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2015年1月

酒場詩人、吉田類の〝脱藩〟放浪人生

(2015.01.30)  10年以上も続いているBS-TBSの人気番組、

 吉田類の酒場放浪記

の詩人、吉田さんが、同じ局のインタビュー番組、関口宏の「人生の詩」に先日出演していた。

 ほかとはちょっと変わっていて、吉田さんのふるさと、高知県の酒、船中八策(超激辛)を飲みながらの進行だった。持参したのだが、酒の肴のあぶりも持ち込んで自らの放浪人生を語っていた。

 ● 坂本龍馬と同郷

 早い話、その人生を一言で言えば、番組の最後に吉田さんが、太平洋を眺め桂浜(高知市)に立つ銅像、坂本竜馬を詠んだ

 懐手(ふところで) 龍馬は 夢を離さざる

ということになると思う。若くして高知を離れ、海外を放浪した自らの人生を、同郷の龍馬の脱藩の道に重ねたのであろう。ともに青雲の志があった。

 このことに気づいたのは、吉田さんの故郷が高知県仁淀川町だと聞いたときである。この町は、坂本龍馬が高知市から愛媛県に向かって脱藩するときに、おそらく通った道、つまり脱藩の道の途中にある。

 そんなこともあって、京都へ、そしてニューヨークへ、さらにオーストリアのウイーンと絵描きを夢見て遍歴が始まったらしい。ウイーンではシュールなアートに打ち込んだ。が、その後登山にも自信をつけたという。

 ● 食べながら飲む

 吉田さんの放浪記には、ほかの似た番組にはない、どこか知性が感じられるのは、こうした経歴が幸いしているのだとわかった。「類」ファンが多いというのもわかる気がする。

 ある週刊誌で、人生最高の10冊とは、と聞かれて、その一冊に

 太宰治の『人間失格』

を挙げていたのが印象に残っている。人間の心のあやうさを見事に描いているからだという。大衆酒場が好きな立ち飲み酒場詩人は、太宰レベルの知性派なのだ。

 そんな酒飲み上手のアドバイス。

 「酒だけ飲むのはダメ。それでは酒に飲まれてしまう。健康によくない。食事をしながら飲む。これが健康な酒飲み」

 酒好きのブログ子の最も印象に残った言葉だった。

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「音レンズ」って何 ? 反射、屈折、吸収

(2015.01.29) 先日の「水の大回転」に続いて、もうひとつ、最近のEテレ番組「大科学実験」を紹介してみたい。

 テーマは「音レンズ」。

 このタイトルを聞いて、最初は

 「 ン ? 」

と考えてしまった。光を集めるレンズならだれでも知っている。しかし、音のレンズって何 だろうというわけだ。

 ● 二酸化炭素入りの巨大風船で実験

 第一、音って集められるのだろうか。実は、理屈はともかく、光のレンズ同様、音は集められる。そのことをこの番組は見事に映像化していた。

 番組では、光のレンズにあたるものとして、直径240センチもの巨大なゴム風船を使う。それを音源と、音を聞き取る人間の間に浮かべる。浮かべるために、軽い二酸化炭素を風船のなかに注入していた。

 風船の後ろに多数の人間を碁盤の目のように配置する。

 それぞれの位置の人がどの程度の音量を感じたかが、目で見てわかるよう、届いた音量に比例して電灯が明るくなるようなランプ装置をそれぞれの人の頭に載っける。強い音量だと頭上ランプが明るく輝く。ほとんど聞こえないようだと、今にも消えそうな明るさになるというわけだ。

 これだけの準備をする。

 その上で、まず風船を浮かべない状態で、音を出す。これだと、後ろに行くほど音は拡散する。だから予想通り、後ろのほうほどランプは弱くなり、両脇でも弱くなる。

 今度は、音源と人の間のど真ん中に巨大風船を浮かべる。当然ながら、風船の真後ろのところは、風船が壁となってほとんど聞こえないと予想される。光がそうだからだ。

 が、実際の実験では、これがなんと、一番影になっている風船の真後ろに立った人の頭のランプが一番輝き、周辺がどうもそれより暗くなった。あたかも、音が風船から影のほうに回り込んで焦点を結び、音量が大きくなったような具合になる。

 これが、音のレンズ効果というわけだ。

 この実験は、ごく簡単なもので、中学1年生の理科の教科書「音の伝わり方」レベルだが、この番組の優れたところは、巨大風船を使ったこと。

 なぜ音にはレンズ効果があるのだろう。ブログ子もしばし考え込んでしまった。

 ● 音は風船の中で屈折

 理由はこうだ。

 ポイントは、音源から出た縦波の音波は、風船にあたって反射するだけでなく、風船ゴムを太鼓のようにたたいて、そして、風船の中の二酸化炭素の気体を振るわせる。それが風船内に伝わってまた、風船ゴムをわずかに震わせる。そして、風船の影になっている人の所に出てきて、今度は空気をふるわせる。

 つまり、風船は音の壁、遮へい板になっていない。ゴムで壁ができているので音が通過できて、再びゴム風船の外に音が出てくるのだ。

 それと、同時に風船内での音の伝わる向きが変わる屈折効果もある。つまり、光の場合同様、ゴム風船に音波が衝突した時、空気と二酸化炭素の比重の違いによる進行方向の変化が起きる。実験の場合、風船の外の空気と風船のなかの二酸化炭素という媒質の違い(や密度の違い)が、伝わる速度の違いとなり、屈折。この場合には、やや内向きに伝わるよう方向が変わる。

 だから、風船の真後ろこそ、一番音が集まりやすく、したがって大きい。すなわちランプが一番明るい。

 ● 現象を見える化する

 音は、やまびこのように反射する。だけでなく、ゴムにその力学的なエネルギーが吸収もされる。そのため、ゴムのような場合、そのエネルギーによって太鼓のように内部をたたき、気体の進行方向を変えながら伝わる。

 ゴムではなく、固いすりガラスのような球ガラスでも、原理は同じ。だが、軽くて薄く弾力性に富む素材のゴムのようには、ならないだろう。

 番組ではこの理屈について、ヒントは出しても意図的に解説していない。そこがこの考えさせる番組のいいところだが、この理由に気づくのに、20分くらいかかった。

 現象を見える化するという工夫がとても優れている番組だと思う。

 そして、ふと、光と同様、音にも

 音波が回り込む回折現象や、互いに打ち消しあう干渉

もあるのではないかと思った。高校で習ったようにも思うが、どうだろう。

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再々論、アイヒマン裁判とは何だったか

(2015.01.27)  アウシュビッツ強制収容所の解放から今日でちょうど70年、先日、中東を歴訪中の安倍首相がイスラエル国立ホロコースト記念館を訪れ献花、犠牲者に哀悼の意を表した。

  もう1年近く前になるのだが、大戦中、ユダヤ人虐殺に深くかかわったアドルフ・アイヒマンの裁判傍聴記をテーマにした

 映画「ハンナ・アーレント」

について、このブログで取り上げた。この女性はドイツ系ユダヤ人で、強制収容所から脱出した経歴のある哲学者。

 書いたのはいいのだが、読者から、何が言いたいのか、わかりにくいとの苦情が2通も来た。

 そこで、ブログ子は、恥を忍んで、昨年6月27日付で

 再論 映画「ハンナ・アーレント」

を掲載した。そこでは、枝葉を切ってはっきりと

 巨悪は思考停止という凡庸さから生まれる

ということを主張した。50年以上も前のアイヒマン裁判の現代に持つ意味、つまり現代性を指摘したつもりであった。思考停止し、長いものに巻かれよとうそぶくようでは、いつか日本でも深刻な事態が起きる、声を上げよといいたかったのだ。

 ● 生々しい被告の映像と証言

 ところが、これで読者に納得していただいたと思っていたが、なんと、今度は、

 主張はわかった。だが、それは、傍聴したアーレントの言い分を一方的に聞いた上での主張ではないか。こうした裁判で論争となるような問題の場合、被告のアイヒマンの言い分も聞いてから、主張すべきではないか。はなから犯罪人扱いでは公正さに欠ける

と厳しく抗議された。

 だから、指摘されてこの数か月、裁判の実況中継に近い形で映像が世界に広められたこのアイヒマン裁判の映像を見てみたいと思っていた。そこにはアイヒマンの肉声があるはずだからだ。

 ところが、なんと、生々しい実写の裁判シーンを多く取り込んだその実録ドキュメンタリーがBS1の「世界のドキュメンタリー」番組で先日、放送された(2011年、フランス制作)。

 早速、メモを取りながら見てみた。まず第一に

 イスラエル政府がこのような異例も異例の裁判の〝生中継〟をしたのは、

 600万人ともいわれているユダヤ人犠牲者の悲痛の声を生き残った人々の証言を通じて世界に届ける役割を担った場

にしたかったということが理解できた。

 そもそも大戦中に存在しなかったイスラエルという国が、過去の犯罪についてまでさかのぼって処罰することが、人道に反する罪、平和に対する罪だとしても裁くことができるのだろうかという疑問も持った。

