが生きていたならば、これに対し、なんとこたえるだろう。

 ● 金融王、モルガンの言葉

 そう思っていた矢先先日、同じテーマで、BSプレミアムが、

 リーマンショック 欲望が招いた破たん

というのを放送していた。こちらのほうはラブストーリーという洗練された手法ではなく、ストレート物語である。投資銀行、リーマン・ブラザーズの内情にポイントを絞り、論理明解に話を進めていた。

 2000年代前半、アメリカでは住宅ローンを組むことのできる法的規制条件がドンドン緩和された。その結果、ローン債権のリスクがドンドン高まっていく。その様子が、ドンドン下がるリーマン投資銀行株価の動きなどを通し具体的に描かれていた。そんな危ない債権をむしろ買いあさって、ハイリスク/ハイリターンで収益を上げようと賭けに出て、リーマン投資銀行は破たんした。

 そんなストーリーなのだが、リーマン社員のボーナス・給与は自社株で支払われたから、破たんの影響は株を売り抜けなかった社員にとっては計り知れない。一夜にして文無しということもあったという。

 そんなストーリーだから、面白みはなかった。のだが、最後のエンディングが秀逸、というか、事件の核心を突いていた。

 引用されたのは、100年前のアメリカの金融王、J.P.モルガン(モルガン財閥の創始者)の言葉で、

 「人は、隣人がいとも簡単にお金をもうけているのを見ると、つい理性を失い、そこに潜んでいるリスクを忘れてしまう」

 人間の抗いがたいこの情動こそ、プロテスタンティズムのけいけんな経済倫理をなんなく打ち砕いてしまったのだ。

 新自由主義のあやうさの正体は、ウェーバー同様、

 リスクを考慮するという理性よりも人間心理の情動のほうが強力だということを見落としていること

だ。抑えがたい情動には合理精神は存在しない。これが歯止めなき新自由主義のあやうさである。

 リーマンショックの教訓とは、歯止めのない金融資本主義は社会を崩壊の淵に立たせることを示したことだろう。

 ● 「21世紀の資本」とは

 もっとわかりやすく言えば、ウォール街の人たちは、サブプライムローンというリスクの大きい、いわば

 毒入りワイン

を飲み続けたのだ。酔いがまわり始めてもなお、またそれが毒入りだと理性ではわかっていてもなお、その心地よい酔いがリスクを忘れさせ、さらに飲み続けることになった。

 「21世紀の資本」は、社会が崩壊しないためには何をすればいいのだろう。それはわからない。しかし、何をしてはいけないのか、この映画とテレビドキュメンタリーは、表現手法は異なってはいたものの、ともに同じことを語っているようにみえた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

動く秒針まである家康のゼンマイ洋時計

Imgp7821_32015.06.24)  日本で使われた最古の機械時計というのは、久能山東照宮博物館(静岡市)に保存されている

 家康の洋時計(1584年、ベルギー・フランドル製)

である(製作者=ハンス・デ・エバロ)。1611年、スペイン国王が晩年の家康に贈ったものらしい。

 時計の日(6月10日)を前に、出来上がったばかりのその精巧な複製品がブログ子の近所にある浜松市博物館に展示されている。というので、散歩がてら先日拝見しに出かけた。

 ● 浜松市博物館にその複製品

 館内には、写真のように家康の「しかみ像」の近くに展示されていた(写真右)。そこに添えられた説明は、至極あっさりしている。のだが、よくよく、このレプリカを見ていて、おどろくべきことを〝発見〟した。

 本物にもあるのだが、複製品に、時針と分針のほか、なんと、真正面の文字盤の中心に小さくはあるが、

 動く秒針

まであった(写真)。動くことは、このブログに写った写真のいずれも秒針の位置が異なることからもわかるだろう。

Imgp782845_3  もしや、と思って、秒針が2回転するまでの時間を計ったら、きっちり2分だった。1回転が1分と正確に機能している。そこでふと気づいた。時針も分針も正確なのだ。

 この写真を撮ったのは、夕方の4時ちょうどくらいから4時20分くらいの間。写真をみるとわかるように、時針も分針もほぼ正確に動作し、時を刻んでいる。つまり、時計をカメラで撮った時刻がほぼ正確にその文字盤に写っている。

 これはどういうことだろう。

 今から430年も前に制作されたゼンマイ時計が、こんなに正確に時を刻むことができるはずはない。この時計が製作された前年の1583年、振り子の等時性がガリレオによって発見された。それが秒単位という精度の高い振り子時計として実用化するのはほぼ100年後の1650年代以降。ましてや秒単位で時の刻みを一定に保つには精度のよくないゼンマイ仕掛けの家康時計ではできないはずだ。

 そんなこんなで、博物館の学芸員にこの疑問をただしてみた。こうだった。

 Imgp7835416_2 今から考えると無意味に思える。しかし、今と同様に1日24時間、時間の刻みは時針で、分の刻みは分針で行う。1分=60秒という基本的な考え方を、そのままゼンマイ動力源と、複雑に組み合わされた歯車だけで実現しようとしたのではないかという。

