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2015年2月

家康の400回忌 立体「しかみ像」お披露目

Imgp698320150220 (2015.02.27) 大坂夏の陣が終わったあとの1616年4月(旧暦、今の5月ごろ)に家康が隠居先の駿府城で亡くなって、今年はその400回忌。東海地方では去年あたりから、さまざまな四百年祭のイベントが行なわれている。

 ブログ子が暮らす浜松市でも、先日、浜松市博物館で、いわゆる

 三方ヶ原合戦で大敗、敗走した家康の実物大の立体「しかみ像」

のお披露目式があった(合戦は旧暦1572年12月の寒い時期)。近所だというので、散歩がてら出かけてみた。その時の様子が、写真右(ウレタン樹脂加工)。ブログの最後( 下段 )に、立体像を真正面から見た写真を掲載しておく。

 スリムな31歳のときの姿であり、背丈は159センチと小柄。今の中学生くらいだろう。像の印象は、歳の割には少し老けて見えるというものだった。のは、やはり敗走の恐怖がまだ乗りうつっているからだろうか。

 家康自身、身近において戒めにしていたという本物の平面画像(A4くらいの大きさ)は、徳川美術館(名古屋市)が所蔵している。

 ● 三方ヶ原合戦、家康の敗走路

 Imgp6962 どのようなルートで家康は三方ヶ原から引間城(浜松城=東照宮)まで逃げ帰ったのかという点については、浜松市に暮らす歴史家の磯田道史さんが、

 ちょっと家康み 第5話 家康公の敗走路

として紹介している( 浜松市「広報はままつ」2015年2月号 =写真左 )。

 それによると、152号線の

 「中沢交差点辺りから台地の山陰を通り、(まっすぐ南下して)引間城の元目口を目指した」

。つまり、「台地の上ではなく、台地の麓を隠れるようにして逃げたのでしょう」。

 中沢交差点(152号線)から住吉を通って和合交差点(257号線)に出ると、近くに、有名な敗走伝説のある地名「銭取」(257号線沿い)、さらに北上するとこれまた伝説の「小豆(あずき)餅」(257号線沿い)に行き当たる。

 これだと最後は、これまでいわれているよりも、1キロぐらいやや東側、中区曳馬の阿弥陀橋などを通って南下、敗走したことになる。

 ● 1572年12月、信玄の遠州侵攻ルート

 今回、博物館を訪れて、一番びっくりしたのは、三方ヶ原合戦での信玄・勝頼の本隊の侵攻ルートが掛川から袋井さらに磐田といった海岸沿いに西進してきたと知ったこと。

 Imgp6989157210 従来は、信玄は信州と遠州の境、北の青崩峠を南下してきたとされていた。しかし、最近の研究では、そうではなく海岸沿いに駿府からやってきた。

 博物館のパネル展示( 写真右と下段写真 )にそのことがはっきり図入りで詳しく解説している。戦国史が専門の小和田哲男さん(静岡大名誉教授)も、支持しているというから確かであろう( 補遺 )。

 そんなこんなで、出かけるということは、いろいろな発見に出会えることを知った一日だった。

 この調子でいくと、おそらく、この1年で家康について、まだまだ知られざる姿が浮かび上がってくるようにも思う。

 ● 補遺 

 侵攻ルートの新説がどういう根拠から提出されたのかについては、古文書学からのアプローチ

 鴨川達夫『武田信玄と勝頼』(岩波新書、2007)

に詳しい(第5章)。説得力のある論考である。

 この本には、このときの信玄の心中は、京に上洛する天下取りの軍事行動などではないとする見方が根拠を挙げて提出されている。将軍からの要請を受け仕方なく織田信長へ一撃を加えたのだという。

 つまり、信玄にとって三方ヶ原合戦はあくまで地域の小競り合い、局地戦のつもりだったということになる。だから、そもそもその配下の家康などははなから眼中にはなく、けちらせば十分と思っていたらしい。

 あたかも天下取りで三方ヶ原へ動いたかのように喧伝されるのは、信玄の死後のことであり、本人のあずかり知らぬことだったということになる。

 Imgp6988157212     (浜松市博物館展示パネル)

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ゴッホはなぜゴッホになったか

Imgp6961 (2015.02.27)  2週間ほど前、この欄で

 身を削った逆境の画家、ゴッホ

というのを書いた。そのなかで

 『ゴッホはなぜゴッホになったか』(ナタリー・エニック、藤原書店)

というのを紹介した。プロの研究者の好著であると 書いた。しかし、ある読者、たぶんゴッホファンから、どういう点でプロの仕事といえるのか、という詰問風のメールが届いた。もっと詳しくということだろう。コラムにいわばカチンときたのかもしれない。

 あらためて図書館から借り出して、読んでみた。

 翻訳のせいか、もともと気取ったレトリックがすぎるせいか、やや意味のとりにくい論旨だったが、好著である理由は、以下の点であることを追加しておきたい。

 第一は、ゴッホ神話という芸術の擬似宗教化のプロセスを、定量化など実証的かつ社会学的に考察していること。

 第二は、ゴッホの死の直後からちょうど100年間を研究の対象にしており、しかもゴッホ以外の人間の行動と心理を直接の考察の対象にしていること。

 第三は、社会の中の芸術という視野の広い芸術社会論になっていること。

 この3点である。

 一言で言えば、ゴッホ自身のことには一言も言及しないゴッホ論である点である。

 ● 『悪魔の辞典』から

 この機会に、ブログ子の芸術に対する意見を、以下の有名な『悪魔の辞典』(A.ビアス、こびあん書房、1982)の言葉を借りて、述べておきたい。

 芸術 (名詞) ART この語に定義なし

として、以下芸術至上主義に対する痛烈な皮肉をビアスはつづっている。

 その意味を、作家の筒井康隆版『悪魔の辞典』(講談社、2002)の翻訳でわかりやすく紹介すると、こうなる。

 この言葉はいかなる定義も受けつけない。ただし、創意工夫に富んだイエズス会のガッサラスカ・ジェイプ神父が、芸術の語源をこう述べている。

 ある日、評判の道化者が、どうした加減か、

 「RAT」(ネズミ)の文字を入れ替えて

 「こいつは神様の名前だ!」と言った。

 すると、奇妙な聖職に仕える者や、その予備軍がわらわらと胃集(注記)してきたのだ。

 (艶ショウや、秘教儀式や、暗黒劇や、酸鼻歌(さんびか)や、

 おのれの手足もぎ取らんばかりの酸鼻な論争を一緒に持ち込んで)

 その神殿に仕え、ファイヤを守り、

 教典を説き、人形劇のワイヤをあやつった。

 やってきた群集はあっけにとられ、

 理解できぬからこそこれを信じたのだ。

 そのうち教えはどんどん徹底され、

 (芸術こそがなし得る)髪の毛をふたつに引き裂いてもとに戻して、

 なんとかかんとかしたものの方が霊験あらたかとするするような、

 こまかい教義に教化されてしまい、

 ついには凄惨な聖餐のため、珍味とワインを持ち寄って、

 自分の衣服を売り飛ばしてまで、司祭たちに貢ぐのだ。

 

 なお、最後の司祭というところは、ビアス原著(の翻訳)では、聖職者(芸術家)となっている。これでよくわかるが、芸術と宗教は相性がいい( 補注 )。

 注記 胃集の胃は、「虫」偏に、つくりが「胃」である。はりねずみと読むらしい。筒井さんの(駄)洒落だろう。

  ● 補注 

 芸術と宗教がいかに、今日、相性がいいか、元のN.エニックの同書から抜き書きして、ここに紹介しておきたい。

 (生身の)ゴッホはなぜ(殉教者の、そして聖人の)ゴッホに(死後)なったか。

 それは、たとえば、同時代人の無理解、若すぎる自殺といった倫理的な希少性、特異性からであり、それに比べたら生前の芸術性などとるにたりない。芸術性とは人々に喜びを生み出す作品の質という普通の意味である。

 「ごくわずかな価値しか持たなかったものが、突然どんなものよりも高価になるという(ハイパーインフレという)出来事」(同書p222)。それが聖人の聖人たる資格のなによりの証拠になる。この意味の奇跡性こそが不遇の画家を突然世界的に称揚される英雄に押し出させた理由であり、作品の質は二次的なものといえる。

 N.エニックによると、オランダ人、ゴッホは三位一体のカトリック的な聖性ではなく、「プロテスタントの聖人のようなものを体現していると言ってよいくらいである」。

 だからだろう、ゴッホの作品はいまや聖遺物であり、ゴッホ現象は、芸術とは宗教であることを、白日の下に示しているのかもしれない。

 事実、芸術の社会学的考察というサブタイトルのついた同書。そのゴッホ死後のゴッホ現象を分析した結論として

 「人は教会を去って美術館を埋め尽くし、(かつてそうだったように)芸術は聖化のための道具であることを止めて、その(宗教の)対象」(p244)となった

と書いて、同書を締めくくっている。

 ゴッホは、死後、世俗的な聖人、つまり反抗者(プロテスタント)の聖人として、カトリックの国、フランスで生まれ変わったのである。芸術の力ではなく、世俗的な力によって-。

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ダークエネルギー 加速膨張宇宙の正体

Image2082 (2015.02.26)  先日の日曜日、ボランティア先の浜松科学館(浜松市)で、

 プラネタリウムをつくろう

という親子教室が開かれた。

 写真のような紙クラフトの卓上型プラネタリウムなのだが、親子が相談しながら組み立てるという工作のおもしろさがあった。指導に当たったのは、同館で本物のプラネタリウムを操作している担当者だった。

 ● プラネタリウム工作の後で

 ブログ子たちボランティアも参加して、2時間ぐらいで全員、満足のいく作品に仕上げていた。最後に

 今つくったプラネタリウムで、今夜の星空を確かめ、観察してほしい

とアドバイスしておいた。午後8時ごろには、真上に冬の大星座、オリオン座が見えるはずである。

 そんなこんなで、工作教室が終わり、ひといきいれたひとときにはやはり宇宙の話におよんだ。その中に宇宙に詳しい学生も参加して、

 今話題のダークエネルギーとはなにか、宇宙はなぜ加速膨張しているのか

という最先端の話題になり、ちょっとびっくりした。

 ブログ子はシニアボランティアなので、うまく説明しようと、あれこれと話をしたのだが、今ひとつ、若い人に納得してもらえなかった。

 残念だったので、その夜、少し考えたのが次のような説明。これだと少しは理解してもらえたのではないかと、おしいことをしたと思った。

 ● わが宇宙の内部に源

 なぜ宇宙は今、意外にも加速度的に膨張し続けているのか。この不思議の説明はこうだ。

 はるかはるか昔、宇宙はビックバンの大爆発で膨張をはじめた。のだが、最初はいきおいがあっても、宇宙なかには星などの重力のせいで、だんだんとその勢いがなくなり、ついには膨張をやめて、今度は一転、風船が縮むようにしぼんでしまう。15年ほど前までは、宇宙もこのタイプだと信じられてきた。

 なぜかというと、これは、地球上で、物を真上に向かっていきおいよく放り投げても、地球が物を引っ張りこんで、やがて再び地上に引き戻され、落ちてくるようなものであるからだ。

 ところが、宇宙は加速度的にますますいきおいよく膨張していることが最近、わかった。

 これについては、地球からものすごい勢いで放り投げた場合に相当するようにも思うかもしれないが、しかし違う。なぜなら、ものすごい勢いで真上に放り投げたとしても、そして、地球にもう戻ってこないかもしれないが、そのいきおいがますますすごくなるということはない。地球にひっぱられて、少しずついきおいがなくなり、ついには、あるいはいずれまた地球に戻ってくる。ますます加速するということなどない。

 では、どういう場合、ますます加速するのか。

 第一のケース、簡単に言えば、燃料を積んだロケットの打ち上げに似ている場合。つまり、現在の宇宙内部にエネルギー源があるとした場合である。

 つまり、物体に噴射用のロケットエネルギー燃料が積み込まれているようなもので、どんどん燃焼すれば、これならば上昇するにつれて、どんどん加速する。宇宙の場合で言えば、膨張によって次々にわき出てくる空間が持つエネルギーで宇宙全体がロケットのように加速度的に膨張するだろう。

 もう一つのケースは、宇宙の外部にエネルギー源を持っている場合である。

 つまり、それは地球の周りに月があるが、これが今の月よりも、たとえば数百倍も重かった場合に相当する。このとき、先ほどのものすごい勢いで放り投げられた物体は、地球と月の中間くらいまできたとき、地球にはもう戻れない。というのは、月のほうにいきおいよく引っ張り込まれてしまうからだ。

 これを地球からみると、放り投げた物体は遠ざかるほどいきおいよく加速しているように見える。

 つまり、宇宙の加速度的な膨張もこれだというわけだ。

 ● 異次元宇宙からの重力説

 問題なのは、加速膨張の元となるエネルギー源が「宇宙の外」にあるという点。

 わが宇宙は唯一つである考えると、外部エネルギー源説は原理的に無理。しかし、わが宇宙のほかに、たとえばもう一つ異次元(たとえば4次元空間の)宇宙があれば、そこに、先ほどの巨大な月のように、わが宇宙を引っ張り込む源を置くことはできる。つまり、これで加速度的にわが宇宙を膨張させられる。

 問題は、もう一つの宇宙が見当たらないのはどうしてか、という点。それは、もう一つ別の宇宙はわが3次元宇宙とは異なる異次元だから、重力は伝わってくるが、原理的に見えないというわけである。

 これが、ダーク、つまり見えないエネルギー源の正体というわけだ。加速度的に膨張しているわが宇宙には、つねに異次元の外から力が働いている。

 この説明の欠点は、たとえ正しいとしても、異次元世界なので、その存在は地球からは決して観測できない。つまり、別宇宙の存在を証明できないという点にある。

 その点、第一のケースは、ダークエネルギーの源をわが宇宙の内部に求めているので、観測で検証可能であるという点で優位な説明であろう。

 ● 真空のエネルギーって何?

