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2015年4月

「過剰な演出」とやらせのはざまで

Image2126 (2015.05.01)  NHK番組「クローズアップ現代」(2014年5月14日放送)のやらせ問題について、同局副会長を委員長とするNHK調査委員会は記者会見し、

 「事実の捏造につながるやらせはなかった」

との調査結果を公表した( 写真上 =2015年4月29日付毎日新聞朝刊。写真下= 記者会見の様子。同番組テレビ画面より)。

 ● 「クローズアップ現代」調査報告

  NHKは、事実の捏造につながるやらせの禁止など取材・制作について一定のガイドラインを設けている。

 出家詐欺の実態は存在するとして番組の虚報性、いわゆるでっち上げは否定した。ただし、多重債務者をターゲットにした「出家詐欺」の放送には

 事後の編集段階で「過剰な演出」や、その結果として「視聴者に誤解を与える編集」

があったことは認めた。その上で、現場任せで、組織としてチェック機能が働かなかったことをそれらの原因として挙げた。事実の確認と共有が組織内部で不十分だったというわけだ。

 ● 限りなく「やらせ」に近いのでは

 以上だが、ブログ子は放送予定を変更して当の同番組で放送された調査報告を視聴した(4月28日放送)。が、すっきりはしなかった。内部調査の限界であり、事実上のやらせではないかとの印象を強く持った。

 過剰な演出が生みだした誤報かとも思ったが、NHKによると訂正放送はないということだから、誤報でもないらしい。事実誤認のない範囲での過剰な演出ということなのだろうか。そのかぎりで誠に遺憾であるとして「おわび」や、キャスターの陳謝はあった。公共放送として世間の期待に反し、お騒がせしたということだろう。

 Imgp7509 当事者の一方が、BPO(放送倫理・番組向上機構)に、放送されたことによる人権侵害があったとして訂正放送や是正勧告を申し立てている。ので、第三者機関での判定を待ちたい。当事者がNHKに対し、やらせであると訴えているということは、まんまと陥れられたという意味にもとれ、この点は見逃すべきではない。

 ただ、一般には、やらせとは、取材側で事前に示し合わせている、かつ取材先と馴れ合いがある-ことの2つが成立条件。

 調査報告はいずれも認めなかったが、取材記者が現場に同席していたこと、しかも記者は会話をしている2人と以前から面識があったこと、しかも取材中の会話の途中に誘導と思える介入を行なっていたこと-などを考えると、限りなくやらせに近い。問題は事後の編集段階だけにとどまらない。取材中と事後の編集とが巧妙に連動している可能性がある。

 というか、当事者同士を取材中にたくみに踊らせたのではないかという意味で、かなり悪質なヤラセの可能性もある。もっとはっきりいえば、忙しさと慣れで、ついついという出来心ではない確信犯の可能性がある。

 この背景には、今回のような匿名報道のこわさがある。少し古いが、かつて米ワシントン・ポスト紙上で起きた匿名報道による大虚報「ジミーの世界」事件(1980年)を思い出すべきだろう。せっかくのピュリッアー賞も返上する事態にまで発展した( 補遺2 )。今回の事態も実名報道なら起りえなかったと考えられる。

 まとめると、当事者を巧妙にあやつり、それと気づかれずに取材中に演技をさせたことになったという疑いがぬぐえないのだから、この点をBPOでの聞き取り調査で明らかにするべきだろう。

 ● BPOの調査と勧告を注視

 こうしたことをいうのも、ブログ子自身も、状況が状況ならやりかねないという恐ろしさがそこにあるからだ。

 だれも知らない特ダネをとりたい、アッと世間を驚かすニュースを誰よりも早くスクープしたい、決定的な瞬間をおさえたい- いずれも優秀なジャーナリストとしては当然のことであり、いやしむことではない。

 ただ、それが正確な、あるいは正確と信じるに足る根拠に基づいてなされているのかという点だけが、メディア関係者に問われているのだ。いわんやその結果に人権侵害がからむようでは論外なのだ。

 自戒するとともに、BPOの調査結果と勧告内容を注視したい。

 同時に、BPOも新しい理事長、浜田純一(元東大学長、社会情報学、65歳)氏を迎えたのだから、影の薄い隠居仕事ではなく、積極的にその役割を果たすなど意味のある活動、あるいは存在感のある活動をしてもらいたい。

 ● 総務相「隅から隅まで読んだ」

 免許更新など放送行政を所管する高市早苗総務大臣がこの報告書について、

 ここぞとばかり、

 「隅から隅まで読んだ」

と、恫喝ともいえる意味深長な発言をしている。再発防止策についてさらに具体的な踏み込みが必要だとも注文をつけたらしい。こちらも注視したい。

 ● 調査報告書の全文

 http://www.nhk.or.jp/pr/keiei/cyousaiinkai/pdf/150428_houkokusyo.pdf

  ● 補遺 謝罪と陳謝 その言葉の意味の違い

 こうした問題で、ときどき問題になるややこしい話として、言葉の問題がある。

 陳謝というのは、罪やあやまちはないが、事情を説明してあやまること。

 心残りであるという意味の「遺憾」という表現とほぼ同じ。ここには、罪の意識はない。したがって、あやまれば、それで問題は解決したことになる。

 これに対し、

 謝罪というのは、罪やあやまちを認め、あやまること。 「おわび」と同義語。こちらには罪の意識がある。したがって、謝罪広告あるいは記事訂正、訂正放送が謝罪する側には同時に求められる。

  ● 補遺2 最近の日本でも大虚報報道

  最近の日本での大虚報、それも実名報道のものの嚆矢は

 読売新聞1面トップ「iPS心筋移植」虚報事件

だろう。2012年10月13日付1面で虚偽報道と認め、読売新聞社は中面で虚偽となった原因について

 徹底的に検証を続けます

との東京本社編集局長のおわび記事を掲載している(同社はそもそもの虚報ではなく、一部事実誤認の虚偽だったとして「誤報」と判断している)。また、同日付中面で検証結果について大きく報道している。深刻なのは、この虚報をあわてふためいて後追いして、ありもしないことをあったとして、ご丁寧にというべきか、後追い虚報を出すという前代未聞の報道を共同通信社がやらかしたことである。

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福島も「石棺」 ? チェルノブイリから29年

Image2127 (2015.04.30)  チェルノブイリ原発事故から29年、臭いものにフタで有名な

 事故原発を石棺につくりかえた現場は今どうなっているのか

というニュース・ルポを先日見た。事故当時、原発自身を、そのまま鉛やセメントで固めた。のだが、今ではその老朽化で放射線漏れの危険性が出始めている。強い放射線の影響を避け、事故原発をスッポリと覆う新しい巨大な石棺を事故原発から数キロはなれたところで建設している。しかし、完成にはまだ2年もかかるらしい。完成後は、事故原発までひいたレールの上に新石棺を乗せて事故原発まで運び込み、棺のように覆う計画。まさに臭いものにはフタの計画である。

 そんなニュースが流れる中、京大原子炉実験所の元助手だった小出裕章さんが、日本外国特派員協会で先日記者会見した。事故を起こした福島原発の遅々として進まない廃炉作業の現状について

 「チェルノブイリのように石棺で放射線を封じ込めるしかない」

と述べていたのは衝撃的だった(写真上= 2015年4月26日付毎日新聞朝刊)。あらためて原子炉を突き破り、内部から融けた核燃料が格納容器にまで落下した、つまり燃料棒がメルトダウンし、それが原子炉をメルトスルーした事故の処理の難しさを思い知らされた。

 格納容器内の放射線濃度は、おおよそ1時間当たり10シーベルト(Sv)レベル。これは1時間で人間のほとんどは死亡する線量である。こうなると人間が格納容器に近づくことすら危険。なのに、その中の膨大な量の散乱した燃料を処理し、取り出すというのは、ほぼ不可能に近いことは想像にかたくない。