 つまり、1秒を60回刻むと1分、その1分を60回繰り返すと1時間。その1時間が24回歯車で数えればちょうど1日が終わるように歯車群の組み合わせをうまくセットするというわけだ。

 職人魂が秒を刻む秒針歯車まで製作させた。そして、その精巧さ誇ろうとしたのであろう。

 ここで種明かし。

 それにしてもブログ子は展示複製品の今も正確に1秒、1秒を刻む精巧さにおどろいたのだが、実は、これ

 複製したのは外観だけで、中身の歯車群は複製していない。中身は今日の電波時計でそっくり代用、電波時計の出力をそのまま復元した文字盤に伝えているだけ

という説明を学芸員から聞いて、またびっくり。この複製時計、ゼンマイでは動いていないのだ。つまり、中身は電波時計。

 それにしても、秒針、分針、時針が400年以上たってもうまく連動して文字盤上に時を告げているところはやはり、感心せざるを得ない。

 ( 注記 2015年10月21日、修理されたこの国宝時計とともにNHK番組に出演した久能山東照宮の宮司の説明によると、文字盤中央のごく小さな針は、目覚ましの時刻をセットするためのものだという。秒針、分針という話はどうやら見当違いらしい )

 ● 当時は不定時法で実用性はなかった

 もうひとつ、贈られた家康はこの時計を手元に置いて大切にした。というのだが、実は当時の日本は当時のヨーロッパのような定時法ではない。したがって同じ日でも夜と昼とで1時間の長さが異なる。また、同じ昼でも夏と冬とで、つまり季節の違いで1時間の長さが異なる。

 だから、家康も床の間の飾りとして重宝したらしい。定時法を前提につくられたこの時計は日本に適した実用時計としては使われなかった( 補遺 )。

 じつは、このことが幸いした。というのは、実用としては使わなかったので外観、中身が製作された当時のまま保存されることになった。実用品として使っていた場合には、故障したら当然、部品を入れ替え、修理する。当時高価な実用品だったヨーロッパではこのため製作当時の中身のまま残っている時計は極めて珍しいという。

 数年前の大英博物館の専門家の鑑定でも、「極めて貴重」との結果が出ている。

 ● なるか、国宝

 このそっくり残ったという僥倖が

 家康の洋時計を国宝指定に

という運動を生んだといえよう。ここ数年、この時計の世界史的な貴重さから、文化庁あたりでも国宝指定の動きが本格化しているらしい。

 そんなことに思いを馳せた博物館への小雨模様の散歩だった。

 以下の写真は、晩年の家康が愛用したとされる目器(めがね、レンズも復元したレプリカ)。贈られた洋式時計のとなりに展示されている(久能山東照宮博物館にあるレンズのない本物は重文)。

  このメガネ、ふと思ったのだが、今の眼鏡のような耳にかける部分がない。こちらのほうは、実用品であるはずだからどのようにして使ったのだろうという素朴な疑問がわいた。そうした説明がないのはいかにも不親切だと思った。不明というのであれば「実際の利用法は不明」と書くべきだった。

 Imgp7825

 ● 注記

 家康の洋式時計の詳細については、久能山東照宮の落合偉洲宮司による

 『家康公の時計』(2013年、平凡社)

という著作がある。大英博物館の専門家による詳しい調査と鑑定の様子も詳しく書かれている。

  ● 補遺 不定時法の腕時計

 独立時計師の菊野昌宏さんは、2015年の時計国際見本市(バーゼル)で

 不定時法時計「和時計改」

を発表している。しかも、おどろくべきことにコンパクトな腕時計である。昼と夜、また季節が変わるごとに12個ある時針文字の間隔が変化する。つまり、普通の腕時計とは違って、この時計は今、夜なのか昼なのか、また季節はどうなのか、ちゃんと知っているのだ。デジタル時計ならいざ知らず、歯車だけの組み合わせでどうコンパクトに実現させるか、その秘密を、きっと菊野さんは江戸の時計職人から学んだのだろう。

 分針の12個の刻みは等間隔(区切りだけで文字の表示はない)。秒針はない。動力源はゼンマイ。

 お値段は1800万円らしいのだが、これだったら、家康も実用性があるので腕にはめたであろう。セイコーは製品化の段階で協力しているという。

 なお、参考までに、このバーゼル国際時計見本市2015(3月開催)のほかの出品作品については、

 取材班を派遣した「週刊ダイヤモンド」(2015年7月11日号に、

 新作腕時計図鑑

として、100点近い腕時計が紹介されている。数十万円から1億円を超える

 リシャール・ミル社のトゥールビヨン「フルール」

までをカラーで紹介している。5分置きに文字盤にある花びらが開閉するというスイス製芸術品。この時計、2015年秋には、30台限定で発売されるらしい。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