 ただ、この場合のダークエネルギーは「真空のエネルギー」だとすると、その実体は何かという点は依然謎として残る。

 いずれにしても、ダークエネルギーの正体は、おそらくそう遠くない将来、たとえば、ブログ子が生きている間には解明されるだろうと思う。

 というか、そうあってほしい。

 閑話休題。

 サイエンスボランティアをしていると、いろいろな問題が若い人から浴びせられる。それも楽しみの一つなのだが、きっと今に、

 見えないダークマターって何?

と聞かれそうだ。さまざまな観測機器を使って今宇宙に見えているものとして存在することがわかっている物質量の6倍も、まだ人類に知られずに存在しているというのだから驚きだ。これほどの量ということは、とうてい私たちが今知っている原子や素粒子などのたぐいではないだろう。

 この宇宙には、人間にはまだ見えていないが、いまだ未知の何かが大量にある。

 それは何か、と聞かれる前に、少し説明のしかたを工夫し、準備しておきたい。

 宇宙は、ますます神秘なのだ。そんなことを思い知らされた日曜日だったように思う。

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現代「こんにちは赤ちゃん」物理学考

(2015.02.26)  高名な理論物理学者で、宇宙論研究者の佐藤文隆さんが、偶然だろうが、反知性主義を特集した月刊誌『現代思想』(2015年2月号)で、

 無人物理、有人物理

Imgp7014_3 という奇妙なタイトルでエッセーを書いている(連載「科学者の散歩道」)。これだけでは、何をいいたいのか、意味が不明だった。

 自信満々、さっそうと第一線で活躍していた若かりしころの佐藤さんを、大学院生だったブログ子は知っている。だけに、失礼ながら、佐藤さんも年取ったなあ(失礼)というのが、このタイトルを見たときの正直な第一印象だった。

 ● 日常世界との違和感

 とはいえ、パラパラと、そして次第に考え込みながら読みはじめて、びっくりした。とても刺激的なのだ。

 というのは、理系出身のブログ子だから、現代物理学の土台とも言うべき量子力学の確率論的な考え方には、一応、理解してはいた。そして、その基礎的な考え方には、いろいろと奇妙なパラドックスがあることも知っている。

 たとえば、有名な「光子の裁判」などはその典型。生きているのか死んでいるのかという「シュレーディンガーの猫」の思考実験もそうだ。

 けれども、1970年前後に教育を受けたのだが、確率論的な数式はともかく、波動関数とはそもそも何なのかなど、どうも量子力学の考え方と経験世界の日常のそれとの奇妙な違いには違和感をぬぐえなかった。無理やりに慣らされているという感じだった。もっとはっきりいえば、ごまかされているような気分になるのだ。

 整合性をとるために、量子力学には、疑うことを禁止するいろいろな公理、つまり何々原理というものが巧みに配置されている。

 たとえば、教科書に書かれている粒子性と波動性にかかわるボーアの相補性原理などもそうだろう。量子力学の世界を経験世界と結び付けようとするのがそもそもの間違いであり、コペンハーゲン解釈を信じなさい。相補性原理を信じるものだけが救われるのだというわけだ。

 この原理は哲学的な真理などではない。またアインシュタインが鋭く批判したような量子力学の不完全性を示すものでもない。原理と名づけられた公理の間には矛盾はない。だけでなく物理学の本質をつかんだ原理である。凡庸なブログ子は、そう信じて、それを一度も疑うことはなかった。

 疑わなかったのには明白な理由があった。道具としての量子力学が当時(1960年代)、あまりにも見事にその有効性を発揮していたからである。その華々しい成功に幻惑されたのかもしれない。

 このエッセーを読んで、あらためて量子力学の基礎、90年近く保ってきたコペンハーゲン解釈の正当性を問う動きが、今活発になっていることを知った(注記2)。

 設定した複数の公理の間に物理学的に、あるいは実験的に矛盾がない。そのことが、ただちに設定した原理が物理的な実体を体現しているといえるかという基本的な問題意識がここにはある(実用的には、そんな意識などなくてもなんら問題はない)。

 ● 「無人世界の傍観者科学」をこえて

 要するに、つぎのようなことなのだ。

  天気予報にしろ、総選挙の各党議席獲得予想にしろなんにしろ、この世の中の出来事は、人間の思惑とは無関係にあらかじめ一義的に決まっているはずだと思っている人は多い。原因と結果が、人間の介在の有無にかかわらずストレートに結びついている。物理学の対象はその典型であると思っている。言ってみれば、

 物理学とは、無人世界の傍観者科学

であるというわけだ。

 しかし、今、物理学の基礎となっているのは、このようなニュートン力学的な世界ではない。そのようなストレートな因果関係を否定し、確率でこの世界を記述する量子力学こそが現代物理学の土台なのだ。

 ということは、つまり、現実は確率なのに、なぜか人間はそこに因果性を見出す。そうなるのは、古典的な力学にならされた観測者に動機があるからだ。法則の根拠が観測者の外にあるのか、それとも観測者の中にあるのか、という問題なのだと言い換えてもいい。

 ● 新しい有人科学、QBズム

 そこで量子力学を、今の違和感のあるコペンハーゲン解釈をこえて再構築、あるいは復活を図ろうとする動きが、ようやく始まっている。

 そもそも、かつて、確率というのは、賭け事などの主観確率の意味だった。いってみれば有人確率だった。それを19世紀末の偉大な物理学者、ボルツマンは、統計力学の構築にあたって、いわゆる頻度分布を意味する無人の客観確率として、導入した。

 それをもう一度、200年超ぶりにもともとの有人つまり、賭け事の主観確率に戻そうというわけだ。そうした再構築の試みはいくつもあるらしい。

 今の量子力学を、行動科学の、この主観確率論として記述する試みも、その一つで、

 観察者不在の物理に対し、

 QBズム

が進行中だという。QBとは、量子という意味のクォンタムの頭文字Qと、新しい考え方の確率論の提唱者、ベイズの頭文字Bとを組み合わせた新語。つまり20世紀絵画におけるピカソ革命、

 キュービズム

にならったネーミングである。

 佐藤流にいえば、

 量子力学という赤ちゃんに、私がママよ、と人間の観測者が顔を出す

 現代「こんにちは赤ちゃん」物理学

である。ママ(観測者)がいてこそ、赤ちゃんも自分の生きていく世界を正確に、そして正しく理解できる(つまり、記述できる)のではないかというわけだ。

 言い換えれば、赤ちゃんは生身の自然ではなく、人間の自然を生きていく。この手法自体が、生身の身体同様、受け継いでいくものだというわけだ。

 現代物理学にも、堂々と、ママという観測者を

ということになる。

 ただ、エッセーには専門家らしい独特の思考方法から、素人には意味のとりにくいところが、後半部分を通じて多々ある。だから佐藤さん自身、こうした取り組みを評価しているのか、どうか、よくはわからない。

 正統派とされているコペンハーゲン解釈には、あいまいで解釈の幅が大きい。この幅を突き詰めようとするグループには二通りある。ひとつは、解釈は実在に基礎を置くべきだという左派。これに厳格なアインシュタインはその中でもさらに左。

 実在派に対し、観測者の内なる情報学に過ぎないとする右派。先のQBズムの動きは右派のなかでも最右派というわけだ。

 あえて言えば、エッセーの最後のほうで、佐藤さんが述べているように、コペンハーゲン正統派解釈に強く反対したアインシュタインですら、こんな極端なQBズムの動きに卒倒するだろう書いているのは、このことを指してのことだろう。

 事実、エッセーでは、(無人世界から優れた能力をもってせっかく生まれてきた)赤ちゃん=量子力学を、すぐに「こんにちは赤ちゃん」とばかり人間化するのは、人の世の誤りを見抜けなくするという意味で、もったいない、ダメだと言っているようにも解される。

 ブログ子の意見は、このような量子力学の極端な有人化、人間化のQBズムは、1990年代の物理学者と社会学者の間の無益な

 サイエンスウォーズ

を引き起こすような気がするというもの。

 守旧派といわれそうだが、真理の探究からの反知性主義ともいえる逸脱だろう。それとも、科学者のダメさの露呈と言うべきか。

 このあたりになると、見解が分かれそうだ。

 ● 量子力学は神聖にして犯すべからず

 とはいえ、こうした動きにも意味はある。

 現代物理学は、人文科学、社会科学を含めて

 科学の王様

である。とりわけ、華々しい成果を日々上げている量子力学はその土台であり、神聖にして侵すべからずの位置を占めている。

 いわば、量子力学帝国主義

であり、その圧倒的な権威は「1強多弱」の感は否めない

 たとえば、一例だが、最近では、決定論のニュートン力学的な進化論をこえて、量子力学的な観点から生物の進化(特に脳の進化)にアプローチする

  量子ダーウィン進化論

まで登場している(たとえば、W.H.Zurek)。

 しかし、現代物理学のこのような状況は、ともすると量子力学の正統派解釈に対し一切の疑問をゆるさないという雰囲気を生み出しかねない。となると、疑うことからブレイクスルーを生み出してきた科学のあり方としては、今の事態は危険性をはらむ。

 アインシュタイン・ボーアの「不確定性」論争(1930年)から85年。

 極論すると、神聖なボーアの相補性原理すら不可知主義、あるいは反知性主義の結果だったという可能性が、QBズムから出てくるかどうかは別にして、出てきてもおかしくない。ボーアの相補性の科学思想というのは、ある種のアメリカプラグマティズムの表れともいえるからだ( 注記 )。

 このへんになると、ブログ子の手に負えない。

 ただ、こうなると、かつてのアインシュタインは論争で対案を提出できなかったが、今だったらどうだろうとも考え込んでしまう。アインシュタインに下駄を預けたい気持ちである。

 この意味で、反知性主義を特集した『現代思想』にこのエッセーが掲載されたことの意義は、単に偶然かも知れないが、小さくない ( 下は「現代思想」2015年2月号表紙 = 久里洋二氏のイラストが一目を引く。同氏はブログ子の高校の大先輩 )  。

Image209020152

 さて。

 実験で何が起きるのか、今の量子力学は正確に予測できる。しかし、その理由については、たぶんに寡黙である。

 これと、反対に、

 実験など将来について何が起きるのか、前もっては何も正確に予測できない。のに、過去に起きた出来事の理由については、冗舌なほどに見事に説明できる〝科学〟が存在する。

 ダーウィン進化論である。

 ● ダーウィン進化論帝国主義こえて

 エッセーを読んでいて、ふと気づいたことがある。自然選択という客観主義をよそおった正統派ダーウィン進化論である。

 『種の起源』(1859年)から150年以上たつが、進化過程における生物自体の主体性を一切認めない

 客観主義の進化論

も、ボーアの相補性原理同様、果たしていつまで神聖にして犯すべからずの玉座に座り続けられるのであろうかという疑問を持った。波動関数同様、自然選択もいまもって意味不明なのだ。

