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世の常識はいかに私たちをあざむくか

Image2065_2  (2015.01.18)  十日ほど前、このブログで、それでも地球は動かないというタイトルで、

 常識の魔力

について論じた。ところが、このブログを読んだ老天文学者が

 常識はいかに私たちをあざむくか

ということを見事に論じた近著

 『偶然の科学』(D.J.ワッツ、早川書房、2011)

のあることをメールで知らせてくれた( 写真上の左端 )。著者のワッツは、理論物理学者で、ネットワークなど複雑系を専門とするコロンビア大学社会学部教授。世界を知るための新科学的思考法という本もものにしているという。

 ● 偶然は予測を裏切る

 さても、むずかしい本だろうと思ったが、図書館で借り出して読んでみた。が、目からウロコのとてもおもしろい本だった。

 この本の言わんとするところを、手短に要約してまとめると、

 世の常識にあざむかれる原因は、過去の出来事の解釈については、常識に寄りかかったこじつけか、同語反復的な堂々巡りの論法がまかり通っていて、真実がつかめていないからだ。将来の予測では、偶発性(または創発性)が不可避なのに、常識に拘泥するあまり、無視している。常識が通用するのは、ある特定の状況に対応するときに限られる。

というもの。偶発性や創発性は複雑系の大きな特徴であり、常識の通用する線形問題ではなく、非線形問題の特徴だ。

 言わんとするとことをさらに短く要約すると

 単純な線形問題は別にして、複雑な社会システムのような非線形問題の場合、常識を用いるな、それで予測などとても無理

ということだろう。 

 だから、複雑系社会学では、あざむかれないためには、常識に寄りかからず直感と経験に基づいて行動すること

と主張している。

 ワッツのこの過去の出来事の解釈の典型例は、スポーツの結果論的な解説。およそ解説の名に値しない。その場かぎりのこじつけである。たった一度のその人物の結果から、その人物の技量評価をするのは誤った循環論法におちいる(補遺参照)。

 ● 株価の動向に安定した揺らぎパターン

 後段の将来の予測については、

 偶発性により、予測は起こったあとでしか予測はできない

ということを意味する。

 ただし、例外として、複雑な社会システムのような複雑系社会学の対象においては、ある程度予測のできるものもある。

 複雑な非線形の出来事になんらかの安定したパターンがあるもの

がそれだ。膨大なデータをもとに、経済学に物理学の手法(カオス理論、フラクタル理論)を導入し、解析する

 経済物理学

が、最近、脚光を浴びている(写真の右端 = 『経済物理学の発見』高安秀樹、光文社新書、2004)。株価の動向におけるバブル崩壊の予兆をつかむ。たとえば、膨大な株価データのリアルタイム解析から東大の清野健研究員や山本義春教授らが

 1987年のいわゆるブラックマンデーで株価が暴落した前後に、株価指数に「臨界ゆらぎ」という特殊なパターンが出現していたことを発見

している(2006年2月16日付富山新聞朝刊経済欄「経済BOX」)。これは、市場が暴落する可能性を示す〝危険水域〟に入ったことを探知するのに利用できるパターンとなるかもしれない。

 ● 「思考の錯覚」も要因   

 ワッツの本では、常識をあざむくほかの要因として、常識が引き起こす

 思考の錯覚

についても、鋭く迫っている。

 たとえば、論理的にも、現実的にも

 才能(あるいはほかの人にはない長所)があるからといって、その分野で成功するとは限らない。また、その逆、つまり成功したからといって才能があるとも限らない。

 才能があるから成功するというのは短絡的な思考の錯覚。才能とは別の偶然のせいかもしれない。偶然ではないことをチェックするには、いわゆる思考の2次元フレームワーク評価が求められる。

 偶然でないとしても、ハロー効果(才能とは関係のない、いわゆる親の七光り)効果かもしれない。

 わかりやすくたとえれば、見栄えのいい人物は頭がいいとは、常識ではいえても、現実にはそうとは限らないのと同じ。偶然かもしれないのだ。ただ、

 偶然を呼び込むのも実力、才能のうち

ということすれば、これらは正しいかもしれない。

  ワッツの本を読んで、つくづく思う。

 対象が常識の使えない非線形問題ではないか、あるいは常識に寄りかかっているような思考の錯覚はないか、常識を振り回すだけの循環論法におちいっていないか、さらには常識にこだわるあまり論理を逸脱して無理やりにこじつけていないか、

