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2015年3月

あれから20年、オウム事件とは何だったか  

Image209819952015.03.20) 表題の「あれから20年」のあれとは、もちろん、地下鉄サリン事件のことである。20年前のきょう3月20日に発生した。死者10人、負傷者は数千人にのぼった戦後最大の社会事件である。

 裁判の結果は、オウム幹部13人が死刑判決を受けた。

 しかし、事件そのものは風化し始めている。果たして事件はこれで一件落着といっていいのだろうか。この事件は、結局何だったのだろうか。何が教訓なのか。宗教的な面だけでなく、科学ジャーナリズムの面からも教訓はあるはずだ。ブログ子は、そんな思いでいた。

 ところが、宗教学者の島田博巳さんが、Eテレ「視点・論点」(3月20日)で

 オウム事件とは何だったのか

という同じテーマで語り掛けていた。さすがは宗教学者だというような結論をきちんと出していたのには感心した。

 そのポイントを以下にまとめておきたい。

  ( 写真は、ブログ子秘蔵のサリン事件直後の生々しいサリン無差別テロの様子をカラー特集した「週刊朝日」4月7日号と、「洗脳」で恐怖を移植すると大見出しを打った「アエラ」4月17日号。アエラでは、この事件では科学とオカルトが同居という分析記事を編集部員が書いている)

 ● 自分勝手な救済を宗教に求めて

 総括の第一。

 今の時点から考えると、

 オウム事件は、「イスラム」国問題の先駆け

という点を指摘していた。その上で、教訓として何だったのかという答えとしての

 総括の第二。

 オウム事件を引き起こしたものは、

 他人や社会をかえりみない自分勝手な救済を宗教に求めようとした安易さと、反省の弁にみられるように、結果に対する自覚と責任の希薄さ

だったと結論付けている(ようにブログ子にはみえた)。

 この安易さと希薄さが、殺人という重大な秘密をもった組織を、修行の場であるはずなのに、組織防衛のため組織犯罪に落ち込ませていった。

 この人間の弱さを克服する対策がとられない限り、また同様な事件が起こるかもしれないというニュアンスの発言を、最後に島田さんはしていたように思う。

 ブログ子も、これこそが、オウム事件の深層のような気がする。

 第三の総括。

 オウムの教団が1990年代前半、急速に成長できたのには、国内バブルの崩壊(1992年前後)と、国際的には旧ソ連の崩壊(1991年)の2つの要因があった。バブルの崩壊で大衆の不安を急速に教団に吸収できた。その資金力で旧ソ連の武器を大量入手できるようになったこと、この二つの条件が大きい。

 こうした条件かそのまま将来そっくり出現することは考えられない。

 が、似たような条件が整えば、たとえば「イスラム」国のようなものも出てくる可能性もあるだろう。そんなことを、島田さんは匂わせていたようにも思う。

 ● 週刊誌読み返し、再検討

 上記写真の「アエラ」号では、高名な科学史家の村上陽一郎氏が

 科学に潜む不合理の誘惑

と題して、科学が持つ本来的な危うさを指摘している。

 宗教的な面だけではなく、科学ジャーナリズムの面からも、この節目に当たって、きちんと総括しておく必要があるだろう。

 その意味で、これらの週刊誌を20年ぶりにじっくり読み返し、再検討してみたい。その結果について、近々、報告してみたい。

 自戒。

 事件をセンセーショナルに取り上げるような一過性ジャーナリズムであってはならない。教訓を汲み取ろう。

 あとは野となれ山となれわしゃ知らんというような無責任な尻切れトンボジャーナリズムから抜け出したい。

 起きてから騒ぐ予見性なきジャーナリズムを乗越えたい。

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アリ1匹、ドミノで倒す巨大な壁

(2015.03.20)  先週土曜日夜のEテレ「大科学実験」は

 ドミノ倒しの要領で1匹のアリが、ほんの小さな壁にほんのちょっとふれて、倒したところから、最後には5メートルの巨大壁(発泡スチロール)を倒してしまう

というもの。

  Imgp714420150314e_2 最後のドミノピースの厚さは50センチくらいもあるのだが、実験の様子は右の写真(同番組テレビ画面より)の通り。

 アリにとって5メートルというのは、人間にとって1000メートルをかなり超える超々高層ビルに相当する。ざっと世界一の東京スカイツリーの倍の高さである。

 番組はまず、ドミノがなぜ次々と倒れていくのか、あるいは倒れないようにするにはどうするか

という原理にそれとなく言及する。大きさには関係なく、個々のドミノ牌の重心が牌の床底面内からはみ出ると、回転モーメントが働き出し、復元力をこえて前へ前へと、なぎ倒すように倒れ出す。

 この原理を利用して、アリ1匹が倒しやすい大きさの微小牌から次第に少しずつ大きくして5メートルの巨大壁の牌まで、間隔を調整しながら20個近い牌を順番に並べる。

 そうして実験したのが写真。みごとに巨大壁が倒れた。

 ● 必要な力学的エネルギーはどこから?