雨にもめげず シニアのリヤカー日本一周

Imgp7800_2 (2015.06.16)  ブログ子も60代に入って、ときどき、ひざ関節痛に悩まされている。医師にすすめられたせいもあるが、減ったり衰えたりした筋肉を鍛えるため、自宅近くの小さな湖、佐鳴湖(浜松市)を週2回ほどウオーキングするように心掛けている。

 一周が7キロほどなのだが、とても一度に一周するのは無理。ときどき一周してみる。しかし翌日はひざ痛で、それがまたなかなか回復しない。

 そんな折、現役時代でも滅多に読まなかった日経新聞(6月12日付)が、試読紙として無料で郵便受けに入っていた。くず入れに入れようとして、ふと終面「文化」欄を見ると、

 日本再発見、リヤカーの旅

   海岸沿い歩き15年で一周

という70代前半の男性の寄稿記事にびっくりしてしまった。本州一周6500キロ、北海道・四国・九州それぞれ一周して計7000キロ。荷物60キロをのせたリヤカーを引いて合計13500キロを、雨にも風にもめげず歩き通したというのだ。一日平均30キロのペースだったらしい。

 ● 脳血栓で入院治療がきっかけ

 これは佐鳴湖一周の2000回分にあたると気づいて、あらためてすごいと思った。しかも、この男性、ブログ子より7、8歳年上なのだから、余計にその感を強くした。

 しかも、一周しようという決意のきっかけが、脳血栓の疑いから入院治療と、その後のリハビリで歩き始めたことだったというから、おもしろい。

 50代で隠居し、20年ぐらいかけて日本で初めて本格的な測量技術による精密な日本地図をつくった200年前の伊能忠敬にも刺激された。伊能もまた地図作成で、50代、60代を通じて全国の海岸線約2万キロを測量しながら歩いた。

 そんなこんなで男性はこの一周旅を思い立ったらしい。

 30代の頑健な人、たとえば、日本百名山ひと筆歩き約7800キロを半年くらいで走破した田中陽希さんがいる。昨年2014年にBS放送「グレートトラバース」番組で話題になった。がしかし、体調や体力、病気に何がしかの不安のあるシニアがここまでできるとは、思いもしなかった。

 ● 毎月、佐鳴湖一周誓う

 この男性、80歳までに今度は自転車でも挑戦したいとその夢を語っている。

 つくづく佐鳴湖一周ぐらいで、もたもた、ぐずぐず言っているようでは、この男性に笑われるだろう。そして、次のように思った。

 努力する人は、いつも夢を語る。

 怠けているひとは、いつも不満をならべる。

 同じ人といっても、かほどに違う。

 ブログ子はどちらのグループに入るのか、試読紙として配られた無料のこの日経新聞「文化」欄を読みながら大いに反省した。

 毎月1回、佐鳴湖の一周を心掛けたい。そう誓った一日だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「人にも起きているとは限らない」の怪   - しのびよる低線量の内部被ばく

Imgp7752_2 (2015.06.09)  福島原発の近くに生息する野生の生き物が放射能汚染で、この4年間どのくらい内部被ばくしているか。

 その実態と健康への影響について、科学者たち4人それぞれの追跡調査の様子が、先日、NHK総合テレビでドキュメンタリー番組として放送された。調査対象となった生き物はコイやヤマメのほか、ウグイス、そしてより人間に近い牛だった。

  コイには、コイと長年付き合ってきた当の専門家でさえめったに出合わないような異常な痕跡が体内に見つかった。コイの免疫機構だけでは処理しきれないくらいの細胞死があったことをうかがわせる(右写真=ダブルクリックで拡大)。

 Imgp7762 別の専門家のウグイス調査では、体表に異常な〝おでき〟も発見された。汚染地に放し飼いされていた牛からも内科的な異常をうかがえさせるデータも得られている。

 この番組は東北地方ではすでに1月に放送されていた。のだが、今回、あらためて全国向けにも放送された。

 ● 人間の安全側に立つ

 今回の調査のポイントは、科学者たちがその分野の専門家としてそれぞれの生き物の通常の、したがって正常な姿を熟知しているという点である。その上で、これはおかしいと直感した。これが大事な点である。

 拝見したブログ子の感想と結論は次の通りである。

 これらの生き物たちは、等しく、

 等閑視されがちな低線量被ばくは、人の将来の健康への脅威であり、その対策については今すぐにも乗り出すべきである

と警告を発しているのではないかというものだった。

 以下は、この結論に関するコメント-。

  番組を見て、まず思ったのは、こうした異変が「人間にも起きるとは限らない」として低線量被ばくの人への影響を過小評価し、あるいは退けようとする姿勢は本当に正しい対処なのだろうかということだった。

 その上で言うのだが、今回のいずれの生き物の結果についても自然な解釈として「人間にも同じようなことが起きている」とするのが素直である。「起きているとは限らない」という解釈と結びつけるには相当の無理がある。