 どういうことか。

 ダーウィン進化論もまた、過去に起こってしまったことについてはどんなことでも自然選択の原理で説明できる。しかし、これから何が起こるかという予測については何も予見できない。起こった後では何でも結果論的に上手に説明できる。が、これからのことについては結果が出ていないので何も予測できない。

 ということは科学理論としては致命的な欠陥である。ダーウィン進化論の謎、あるいは笑えないパラドックスといえよう。

 もっとはっきり欠陥を言えば、科学理論であるためには必ず必要なことなのに、

 ダーウィン進化論では、理論から決してこんなことは起こりえないという

 反証例

を検証可能な形で明示できない。

 ということであり、自然選択にかわって、偶然と必然、その間の選択という主体性を取り入れた

 生物中心の進化論

が、もうそろそろ科学的な進化論として構築されてもいい時期に来ていないか。ダーウィンが類推したように、経験世界の品種改良の場合のような人為選択を自然もまた生物に対して行なっているかという問題意識である。ダーウィン自身は行なっているとしている。

 しかし、数式いじりの集団遺伝学的なことはともかく、自分の身がどうなるのかわからない実際の進化のただ中にある生物自身が、自然選択という実体のはっきりしないあやしげなものに身を任せっきりにして、生き物として自らは何の選択もしないでただ安穏と傍観者でいるはずがない( 補注 )。

 つまり、生物は集団遺伝学のために生きているのではない( ネオダーウィニズムの集団遺伝学からもわかるが、進化論は種内への突然変異の広がりという確率現象から進化の一定の因果律を導き出す手法である。しかし、それだけがすべてであるというのは、間違いであろう。生き物である以上、確率論だけでは語れない)。

 ここにも客観主義という「無人世界の傍観者科学」の落とし穴があるように思う。あえていえば、

 与えられた環境的な一定の制約、あるいはその時のボディプランの一定の制約の範囲で、そして偶然と必然の間で、生物自身がいくつかの選択肢なかから選択していくというような、いわば偶然でも必然でもない、その間の生物の

 主体的選択の進化論

とでもいえるようなアプローチが必要ではないか。

 何度も訪れる進化の後戻りのできない岐路でその都度、うまい選択で切り抜けたもの、つまり1%の幸運な生物はさらなる進化を遂げる。しかし、その岐路で選択を誤った不運なもの、つまり99%が絶滅の道を歩む。これが進化の実相ではないかというわけだ。

 このことは、基本的にはホモサピエンスの進化でも同じ。ただ、選択肢のなかからの選択において、より生き残りに有利な選択とは何か、それを絞る吟味ができることぐらいであろうほかの生物の場合同様、そこにも環境適応の上手下手とは別の幸運、不運は避けられまい。

 繰り返すが、ダーウィンから150年超、結果論的な適応主義を振りかざしあらゆる分野に進出し支配下におこうとする

 ダーウィン適応進化論万能の帝国主義

を超える時期は近づいていると思う。

 このことを正直にここに書いておきたい。

  ● 注記 佐藤文隆さんからのコメント  2015年3月10日記

 ボーアの思想形成には、アメリカプラグマティズムに通ずるものがあるとする点について、佐藤文隆さんから、次のようなコメントをいただいたので、注記する。

 佐藤文隆さんの著書『科学と人間』(青土社)の第3章「量子力学における科学と社会思想」に書いたように、ボーアの思想形成にはアメリカプラグマティズムに通じるものがある(同書p182)。

 (プラグマティズムの創始者、C.)パースの信念確立の四つの手法のひとつとして科学があるという見方は秀逸である。

   (このコメントに対するブログ子の注記  信念確立の四つの手法とは、固執の方法、権威の方法、科学的方法、形而上学的な先天的方法である。パースは最上なのは科学的方法と考えた。こう考えると、不朽の真理などというものはないと、ボーアが悟ったのかもしれない。あるのはせいぜい仮説設定(アブダクション)に過ぎないということになるわけだ) 

● 注記2  復活したアインシュタインパラドックス

 Imgp7923 アインシュタインが提出したEPR問題(論文)は、その後、コペンハーゲン派解釈が正統派となり、その論文は忘れられる。しかし、この10年、ナノ操作の時代に入り、量子情報理論の展開で再登場、正統派解釈の妥当性という基礎をめぐって脚光を浴びている。そんな事情を詳述した著作に

 『アインシュタインのパラドックス EPR問題とベルの定理』(A.ウィテイカー、岩波書店、2015)

がある。日本語訳は和田純夫。1949年生まれで、1970年代に東大理学部物理学科大学院を終えている団塊世代。その後、文系分野で活躍。

 ● 補注 自然選択(自然淘汰)とは何か

 集団遺伝学と分子遺伝学の両方に精通した世界的な遺伝学者、木村資生さんの主著、『分子進化の中立説』(1986年、原著1983年)によると、

  集団遺伝学では「自然淘汰は(自然選択)は直接に遺伝子に働くのではなく、表現型に基づき、個体の生存と繁殖を通して働く」。

 したがって「自然淘汰とは突然変異型の間で増殖率(繁殖率)が異なることと定義される」。

 自然淘汰には2つの型がある。「すなわち、正の淘汰(= ダーウィン淘汰) と負の淘汰」。「一つの遺伝子の突然変異型が集団中に生じ、それを持つ個体の適応度を高め、それによって集団中に広がるようになると正の淘汰が働いていると言える。これは、ダーウィンが生物界の適応的進化の主な原因と想定した自然淘汰の型であり、まさにダーウィン淘汰」。ただし、「こういう淘汰は生物界ではめったに観察されていない」。

 「これに対し、個体の適応度を下げれば、その突然変異体は集団から除去されるようになる。これが負の淘汰」。

 ● 補遺 『分子進化の中立説』(1986年)

 本書は「分子レベルでの進化的な変化、すなわち遺伝物質それ自身の(集団内における)変化を引き起こす主な要因は正のダーウィン淘汰ではなく、淘汰に中立なまたはほとんど中立な突然変異遺伝子の偶然的な(集団内)固定であることを、科学界に確信させるために書かれたもの」(同書序文の冒頭)。

 分子レベルを考察した中立説は、偶然的な過程における遺伝的な浮動が(正のダーウィン淘汰に比べて)ずっと大きな役割を果していると強く主張する。その上で、進化過程の正のダーウィン淘汰とは別の側面を分子レベルで明らかにした。

 つまり、「中立説は淘汰に対する有利さがなくても、突然変異遺伝子の一部は、(最初の突然変異数が少ないことや、集団の大きさが有限であることにより)集団中に(偶然に委ねられて)広がることができるという集団遺伝学のよく知られた事実に基づいている」(同書p52)。この意味で中立説は、自然淘汰を否定したものではない。

 ここでいう偶然的な過程における遺伝的な浮動( = 単に浮動とも)とは、

 集団レベルでの突然変異遺伝子の置換

のことである。これと個体レベルでの遺伝子突然変異とは異なる概念であり、混同しないよう区別しなければならない(同書p52-53)。

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日本の「糸引き納豆」の起源

Imgp6901 (2015.02.25)  ブログ子の「朝ご飯の一品」といえば、

 納豆と生たまごをしょうゆでかき混ぜ、アツアツご飯でいただくこと

と決まっている。糸引きのネバネバがたまらなくおいしい。よくぞ日本人に生まれたなあ、と思うひと時である。第一、これは安上がり。ほとんど手間がかからない。

 また、「晩酌の一品」といえば、

 納豆とマグロとイカのしょうゆかき混ぜ

である。マグロ値段が高いというのなら、夕方半額セールの大衆魚カツオでもいい。刻んだネギやニンニクを入れることもある。これと日本酒2合のぬる燗でなにかと楽しめる。

 野菜の少ないこのメニューばかりだと、健康によくないかもしれないので、ときどきは

 納豆と野菜を挟み込んだ生春巻き

をつくったりもする。季節野菜と年中出回っているエビやハムを挟んだりする。くるむ半透明のライスペーパーは常備してある。のだが、少し手間がかかるのが難点。それでも納豆だけはたいてい入れ込むことにしている。

 納豆好きになったブログ子のおさないころ、母親が冬、煮た大豆をコタツの中において発酵させ、納豆をつくっていたのを今も覚えている。

 ● 東南アジアの4地域仮説

 Imgp6903_2 そんな折、2週間ほど前の「視点・論点」というコラム番組(Eテレ)で、名古屋大学大学院の横山智さんが

 納豆の起源

について、話していた。

 納豆好きのブログ子としては、日本の「糸引き」の起源は

 東南アジアの伝統食が日本に伝わってきた

と漠然と思っていた( 補遺 )。

 横山さんによると、ともかく大豆からつくった納豆という意味では、確かに東南アジアを中心にいろいろ出回っている。中国にも、韓国(チョングッチャン)にもある。

 しかし、日本のような糸引き納豆はなかなか見つからなかったという。しかし、調査をつづけていくうちに横山さんたちはついに

 ミャンマー北部の市場で植物の葉にくるんで売っている

のを見つけた(写真右上)。

 いろいろ調べていくうちに、煮た大豆に発酵させる納豆菌(正しくは、空気中にある枯草菌)をどのように大豆にくっつけるか。ポイントのどのようにそれを増殖させるか。などの違いによって、それぞれ独立した「糸引き」源流4地域を特定した( 下図 )。いずれも日本と同様の照葉樹林帯ではある。が、それぞれでは、菌の成長のさせ方、くるむ植物、食べ方が違う。

 ● 日本「糸引き」も独自の起源か

 番組によると、その特定地域とは

 ヒマラヤ(ネパール系)、ヒマラヤ(チベット系)、

 東南アジア(カチン系)、東南アジア(タイ系)

の4か所。いわば「糸引き」納豆4起源説。日本もこれらとは独立して「糸引き」を発達させたのではないかという。

 まだ確定的な定説ではないのだが、日本も独自に発達させたのではないかというのがおもしろい。弥生時代にはもう食べていたのではないかともいわれたりしている。

 そして、現代。

 日本で生産量の多いのは茨城県(水戸納豆)。納豆をおいしく楽しむ。だけでなく、発酵文化大国、日本としても、日本の「糸引き」の起源を探る国内の旅がもっとあっていいように思う。

Imgp6907

  (写真はいずれも2月12日放送の同番組「視点・論点」テレビ画面から)

 ● 補遺 納豆起源は東南アジア「大三角形」

 生態学者、中尾佐助の『料理の起源』(1972)によると、納豆の起源は同氏がとなえている

 東南アジア「大三角形」仮説

が有名。インドネシア、ヒマラヤ、日本を結ぶ大三角形だ。

 ブログ子もこの学説をなんとなく信じていた。

 そこで、もう少し詳しく言うと、納豆の源流というか、大元のセンターは中国雲南省。そこから、

 ヒマラヤのキネマ、インドネシア・ジャワ島テンペ

に伝播したという仮説。この中尾説では、このジャワから日本の糸引きは伝わってきたとしている。

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落下物、どこから狙っても「百発百中」

(2015.02.24)  先日土曜日のミニ科学番組(Eテレ)

 大科学実験

は、久しぶりに動力学の実験だった。

 吊るした物体を落下させる場合、落下と同時に狙いをつけた矢発射機の引き金を引けば、発射機が上を向いていても、下を向いていても、左下向きでも、どんな角度からの発射でも、また設置する発射機の落下物からの遠近に関係なく、百発百中で落下物を空中で撃ち落せるという実験をして見せていた。空気抵抗の違いを無視できるよう工夫していた。

 ● ガリレオの「ピサの斜塔」実験が土台

 ガリレオのピサの斜塔の落下実験を土台にしたみごとな発想である。

 軽い矢であろうと、重い落下物であろうと、その重さに無関係に一定の時間には一定の距離落下する。だから、最初の的狙いさえしっかりしている場合、落下と発射が同時であれば、この法則のおかげで自動的に矢は的に当たる。このことを実験は応用した。

