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量子力学90年の今 - 原子を操作する時代

Image2113_2 (2015.04.13)  このブログの2月26日付で、元日本物理学会長の佐藤文隆さんのエッセーをテーマにして

 現代「こんにちは赤ちゃん」物理学

を書いた。その後、いろいろと佐藤さんからアドバイスもいただいた。もともとのエッセーのタイトルは「無人物理、有人物理」だったが、今回は

 汽車が別れをつれてくる

というちょっと洒落たもの(写真= 月刊誌「現代思想」2014年12月号の連載・科学者の散歩道。注記参照)。いずれも現代の量子力学の土台をめぐる問題で、なかなかむずかしい。

 それでも、ブログに対し物理学者あるいは高校物理教師だったらしい高齢者から2、3の反響があったのは、うれしかった。

 そこで、というわけでもないが、もう一回、佐藤さんの別の連載を紹介してみたい。同じく現代物理学の土台にかかわる深刻な問題である。

 前回は現代物理学のとらえ方「確率という非因果律記述」の問題、QBズムがテーマだった。今回は、

 主観的時間と相対論の時間とのズレというNow問題

である。ボーア・アインシュタイン論争とは別の、いわゆるもう一つのアインシュタインの不満問題である。

 どういうことか。 

 「Nowの経験は人間にとっては特別なものであり、過去や未来とは基本的に異なるものである。ところがこの基本的な違いが物理学には存在しない。この「現在」感覚が科学では捉えられていないのは悔しいことだが、あきらめざるを得ないのだ」(アインシュタインの発言であるという論理哲学者カルナックの証言)

というのを引用して、佐藤さんはアインシュタインのNow問題を取り上げ、わかりやすく解説している。

 仮にこのNow問題という「現在」感覚を科学で捉えようとすると、結局

 「科学は自然にあるものではなく、(音楽などの芸術と同様)人間の創造したツール」

となってしまう。人類以前には科学的な真理は存在しなかったことになり、人類が絶滅すれば、永遠の真理だとされてきた科学的な成果も消滅する。

 これは、物理学徒としては大変にラジカルであるとブログ子も思うし、佐藤さんもそうらしい。佐藤さん自身の言葉によれば、佐藤さんも科学はあるときはツールであり、また別の時は自然法則でもあるというように「態度が行ったり来たりしている」という(2015年4月23付私信)。物理学者としての態度が一貫しないというわけだ。

 ● 科学は発明か、それとも発見か

 ブログ子も、ここまで考えてくると、

 物理学的な実在とは何か

 数学的な実在とは何か

という問題にぶち当たってしまうと考えている。

 ブログ子の見解を、はっきり言えば、

 物理学には、あるいは科学には決してこえることのできない限界、絶対限界がある

というものである。

 Image2114 さらに言えば、数学の成果についても、

 人間による発明の部分と、人間とは無関係の発見の部分

があるように思う(右写真=「日経サイエンス」2011年12月号特集・実在とは何か?と「現代思想」2014年12月号)。

 この点に関して「補遺」を参照。

 それはともかく、

 佐藤さんは、エッセーの中で、二つのアインシュタインの不満、つまり量子力学のコペンハーゲン正統派解釈に対する認識のズレあるいは違和感問題と:Now問題について、

 「人類の営みの中で科学がどういう特殊性と限界を持つものかという問題意識がこの二つの不満問題には存在する」

と強調している。

 だから、現代物理学の本流ではこれまで目をつぶってきたが、

 「量子力学に基づくテクノロジーの巨大な進歩を経た現在、(前回の佐藤さんにかかわるブログで述べた)90年前の創造期(の観測問題論争)をもう一度想起する必要がある」

と力説している。90年前の量子力学確立直前の論争には観測・測定者という主体が客体に介入する技術の発想はなかった。原子を「操作する」、あるいは操作できるという技術の発想はなかった。まだまだ主体は消極的な傍観者であり、現代のような積極的な、あるいは

 偏見や偏りのない「有人物理」

ではなかった。

 ところが、たとえば2008年には、IBM社は

 原子を一個ずつ「操作する」新しい顕微鏡技術の開発

に成功したと発表している。原子を単に観測するから、より積極的に操作する時代に人類は今立っている。それにふさわしい確固たる土台を現代物理学はいまだ持っていない。

 ● 権威がこける時代

 科学とは(いつかは)権威がこけていく物語

だと佐藤さんはいう。このエッセーを読んで、この言葉が現実味を帯びているような気がする(補遺2-佐藤さんからのコメント)。

 そして、ふと思った。

 これは、量子力学の問題だけに限らないだろう

と。150年以上権威を保っている自然淘汰による進化論も、そろそろ退場の時を迎えているとブログ子は、前回の佐藤さんのことを書いたブログの後半で書いた。

 進化のただ中にいる当の主体の積極的な介入のない進化論は幻想であると思う。主体介入のメカニズムが自己組織化によるものかどうかは別にして、結果論的になんでも説明の出来る傍観者型の進化論は科学理論ではない。

 ● 注記 時間は流れない/時間の存在は幻想 ?

