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幸喜版「オリエント急行」は何が新しいのか

(2015.01.13)  鳴り物入りで放送されたフジテレビの

 オリエント急行殺人事件(原作はアガサ・クリスティ、1934年)

という改作ともいうべき翻案のテレビドラマを、先日見た(静岡県では系列のテレビ静岡)。BS放送はともかく、フジテレビをそれほど見ているわけでもない。ので、ドラマの細部については、ブログ子はあれこれいえるような立場にはない。

 ただ、この2夜連続の長大なドラマのどこが新しいのかと考えながら、拝見した。テレビ局に力が入っているのは豪華な俳優が登場することでもわかる。脚本が三谷幸喜、名探偵ポアロ役には狂言師の野村萬斎。そう聞けば、当然のこと、改作の着眼点が何かということが気になる。

 ● 勧善懲悪は正義か

 結論を先に言えば、

 殺人は悪という勧善懲悪を否定してはいないものの、その枠を超えている

という点だろう。勧善懲悪は探偵小説やドラマ、あるいは社会派推理小説の前提であり、その枠をこえようという意欲を、犯罪者側に立った謎解きを描いた第2夜で強く感じた。通常の名探偵、名刑事による名推理では決して描き得ない。犯罪に至るより複雑な動機づけ、より深い犯罪心理を描こうとしていた。

 その点は評価したい。しかし、殺人事件の意外な展開の結末において、名探偵ポアロが犯罪者に同情したのか、犯罪を見逃すという結末になっていた。これだと時には犯罪は善というメッセージととられかねない。この点、論議を呼ぶところだろう。

 だから、この点の結末については、原作を傷つけない範囲で、放送のようなめでたし、めでたしとならないような一工夫がほしかった。たとえば、読者の想像力に任せるという

 ぼかしの技法

があるはずだ。三谷さんなら、できたと思う。

 ● せっかくの考える機会奪う

 この技法によって、視聴者に考えさせる機会を与えてほしかった。

 たとえば、体制側の発想である法に従えという勧善懲悪は本当に正義なのかという問題にメスを入れてほしかった。めでたし、めでたしでは、その考える機会を奪ってしまっていた。単なるエンターテインメントになってしまっており、せっかくの鋭い視点が何のためだったのか、その制作意図がぼやけてしまった。

 その点をのぞけば、確かに、新趣向であり、三谷幸喜の才気、面目躍如であった。

 勧善懲悪の枠をこえたこうした視点は、金持ち階級に属する真犯人を最初に明らかにし、庶民派の名探偵刑事がアリバイ崩しの謎解きに挑み、少しずつ犯人を追いつめる趣向で根強い人気の「刑事コロンボ」シリーズにもない。また日本のドラマや映画、弱き者の恨みをはらす私的なリンチである必殺仕置き人、仕事人、仕掛け人シリーズでも、十分ではない。

 いずれも、水戸黄門ドラマ同様、最後はめでたし、めでたしで終わっているので、視聴後、見た人はスカッとはする。が、スカッとする分、当たり前と思っている体制や権力のあり方に切り込む鋭さには欠ける。真っ当な体制批判が抜け落ちるのだ。

 社会秩序の安定を願う体制側にとっても、これは、めでたし、めでたしなのだ。しかし、いくら大型予算のテレビドラマだからといって、そんな鋭さまでテレビドラマに求めるのはしょせん邪道なのだろうか。

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