« 日本の「糸引き納豆」の起源 | トップページ | ダークエネルギー 加速膨張宇宙の正体 »

現代「こんにちは赤ちゃん」物理学考

(2015.02.26)  高名な理論物理学者で、宇宙論研究者の佐藤文隆さんが、偶然だろうが、反知性主義を特集した月刊誌『現代思想』(2015年2月号)で、

 無人物理、有人物理

Imgp7014_3 という奇妙なタイトルでエッセーを書いている(連載「科学者の散歩道」)。これだけでは、何をいいたいのか、意味が不明だった。

 自信満々、さっそうと第一線で活躍していた若かりしころの佐藤さんを、大学院生だったブログ子は知っている。だけに、失礼ながら、佐藤さんも年取ったなあ(失礼)というのが、このタイトルを見たときの正直な第一印象だった。

 ● 日常世界との違和感

 とはいえ、パラパラと、そして次第に考え込みながら読みはじめて、びっくりした。とても刺激的なのだ。

 というのは、理系出身のブログ子だから、現代物理学の土台とも言うべき量子力学の確率論的な考え方には、一応、理解してはいた。そして、その基礎的な考え方には、いろいろと奇妙なパラドックスがあることも知っている。

 たとえば、有名な「光子の裁判」などはその典型。生きているのか死んでいるのかという「シュレーディンガーの猫」の思考実験もそうだ。

 けれども、1970年前後に教育を受けたのだが、確率論的な数式はともかく、波動関数とはそもそも何なのかなど、どうも量子力学の考え方と経験世界の日常のそれとの奇妙な違いには違和感をぬぐえなかった。無理やりに慣らされているという感じだった。もっとはっきりいえば、ごまかされているような気分になるのだ。

 整合性をとるために、量子力学には、疑うことを禁止するいろいろな公理、つまり何々原理というものが巧みに配置されている。

 たとえば、教科書に書かれている粒子性と波動性にかかわるボーアの相補性原理などもそうだろう。量子力学の世界を経験世界と結び付けようとするのがそもそもの間違いであり、コペンハーゲン解釈を信じなさい。相補性原理を信じるものだけが救われるのだというわけだ。

 この原理は哲学的な真理などではない。またアインシュタインが鋭く批判したような量子力学の不完全性を示すものでもない。原理と名づけられた公理の間には矛盾はない。だけでなく物理学の本質をつかんだ原理である。凡庸なブログ子は、そう信じて、それを一度も疑うことはなかった。

 疑わなかったのには明白な理由があった。道具としての量子力学が当時(1960年代)、あまりにも見事にその有効性を発揮していたからである。その華々しい成功に幻惑されたのかもしれない。

 このエッセーを読んで、あらためて量子力学の基礎、90年近く保ってきたコペンハーゲン解釈の正当性を問う動きが、今活発になっていることを知った(注記2)。

 設定した複数の公理の間に物理学的に、あるいは実験的に矛盾がない。そのことが、ただちに設定した原理が物理的な実体を体現しているといえるかという基本的な問題意識がここにはある(実用的には、そんな意識などなくてもなんら問題はない)。

 ● 「無人世界の傍観者科学」をこえて

 要するに、つぎのようなことなのだ。

  天気予報にしろ、総選挙の各党議席獲得予想にしろなんにしろ、この世の中の出来事は、人間の思惑とは無関係にあらかじめ一義的に決まっているはずだと思っている人は多い。原因と結果が、人間の介在の有無にかかわらずストレートに結びついている。物理学の対象はその典型であると思っている。言ってみれば、

 物理学とは、無人世界の傍観者科学

であるというわけだ。

 しかし、今、物理学の基礎となっているのは、このようなニュートン力学的な世界ではない。そのようなストレートな因果関係を否定し、確率でこの世界を記述する量子力学こそが現代物理学の土台なのだ。

 ということは、つまり、現実は確率なのに、なぜか人間はそこに因果性を見出す。そうなるのは、古典的な力学にならされた観測者に動機があるからだ。法則の根拠が観測者の外にあるのか、それとも観測者の中にあるのか、という問題なのだと言い換えてもいい。

 ● 新しい有人科学、QBズム

 そこで量子力学を、今の違和感のあるコペンハーゲン解釈をこえて再構築、あるいは復活を図ろうとする動きが、ようやく始まっている。

 そもそも、かつて、確率というのは、賭け事などの主観確率の意味だった。いってみれば有人確率だった。それを19世紀末の偉大な物理学者、ボルツマンは、統計力学の構築にあたって、いわゆる頻度分布を意味する無人の客観確率として、導入した。