 記事によると、事故から4年たっても原子炉やその格納容器という現場に近づけないというのは原発以外にはない。

 果たして、このままロボット技術を駆使すれば廃炉作業がスケジュールどおり40年程度で確実に完了することができるのかどうか。福島県民の生活再建を考えると、廃炉計画スケジュールの10分の1がすぎた今、そろそろ本気で見極める時期に来ているのではないか。

● 補遺 チェルノブイリ原発廃止

 2015年4月27日付中日新聞朝刊

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ある理論物理学者の人生          - 『科学と人間』、『科学と幸福』を読む

Image2123 2015.04.30) シニアになってしまえば、大型連休というのもそれほど待ち遠しいものではないのだが、なんだかソワソワと落ち着かない。陽気のせいもあるのだろう。

 それでも、優雅な一日を過ごしたいと、この機会にこの欄((2月26日付「現代こんにちは赤ちゃん物理学」と4月13日付「量子力学90年の今」)でも取り上げた高名な理論物理学者、佐藤文隆さんの肩のこらない著書2冊を読んでみた。

 最近書かれた『科学と人間』(青土社)と、初出が20年近く前の『科学と幸福』(岩波書店)

である( 写真 )。後者は京都大教授時代の1990年代に、前者はその後の甲南大教授時代に書かれたもので、物理学の専門分野を除いた

 科学と社会

について、具体的にであった出来事を通じて自ら信じるところや考え方を述べたものといえるだろう。

 読み終えて、わかったのは

 両書に共通して流れているテーマ、つまり関心事は、

 科学と人間

ということだった。もう少しはっきりといえば、現代物理学という専門分野もふくめて佐藤さんは結局、人間とは何か、人間の存在とは何かということを考え続けていた人生だとわかった。

 以上が、結論なのだが、少しこの結論に至るまでの理由について書いてみたい。

 ● 信念に到達する4つの方法

 まず、わかりやすい事例として、

 『科学と人間』の次のような文章を引用する(p124)。

 プラグマティズムを創始したアメリカの哲学者、チャールズ・「パースは科学を次のように位置づける。一般に疑念から信念に到達する努力には古来四つの方法がある。固執の方法、権威の方法、先天的方法、科学の方法。

 固執の方法とは自分の気にいるものだけで自分の中で信念を固める方法であり、日常よく陥りやすい道である。

 権威の方法とは固執の方法を組織化された集団に拡大し(たもので)、それになびかない異物を攻撃して排除する。これは一時的に確信に向かうが、後に意図的に何かを排除したゆがんだものであることに気づく。

 先天的方法とは1+1=2のような、理の方法で信念を固めるものだが、具体物と理の結び付け方に個人の嗜好が入り、理は当然であっても、それを適用する場面が恣意的にならざるを得ない。

 このような個人の偶然的な気分や、社会の集団ヒステリーの影響や、理の恣意的操作のトリックなどの陥穽を避けるには、チェック機能を人間界の外側に求める必要があり、それが四番目の科学の方法である。(魚津郁夫『プラグマティズムの思想』(ちくま学芸文庫)を参照した)」

 アメリカと比較して日本の理科教育を論じている同書第二章「学校教育での科学」に出てくる一文なのだが、人間というものの陥りやすい弱点を科学という視点から鋭く指摘している。同時に、科学と人間の関係を見事に喝破している。

 物理学を学んだ後、科学ジャーナリズムに論説委員として20年以上携わってきたブログ子なども、この弱点を無自覚にさらけ出してこなかったかと粛然とし、また忸怩たる思いがしたことを正直に書いておきたい。

 ● 科学の進歩、その人間的な限界

 第二に、『科学と幸福』について。

 読んでみてわかったのだが、この本は、表題のタイトルから想像するほどにはやさしくはない。戦前の高名な物理学者だった寺田寅彦を読むようなわけにはいかなかった。

  それでも、1970年代に大学院で物理学を学んでいたブログ子としては、湯川秀樹さんの中間子論「素粒子の相互作用について」(1935)から出発した素粒子論が、現在の標準理論として、一応の大団円を迎えつつある時期でもあり、第二章(ヒゲを生やした電子)がおもしろかった。

 しかし、晩年を迎えていた湯川さん自身にとっては、弟子たちによって成し遂げられたこの大団円というか、結末を、喜ぶどころかある種の失望と困惑を覚えていたらしいという逸話はいかにもありそうで、興味深かった。

 とうのも、ブログ子は、70年代末ごろ和服姿の湯川さんがスミ夫人とともにご自宅近くの糺の森を早朝散歩している姿をよく見かけた。話しかけたり、かけられたりしたこともある。のだが、今思うと、40年以上の研究活動について諦念あるいは挫折感を漂わせていたようにも感じられた。すくなくとも、すがすがしい幸福感の中にはいなかったように思う。

 もっともこの本には真正面から幸福について取り上げた章はない。それでも、幸福論なんて大仰なと思う人もいるだろう。だからか、佐藤さん自身も、あとがきで、表題に何も答えていないではないかとお叱りを受けるかもしれないと、はしがきも含めて、いろいろとゆかいな弁解をしている。余裕だろう。

 しかし、そう硬く考えず、ブログ子は、つぎのようにもっとゆったりと、しかし哲学的に幸福、あるいは科学と、人間の幸福の関係というものを考えてもいいのではないかと、読後感として持った。

 上記の引用にもあるように、人間の疑念を信念に、あるいは確信に導く努力方法にはそれぞれに人間の持つ弱点がある。これに対し、科学の方法というのは、そうした嗜好や思考の歪み、思い込みという弱点を排除するチェック機能を、人間界の外側に求めている。

 しかし、よく考えてみると、これとてもチェック機能としては完全ではない。なぜなら、「人間界の外側」というものを考えているのが、人間の脳であるという事実があるからだ。生物としての人間の脳とは無関係な「人間界の外側」というものは存在しない。

 「人間界の外側」を考えるということは、実は人間の内側、脳を考えることなのだ。

 生物的な人間である限り、その脳の進化段階に応じて科学的な知にはそれぞれに限界が存在する。そこには決して知りえない未知が必ず存在する。

 しかし、科学の進歩には人間的な限界があるということについては、これを別の角度からいうと、いつ人間がこの宇宙に登場しても、それまで知られていなかった未知の世界が、人間の脳が生物的である限り、必ず用意されているということを意味する。

 ブログ子は、それを非常に広い意味で人類の幸福と考えたい。人類の幸福とは、そういう科学知の限界、壁があってこそ感じられるものだと信じる。さきぼとの湯川さんの場合もそうだが、困難はいつの時代も科学を鍛え、人類を幸福に導いてきた。しかし、それは一応の大団円にすぎない。

  困難を克服しようという信念と努力は、その人を含めて人間を幸福にする。ブレイクスルーのみが人類を幸福にするとは限らない。これが、大型連休のゆったりとした幸福気分の中で考えたブログ子の「科学と人間」幸福論である。

 もっともこの論理の展開には、佐藤さんのいう「先天的方法」にあるようなゆがみがあるかもしれないことを付記する。

 ●補遺 経済学と幸福

 科学と幸福というテーマを真正面から取り上げるのはどうかと、気恥ずかしくなるという気分がたいていの理系人間にはある。

 しかし、この点については、大いにまじめに研究すべきテーマであると考えたい。経済学では最近、幸福の経済学というのが盛んであり、一定の成果も得られている。

 詳しくは、2010年5月3日付日経新聞「経済教室」(大竹文雄阪大教授)してほしい。所得が一定水準までは幸福度と正の相関がある、幸福度は経済政策の目標の一つになり得る、政策目標として幸福度だけを使うのは危険である-などがポイントとして紹介されている。 