 この実験は、かなり緻密な計算に基づいた牌のセッティングが必要なのだが、ドミノ倒しの原理であるところから、見かけ上はわかりやすい。

 しかし、ふと、最終的に巨大壁を倒すに至った力学的なエネルギーはどこから得たのだろうかという疑問が残った。

 もちろん、最初の一押しをしたアリのエネルギーではとても足りない。

 では、どこから?

 しばらく考えて、わかった。

 次々と倒れていくスチロールの壁が次々と隣りの牌に力学的なエネルギーを受け渡していったのである。

 ドミノ牌を倒したエネルギーの正体は重力

ということになる。重力に手助けしてもらって、アリは巨大壁を倒した。

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日本人のバイカル湖起源説は今  

(2015.03.18)  月刊雑誌「文藝春秋」の最新号(4月号)が、

 DNAで日本文化の起源がわかった

という記事を掲載している。文系研究者が、最新のDNA分析技術を駆使している篠田謙一国立科学博物館人類研究部長にインタビューしている。

 ● 北陸新幹線工事で大量の縄文前期人骨

 北陸新幹線建設工事中に、富山市の小竹貝塚が発見されたのだが、そこからこれまで発掘された縄文時代前期(約6000年前)の人骨全部よりも多い91体もの同時期の人骨が見つかった。そのDNA分析を担当したのが、国立博物館だった。

 その成果の一部が、月刊誌で紹介されているというわけだ。

 ● 列島でブレンド、誕生したのが縄文人

 記事によると、小竹貝塚の分析からは

 「弥生人がやってくる前に住んでいた(日本列島の)日本人は(遺伝子レベルで)「均一な縄文人」とするには無理がある」

ということがわかった。縄文人は遺伝子レベルでは均一ではない。しかも、

 「縄文人は世界中のどの時代の、どこの誰とも似ていない」

 各地の特徴を少しずつ持っているという。このことが意味するのは

 「縄文人はおそらく日本列島の中で誕生したということです。つまり、日本列島には縄文時代に至るまで非常に長い旧石器時代(4万年前-1万5000年前)の歴史があるわけですけれど、その間、大まかに言えば、北と南から様々な人々の渡来があった。そこで集団間でブレンドが進み、できたのが縄文人」

ということ。北と南からということは、千島ルート、樺太ルート、朝鮮半島ルート、沖縄ルートの4ルート全部という意味。

 ● 日本人の祖先は弥生時代に列島へ

 さらに縄文前期の人骨が大量に出た小竹貝塚の分析から

 「現時点で言えるのは、2万年か3万年前に大陸で生まれ、その後、いろいろなタイプを生みながら、縄文時代に日本へ入ってくるものもいたが、(現代の日本人につながる)メインは(食料が豊富で繁殖力の大きい)弥生時代に稲作農耕と一緒に入ってきた(たぶん南方ルートの)グループ」

ということがわかったという。

 ● 松本秀雄教授との出会い

 ブログ子は大坂で3年ほど夕刊紙の記者修業をしていたが、大阪医科大学法医学教室にたびたび出入りしていた。そんな関係で長期連載したり、それを本にまとめたりした(写真=『松本秀雄教授の先生、事件ですよ!!』恒友出版、1985年)。

 そのなかには、写真にもあるように、

 Image2095 検証 日本人のルーツ

     日本人の起源はシベリアだ

というのもある(写真はダブルクリックで拡大)。日本人のバイカル湖起源説であり、学説としては相当に早い時期のものである。松本教授のバイカル起源説は

 『日本人は何処から来たか』(松本秀雄、NHKブックス、1992)

でも、詳しく解説されている。その方法論を一言でいうと、

 民族を区別する遺伝子レベルのマーカーとして血液(血清)型の判定に用いるGm遺伝子を採用するというもの。

 現代人のその血清中の遺伝子構成がアジアの130地域にわたってどのように分布しているかを図示した。

 その結果、松本教授は、バイカル湖周辺、たとえばウラン・ウデのブリヤート人などが日本人(つまり縄文人)の起源ではないかという結論に達した。

 ● 考古学からもバイカル湖説支持

 松本教授はその後も、南方起源説(尾本恵市、斎藤成也氏など)を自ら再検証した。その結果、2009年のレビュー論文で「日本人集団は基本的に北方モンゴロイドに属する」と強調している。

 また、この血液型研究の結果について、考古学者、加藤晋平氏は、東日本細石刃文化研究(1万2000年前から2万3000年前)とも

 「恐ろしいほどの一致といわざるを得ない」

と述べ、考古学からもバイカル湖起源説を支持している(『日本人はどこから来たか』岩波新書、1988)。

 この線に沿った大型番組

 大シベリア 日本人のルーツを探す旅(BS-TBS、2015年3月8日放送)

も最近、放送された。

 この番組をみても、ウラン・ウデのブリヤート人は確かに、日本人そっくり。朝鮮人や中国人よりもはるかに人種的に近いように見える。たんなる空似ではない。これにはなにか原因があるはずだ。