 この番組のおもしろいところは、このあとの実験にあった。

 それでは、矢発射機20台を、上部に落下物を吊るした支柱の周りに配置する。支柱からの距離はだいたい等距離にしていたが、多少の違いは、先の実験からわかるように、実験の結果には影響をおよぼさない。

 周りに配置する場合、発射機の狙う方向をあえて異なるようにするため、20台の配置は、らせん階段上に並べていた。つまり、上のほうの発射機は下向き、下の発射機は上向きに矢を射ることになる。さらに、らせんだから、方向もそれぞれ少しずつ異なるという趣向である。

 落下と引き金が同時になるように機械系でつながっていた先の実験と異なる点は、20台にそれぞれ一人ずつ人員を配置していたこと。それぞれが落下と同時に狙いをつけた発射機の引き金を自分で引く。ここに

 発射と同時に引き金を引くとはいっても、人間系に微妙なズレ

ができる。このズレから理論的には百発百中のはずなのに、どれくらいが落下中の直径50センチの的に当たるのだろうか

という興味がわいてくる。

 第1回の実験では、20台のうち7本しか当たらなかった。それで、20人に何度か練習してもらい、あらためて本番。

 今度は20台のうち半分以上の12本が当たった。

 これはおどろくべき優秀な結果である。なぜか。

 どうして残りは、当たるはずなのに当たらなかったのか。計算してみればわかる。

 矢は発射後、約0.5秒で的までやってくる。このとき的は、地球の重力で約5.0メートル落下。このときの落下速度は1秒当たり約5メートル、つまり秒速5メートル。これは落下する的の直径50センチを0.1秒で通過する速さである。

 ということは、発射のタイミングは0.1秒以下の正確さで引き金を引くことが求められることになる。NHKの時報の精度並みを人間に求めるのは、限界に近い。

 大きい的には空気抵抗があるにしても、0.1秒早く引き金を引けば、的が落下してくる前に矢が通過してしまう。逆に0.1秒遅ければ、矢が的に到着したときにはもう下にいってしまっている。

 そんななか、12本も的を射たというのは、実験に参加した若いスタッフの反射神経が驚異的だったと言うべきだろう。

 ● 的中率を上げるには

 この的中率を上げるには、理論的にはできるだけ的の落下速度の小さいうちに発射することである。ということは、できるだけ、支柱の近くに発射機を設置すればよい。矢の飛行時間は短くなり、おそらく、ほぼ百発百中になるだろう。

 逆に、支柱からもっと離したらせん階段上に設置すれば、この的中率、20台のうち12台というのは大幅に低下するだろう。この場合だと、的はより高速で落下しているときに矢がやってくるので、当たりにくくなるという理屈である。

 ここまで書いてきて、ふと思った。

 かつて湾岸戦争のとき、アメリカ軍は高速で飛んでくるイラクの弾道ミサイルに悩まされた。そこで高速のパトリオットミサイルで地上から狙いをつけて迎撃し、着弾前に撃ち落そうとした。が、ほとんど撃ち落せなかったとの米軍側報告書が後日明らかになった。

 この実験番組をみて、なるほど当たらなかったのも無理はないと納得した。

 動かない地上の目標物ならともかく、音速に近い高速弾道ミサイルの空中での迎撃破壊は、攻撃側に多少の誘導装置があったとしても、きわめて難しい。音速をかなり超える宇宙兵器同士ならなおさらだ。ざっとみて、千分の一秒の精度で機械系を制御する必要がある。

 このことを実感した実験でもあった。

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人類はいつアートを発明したか

(2015.02.24)  以前、文明論として示唆に富む I.モリスの

 『人類5万年 東西文明の興亡』(筑摩書房)

というのを紹介した。ブログ子は、いかにも考古学と歴史学に精通した研究者らしい好著と高く評価した。のだが、少し心配だったのは、東西の区別は別にしても、ともかく、現在の私たちが文明とか、文化とかでイメージするものと共通したものを

 人類がつくり始めたのはいつか

Imgp6964201501_2 という点について、この本には具体的な証拠を挙げて、提示していなかったこと。モリスの場合、文明というのは、

 矢じりなどの道具制作

のことを示しているようにみえる。その差異などから、東洋、西洋という違いが出てきて、

 東西文明の興亡はおおよそ人類5万年

というのでは、現代感覚からして、あまりにアバウト、あいまいすぎて困ると引っかかっていた。

 5万年前といえば、氷河期がようやくピークを終えたころで、人類(ヨーロッパでは主として旧人ネアンデルタール人。新人クロマニヨン人もそろそろいたころ)にとっては、まだまだ厳しい環境だった。そんなときに文明といえるようなものがあったのかどうか、矢じり制作とはいえ東西の文明にそんなに違いがあっただろうかという問題意識を持った次第である。

 ● 4万年前にはアート発明

 学校では、数千年前のエジプト文明や黄河文明については、なかなか高度なものだったとは習った。しかし、これらをさらにさかのぼって人類文明の起源にまでさかのぼってはいない。日本でも縄文中期には見事な芸術作品のような縄文火炎土器がつくられていた。

 だから、

 人類文明の起源は5000年前よりは古い

ということはわかる。少なくとも、そしておそらくは長い氷河期が終わり、急激な温暖化の始まった今から1-2万年前くらいまでは、東西文明に共通した起源はさかのぼるのではないか 

 そんな気がする。

 しかし、そのことを証拠立てる具体的な手がかりがないか

とこの2週間ほど、暇なので、図書館などであれこれ探してみた。

 そして、

 「ナショナル ジオグラフィック(日本版)」(2015年1月号)が

 人類はいつアートを発明したか?

という特集をしているのを見つけた(= 写真 )。 

 仮に文明の定義として、アートの発明とすると、アートの起源からどんなことがいえるか。

 アートといっても、特集の大部分は、動物を見事に描いた洞窟壁画や、手の中に入るような小さな立体的な抽象・具象アート。これらをカラー写真で一覧できるようにしたコーナーがある。

 それによると、ヨーロッパでは

 4万年前から遅くとも2万年前には人類はこれらアートを通じて創造性を発揮していた

ことが明確にわかる。

 具体的には、動物たちを色鮮やかに見事なタッチで描いたスペインの「アルタミラ洞窟壁画」(39000年前)、赤い牛と馬のフランス「ラスコー洞窟壁画」(19000年前)がある。ドイツでは4万年も前の楽器、骨笛が見つかっている。

 予想通り、ヨーロッパでは5万年前の氷河期のピークを過ぎた4万年前あたりからアートは始まり、広がっていった(以下に示すように東洋でも同様)。

 ヨーロッパに現生人類(新人クロマニヨン人)がアフリカからやってきたのは、今から3-4万年前だからこうしたアートはヨーロッパでは現在につながる新人のクロマニヨン人によってつくられていたのだろう。

 ただ、特集では、初期アートの一部については現生人類ではなく、つまり今は絶滅してしまった旧人ネアンデルタール人によるものとも考えられるとしている。

 一方、ヨーロッパ以外でも、数は少ないが、約4万3000年前からアフリカとユーラシアでも抽象・具象アートが広がっていた。たとえば、4万年前のインドネシアの洞窟から顔料を吹き付けた手形模様が、ヨーロッパ同様、見つかっている。

 ● 2万年前以降、東西文明に差異

 モリスの本を紹介したときのモリスの結論は、まとめると、

 5-7万年前、東アフリカから世界に広がった現生人類(今の人類)の間には、東洋、西洋という文明の明確な差異はまだなかった(遺伝的な差異もない)。しかし、氷河期が終わり、代わって温暖化が顕著に現れた13000年前ごろになると、はっきりとした文明の差異が出てきた

というもの。だから、モリスとしては、あるいは和書では、東西文明に差異が出てきたのは、

 5万年前以降

というつもりで、人類5万年、東西文明の興亡というタイトルにつけたのだろう。

 アートからみると、それはもう少し下って2-4万年前まではほとんど東西文明に差異はなかったといえるのではないか。

 つまり、東西文明に差異が出てきたのは、氷河期から温暖化への移行が始まった今から2万年前以降である。

 モリスは、東西文明に差異が出てきた原因を、温暖化の影響の程度が東洋と西洋という地理的な位置の違いによって異なっていたからだとした。

 アートからみた場合、あえてモリスの著作のタイトルを修正するとしたら、

 人類2万年 東西文明の興亡

ということになろう。

  ● 注記 知性の発達はいつごろからか

 考古学的には、人類は約4万年前から多様な道具をつくりはじめ、そこにまだ東西の区別はないものの、急速に知性を発達させてきたと考えられている。

 アートも知性の表れととらえると、アートと考古学的なこの知見とはほぼ整合性がとれている。

 

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身を削った逆境の画家、ゴッホ

(2015.02.12)  以前、このブログで

 ゴッホへの返信 『ゴッホの手紙』を読む

というのを書いたこともあり、ブログ子はゴッホの手紙に興味を持つようになった。世の中には同じような人はいるもので、

 『書簡で読み解く ゴッホ 逆境を生きぬく力』(坂口哲啓、藤原書店、2014年6月)

というのを、図書館で見つけた。そして早速、読んでみた。

 Imgp6810 この書店からは、

 『ゴッホはなぜゴッホになったか』(N.エニック、2005年)

というのも出ている。生前不遇だった画家が、死後異常なまでに評価されるようになったのはなぜか。それも聖人のように崇められるようになったのはなぜか。

 これは芸術神話の典型であるとして、社会学的な考察を行なっている鋭い著作。

 明確な問題意識をかかげて、社会学的な手法でできるだけ客観的に迫っているのが好感できる。その道のプロの仕事だろう。

 これに対し、先ほどの本は、これといった問題意識はない。ただ、『ファン・ゴッホ書簡全集』(全六巻、1969-1970、みすず書房)をもとに、芸術の土台となるゴッホの人間性の魅力を解明、あるいは解説しようとしたゴッホファンらしい本である。

 その人間性とは、しいたげられている者たちへの共感と愛だと述べている。そして、その人間性の魅力とは作品に宗教的な要素と創造的な要素とが溶け合ったところだと結論付けている。

 なんだか、同語反復的な茫漠とした話であり、いかにも文系人間らしい分析である。核心がつかめていないという印象が否めない。

 ゴッホはなぜ自殺したのかという点についても、もう少し、踏み込んで分析してほしかった。生活の面倒を見てもらっていた弟、テオの経済的な窮状を目の当たりにしたのが直接の原因だとするボナフー説(『ゴッホ 燃え上がる色彩』(創元社))や、弟は関係がなく、ゴッホかんしゃく持ち説という新関公子説(『ゴッホ 契約の兄弟』(ブリュッケ、2011)を簡単に解説しているだけというのでは、いかにもさびしい。ゴッホの人間性の魅力に迫りたい意気込みの著者の勝負どころだったように思う。だから、新説は無理としても、少なくともどちらの説がよりいいか、説得力があるかという分析を、根拠を示して展開してほしかった。

 ● 今、なぜゴッホなのか

 そうでないと、サブタイトル

 逆境を生き抜く力

というのが、意味がなくなり、おかしなことになる。30代で自殺したゴッホに、逆境を生き抜く力というのは、あまりにも変なのだ。

 ここは、この伝記風の絵画論を読んだブログ子なら、

 逆境に身を削って(それを)作品に充電した画家

という意味で、サブタイトルは

 身を削った逆境の画家

とする。このほうが、著者の言いたいことが、表現できているように思う。単なる逆境ではない。逆境に身を削ったのだ。その削った分の充電があるからこそ、鑑賞者にエネルギーを与えることができているというわけである。

 また、この本の最初には、

 「はじめに」という形で 見出しで

 今、なぜゴッホなのか

と問いかけている。問題意識があり、なるほどと感心した。しかし、はしがきのどこにも、そのこたえはないのは、残念である。

 ここは、

 逆境の時代、今なぜゴッホなのか

というようにすれば、わかりやすかったかもしれない。逆境の連続だったゴッホ作品の今の人気の秘密はここにあるというわけだ。

 ● 参考になる文献リストと詳細な年譜

 とはいえ、ゴッホに関する文献リストや膨大な書簡を抜き書きする形の詳しい年譜については、とても有用であり、さすがはゴッホファンだけのことはあると感心した。

 今後、大いに参考にしたい。

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人類の進化、人間の歴史          ---  偶然と必然、そのあいだの選択

