« 一人語り、インド「バウルの歌」イン天竜 | トップページ | 神の「見えざる手」と、人間の「見える手」とは握手ができるか »

三島由紀夫と司馬遼太郎、そして岡本太郎

(2015.02.03)  地味な番組だが、Eテレでインタビューでつづる

 戦後史証言プロジェクト

というのをこの1年、断続的に続けられている。戦後70年、日本人は何を目指してきたのかというのがテーマ。トップバッターは理論物理学の湯川秀樹だったが、最近でおもしろかったのは、というか考えさせられたのは、先日放送された

 三島由紀夫

だった。

 1975年11月、三島はなぜ自衛隊基地内で自衛隊員に決起を促し、その後基地内に立てこもり、いわゆる割腹自殺を図ったのかという謎を追った。人類の進歩と調和をテーマとする大阪万博が成功裏に幕を閉じた直後の衝撃的な出来事だったことを、当時大学生だったブログ子も鮮明に覚えている。

 番組そのものは、遺作となった4部作『豊饒の海』(1965-1970年)などの文学作品の分析だけでなく、いろいろな角度から当時を知っている識者の証言を集めている。

 それはそれでおもしろかった。のだが、事件の真相に迫るような、つまり、コトンとブログ子の胸におさまり、その結果、その死を納得させるものは、残念ながらなかったというのが、番組全体からみた正直な感想だった。

 ● 日本人とはなんぞや

 そこで、ほぼ同時代を歩んだ作家と比べたらどうなるかと考えてみた。たとえば、同じ証言プロジェクトにも登場した司馬遼太郎。いずれも青年時代を戦争中に過ごした戦中派である点が共通している(三島は終戦時20歳)。

 三島は戦後一貫して

 生命尊重以上の価値とは(天皇主権の)日本である。日本を守るとは何だ。天皇を中心とした伝統の日本を守ることではないのか

と述べていた。このように、

 日本とは何ぞや

を考え続け、三島はそれを文学作品に昇華させていた。

 司馬もまた、よく知られているように

 小説のテーマはすべて「日本人とはなんぞや」というものであり、作品は終戦時22歳の自分への手紙である

と公言している。 

 違うのは、東京生まれの三島は東京帝大卒のエリートなのに対し、大阪生まれの司馬は私立の大阪外大出身ということぐらいである。

 ● 肉体的な劣等感の裏返し

 ところが、番組から気づいたのだが、もう一つ重要な違いがあった。

 三島は、その虚弱体質から軍隊に入隊することも許されなかったという強い肉体コンプレックスを持っていた。これに対し、司馬は劣悪な装備のなか、戦車長として満州国境を走り回わされていたという強いいきどおりがあった。

 この若き日の違いが、ゆがんだ劣等感の裏返しの三島をして天皇主権という上から目線で日本とは何かを脅迫的に考えさせたのではないか。対して、司馬にはそんなものなど微塵もなかった。終戦時のいきどおりからまっすぐに、そして素朴に下から目線で日本人とは何かに文学の世界から挑んだ。

 これが、司馬と比較した場合の三島の正体ではなかったか。

 その違いが、20年後に見事なコントラストをもって出現することになったのが、高度経済成長の真っ只中と大阪万博(1970年)の時期だった。

 つまり、この時期に三島はライフワーク的な遺作『豊饒の海』(1965-70年)を世に送り出す。20歳の青年の死とその転生を4部作として描いた。司馬も渾身の大作『坂の上の雲』(1969年)を連載する。

 この番組に出演したドナルドキーンさんによると、豊饒の海というタイトルは、(高度経済成長を表す)皮肉であり、その海には水はないという意味を込めたものだという。三島がタイトルに皮肉を込めることを好むことは、争いが絶えないみにくい地球を描いた小説『美しい星』(1962)でもわかる。

 司馬の『坂の上の雲』というのは、実力主義による人材登用という近代国家の目標と、封建時代やその後の門閥主義とは違って実力次第でどんな高みにも登れるという国民の向上心とが一致した明るい明治の群像を描いたものである。

 三島は作品を文学の世界にとどまらせておくことができず、行動でもその解釈を現実のものとしたいと強く感じたのかもしれない。その軋轢から自ら死を選んだ。あるいは死をもって自らのモチーフを貫こうとした。

 『豊饒の海』原稿完結の日付が、割腹の日にちに一致するのは、輪廻転生の作品と行動の一体性を強く示唆する。

 三島自身、遺書の中で

 「考えに考えた活路は明確な死」

という覚悟のほどを述べているのも、この一体性のせいだろう。

 ● 「明日の神話」との共通性 

 三島の死、あるいは三島の正体を知るための手がかりとして、もうひとりの比較として、1世代上の戦前派の前衛画家、岡本太郎を挙げておきたい。ともに東京生まれで、比較的に富裕な家庭に育っている。若いときには洋行も経験している。

 岡本もまた、絵画の世界から、西洋真似ではない

 日本人のアイデンティティとは何か

を捜し求めて、戦前、戦後を通じて各地を放浪したり、独自の作品づくりに没頭していた点では三島や司馬と同じである。

 そんななかから、岡本は縄文土器に強い衝撃を受け、そこに日本の伝統美の土台ともいうべき古代人の力強い芸術性を発見した。

 それが、1970年の大阪万博の「太陽の塔」だろう。あの怒りの太陽の塔は、高度経済成長に対するアンチテーゼである。

 そのことをもっとも明確に、そして私的に、つまりストレートに作品化したのが、ビギニ水爆事件(第五福竜丸事件、1954年)をモチーフにした、

 巨大壁画「明日の神話」(1969年、JR渋谷駅通路に展示)

である。このことは、以前、このブログ(2014年10月14日付)で書いたので、多くは語らない。

 要するに、高度経済成長を謳歌してはいるが、その実、中身のない現状を

 豊饒の海 = 明日の神話

として皮肉り、否定した。そんなものは虚構であり、幻想というわけだ。日本は水のない豊饒の海に浮かんでいる。日本の未来は、根拠のない神話にいろどられている。岡本は絵画で、三島はそれを小説として描いた。

 豊饒の海という小説は、およそそれまでの展開からは予想もしなかった意外な結末に終わっている。これ自身、三島の皮肉好きのせいだが、戦後日本の民主主義が幻想にすぎないことを強く印象づけたかったのだろう。この点で、戦中派の三島と、戦後派の東大全共闘との対話は、しょせん成り立たなかった。

 以上のような比較から、

 なぜ三島は、高度経済成長の真っ只中で、しかも万博の直後に、そして天皇制批判の東大全共闘の闘争の最中に、自衛隊基地で割腹自殺を図ったのかが理解できるように思う。

 ● 第4部「天人五衰」の謎

 『豊饒の海』の最終第4巻「天人五衰」の執筆では、三島はブログ子の暮らす静岡県の清水港や駿河湾、さらには三保の松原、下田港を取材している。

 この取材が上記のような三島の正体と、どんな関係があるのか。ブログ子には謎だが、あるいは富士山とも関係するのかもしれない。

 今後もう一度、考察してみたいと思う。

|

« 一人語り、インド「バウルの歌」イン天竜 | トップページ | 神の「見えざる手」と、人間の「見える手」とは握手ができるか »

映画・テレビ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/533942/61064636

この記事へのトラックバック一覧です: 三島由紀夫と司馬遼太郎、そして岡本太郎:

« 一人語り、インド「バウルの歌」イン天竜 | トップページ | 神の「見えざる手」と、人間の「見える手」とは握手ができるか »