 このように縄文時代の日本人はどこから来たか。南方からか北方からかという点では、いまだに明確には決着がついていない。

 決着には、松本学説の仮定、つまり 

 民族を区別するマーカーとしてそもそもGm遺伝子だけでいいか

という問題があるように思う。南方説派がいうように、

 血液型遺伝子だけでなく、多くの遺伝子座を指標にする必要はないか。また人類学、考古学の知見

を総合する必要もあるだろう。

 松本教授が亡くなって3年、論争は今もって決着がついていない。

 松本教授と出会ってから30年、このことを、春分の日=春のお彼岸を前に、墓前ならぬこのブログで報告しておきたい。

  ● 補遺 日本人のルーツ

 日本人の起源については、新書などの一般解説書に限っても10冊以上もある。

 たとえば、日本人のルーツでは

 http://shinshomap.info/theme/roots_of_japanese.html 

などが参考になる。

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「自転車泥棒」にみるイタリア・リアリズム

(2015.03.17)  ブログ子も参加しているこじんまりとした学習会で、先日、敗戦直後の生活苦にあえぐローマ庶民の生活を描いたイタリア映画

 「自転車泥棒」(デ・シーカ監督、モノクロ、1948年)

というのを見た。ブログ子が生まれた年の公開というので興味を持った。のだが、イタリア・リアリズムの映画として、つとに有名なのだという。

 主人公は仕事に必要な自転車を仕事中に盗まれる。このままでは再び失業しかねないというので、息子と二人で泥棒を捕まえ、自転車を取り返そうと街中を駆けずりまわる。

 なかなか見つからないので、思い余って今度は自分も他人の自転車を盗んでしまう。しかし、こちらのほうは、息子の見ている前で、つかまってしまうというストーリーである。

 筋の展開はごく単純なのだが、見たあとの討論で、

 どこがイタリアリアリズムなのか

という点が話題になった。言い換えれば、当時の映画界で、なぜこの映画が高い評価をうけたのかという問いかけである。

 ● 当時の日本映画との比較

 辞書によると、文学、芸術上のリアリズムとは

 主観を交えず、現実をありのまま認識し、表現しようとする写実主義

のこととなっている。これは、観念論の社会主義リアリズムのように

 主観を交えて現実を理想化する

ことはしない立場であるともいえよう。

 討論ではなかなか結論が出なかった。家に帰って、晩酌をしながらいろいろと考えていたら、当時の日本ではどうだったかということが気になりだした。

 当時は日本も敗戦直後であり、生活苦にあえぐ大衆風俗を描いた映画としては、やくざと反骨の医師の交流を描いた

 「酔いどれ天使」(黒澤明監督、1948年)

とか、公務員が定年を前にその使命に目覚める

 「生きる」(黒澤明監督、1952年)

というのが公開されている。いずれも志村喬が主演している。

 これらと、「自転車泥棒」とは、どこが違うか。

 そして、気づいた。

 「自転車泥棒」には、ストーリーに起承転結のうち「結」というのがなく、見る人を安心させるようなヒューマニズムなどは描かれていない。めでたし、めでたし、というのがない映画であり、「結」は、日々現実と向き合っているみなさんそれぞれが考えてくださいというもの。

 これに対し、日本の作品は2本とも、起承転結がそろっていて、「結」として予定調和的なヒューマニズムが描きこまれている。監督の言いたいことがラストに描かれている。

 一言でいえば、「自転車泥棒」は映画館のスクリーンと映画館の外の世界とが同じで、上映テーマはどこにでもあることとしてスムーズにつながっている。これに対し、黒澤映画のほうは、スクリーンと館外とは別世界で、外の世界では滅多にないヒューマニズムなテーマが描かれている。

 そういえば、タイトルもデ・シーカ監督のほうは、自転車泥棒というように即物的(同監督の1950年の「靴みがき」もこのタイプ)。のに対し、黒澤映画は、タイトルが観念的、ヒューマニズム的な抽象的なものになっている。黒澤監督の主観が込められているからだ。

 イタリアリアリズムとは、監督の主観を排除した映画なのだということにようやく気づいた。別の表現をすれば、観念的な社会主義リアリズムの対極にある考え方なのだ。

 ● エンターテインメントの時代に

 いまでは、この両対極は、いずれもすたれている。ハリウッド映画に代表されるように、現実とは無縁のエンターテインメントの時代なのだ。

 現代では、現実から逃れたいから映画を見に行くという傾向が強い。とすれば、イタリアリアリズムに則って今風の「自転車泥棒」を公開しても、誰も見に行かないだろう。わざわざお金を払ってまで、毎日いやというほど見ている現実を見に行きたくはないからだ。