  補遺2 湯川秀樹の「科学と幸福」 2015年5月11日記

 大型連休中に、湯川秀樹著作集を読んでいたのだが、その第四巻(科学文明と創造性)に

 知性と創造と幸福

というエッセーがある(1955年1月)。湯川さんの「科学と幸福」論である。

要約すると、

 科学の探求が人間の知性を深化させ、その深化への努力が人間の幸福につながる

というものである。これだけではあいまいで何が言いたいのか、あまりピンとはこない。が、この随筆の最後しめくくりがすごいので、そのまま引用する。

 こうである。

 「外なる世界へ向かっての科学の探求の進展が知性の深化によって裏付けられていないなら、新鋭の武器を持った野蛮人ができあがるだけだろう。」

となっている。これが書かれたのは、旧ソ連が世界初の水爆(原爆より強力な水素熱核融合爆弾)の実験に成功(1953年8月)したり、次いでアメリカも初めて水爆実験に成功(第五福竜丸事件の1954年3月)したりした苛烈な冷戦下の1955年1月である。

 湯川さんにとって、科学と人間の幸福というテーマは、切迫した、しかも深刻な課題だったことがわかる。「新鋭の武器をもった野蛮人」というのには、目の前に具体像があり、けっして大げさではなかった。核兵器開発競争の恐怖のなかで書かれていたことを忘れてはなるまい。 

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人間はどこまで進化するか

Image211920150419 (2015.04.28)  あまり新聞を読まないのだが、図書館の新聞閲覧コーナーに先日、たまたま立ち寄った。すると劇作家の山崎正和さんが4月19日付読売新聞朝刊1面の大型論考「地球を読む」欄に

 「ナノボット」で人間改造 科学技術万能論

というのを書いていた。科学と技術の礼讃でも、単純な万能論排斥でもない。いかにもありそうな深刻な問題提起だった。

 ● 定常型から視野広げる

 山崎さんは文系の人なのだが、普通の文系とは違って、科学や技術にある種の期待というか、愛情を持っている正統派。科学者や技術者には心強い味方かもしれない。だが、その裏返しで科学技術者による生煮えの科学技術批判よりも、あるいは文系の底の浅いお定まりの、つまりステレオタイプの科学技術非難なんかよりもはるかに厳しい批判を展開することがある。視野が広く、視線が鋭い。科学や技術に携わる人にとっては自分の視野の狭さを、仲間内から指摘されたようで恥じ入ることも多い。

 冒頭の1面「読む」はそんな論考だった。もちろん単なる文系の科学技術万能論批判ではない。

 3.11以降、日本ではもっぱら「近代社会の発展はもはや限界に達しており、今や人類はこれ以上の進歩を前提としない社会を築くべきだという」定常型社会論がまん延している。しかし、「日本の新聞も視野を広げ、(米国などで巻き起こっている)世界的な(未来)文明論争に参加するべきだ」と書いている。

 山崎さんは、この後、指数関数的ともいうべき科学技術の急速な発達がもたらす未来文明論として、具体的に

 『ポスト・ヒューマン誕生』( レイ・カーツワイル、2007、NHK出版)

を取り上げ、内容を詳しく紹介、論じている。原著タイトルは

  『特異点は近い 人類が生物を超越するとき』(2005年)。

 Image2121 世界屈指の発明家によるこの著書の内容を一言で言えば

 「20世紀後半以来、遺伝(子工)学、ナノ技術、ロボット工学(、バイオ技術)が爆発的な発展を遂げ、進歩の速度から見て2040年ごろには文明に革命をもたらし、人間そのものを改造するだろう」

というもの。日本でも、ソフトバンクの孫正義社長は進化し続ける半導体性能の急成長から

 2018年にはコンピュータが人間の脳(の情報処理能力)に追いつく

と試算している。

 今のいわゆる生物的な「カーボン脳」から、100年後には内蔵型コンピューターと合体した「シリコン脳」という脱人間化に至るとの予測もある。今は外装のウェラブル端末だが、小型で内臓型の時代がそこまでやってきている。

 こうなると、新種の誕生だろう。文化依存性の(指数関数的な非生物)進化といえまいか。

 こうした状況に対して、山崎さんは後半で

 人間とは何か 問い直す時

にきていると考察している。

 ● 特異点を超えて

 というのは、先ほどのカーツワイルの原題「特異点は近い」というのは、2040年代を指しているのだが、ここを超えたらどうなるか、ということが問題になるからだ。

 彼自身は、人間の今の脳の情報処理能力に比べて、コンピューターのほうが数百倍、数千倍もこえるようになると、人類は脱人間化すると指摘している。それは生物的な限界をこえるという意味だ。絶滅なんかしない。

 これに対し、インターネット界のエジソンと言われているビル・ジョイ(サン・マイクロシステムズ社の著名なコンピューター技術者)の

 「未来はなぜわれわれを必要としないのか」(米「wired」2000年4月号)

Imgp7491_2  では、人間とロボットの主従関係が逆転し、人類は滅亡すると警告している( 写真左=  放送大学「新しい技術者倫理」(札野順)テレビ画面より )。

 そうならないためには新しい技術者倫理が今必要だと主張し、具体的な提案までしている。危険と判断された知識や技術を国際管理するなどである。

 これに対し、カーツワイルによると、特異点を超えて、人類は人間の限界を拡張しながら、非生物的な存在として、進化し続け、脱人間化するという。「人間とテクノロジーの融合は、破滅に至る坂道を転げ落ちる危険性ははらんでいるものの、それはより輝かしい前途へとなめらかに上昇していく道」でもあるという。人類は生物を超越した道を歩む存在となる。

 こうなると、人間と人間でないものの境界はどこにあるのかということが深刻になる。

  ● 万能論の行き着く先「人間とは何か」

 科学技術の発達によって人間の拡張が論じられたものに、サイバネティックスと社会について論じた

 『人間機械論 人間の人間的利用』(N.ウィーナー、1954、日本語版1979)

や、あるいはその後の

 『メディア論 人間の拡張の諸相』(1964)

などがある(写真下)。「ライフ」科学記者による人間改造など『第二創世記』(A.ローゼンフェルド、早川書房、1972年)というのもある。

 しかし、いずれも、人間が生みだしたメディアにしろテクノロジーにしろ、それらが人間の外側に存在することを仮定している。その境界は明確だ。しかし、それが人間と合体あるいは融合したらどうなるのかという考察は皆無である。

 科学技術万能論には、中途半端な議論ではなく、万能論をこのように究極まで突き詰めていくとどうなるのかというきちんとした論議、つまり人間とは何かという議論が求められているように思う。

 その意味では、のんきというべきか、早々と定常型社会論に閉じこもるのは取り返しがつかない事態を引き起こすことになろう。

 山崎さんはそのことを訴えている。

 かつてこの欄(2014年12月17日付)で取り上げた

 『科学・技術と現代社会』(池内了、2014)

には、この論点が浩瀚な著作なのにもかかわらずほとんど抜け落ちていたのが惜しまれる。大学院生の教科書的な著作だが、だからこそ、科学技術万能論を突き詰めた場合の現代社会の未来を展望するべきだったのではないかと思う。それがせいぜい定常型社会論になってしまったのは残念である

 ● カール・セーガンのコズミックカレンダー

「1.doc」をダウンロード

   Imgp74554

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ついに原子力規制委員会を動かす        -実践 ! ドクター、マコのジャーナリズム診断

(2015.04.24)  このブログ(4月3日付)で、ブログ子は

 なんじ自身を知れ 科学報道シンポから

というのを書いた。詳しくは

 http://lowell.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-5ed1.html 

を見てほしい。おしどりマコさんの発表について書いたものだが、要するに規制庁を指揮する規制委員会作成の福島原発「保安防護規則18条」では、危険なほど放射線に汚染された雨水が海に垂れ流しになっているのを防護できないとマコさんは指摘し続けた。にもかかわらず、当事者の東電が欺瞞的とも怠慢的とも取れる記者会見をしていた事実を、執拗な調査と執念をもとに記者会見で白日の下に暴いた。