 なぜなら「起きているとは限らない」ことを示唆する調査結果が、別個の生き物について、しかも独立して調査した4人の研究者のいずれからも、得られていないからだ。少なくとも「限らない」という近接例を明示する挙証責任があろう。

 Imgp7759 ただ、自然な解釈ではあっても断定まではできない。そういう野外調査の限界というべきか、難しさを考えると、

 疑わしきは人間の安全側に立つ

というのが真っ当な行動の原則であろう。疑わしきは「黒」とまではいえないかもしれない。ものの、決して「白」ではない。あくまでも灰色。それを「白」といいくるめるのは、ためにする論理だといわれても仕方があるまい。

 1960年代、水俣病の被害が急速に拡大したのは、〝奇病〟と原因物質のメチル水銀との間の医学的な因果関係が明確ではないことを理由に、あるいはそれを盾にして対策を先延ばしし、放置したことである。灰色は白だと強弁したことに等しい。そのにがい失敗をまた福島で繰り返してはならない。

 ● 細胞膜の化学的で、効率的な破壊  

 それと、もうひとつ、今回のアプローチとは逆に、少し窮屈だが、人間側からのアプローチが国外にあることだ。人間への長期間にわたる低線量被ばくの脅威については、国際的な健康被害報告書

 チェルノブイリ事故から25年

 未来のための安全 ウクライナ政府報告 

がある(2011年4月)。報告書は、汚染地域で、甲状腺がんだけでなく、心筋梗塞など血管の病気が子供たちにすら多発している実態を詳細な診断データをもとに明らかにしている。

 報告書によると、大雑把な目安だが、年間で10mSv( =毎時数μSv 、健康目安は年間1mSv)ではっきりと健康被害がでている。今回の放送の調査地でも、大雑把だが、毎時数μSv = 年間換算で約10mSv、と同程度だった。当然ながら、とても、長期に滞在できる状況ではない。

 これら2つのアプローチを総合すると、冒頭述べたように、今回の生き物調査で起きていたことは、人間の将来の健康への影響を強く警告していると受け止めるのが整合性のある判断といえるだろう。

 この点について、もう少し踏み込むと、高レベル放射線は危険だが、

 低線量は安全だ

というのは、思い込み、ないし希望的な観測であり、神話の可能性もある。思い込みというのは細胞核内のDNA破壊を前提としているから起きたものであろう。がんに限らず、たとえば慢性疾患も視野に入れるのが正しい対応だと思う。

 とすれば、むしろ逆に、

 低線量では細胞膜の破壊がより効率的に起きる

という可能性もあり得る。事実、その具体的なプロセスを指摘している文献もある( ペトカウ効果、注記 )。

 この意味で、人をも含めた生物について、低線量被ばくの長期にわたる実態の調査がぜひとも必要といえる。

 とともに、たとえ困難が伴うことがあるとしても、低線量による人の健康への影響ないし被害の起きるメカニズムを具体的に突き止めることも非常に重要である。

 「だからといって、人にもそんな異常が起きているとは限らない」

という論理にここからも風穴を開けたい。この論理が低線量の問題解決にとって大きな妨げになっていると思う。

 目に見えないものにも論理が行き届く。それが科学的というものだろう。

 ● 比較対照のコイを求む

 Imgp7749 まだまだ道半ばの以上のような話をすると、これは福島県だけの問題のように考えがちだ。今回、コイの調査を通じ、その組織が相当にダメージを受けている可能性をとらえた鈴木譲東大名誉教授( 写真 )は、さらに調査に説得力を持たせるために、

 福島の汚染コイと比較対照できる非汚染地帯のコイの提供

を全国に呼びかけている。いまどき、

 放ったらかしのため池にエサも与えられずにたくましく生息しているコイの提供

というのはなかなかむずかしい注文かもしれない。このブログを見た読者で、そんなため池をご存知の方があれば、ぜひ鈴木譲氏と連絡をとって、協力をしてほしい(yuzuru.suzuki@xui.biglobe.ne.jp)。

 ( 写真はいずれも、6月7日放送の同番組テレビ画面から )

 ● ペトカウ効果とは

 低レベル放射線の生物学的な影響、とくにペトカウ効果については、グロイブ/スターングラスによる

 『人間と環境への低レベル放射能の脅威』(あけび書房、2011年)

という労作がある(翻訳は肥田舜太郎/竹野内真理)。

  生殖系の細胞核内のDNAを破壊する高レベル放射線は遺伝との関係で深刻である。その分、細胞内の化学反応によって細胞膜を破壊するとされる低線量被ばくはとかく軽視しがちになる。しかし遺伝には結びつかないものの、その被ばく本人の健康への影響は決して無視できないだろう。このことを、この著作は詳細なデータをもとにできるだけ具体的に警鐘を鳴らしている。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

もはや「科学者の自由な楽園」はない

Imgp7748_2  (2015.06.03)  新聞社で科学や技術担当の論説委員を長くやっていたときには、

 謹呈 著者

というしおりの入った献本を、科学者からよくいただいた。高齢者になった今では、そういう機会は滅多にない。そんななか、先日、世界的にも高名な理論物理学者、佐藤文隆さんから