 こう考えれば、イタリア・リアリズムが、やがて世の中が豊かになるにつれ、1950年代省みられなくなったのも、よく理解できる。

 片方の社会主義リアリズムだけが生きのびた。しかし、それも1990年代になると、ヨーロッパを中心に放棄される。

 観念的な社会主義リアリズムが今も残っているのは、今もって貧困にあえぐ北朝鮮だけになってしまった。北朝鮮がなぜ今も貧困にくるしんでいるのかという理由が、戦後リアリズムの一方をになった今回の映画でよく理解できた。

 現実を豊かにするのは、イタリア・リアリズムでも、社会主義リアリズムでもない。そのことを、ハリウッド映画の今の繁栄は物語っているのかもしれない。 

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三方ヶ原の大敗北を関ヶ原の勝利に生かした男

Imgp7127bs20150312 (2015.03.17)  歴史家、磯田道史さんが案内する、先日のBSプレミアム「英雄たちの選択」は、

 信玄と若き家康との三方ヶ原合戦(1572年旧暦12月)

だった。前回のこのブログでもこの合戦の家康の負けっぷりを書いたので、興味深く拝見した。.

 脂の乗り切った合戦巧者の信玄に対し、多勢に無勢の若き31歳の家康は、浜松城に

 籠城して戦うべきか、それとも一か八か、無謀にも迎え撃って決戦すべきか

という選択の議論だった。明らかに戦力不足なのだから、当時の常識でもここは籠城が得策、正解。

 なのにどうして、突如浜松城を出て、家康は三方ヶ原台地に信玄軍を迎え撃ったのか。

 これがテーマだった。

 家康側にもさまざまな思惑があったのだろう。だが、一言でいえば

 家康を籠城させてはならない、おびき出そうと秘策を練った信玄の作戦勝ち

ということだ、と番組は指摘していた(戦国史の小和田哲男氏など)。

 三方ヶ原台地に南下してきた信玄軍は、突如、浜松城に背を向ける。そして、織田信長の三河に向かうそぶりをみせた。

 それを知った家康は、ここで籠城していては末代までの恥、いや家康支持の勢力も、これでは頼りにならないと見切りをつけて離反するかもしれない。いまこそ信玄の背後を突く作戦に出るべきだ。

 Imgp7110 信玄側からすれば、まんまと作戦にはまったとみえただろう。家康の心理状態を十分に見抜いた上での謀略といえる。

 城を出て、三方ヶ原を登ってきた家康軍を待ち受けていたのは、信玄軍の大軍勢待ち伏せだった。家康軍は上から包み囲まれる形で、大敗走するはめになった。

 上の写真は、当時の三方ヶ原合戦布陣の様子を再現した立体ジオラマ=浜松市美術館で公開時。浜松市の犀ヶ崖資料館常設展示)

 ● 28年後、石田三成の大垣城に応用

 番組でおもしろかったのは、九死に一生を得た家康は、このにがい経験を28年後の関ヶ原合戦(1600年)前夜に応用していることだ。家康50代、三方ヶ原合戦のときの信玄53歳と同世代のときである。

 籠城作戦の石田三成軍に対し、城の東の赤坂に陣取った家康軍。突如、家康は夜陰にまぎれて大垣城を迂回し、関ヶ原に近い三成の居城に向けて移動しはじめたかのようにみせかけた。あわてた三成軍は籠城をあきらめ、そうはさせじと急いで城を出て、関ヶ原に陣取った。

 が、しかし、これは家康の作戦にまんまとはまった格好。そのときの家康の心に去来したのは、若き日の三方ヶ原での自分の姿であり、それを三成に重ね合わせたであろう。

 野戦に強い家康。こうした家康のイメージは、三方ヶ原の大失敗から学んでいったからこそ、出来上がったものであろう。

 (写真はいずれも、BSプレミアム「英雄たちの選択」2015年3月12日放送のテレビ画面から)

 

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「開門 ! 元目口」  その現場に立つ

Imgp7097 (2015.03.17)  ブログ子が暮らす浜松市が毎月発行している

 「広報はままつ」

の3月号(2015年)が届いた。最近始まったのだが、浜松市に暮らす歴史家、磯田道史さんの

 コラム「ちょっと家康み」

を楽しみにして、毎回読んでいる。今回は、

 開門 ! 元目口

である。信玄との三方ヶ原合戦でほとんど戦わずしてのっけから大負けし、家康が浜松城に逃げ帰った史実を取り上げている。

 逃げ帰ったのはいいが、あまりにもお供の家来(わずか7人)がすくないので、城のどの入り口の門番も、

 「そんな少人数で殿様(家康)が帰ってくるはずがない」

となかなか信用しなかったという。お前ら偽物だろうというわけだ。その間にも、信玄軍の追っ手が迫ってくる。そんななか、家康たちは城の周りを、いくつかの門をグルグルまわり、ようやく、入ることができたというのだから、おもしろい。

 ● 今も古城の雰囲気残す切通し

 引間城の元目口というこの入り口こそ、現在の浜松市役所の向かい側にある

 市役所元目分庁舎駐車場南西角(右上の写真)