(2015.02.10)  ブログ子は現在、浜松市に暮らしているのだが、同じ浜松には歴史家の磯田道史さん(静岡文化芸術大学教授)がいる。ということもあり、コーディネーター役で毎週出演している討論形式の

 BSプレミアム「英雄たちの選択」

をときどき拝見している。歴史の転換点のそのとき、英雄たちはどんな思いで、決断し、行動したのかということをあれこれさまざまな角度から、後知恵ではあるが、つまり結果を知った上で専門家同士が〝安心して〟話し合う番組である。いわば知的エンターテインメントである。

 ● BS番組「英雄たちの選択」

 たとえば、関ヶ原の戦いを前に、家康はどんな思いで、さまざまな選択肢のなかからある一つの選択をし、行動したのか。

 時は勝利なり

という判断の下、家康は遅れている秀忠主力軍の到着を待たずに決戦する。磯田さんは「 if (もし) 」という別の選択を家康がしたとしたら、その後の歴史はどうなったか、想像し推理するといった具合。

 英雄たちとは限らないが、歴史とは人間の行動の選択である

とはいえるだろう。歴史を生きている生身の人間には現在進行形のその選択の結果がどうなるのか、わからない。そんな中での、いわば〝苦渋の選択〟なのだということがよくわかる番組であると思う。

 歴史には、天体の運動のような決定論的な必然の法則などというものはない。さりとて、サイコロを振った時のような予測不可能なまったくの偶然に支配されているというのでもない。

 偶然と必然、そしてその間の選択。それが歴史だ

ということだろう。歴史家の未来予測がほとんどといっていいほど当たらないのも、学問の未熟さゆえというよりも、偶然と必然の間で人間が行なう選択の予測が難しいという歴史学の根本的な性格のせいなのだと思う。

 難しさについてさらにいえば、その場合、選択するのは誰かという主体の問題がある。番組のように、かけがいのない一人の特定の英雄なのか、はたまたいくらでも取替え可能な名もなき大衆なのかという問題だ(これは、進化論でいえば、淘汰圧がかかるのは個体なのか、種なのかという問題である)。

 物理学にはこの種の難点はない。というか、物理学は初めから、選択のないような分野に限定した。偶然と必然のみの世界なのだ。

 一人の英雄にしろ、民衆にしろ、決断として、あるいは総意として人間にその選択をさせた主因、あるいは背景とは何なのか

という問題もある。というか、逆に言えば、そこの分析が、過去と現在の対話だと言われる歴史学の、物理学にはないおもしろさであろう。

 ● 人間、文明、進化の共通性

 歴史番組を見ていて、いつも思うのは、時間軸にそって、偶然と必然、その間の選択の因果関係にかかわる学問には、日本史、世界史といった人間の歴史だけでなく、もっとスパンの長い、たとえば数千年のスケールでは

 人間の集団としての文明の興亡

もあるではないかという点。選択という点では互いに共通の基盤を持っている。

 もっと長い時間スケールでは、たとえば、10万年、100万年というスケールでは

 人類の進化

というのも、そうだろう。数百万年、数千万年といった地質学的な時間スケールでは、生物種の進化という言い方が一般的である。

 タイムスケールが違うとはいえ、生物、動物としてのヒトであれ、文明を持ったホモサピエンス(現生人類)であれ、文字で書かれた歴史を持つ人間であれ、その中身は偶然と必然の間で、ヒトや人類や人間がある種の主体的な選択と行動にかかわ.る。しかもそこには不可逆性という共通性もある。その歴史や進化はいずれも似たパターンはあっても、偶然性があり、厳密には繰り返すことはない。

 分析する手法でも、いずれの場合も、生物学と社会学、さらには環境としての(自然)地理学がかかわるという共通性を持っている。

 ● ダーウィン進化論は正しいか

 こう考えてくると、ひとつの疑問が出てくる。

 種は変化する、どう変化するのかということを決定するのは周りの自然による選択であるとするダーウィン進化論は本当に正しいのだろうか

という疑問である。

 彼の説は、偶然や必然だけで成り立っている。むしろ、あえてそうしたといえる。人間を含めた生物自身の、現在進化中という現在進行形的なある種の主体的な選択と行動というものがいっさい出てこない。まったくの偶然と、決定論的な必然性、つまりランダムな突然変異とそれによる自然選択(自然淘汰=その具体的な中身は、後の洗練されたネオダーウィニズムでは数学的に定式化された繁殖率)のみが登場する。

 輝かしい成果を上げつつあった当時の物理学の手法を見習って、進化論を神にも人間にも頼らない客観的な理論にしたい。そこでダーウィンは種の変化のメカニズムに自然選択という科学的な装いをほどこし、いかにも恣意性のない展開であるかのように進化論を仕立て上げた、ようにみえる。

 これが、過去については何でも、そしていかようにも説明できるが、未来については何も予測できないというおよそ科学理論としては認められない結果論的なものに進化論がなってしまった原因ではないか。

 ● 人類5万年、文明の興亡

 そこで、人間の歴史として「英雄たちの選択」をもっとさかのぼって

 人間集団としての東西文明の興亡をみてみたい。

 その格好の材料が、このブログでも先日取り上げたベストセラー

 『人類5万年 文明の興亡』(I.モリス、筑摩書房、2014年)

である。サブタイトルは

 なぜ今、西洋が世界を支配しているのか

というもの。補足すると、

  今から約20万年ほど前にアフリカ東部に暮らしていたホモサピエンスのなかの現生人類が約10万年前にアフリカから、気候変動などをきっかけに壁となっていた広い砂漠を乗越え、世界各地に移動しはじめた。これにより、それまでのホモサピエンスは、すべて現生人類に入れ替わった(何度かの氷河期を乗越えられなかったのかもしれない)。ともかく、ホモサピエンスのなかでは現生人類、つまり今の人類のみが、厳しい環境を生きのびることができた。

 ただ、それでも、5-7万年前くらいまでは、世界に散らばった現生人類の文化には、たとえば石器のつくりかたなどには大きな差異はなかった。ここまででは東西文明には差異はない。

 ● 文化依存性の進化

 (人類学者、尾本恵市氏(2014年1月の放送大学「進化生物学入門」講義)によると、20万年前に誕生した現在につながるホモサピエンスとしてのヒトは、

 文化依存性の進化

の結果として、約7万年前から急速に文明を持つようになった。

 これには、おでこの前頭葉がこのころ急速に発達し、抽象化能力を身につけたことと関連があるのかもしれないという。この能力は現生人類のみに見られるのであり、ほかのネアンデルタール人などではみられないという。このことが、食料調達の工夫に劣るなどネアンデルタール人が氷河期を生き残れなかった主因かもしれない。

 逆に言うと、新人類の現生人類も最初の20万年前から5-7万年までは、なぜかこの文化依存性の進化はほとんどなかったということになる。

 ブログ末に、この講義で示された「現生人類の登場」と、その世界拡散の様子を具体的に示した図を掲載)

 差異が出始めるのは、温暖化で第4氷河期がピークをすぎた今から2万年前。

 その後、急速に温暖化が始まる今から13000年前から10000年の間では西洋と東洋の文明には、洞窟の壁画や出土品などでもわかるように、明確に差異が出てくる。芸術が花開くなど西洋の優位が、脳容積や遺伝子構成には双方に有意な違いはほとんどないのに、はっきりする。

 これは、地理的な違いが、当時の温暖化の影響の受け方に大きな違いを生んだためである。幸運な緯度地帯だった地中海を持つ西洋にとって当時の温暖化は幸いした。それだけなのだ。要するには、西洋の人種的な優越性などというのは、偏見であり、幻想なのだとモリスは結論付けている。

 まとめると、5-7万年前から世界に広がった現生人類(今の人類)の間には東洋、西洋という文明の明確な差異はまだなかった。しかし、氷河期の終わる13000年前ごろになると、はっきりとした差異が出てきた。

 この結果、

 温暖化による地理的な優位が、東洋に対するこのころの西洋のリードの主因

となった。

 そして、

 10000年前になると、西洋という地理的な概念が分析ツールとして有効性を発揮する

とモリスは、その著書で強調している。

  分析ツールとしての地理について、注意しなければならないのは、

 「地理が社会発展の道筋を決定する一方で、その社会発展が地理の意味するところを変える」

ということである。 

 たとえば、ある時期までは西欧にとって地中海の海は決定的に重要だった。地理的な優位性があった。当時としては大西洋という地理はむしろ、地理的には後進性を示すものだった。しかし、その後の社会の発展で、大西洋に突き出ているイベリア半島は、地理的な優位性を獲得し、大航海時代という発展の時代を獲得する。地理的な優位性が発揮されたというわけだ。

 これは言ってみれば、

 動的な「文明の生態史観」、あるいは動的な「文明の海洋史観」

ともいえるだろう。

 余談だが、こうした観点から、現代のスーパーパワー、アメリカの文明的な立ち位置を分析することができるようにもみえる。何が、7つの海の大英帝国から超大国アメリカへと、西洋文明の重心を移動させたのかというテーマである。

 S.ハンチントンとは異なる史観がみえてくるような気がする。

 ● 温暖化で人類に新しい選択肢

 文明の興亡においては自然地理が大変に重要だとするモリスのこの著書で、注目したいのは、

 人類、あるいは人間の選択

という視点。たとえば温暖化が13000年前のチグリス・ユーフラテスの「河沿いの丘陵地帯」に暮らす人々の選択を、分析ツールとして取り入れていることだ。

 具体的には、こう書いている(同書上巻、p142ページ)

 「地理が西洋人の仕事を容易にしたのだろう。それでも、気候や種子の大きさだけが歴史ではない。仕事を減らす、もっと食べる、大人数の家族を養うといった個々の選択も大きな意味を持つのは確かだ」

 これを、ブログ子なりに要するに

 怠惰と貪欲と不安の中、人間は、自分の選択がどんな結果を招くのかわからない。しかし、生き残るために、あるいは今までのところに定住するのか、あるいは移住するのかを主体的に判断、行動してきた。この主体はまぎれもなく人間であり、人類なのである。環境が一方的にその選択を押し付けたものではない。いわんや環境が判断したり、行動したのではない。

 リスク覚悟で、生存確率の高い新しい選択を主体的に行なったのは人間である。人間はひたすら環境に鼻づらを引きずり回されるだけの哀れな存在ではなかった

ということであろう。

 この意味では、選択肢のない科学理論をよそおった結果論的なダーウィンの進化論は誤りであり、進化の実態とはかけ離れている。

 ● 人類が初めてサバンナに立ったとき

 さらに踏み込んでいえば、

 数百万年も前、チンパンジーから別れた猿人は、森の樹上から地上へ、そしてサバンナに食料をもとめて旅立ったとき、これまでの動物にはなかった共感力で社会性を発達させ、身につけた。つまり、人間性を身につけ、

 サバンナへと2本足で分け入っていった

のではないか。その結果がどうなるのかは、当時の猿人にもわからなかったはずである。それでも、サバンナに出るという決断と行動があった。

 歴史とは、そういう選択と行動の積み重ねなのだ。

 選択の結果の行動が、人類などのその生物の脳の働く環境を決めている。脳の働きはあくまで受身であり、脳自身が主体的に行動を決めているのではない。

 決断と行動の主体は、ある特定の勇敢な英雄猿人かもしれないし、あるいは、小さなこどものチンパンジーだったかもしれない。

 このことは、生物全体、たとえば、数億年前、魚がある日、気候変動、あるいは地球環境の変動で陸上に上がろうとしたときの選択と行動でも言えるのではないか。

 その時の選択と行動が、魚たちの体内に蓄積された偶然の産物である突然変異を呼び覚まし、生体分子機構という必然のメカニズムでテストされ、ふるいにかけられる。この生き残りのための合目的性のテストに合格した魚たちだけが陸上で両生類へと進化していった。

 進化といい、歴史といい、偶然と必然、その間の生物の主体的な選択なのだと思う。

 ダーウィン進化論とは、いってみれば

 勝って生き残れば官軍、敗れれば賊軍の淘汰

であり、結果論なのだ。

 何でも説明できるが、未来について何も予測できないダーウィン進化論の適応主義の正体は、勝てば官軍思想にすぎないと思う。

02_11_020043

  ( - 氷河期と温暖化の様子 2004年3月号「ナショナルジオグラフィック」日本版大特集より)

