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2つの市民科学をつなぐ              -  新著『科学・技術と現代社会』の実践

12_24_0 (2014.12.17)  高名な宇宙論研究者で、「科学と社会」の評論も手がけている池内了さんの長期連載に

 現代科学の見方・読み方

というのがある。

 もう20年以上も季刊誌「GRAPHICATION」(富士ゼロックス)に掲載されており、当初からブログ子は、楽しみにして読んでいる。それほど知られている雑誌ではない。だから、新聞などとは違って、著者の本心、本音が弱音とともに素直に屈託なく出ている。そこからは著者の変わらぬまじめな姿勢を垣間見ることができて、なかなか面白い。

 ● パブリックな市民科学に向けて

 連載のテーマは、その号の特集にあわせて、選ばれている。最新号 (9月号、写真上) のテーマは

 パブリックを問う

というものだった。そこで、連載では

 市民科学に求められること

について、論じている。冒頭は

 「この三月で大学を退職してフリーになり、しみじみと自分の人生を振り返っている。(中略。専門研究も評論活動も) いずれも中途半端なままで大した業績も残せなかったと思うと空しくなる」

と、ぼやいている。池内さんが取り組んだ専門研究、科学評論のいずれも、その内容について、少しは知っているブログ子としては、このぼやきを額面どおりには受け取れない。謙遜だろう。

 が、しかし、このぼやきのあと、評論活動について言うだけではなく

 「実際に市民科学者として見事な生涯を捧げた高木仁三郎の著作(『市民科学を目指して』(朝日選書)、『市民科学者として生きる』岩波新書)を参照しながら、市民の側に立った科学のあり方について考え、彼とは異なった市民科学の方向を検討してみたいと思う。」

と語っている。「科学と社会」について科学ジャーナリズムの側から長くかかわってきた者として、ブログ子も、

 問題解決型の高木流とは「異なった(もう一つの)市民科学の方向」

を模索していることに共感したい。理系の高木流に対し、対話不能の引き裂かれた「二つの文化」(C.P.スノー、「補遺」参照)をもう一度融合させる市民科学というアプローチである。池内さんは、この道を

 新しい博物学

と呼んでいる。新しい文化論といっていいかもしれない。

 ただ、この二つのアプローチが別々に歩んでいては、市民同士が互いに自覚的に世を治め、地域の市民同士の苦しみや悩みを解決し、心豊かに暮らすという市民科学の目的を達成することは、むずかしいだろう。

 池内さんは、最近、ライフワークともいえる浩瀚な

 新著『科学・技術と現代社会』

をものにした。総合研究大学院大学での講義などをまとめたものだが、既存の科学・技術の現状と、その過去についてさまざまな角度から検討を加えている。序章では、それらを集約する形で

 福島原発事故

を取り上げている。

 こうした既存の科学や技術に対抗し、市民の身についた形で自然に、この二つのアプローチをどのように収れんさせ、

 新しい市民科学のあり方

を実践していくのか。そう考えると、結果的に、この本は市民科学をめざすためのバックグランドを外観したともいえよう。

 ブログ子の結論を先に言ってしまえば、

 問題解決型と「新しい博物学」型の市民科学をうまく収れんさせるには、地域の問題解決をめざすパブリックジャーナリズムを介在させる

ということである。

 「科学と社会」を考えているのに、アカデミズムという閉じられた中だけの活動では限界があり、成功しないように思う。アカデミズムとは相性がよくないとはいえ、多様な視点をもつ社会の側からのパブリックジャーナリズムと組むのなら、そして、互いに市民だという当事者意識をもつなら、目指すところが同じであることもあり、むしろ自然に協調関係を醸成することができるだろう。

 この点について、ブログ子のこれまでの実践例なども紹介しながら、論じてみたい。

  ● 都市近郊の湖でシジミの再生

 先に、池内さんに共感したといったのは、ブログ子もまた6年前の60歳定年後、ジャーナリストとして言うだけではなく、研究者とともに市民の側に立って「科学と社会」のあり方について考えていたからだ。今、よりよい地域社会をつくるための実践的な活動がようやく軌道に乗り始めている。

 それは時流に超然卓立するという無責任さではなく、地域の切実な問題解決のためのパブリックジャーナリズムである。

 220140816cid_0a2c8f7709c34591a22c_2 たとえば実際に地域の湖、佐鳴湖(浜松市)に高校生ボランティアや地域住民とともに入り、絶滅したヤマトシジミをなんとか自然繁殖させて再生しようと、実験ハウスをつくって取り組んでいる。そこから都市近郊の小さな湖でシジミを再生するには「都市と湖」の関係はどうあるべきかが、浮かび上がりつつある。湖の健全性を持続させるには何が必要か。具体的にいろいろな分野の専門家を内部に取り込み、市民目線で環境について調査し、データをとる。それをもとに研究会で発表したり、高校生たちと考えたりしている。