 ● 思考停止がもたらす結果

 しかし、それでもなお、検察の追及に対するアイヒマンの一連の証言

 「私は計画立案者ではない。ガス室までの移送計画の実行にかかわったにすぎない。したがって〝最終解決(ガス殺人)〟にはかかわっていない。第一、私には自由意志はなかったし、しかも変更不可能な任務だった。ただ、命令に忠実に従っただけ」(要約)

というのには、あきれた。600万人もの人間を、移送だとしてガス室に送り込んだ人物とは思えないほど、あまりにも凡庸な内容だった。まったくその肉声からは知性というものが感じられない。

 この点では、

 思考停止の凡庸さ

という以前の主張は正しいと今でも思っている。

 ドキュメンタリーを見たもうひとつの感想は、イスラエル政府の裁判に対する意図とは別に

 アドルフ・アイヒマン裁判は

 ホロコースト事件の象徴

としてアイヒマンを絞首刑にしたかったというものだった。その意味では、誤解を恐れずにいえば

 アイヒマンも犠牲者

だった。といえまいか。

 ● 裁判の本当の現代性とは

 そう思ったとき、ハッと気づいた。なぜ、件の読者が再三、ブログ子にメールを送信してきたかという理由である。

 思考停止という凡庸さを言い募るのは簡単なことだ。それは正しい。しかし、仮にアイヒマンの立場にブログ子が立たされていたら、アイヒマン以上のことが、あなたにできただろうか

という謎かけだったのだ。裁判の実写映像をみたことが、ブログ子にこのことを気づかせてくれた。

 思考停止はあなたにもある。

 アイヒマン裁判の証言映像記録の現代的な意義は、まさにここにある。このことの恐ろしさを、そして声を上げることの大切さを、あらためて映像から学んだ。

 件の読者にお礼を言いたい。

 賢者は草莽(そうもう)の中にある。 

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結局、何が問題だったのか           --  幻の「STAP細胞」の起源

(2015.01.27)  騒動からちょうど1年がたつ。

 その存在をめぐり、1年近くにわたり問題となったSTAP細胞について、理化学研究所が外部委員で構成する桂勲調査委員会を設けて調査した結果が年末の先月末にまとまった(注記)。記者会見した桂委員長によると、この報告書によって、もともと「STAP細胞が存在しなかったことはほぼ確実」と最終的に結論付けられた。

 何が問題だったのか- 。

 ● 2つの疑問点

 論文作成者自身による新たな再現実験でも、またそれと同時平行にすすめられた論文作成者を交えないものの論文記載の手順を忠実に守って行なわれた実験のいずれでも再現はできなかった。

 さらに、論文で作成されたとするSTAP細胞そのもののの正体をさかのぼる詳細な追跡結果も公表された。それによると、STAP細胞とされたものは、既存のある特定のES細胞にすぎないことが判明。その結果、追跡からも再現実験と同様の結論にたどりついた。

 幻に終わったSTAP細胞の正体はそもそも何だったのか。存在しないはずの細胞が画期的な成果としてなぜ世界的な論文雑誌にまで掲載される事態にまでなってしまったのか。これらの点について「日経サイエンス」2015年3月号が、独自の取材結果も織り交ぜて、

 事実究明へ科学者たちの360日

と題して検証報道を行なっている。

 その存在が幻に終わったSTAP細胞の起源は何か

 また、STAP騒動の関係者に、結局、何が欠けていたのか。チェックできる立場の複数の研究者が論文作成者の目の前にいたにもかかわらず、彼らをして何が誤りに気づかせる機会をうばってしまったのか。

 この2点について、ブログ子のこの特集を読んだ感想とコメントを以下にまとめておく。

 いずれ、マスメディアもさらに踏み込んで、問題点にメスを入れる検証報道をするだろう。それを、一度地に落ちた日本の先端研究の再生の方向につなげたい。

 ● 内部研究者の執念の追跡

 第一の、刺激に反応し、通常の細胞が再び万能性、多能性を取り戻すとされた論文記載のSTAP細胞の起源は具体的には何だったのかという点について。

 突破口を開いたのは、同じ理研の統合生命医科学研究センターの遠藤高帆上級研究員。論文で、これまでその存在が知られていなかったSTAP細胞だとされたものは、すでによく知られているES細胞(胚性幹細胞)だった。しかもどのES細胞からつくられたのか、その身元のES細胞の株まで特定された。

 その特定株とは遠藤解析によると、具体的には、2005年に理研の若山照彦研究室に在籍していた大田浩研究員が、別の実験(核移植)のためにある特殊なマウス同士を掛け合わせてつくったES細胞株。この株は結局は実験には使われず、10年近く冷凍庫に忘れ去られていた。それが今回、STAP細胞として華々しく世に出たというのが真相だった。

 つまり、残っていたSTAP細胞の遺伝子解析から、論文記載のSTAP細胞の出所まで突き止めた。その過程で、この特定されたES細胞株は、STAP細胞の多能性を示す証拠となるすべての実験で使われていることも判明した。すべての実験には、掲載論文でSTAP細胞からつくられたとされるSTAP幹細胞実験も含まれている。

 STAP細胞の起源は、2005年の大田浩氏作成のES細胞株

だった。

 一方、掲載論文でマウスの特定部位の体細胞を弱酸性の水溶液に浸し、培養すると、これまで知られていなかった刺激に反応する多能性をもったSTAP細胞(と、別の培地でSTAP幹細胞も)ができるとされた。が、1年近くにわたる上記の2系列(論文作成者本人と検証チーム)のいずれの再現実験でもできなかった。

 ● なぜチェックが機能しなかったか

 第二の、チェック機能がなぜ働かなかったのかについて。

 この特集を読んで気づくのは、論文作成者同士が、不都合な、あるいは理屈にあわないことが出てきたとき、なぜか都合よく推測、推論ですませていたことだ。

 その不都合を解決するために、論文の成果を根拠づける原データに基づいた議論をしていなかった。このことが論文を世に送り出し、その後のSTAP騒動を引き起こす原因になった。理研の研究組織に、あるいはその運営に重大な欠陥があったことになる。

 なぜ、共著論文作成者たちがそんなにあわてて論文をまとめる、あるいは発表しなければならない必要性があったのか。これが謎である。たまたますり抜けて論文が世に出てしまったという単純なことではない。

 勘ぐれば、この時期(2014年1月)、画期的な成果が得られた論文を大々的に発表する政治的な必要性が、理研として、つまり理研上層部にあったのではないか。だから、現場の研究者たちは、この論文の発表に前のめりになってしまった。

 そういう事情はなかったか。

 そういうことを考えると、論文の第一著者だけに責任を押し付けて騒動の幕引きを図ろうとするのは公正ではない、はっきりいえば誤りということになる。

 今後は、こうした疑念に注目し、その解明が先端研究のあり方につながるよう見極めていきたい。 

 ● 注記 桂勲調査委員会の最終報告書

 中日新聞2014年12月27日付朝刊に、この報告書に対する委員長記者会見の様子、および報告書要旨が掲載されている。

 この報告書では、故意か不注意かは別にして、ES細胞を混入させたのは誰かという特定については、論文第一著者の小保方晴子氏を強くにじませてはいるものの、任意調査の限界もあり、解明できなかったと断定は避けている。

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何が歴史を動かすか 文明と大国の興亡

(2015.01.27)  歴史を動かすものが、人間であることは間違いない。その人間として特定の英雄を挙げる歴史家もいれば、いや大衆であるとする革命家もいるであろう。そのいずれにしても、彼らの選択がその後の歴史を変えていくことは間違いない。

 それでは、彼らにその選択をさせたものは何だろうということになる。ある方向をもった選択をし、それを押し進める何か一貫した要因があるはずだ。なぜなら、歴史にはある種のパターンがあり、まったくの予測不可能なランダムの流れにはなっていないからだ。歴史は勝手気ままではない。

 前回、『文明の興亡』という本を紹介した。長期的にながめれば文明の台頭、成長、繁栄、そして衰亡の流れにはある共通したパターンがあるとする分析である。この話を歴史好きな友人に喫茶店でしていたら、

 イギリスの歴史家、A.トインビー『歴史の研究』

においても、決定論的ではないものの、ダイナミックな文明の形成や没落には、一定の法則があると書かれているという。

 そういえば、若いときに読みかじった同じイギリスの18世紀の歴史家、E.ギボンも

 大著『ローマ帝国衰亡史』

で似たようなことを書いている。

 つまり、衰亡にはそれなりの必然的な理由があったというのだ。単に異民族という外圧があったから、外圧で崩壊したというのではない。それはほんの最後の一押しにすぎず、真の原因は、政治的な、たとえば元老院の腐敗などローマ帝国の内部にあったことを具体的に示していた。その意味で、外圧や偶然ではなく

 滅びるべくして崩壊し、滅んだ

というわけだ。

 ● 文明の地理史観

 一般に大国や文明の崩壊や衰亡については、今現にあるという利点から、分析しやすい。これに対し、新しい文明や大国がどのような契機で台頭し始めるのか、つまり無から有がどのようにして登場するのかということを予測することは、パターンがある場合でも大変にむずかしい。手がかりも少ないし直接の文明を観察しにくい。