 それをもう一度、200年超ぶりにもともとの有人つまり、賭け事の主観確率に戻そうというわけだ。そうした再構築の試みはいくつもあるらしい。

 今の量子力学を、行動科学の、この主観確率論として記述する試みも、その一つで、

 観察者不在の物理に対し、

 QBズム

が進行中だという。QBとは、量子という意味のクォンタムの頭文字Qと、新しい考え方の確率論の提唱者、ベイズの頭文字Bとを組み合わせた新語。つまり20世紀絵画におけるピカソ革命、

 キュービズム

にならったネーミングである。

 佐藤流にいえば、

 量子力学という赤ちゃんに、私がママよ、と人間の観測者が顔を出す

 現代「こんにちは赤ちゃん」物理学

である。ママ(観測者)がいてこそ、赤ちゃんも自分の生きていく世界を正確に、そして正しく理解できる(つまり、記述できる)のではないかというわけだ。

 言い換えれば、赤ちゃんは生身の自然ではなく、人間の自然を生きていく。この手法自体が、生身の身体同様、受け継いでいくものだというわけだ。

 現代物理学にも、堂々と、ママという観測者を

ということになる。

 ただ、エッセーには専門家らしい独特の思考方法から、素人には意味のとりにくいところが、後半部分を通じて多々ある。だから佐藤さん自身、こうした取り組みを評価しているのか、どうか、よくはわからない。

 正統派とされているコペンハーゲン解釈には、あいまいで解釈の幅が大きい。この幅を突き詰めようとするグループには二通りある。ひとつは、解釈は実在に基礎を置くべきだという左派。これに厳格なアインシュタインはその中でもさらに左。

 実在派に対し、観測者の内なる情報学に過ぎないとする右派。先のQBズムの動きは右派のなかでも最右派というわけだ。

 あえて言えば、エッセーの最後のほうで、佐藤さんが述べているように、コペンハーゲン正統派解釈に強く反対したアインシュタインですら、こんな極端なQBズムの動きに卒倒するだろう書いているのは、このことを指してのことだろう。

 事実、エッセーでは、(無人世界から優れた能力をもってせっかく生まれてきた)赤ちゃん=量子力学を、すぐに「こんにちは赤ちゃん」とばかり人間化するのは、人の世の誤りを見抜けなくするという意味で、もったいない、ダメだと言っているようにも解される。

 ブログ子の意見は、このような量子力学の極端な有人化、人間化のQBズムは、1990年代の物理学者と社会学者の間の無益な

 サイエンスウォーズ

を引き起こすような気がするというもの。

 守旧派といわれそうだが、真理の探究からの反知性主義ともいえる逸脱だろう。それとも、科学者のダメさの露呈と言うべきか。

 このあたりになると、見解が分かれそうだ。

 ● 量子力学は神聖にして犯すべからず

 とはいえ、こうした動きにも意味はある。

 現代物理学は、人文科学、社会科学を含めて

 科学の王様

である。とりわけ、華々しい成果を日々上げている量子力学はその土台であり、神聖にして侵すべからずの位置を占めている。

 いわば、量子力学帝国主義

であり、その圧倒的な権威は「1強多弱」の感は否めない

 たとえば、一例だが、最近では、決定論のニュートン力学的な進化論をこえて、量子力学的な観点から生物の進化(特に脳の進化)にアプローチする

  量子ダーウィン進化論

まで登場している(たとえば、W.H.Zurek)。

 しかし、現代物理学のこのような状況は、ともすると量子力学の正統派解釈に対し一切の疑問をゆるさないという雰囲気を生み出しかねない。となると、疑うことからブレイクスルーを生み出してきた科学のあり方としては、今の事態は危険性をはらむ。

 アインシュタイン・ボーアの「不確定性」論争(1930年)から85年。

 極論すると、神聖なボーアの相補性原理すら不可知主義、あるいは反知性主義の結果だったという可能性が、QBズムから出てくるかどうかは別にして、出てきてもおかしくない。ボーアの相補性の科学思想というのは、ある種のアメリカプラグマティズムの表れともいえるからだ( 注記 )。