 ● 補遺 文明を行き詰らせるもの

 モリスの著書では、文明を行き詰まらせるものとして、次の5つを挙げている。

 飢餓、疫病、移住、国家の失策、そして気候変動

である。ここで述べた気候変動同様、ほかの要因も人間の選択をせまるものであることを忘れてはなるまい。ローマ帝国衰亡史も、こうした視点と地理学という分析ツールから再考察することが求められるのではないか。

 つまり、西洋の支配はずっと数万年の昔から続いており、今もそうなのは当然であるという偏見の長期固定論でもなく、今の支配は一時的なものとする短期偶然論でもないパターンのある分析が必要だと思う。

  ● 補遺2 J.モノー『偶然と必然』

 フランスの分子生物学者でノーベル賞受賞者、J.モノーの名著に

 『偶然と必然』(みすず書房、1972)

というのがある。

 「進化の要因は、不変な情報(DNAなど)が微視的な偶然によるかく乱(突然変異のこと)をうけることにある。このように偶然に発した情報は、合目的な機構により、あるいは取り入れられ、あるいは拒否され、さらに忠実に再生・翻訳され、その後、巨視的な自然の選択を経て必然のものとなる」

としている。さらに、具体的な本文から引用すると、

 「(偶然によって起こった生殖細胞の核内の突然変異のうち)受け入れられる突然変異というのは、(まず第一に進化の結果として持つ個体の生存という)合目的装置の(合理的な)首尾一貫性を低下させてはならない。だけでなく同時に、むしろすでに起こっている変化の方向に即してこれをさらにいっそう強化するか、あらたな可能性を開くものでなければならない」(同書p139ページ)

としている。この二つの条件は自己複製と遺伝という完全に決定論的な必然性の下で遂行されるという。

 引用の中の合目的装置とは、複製と遺伝の分子機構のこと。

  ● 補遺 人類の大いなる旅

 約20万年前に東アフリカ登場した現生人類の、その後の大いなる旅については、

 「ナショナルジオグラフィック」2006年3月号

に大特集がある。人類の移住ルートという美しいカラー地図は貴重である。

 それによると、7-5万年前にアフリカを旅立った現生人類はヨーロッパには今から4-3万年前に移住している。これに対し、中央アジアには約4万年前に到着している。さらにそこからベーリング海峡を渡ったのが、2-1.5万年前。南アメリカの南端には、今から1.5-1.2万年前に達していた。地球温暖化が本格し始めたころである。オーストラリアには、東南アジアの島伝いに旅を続けて、5万年前にはもう到着していたらしい。

 こうした多いなる旅で、現代人からさかのぼった現生人類の遺伝子構成は、アフリカ人を別にすれば、西ユーラシア人も東ユーラシア人も、くっきりと分離できるほどの大きな違いはないことがわかっている(たとえば、国立遺伝学研究所教授の斎藤成也(集団遺伝学)氏の研究、第25回(2008年)浜松コンファレンス講演録)。

 ● 進化生物学入門

 2014年1月14日に放送された放送大学講義「進化生物学入門」(尾本恵市教授)の現生人類の登場と、その世界拡散の様子を次に挙げておく。同日のテレビ画面から。

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雲をつかむような大科学実験

(2015.02.09)  郷里の北陸は猛吹雪の大雪らしいのだが、青空の浜松中心部も、今日夕方、散歩に出かけたら、今冬一番の寒さだった。浜松名物の風はほとんどない。しかし、なにしろ、晴れ間からちらちらと雪がゆっくり舞い降りてきていた。寒いはずだ。

 Img_2894201529 雪は一時的なもので、積もりはしない。だが、雪が降るなんて浜松としては珍しい。近くに浜名湖があるせいで、寒暖の差をやわらげてくれるからだ。

 しかし、久しぶりに、雪国育ちのブログ子としては、なんだか生き返ったような気分になった。冬に、毎日日中も、夜も快晴というのは、どうも落ち着かない。

 冬はやっぱり、どんより曇っているのがいい。

 ● 30分で雲ができる

 そんな気分でいたら、先日、NHKのEテレで

 雲をつかむような話

という大科学実験を放送していた。要するに、室内に雲をつくってみようという実験だ。

 まず、第一に。

 1階を60度くらいに温める。そして、雲をつくるのだから、加湿する。次に、2階は20度くらいにして、ここも加湿する。

 そこで、1階と2階の仕切りを外すとどうなるか。

 仕切りをとると同時に、勢いよく1階と2階の空気が入れ替わり、水蒸気でもうもうとした状態になる。雲はできない。

 そこで、今度は逆、つまり、1階を20度くらいにしておいて、2階を猛烈に60くらいまで温める。ともに限界まで加湿する。

 そして、仕切りを取り除く。と、30分くらいで、秋の空の雲のようなものが浮かび始めた。雲だ。スタッフが盛んに雲をつかもうとしていた。

 雲は、湿った冷たい空気が、湿った温かい空気の下にもぐりこむことで、ゆっくりと発生することが、この実験で明白にわかる。気象でいうところの雲のできやすい前線である。

 実験を拝見し、なるほどと感心した。

 そこで、ふと思った。最初の実験、つまり、温かい湿った空気の上に、冷たい湿った空気をのっけた実験とは、どんな気象現象を再現しているのだろうか、と考えてみた。

 ● 夏日の夕方の夕立ちも再現

 しばらくして、思いついた。

 地面を強烈に温める夏の日の午後の入道雲なのだ。そう、強い上昇気流が起きる。したがって、2階の空気は強制的に下に押し出される。それが、観測されたのだ。そういえば、夏の日の午後の地面は、気温は35度ぐらいだから、それより高い60度くらいだろう。

 ということは、雲発生失敗の最初の実験とは、

 夏の日の夕方の夕立ち

を再現してみせていたのだ。かく乱時のモヤモヤは夕立ちなのだ。そんなことは番組ではいっさい説明してくれない。そこが、この番組のいいところ。自ら発見的に考えなさいというわけだ。

 雲をつかむ話の正体が、手に取るように明確になった瞬間だった。

 もし、こんな授業を高校で一度でも行なってくれていたら、ブログ子ももう少し気象が得意になっていただろう。

( 写真は、2015年2月9日の日の出。佐倉康男氏撮影。佐鳴湖西岸にて )

  ● 注記 読者からの指摘 2015年2月10日

 このブログにしては、異例に速い反響が届いた。

 2回目の実験で雲ができた理由はわかったが、なぜすぐにできなくて、30分ほどかかったのか、という問い合わせである。

 ブログ子にも、この質問の答えは最初はわからなかった。水滴化するのにしばらく時間がかかるのだろうという程度のことぐらいしか思い浮かばなかった。

 しばらく、考えてようやくわかった。

 気体としての水蒸気が冷えて露点に達し、液体の水滴、つまり雨粒になる。

 問い合わせの趣旨は、さらに突っ込んで、実際のプロセスでは、なぜ時間がかかるのか

 その「30分のなぞ」

について、質問しているのだ。鋭い。

 あとでわかったのだが、露点に達した水蒸気が巨大な雨粒に成長するには、

 水蒸気がまとわりつくことのできるチリやホコリ

が、その核として必要なのだ。まとわりついたものが、一定の時間、それがなぞの30分間で、ある大きさになると、人の目にもそれとわかる無数の水滴の塊の雲になる。水滴の中心にはチリやホコリがある。そして、さらにそれが成長すると、浮かんでいることができなくなって重力で地表に落ちてくる。

 それが雨なのだ。

 だから、もっと考えなくちゃあ、わからない

ということがわかった。

 もうひとつ、この読者から、上記の「雲のできやすい前線」というのは、正しくは寒冷前線ではないかとの指摘を受けた。その通りでした。

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再論 宇宙に地球人しか見当たらない

(2015.02.05)  3年くらい前、このブログで、大変に哲学的でおもしろいと

 『広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由』(S.ウェッブ、青土社、原著=2002年、日本語訳=2004年)

というのを「注記」の形で紹介しておいた(2012年4月6日付)。

 この間、数通の宇宙人好きの方々からメールをいただいた。

 この本は、宇宙人が存在していれば必ずあるはずなのに、この50年間、現実にはまったく宇宙人から連絡がないというパラドックスに対する合理的な解答として

 この広い宇宙に(知的な生き物として存在して)いるのは、われわれ地球人だけだ

という単純明快な結論をくだしている。

 ● 地球はありふれた存在

 単純明快でわかりやすいが、致命的な欠陥がある。それは、

 地球というのは宇宙においてありふれた惑星にすぎない

という一般原則に反することだ。というのは、ウェッブ説では、地球は(神に選ばれた)特別な存在ということになってしまう。これでは、科学ではない。宗教だ。 

 この一般原則が間違っているという反論が聞かれそうだ。が、科学史を紐解けば、人間中心、地球人中心主義がいかに驕慢(きょうまん)であり、誤りであったかが、何度も何度も白日の下にさらけだされている。

 宇宙生物の平等

という基本原則に従わない科学理論は、歴史からいずれその偏狭さを指弾されるだろう。

 知的な宇宙人が存在するとすれば、第一近似としては、地球と似た環境の惑星にこそ存在していると考えていいだろう。太陽のような星そのものに生息しているとはとうてい考えにくい。

 最近では、太陽系外に多くの惑星が発見されるなど、地球がありふれた惑星だという考え方を強く示唆する観測データが、ウェッブ説以降、この10数年ぞくぞくとわかってきている。

 米NASAの太陽系外惑星探査機、ケプラーの活躍など天体観測技術の飛躍的な進展で、星の周りを回るさまざまなタイプの惑星が2000個近くも見つかっている。これは、10年前のウェッブ時代までの50倍以上の多さであり、今後もさらに急速に増えるだろうと予想されている。

 また、そのデータを整理してみると、惑星タイプの中では、まさに

 地球は、ありふれたどころか、むしろありふれすぎた上に少数派にすぎない

ことも浮かび上がってきている。

 これほど短期間でこれほどの成果が上がったことを考えると、少しオーバーに言えば、

 惑星は、晴れた夜空の星の数ほどある

といっても、あながち間違いではないだろう。

 そのなかに、地球人よりもはるかに高度文明をもった宇宙人があちこちにいても、なんら不思議ではない。むしろいないほうが、不自然でさえある。

 つまり、上記の本の著者、ウェッブが扱っている1990年代までの観測データの状況とはこの10数年、がらりと変わっている。

 ● 国際天文学連合が惑星名を公募

 こうしたにぎやかな状況のなか、国際天文学連合(IAU)が、これまで見つかった膨大な太陽系外惑星のうち、比較的に研究のすすんだ数10個について、惑星の正式名称を、昨年夏から公募している。

 450pxexoplanet_discovery_methods_ba 系外の惑星名を応募する手続きはさまざまなルールがあり面倒だが、採用された惑星名のなかから、それを発見されたどの惑星につけるのがふさわしいかという一般投票については、メールなどで簡単に応募できる。その投票は来月3月に行われる予定だという。

 こうした動きの背景には、太陽系内にはいなくても、系外には知的な宇宙人、そこまでいかなくても宇宙生物がきっといるに違いない、それはどんなものだろうかという心躍る期待がある。

 ● 宇宙生物多様性条約で保護

 そんななか、最近、前回のブログでも取り上げた

 『広い宇宙で人類が生き残っていないかもしれない物理学の理由』(C.アドラー、2014年)

を、知的宇宙人はいると信じているブログ子としては、とても心強く読んだ。

 とくに、「惑星とエイリアン」という章がおもしろかった。

 いるはずなのに、なぜ宇宙人は〝大沈黙〟を守っているのか

というテーマに、10年前のウェッブ同様、挑んでいる。このフェルミのパラドックスの謎解きのポイントは、そして、ウェッブが見落としているのは、

 宇宙人は動物に違いないという思い込みであり、植物なのかもしれない

というもの。動かない植物なら連絡してこなくても不思議ではない。高度文明の宇宙人はすべて植物に進化してしまい、光合成だけをしているという発想だ。

 この発想の優れているところは、宇宙人からのあてにならない連絡など待っている必要はないという点。星の周りを公転している植物宇宙人のすむ惑星からのスペクトルを分析すれば、反応性に優れた酸素を出す光合成の様子が観測ができるというわけだ。