 一度は常識を疑ってみる

ことの重要性を認識した。

 ● ダーウィンを疑う

 やはり、前回も話したが、

 何でも説明できるダーウィンの進化論は科学理論として正しいか

というのも、一度は疑ってみる価値はありそうだ。

 それというのも、ダーウィン進化論では

 種は変化する。

 これは事実。しかし、どのように変化するのかというと、それは変化する環境への適応の程度に応じて

 自然が選択する

というもの。いわゆる自然選択、あるいは自然淘汰のメカニズムである。

 これは、進化の歴史に照らして実際に起こったこと、つまり、本当だろうか。

 生物は自分の将来についてその結果を知ってそれに向かって日々生きているのではない。だから、自然選択というのは先に挙げた何でも説明できる結果論的な論理ではないのか。

 もう少しわかりやすい言い方をすれば、

 生物は、ただただ自然に鼻づらを引きずり回されているだけの哀れな存在にすぎないというのは、本当だろうか。

 そして、いつ起きるかわからない体内の、あるいはその種内への突然変異の広がりを悠長に待っているようでは、個体はもちろん、肝心の種自身も変化する前に絶滅してしまうのではないか。

 原因論としての自然選択は、ダーウィンの育種家として体得した人為選択からの単なる常識的な予測にすぎないのではないか。

 生物の進化というような複雑な現象を、そんな線形的な発想でとらえるのは間違いではないのか。しかも、予定調和的な結果論的に。

  では、どうとらえればいいのか。

 生物、とくに動物の心の進化については、

 心が働く環境がどのようなものか、それ(どのようなものであるかということ)は、その動物の行動が決めているであって、脳自身が決めているわけではない。脳はあくまで受身。つまり、脳が自ら能動的に働くから心が働いたり、それに伴って行動が生まれたりするのではない。その逆で、行動があって、初めて脳が働く。

 とすると、周りの自然環境に対する動物側からの行動という働きかけによって、脳という心が働き、その結果として心や身体の進化が決まることになる。動物を含めた

 生物の認知行動学

こそ、たとえば霊長類学研究の本道ではないか。これだと、動物は周りの環境に鼻面を引きずり回されるだけの情けない存在ではなくなる。ある種の主体性が求められるからだ。動物自身も行動を通じて、心や身体の進化のプロセスに、ある意味主体的に参加していることになる。その分、突然変異を悠長に待っているだけの場合に比べて、格段に適応性は素早くなり、簡単には種の絶滅にはつながらないだろう。

 150年も前に活躍したダーウィンは、この動物に心があり、主体性があるということを、当時の文化的な背景もあり、心理的に嫌った。より客観性のある環境だけに進化のメカニズムがあると信じたかった。そこで登場したのが自然による選択だった。そこにダーウィンの誤りがあった。

 もうそろそろダーウィンの誤りを指摘しても、ダーウィン自身、憤慨することはあるまい。なぜなら、常識となっている自らの進化論が人々を今もあざむいていることを、科学者として自ら望んではいないだろうからだ。ダーウィンはひとつの仮説として当時としては整合性のとれた進化論を世に問うただけなのだ。

 何でも説明できる科学理論などというのは幻想である。科学理論であるためには、その理論では決して起こりえない現象を提示できなければならない。その現象を自然界で発見すれば、それでその理論は崩壊する。何でも好都合にあとから説明できるダーウィン理論にはそれができない。裏を返せば、予測ができないという科学理論としては致命的な欠陥があることになる。

 これではダーウィン進化論は科学理論ではない。何でも説明できる神の宗教と変わらない。信じるものだけが救われる、科学者になれるというのでは科学ではない。

 そう、ブログ子は考えている。

 ● 補遺 堂々めぐりの循環論法の誤り

 循環論法とは、ある事柄を論証するのに、その事柄自身を前提として論証に持ち込んで論証する証明法。

 もう少し、具体的に言えば「Xが起こったのは、人々がそれを望んだからだ。人々がそれを望んだとなぜ言えるのか。それは、Xが現に起こったからだ。なぜ現に起こったのか。人々がそれを望んだからだ」

 こういう堂々めぐりの何も証明していない(誤った)証明法が、あまりに多い。論理を逸脱し真実を言い当てていない無理なこじつけとともに世間にはあまりに多い。論証になっていない。

 これに対し、堂々めぐりと似ていて、勘違いしそうなことわざに、

 風が吹けば桶屋が儲かる

といのがある。これは常識では考えられないような(非線形の)因果関係によって意外な結末が待っていることをさしたもの。つまり、これは複雑系社会学の対象では何が起こるかわからないということを見事に喝破したもの。

 言い換えれば、現象間に不可避の偶発性が介在し、結果を事前に予測できないこと表す箴言なのである。

 決定論的なニュートン力学では偶発性はないので、このような可能性を考える必要はない。 

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