なのだ。この写真の右端に分庁舎の一部がみえている。

 道路をはさんで向かい側には、「元城町東照宮屋台置場」がある(写真の左端。それに隣接する茂みがかつての引間城の一部=現在の元城町東照宮敷地)。

  この交差点から南に向かう切り通しの道は、今も「古城」の雰囲気を残していて、風情があると磯田さんはこのコラムで書いている。

 ● 歴史を体感する

 Imgp7090_2 先日、このコラムを読んで、家康出陣と生還の現場に立った。

  トップ写真の交差点から、当時をしのばせる切通しの雰囲気が左の写真。

 そこで感じたのは、そして、そこを通り抜けながら、感じたのは、

 歴史の現場に立つということは、歴史を〝体感〟する、理解する第一歩

ということだった。

 ( 下の写真は、切通しにある元城町東照宮拝殿  )

 Imgp7088

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原作に挑戦、「80時間世界一周」 〆て13万円

(2015.3.13)  読んだことはないが、フランスの冒険小説に、

 『80日間世界一周』

というのがあるそうだ、今から150年近く前のもので、当時、実際にも同じような企画がお金持ちの間で大人気だったらしい。

 おそらく、『種の起源』(1959年)で知られるC.ダーウィンの5年にもわたる20代のビーグル号航海(1836年イギリスに帰航)の影響だろう。世界は驚きに満ちているという体験をしてみたかったのだろう。

 ● 格安航空の乗りまくり

 ただ、一周してくるという目的では、1522年に成し遂げたマゼランの世界一周が、地球は確かに丸いということを証明した点で有名。このときは、マゼラン自身は、立ち寄ったフィリピンの島で殺されているが、ともかく、3年でスペインに航海船は戻ってきている。

 じゃあ、今だったら、格安航空を利用したら、どれくらいの時間で、またどれくらいの旅費で世界一周できるのだろう。

 そう考えた、50代のルポライターがいる。ときどき出かける図書館の返却棚で偶然見つけた本に、なんと、

 『80時間世界一周』(近兼拓史、扶桑社新書、2012)

というのがあったのだ。海外旅行のベテランなのだが、サブタイトルは

 格安航空乗りまくり悶絶ルポ

というのだった。80時間台、というからたった4日間というものすごい駆け足。費用もなんと全部で13万円。時間も費用も国内旅行並みだったというのにはびっくり。

 ちなみに、24分の1に時間を縮めたおかげで、費用の点でも、わずか13万円と、船旅なら最低でも300万円はかかる費用を約24分の1にカットできたらしい(「補遺」参照)。

 ● 50歳で人生観を変える

 たいていの人は、そんなに急いで海外旅行をして何がおもしろいのか、といぶかる人も多いだろう。のんびりと、おいしい料理や美しい景色を楽しむ。それが海外旅行ではないか。国内旅行でも、それはいえる。

 それに対し、この悶絶の早回り旅行には、

 安い費用でしかも、人生観を変えることができる

という楽しみがある点。身についた常識が通用しない場面がたった4日間で次々と体験できる。リスクをとるという決断力と判断力、臨機応変な機敏さも、昔の冒険世界旅行の時代と同様に求められる。

 確かに、のんびり旅行ではとても、そんなことは無理だろう。これまでの人生のご褒美ではない。新たなものに挑むこころを育むというわけだ。

 早回りの意味は、長期にわたる命がけのマゼランやダーウィンの航海と何ら変わらない。

 60代で、もう海外旅行は無理とあきらめかけていたブログ子がショックだったのは、

 50歳という著者の年齢

だった。

 人生の下り坂に差し掛かっている50代になっても、その気さえあればまだまだ人生観を変えることができる。つまり人生を変えることができる。

 少し大げさに言えば、そう考えてもいいということ。このことを、早周りという意表を突く行動力で気づかせてくれた貴重な新書だったように思う。

 言い換えれば、井戸の中のカエルになるな、というメッセージだ。これは常識が通用する国内旅行ではとても体験できるものではない。

  ● 補遺 88日間、世界一周88万円 2015年5月12日付

 船旅(成田-ドバイは旅客機利用)では、いくらぐらいかについて、

 最近(2015年5月12日付朝日新聞朝刊)、広告を見つけた。ピースボート フライト&クルーズで、特別企画先着100名様限定という条件が付いているのだが、

 88日間、世界一周88万円(4人相部屋で1人当たりの料金)

というのがあった。2人(ペア)部屋なら1人当たり135万円、いわゆるシングルなら160万円。これは、本文試算300万円の約半額。

 添乗員が同行。ヨーロッパ観光は地中海めぐりのベネチア、マルセイユ、バルセロナ。スペインではあのサグラダファミリアも見学できるという。ギリシャではサントリー二島に上陸する。スエズ運河もパナマ運河も通航する。ペルーの世界遺産、マチュピチュ遺跡、画家ゴーギャンのタヒチにも上陸する。寄港地は全部で20港。ピースドリーム号(35000トン)で9月10日出発、12月6日帰着。