 『科学者には世界がこう見える』(青土社、2014年)

というのをいただいた(写真右)。同社の月刊誌「現代思想」に1年以上にわたって連載したものを中心に一冊にまとめている。佐藤さんの近著『科学と人間』をすでに読んでいたので、その続きが読めるとあって、ありがたかった。

 ただ、この本は専門家によって書かれているせいか、いわずもがなだとばかりの省略があり、それがつながりや論理の展開をわかりづらくしている部分が多々ある。また文章表現上でも意味のとりにくいところが散見される。たとえば、一つの文章に二つのことが書かれていて、しかもその間が「だが、」でつながっていて因果関係をあいまいにしているなど。極端な場合、否定しているのか、肯定しているのかが、前後をよく読まないと不分明というところも少なくない。

 しかし、言わんとしていることはおおむね正鵠を射ているように思う。

 だから、2回読み返し、以下の結論を得た。

 ● 一歩社会に踏み込む 

 本の「帯び」には

 「スリリングにして極上、身近だけど奥深い、科学の世界へようこそ」

として、「そこには、普段私たちが見ている世界とはまったく違った光景が広がっていた」

 さらには

 「科学に絶対はない」

とも書かれている。なんとか読者をひきつけようという編集者の苦心のあとがうかがえるキャッチコピーである。だが、

 著者が本当に主張したかったのは、

 まったく違った光景の話そのものではなく、そこから考察し、一歩社会のほうに踏み込めば、もっと科学者にできることがあるじゃないかということ

ではなかったか。

 つまり、普段私たちが見ている世界とはまったく違った光景が科学者の目のなかに広がっているという今の日本の垣根状況を、科学者はただ傍観しているだけで果たしていいのだろうかという問題提起の書だと思う。その場合の光景事例として第1から第12章までを具体的に並べた。この本はむしろ自分と同じ科学者仲間に向けたメッセージととらえてもいいくらいなのだ。

 そのメッセージをひとことで言えば、

 1990年代後半以降の科学技術創造立国、日本には、もはや科学者ののびのびとした「自由な楽園」などは存在しない

ということだろう(「科学者の自由な楽園」という表現は、戦前の理化学研究所に数年間在籍した物理学者、朝永振一郎さんの当時の理研の雰囲気を評した言い方 注記参照)。もう少し佐藤さんの言いたかったことを補えば、科学者は他人任せの科学に安住しないで、もっと積極的に社会に目を向ける。かつてのマッハ主義の役割を果たそうということではないか。自由な楽園という上から目線の守りの考え方が今の科学者に科学のあるべき姿として依然として根強く残っていることを危惧している。

 このことは1990年代後半、アメリカでも起きている。楽園が奪われるという危機感をもった科学者からのいじわるな社会科学者攻撃、誤解の多いいわゆる「サイエンス・ウォーズ」を引き起こしたというわけだろう。

 ● 民主主義に寄り添って

 ではどうすればいいか。

 この本の結論的な章ともいえるのが

 第15章 科学と民主主義

なのだが、佐藤さんは、こう書いている。

 「ここで筆者(佐藤)は、科学を何か独自の目標を持つものと考えるよりは、民主主義に寄り添って社会変革の一端を担うハートの運動だと考えたい。民主主義自体にも固定した姿はないが、個々人の研鑽、努力、自助、自由などを掲げる理想主義だと考える。教育の場面での科学がより大きな役割を担うべきだろう。(科学界にいる自分たちの)「何かを守る」のではなく(社会のなかに)「何かを創り出す」ことが科学的なのである。」

 これはまさに、冷戦下という異常な状況で論じられた

 物理学者、C.P.スノーの「二つの文化」(いわゆるリード講演)

の現代版あるいは再考察なのではないかとさえ思えてくる。理系と文系の対話の断絶を解消するためイギリス教育制度の抜本改革を提唱し、1960年代に世界的な論争になった。

 こう考えると、佐藤さんが自著『科学と人間 科学が社会にできること』(2013年)で学校教育について多くを語っているのもうなずける。

 ● 科学ジャーナリズムの不在痛感

 Imgp7747_2 以上が、ブログ子の読後感である。

 佐藤さんは、第15章の最後に、合理主義一辺倒への反発から

 「公衆と科学の関係は、科学を科学研究界の内部に閉じ込めて、そこが放出する知識やプロダクトを単に(公衆が)消費する(だけの)姿に萎縮した」

との見方を提示している。その上で、この関係を抜け出し、広い意味の科学を構築するには

 四つの科学

の活性化が必要だとして、左上写真のような図を示している。

 左上角に「純粋科学」とその下角に「科学技術」。右上角に自然観などの「ワールドビュー」、右下に「社会インフラ」の図の中側に広い意味の科学がある。科学者は右側については今ほとんど語らない「お任せ科学」になっているというわけだ。