 喫茶店で話した内容をまとめると、そのパターンをつかむには、どういう観点から分析するかによっていろいろな大著が登場している。

 紹介すると、前回紹介したモリス『人類5万年 文明の興亡』では、

 パターンを支配しているのは地球的な規模で見た地理

という観点。日本で言えば、梅棹忠夫さんの

 『文明の生態史観』(1967年、中央公論社)

もこのカテゴリーである。生物学的な地理史観といえばいいだろう。

 ただ、この生態史観には、大きな欠陥がある。現代文明にとって肝心要の新大陸のアメリカの生態学的な位置づけや生態学的な分析がなされていない点だ。破たんをおそれて意図的かどうか、その点をあいまいに、あるいはなおざりにしている( 注記 )

 川勝平太さんの

 『文明の海洋史観』

も、西洋支配は地中海、大西洋という地の利だというモリス説に近い。つまり、川勝さんはこの本で「近代はアジアの海から始まった」ととなえている。モリス説に通じる見方だろう。

 ● 文明の経済史観

 第二は、

 文明の興亡を支配するのは経済によるもの

というもっとも受け入れやすい経済史観である。

 友人によると、この種の本は多い。現代に限っても、1500年から2000年までを分析した

 『大国の興亡』(米経済学者、P.ケネディ、原著1987年、日本語版1988年)

がある。この大著ではほとんど言及のなかった中国について、ケネディ氏は、15年後の2002年に

 世界経済のグローバル化で中国が台頭、やがて経済面(GDP)でアメリカに追いつき、抜き去ることは必定

と分析している。原著ではむしろ社会主義の崩壊を予測していたふしがある。いかに大国の台頭を予測するのが難しいかがわかる。

 経済史観に基づく最近の大著を、もうひとつ挙げれば、米経済学者の

 C.P.キンドルバーガー『経済大国興亡史 1500-1990』(1996年、日本語版2002年)

 さらに大著ではないが、コンドラチェフ生誕100年の1992年に、この200年間を分析した東京国際大学の篠原三代平教授の

 論考「波動、「大国の興亡」と関連も」

も注目すべきものだろう(1992年3月17付日経新聞「経済教室」)。

 この論考では、経済不均衡を安定的に是正するという市場機構の役割に今の経済学が重きを置きすぎている点を指摘。しかしながら現実はそうではないとして市場機構のみに寄りかかっていては世界経済の長期的なダイナミックスを見誤る可能性があることを指摘している。

 その上で、コンドラチェフ波という約50年周期の経済成長率の長期波動は、技術革新によるものとする単純な認識から抜け出すよう求めている。景気循環よりももっと大きな波、すなわち大国の盛衰とも密接に関連しているという認識に立つ時期にきているという。

 つまり、大国の興亡というもっと根本的で大きな波と、コンドラチェフ波は関連していると分析している。

 注目すべき論考だと、ブログ子も思う。

  ● 科学・技術史観

 第三。

 西洋の支配は科学・技術によるものとするのは、最近のものでは山本義隆さんの

 『十六世紀文化革命』(2007年、みすず書房)

だろう。この分析は、西洋の科学や技術について2000年間にわたり具体的に原典にあたり、また物理学徒らしい緻密な分析を加えた同氏の大著

 『磁力と重力の発見』(みすず書房、2003年)

に基づいている。具体的に根拠を提示しながら論理を展開しているだけに説得力がある。ほかの歴史書にありがちな恣意性やこじ付けがないのが特徴である。

 ● 冷戦後、「文明の衝突」史観

 最後の第四。

 米国際政治学者のS.ハンチントンの大著

 『文明の衝突』(原著1996年、日本語版1998年)

は、冷戦後の文明を支配するものは、文明間の(政治的な、そして最終的には軍事的な)衝突であるとする衝突史観である。

 現在の日本も含めた主な8大文明について分析されているが、中心はイスラム圏分析。冷戦後間もないということもあり、ソ連崩壊後のロシアについての分析は比較的に多い。それに対し、中国や日本は付け足し程度といっていい。

 この大著が話題になったのは、2001年のアメリカで起きた「9.11同時多発テロ」を予測したとみられているせいかもしれない。ほんとうにそうかどうかは別にして、タイミングのいい出版だったことは確かである。

 たまには、平日の昼下がりの晴れた日の午後、ほとんどお客のいない喫茶店で大国の興亡について長々と夕方まで友人と忌憚のない、あるいはとりとめのない話をするのもいいものだ。

 高齢シニアになった余得だろう。

 ただちょっと残念なのが、この話をしていて、世界の歴史の大道にはまったくといっていいほど、日本が登場しないこと。その意味では日本も、現生人類のふるさととはいうもののアフリカ諸国も同じなのだ。

  ● 注記 『文明の生態史観はいま』(梅棹忠夫編、中公叢書、2001年3月)

 『文明の生態史観』のこの欠陥については、

 梅棹忠夫編『文明の生態史観はいま』

のなかで、史観に対する4識者のコメントの章があり、うち二人が次のように書いている。

 ふたつの史観の今日的意義、と題した中で、

 「それにしても、梅棹生態史観も川勝海洋史観も、ともに新大陸とりわけアメリカにほとんど言及していないのは興味深いところである」(佐伯啓思京都大学教養部大学院教授)と指摘し、「まさに現代こそ、確かな文明論を望まれる時代なのである」と結んでいる。

 また、梅棹文明学を再読する、と題して

 全地球をカバーしていないのが「残されている課題」

だとしたのが、杉田繁治国立民族学博物館副館長。

 日本文明のカードを一枚入れて(アメリカも含めた)「世界全体を見据えた文明の生態史観を語られてもよいのではなかろうか。待ち遠しいものである」と、仲間意識のエールを送っている。

 当の梅棹氏は、2010年、その残された課題を完成させることなく、90歳で死去している。

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現実化した「華氏451」 読書ゼロ半数の時代

(2015.01.24)  年末に、このブログで

 「読書ゼロ」は悪いことか 立花隆の怪気炎

というのを書いた。立花さんは、ネット時代のいまどき、読書なんかは、スループット(素通り)してもいいという趣旨の発言をして、ブログ子もびっくりした。が、一理はあると感心する。言わんとするところは、ネットのその先には、読書なんかより、はるかに広く深い世界があるということだった。そこで、インプットすればいいというわけだ。

 そんな折、偶然だが、BSプレミアムで、情報はテレビ、読書禁止という

未来SF映画「華氏451」(F.トリュフォー監督、英米、1966年)

というのを、先日見た。原作は、同名のレイ・ブラッドリーの小説。紙の本を見つけ次第焼却処分する役目を負わされた消防士の物語である。華氏451(度)というのは、紙の燃え出す温度のこと。

 ● 人が本をまるごと暗記

 映画が公開されたときは、ちょうど白黒テレビあるいはそのカラー化がアメリカや日本でも普及し始めていたときだけに、ヒットした。もはや情報はテレビだけで十分、古臭い本などはいらないという風潮も出始めていたからだ。ワープロが普及しだした1990年代、ペーパーレスということばが流行ったのと同じ現象である。

 焚書の時代ともいうべきこの未来では、小説などの文学を一人一冊、丸暗記して子孫に伝える抵抗運動を続けている。「嵐が丘」という人物もいれば、「源氏物語」という女性もいるのだ。そして、50人の村というのは、50冊の文学書のある図書館というわけだ。今で言えば、紙に代わろうとしている電子書籍だろう。

 上下2巻の本は、兄が上巻を記憶し、下巻は弟が暗記する。そして、それは、親から子へと受け継がれていくというのが、ラストシーンだ。

 こうして脳に記憶しておけば、いくら国家でも、焼却はできない。

 ● 50年前の映画の2つの現代性

 映画は、本を読まなくなった現代に対する皮肉を込めた痛烈な警告となっていた。

 50年近く前のこの映画の今も通用する現代性がここにある。

 忘れてはならないのは、視覚に訴える衝撃性には優れてはいるものの

 テレビ、あるいはラジオは深く考えさせ、心を耕すメディアではない

ということだ。その映像の衝撃性も一過性であり、その背後にあるものを、じっくりと考えるまでには至らないのが普通なのだ。衝撃性がかえってものを考えることをおろそかにさせている。文字を通してはじめて物事を冷静により深く、より論理的に理解できるようになる。

 権力は映像メディアのテレビに、国民をコントロールする上で都合のいいものを嗅ぎ取っている。

 この映画は、そのことを気づかせようとしている。そこでは、映像情報と文字情報とが合体したデジタルネット時代において、ジャーナリズムをもう一度再生するにはどうすればいいのかという課題を突きつけている。

 この映画のもう一つの現代性だろう。 

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終末時計、人類滅亡まであと「3分」

(2015.01.23)  米科学誌が、いわゆる終末時計で、これまでより2分進めて、

 人類滅亡まであと「3分」

と発表、現在の国際情勢がより危機的な状況になっていることを警告した。これは、核戦争の脅威がつきまとっていた冷戦時代の1980年代の水準。

 時計を進めた根拠として、大量に温存されている核兵器のさらなる増大や現実味増す核テロの脅威、さらには気候変動に対する国際協力が遅々として進ず、その間、京都議定書の有効期限が切れ2020年まで仕切り直し状態にあるなど次のステップが宙に浮き漂流している事態などが挙げられている。