 この検証可能性により、すでにNASAはじめさまざまな機関で研究が始まっている。研究資金が集まり始めている。

 もうひとつ、この本で注目されるのは、パラドックスで一番問題になる大沈黙の動機である。 

 いるのに、知的な宇宙人はなぜ沈黙しているのか、その動機とは何か。

 著者のアドラーによると、連絡したり、コンタクト(接触)すると、それは低レベルの地球文明にとって致命的な有害が発生するからだとしている。絶滅の危険がある。

 だから、高度文明の宇宙人は、接触禁止の宇宙協定を結んで、意思統一しているのだという。しかし、そんな協定、たとえていえば、宇宙生物多様性条約が仮にあったとしても、ちらちらと宇宙人の存在をうかがわせる証拠が見え隠れしてもいいはずではないか。そうブログ子は思う。

 ちょうど、百獣の王、ライオンはかつては無敵を誇ったらしいが、今では人間が完全に保護している地平線まで見える広大な保護区でしか生きられないようになっている。ライオンにしてみれば、

 なぜ人間がもうやってこないのだろう

と、人間の〝大沈黙〟をいぶかしく思っているだろう。それと同じなのだが、ちらちらと保護官などの姿ぐらいは見えてもいいではないか。

 高度文明に達した動物宇宙人はその本能的な倫理観から、保護宇宙人など余計なものは設けず、

 宇宙生物多様性条約

を厳格に適用、地球人を保護している(のかもしれない)。

 ● 生物進化の未来は植物か

 Gasgiantplanetrisingalienwaterworld とてもおもしろい。皮肉がきいていて、ブログ子もこの説に賛成したいほどだ。ただし、高度文明の宇宙人が、どのようにして協定を結んだかが、気になる。地球人の浅知恵からすると、そう簡単ではないだろうと思うからだ。

 この説のおもしろいところは、ほかにもある。絶滅の危険があるのにコンタクトしたがるのは、レベルの低い地球人のほうだけだということだ。

 対して、宇宙人のほう、たとえば高度に進化した植物宇宙人の場合、超寿命、たとえば数千年という悠久の時のなか、ただゆったりと身を時に任せて生きている。ちょうど今の地球の縄文杉のように。

 そう考えると、もしかすると、生物進化の未来は植物かもしれない。

 意外にも、そんなことを想像させる本だった。 

 ( 写真上 = 太陽系外惑星の一覧(自由百科事典ウィキペディアから)。7、8年前から増えだし、2014年に爆発的に増加。写真下 = 系外惑星に対するブログ子のイメージ(写真の出典は不明。乞うご教示) ) 

 以下の写真は、M.クローの『地球外生命論争史』(工作舎、2001年)。人間がいかに熱心に宇宙生命について考えてきたか、また想像してきたかについて、西洋を中心につぶさに検証した貴重な著作。

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人類が生き残っていないかもしれない

(2015.02.04)  たまには、最近の宇宙の本でものんびりと楽しもうと、図書館で本を探していたら、やたらタイトルの長い

 『広い宇宙で人類が生き残っていないかもしれない物理学の理由』(C.アドラー、青土社、2014)

というのを見つけた。28文字の長いタイトルにはびっくりした。中身をみるとハリー・ポッター物理学という章立てもあり、原題は、ファンタジーSFといったぐらいの意味。

 ● 探査機ボイジャーの脱太陽系

 最初は、SFは非科学的ということをあばこうとする無粋な本だと思った。が、むしろその逆で、SF、ファンタジーおおいに結構、とファンタジー好きの著者の物理学者がノリノリで応援しているような愉快な仕上がりになっている。

 一読に値する。

 タイトルにある「生き残っていないかもしれない」話というのは、たとえば、こんな話なのだ。

 米NASAの太陽系探査機、ボイジャー1号が1977年、地球を飛び立って、今年で38年。ようやく最近、太陽の重力の支配の及ばない場所、つまり太陽系を脱出、銀河系の仲間入りを果した。それでも光の速度だったら、わずかに1日もかからない距離なのである。

 それでは、太陽系に最も近い星まで行くにはどのくらいかかるか。太陽系の広さよりも、ざっと1000倍も遠い。宇宙船に乗って光の速さで旅行したとしても、4.3年もかかる。往復して地球に戻るのに、10年仕事である。

 以上は、常識の話。

 この本のおもしろいところは、光速は無理にしても、光速に近い速さの宇宙船ならば、乗っている人にとっては、行くのに4.3年もかからない、と解説してみせていること。

 たとえば、光速の99%のスピードならば、その約7分の1しかかからない。つまり、4.3光年の距離をわずか半年で到着するというのだ。宇宙船の中では時間がこんなにゆっくりとしか進まない。

 逆に言うと、アインシュタインの理論により、光速に近い速さでは、乗っている人から見てその距離は約7分の一に縮まる(空間のローレンツ収縮)。

 仮に、光速の99.9%の速度で飛べば、距離は約22分の1に縮み、星までの距離はその分近くなる。

 もちろん、地球上の人たちにとっては、いずれの場合も、その宇宙船は4.3年かけてようやく到着したと観測するだろう。立場を代えて、逆に宇宙船の乗員からみれば、地球時間の進み方は、それほどゆっくりしていると思うだろう。 

 ● 「宇宙の果て」旅行はわずか50年

 この本のおもしろいところというか、鋭いところは、以上の話を、

 「宇宙の果て」旅行

にまで拡張していることだ。

 宇宙船は、乗員のために地球と同じように1Gの重力がかかるように刻々と加速しながら、宇宙の果てに向かって飛び続けるとする。これなら、乗員も無重力状態にならずに健康に宇宙旅行ができる。加速していても、光速を超えるということは原理的にはないので安心。

 しかし、宇宙の果てに到着して、〝果て〟に上陸できるためには、到着時には宇宙船のスピードはゼロである必要がある。そこで、果てまでの真ん中の距離になったら、宇宙船を反転して、今度は刻々と1Gで減速する。このときも、地球と同じ重力が観光客にはかかり続ける、快適、楽ちんであり、安心だ。

 このような宇宙観光旅行をしたら、どうなるか。先ほどの話をベースに考えてみるのもおもしろい。

 こうなる。

 先ほどの話から、地球に近い星には、数年で通過する。直径10万光年の銀河系を脱出するのは、観光客の時計で出発から25年後。

 アンドロメダ大星雲など銀河系の隣りの銀河までは40年もあれば、到着する。そして、地球時間だと、光速で行っても130億年もかかる宇宙の果てには、

 なんと、50年もあれば十分

なのである。地球を出発したとき、20歳の観光客は、宇宙船内で70歳の誕生日を迎えるまでには、宇宙の果てに到着。適当なところで果てに降り立ち、あちこち観光できることになる。

 ここまでは、件の本に出てくるのだが、

 さて、「宇宙の果て」に降り立った観光客はどんなすごい光景を見るのだろうか。

 この点については、この本は何も語っていない。

 地球上から見上げた星空とほとんど変わらない光景を観光客はその果てで目にするだろう

というのが、ブログ子の予測。

 観光客が期待したような宇宙の始まり「ビッグバン」などはどこにも見えない。ビッグバンは、果てにいるはずの観光客の130億光年先にしかない。時空という意味の宇宙はどこからみてもマクロ的には地球上から眺めたものと同じなのだ。

  ● 余計な補遺

 余計な話。

 この50年で行ける「宇宙の果て」観光旅行の難点は、

 ①  刻々と1Gの加速度で宇宙船を加速するための莫大も莫大なエネルギーをどこから得るのかという点

  ②  光速に近い宇宙船をどのような強固で軽い材料で建造するのかという点

にあり、実現のハードルはとても、とても、さらにとても高い。 

 余計のついでに、もうひとつ、以下に注記する。

 光に近い速度での宇宙観光旅行中にも、宇宙はどんどん(加速しながら)膨張し、大きくなっている。つまり、果てまでの距離は遠くなる一方なので、実際には、果てに到着したときには、現在の距離130光年の数倍遠くなっているはずだ。

 それでも、観光客の時計では、50年もたてば、十分果てに到着できる。光速にちかくなればなるほど、時間の進み方は宇宙船内ではどんどん遅くなるからだ。

 もちろん、地球から観測すると、その宇宙船の果て到着までには現在の宇宙の果て130億年をはるかに越えて、数100億年の歳月が流れているだろう。

 そうなると、当然だが、観光客が宇宙の果てに着いたときには、この「広い宇宙で人類が生き残っていないかもしれない」どころか、地球も太陽系ももはや、跡形もなくなり、存在していないだろう。

 その間、宇宙船内の時間ではわずか50年しかたっていないのに。

 時間の進み方は、どこでも同じではない。場所によって異なる。つまり、ニュートン以来の

 時間の絶対性

は幻想なのだ。

 そんな現代物理学の常識を教えてくれる愉快な本だった。

 その意味で繰り返すようだが、一読の価値は十分にある。

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神の「見えざる手」と、人間の「見える手」とは握手ができるか

(2015.02.03) 先日、NHKの

 クローズアップ現代

を見ていたら、今、話題の『21世紀の資本』(みすず書房)の著者、トマ・ピケティ教授(フランスの経済学校)が出演し、キャスターが直接インタビューをしていた。

 Image207820150130_3 21世紀の資本主義はどこへ行く

というのがテーマ。このままでは、19世紀のような流動性のない

  世襲型資本主義

になってしまうと警告する。莫大な資産を相続したものだけが繁栄する社会である。技術革新を刺激しない富めるものだけが富む社会に後戻りする。

 ● 話題の『21世紀の資本』

 質問項目そのものは、専門家に用意してもらったのだろうが、著書で教授の言わんとするところを、上手に引き出していた。ベテランのキャスターの面目躍如だった。経済学者を出演させなかったことが、かえって明解なメッセージを出す結果になった好例だろう。

 言わんとするところとは、資本主義のエンジンである

 市場メカニズムは万能ではない

ということだ。

 ● 資産収益率は所得伸び率よりも高い

 従来、経済学でいわれているような資産家と所得者の間の経済格差は、世代交代とともにいずれ解消するというのは、20世紀の初頭の不完全な研究から生まれたものであり、正確ではない。

  事実はその逆で、その格差は20世紀の間を通じて、大戦中の一時期を除いて、拡大を続けてきた。不動産、株式、預金といった資産の収益率のほうが、概ね、いつも労働対価としての所得の平均収益率(= その国の経済成長率)よりも大きいという事実があるからだ。それはたいてい、数倍も高い。また、資産規模が大きいほど、スケールメリットがあり、その率格差は広がる。

  特に先進国のような低成長率の国では、あるいは人口減少の国では、この格差は広がりやすい。成長のために投資を呼び込もうとして、政府は積極的に優遇策を打ち出すからだ。

 低成長を続けている日本でもこの15年で相対的貧困率は増大傾向にある(現在は16%前後)。貧困層が増えているのだ。

 遺産相続によって世代交代しても富める者はますます富む。貧困者はますます貧しくなる。

 21世紀の資本とは世襲型資本主義

であるというわけだ。

 このことを世界規模で収集した膨大な経済データからあぶりだした。その上で、教授は、

 このままでは、国民の間の経済格差は21世紀中には不必要なまでに拡大し、社会はより不安定化するだろう

という見通しを語った。

 ● グローバル資本課税の提案

 社会不安を、これ以上拡大させないようにするには、活力を維持するためには具体的にどうするべきか。

 教授は次のような提案をしている。

 まず、所得について。

 世界の富の約10%も占める所得隠しの対策強化が必要だとしている。つまり、脱税のためのタックス・ヘブンをなくすこと。これにより脱税を根絶し、不公平感をなくする。

 その上で、資産について。

 国際協力による足並みをそろえた

 グローバル資本課税

の導入である。たとえば、今、格差が極端に広がっているアメリカでも議論が始まった

 富裕層の資産に対する累進課税

などを挙げていた。富が富を生み出すメカニズムの是正である。しかし、ある国だけがこの導入を行なっても、効果は少ない。資産が他国に流れるだけだからだ。ザル法とならないよう、国際協力は不可欠というわけだ。

