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ある理論物理学者の人生          - 『科学と人間』、『科学と幸福』を読む

Image2123 2015.04.30) シニアになってしまえば、大型連休というのもそれほど待ち遠しいものではないのだが、なんだかソワソワと落ち着かない。陽気のせいもあるのだろう。

 それでも、優雅な一日を過ごしたいと、この機会にこの欄((2月26日付「現代こんにちは赤ちゃん物理学」と4月13日付「量子力学90年の今」)でも取り上げた高名な理論物理学者、佐藤文隆さんの肩のこらない著書2冊を読んでみた。

 最近書かれた『科学と人間』(青土社)と、初出が20年近く前の『科学と幸福』(岩波書店)

である( 写真 )。後者は京都大教授時代の1990年代に、前者はその後の甲南大教授時代に書かれたもので、物理学の専門分野を除いた

 科学と社会

について、具体的にであった出来事を通じて自ら信じるところや考え方を述べたものといえるだろう。

 読み終えて、わかったのは

 両書に共通して流れているテーマ、つまり関心事は、

 科学と人間

ということだった。もう少しはっきりといえば、現代物理学という専門分野もふくめて佐藤さんは結局、人間とは何か、人間の存在とは何かということを考え続けていた人生だとわかった。

 以上が、結論なのだが、少しこの結論に至るまでの理由について書いてみたい。

 ● 信念に到達する4つの方法

 まず、わかりやすい事例として、

 『科学と人間』の次のような文章を引用する(p124)。

 プラグマティズムを創始したアメリカの哲学者、チャールズ・「パースは科学を次のように位置づける。一般に疑念から信念に到達する努力には古来四つの方法がある。固執の方法、権威の方法、先天的方法、科学の方法。

 固執の方法とは自分の気にいるものだけで自分の中で信念を固める方法であり、日常よく陥りやすい道である。

 権威の方法とは固執の方法を組織化された集団に拡大し(たもので)、それになびかない異物を攻撃して排除する。これは一時的に確信に向かうが、後に意図的に何かを排除したゆがんだものであることに気づく。

 先天的方法とは1+1=2のような、理の方法で信念を固めるものだが、具体物と理の結び付け方に個人の嗜好が入り、理は当然であっても、それを適用する場面が恣意的にならざるを得ない。

 このような個人の偶然的な気分や、社会の集団ヒステリーの影響や、理の恣意的操作のトリックなどの陥穽を避けるには、チェック機能を人間界の外側に求める必要があり、それが四番目の科学の方法である。(魚津郁夫『プラグマティズムの思想』(ちくま学芸文庫)を参照した)」

 アメリカと比較して日本の理科教育を論じている同書第二章「学校教育での科学」に出てくる一文なのだが、人間というものの陥りやすい弱点を科学という視点から鋭く指摘している。同時に、科学と人間の関係を見事に喝破している。

 物理学を学んだ後、科学ジャーナリズムに論説委員として20年以上携わってきたブログ子なども、この弱点を無自覚にさらけ出してこなかったかと粛然とし、また忸怩たる思いがしたことを正直に書いておきたい。

 ● 科学の進歩、その人間的な限界

 第二に、『科学と幸福』について。

 読んでみてわかったのだが、この本は、表題のタイトルから想像するほどにはやさしくはない。戦前の高名な物理学者だった寺田寅彦を読むようなわけにはいかなかった。

  それでも、1970年代に大学院で物理学を学んでいたブログ子としては、湯川秀樹さんの中間子論「素粒子の相互作用について」(1935)から出発した素粒子論が、現在の標準理論として、一応の大団円を迎えつつある時期でもあり、第二章(ヒゲを生やした電子)がおもしろかった。

 しかし、晩年を迎えていた湯川さん自身にとっては、弟子たちによって成し遂げられたこの大団円というか、結末を、喜ぶどころかある種の失望と困惑を覚えていたらしいという逸話はいかにもありそうで、興味深かった。

 とうのも、ブログ子は、70年代末ごろ和服姿の湯川さんがスミ夫人とともにご自宅近くの糺の森を早朝散歩している姿をよく見かけた。話しかけたり、かけられたりしたこともある。のだが、今思うと、40年以上の研究活動について諦念あるいは挫折感を漂わせていたようにも感じられた。すくなくとも、すがすがしい幸福感の中にはいなかったように思う。