 長方形の中の「広い意味の科学」全体を活性化させるには、右側のワールドビューとか、社会インフラの活性化が必要だとしている。

 成果を踏まえた科学者側からの接近と、社会の側からの大きな問いかけの相互対話の必要性を述べたものであろう。

 ここまで、考えてきて、はたと気づいた。

 この図の右側から左側への働きかけは、そもそも

 (科学)ジャーナリストの役割

でもあるはずだ。科学者側だけの問題ではない。

 なぜなら、

 ジャーナリズムとは、

 ① よりよい社会をつくるために、

 ② 同時代に起っているありきたりではない出来事を、

 ③ 批判精神をもって価値判断し、

 ④ その結果をニュースとして、あるいは評論として、

 ⑤ より早く、

 ⑥ より正確に、

 ⑦ より公正に、

 ⑧ 社会に伝えていく、

 ⑨ 言論活動

のことだからだ。このことからもわかるように、ジャーナリズムもまた民主主義とともに生まれ、そして今日まで歩んできた。

 ところが、謹呈された本の第1章から第12章までの事例を読んで、ブログ子もかかわった科学ジャーナリズムのひ弱さを思い知らされた。

 たとえば、第1章(言論力の黄昏か)で、言葉による証拠と論理よりも、行動力ともいうべき身体による表現力のほうが人々には説得力があるようになってきたという指摘。新聞社説がほとんど読まれなくなった原因がここにありそうだと納得した。

 第2章(災害実感力の喪失)では、異常と正常を行き来できる正気がなければ、異常を異常と見抜くことはできないという指摘。起きてから騒ぐだけの科学ジャーナリズムの弱点を鋭く突いている。

 第5章(数字は使い方次第)では、「数字ツールを増やして多様な見方を手に入れたと考えるよりも、数字に身を任せることがあたかも合理的判断であるかのような錯覚に落ち込む可能性もある」との指摘は鋭い。これは、ビッグデータ時代のなかで多様な見方と称してジャーナリズムが安易に提供する分析が、

 自分に都合のいいデータだけを抽出しているのではないか

という根本的な問いかけにもつながる。

  極めつきは、第4章の量子「スーパーポジション」。マスコミの科学報道のレベルの低さを嘆いている。これなどブログ子がこの10数年業界内で嘆いたり指摘したりしてきたことと完全に一致。失礼な話だが、読みながら、無理もないと笑ってしまった。

 ここで科学ジャーナリズムの今の問題点を論ずる余裕はない。が、つづめて言えば、事件記者ばりの特ダネ主義とそこから派生する極度の科学者依存体質である。その結果は、一過性のセンセーショナルジャーナリズムであり、あとは野となれ山となれの尻切れトンボジャーナリズムとなる。

 これを要するに、一息ついたときのトコトン取材がないということである。今ここだけという刹那主義におちいりがちなこの根底には、自律した専門記者を育てにくい独特の短期サイクル人事異動という慣行がある。

 佐藤さんが第4章で語った戸惑いの原因も、ここにあるように思う。

 こう考えてくると、この本は、原発報道がその典型だが、戦後70年、いまだ日本には

 科学ジャーナリズムは不在

とのブログ子のこれまでの主張をより確信させるものとなっている。それだけに読後、忸怩たる思いにさせられた。

 ● 注記 科学者の自由な楽園

 当時の理研の楽園ぶりについて、朝永は『朝永振一郎著作集』(みすず書房、1981)第一巻「鳥獣戯画」のなかで

 科学者の自由な楽園

と題して具体的に語っている。「研究意欲をそそる」という項目では

 「(義務は何もないのに、月給はちゃんとくれることはまことによい)というと、怠け者の言にきこえるかもしれないが、本当はかえってこれほど研究に対する義務心を起こさせ、研究意欲を煽るものはないのである」

と語っている。当時の理研は「(よい)人間を集める好い環境」とも書いている。

最後は、

 「その人間の良心を信頼して全く自主的に自由にやらせてみることだ。よい研究者は、何も外から命令や指示がなくても、何が重要であるかみずから判断できるはずである」

と結んでいる。この文章の初出は1960年。『科学者の自由な楽園』(岩波文庫、2000年)にも所収。

 ● 補遺

 本の中で、とてもゆかいな話は

 雲はなぜ落ちてこないのか

という肩のこらないテーマだったことを正直に書いておきたい。つまり、

 雲のなかで雨粒ができ、それが雨となって降ってくるのに、雲自体はなぜ落ちてこないのか

というわけだ。これとの関連で、

 そもそも雲を浮かべている空気はなぜ落ちてこないのか(投げ上げたボールは落ちてくるのに)。

というのも、おもしろい。

 これには理系出身のブログ子も正答をつかむのにずいぶんてこずった。これらは決して

 雲をつかむような話

などではない。目に見えるものだけではなく、見えないものにも思考が行き届く。わかりやすい例で、科学的とはそういうものだということを具体的に指摘していたのには、ほとほと感心した。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人類はかくして生きのびてきた        - 世界一番紀行