 飛行機とはちがって、船の中で寝泊りする。ので、荷物の運搬がなくなり、シニア向け旅行かもしれない。手ぶらで出かけられる世界一周ということだろう。

   参考のため、申し込みは03-3362-6309(FAX)。企画・実施= ジャパングレイス(新宿区、03-5287-3081) + ピースボート

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「黄河の水」をさかのぼる 星宿海

(2015.03.11)  50年近く前、高校生だったブログ子は、世界史が好きで、教科書以外の歴史書を少しだが、読んだ。そのなかに

 烏山喜一『黄河の水』(角川文庫)

Imgp7103 というのがあった。中国の歴史は黄河流域にありというわけだろう。とうとうと流れる水というのは、大衆をイメージしたものだということもわかる。中身は、少年少女向きの中国小史。

 長い長い中国の歴史を、こんな小さな、そして薄っぺらな小冊子で読めるというのが、同級生に好評だった理由だった。

 ● 高校時代の思い出

 そんなことを今も覚えているのは、著者の烏山喜一という人の「烏」という文字をてっきり、小鳥の「鳥」だと思い込んでいて、先生に注意されたことがあるからである。カラスを意味する「烏」という文字には、小鳥の鳥の字よりも横棒一本足りない。と、当時の世界史の先生は注意してくれた。カラスの烏と、小鳥の鳥とは、別字。今で言うならば、ウーロン茶の烏龍茶は、カラスの「烏」なのだ。

 遠い記憶で細部ははっきりしないが、そんなこんなで、ブログ子にとって、この本には思い出が多い( 注記 )。

 高校生の時に読んだときには、この本は中国の歴史とはいっても、もう少し意味が狭く、

 漢民族の歴史

だということには、思いが至らなかった。水そのものは、広大な水がめ、チベット高原の峰峰にある万年雪から供給されているのだろうということは、高校生でも容易に想像できた。

 もう一つ、思いが至らなかったのは、

 黄河の水をもっともっとさかのぼれば、一体どこにたどり着くのか、つまり、源流はチベット高原のどのあたりか

ということ。この本の「黄河の水」というのはせいぜい、蘭州まで。それよりさらにさかのぼったところは出てこない。漢民族の歴史とは直接関係ないからだろう。

  ● 星が生まれる海への旅    

 先日、BSプレミアムで、再放送なのであろう

 「星が生まれる海 星宿海」

というのを放送していた。銀川から蘭州を通り、さらに南へ、南へと流れる黄河をさかのぼる。源流の星宿海まで、土地、土地の人々との出会いを楽しみながら走破する車の旅である。

 赤土を溶かし込んだような黄河のほかに、真水のような黄河。そうかと思うと青い黄河もあった。広くなったり、消えてしまったような黄河、さらにさかのぼると清澄な双子のような湖にも出会う。

 オリン湖とザリン湖

である。だいたいの位置としては、中国の南部、青海省南部の高原地帯である。

 このあたりまでくると、モンゴロイドというよりも、チベット民族の顔であり、宗教もチベット仏教(ボン教)で、人々は中国語を話していても、漢民族とはかなり異質な文化のように感じる。

 この双子の湖をさらに西へ西へと、そして、上へ、上へと行ったところに、ゆるやかな巨大盆地。そこには数百はあろうかという湖沼からなる

 星宿海 = 黄河の水の源流

があった。標高は4300メートル前後である。

 ● なぜ星宿海なのか

 そんな星宿海の近くにも、二人の子供のいる家族がつつましく暮らしていた。

 なぜ、この湖沼群が

 星の宿る、あるいは生まれる海

なのか、最初はよくわからなかった。

 それがわかったのは、晴れた月明かりの夜だった。

 天空の星空の下に、地平線で接続するように、湖沼それぞれの湖面が月明かりの反射でまるで星が生まれてきたかのように星が輝き、浮かび上がるのだ。

 本当の星空と、地上の無数の反射湖面とが、暗闇の水平線をはさんで群がり、輝いている。

 幻想的で、絶句するような光景だった。

 番組でも、言及していたが、本当の源流はここからさらに西、あるいは南に下がったところらしい。100キロ以上も先きなのだ。

 それでも、青海省南部の高原地帯の範囲で、チベット自治区までには至っていない(下に源流地図 =  朝日新聞グローブ(2009年、19号)。一部手書き加筆し引用)。

 本当の源流までの踏査は、おそらく軍事機密にふれるということから中央政府の許可が出なかったのであろう。番組では紹介されていなかった。

 それにしても、文字通りに中国の奥深さを知ることのできたおもしろい番組だった。

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  ● 注記

 写真の『黄河の水』は、ブログ子の高校時代のときよりも新しい

 改版初版(1972年発行、定価180円)

ものである。表紙の写真はまさに高校時代に読んだものと同じ。

 ただし、このときの著者名は、なぜか、小鳥の「鳥」であって、横棒一本足りないカラスの「烏」ではない。

 ● 補注

 この星宿海の南の正式な源、正源のあたりは、長江の源流あたりでもあることを付記する。

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村山談話は日本の「ワイツゼッカー演説」?