● 保安防護規則18条の改正へ

 そして、ついに規制委員会は規則の欠陥を認め、保安防護規則18条を改正せざるを得なくなった。どのように改正されるようになったかについては、規制委員会の

 http://www.nsr.go.jp/data/000103961.pdf

を見ればわかる。運用の改正に乗り出したということは、一言で言えば、

 規制委員会がマコさんの追及に白旗を上げた

ということだろう。マコさんの正論の勝利といえる。

 このような直接健康にかかわる、そして放射線防護に関する重要な成果を、どうしなければならないかも含めて説得力を伴う形で、ジャーナリズム側が追及、提出した事例は、50年にわたる原発問題に関する限り、そしてブログ子の知る限りない。恥ずかしい話だが、この間、ジャーナリズムは敗北の連続だったことをジャーナリズムはもっとまじめに思い知るべきだろう。

 こうなってくると、事故を起こした東電が正犯であることは間違いないが、その東電の共犯者は誰なのか、ジャーナリズムや大手メディアではなかったのかとの疑念はぬぐえないだろう。

 ● パブリックコメントに正論を

 今、この改正案について、5月15日までパブリックコメントを募集している。

 http://www.nsr.go.jp/procedure/public_comment/20150416_01.html

である。国民の正論を規制委員会に届ける機会であることを訴えたい。

 いま流行の言葉で恐縮だが、これこそ「粛々と」事実を積み重ね、堂々と記者会見なりで突きつけていく。正論突破の執念と情熱が

 山を動かす

力になる。このことをかつて医学生だったドクター、マコさんは今、私たちに教えてくれている。

 そこでジャーナリズムの長期にわたる病巣とは何なのか、その長患いの治療方法の処方せんは何か。そんな尊敬の意味も込めて、このブログで、今後も

 実践 !ドクター、マコ(ちゃん)のジャーナリズム診断

と題し、適宜、発信していきたい。 

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魔球はなぜ、どのようにして生まれるか

Image21161_2 (2015.04.23)  以前、ブーメランはなぜ元に戻ってくるのか、という話をこの欄で何本かにわたって書いた(2014年9月)。

 原理は、古典力学で習う慣性モーメント

というものだった。重力や流体中のマグナス力、あるいはコリオリの力などは、この戻りとは関係ないと書いた。

 それでは逆に野球の直球、シュートなどを生み出すマグナス力で、なぜ、そしてどのようにして魔球が生まれるのだろうか。

 そんな疑問にビジュアル科学月刊誌「Newton」2015年5月号が

 魔球の科学

と題した特集で解説している。この特集では、野球だけでなく、サッカー、テニスなどについても、マグナス力について、相当詳しく紹介している。

 以下に、マグナス力について、同雑誌から解説図を紹介しておきたい。

 この図を頼りに、いろいろな魔球について考えてみるのも楽しいのではないか。

  ボールの回転軸が地面と平行の場合、垂直の場合、さらにはそれらの中間の場合を考えると、いろいろな魔球が生まれそうだ。野球の場合は手の指、つまりボールの握り方で回転軸の向きを変える。回転力はもちろん、手首のスナップである。

 これに対し、サッカーではボールをける足で回転軸の向きを変化させる。そうすると、サッカーボールはカーブしながら、あるいはストレートでゴールに飛んで行くことになる。シュートする選手はボールの回転力と回転軸方向をける足で同時にコントロールしているのだ。

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ズルした者が得をする仕組み、がまんは損  - マグロ規制の場合

(2015.04.17) 世界的に見ても消費はますます増えているのだが、今年から、水産庁は減り続ける一方の日本のマグロ漁獲について乱獲しないように

 本格的なマグロ規制

に乗り出す。秋には福岡県で国際的な規制にかかわる資源管理の国際会議が開かれるからだが、

 紳士協定の総量規制では、いわゆる実効性のないザル法に終わる

だろう。中途半端な規制は漁業関係者をより苦しめる。規制でマグロの価格が上がることから、規制を無視しズルをすればするほど儲かる仕組み、規制を誠実に守ればまもるほど打撃が大きく損をする仕組み。これでは、資源管理の基本である経済合理性を無視したものであり、問題解決にはつながらない。

 ではどうするか。

 各国ごとの総量規制枠設定とともに、大西洋で行なわれているようなより厳しい

 船ごとに漁獲量を規制する厳格な規制

が、まず求められる。日本への輸出が大半を占める大西洋ではこれにより、この数年、ようやく減少に歯止めがかかり、資源回復の兆候が確実になった。

 一例だが、2008年の規制強化で、クロマグロ漁獲量8割削減かつ幼魚漁獲禁止という措置が実施された。その後のあるクロマグロ調査では、規制強化5、6年で規制前の3倍に資源量が急増したらしい(NHK「クローズアップ現代」2015年4月15日放送)。

 この船ごとの規制という仕組みにより、目先の利益に走ってズルするものは結局は長い目で見れば損、船枠を将来に持ち越し成魚になるまで出漁をじっとがまんした事業者は、その分、得をするという経済合理性のある納得できる規制となることがわかる。

 ● 最盛期の90年代の3分の1に激減

 日本の市場に出回っているのはたいていは大西洋などからの輸入マグロだが、それでも、日本は太平洋海域において未成魚を中心に年間約3万トンを漁獲している。これは1990年代のピーク時の約3分の一。しかも、年々減少の一途をたどってきているのだ。

 漁獲量だけでなしに、さらに問題なのは、産卵できる成魚が獲れなくなったことから、最近では成熟前のいわゆる未成魚(幼魚)を乱獲していることだ。根こそぎ取りつくす。これでは資源が枯渇しないほうがおかしい。

 だから、水産庁でも、今年から始まった本格的な3年未満の未成魚(養殖用)規制で、

 10数年前の平均漁獲量の半分(年約5000トン)

という総量規制をまとめている。せいぜい、沿岸での規制について、船ごとではなく、地域枠の上限規制を設定しているにすぎない。たとえば、ブログ子の暮らす東海沿岸では、過去の実績からはじき出して、年間の未成魚は約250トン。5000匹程度である。

 ● 遅きに逸した分、船ごとの規制が必要

 規制という日本の資源保護対策は、ヨーロッパに比べて、10年、すくなくとも5、6年は遅れている。漁業関係者の間でも遅きに逸したという声が聞かれる。この遅れを取り戻すには

 総量規制から船ごとの割り当て規制がポイントだろう。

 社団法人シーフードスマート代表で、築地業者であり釣りにも詳しい生田與克さんは、暖流と寒流のぶつかる栄養塩の豊富な日本近海の豊かさを論じている。同時に先日4月9日の「視点・論点 日本の海ってすごい」で、激減した太平洋クロマグロの現状を憂いて

 「海の豊かさにあぐらをかくな」

とも訴えていた。船ごとの規制については、論じていなかったが、豊かな海を育てるための各国ごとに認められている排他的経済水域(EEZ)の管理責任を自覚すべきであるとしていたのは、正論だろう。

 排他的であるだけに、200海里内の資源管理には乱獲をさせない実効ある仕組みづくりの責任がある。

 これはマグロだけに限らない。 

 ● 追記 2015年5月15日記録

 上記の「船ごとの規制が必要」と書いたら、先日、そもそもそれと合わせて、日本の排他的経済水域内におけるクロマグロの産卵海域での操業自体を政府は禁止すべきであると指摘する漁業関係者(らしい)人からコメントをいただいた。正論だと思う。

 同氏の指摘によると、日本の場合、具体的には沖縄などの南西諸島や日本海の山陰地方や北陸地方の沖合いらしい。

 何のための排他的な管理水域なのか、きちんと日本は資源管理の責任を自覚し、早く実行に移すべきであるというわけだ。このままではクロマグロは絶滅危惧種になるとの指摘だった。もっともであり、真摯に受け止めるべきだろう。