 もっともこの本には真正面から幸福について取り上げた章はない。それでも、幸福論なんて大仰なと思う人もいるだろう。だからか、佐藤さん自身も、あとがきで、表題に何も答えていないではないかとお叱りを受けるかもしれないと、はしがきも含めて、いろいろとゆかいな弁解をしている。余裕だろう。

 しかし、そう硬く考えず、ブログ子は、つぎのようにもっとゆったりと、しかし哲学的に幸福、あるいは科学と、人間の幸福の関係というものを考えてもいいのではないかと、読後感として持った。

 上記の引用にもあるように、人間の疑念を信念に、あるいは確信に導く努力方法にはそれぞれに人間の持つ弱点がある。これに対し、科学の方法というのは、そうした嗜好や思考の歪み、思い込みという弱点を排除するチェック機能を、人間界の外側に求めている。

 しかし、よく考えてみると、これとてもチェック機能としては完全ではない。なぜなら、「人間界の外側」というものを考えているのが、人間の脳であるという事実があるからだ。生物としての人間の脳とは無関係な「人間界の外側」というものは存在しない。

 「人間界の外側」を考えるということは、実は人間の内側、脳を考えることなのだ。

 生物的な人間である限り、その脳の進化段階に応じて科学的な知にはそれぞれに限界が存在する。そこには決して知りえない未知が必ず存在する。

 しかし、科学の進歩には人間的な限界があるということについては、これを別の角度からいうと、いつ人間がこの宇宙に登場しても、それまで知られていなかった未知の世界が、人間の脳が生物的である限り、必ず用意されているということを意味する。

 ブログ子は、それを非常に広い意味で人類の幸福と考えたい。人類の幸福とは、そういう科学知の限界、壁があってこそ感じられるものだと信じる。さきぼとの湯川さんの場合もそうだが、困難はいつの時代も科学を鍛え、人類を幸福に導いてきた。しかし、それは一応の大団円にすぎない。

  困難を克服しようという信念と努力は、その人を含めて人間を幸福にする。ブレイクスルーのみが人類を幸福にするとは限らない。これが、大型連休のゆったりとした幸福気分の中で考えたブログ子の「科学と人間」幸福論である。

 もっともこの論理の展開には、佐藤さんのいう「先天的方法」にあるようなゆがみがあるかもしれないことを付記する。

 ●補遺 経済学と幸福

 科学と幸福というテーマを真正面から取り上げるのはどうかと、気恥ずかしくなるという気分がたいていの理系人間にはある。

 しかし、この点については、大いにまじめに研究すべきテーマであると考えたい。経済学では最近、幸福の経済学というのが盛んであり、一定の成果も得られている。

 詳しくは、2010年5月3日付日経新聞「経済教室」(大竹文雄阪大教授)してほしい。所得が一定水準までは幸福度と正の相関がある、幸福度は経済政策の目標の一つになり得る、政策目標として幸福度だけを使うのは危険である-などがポイントとして紹介されている。 

  補遺2 湯川秀樹の「科学と幸福」 2015年5月11日記

 大型連休中に、湯川秀樹著作集を読んでいたのだが、その第四巻(科学文明と創造性)に

 知性と創造と幸福

というエッセーがある(1955年1月)。湯川さんの「科学と幸福」論である。

要約すると、

 科学の探求が人間の知性を深化させ、その深化への努力が人間の幸福につながる

というものである。これだけではあいまいで何が言いたいのか、あまりピンとはこない。が、この随筆の最後しめくくりがすごいので、そのまま引用する。

 こうである。

 「外なる世界へ向かっての科学の探求の進展が知性の深化によって裏付けられていないなら、新鋭の武器を持った野蛮人ができあがるだけだろう。」

となっている。これが書かれたのは、旧ソ連が世界初の水爆(原爆より強力な水素熱核融合爆弾)の実験に成功(1953年8月)したり、次いでアメリカも初めて水爆実験に成功(第五福竜丸事件の1954年3月)したりした苛烈な冷戦下の1955年1月である。

 湯川さんにとって、科学と人間の幸福というテーマは、切迫した、しかも深刻な課題だったことがわかる。「新鋭の武器をもった野蛮人」というのには、目の前に具体像があり、けっして大げさではなかった。核兵器開発競争の恐怖のなかで書かれていたことを忘れてはなるまい。 

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