 I5mage2068_2 こんなニュースを聞いても、たいていの人は、大げさな、人類の滅亡なんて話は、まあ、ないだろう。お遊び程度に聞いておこう、というぐらいにしか思っていないだろう。

 ブログ子も、だいたいそんなところである。

 ● どうなる人類の100年後 歴史学から

 ところが、歴史学者、I.モリスの近著

 『人類5万年 文明の興亡 なぜ西洋が世界を支配しているのか』( 筑摩書房、2014、写真の左 )

を読んだ。そうしたら、人類の歴史を調べてみると、そこには予測を可能にするあるパターンがあると書かれていた。そのパターンから、人類の未来が予測できるというのだ( 注記 )。

  先日のこのブログで紹介した『偶然の科学』によると、歴史学など複雑系社会学などでは、一般には未来を予測することなどできない。ただし、例外として、複雑な対象においても、ある程度の予測はできる。

 その例外とは、複雑な非線形の出来事に何らかの安定したパターンがある場合である。

 モリス氏の著書では、そのパターンを発見したというのだから、あるいは予測ができることになる。

 どんな未来予測か。

 有機物からなる炭素ベースの知能から、半導体というシリコンベースの知能へ、2040年代には移行する。それは今から100年後の時点で振り返れば、(今はありえないと思うかもしれないが)不可避と見えるかもしれない

というものだ(同書352ページ)。さらに続いて、こうも書いている。要約すると、

 この2040年代の「人間とコンピューターの合体というのは、ホモ・サピエンスがその前のすべての類人猿と(氷河期が終わった今から数万年前に完全に)置き換わったように、今、人工知能と呼ぶものが、われわれホモ・サピエンスに完全に置き換わる前のほんの一時期の現象にすぎないのだろう。

 これは、つまり、100年後からみれば、2040年代の炭素脳からシリコン脳への完全な合体は、自明と映るだろうというのだ。これは、人種などというものがない「人類後」の単一の世界文明の姿であり、著者によると当然であり、また明白のようにみえるらしい。

 だから、この本のテーマ、今後も西洋支配は続くかどうかなどという21世紀初頭の関心事などは、いささかばかばかしいとみえるかもしれないと、この著者は締めくくっている。

 それこそ、いささか自嘲気味なのが気になるが、おもしろい分析ではある。

 おもしろい分析ついでに、その先はどうなるのかについて、生物学者からの未来予測を紹介しておきたい。

 ● 生物学者が描く人類の遠未来

  それは、二人の生物学者が描いた

 『the FUTURE is WILD』( ディクソン/アダムス、ダイヤモンド社、2004、写真の右 )

である。「本書に登場する生物はすべて、生物学と進化論の基本的原則にのっとっている」と強調している。だから、本当に現れる日がいずれ来るだろうとして、内容に自信を見せている。

  それによると(同書40ページ)、

  人類の時代の終わりは、現在から数千年後(から始まる)。地球全体が氷で覆われ、第5氷河期がピークを迎えて気温が一気に下がるとともに、(数万年後には)人類の時代は(完全に)幕を閉じる。

 その後には、大型の水生鳥類が登場する。地上は大型のげっぱ類が支配するという。1億年以上たつと、やがて

 空飛ぶ魚が空を支配し、大型タコが陸上をのし歩くらしい。

 だから、せめて、今から数千年後までは人類が絶滅しないよう、人知でなんと破滅防止に努力したい。また未来世代のためにも、そう祈りたい。そのあとは、もはや人知ではどうしようもないのだから、悪いが、私たちにとっては

 ケセラ、セラ

ということだろう。数千年後の未来については、その時の現生人類が決めることだ。

 私たちの当面の喫緊課題は、彼らが決めることができるよう

 今の、あと「3分」

を、とりあえずどう乗り切るかなのだ。

人類絶滅の3大要因は、核兵器による自業自得の破滅、地球温暖化の高進、約10万年周期で訪れる氷河期襲来。このうち、一番破滅に対するリスクの高いのは、短期的には自業自得の核兵器によるものであろう。

 ● 注記

 この本の原著の直訳タイトルは

 今、なぜ世界は西欧ルールに支配されているのか

というもの。サブタイトルは「歴史にみられる文化パターンと、そのパターンが人類の未来について語るもの」

という意味である。原著のほうが、その内容を的確に表現していると思う。

 この著作には、100年後に完成する炭素脳とシリコン脳の合体後について、そのあとはどうなるのかということまでは書かれていない。ブログ子の予想というか、想像では、ある意味不死身になる合体のメリットを生かし、ホモサピエンスは今以上に現実味をもって、地球環境に比較的に近い火星に移住するという決断をするのではないか。その実行は、確たる根拠はないが、有人火星移住計画の困難な技術的問題がクリアされる、これまた今から100年後であろう( 現在の米火星有人飛行計画の実現は2030年代)。 

  ● 補遺 『人類が消えた世界』

 絶滅ではないが、仮に現時点で突然人類が消えたら、文明はどうなるか。そんな想定について、ジャーナリストが専門家に取材してまとめたのが

 『人類が消えた日』(A.ワイズマン、早川書房、2008年)

である。「TIME」誌の2007年のベストノンフィクション賞を受賞した著作。わずか500年で文明は無残な野生の姿に戻る。1万5000年後には、ニューヨークは氷河に飲み込まれ、自由の女神も地上から姿を消す。

 かといって、人類が栄えた痕跡がすべてなくなるのかというと、そうではない。たとえば、そのままでは分解しにくいプラスチックが数十万年後もそのままの姿で存在しているという。これに比べると、鉄などはすぐに酸化し、ボロボロになり地中に埋もれてしまうだろう。

 この著作には書かれていないが、この原油からつくられたプラスチックを分解し、エネルギー源にする新生物が、現在の微生物のあるものから進化。それが人類にとって代わって地上で繁栄するかもしれない。

 核戦争や原発から出る放射性物質も半減期の長いものを中心に大部分は「人類後」の10万年後以降も残っていることは確実。こちらのほうは、生物に有害だろうから、今いる生き物から新たな(たとえば、ゴジラのような放射性の?)生物が進化してくるとは考えにくい。

 

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だから、やってみなくちゃわからない

20150117ed0005110326_00000_s_001_2 (2015.01.21) ブログ子の大好きなミニ科学番組に

 大科学実験 (Eテレ、毎週土曜日夜)

というのがある。なぜそのような結果になるのか、番組ではその種明かしは極力していない。だから、見終わって、自分なりにいろいろ考えてみることのたのしさがある。なぜ予想と違ったのか、考えるおもしろさもある。だから、国際的な賞を何回も獲得しているのも、よくわかる。

 最近のこのブログでは、

 空に何本もの虹

をつくってみせた番組を紹介した。今回紹介するのは

 水の大回転

という大実験(2015年1月17日放送)。実験装置は、写真( = 同番組テレビ画面から)のようにごく簡単。要するにメリーゴーラウンド( 回転木馬 )なのだが、吊り下げるのは、多数の透明なプラスチック円筒に水を入れて、ピラミッド状に積み上げたもの。これを、地上に垂直に立てたポールを中心に次第に速度を上げて回転していくと、

 この水の回転ピラミッドはどうなるか

というものだった。

 ブログ子の最初の直感では、

 すべての円筒の水には水平方向に、しかも外向きに遠心力が働くから、すべての円筒のなかの水は、下向きの重力があっても、すこしもこぼれないし、ピラミッドも崩れない

というものだった。

 しかし、この理屈は、完全な正解ではないことに気づいた。

 なぜなら、最初はいいとしても、高速回転になり、ピラミッドの底が垂直なるほどになれば、いうまでもなく、すべての円筒は水といっしょに、重力により地面に一斉に落下することは、あまりにも自明だからだ。

 実際の実験では、高速回転になると、何度やっても

 ピラミッドの先端にある、ポールに近いほうの円筒だけが崩れて、落下

してしまった。なぜだろう。

 番組を見終わって、しばらく考え、ようやくこの現象が理解できた。

 垂直に止まっているときのピラミッドは回転とともに次第に傾くが、傾くに連れて、先端の円筒の遠心力もピラミッドの底のほうも円筒の遠心力は外向きに大きくなる。遠心力は回転軸からの回転半径に比例するからだ。

 しかし、回転軸から離れている分、底のほうがより大きい遠心力を得る。すべりの静止摩擦は一定なのだが、この遠心力の大きさの違いにより、円筒の重心が底の広がりの外にはみ出した瞬間、遠心力が比較的に小さく落下しないよう抑えておく力も弱い先端の円筒が重力(による重心のまわりの回転モーメント)で落下する。

 これに対し、先端から離れた下の円筒では、回転するとともに遠心力が先端よりますます大きくなり、底をしっかりと押し付ける効果がますます効果的になり、水も円筒自身も落下はしない。

 しかも、先端の円筒には上から底を押さえてくれる追加の重しない。のに、ピラミッドの底に近い円筒にはその上からの押さえがのしかかっているという有利な違いもある。

 ただ、しかし、それも限度があり、いくら静止摩擦を高めたとしても、かなり回転木馬が高速になり、ピラミッド底が垂直になれば、いうまでもなく、一斉に水も円筒も地面に落ちる。