 ブログ子はまだまだ現状認識が甘いと実感した。

 ● 補遺

 ブログ子自身、偶然だが、マグロをめぐる問題について、朝日新聞別刷「グローブ」(2015年5月3日号)が

 マグロは滅びるのか

というテーマでショッキングな特集をしているのをみつけた。熟読をすすめたい。

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3.11後、ジャーナリズムはこう変わった       - 社説検証

(2015.04.15)  月刊誌「Jounalism(ジャーナリズム)」2015年2月号が

 3.11後、この国は変わったか

というのを特集している(朝日新聞社発行)。そこで、

 3.11後、この国のジャーナリズムは変わったか

というのを検証してみたい。変わったかどうかを判断する試金石は今回の

 高浜原発運転差し止め仮処分の

 再開はまかりならぬ

という決定。試金石で試される材料は、利害の大きい高浜原発の地元や近隣県の4月15日付朝刊各県紙の社説。

 ● 地元県紙「福井」は右顧左眄型

 まず、地元福井新聞社説。

   重い警告どう受け止める

と他人事のような見出しで論じている。つまり、仮処分を一応重いと警告したものの、それ以上踏み込むのをちゅうちょ。仮処分内容の賛否や支持するかどうかについては保留。右顧左眄(うこさべん)の論説といっていいだろう。苦労のあとがうかがえる。

 次に、隣県の北國新聞社説。

 疑問ぬぐえない地裁決定

として、あいかわらず原発推進の保守的な姿勢を、3.11以前より一段と強く堅持、あるいは誇示してみせている。強烈なトップダウン体制で社論を決める確信犯型。ある日突然、社論が激変するかもしれないという危うさを一面に持つ。

 中部のブロック紙中日新聞。

 国民を守る「司法判断」だ

と仮処分の支持を明確に打ち出している。3.11以後、社論を180度転換し、脱原発路線に舵を切っている。北國新聞と対照的なこの紙面づくりで、ここ数年、紙勢は伸びているらしい。

 京都新聞社説。

 新規制基準への疑義は重い

としているが、右顧左眄型。従来と社論に大きな変化はない。

 浜岡原発をかかえるわが県紙、静岡新聞。

 なんと、決定に対する社説の掲載なし

 この日15日付の社説テーマは安保与党協議。同紙は重要テーマについては、一呼吸おいて様子見する姿勢をこれまでにもときどきとっている。よく言えば、他紙がどんな社説を掲載するか見極めた上で、一日遅れで掲載するという慎重な姿勢だともとれる。従来どおりの原発推進の姿勢は変わっておらず、いわば右顧左眄型といえるだろう(注記)。

 以上を総合すると、国民世論の劇的な変化に比べると、大きくは変化していないといえるだろう。新聞業界の保守性がうかがえる結果である。

 ● 度をこした朝日社説

 全国紙はどうか。

 4月15日付朝刊の朝日新聞社説(大型)は、

  司法の警告に耳を傾けよ

と、明確に仮処分決定を支持している。これまでは原発推進派だったが、最近は、それどころか、

 「国民に強く残る原発への不安を行政(原子力規制委員会のこと)がすくい上げないとき、司法こそが住民の利益にしっかり目を向ける役割を果たす。そんな意図がよみとれる」

とまで持ち上げている。「裁判所の目線は終始、住民に寄り添っていて、(再稼動すべきでないという結論には)説得力がある」ともしている。このことから、支持というよりもほめたたえる、歯の浮くような賛辞社説といっていいだろう。

 決定を書いた判事自身も気恥ずかしがるだろうほどの度を越したひいきでは、引き倒しが心配である。

 産経新聞社説。

 決定を

 「奇矯感の濃厚な判断」

だとした上で、その「負の影響」は計り知れない

と書いている。意地の悪い人格批判と言えるだろう。

 日経新聞社説。

 北國新聞と同様、

 差し止めは疑問多い

と主見出しを打っている。いずれの社説も、従来の論調から推して予想通りの論説といえる。つまり、変化はない。

 こう見てくると、全国紙の社説も3.11後に大きな変化はなく、地方紙と大同小異と言えるだろう。 

 ブログ子の意見は中日新聞の社論に近い。つまり、原発推進派から脱原発へと3.11後、大きく変わったことを正直に書いておきたい。

  ● 注記 4月16日付静岡新聞社説

 案の定、静岡新聞は一日遅れて4月16日付の社説で仮処分決定を取り上げている。

  主見出し=再稼動への重い警告だ

という論説を掲げている。「規制に合格すれば、再稼働を進めていくという政府の姿勢に待ったをかけた」との見方を示した。その上で、地元の浜岡原発について川勝平太静岡県知事に「新規制基準を上回る厳格さを求める姿勢で、取り組んでもらいたい」と注文、社説を締めくくっている。

 つまり、裏を返せば条件付で再稼働を認めている。 

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量子力学90年の今 - 原子を操作する時代

Image2113_2 (2015.04.13)  このブログの2月26日付で、元日本物理学会長の佐藤文隆さんのエッセーをテーマにして

 現代「こんにちは赤ちゃん」物理学

を書いた。その後、いろいろと佐藤さんからアドバイスもいただいた。もともとのエッセーのタイトルは「無人物理、有人物理」だったが、今回は

 汽車が別れをつれてくる

というちょっと洒落たもの(写真= 月刊誌「現代思想」2014年12月号の連載・科学者の散歩道。注記参照)。いずれも現代の量子力学の土台をめぐる問題で、なかなかむずかしい。

 それでも、ブログに対し物理学者あるいは高校物理教師だったらしい高齢者から2、3の反響があったのは、うれしかった。

 そこで、というわけでもないが、もう一回、佐藤さんの別の連載を紹介してみたい。同じく現代物理学の土台にかかわる深刻な問題である。

 前回は現代物理学のとらえ方「確率という非因果律記述」の問題、QBズムがテーマだった。今回は、

 主観的時間と相対論の時間とのズレというNow問題

である。ボーア・アインシュタイン論争とは別の、いわゆるもう一つのアインシュタインの不満問題である。

 どういうことか。 

 「Nowの経験は人間にとっては特別なものであり、過去や未来とは基本的に異なるものである。ところがこの基本的な違いが物理学には存在しない。この「現在」感覚が科学では捉えられていないのは悔しいことだが、あきらめざるを得ないのだ」(アインシュタインの発言であるという論理哲学者カルナックの証言)

というのを引用して、佐藤さんはアインシュタインのNow問題を取り上げ、わかりやすく解説している。

 仮にこのNow問題という「現在」感覚を科学で捉えようとすると、結局

 「科学は自然にあるものではなく、(音楽などの芸術と同様)人間の創造したツール」

となってしまう。人類以前には科学的な真理は存在しなかったことになり、人類が絶滅すれば、永遠の真理だとされてきた科学的な成果も消滅する。

 これは、物理学徒としては大変にラジカルであるとブログ子も思うし、佐藤さんもそうらしい。佐藤さん自身の言葉によれば、佐藤さんも科学はあるときはツールであり、また別の時は自然法則でもあるというように「態度が行ったり来たりしている」という(2015年4月23付私信)。物理学者としての態度が一貫しないというわけだ。

 ● 科学は発明か、それとも発見か

 ブログ子も、ここまで考えてくると、

 物理学的な実在とは何か

 数学的な実在とは何か

という問題にぶち当たってしまうと考えている。

 ブログ子の見解を、はっきり言えば、

 物理学には、あるいは科学には決してこえることのできない限界、絶対限界がある

というものである。

 Image2114 さらに言えば、数学の成果についても、

 人間による発明の部分と、人間とは無関係の発見の部分

があるように思う(右写真=「日経サイエンス」2011年12月号特集・実在とは何か?と「現代思想」2014年12月号)。

 この点に関して「補遺」を参照。

 それはともかく、

 佐藤さんは、エッセーの中で、二つのアインシュタインの不満、つまり量子力学のコペンハーゲン正統派解釈に対する認識のズレあるいは違和感問題と:Now問題について、

 「人類の営みの中で科学がどういう特殊性と限界を持つものかという問題意識がこの二つの不満問題には存在する」

と強調している。

 だから、現代物理学の本流ではこれまで目をつぶってきたが、

 「量子力学に基づくテクノロジーの巨大な進歩を経た現在、(前回の佐藤さんにかかわるブログで述べた)90年前の創造期(の観測問題論争)をもう一度想起する必要がある」

と力説している。90年前の量子力学確立直前の論争には観測・測定者という主体が客体に介入する技術の発想はなかった。原子を「操作する」、あるいは操作できるという技術の発想はなかった。まだまだ主体は消極的な傍観者であり、現代のような積極的な、あるいは