 このへんになると、ブログ子の手に負えない。

 ただ、こうなると、かつてのアインシュタインは論争で対案を提出できなかったが、今だったらどうだろうとも考え込んでしまう。アインシュタインに下駄を預けたい気持ちである。

 この意味で、反知性主義を特集した『現代思想』にこのエッセーが掲載されたことの意義は、単に偶然かも知れないが、小さくない ( 下は「現代思想」2015年2月号表紙 = 久里洋二氏のイラストが一目を引く。同氏はブログ子の高校の大先輩 )  。

Image209020152

 さて。

 実験で何が起きるのか、今の量子力学は正確に予測できる。しかし、その理由については、たぶんに寡黙である。

 これと、反対に、

 実験など将来について何が起きるのか、前もっては何も正確に予測できない。のに、過去に起きた出来事の理由については、冗舌なほどに見事に説明できる〝科学〟が存在する。

 ダーウィン進化論である。

 ● ダーウィン進化論帝国主義こえて

 エッセーを読んでいて、ふと気づいたことがある。自然選択という客観主義をよそおった正統派ダーウィン進化論である。

 『種の起源』(1859年)から150年以上たつが、進化過程における生物自体の主体性を一切認めない

 客観主義の進化論

も、ボーアの相補性原理同様、果たしていつまで神聖にして犯すべからずの玉座に座り続けられるのであろうかという疑問を持った。波動関数同様、自然選択もいまもって意味不明なのだ。

 どういうことか。

 ダーウィン進化論もまた、過去に起こってしまったことについてはどんなことでも自然選択の原理で説明できる。しかし、これから何が起こるかという予測については何も予見できない。起こった後では何でも結果論的に上手に説明できる。が、これからのことについては結果が出ていないので何も予測できない。

 ということは科学理論としては致命的な欠陥である。ダーウィン進化論の謎、あるいは笑えないパラドックスといえよう。

 もっとはっきり欠陥を言えば、科学理論であるためには必ず必要なことなのに、

 ダーウィン進化論では、理論から決してこんなことは起こりえないという

 反証例

を検証可能な形で明示できない。

 ということであり、自然選択にかわって、偶然と必然、その間の選択という主体性を取り入れた

 生物中心の進化論

が、もうそろそろ科学的な進化論として構築されてもいい時期に来ていないか。ダーウィンが類推したように、経験世界の品種改良の場合のような人為選択を自然もまた生物に対して行なっているかという問題意識である。ダーウィン自身は行なっているとしている。

 しかし、数式いじりの集団遺伝学的なことはともかく、自分の身がどうなるのかわからない実際の進化のただ中にある生物自身が、自然選択という実体のはっきりしないあやしげなものに身を任せっきりにして、生き物として自らは何の選択もしないでただ安穏と傍観者でいるはずがない( 補注 )。

 つまり、生物は集団遺伝学のために生きているのではない( ネオダーウィニズムの集団遺伝学からもわかるが、進化論は種内への突然変異の広がりという確率現象から進化の一定の因果律を導き出す手法である。しかし、それだけがすべてであるというのは、間違いであろう。生き物である以上、確率論だけでは語れない)。

 ここにも客観主義という「無人世界の傍観者科学」の落とし穴があるように思う。あえていえば、

 与えられた環境的な一定の制約、あるいはその時のボディプランの一定の制約の範囲で、そして偶然と必然の間で、生物自身がいくつかの選択肢なかから選択していくというような、いわば偶然でも必然でもない、その間の生物の

 主体的選択の進化論

とでもいえるようなアプローチが必要ではないか。

 何度も訪れる進化の後戻りのできない岐路でその都度、うまい選択で切り抜けたもの、つまり1%の幸運な生物はさらなる進化を遂げる。しかし、その岐路で選択を誤った不運なもの、つまり99%が絶滅の道を歩む。これが進化の実相ではないかというわけだ。

 このことは、基本的にはホモサピエンスの進化でも同じ。ただ、選択肢のなかからの選択において、より生き残りに有利な選択とは何か、それを絞る吟味ができることぐらいであろうほかの生物の場合同様、そこにも環境適応の上手下手とは別の幸運、不運は避けられまい。