 これが大実験の正体なのだ。

 ブログ子の実験前の予測は、半分は当たっていたが、半分は外れた。

 というわけで、中学生時代の理科の授業を思い出すような愉快な実験だった。

 大人にも考えさせることのできる大きなスケールのミニ番組だと思う。

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天が落ちてくる心配は本当に杞憂か

(2015.01.21)  このブログは、それほど反響があるわけではないのに、このところ

 一度は常識を疑う

ということをテーマに議論しているせいか、メールでコメントをいただくなど、ちょくちょく反響がある。

 そんななかに、高名な現役の天文学者の松井孝典さん(惑星物理学)が、

 天体衝突は杞憂か

ということを論じていると知らせてくれた読者がいた。講談社のPR情報誌「本」2014年5月号である。

 杞憂(きゆう)というのは、天が落ちてくるのではないかと古代中国の杞の国の人の心配から生まれた故事。そんなことはありえず、(常識的には)しなくてもいい無用の心配のことをさすときに使われる言葉である。

 この雑誌のなかで松井さんは、

 天体衝突は杞憂などではなく、現実味のあるリスク

という趣旨を語っている。そのいい実例が、一昨年、2013年2月のロシアで起きた巨大いん石落下事件。いん石が大気との摩擦で火球となり、空中で爆発、その衝撃波でビルのガラス窓がこなごなに破壊されるという大騒動に発展した。

 天こそ落ちてはこなかったものの、天からは甚大な被害をもたらす大きないん石は落ちてくることを証明した。このいん石落下は、予測不可能な偶然で起きたものではない。すこし長い目でみれば、合理的な理由のある必然的な出来事だったことが、今ではわかっている。

 ここからいえることは、

 たとえ、それが、常識的にはそんなこと「絶対ない」として無視してもいいほど、ごくごくごく小さな生起確率であっても、起きる可能性のある出来事は、その常識に反し(つまり、杞憂に反し)、いつかは必ず起きる

ということだ。

 そんなこと「絶対ない」は、それこそ絶対ない

ということだ。

 対策を打ち切るための限界として、最近流行の「想定外だ」というのは、

 常識的にはない

と切り捨てているに過ぎない。だから、想定外に確実に対応するには、常識的な対応とは別の発想で対応する必要があるのだ。

 想定外の事態を常識的な発想で対策するのは、愚の骨頂ということになる。これまでの想定外論議に欠けている視点だと思う。

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世の常識はいかに私たちをあざむくか

Image2065_2  (2015.01.18)  十日ほど前、このブログで、それでも地球は動かないというタイトルで、

 常識の魔力

について論じた。ところが、このブログを読んだ老天文学者が

 常識はいかに私たちをあざむくか

ということを見事に論じた近著

 『偶然の科学』(D.J.ワッツ、早川書房、2011)

のあることをメールで知らせてくれた( 写真上の左端 )。著者のワッツは、理論物理学者で、ネットワークなど複雑系を専門とするコロンビア大学社会学部教授。世界を知るための新科学的思考法という本もものにしているという。

 ● 偶然は予測を裏切る

 さても、むずかしい本だろうと思ったが、図書館で借り出して読んでみた。が、目からウロコのとてもおもしろい本だった。

 この本の言わんとするところを、手短に要約してまとめると、

 世の常識にあざむかれる原因は、過去の出来事の解釈については、常識に寄りかかったこじつけか、同語反復的な堂々巡りの論法がまかり通っていて、真実がつかめていないからだ。将来の予測では、偶発性(または創発性)が不可避なのに、常識に拘泥するあまり、無視している。常識が通用するのは、ある特定の状況に対応するときに限られる。

というもの。偶発性や創発性は複雑系の大きな特徴であり、常識の通用する線形問題ではなく、非線形問題の特徴だ。

 言わんとするとことをさらに短く要約すると

 単純な線形問題は別にして、複雑な社会システムのような非線形問題の場合、常識を用いるな、それで予測などとても無理

ということだろう。 

 だから、複雑系社会学では、あざむかれないためには、常識に寄りかからず直感と経験に基づいて行動すること

と主張している。

 ワッツのこの過去の出来事の解釈の典型例は、スポーツの結果論的な解説。およそ解説の名に値しない。その場かぎりのこじつけである。たった一度のその人物の結果から、その人物の技量評価をするのは誤った循環論法におちいる(補遺参照)。

 ● 株価の動向に安定した揺らぎパターン

 後段の将来の予測については、

 偶発性により、予測は起こったあとでしか予測はできない

ということを意味する。

 ただし、例外として、複雑な社会システムのような複雑系社会学の対象においては、ある程度予測のできるものもある。

 複雑な非線形の出来事になんらかの安定したパターンがあるもの

がそれだ。膨大なデータをもとに、経済学に物理学の手法(カオス理論、フラクタル理論)を導入し、解析する

 経済物理学

が、最近、脚光を浴びている(写真の右端 = 『経済物理学の発見』高安秀樹、光文社新書、2004)。株価の動向におけるバブル崩壊の予兆をつかむ。たとえば、膨大な株価データのリアルタイム解析から東大の清野健研究員や山本義春教授らが

 1987年のいわゆるブラックマンデーで株価が暴落した前後に、株価指数に「臨界ゆらぎ」という特殊なパターンが出現していたことを発見

している(2006年2月16日付富山新聞朝刊経済欄「経済BOX」)。これは、市場が暴落する可能性を示す〝危険水域〟に入ったことを探知するのに利用できるパターンとなるかもしれない。

 ● 「思考の錯覚」も要因   

 ワッツの本では、常識をあざむくほかの要因として、常識が引き起こす

 思考の錯覚

についても、鋭く迫っている。

 たとえば、論理的にも、現実的にも

 才能(あるいはほかの人にはない長所)があるからといって、その分野で成功するとは限らない。また、その逆、つまり成功したからといって才能があるとも限らない。

 才能があるから成功するというのは短絡的な思考の錯覚。才能とは別の偶然のせいかもしれない。偶然ではないことをチェックするには、いわゆる思考の2次元フレームワーク評価が求められる。

 偶然でないとしても、ハロー効果(才能とは関係のない、いわゆる親の七光り)効果かもしれない。

 わかりやすくたとえれば、見栄えのいい人物は頭がいいとは、常識ではいえても、現実にはそうとは限らないのと同じ。偶然かもしれないのだ。ただ、

 偶然を呼び込むのも実力、才能のうち

ということすれば、これらは正しいかもしれない。

  ワッツの本を読んで、つくづく思う。

 対象が常識の使えない非線形問題ではないか、あるいは常識に寄りかかっているような思考の錯覚はないか、常識を振り回すだけの循環論法におちいっていないか、さらには常識にこだわるあまり論理を逸脱して無理やりにこじつけていないか、

 一度は常識を疑ってみる

ことの重要性を認識した。

 ● ダーウィンを疑う

 やはり、前回も話したが、

 何でも説明できるダーウィンの進化論は科学理論として正しいか

というのも、一度は疑ってみる価値はありそうだ。

 それというのも、ダーウィン進化論では

 種は変化する。

 これは事実。しかし、どのように変化するのかというと、それは変化する環境への適応の程度に応じて

 自然が選択する

というもの。いわゆる自然選択、あるいは自然淘汰のメカニズムである。

 これは、進化の歴史に照らして実際に起こったこと、つまり、本当だろうか。

 生物は自分の将来についてその結果を知ってそれに向かって日々生きているのではない。だから、自然選択というのは先に挙げた何でも説明できる結果論的な論理ではないのか。

 もう少しわかりやすい言い方をすれば、

 生物は、ただただ自然に鼻づらを引きずり回されているだけの哀れな存在にすぎないというのは、本当だろうか。

 そして、いつ起きるかわからない体内の、あるいはその種内への突然変異の広がりを悠長に待っているようでは、個体はもちろん、肝心の種自身も変化する前に絶滅してしまうのではないか。

 原因論としての自然選択は、ダーウィンの育種家として体得した人為選択からの単なる常識的な予測にすぎないのではないか。

 生物の進化というような複雑な現象を、そんな線形的な発想でとらえるのは間違いではないのか。しかも、予定調和的な結果論的に。

  では、どうとらえればいいのか。

 生物、とくに動物の心の進化については、

 心が働く環境がどのようなものか、それ(どのようなものであるかということ)は、その動物の行動が決めているであって、脳自身が決めているわけではない。脳はあくまで受身。つまり、脳が自ら能動的に働くから心が働いたり、それに伴って行動が生まれたりするのではない。その逆で、行動があって、初めて脳が働く。

 とすると、周りの自然環境に対する動物側からの行動という働きかけによって、脳という心が働き、その結果として心や身体の進化が決まることになる。動物を含めた

 生物の認知行動学

こそ、たとえば霊長類学研究の本道ではないか。これだと、動物は周りの環境に鼻面を引きずり回されるだけの情けない存在ではなくなる。ある種の主体性が求められるからだ。動物自身も行動を通じて、心や身体の進化のプロセスに、ある意味主体的に参加していることになる。その分、突然変異を悠長に待っているだけの場合に比べて、格段に適応性は素早くなり、簡単には種の絶滅にはつながらないだろう。