(2015.03.10)  BSフジの夜の2時間討論番組「プライムニュース」がおもしろい。3月9日のテーマは、

 村山談話について村山富市元首相自身に聞く

Imgp7028 というもの(写真右 = BSフジのテレビ画面から)。ほかのゲストは、元外務省条約局長の東郷和彦氏(現在は京都産大教授で同大の世界問題研究所長)>

  のんきな誕生秘話の裏話程度かと思っていたら、生放送の意外性で、

 村山談話は、戦後アジアに向けた日本の「ワイツゼッカー演説」にも勝る

という展開になっていた。こう評価したのは東郷氏。

 この演説は、このブログでも何度か取り上げたように、戦後40年の1985年に西ドイツ議会での大統領演説として、つとに有名(ポイントは「注記」参照)。

 ● 東郷和彦氏の評価

 ワイツゼッカー演説の場合は、最悪のホロコーストをやらかしたことに対する深い反省を込めたものである。これに対し、村山談話は、ホロコーストを行なってもいないのに、アジアの国々に対し

 国策を誤り、日本が植民地支配と侵略を行なった歴史的事実に対する 

 痛切な反省と心からのおわび

を戦後50年にあたって表明したからだと、出演した東郷氏はこの談話の意義を高く評価した。その上で、当時、自民党閣僚も含めて全閣僚によって署名、閣議決定されたこの談話を今後もそのまま引き継ぐべきだと強く主張した。

 Imgp7041 東郷氏によると、この村山談話の基本的な考え方には

 『禅と日本文化』などで世界的に知られる仏教哲学者、鈴木大拙の(禅の)思想

があるとまで評価。対して、それは知らなかったと隣りに座っていた村山氏を驚かせていた。

 ブログ子は、金沢市で20年仕事をしていたから、金沢市出身の大拙については、ある程度知っている。最近、金沢市内の生地、本多町に鈴木大拙館もできた(開館は2011年)。

 それにしても、戦前、東洋思想の研究に打ち込んだ大拙が村山談話と関係しているとは、ブログ子も知らなかった。

 ● 70年談話は正々堂々の陣で

 この番組の定番となっている最後でのゲストの提言では、

 村山氏は「歴史的事実ははっきりすべきだ」

と、単純明快にしたためた。村山氏は、今の安倍首相が「全体として村山談話を引き継ぐ」としているものの、その趣旨を、今夏の安倍70年談話でなんとか「薄めようとしているのではないか」との危惧を、番組で何度も述べている。安倍首相の隠された意図にクギをさす意味を、この提言に込めたものとブログ子は受け取った。

 村山元首相の危惧は、ブログ子も、ズバリ正鵠を射ていると思う。

 要するに、安倍首相は、村山談話の意味するところを、正攻法ではなく、姑息な手段でなんとか薄めたいのだ。それを歴史的な歪曲といわれないようにどのように巧みに行なおうとするのか。その行ない方によっては、安倍さんの首相としての器量や資質が問われる70年談話ともなるように思う。

 国際社会が相手である。ここは、正々堂々、正攻法で望むべきであろう。これまでのような国内に向けた重箱の隅をつつくようなレトリックにすぎるやり方では、それこそ、首相として末代までの禍根を背負うことになるだろう。

 また、東郷氏は「(アジアからも当時高く評価された)村山談話をそのまま引き継ぎ、(むしろ、その上に今後の)文化大国としての世界ビジョンを」と訴えていた。2020年の東京五輪を念頭に置いた戦略として提言したものだろう。

 ● 歴史認識の見直し

 東郷氏には、出演中にも紹介しているが、

 『歴史認識を問い直す』(角川「oneテーマ21」新書、2013年)

というのがある。ここでは、靖国問題との関連で村山談話を取り上げている。

  また、村山談話の意義を広く世界に向けてアピールしようとした英文の

 『Japan and Reconciliation in Post-War Asia : The Murayama Statement and its Implications』( Palgrave Pivot 、2012 )

本を見せながら、番組でも東郷氏自身が紹介している( 写真左上 )。

 こうしたことからも、うかがえるが、東郷氏の指摘や、提言は必ずしもその場限りの口からでまかせではない。きちんとした分析結果に基づいていることに注目したい。

 その意味で、東郷氏の提言に、ブログ子も賛成したい。

  Imgp7037

  ● ワイツゼッカー演説(敗戦50年の1985年、ドイツ議会演説)

 「過去に目を閉ざすものは現在にも盲目である。(だから、)われわれは若かろうが、年をとっていようが、みな過去を受け入れなければならない」。

 この場合の「過去」とは、ナチスドイツのユダヤ人の根絶やしというおぞましい大虐殺、つまりホロコーストのことである。

  ● 「荒れ野の40年」の論旨 2015年3月13日 記

 上記のポイントをアップしておいたのだが、ある読者から、ここは大事な点なので、

 『言葉の力 ヴァイツゼッカー演説集』(永井清彦、岩波現代文庫、2009)