 偏見や偏りのない「有人物理」

ではなかった。

 ところが、たとえば2008年には、IBM社は

 原子を一個ずつ「操作する」新しい顕微鏡技術の開発

に成功したと発表している。原子を単に観測するから、より積極的に操作する時代に人類は今立っている。それにふさわしい確固たる土台を現代物理学はいまだ持っていない。

 ● 権威がこける時代

 科学とは(いつかは)権威がこけていく物語

だと佐藤さんはいう。このエッセーを読んで、この言葉が現実味を帯びているような気がする(補遺2-佐藤さんからのコメント)。

 そして、ふと思った。

 これは、量子力学の問題だけに限らないだろう

と。150年以上権威を保っている自然淘汰による進化論も、そろそろ退場の時を迎えているとブログ子は、前回の佐藤さんのことを書いたブログの後半で書いた。

 進化のただ中にいる当の主体の積極的な介入のない進化論は幻想であると思う。主体介入のメカニズムが自己組織化によるものかどうかは別にして、結果論的になんでも説明の出来る傍観者型の進化論は科学理論ではない。

 ● 注記 時間は流れない/時間の存在は幻想 ?

 Image2115 このフレーズは、演歌「女の駅」のなかのもので、流れるものというのを、わかりやすく汽車という表現でたとえている。また、時間は過去から未来に向かう「時間の矢」という言い方もある。これも時間が流れている感覚を表現している。

 佐藤さんは比較的にむずかしい歌詞を紹介しているが、もっと簡単にNow問題の核心がわかるのも多い。たとえば、美空ひばりさんの

 それもまた人生という「川の流れのように」がある。

 海外のアジアでも、テレサ・テンの世界的なヒット曲「時の流れに身をまかせ」がある。西欧でも映画「カサブランカ」でテーマ曲として歌われたそのものズバリの

 「時の過ぎゆくままに」(As Time Goes By)

もある。この曲が歌われている「リックの店」の夜のバーカウンター。

 女「きのうの夜、どこにいたの?」

 男「そんな遠い昔のことは忘れた」

 女「じゃ、あしたの夜は?」

 男「そんな遠い先のことはわからない」

 今夜だけがすべてという粋な会話だが、過去については忘れた、未来についてはわからないときちんと使い分けているところがいい。

 現在は過去や未来のいかなるときよりも特別な存在というこの感覚。

 これが私たちの時間に対する現在感覚なのだ。

 別の言い方をすれば、明日の予定を立てる人はいるだろう。しかし、だからといって昨日の予定を立てる人は皆無だ。

 ところが、現代のミクロの世界を記述する量子力学では

 時間は(方向性をもっては)流れない

としている。すくなくとも、そうではないかと論争されている(写真左上は「別冊日経サイエンス 時間とは何か特集)。

 どういうことかというと、

 時間というものには、過去と未来に対し対称性がある

と物理学の力学方程式ではされているのだ(信じられているわけではない)。この現実とのギャップについては熱力学と二本立てにして、物理学は現実との折り合いをつけている。

 それにしても明日の予定を立てる人がいるのなら、昨日の予定を立てようと呻吟している人が同じくらいいても、理論的にはいいのだ。それがなぜいないのだろうか。

 これが、さきほどの現在感覚が科学で捉えられていないという意味なのだ。人間レベルにはある過去と未来に対する非対称性が現代の物理学にはないという謎である。

 以下余談だが、大栗博司さんの『大栗先生の超弦理論入門』(ブルーバックス)によると、

 空間同様、時間というのも、その実在は幻想かもしれない。つまり、私たちの時間というものも、本源的なものではなく、

 時間もより本源的なものから現れる二次的な概念

かもしれないと大栗さんは書いている。

 それは、ちょうどかつて古代ギリシャの哲学者のあいだで天と地、上下関係というのは空間の概念の中ではなにか特別な存在だと考えられていたのと同じことだという。そう思うのは、単に地球上にいるからであって、宇宙空間では上下などは幻想なのと同じ。であり、なんら本源的なことではない。単にわれわれの視野が狭かったからに過ぎないというわけだ。

 では、時間とは何か、その正体を明らかにしてくれるものは何か。

 それはこの宇宙の始まり、つまり

 宇宙誕生の起源

であるという。ビッグバンの前に何があったのか。これを量子力学と重力理論を統合して解き明かす。これこそ、時間とは何か、果たして時間は幻想なのかを確かめる鍵を握っている(らしい)。その先頭に立っているのが、超弦理論だというのだから壮大だ。

 そうなれば、何時の日か、カサブランカの男と女の会話の真の謎、つまり「忘れた」のか「わからない」のかという謎が解けるだろう。

 佐藤さんのエッセーを拝見して、そんな感想を持った。

 ● 補遺 佐藤さんからのコメント

 この点について、佐藤さんから以下のようなコメントをいただいた(2015年4月23日付私信)。

 従来は相対論の時間論からして量子力学に不満を持っていたと解される

 「EPR(アインシュタイン・ポドルスキー・ローゼン)の実在は物理学が表現しようとしている実在のことで認識論上の実在。それに対して存在論上の実在では唯物論のように精神現象もすべてこの実在が支配するとする」

 このように同じ実在という言葉をつかっても、その意味するところの次元が異なる。

 ● 補遺2 「権威がこける」-佐藤さんからのコメント

  佐藤さんの著書『科学と人間 科学が社会にできること』(青土社、p124、2013)

  プラグマティズムを創始したアメリカの哲学者、

チャールズ・「パースは科学を次のように位置づける。一般に疑念から信念に到達する努力には古来四つの方法がある。

 固執の方法、

 権威の方法、

 先天的方法、

 科学の方法。

 固執の方法とは自分の気にいるものだけで自分の中で信念を固める方法であり、日常よく陥りやすい道である。

 権威の方法とは固執の方法を組織化された集団に拡大し(たもので)、それになびかない異物を攻撃して排除する。これは一時的に確信に向かうが、後に意図的に何かを排除したゆがんだものであることに気づく。

 先天的方法とは1+1=2のような、理の方法で信念を固めるものだが、具体物と理の結び付け方に個人の嗜好が入り、理は当然であっても、それを適用する場面が恣意的にならざるを得ない。

 このような個人の偶然的な気分や、社会の集団ヒステリーの影響や、理の恣意的操作のトリックなどの陥穽を避けるには、チェック機能を人間界の外側に求める必要があり、それが四番目の科学の方法である。(魚津郁夫『プラグマティズムの思想』(ちくま学芸文庫)を参照した)」

 卓見ともいえるこの指摘は、権威だけでなく、

 人間の理性がこける

ときにも当てはまるだろう。

 物理学だけでなく、たとえばジャーナリズムの評論も、先天的方法という論理の恣意性が問題になることがおおいにあるように感じる。論理の運び方に偏りや恣意性、嗜好性がないかどうか、公正とは何かを考えるなどブログ子もよくよく自戒したい。 

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夷をもって夷に制せられる 「アウトレイジ」

(2015.04.12)  国際的な映画祭に出品された北野武監督の

 「アウトレイジ」(2010年)