 150年も前に活躍したダーウィンは、この動物に心があり、主体性があるということを、当時の文化的な背景もあり、心理的に嫌った。より客観性のある環境だけに進化のメカニズムがあると信じたかった。そこで登場したのが自然による選択だった。そこにダーウィンの誤りがあった。

 もうそろそろダーウィンの誤りを指摘しても、ダーウィン自身、憤慨することはあるまい。なぜなら、常識となっている自らの進化論が人々を今もあざむいていることを、科学者として自ら望んではいないだろうからだ。ダーウィンはひとつの仮説として当時としては整合性のとれた進化論を世に問うただけなのだ。

 何でも説明できる科学理論などというのは幻想である。科学理論であるためには、その理論では決して起こりえない現象を提示できなければならない。その現象を自然界で発見すれば、それでその理論は崩壊する。何でも好都合にあとから説明できるダーウィン理論にはそれができない。裏を返せば、予測ができないという科学理論としては致命的な欠陥があることになる。

 これではダーウィン進化論は科学理論ではない。何でも説明できる神の宗教と変わらない。信じるものだけが救われる、科学者になれるというのでは科学ではない。

 そう、ブログ子は考えている。

 ● 補遺 堂々めぐりの循環論法の誤り

 循環論法とは、ある事柄を論証するのに、その事柄自身を前提として論証に持ち込んで論証する証明法。

 もう少し、具体的に言えば「Xが起こったのは、人々がそれを望んだからだ。人々がそれを望んだとなぜ言えるのか。それは、Xが現に起こったからだ。なぜ現に起こったのか。人々がそれを望んだからだ」

 こういう堂々めぐりの何も証明していない(誤った)証明法が、あまりに多い。論理を逸脱し真実を言い当てていない無理なこじつけとともに世間にはあまりに多い。論証になっていない。

 これに対し、堂々めぐりと似ていて、勘違いしそうなことわざに、

 風が吹けば桶屋が儲かる

といのがある。これは常識では考えられないような(非線形の)因果関係によって意外な結末が待っていることをさしたもの。つまり、これは複雑系社会学の対象では何が起こるかわからないということを見事に喝破したもの。

 言い換えれば、現象間に不可避の偶発性が介在し、結果を事前に予測できないこと表す箴言なのである。

 決定論的なニュートン力学では偶発性はないので、このような可能性を考える必要はない。 

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幸喜版「オリエント急行」は何が新しいのか

(2015.01.13)  鳴り物入りで放送されたフジテレビの

 オリエント急行殺人事件(原作はアガサ・クリスティ、1934年)

という改作ともいうべき翻案のテレビドラマを、先日見た(静岡県では系列のテレビ静岡)。BS放送はともかく、フジテレビをそれほど見ているわけでもない。ので、ドラマの細部については、ブログ子はあれこれいえるような立場にはない。

 ただ、この2夜連続の長大なドラマのどこが新しいのかと考えながら、拝見した。テレビ局に力が入っているのは豪華な俳優が登場することでもわかる。脚本が三谷幸喜、名探偵ポアロ役には狂言師の野村萬斎。そう聞けば、当然のこと、改作の着眼点が何かということが気になる。

 ● 勧善懲悪は正義か

 結論を先に言えば、

 殺人は悪という勧善懲悪を否定してはいないものの、その枠を超えている

という点だろう。勧善懲悪は探偵小説やドラマ、あるいは社会派推理小説の前提であり、その枠をこえようという意欲を、犯罪者側に立った謎解きを描いた第2夜で強く感じた。通常の名探偵、名刑事による名推理では決して描き得ない。犯罪に至るより複雑な動機づけ、より深い犯罪心理を描こうとしていた。

 その点は評価したい。しかし、殺人事件の意外な展開の結末において、名探偵ポアロが犯罪者に同情したのか、犯罪を見逃すという結末になっていた。これだと時には犯罪は善というメッセージととられかねない。この点、論議を呼ぶところだろう。

 だから、この点の結末については、原作を傷つけない範囲で、放送のようなめでたし、めでたしとならないような一工夫がほしかった。たとえば、読者の想像力に任せるという

 ぼかしの技法

があるはずだ。三谷さんなら、できたと思う。

 ● せっかくの考える機会奪う

 この技法によって、視聴者に考えさせる機会を与えてほしかった。

 たとえば、体制側の発想である法に従えという勧善懲悪は本当に正義なのかという問題にメスを入れてほしかった。めでたし、めでたしでは、その考える機会を奪ってしまっていた。単なるエンターテインメントになってしまっており、せっかくの鋭い視点が何のためだったのか、その制作意図がぼやけてしまった。

 その点をのぞけば、確かに、新趣向であり、三谷幸喜の才気、面目躍如であった。

 勧善懲悪の枠をこえたこうした視点は、金持ち階級に属する真犯人を最初に明らかにし、庶民派の名探偵刑事がアリバイ崩しの謎解きに挑み、少しずつ犯人を追いつめる趣向で根強い人気の「刑事コロンボ」シリーズにもない。また日本のドラマや映画、弱き者の恨みをはらす私的なリンチである必殺仕置き人、仕事人、仕掛け人シリーズでも、十分ではない。

 いずれも、水戸黄門ドラマ同様、最後はめでたし、めでたしで終わっているので、視聴後、見た人はスカッとはする。が、スカッとする分、当たり前と思っている体制や権力のあり方に切り込む鋭さには欠ける。真っ当な体制批判が抜け落ちるのだ。

 社会秩序の安定を願う体制側にとっても、これは、めでたし、めでたしなのだ。しかし、いくら大型予算のテレビドラマだからといって、そんな鋭さまでテレビドラマに求めるのはしょせん邪道なのだろうか。

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行動にユーモア クレイジーを常識に変える

(2015.01.12)  ブログ子は、浜松市の佐鳴湖でシジミの復活を目指して、あれこれやっているせいか、最近、生き物にとって持続的に生息しやすい川や水環境のあり方にも関心を持つようになった。

 そんな折、仲間からアメリカ発のドキュメンタリー映画

 「ダムネーション」(パタゴニア、2014)

というドキュメンタリー映画をすすめられた。浜松市にある単館系の市民映画館シネマイーラで、先日上映会とそのあとトークがあるというので、出かけてみた。映画のプロデューサーは、川とそこに生息する魚たちを守ろうとする生物学者。具体的には魚道プロジェクトの推進者でもあるらしい。

 内容は、アメリカは、大小合わせて約7万5000基もある「ダム国家」だが、税金を無駄遣いし、魚たちの生息を過度に痛めつけるので、

 ムダなダム(の存続)は、断固反対、撤去を

というものである。効率の悪い無駄なダムを撤去すれば、川の生態系はみるみるうちに回復し、川の持つ計り知れない恩恵を周辺に与える。だから、「川にもっと自由を」というのが一口スローガンであり、製作意図だろう。

 アメリカでも、日本でも、原発が稼働する前の4、50年前に「ダムの撤去」などと言い出せば、ダムの機能には電源開発のほか、水害に対する治水、農業かんがい・給水の利水などもあり、端から

 クレイジー(狂気の沙汰)と

思われただろう。しかし、アメリカでも、日本でも、1990年代からは、次第に

 無駄なダムの撤去は常識化

し始めている。1990年代の長野県知事の「脱ダム宣言」などでもわかるが、その後の曲折はあったものの、すくなくとも合理的な選択肢の一つとなり始めようとしている。

 ● 意識を変えさせる3要素

 映画で、もっともブログ子の興味と関心を引いたのは、このクレイジーから常識に、住民の意識を変化させるのに必要なものは何かという点だった。

 この点について、映画を見ながら拾ってみた。

 第一は、映画でもはっきりと述べていたが、川 (の再生) に情熱を持つこと。

 第二は、その情熱で (やればできるという) 自信を行動を通じて学び、持つこと。

 第三は、人々を行動に巻き込むために、行動では批判とともにユーモアをもたせること。ユーモアには人々を結束させる力がある。

 この映画のつくり自身が、このことを実践し、いたるところでユーモアを織り交ぜて、人々の意識を覚醒させようとしていた。

 このほか、よく言われる政治家、行政、企業を動かす政治力や、自ら資金集めをする力、組織をまとめる統率力も当然必要だろう。

 ● 天竜川水系には20基以上のダム

 この映画はアメリカの話なのだが、身近にも、暴れ天竜といわれた天竜川水系には、この7、80年間に、1950年代に完成した佐久間ダムをはじめ20基以上がさまざまな目的をもって建設された。

 しかし、今、佐久間ダムでは、堆砂/排砂問題が深刻化している。発電能力には影響はすくないものの、このままでは貯水量が減少し、上流の水害がふたたび懸念され始めている。こうした懸念は、最近の国の調査でも、全体の5割にも達している。

 佐久間ダムの場合、砂がダムでストップする裏返しとして、河口部の遠州灘の中田島砂丘では、逆に急速に砂丘が細ってしまう海岸浸食(海食)問題がこの10年、深刻化をたどっている。