(2013.06.03)  世界一番紀行という3日続きのプレミアムアーカイブス番組を拝見した。この5、6年の間にシリーズとして1年おきぐらいに放送されたもの3本をアーカイブスとして早朝に放送したものである。

 ● 最寒地、シベリア・オイミャコン

 番組が最初に訪れたのは、

 人の定住地としては地球でもっとも寒い

 ロシア・オイミャコン(人口900人、シベリアのサハ共和国)。

  冬場の平均気温は氷点下約50度。氷点下約40度にもなるエベレスト山頂、氷点下約30度になる南極よりも寒い「寒極」。記録としてはっきりしているのは氷点下71.2度。

 番組ではこの地を2月上旬に訪れていたが、氷点下53度というものずごさ( 注記1 )。この環境でも、そして加熱しなくても大切な水が常に凍らないように、ドラム缶などに上手に貯蔵されていたのには感心した。

 ● 強力なフェーン現象のアフリカ・ジブチ

 次に訪れたのは、一転、年間の平均気温(毎日の最高気温の年間平均と、毎日の最低気温の年間平均との間でさらに平均を取った値)が、

 34.5度のアフリカ・アファール三角地帯のジブチ。

 ジブチ共和国の首都、ジブチのここは、大雑把に言えばエチオピアの東隣りで、人類最古の骨、たとえば、350万年も前の人骨が何体も出土している海面より低い低盆地(旧フランス領)。今も35万人が生活している。

 番組で訪れたときには真昼間で48度。体温よりも12度も高い。日本の暦で6-9月の乾季には、日中では最高気温が50度になるという。よくこんなところで、人類は焼け死にもせず生き残って、進化してこれたものだとおどろく( 注記2 )。

 ● 富士山より高い90万都市、エルアルト

 最後は、富士山よりも高い4150mの高原に90万人が暮らす大都市

 ボリビア・エルアルト。

 ブログ子が暮らす政令市、浜松市より10万人も多い。気圧は浜松の3分の2程度とかなり薄い。有名なチチカカ湖が近いので水源には困らないのだろうが、それにしてもよくも高山病にならないものだ、とこれまた感心した。

  これは言ってみれば、

 天空都市

である。人類はこんなところにも文明を築いてきたのだ。

 ボリビアの首都、ラパスを見下ろすエルアルトのアルティプラノ高原(4000m級)にはインカ文明以前に栄えていた古代文明ティワナク文明があった。1000年以上の繁栄を誇ったという。高山帯のため樹木はなかったが、高原では今もジャガイモが大量に収穫されており、大人口を支えている。水の確保はチチカカ湖だっただろう。

 4000m級でも人類は100万都市を築いて生きのびることができる。

 これらの地について、まとめて紹介してくれたおかげで、むしろ人類はたくましく生きてきたというすがすがしさを感じた。

 そればかりか、人類、とりわけ現在の人類に直接つながる現生人類は何回も、何回も長期にわたって続いた大氷河期をどのように生きのびてきたのか

というブログ子の疑問も氷解した。照りつける砂漠状態が続いても人類がそう簡単には滅びるものではないというのもうなづけた。

 ● やがて快適な海底都市も

 この世界一番紀行は、

 人類はなぜ生きのびてこれたのか

ということを、生きのびたいという意志さえあるならばという主体性の条件はつくものの、具体的な事実でもって明解に物語ってくれていた。

 このことから、ふと思った。現在の人類はやがて

 海中あるいは水中都市、さらには海底都市

に快適に暮らすときがくるであろうと。そして、それどころか、

 月にだって都市を建設するであろう

と。いや、火星にだって暮らす日が来るだろう。ひょっとすると、ブログ子がまだ生きているうちに。

 進化には遺伝子の突然変異を通じたとてもゆっくりした生物学的な進化の仕方と、人間の拡張としての道具、たとえばこん棒、弓矢、ウェアラブル端末、さらにはマイクロAIロボットの体内組み込みなどを通じた非生物学的で、また主体的かつ急速な進化の二通りの方法があるように思う。

 人類は生物学的な進化では、失敗であり、絶滅に向かっているとの見方がある。しかし、もう一つの文化依存性の進化という知恵を働かす仕組みがある。

 そう考えると、人類の未来が少し明るくなったように感じる。

 意外にも、広い視野で人類について考えさせる番組だったと思う。

 ● 注記1 オイミャコンはなぜこんなに寒い

 簡潔に言えば、北極海という海洋性の暖の気象条件を享受できない、その上内陸性の厳しい寒の気候条件をまともに受けている。さらに、町の標高が高い、さらに言えば、冬季に居座るシベリア大寒気団の真下に位置する-など、悪要件が重なったせいなのだ。