 Image2115 このフレーズは、演歌「女の駅」のなかのもので、流れるものというのを、わかりやすく汽車という表現でたとえている。また、時間は過去から未来に向かう「時間の矢」という言い方もある。これも時間が流れている感覚を表現している。

 佐藤さんは比較的にむずかしい歌詞を紹介しているが、もっと簡単にNow問題の核心がわかるのも多い。たとえば、美空ひばりさんの

 それもまた人生という「川の流れのように」がある。

 海外のアジアでも、テレサ・テンの世界的なヒット曲「時の流れに身をまかせ」がある。西欧でも映画「カサブランカ」でテーマ曲として歌われたそのものズバリの

 「時の過ぎゆくままに」(As Time Goes By)

もある。この曲が歌われている「リックの店」の夜のバーカウンター。

 女「きのうの夜、どこにいたの?」

 男「そんな遠い昔のことは忘れた」

 女「じゃ、あしたの夜は?」

 男「そんな遠い先のことはわからない」

 今夜だけがすべてという粋な会話だが、過去については忘れた、未来についてはわからないときちんと使い分けているところがいい。

 現在は過去や未来のいかなるときよりも特別な存在というこの感覚。

 これが私たちの時間に対する現在感覚なのだ。

 別の言い方をすれば、明日の予定を立てる人はいるだろう。しかし、だからといって昨日の予定を立てる人は皆無だ。

 ところが、現代のミクロの世界を記述する量子力学では

 時間は(方向性をもっては)流れない

としている。すくなくとも、そうではないかと論争されている(写真左上は「別冊日経サイエンス 時間とは何か特集)。

 どういうことかというと、

 時間というものには、過去と未来に対し対称性がある

と物理学の力学方程式ではされているのだ(信じられているわけではない)。この現実とのギャップについては熱力学と二本立てにして、物理学は現実との折り合いをつけている。

 それにしても明日の予定を立てる人がいるのなら、昨日の予定を立てようと呻吟している人が同じくらいいても、理論的にはいいのだ。それがなぜいないのだろうか。

 これが、さきほどの現在感覚が科学で捉えられていないという意味なのだ。人間レベルにはある過去と未来に対する非対称性が現代の物理学にはないという謎である。

 以下余談だが、大栗博司さんの『大栗先生の超弦理論入門』(ブルーバックス)によると、

 空間同様、時間というのも、その実在は幻想かもしれない。つまり、私たちの時間というものも、本源的なものではなく、

 時間もより本源的なものから現れる二次的な概念

かもしれないと大栗さんは書いている。

 それは、ちょうどかつて古代ギリシャの哲学者のあいだで天と地、上下関係というのは空間の概念の中ではなにか特別な存在だと考えられていたのと同じことだという。そう思うのは、単に地球上にいるからであって、宇宙空間では上下などは幻想なのと同じ。であり、なんら本源的なことではない。単にわれわれの視野が狭かったからに過ぎないというわけだ。

 では、時間とは何か、その正体を明らかにしてくれるものは何か。

 それはこの宇宙の始まり、つまり

 宇宙誕生の起源

であるという。ビッグバンの前に何があったのか。これを量子力学と重力理論を統合して解き明かす。これこそ、時間とは何か、果たして時間は幻想なのかを確かめる鍵を握っている(らしい)。その先頭に立っているのが、超弦理論だというのだから壮大だ。

 そうなれば、何時の日か、カサブランカの男と女の会話の真の謎、つまり「忘れた」のか「わからない」のかという謎が解けるだろう。

 佐藤さんのエッセーを拝見して、そんな感想を持った。

 ● 補遺 佐藤さんからのコメント

 この点について、佐藤さんから以下のようなコメントをいただいた(2015年4月23日付私信)。

 従来は相対論の時間論からして量子力学に不満を持っていたと解される

 「EPR(アインシュタイン・ポドルスキー・ローゼン)の実在は物理学が表現しようとしている実在のことで認識論上の実在。それに対して存在論上の実在では唯物論のように精神現象もすべてこの実在が支配するとする」

 このように同じ実在という言葉をつかっても、その意味するところの次元が異なる。

 ● 補遺2 「権威がこける」-佐藤さんからのコメント

  佐藤さんの著書『科学と人間 科学が社会にできること』(青土社、p124、2013)

  プラグマティズムを創始したアメリカの哲学者、

チャールズ・「パースは科学を次のように位置づける。一般に疑念から信念に到達する努力には古来四つの方法がある。

 固執の方法、

 権威の方法、

 先天的方法、

 科学の方法。

 固執の方法とは自分の気にいるものだけで自分の中で信念を固める方法であり、日常よく陥りやすい道である。

 権威の方法とは固執の方法を組織化された集団に拡大し(たもので)、それになびかない異物を攻撃して排除する。これは一時的に確信に向かうが、後に意図的に何かを排除したゆがんだものであることに気づく。

 先天的方法とは1+1=2のような、理の方法で信念を固めるものだが、具体物と理の結び付け方に個人の嗜好が入り、理は当然であっても、それを適用する場面が恣意的にならざるを得ない。

 このような個人の偶然的な気分や、社会の集団ヒステリーの影響や、理の恣意的操作のトリックなどの陥穽を避けるには、チェック機能を人間界の外側に求める必要があり、それが四番目の科学の方法である。(魚津郁夫『プラグマティズムの思想』(ちくま学芸文庫)を参照した)」

 卓見ともいえるこの指摘は、権威だけでなく、

 人間の理性がこける

ときにも当てはまるだろう。

 物理学だけでなく、たとえばジャーナリズムの評論も、先天的方法という論理の恣意性が問題になることがおおいにあるように感じる。論理の運び方に偏りや恣意性、嗜好性がないかどうか、公正とは何かを考えるなどブログ子もよくよく自戒したい。 

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