 こうした問題に取り組む場合、市民、住民の関心をどのように高めるか、今回のドキュメンタリーはよい指針を与えてくれたように思う。

 ● 原発の廃炉問題でも

  最近の2015年1月11日付朝日新聞によると、

  老朽原発5基、廃炉 運転40年で関電、九電など4社が年度内決定へ

と報じている。基数だけで言えば、1割減。具体的には

 美浜1号機(関電、44年運転、34万kW、福井県)

  敦賀1号機(日本原電、44年運転、36万kW、福井県)

など。コストパフォーマンスが悪いということや、廃炉処理に伴う減価償却の会計仕組みを電力会社が受け入れやすいように改正したことも、主な理由だ。

 そんななか、日本一危険な原発といわれている100万kW超級の浜岡原発(3、4、5号機)が今後どうなるか、今まさに焦点となっている。この1、2年で、再稼働をめぐる大きな転機が訪れるだろう。

 はっきりいえることは、

 廃炉は、はなからクレージーの時代から、合理的な常識の時代を迎えようとしている

ということだ。

 この意識変化をより確実に醸成させるには、先の3条件は、指針として大変に役に立つ。 

 (写真下は、上映後のトーク会場で = 肴町公会堂、1月11日 補遺参照)

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 ● 補遺 トランジションタウン浜松

 このトークについては、

 「映画&トークイベント」(主催= トランジションタウン浜松)で以下のようなまとめがなされている(ダブルクリックで写真拡大ができる)。

 詳しくは、以下。

 http://www.tenryugawa.jp/shiru/event/tthama151111.php

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もうひとりのシェイクスピア  常識を疑う

(2015.01.11) イギリスの劇作家、W. シェイクスピアの「ハムレット」の中のもっとも有名な台詞といえば、

 「生きるべきか、それとも死ぬべきか(To be or not to be)」

だろう。このあと、それが問題だと続く。この劇の全体をかんがえれば、これは、

 復讐をするべきか、それともするべきではないか

という決断を表現したもの。

 この正月の3が日のNHKBS放送を見ていたら、深夜の世界のドキュメンタリーで

 「シェイクスピアの正体」(アメリカ、2012年)

というのを放送していた。ほろ酔い気分で見ていたのだが、ふと、これは、シェイクスピアの実人生における決断のときの本人の思いをそのまま劇作に取り入れたのではないかと気づいた。

 自分の本名そのままに一連の体制批判の劇作を発表すべきか、それとも「シェイクスピア」という架空の人物に仮託して発表するべきか

という問題である。本名そのままでは自分の命は危ういかもしれない。生きるためには架空の人物に託して、世に発表するしかない

 そう決心して、発表したのが、いわゆるシェイクスピアのあの一連の劇作群なのではないか。

 ● オクスフォード伯という別人説

 ドキュメンタリーでは、シェイクスピアの正体は誰なのか、さまざまな人物にインタビューして、まとめていた。

 つまり、通常いわれている通り、イギリス中部の都市、ストラトフォード(・アポン・エイボン)出身の実在した穀物商人で、本名、W.シェイクスピアなのか、

 それとも、その正体は、当時、文才もあり、ヨーロッパ情勢や上流社会にも詳しい貴族だったオクスフォード出身のエドワード・オクスフォード伯爵なのか

という問題設定で、番組は進行した。番組をみた限りでは、どうやら後者の第17代オクスフォード伯らしいと思った。シェイクスピア別人説の主張である。

 というのも、実在した商人の経歴やその生活行動からは、とても、一連の作品を生み出せるとは思えない、作品群には当時の外国の貴族社会やヨーロッパ情勢に詳しくなければ書けないのに、商人にはそうした下地があったとは思えない、さらに、当時のエリザベスI世の後継をめぐる近辺の政治情勢に精通していなければあれほどの体制批判などできない、しかもあれだけ体制批判をしても、ほかのひとは次々と逮捕され投獄されていたにもかかわらず商人自身はなにごともなく生涯を終えているなどなど

 実在したロンドンの商人が一連の作品の作者だとするには、整合性がとれない現実の状況証拠がありすぎて、信じがたいというわけだ。

 ● ダーウィン進化論を疑う

 シェイクスピアほどの世界的な有名人でもその正体が謎であるというのも、なんだか不思議な気がした。

 こうなると、日本でも聖徳太子は存在しなかったという話もあるが、まんざら、あるいは端からでたらめと決め付けることはできない気がしてきた。

 常識は、寄りかかるには便利だが、くつがえされることがある。一度は疑ってみるという習慣を身につけたい。

 そこで、思う。

 ダーウィンの進化論は本当に正しいか

という問題だ。信じるべきか、それとも新しいテーゼを出すべきか、それが問題だ。

 ブログ子の意見は、後者で

 主体性の進化論

だと思う。

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突破口は1500回の実験から開かれた

Image2062_2 (2015.01.10)  ボランティアをしている浜松科学館(浜松市)で、ノーベル物理学賞を受賞した天野浩さんたちの記念展示、

 青色LED研究の足跡をたどる

が開かれるというので、正月明けの先日出かけた。目標を持ち、やりぬく力を身につけようと呼びかけていた。みずからも、この展示コーナーの入り口に金額縁に入れた色紙に、

 憂きことの なおこの上に積もれかし

    限りある身の力試さん

としたためている( 右写真 = 浜松科学館展示ホール、1月7日 )。いかにも、誠実でまじめな天野さんらしい謙虚さがにじみ出ている。

 会場を見て回って、青色LEDの開発の意義がよくわかった。明かりを得るために投入された電気エネルギーのどのくらいが明かりとして使われるかという発光効率がいいのだ。

 どのくらいよいのか、具体的には、

 現在、蛍光灯の発光効率20-30%の2倍、50%前後。

 発熱電灯の5%前後に比べると、10倍近く効率がいい。

 だから、光の三原色の一つである青色の光を明かりとして効率よく出す半導体(LED)を組み込んだ

 青色LEDチップ(素子)

づくりは、省エネルギー求められるこれからの時代とても重要というわけだ。現在の効率50%前後というのを60%、さらに70%と向上させることが当面の課題ということも、これでわかる。

 研究の足跡というのは、この青色LEDの発光効率を向上させるための苦闘の歴史なのだが、天野さんたちがたどり着いたのは、半導体として

 窒化ガリウム(GaN)の完全な結晶化

によって、それは達成されると目標を定めた( 写真左 = 展示会場で)。ここには、まだ誰も成功していない青という光の三原色(赤、青、緑)のひとつの開発は、恩師の赤碕勇さんによれば、

 無限の可能性がある

との読みがあった。赤はすでに当時かなり開発が進んでいて、実用化の目処も立っていた。しかし、青は誰も手をつけていない。青ができれば緑にも王手がかかる。

 難関だが、ターゲットは青色

という明確な目標の設定と、そのさきの見通しこそ、天野さんたちの研究を支え続けていた。

 展示会場の赤崎さん出演のビデオによると、赤崎さんは京大での学生時代はあまり勉強熱心ではなかった。そのかわり、信州などで山登り、登山に打ち込んでらしい。このことが登るべき明確な目標、山頂に至るまでのルートや見通しをつけるという行動習慣を身につけていったらしい。

 これが後の研究と開発にずいぶんと役立ったらしい。

 Image2053 蛍光灯よりも格段に効率よく発光する半導体を探すという発光効率性と、その発光の色も、無限の可能性を秘めた青色性

とが両立する技術の開発。これが挑戦だった。

 そのブレイクスルーとなったのが、天野さんたちの研究

 低温バッファー層技術

だったという。サファイア基盤の上に直接、青色半導体を結晶化させるのではなく、低温層という緩衝ゾーンを設け、その上に半導体を載せる。その解説が展示コーナーにあった( 写真左上 )。

 今回の展示コーナーにはなかったが、静岡市で開かれた先日の新年会で、天野さんは

 この技術開発では、若き日(20代の大学院時代を含めた1980年代)には、仲間とともに

 1500回の実験に明け暮れた

との趣旨の苦闘を語っていた。

 この話を聞いて、ブログ子は、

 そんなことをしても「どうせ」というナマケ心からはブレイクスルー(突破口)は開かれない

という感想をもった。

 つまり、天野さんの言う

 最後まで、やりぬく力

というのは、具体的にはこの「1500回の実験」のことをさしてのことであろう。それには、明確な目標と、登頂に成功した暁には、周りの山々の頂を一望に見渡せる無限の可能性があるという明確な信念と見通しが必要だろう。

 こう考えると、天野さんの受賞が、赤崎さんという恩師に恵まれたことは別として、幸運とばかりはいえないだろう。

 その意味も込めて、以下に、天野さんが記念展示に寄せた色紙をあらためてかかげておきたいImage2060_2

  

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それでも地球は動かない 常識の魔力

(2015.01.05)  このブログは、常識を一度は疑ってみようというテーマでつづられているのだが、しかし、その反対に、というべきか、

 常識の魔力

というもののすごさも認めないわけにはいかない。それは、単に常識に従っていれば、人間、楽だ、安心だという以上に、合理的な理由がある。それは宗教的な理由というよりも科学的な理由といってもいいかもしれない。