と、そのまたさらに過激な続編(2012年)をBSジャパンで拝見した。

 暴力団同士の抗争物語であり、最初は、どうせ「夷をもって夷を制す」という上から目線の映画の類かと思った。しかし、続編まで見終わって、そんな正義もないことがわかった。

 夷を持って夷を制し、生き残った片方の夷が仕掛けた刑事という〝正義〟をラストで殺害する。生き残った夷がその後どうなったかについては描かれていない。あったのは勧善懲悪の完全な否定だった。どこにも正義のヒーローのいない映画というわけだ。

 仁義なき世界でも、任侠の世界でもない。そして裏稼業の必殺仕置き人すらもいない。とすると、この映画は反社会的な映画かということが問題になる。そうではない。いってみれば、月光仮面はいないというテーマの月光仮面映画なのだ。

 この映画によって、現実の社会は、極端なアウトロー世界と、ゆるゆるの勧善懲悪のインロー世界の中間だということに気づかさせられる。そういう意味で、こういう映画もあっていい。が、国際的な映画祭で評価されたり、劇場映画として一般の人々から評価を得ることはなかなかむずかしいだろう。

 とはいえ、ヤクザの抗争ではなく、また、インローのさりげない日常に忍び込む月光仮面なき世界を描いた映画であれば、評価はまた別なものになるだろうという感想を持った。

 それはそれとして、北野武監督が、ビートたけしという名で、なぜあちこちのオチャラケ番組にあんなに出ているのか。その理由がこの映画でわかった。自分が納得する映画をつくる資金づくりなのだろう。

  もしそうだとすると、月光仮面はいないという映画づくりのために、自らは月光仮面のような正義心で稼いでいることになる。

 そういう意味で北野武というのは監督としては、かつての黒沢明よりも偉大だ。

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青春の残酷さ「悲しみよこんにちは」

(2015.04.12)  BSプレミアムで先日、J.セバーグ主演の

 青春映画「悲しみよこんにちは」(1958年、F.サガン原作)

を何気なく見た。のだが、ラストシーンを拝見して、これは

 アランドロン主演の青春映画「太陽がいっぱい」(1960年、ルネ・クレマン監督)

の女性版であることに気づいた。ラストシーンは

 「笑みのない私のほほえみ」、悲しみよ今日は

で終わっている。どちらの映画も、若き主人公にとっては、救いようのない悲劇的な結末、ラストである。

 共通しているのは、殺人(太陽がいっぱい)や愛人の自殺(悲しみよ)がらみのストーリー展開なのだが、男性にとっても、女性にとっても、青春には隠微な残酷さがつきまとうことを見事に描いている点であろう。

 ここが、吉永小百合主演の同時代青春映画

 「いつでも夢を」(1963年、日活)

とは異質。貧困の中で若者同士の葛藤と対立を描いてはいるものの、未来に対する無条件の明るさがあった。

 先の二つのフランス映画には、それがない。

 「悲しみよこんにちは」を拝見して、

 どこか、現代にも通じる癒しようのない憂うつな映画

だという感慨をいだいた。

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シニア年金世代、四重苦の時代へ 

Imgp7341 (2015.04.08)  先日、月がとっても赤いからという皆既月食のブログを書いたら、久しぶりに

 のんきな太平楽を並べるな

とシニア年金世代の読者から、しかられた。物価上昇に見合わない、つまりそれより低い微増率となり、その結果、これからの年金の相対的な価値が今よりドンドン下がっていく。のに何をのんきなというわけらしい。

 ● 始まったマクロ経済スライド

 要するに、今流行の言葉で言えば、

 マクロ経済スライドによる年金増額の抑制(カット)

の話である。ブログ子も年金世代なので、もちろん無関心ではない。

 「マクロ」というのは、物価・賃金スライドだけではなく、保険料を納める現役世代の人口減スライド、高齢化人口の増加による高齢化率の増加スライドもマクロ的に勘案した抑制策のことである。

 実態を隠すうまいネーミングである。(以下のグラフはダブルクリックで拡大) 

Imgp7339

 ブログ子も、この問題には大きな関心を持っている。そのことを示すために、この問題について、先の参院予算委員会の質疑を紹介しておきたい(4月1日)。安倍首相や厚生大臣も出席した質疑で、共産党の小池晃同党政策委員長が、これまでの物価上昇と年金推移、あるいはこれからの物価上昇と年金推計について、マクロ経済スライド適用下でどうなるか、グラフを示し政府に

 これでは物価上昇、年金抑制、2年後の消費税再アップの三重苦

ではないかと糺していた。実は、この4月から、3年ごとの介護保険料(基準月額)の見直し(アップのこと。具体的には以下の注記)で、本当は四重苦なのだ。

 ● 2016年度から年金金額の据え置きへ

  マクロ経済スライド制度の実際や今後の推計はなかなか理解が難しい。が、このグラフは、政府も認めているように具体的でわかりやすい。

  ここに、そのクローズアップしたグラフを掲載して、苦言を呈した読者へのせめてもの敬意のしるしとしたい。

Imgp7352_2

   上のグラフでも、わかるが、2016年度からは、マクロ経済スライドに対する歯止めを外し本格的に適用される。その結果、賃金、物価が上昇しても年金の金額は据え置かれたままになる。微増率どころか、増加率ゼロの時代なのだ。こうなると、いわば確定給付型に近い制度になるらしい。

 ある民間試算によると、20年後には、年金の資産価値は現在に比べて3割ぐらい目減りするという。

 だからというわけでもないが、

 月がとっても赤いから

といったが、このグラフをみていると、

 月ごとの家計数字は今後ますます赤くなる

ということが、わかるだろう。

 ●注記 介護保険基準額のアップ

 ブログ子の暮らす浜松市では、平成27年度から3年間の基準月額はこれまでの5050円からアップして5200円。年間で150円×12=1800円アップ。

 詳しくは以下の通り。

04_10_0

 

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月がとっても赤いから 皆既月食の注目点

20150404spacecombloodmoonpalausandi (2015.04.04)  宇宙好きのブログ子は、アメリカから送信されてくる宇宙映像ニュース(メルマガ)

 SPACE.COM

という写真の美しい記事をほぼ毎週楽しみにしている。4月3日に届いたメールには

今夜4日(日本時間では夜9時前後10分ほど皆既)の月食

について、ライブで見ることができるというニュースが届いている(写真上 = このニュースレターに掲載されていた資料写真)。

 日食と違って、月食は、月が出ていさえすれば世界のどこにいても、ほぼ同時に観察できる。ので、日本以外からのライブも、日本で見るのもほぼ同じ。だから、今夜、ブログ子の浜松市が曇りでも、パソコンでこのライブを見れば、天体ショーが楽しめる。

 ただ、ブログ子は、今の世の中、もはや月食観測には学問的な意義はほとんどというか完全にない、天体ショウの楽しみだけだと思い込んでいた。

 しかし、どうも、そうではないらしい。

 皆既月食中の月の色に注目

というのだ。まったく見えない「黒」なのか、はっきりと「オレンジ」なのか、5段階で評価すると意味がある。というのは、地球の大気にどれくらいホコリやチリが混じっているのかということを推定するのに役立つのだそうだ。

 つまり、赤っぽい、オレンジっぽいほど、大気中にチリやホコリが多く含まれているらしい。地球大気で屈折して月に届く光のうち、ホコリやチリが多いと、波長の短い光はその大気で散乱されて、赤っぽく月を照らすからだ。黒っぽくかすかに月が見えれば、大気はとても澄んでいるということになる。