 ● 「最小多数の最大幸福」は破滅

 つまり、ピケティ教授は、容易ではないが

 神の「見えざる手」と、人間の「見える手」とは、握手ができる

といいたかったのだろう。

 これによって、かつて19世紀イギリスの経済学者、ベンサムが目指した

 最大多数の最大幸福

を目指せというわけだ。

 裏を返せば、格差拡大の結果

 最小多数の最大幸福

では競争原理が働かなくなり、資本主義そのものが滅びるということだろう。

 つまり、教授は、資本主義には格差はつきものであるが、それにも限度があり、不必要なまでの格差の拡大は資本主義そのものを変質させ、ひいては崩壊させると警告している。

 ● 社会保障の充実も必要

 だから、そうならないためには貧困問題と深い関係にある

 社会保障の充実

も一つのポイントであろう。ばらまきとはならない充実策である。このセーフティネットにかかわる指摘は、キャスターからも教授からもコメントはなかったのは、残念だった。

 ただ、ピケティ教授自身は、

 貧困対策には

 手厚い社会保障は不可欠である

と、この番組とは別のところでは強調している。

 それにしても、最近では、結局、神の見えざる手は万能であるとの見方が広がっていた。のに、事実はそうではない、限度があるとデータをもとに実証してみせた意義は大きい。

 日本の経済学者ももう少しきちんとした、つまり数学のお遊びに堕することない研究をしてほしいというのが、番組を見たブログ子の感想だった。

 経済学の貧困が、日本ではとても高いというのでは困る。

   ( 写真は、2015年1月30日付中日新聞総合面 )

 ● 補遺 

 来日中のピケティ教授は、先日、岡田克也代表ら民主党幹部と会談した際、安倍首相の経済政策にふれて

 「アベノミクスは不平等を拡大する」

とコメントしたらしい。

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三島由紀夫と司馬遼太郎、そして岡本太郎

(2015.02.03)  地味な番組だが、Eテレでインタビューでつづる

 戦後史証言プロジェクト

というのをこの1年、断続的に続けられている。戦後70年、日本人は何を目指してきたのかというのがテーマ。トップバッターは理論物理学の湯川秀樹だったが、最近でおもしろかったのは、というか考えさせられたのは、先日放送された

 三島由紀夫

だった。

 1975年11月、三島はなぜ自衛隊基地内で自衛隊員に決起を促し、その後基地内に立てこもり、いわゆる割腹自殺を図ったのかという謎を追った。人類の進歩と調和をテーマとする大阪万博が成功裏に幕を閉じた直後の衝撃的な出来事だったことを、当時大学生だったブログ子も鮮明に覚えている。

 番組そのものは、遺作となった4部作『豊饒の海』(1965-1970年)などの文学作品の分析だけでなく、いろいろな角度から当時を知っている識者の証言を集めている。

 それはそれでおもしろかった。のだが、事件の真相に迫るような、つまり、コトンとブログ子の胸におさまり、その結果、その死を納得させるものは、残念ながらなかったというのが、番組全体からみた正直な感想だった。

 ● 日本人とはなんぞや

 そこで、ほぼ同時代を歩んだ作家と比べたらどうなるかと考えてみた。たとえば、同じ証言プロジェクトにも登場した司馬遼太郎。いずれも青年時代を戦争中に過ごした戦中派である点が共通している(三島は終戦時20歳)。

 三島は戦後一貫して

 生命尊重以上の価値とは(天皇主権の)日本である。日本を守るとは何だ。天皇を中心とした伝統の日本を守ることではないのか

と述べていた。このように、

 日本とは何ぞや

を考え続け、三島はそれを文学作品に昇華させていた。

 司馬もまた、よく知られているように

 小説のテーマはすべて「日本人とはなんぞや」というものであり、作品は終戦時22歳の自分への手紙である

と公言している。 

 違うのは、東京生まれの三島は東京帝大卒のエリートなのに対し、大阪生まれの司馬は私立の大阪外大出身ということぐらいである。

 ● 肉体的な劣等感の裏返し

 ところが、番組から気づいたのだが、もう一つ重要な違いがあった。

 三島は、その虚弱体質から軍隊に入隊することも許されなかったという強い肉体コンプレックスを持っていた。これに対し、司馬は劣悪な装備のなか、戦車長として満州国境を走り回わされていたという強いいきどおりがあった。

 この若き日の違いが、ゆがんだ劣等感の裏返しの三島をして天皇主権という上から目線で日本とは何かを脅迫的に考えさせたのではないか。対して、司馬にはそんなものなど微塵もなかった。終戦時のいきどおりからまっすぐに、そして素朴に下から目線で日本人とは何かに文学の世界から挑んだ。

 これが、司馬と比較した場合の三島の正体ではなかったか。

 その違いが、20年後に見事なコントラストをもって出現することになったのが、高度経済成長の真っ只中と大阪万博(1970年)の時期だった。

 つまり、この時期に三島はライフワーク的な遺作『豊饒の海』(1965-70年)を世に送り出す。20歳の青年の死とその転生を4部作として描いた。司馬も渾身の大作『坂の上の雲』(1969年)を連載する。

 この番組に出演したドナルドキーンさんによると、豊饒の海というタイトルは、(高度経済成長を表す)皮肉であり、その海には水はないという意味を込めたものだという。三島がタイトルに皮肉を込めることを好むことは、争いが絶えないみにくい地球を描いた小説『美しい星』(1962)でもわかる。

 司馬の『坂の上の雲』というのは、実力主義による人材登用という近代国家の目標と、封建時代やその後の門閥主義とは違って実力次第でどんな高みにも登れるという国民の向上心とが一致した明るい明治の群像を描いたものである。

 三島は作品を文学の世界にとどまらせておくことができず、行動でもその解釈を現実のものとしたいと強く感じたのかもしれない。その軋轢から自ら死を選んだ。あるいは死をもって自らのモチーフを貫こうとした。

 『豊饒の海』原稿完結の日付が、割腹の日にちに一致するのは、輪廻転生の作品と行動の一体性を強く示唆する。

 三島自身、遺書の中で

 「考えに考えた活路は明確な死」

という覚悟のほどを述べているのも、この一体性のせいだろう。

 ● 「明日の神話」との共通性 

 三島の死、あるいは三島の正体を知るための手がかりとして、もうひとりの比較として、1世代上の戦前派の前衛画家、岡本太郎を挙げておきたい。ともに東京生まれで、比較的に富裕な家庭に育っている。若いときには洋行も経験している。

 岡本もまた、絵画の世界から、西洋真似ではない

 日本人のアイデンティティとは何か

を捜し求めて、戦前、戦後を通じて各地を放浪したり、独自の作品づくりに没頭していた点では三島や司馬と同じである。

 そんななかから、岡本は縄文土器に強い衝撃を受け、そこに日本の伝統美の土台ともいうべき古代人の力強い芸術性を発見した。

 それが、1970年の大阪万博の「太陽の塔」だろう。あの怒りの太陽の塔は、高度経済成長に対するアンチテーゼである。

 そのことをもっとも明確に、そして私的に、つまりストレートに作品化したのが、ビギニ水爆事件(第五福竜丸事件、1954年)をモチーフにした、

 巨大壁画「明日の神話」(1969年、JR渋谷駅通路に展示)

である。このことは、以前、このブログ(2014年10月14日付)で書いたので、多くは語らない。

 要するに、高度経済成長を謳歌してはいるが、その実、中身のない現状を

 豊饒の海 = 明日の神話

として皮肉り、否定した。そんなものは虚構であり、幻想というわけだ。日本は水のない豊饒の海に浮かんでいる。日本の未来は、根拠のない神話にいろどられている。岡本は絵画で、三島はそれを小説として描いた。

 豊饒の海という小説は、およそそれまでの展開からは予想もしなかった意外な結末に終わっている。これ自身、三島の皮肉好きのせいだが、戦後日本の民主主義が幻想にすぎないことを強く印象づけたかったのだろう。この点で、戦中派の三島と、戦後派の東大全共闘との対話は、しょせん成り立たなかった。

 以上のような比較から、

 なぜ三島は、高度経済成長の真っ只中で、しかも万博の直後に、そして天皇制批判の東大全共闘の闘争の最中に、自衛隊基地で割腹自殺を図ったのかが理解できるように思う。

 ● 第4部「天人五衰」の謎

 『豊饒の海』の最終第4巻「天人五衰」の執筆では、三島はブログ子の暮らす静岡県の清水港や駿河湾、さらには三保の松原、下田港を取材している。

 この取材が上記のような三島の正体と、どんな関係があるのか。ブログ子には謎だが、あるいは富士山とも関係するのかもしれない。

 今後もう一度、考察してみたいと思う。

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一人語り、インド「バウルの歌」イン天竜

(2015.02.02)  ブログ子もシニアになったせいか、ぎっくり腰が気になりだした。近くの医療センターで診てもらったら、

 長時間、同じ座り姿勢は避けよ。腰に負担がかかりすぎる。ときどき散歩を

と医師に言われてしまった。そこで去年あたりから、すこし遠出の散歩をしている。

 Imgp683820150201 先日、そんな散歩も兼ねて、浜松市中区中心部に近い佐鳴湖のほとりの高台にある自宅から、天竜区の秋野不矩美術館に電車で出かけた。美術館前のゆるやかな上り坂がぎっくり腰対策にはとてもいい。写真のように快晴だったが、天井の高いとんがり帽子(写真中央奥の小さな三角形)の展示ホールで本田和さんのひとり語り、

 秋野不矩を語る

という楽しいイベントが、こどもたちのミュージカルのあと開かれた。チェロの演奏にあわせてのコンサートだった。

 ● 謎の民の、謎のベンガル歌

 会場に着くまでは、何を語るのかは知らなかったが、なんと、

 不矩の画文集『バウルの歌』(筑摩書房、1992)

の語りである。

 バウルとは、インド・ベンガル地方の一地域の呼び名。そこの謎の民がうたうなぞのベンガル歌というぐらいの意味。それにであった不矩さんの感動とともに、民がうたう具体的な様子が今回、いきいきと語られていた。この歌は、要するに自分自身を見つめる歌であり、インドの心を歌ったものなのだと、話を聞きながら気づいた。

 初演は、ブログ子が20年暮らした金沢の21世紀美術館だったらしい。石川県に暮らす親しい友人があとで知らせてくれた。

 ● 魅せられた根源的な生命力

 秋野不矩という、ひとりの画家が魅せられたインドという国について、そしてそこから得た不矩の絵の背後にあるものとは何かについて、本田さんの語りは淡々としてはいた。ものの、それだけに抑えの効いた情感が伝わってきたし、叙情的でもあった。

 その伝わってきたものとは、悠久の時間が流れる大自然に身をゆだねて生きようとする、なにかしら根源的なインドの生命力だった。日本にはないそんな力強さを画家は色に託してなんとか表現しようと、その生涯をかけた。

 たとえば、本田さんの座る語りの真横には、語りに出てきた

 「渡河」(1992年、インド)

という不矩さんの大作が飾られていた。黄色っぽい大河を10数頭の水牛が一列に並んで泳いでいる。おそらく河向こうの放牧場に向かうのだろう。人間も水牛と一緒に泳いで渡るという。別の機会にブログ子が見たものでは、不矩さんには、もう一点、

 「沼」(1991年)

というのがある。緑色の沼の真上からこれまた黒々とした泳ぐ水牛の群れを見たときの様子を描いたものである。いずれも、インドとは何か、現地で感じたものをキャンバスにとらえたのであろう。

 ● 天竜川の流れに

 それを一言で言えば、動物も、また人間も

 ガンジス川のほとりに生まれ、ガンジス川のほとりで生涯を閉じる

ということではないか。いかにも自然の豊かな天竜二俣生まれの画家らしい感性だと思う。ひるがえって秋野不矩もまた、

 天竜川に生まれ、天竜川で生涯を閉じた

ということができる。

 快晴の夕刻、秋野不矩美術館の近くの冬の天竜川をバスで渡りながら、そんな感慨を持った。 

 

 「描く行為は祈りである」  -- 『バウルの歌』

  語りもまた、そうではないかと確信できた。

 それにしても湖の近くの自宅に戻ったとき、とても豪華な日曜日の散歩だったと感謝した。

 

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