 Image204420147_2 そんな事例が、お正月の暇つぶしに図書館から借り出して読んだ「日経サイエンス」(2014年7月号)の

 地動説への反論

   科学者が革新的アイデアに慎重な理由

という記事だ( 写真右 )。

 コペルニクスが死の直前に一大決心で革新的アイデアとして天動説に代わって地動説を書き残した。『天球の回転について』(1543年)である。それから150年近くたっても、つまり「それでも地球は動く」といったらしいガリレオの時代が過ぎ去っても、この地動説に否定的見解が、合理的な根拠の下に有力だったというもの。

 その内容を短く、一言で言えば、ニュートンの時代になっても、少なからぬ一流科学者が

 それでも地球は動かない

と確信していたというもの。

 なぜであろうか。

 ● 地動説の確立に300年

 それは、常識化した学説、ましてやそれまで1000年も信じられた定説にとって代わる革新的アイデアとして受け入れられるには、これまでの定説では説明できない確実な証拠やデータが具体的に提示されなければならないからだ。しかも、その証拠は、とって代わる革新的理論なら無理なく、自然に現象を説明できる。これが新学説が受け入れられる最低限の、つまり必要条件。

 ところが、太陽は動かず地球が動くのだという地動説はこの最低限の条件を当時満たしていなかった。たしかに、当時、格段に向上した惑星の天球上の公転の動きを示す観測データに、天動説はあわなくなっていた。

 しかし、当時これをうまく修正した大観測家、チコ・ブラーヘ(デンマークの天文学者)の

 修正天動説

で、十分補えた。この修正説は、太陽系の惑星は、地球を除いて、すべて太陽の周りを回っている。その太陽が、地球の周りを回っているというもの。これは、動力学的なことを別にすれば、つまり幾何学的には、

 地動説と同値

なのだ。だから、わざわざ常識に反する〝珍奇〟な地動説を持ち出さずとも、当時の精密な観測データを十分説明できた。

 これに対し、地球が動くと仮定する地動説には、致命的な欠陥があった。

 それは、地球が動くとすると、つまり、地球の自転によって見かけ上、天球が地球中心に回転しているようにみえるとすると、

 地球が自転している証拠としての、いわゆるコリオリの力

がなければならない。このことを実際に確かめる「フーコーの実験」が成功するのは、ずっとあとの1851年。この実験の根拠については、その前の1835年、フランスのコリオリが、コリオリの力が存在することを理論的に導き出していた。

 コペルニクスの時代はもちろん、ニュートンの時代になっても、この証拠を観測データによって提示することは、精密な実験が必要なことからできなかった。このことが科学的な根拠を示しての地動説を否定することになった。こうなると、地動説の否定はとても合理的なことといえるだろう。

 Image204820140107 左の写真は、浜松科学館にある常設の「フーコーの振り子実験」の様子。地球が自転しているために、吊るした振り子のおもりの先は、自転していないときのような垂直な真下にはとどまらず、その周りをわずかに円運動している。 

 さらにもうひとつ、地動説には致命的な欠陥がある。

 もし仮にコペルニクスがいうように、太陽の周りを地球が公転しているとすると、夜の星々の天体にはその公転に伴って星の見える方向に違いがあるはずであり、しかもそれはすべての星に共通して観測されるはずだ。

 しかし、そんな年周視差など当時は、あまりにその違いが小さくて見つけられなかった。この角度で秒以下のわずかな角度が見つけられたのは、ずっとあとのドイツの天文学者、ベッセルの時代だった(1838年、白鳥座61番星で発見)。

 ● 結論として

 以上から、

 地動説は提唱から約150年間は科学者の間で、科学的根拠がないことから、科学的な説としては認められていなかった。それが観測データをもとに科学者に受け入れられたのは、コペルニクスの死から約300年後の1850年前後。

 ただし、幾何学的にはそうなのだが、動力学的には、ニュートンの『プリンキピア』(1688年)の公刊によって、

 地動説が理論的に正しい

ということがほぼ決着、あるいは確定していた。観測的なデータにより、裏付けられるには、さらに150年もかかった。

 常識をくつがえすような革新的アイデアだからといって、すぐには、裏付ける証拠が入手できない場合、受け入れられない。革新的なアイデアは、まず定説を信じる科学者にとっては時として珍奇と映る。それが常識の魔力なのだ。

 ● 減速から加速膨張宇宙への転換

 このような出来事は、単に中世時代にかぎらない。

 現代にも起こっている。

 たとえば、宇宙は刻々と膨張している。しかし、それは、アインシュタインの理論によると、膨張しながら次第にその速度はゆるめながら拡大している。それはアインシュタインの理論の結果であり、宇宙論科学者のほとんどは、正しいとして受け入れている。

 ところが、この10数年、観測的宇宙論科学のおどろくほどの精密化で、

 宇宙はますます加速度的に膨張している

という観測事実が明らかになっている。これは現代宇宙論ではとても不思議な現象であり、これを説明する理論は、現在存在していない。

 コペルニクスが『天球の回転について』という革新的なアイデアを出したのに、なぞらえれば、いわば、現在は

 「宇宙の加速膨張について」という革新的なアイデア

を提唱する時期に来ているといえるだろう。つまり、

 ここには、宇宙論的な地動説ともいうべき

 現代のコペルニクス的回転

が求められている。もう少し立ち入って言えば、

 現代宇宙論には、

 宇宙というのは、わが宇宙だけしかないという常識的な思い込み

があるのかもしれない。このことを宇宙の加速膨張という観測結果は示しているのかもしれない。

 地動説が、予測性をもった正しい科学理論としてすべての科学者に受け入れられるのに300年かかった。

 現代宇宙論のコペルニクス的回転には、10倍のスピードで謎が理論的にも、観測的にも解明されたとしても、確実な証拠を示してとなると、あと数十年は新現代宇宙理論の確立にはかかることになる。

 すると2030年代ということになるが、さて、この予測は、当たるであろうか。

 宇宙のすべての現象を説明する大統一理論は、人類は永遠に手に入れることはできないだろう。しかし、この加速膨張宇宙の謎については、ブログ子が生きている間に決着がつくという可能性、あるいは幸運はギリギリあるような気がする。

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初笑い、条件付の無条件降伏 昭和天皇実録

(2015.01.03)  NHK紅白歌合戦の〝裏番組〟なのだが、年末のBSフジの「プライムニュース」が、

 昭和天皇実録

を3時間にもわたって取り上げていた。迎える新しい年、2015年が戦後70年の節目になるというので取り上げたらしい。さすがは硬派でなる産経新聞グループであると感心した。しかも現代史の専門家として、本格派の

 歴史学者、秦郁彦氏と、東大名誉教授、山内昌之氏

をゲストに迎えるという豪華さ。ほかの番組のようなオチャラケ番組とは一線を画する。

 その上で、言うのだが、初笑いかとも思える話が出た。

 番組の中盤、終戦のドタバタを読み解く話の中で、突然、

 日本はどのような形で、ポツダム宣言を受諾し、降伏をしたのか

ということが論じられた。

 ブログ子も、学校で、日本は連合国側の提示する無条件降伏を求めるポツダム宣言を受諾したと習った。のだから、当然、降伏というのは、

 無条件降伏

だと信じて疑っていない。教科書にも日本は無条件降伏をしたと書いてある。

 番組のキャスターも、この点を何度も強調していた。

 ● 無条件降伏にも2通り

 ところが、専門家の間では、この点では戦後いろいろと論議があるらしい。

 日本政府の公式見解は、「天皇制の護持」という条件付で、無条件降伏を求めるポツダム宣言を受諾した

というのだ。二人の専門家もこの点には同意していた。

 一方、連合国側の公式見解は、文字通り、

 日本政府は、ポツダム宣言通り、なんの条件もつけない無条件降伏を受け入れた

というのだ。この点でも専門家の意見は一致。

 おかしな話だが、無条件降伏には、条件付のものと、そうでないものと2通りあるというわけだ。専門家もこれに同意。

 とすると、当然のことながら、この折り合いはどうつけたのかというのが焦点となる。

 出演した専門家によると、アメリカ側は、

 日本が求めている天皇制の護持という条件については、その内容も含めて、(降伏占領後の)国民の自由意思に基づいて決定する

という妥協案(バーンズ案)で、国際法的な折り合いをつけたというのだ。

 その結果、占領下での日本人による日本国憲法の制定によって、天皇制の外形は残ったものの、主権者としての天皇制の内実は排除。代わって象徴天皇制が国民の自由意思によって〝護持〟されたというのだ。

 この場合、果たして占領下の当時の国民に自由意思があったかどうか、疑問もある。が、要するに、結果的にはつじつまが合うよう、それぞれの公式見解を、いわば足して2で割った無条件降伏で折り合いをつけた。

 はっきり言えば、象徴とはいえ天皇制をともかくも護持した。これは、終戦処理とその後の占領政策の整合性を、国際法上もっともらしくとりつくろうためのまやかしの結果なのだ。

 戦後70年にあたる2015年。降伏というのっけからこんな話なのだから、今後、この実録の公刊が行なわれれば、まだまだ、まやかし、笑い話、勘違いが出てくるだろう。

 いずれにしろ、戦争というものには、勝者であれ、敗者であれ、またどのような内容、形式であれ、しょせんそこには正義というものはない。

 番組を拝見して、そんな感想をもった。

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