 ● 注記2 ジブチはなぜこんなに暑い

 こちらも簡潔に言えば、もともと赤道に近いこともあるが、インド洋からの大気による三角地帯のフェーン現象のせいであり、もうひとつ、海面より低い盆地状三角地帯のプレートテクトニクス的な原因、つまり火山活動が地下で盛んなせいなのだ。熱水が地下から湧き出ているためそもそも地面が熱水で熱せられているという、点火したコンロ上のフライパン現象がジブチにはある。

| | コメント (0)

ピカソにひかれた日本画家、加山又造    - 新緑の秋野不矩美術館にて

Imgp7707 (2015.06.03)  老人というか、シニアというか、そういう世代になると膝関節が時々痛くなる。ブログ子も例に漏れず医者からは筋肉の衰えを指摘され、これ以上悪くならないために、歩くことを強く勧められている。だから、土日には歩く。近所の毎月一回開かれる佐鳴湖やまちなかノルディック・ウォークにも参加し始めている。

 しかし、たまには歩くだけでなく、楽しみながら歩けないかと思い、わざわざ佐鳴湖のほとりの高台にある自宅から少し遠い浜松市天竜区二俣の秋野不矩美術館にまで出かける。天竜川にかかる鹿島橋をわたり年に2回、コースのほとんどは電車を利用する。

 のだが、美術館の正面玄関までのゆるやかにカーブを描いた上り坂のアプローチを、ブログ子はとても気に入っている( 写真上 )。

 Imgp7705_2 また二俣川にかかる登り口の二俣大橋からの眺めも素晴らしい。晴れた先日土曜日に訪れたときには、新緑のなか学童保育の子供たちが若い母親たちと一緒に多数魚取りの川遊びに来ていた(写真。橋の近くには句碑も)。

 ● キュービズム的発想の「若い白い馬」

  さて、散歩のお目当て、秋野美術館では

 特別展 加山又造展

が開かれていた。「春秋波涛」の絵画で知られているが、よくは知らない。

 今回は

 淡月

というタイトルで、桜の老大木に淡いピンクの花びらが無数に咲き誇っている満開の様子を描いた4曲(たたみ4枚の大きさ)が展示されていた。圧倒的な迫力である。さすがは高名な日本画家だと感心した。日本の伝統的な装飾絵画とはこういうものかと理解できた。

 そんななか、落款(完成したことを示すサイン)もない二枚の初期作品に目がとまった。

 若い白い馬 1950年

 月と縞馬 1954年

である。加山20代の作品。最初期の「若い白い馬」は、あきらかにピカソのキュービズムの影響のあるもので、小屋の前で後ろ足で立ち上がろうとしている瞬間を下から見上げるアングルでとらえている。画面の真正面に前足のひずめが前に突き出されているという大胆な構図にもおどろいた。

 ● シュールな「月と縞馬」にびっくり

 もう一枚のは、縞馬を二匹重ねて描いたもので、垂直に立てた足が不釣合いに細い。しかもなんと、足が14もある。ひづめの数を何度も数えたが、まちがいなく14個あった。

 青白い月というのも

 なんと、球ではなく、とがった正八面体風

なのだ。エジプトのピラミッドの形をしたもの2つを底面同士でくっつけたもの。それなのに、足の多さにしても、月の形にしても、まったく違和感がない。画面の中で安定して存在している。なんだか、錯覚させられているような気分になる。

 一言で言えば、この絵はサルバドール・ダリの絵を見ているような

 シュールな絵

といったらわかりやすいかもしれない。

 そのほか、キュービズムほどではないが、

 紅鶴 ( 1957年)

は、ツルを描いたといっても相当にデフォルメされている。見たものをそのまま描いたものではない。伝統的な日本画では決してみられない作品だろう。こちらも、少しも日本画として違和感がないというのも不思議だった。この絵にも落款はなかった。

 会場にあった年譜をみてみると、

 1952年 (25歳)  ピカソに惹かれ、アンリ・ルソーの絵を好んだ

とあった。絵を志した若き日の加山又造が、キュービズムやシュールリアリズムのほか、あの、若きピカソをも感激させた「下手うま絵画」の不思議な世界、遠近法を無視したようないわば奇想の世界を愛したとは知らなかった。

 ● 「春秋波濤」の革新性

 Imgp7712 下り坂の帰り道、加山の有名な

 春秋波涛 ( 右図 )

も、日本装飾絵画を革新したいという模索の中から生まれたのだと気づいた。装飾画とはいっても、見たものをそのまま美しく配置したものではない。日本的で

 シュールな加山の世界

なのだ。

 実は、秋野不矩もまた、加山と同時代を歩み、革新の模索を続けた同志だったのだろうと思った。

 豪華な散歩が終わろうとしていたころ、ようやく秋野不矩という人物のことが少しわかりかけてきた。彼女の画風は、シュールではないものの、単なる日本の装飾画家でもない。

 写真下は、シュールな散歩を楽しんだこの日、二俣大橋のたもとで見つけた句碑。

Imgp7706

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年5月 | トップページ | 2015年7月 »