を演説全文を紹介しておくべきではないか、とご教示をいただいた。また、ブログ子のポイントは要約のし過ぎで、厳密には正しくないとの指摘も受けた。

 というのは、後半の

 (だから、)われわれは

の以下は、演説そのものにはそのままの文章としては出てこない。そういう趣旨のスピーチが終わりのほうに出てくるだけだと、お叱りを受けた。

 そこで、以下、この演説「荒れ野の40年」を抄録しておきたい。

 演説の冒頭は

 「及ぶかぎり真実を直視する力がわれわれ(ドイツ)には必要」

というところから始まる。

 演説の最後も、この言葉で締めくくっている。

 その上で、歴史的な事実を心に刻むことの重要性を具体的に語り始めている。

 そして、次の言葉が出てくる。有名な部分なので、そのまま引用する。

 「問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。あとになって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし、過去に目を目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしないものは、またそうした危険に陥りやすいのです」

 つまり、

 「心に刻むことなしに(ユダヤ人との心からの)和解はない、という一事を理解せねばならぬのです」

 このことを演説全体の前三分の一のところで結論付けている。

 この「心に刻む」という言葉が演説中に何度もというべきか、頻繁に出てくることに注意すべきであろう。

 そして、慎重に言葉を選んで、婉曲ながら 

 ドイツ再統一の確信

について語っている。具体的には、

 「平和への意志という点で(今は分断されている東西ドイツ国民は)一体感を持って」

いるという表現を使っている。

 演説は最後に、年長者も若者も

 「歴史の真実を冷静かつ公平に見つめるために互いに助けあおう」

と団結を呼びかけている。

 そして、演説冒頭の

 「真実を直視する」

という言葉を繰り返し、演説は終わっている。

 付言すると、この演説集には

 水に流してはならない

   ドイツと日本の戦後50年

というのも収められている。元大統領として1995年8月、来日し、東京で演説したもの。当時の首相がまさに村山富市氏。

 この東京演説では、口先だけの〝謝罪〟は不信解消に役立たない

とクギを指している。

 この東京演説が村山談話の「痛切な反省と心からのおわび」につながったと思う。とすれば、東郷氏の

 村山談話は日本のアジアへのワイゼッカー演説

と高く評価したのも、単なるリップサービスではないことになる。

 ただし、番組では、この件については、村山氏自ら「つながった」との直接の言及はなかった。

 結局、村山氏の言いたかったのは、歴史的な事実については、

 水に流してはならないし、水で薄めてもならない

ということだったのだろう。正解だったと思う。 

  ● 補遺 村山「過ち、ごまかすな 

        -- 2015年3月14日付「中日」朝刊

 このテレビ番組と同様の発言を上記紙面でも展開している。2015年3月21日記。

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やじろべえ原理は「時計の振り子」と同じ

(2015.03.01)  高校以来、なにかと理科や物理には興味を持ち続けてきたが、先日の大科学実験(Eテレ)には、びっくりした。

 立て ! トラック

というテーマだった。のだが、何かと思ったら、小学生でも知っている「やじろべえの原理」で小さな軽トラック(約400キロ)を一点で支えて、空中に浮かべようというのだ(おもりは左右、それぞれ350キロだった)。

 やじろべえの原理のポイントは、下図のようなものだが、要は、

 やじろべえ全体の重心を、支える点よりも下にくるようにおもりをセットすること。重心が支点より上では、ただちにやじろべえは、支点から落っこちる。

 おどろいたというのは、実験が大仕掛けだったからではない。実験をみていて、ハッと気づいたのである。

 上下に少しぐらいゆすっても復元力で安定して支点にじっと立っているやじろべえ。その原理は実は、チックタックと絶え間なく左右に振り子運動を繰り返す時計の振り子の原理と同じなのだと気づいたからだ。

 その様子を番組の終了後、図にしてまとめた( = 下図 )。図の右のように、左右のやじろべえの手を針金でゆわえて固定し、一体化したと考えれば、その理由は明白だろう。 Image2083

 ただ、結わえたために、振り子のほうは、しばられた左右の手を絶え間なく、チックタックと振れさせて安定化を図っている。

 これに対し、やじろべえは互い違いに上下することでバランスをとっている。これにより真ん中のどんぐり自身はじっとしていられるに過ぎない。

 ● 高校以来の再発見

 かつて、高校生のとき、物理の静力学の授業で、やじろべえの試験問題を

 慣性モーメント

という復元力を生む力学量を求めて、解いていたのを思い出す。実は、そんなむずかしいことを考えなくても、振り子時計の原理で十分説明できるのだ。

 これは、おそらく、ブログ子にとって50年ぶりの再発見だった。

  以下の写真は、同番組の実験場面(NHKホームページ番組紹介欄から)。

20150228150210dai1

 

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