 繰り返すが、ダーウィンから150年超、結果論的な適応主義を振りかざしあらゆる分野に進出し支配下におこうとする

 ダーウィン適応進化論万能の帝国主義

を超える時期は近づいていると思う。

 このことを正直にここに書いておきたい。

  ● 注記 佐藤文隆さんからのコメント  2015年3月10日記

 ボーアの思想形成には、アメリカプラグマティズムに通ずるものがあるとする点について、佐藤文隆さんから、次のようなコメントをいただいたので、注記する。

 佐藤文隆さんの著書『科学と人間』(青土社)の第3章「量子力学における科学と社会思想」に書いたように、ボーアの思想形成にはアメリカプラグマティズムに通じるものがある(同書p182)。

 (プラグマティズムの創始者、C.)パースの信念確立の四つの手法のひとつとして科学があるという見方は秀逸である。

   (このコメントに対するブログ子の注記  信念確立の四つの手法とは、固執の方法、権威の方法、科学的方法、形而上学的な先天的方法である。パースは最上なのは科学的方法と考えた。こう考えると、不朽の真理などというものはないと、ボーアが悟ったのかもしれない。あるのはせいぜい仮説設定(アブダクション)に過ぎないということになるわけだ) 

● 注記2  復活したアインシュタインパラドックス

 Imgp7923 アインシュタインが提出したEPR問題(論文)は、その後、コペンハーゲン派解釈が正統派となり、その論文は忘れられる。しかし、この10年、ナノ操作の時代に入り、量子情報理論の展開で再登場、正統派解釈の妥当性という基礎をめぐって脚光を浴びている。そんな事情を詳述した著作に

 『アインシュタインのパラドックス EPR問題とベルの定理』(A.ウィテイカー、岩波書店、2015)

がある。日本語訳は和田純夫。1949年生まれで、1970年代に東大理学部物理学科大学院を終えている団塊世代。その後、文系分野で活躍。

 ● 補注 自然選択(自然淘汰)とは何か

 集団遺伝学と分子遺伝学の両方に精通した世界的な遺伝学者、木村資生さんの主著、『分子進化の中立説』(1986年、原著1983年)によると、

  集団遺伝学では「自然淘汰は(自然選択)は直接に遺伝子に働くのではなく、表現型に基づき、個体の生存と繁殖を通して働く」。

 したがって「自然淘汰とは突然変異型の間で増殖率(繁殖率)が異なることと定義される」。

 自然淘汰には2つの型がある。「すなわち、正の淘汰(= ダーウィン淘汰) と負の淘汰」。「一つの遺伝子の突然変異型が集団中に生じ、それを持つ個体の適応度を高め、それによって集団中に広がるようになると正の淘汰が働いていると言える。これは、ダーウィンが生物界の適応的進化の主な原因と想定した自然淘汰の型であり、まさにダーウィン淘汰」。ただし、「こういう淘汰は生物界ではめったに観察されていない」。

 「これに対し、個体の適応度を下げれば、その突然変異体は集団から除去されるようになる。これが負の淘汰」。

 ● 補遺 『分子進化の中立説』(1986年)

 本書は「分子レベルでの進化的な変化、すなわち遺伝物質それ自身の(集団内における)変化を引き起こす主な要因は正のダーウィン淘汰ではなく、淘汰に中立なまたはほとんど中立な突然変異遺伝子の偶然的な(集団内)固定であることを、科学界に確信させるために書かれたもの」(同書序文の冒頭)。

 分子レベルを考察した中立説は、偶然的な過程における遺伝的な浮動が(正のダーウィン淘汰に比べて)ずっと大きな役割を果していると強く主張する。その上で、進化過程の正のダーウィン淘汰とは別の側面を分子レベルで明らかにした。

 つまり、「中立説は淘汰に対する有利さがなくても、突然変異遺伝子の一部は、(最初の突然変異数が少ないことや、集団の大きさが有限であることにより)集団中に(偶然に委ねられて)広がることができるという集団遺伝学のよく知られた事実に基づいている」(同書p52)。この意味で中立説は、自然淘汰を否定したものではない。

 ここでいう偶然的な過程における遺伝的な浮動( = 単に浮動とも)とは、

 集団レベルでの突然変異遺伝子の置換

のことである。これと個体レベルでの遺伝子突然変異とは異なる概念であり、混同しないよう区別しなければならない(同書p52-53)。

|

« 日本の「糸引き納豆」の起源 | トップページ | ダークエネルギー 加速膨張宇宙の正体 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/533942/61183562

この記事へのトラックバック一覧です: 現代「こんにちは赤ちゃん」物理学考:

« 日本の「糸引き納豆」の起源 | トップページ | ダークエネルギー 加速膨張宇宙の正体 »