 無粋な話だが、

 月がとっても青いから

という菅原都々子さんの60年前の大ヒット曲というのは、学問的にはないそうだ。

 それはそれとして、

 今夜が楽しみだ。

 ● 追記 その結果。

 というわけで、その結果は次の通り。

 ブログ子の暮らす浜松は、部分月食を含めて完全に曇りでアウト。西日本のほとんども無理だったらしい。ただ、沖縄県だけはなんとか楽しめた。

 沖縄の琉球新報によると、皆既中は赤黒い「赤銅色」だったという(読谷村)。沖縄タイムスも同様に報じている。

 一方、首都圏もアウトだったらしいが、北部の東日本では青森、北海道などで皆既が見られた。

 デーリー東北新聞によると、かなり「赤い月」だった(青森県八戸市)。天文愛好家によると、それでも前回など通常の皆既中よりも赤みが薄かった。むしろ青っぽかったという。もしそうだとすると、大気は以前より、透明度を増したことになる。

  ● 注記 2015年4月5日付「中日」朝刊

 上記の社会面記事には、赤銅色の月、あるいは赤黒く見える月という表現で、

宮城県白石市で撮影された月食写真(写真)が掲載されている。

Image211020150405

 

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なんじ自身を知れ 科学報道シンポから

(2015.04.03)  古代ギリシャの哲学者の名言に

 なんじ自身を知れ

というのがある。その意味するところの哲学的な解釈には多少の違いはあるようだが、ブログ子も含めて現代日本の科学ジャーナリストと称する人々にも、まさに当てはまる名言である。

 先月下旬、ブログ子は、都内の国士舘大学キャンパスで科学ジャーナリストや科学技術社会論研究にたずさわる人たちが集って開かれた科学報道シンポジウムに参加した(写真下)。のだが、まさにこの言葉をほうふつさせる会合だった。テーマは「発表ジャーナリズムから調査報道へ 東日本大震災・原発震災科学技術報道からの報告」。

 浜松市からわざわざ出かけたとはいえ、この漠然としたテーマから想像するに、とりたてて目新しい発表はあるまいと思っていた。あいかわらず、行政や官僚や東電への能天気な、そして手垢に汚れたようなむしかえしのアバウトな批判に終始するのだろう。そう想像した。しかし、親しい友人からの誘いもあり、一つぐらいひょっとするとひょっとする発表があるかもしれないという思いもあった。

Imgp7247

 ● おしどりマコさんの衝撃の発表

 案の定、だらだらとした発表が朝から続いた。しかし、収穫なしと、あきらめかけていた夕方、お笑い漫才の、おしどりマコさんの発表、

 調査報道のためのジャーナリストの準備 原発記者会見の経緯から

というのには、アッとおどろいた。このタイトルだけでは意味不明で、失礼な話だが、最初はたぶんオチャラケ発表だと勘違いした。

 発表の内容を一言で言えば、記者会見をみずからの組織で録画したり、その録音をメモ起こしし、ついに東電原発記者会見(2015年3月16日、構内排水問題、K排水路の測定体制について)の欺瞞を白日の下に実証してみせている。

 このことは、結果として日本の今の科学ジャーナリストあるいは科学記者がいかにいい加減か、追及不足かを自らの会見に臨むすさまじい姿勢であばいている。ジャーナリズムに注文をつけるだけではない。自ら手本を見せ、会見場にいる各社の科学記者の眼前でその有効性を実証してみせたのだ。

 今回のシンポテーマとのかかわりで重要な点は、記者会見という一見、発表ジャーナリズムのような場でも、会見に臨む記者側の姿勢さえしっかりしていれば、独自の調査報道におとらない、いやそれ以上の真実をあばき出せることを示しことであろう。

 この背景には、おどろくほどの綿密な事前準備と、長年にわたる執拗な調査、そしてなによりも事実を知りたいという情熱がある。この情熱を込めた徹底した質問攻めで会見の虚偽性を明るみに出している。そこには、特ダネをとりたいという卑しい姿はまったくなかった。むしろ、笑いを誘うという高度に洗練された武器をたくみに活用した取材力が垣間見える。

 その詳しいやりとりは、おしどりポータルサイト =

 http://oshidori-makoken.com/

を参照してほしい。この会見の動画をみて、そして、シンポジウムでのやり取りの中から、マコさんには放射線に関する医学的な専門知識があり、それが取材テーマの土台になっている点もはっきりとわかった。

 結論を言えば、この発表で、ブログ子は科学ジャーナリズムとはこういうものなのだということを、具体的に、しかもおどろくほどの明解さと実証性で教えられた。

 まさに、科学記者よ、なんじ自身を知れ

ということだろう。

 ● 記者の非力 添田孝史さんの発表

 Imgp7251 このシンポで、記者の追及不足という点からもうひとつ注目したのは、元朝日新聞科学記者だった添田孝史さんの、

 大津波警告を葬った人々 新聞記者の発表ものOJTから調査報道まで

という自らの記者体験をもとにした発表(写真右)。これは添田さんが昨年11月にまとめた

 『原発と大津波 警告を葬った人々』 (岩波新書、2014、写真下)

を解説したものといっていい。おもしろいのは、葬った人たちのなかに、添田さんは、自身も含めて科学ジャーナリストを取り上げていることだ。

 具体的には同書の第5章、

 能力の限界・見逃し・倫理欠如 不作為の脇役たち

である。この中の一例を挙げれば、

 「2009年6月の耐震バックチェックWGで、産総研の岡村氏は、東電が(今回の津波を予見させる)貞観津波を想定していないことを指摘していた。この発言を複数の新聞記者が傍聴していたが、誰も記事にはしなかった。」

 こうした追及不足の事例を添田さんは、とても正直に幾例も書いているのは好感できる。

 この章のまとめで、そしてシンポ発表でも添田氏さんは、

 「メディア全体の追及も甘かった。専門家に食い下がる知識と執念が足りなかった」

と暗たんたる思いで懺悔をしている。添田さんは誠実にも、この章の最後に事故の後始末や、ほかの原発の再稼動に存在する隠されたリスクあるいはそこにある構造に起因する問題について

 「それを十分暴けるほど、メディアの体制や能力が事故後に改善されたかと問われれば、実態は心もとない」

と結んでいる。

  Image2108_3 これを要して、はっきり言えば、専門家と肩を並べる能力も、またジャーナリストとして当然持つべき社会的な構造問題に切り込む能力のいずれについても、お先真っ暗だといっているのだ。

  このことを、ブログ子は、10年以上も前から指摘し続けており、このシンポでも、みんなから白い目で見られるのを承知で、大きな声で何回も指摘し続けた。

 科学ジャーナリズムの今の惨状を克服するには、科学ジャーナリスト自身のこの点の自覚と、おしどりマコさんのあの執念と情熱だということを、私たちジャーナリストはもっと思い知るべきだろう。

 この意味で、今回のシンポは大きな意味があったといえる。

  ● 補遺 

 ここでは、科学ジャーナリズムの分野をテーマとして取り上げたが、ジャーナリズム一般、たとえば政治ジャーナリズムでも、このところ衰退が著しい。

 そのことについては、元共同通信編集局長だったという難点はあるが、原寿雄氏の

 『安倍政権とジャーナリズムの覚悟』(岩波ブックレット)

に詳しい。

  このほか、ジャーナリズム全体については

 月刊誌「Jounalism(ジャーナリズム)」(2015年2月号、朝日新聞社)

が特集を組んで、3.11後、この国は変わったかという問題提起をしている。

 あれから4年も立っているのに巻頭の社会学者が「これからが勝負」と書いているなど、同誌は太平楽を並べている。

 これでお粗末なのは、科学ジャーナリズムだけではないことがわかる。とくにひどいというだけの話である。

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わがまちの「さなるこ新聞」号外

(2015.04.01)  ブログ子は、仲間たちと年4回発行する地域のコミュニティ季刊紙づくりをしている。普通は、地域のニュースなどを取材し、明るい地域づくりに役立てようというアットホームな「やさしい新聞」である。これまでに、9号を発行した。

 しかし、そうはいっても、これでいいのだろうかという硬派の社会問題についても、積極的に、臨時に次のような号外にして出すようにしている。今回が初めてなので、ここに転載しておきたい。

  写真のダブルクリックで拡大できる。

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