 写真左上は、佐鳴湖シジミの自然繁殖適地を探す潜水調査の様子である( 左端がブログ子。2014年8月 )。

 最近では、毎年、地元大学の先生とともに近くの中学校の総合学習の時間に湖について出前授業もするようになった。実験も行なう湖畔授業である。地域の中学校の文化祭にも、シジミの水質浄化能力の高さを目に見える形で示そうと生きたシジミを持ち込む。そのことで中学生とともに地元のわが町の湖のあり方を考えてもらっている。

 ボランティアをしてもらっている高校へは、生徒たちが取り組んでいる卒業課題研究の選択やその仕方、あるいは成果発表について、具体的で突っ込んだ議論になるよう、こちらからも出向く。時には辛辣に、あるときは愛情をもって意見を述べたりもしている。

 シジミだけでなく、湖の野鳥、魚などの調査をしている倶楽部や仲間も集まり、毎年2月ごろ佐鳴湖交流会も開かれるようになった。湖の湖畔にある浜松市博物館(縄文人の捨てたシジミやアサリ殻の貝塚も管理している)からは、学芸員が佐鳴湖の名前の変遷、周辺地質の変遷などについて市民にその成果を解説するなどしている。しかも、毎年、発表の幅がさまざまなテーマにまで広がってきている。

 さらには、ハウスで育てたシジミの料理レシピづくりを料理研究家に依頼。それをもとに市民向けのメニューづくりも湖畔近くのコミュニティレストランで始まろうとしている。このような「おいしいプロジェクト」は、市民に都市近郊の湖の役割について具体的に関心を持ってもらう試みの一つである。

 湖の健全性は、湖に対する周辺住民のたえざる関心なくしては維持できないという意識が周辺住民に自然と受け入れられるようになってきた。行政頼みから、自分たちが積極的にならなければというように意識が大きく変わりつつある。

 ● 外部の目を取り入れる    

 さて、池内さんがめざそうという冒頭の「彼(高木)とは異なった市民科学の方向」とは、

 理系と文系を融合した新しい博物学

のことだろう。 

 それでは、その市民科学とは何か。そこで求められるものとは何か。これについて、池内さんの言わんとするところをまとめると、高木流の市民科学とは

 主として科学や技術のかかわる社会問題を、実践を通じて、そして自らも一市民としてそれぞれの専門性を批判的に生かし、その解決の道を探ること

ということになろうか。言い換えれば、政府の都合という既存の上から目線に代わり、市民の都合という目線からのアプローチが研究者に求められるということだろう。

 この考え方は、先にザッと紹介したブログ子たちの取り組みと大筋で方向性は同じであると考えられる。

 あえてその違いを言うとすれば、ブログ子たちは、よりよい「科学と社会」の関係を築くために、市民科学とパブリックジャーナリズムの融合を目指している。シビックジャーナリズムとも言うが、そこにはジャーナリストも一市民であるという意識があり、この二つには親和性がある。

 そこには、従来、「公の」という意味にとらえられている

 パブリックとは何か

という新たな問いかけがある。成熟社会においては、それは決して国家や政府の政策だけを意味しない。市民の参加による「新しい公共」というものが、「公」と「私」の間にあるというわけだ。

 このことを、この9月号の特集、とくに冒頭の対談「知の交差点」- 政治と公共性についてが、教えてくれていた。

 それをまとめると、

 パブリック、つまり市民参加による「新しい公共」の視点に立つということは、つまるところ外部の視点を取り入れることである。そこでは市民の間で行なわれる意見交換や意見形成がより重要となる。その利点は、議論を通じて共有するようになった規範や理由は国家の法や政策を評価するためのよりどころになる

ということである。これはまさに、上から目線のみせかけの公平・中立から抜け出すことであり、公正さを貫こうというパブリックジャーナリズムの目指すところとも一致する。

 そこで問題になるのは、市民科学がパブリックとなるためには、

 第一に、一市民でありながらも外部の目として研究者側にどのような意識が必要であるかという点、

 第二に、一市民でありながらも外部の目としてジャーナリスト側にどのような意識が必要なのかという点

である。

 第二については、従来のそらぞらしい公平・中立という名の、時流に超然卓立する主義では、およそ「新しい公共」に資するとはいえない。これは自明であろう。ではどうするか、については、後述する。

 ● 超然卓立をこえて 科学者の評価

 まず第一について。

Imgp6639  外部の目としての研究者の評価のあり方について、池内さんは、従来の超然卓立ともいうべき論文第一主義をこえて、新しい4つの具体的な評価基準を

 浩瀚な新著『科学・技術と現代社会』= 右写真

で提案している。

 それは、こうだ。

 第一。科学者は、さまざまな場で市民に科学を伝えているか。

 第二。科学者は、「等身大の科学」の具体的な試みを市民とともに実践しているか。

 第三。科学者は、シンクタンク的役割を果しているか。

 第四。科学者は、市民のための科学研究所を設立して、相談に応じているか

の4点である。

 第一については、ブログ子は、定年後は浜松科学館でシニアサイエンスボランティアをしているのが、その実例だろう。

 第二の「等身大の科学」とは、普段の生活の中でできる科学のことである。ブログ子たちの活動でいえば、年4回、市民を対象にした佐鳴湖の水質調査などがそれだろう。

 第三については、ブログ子たちの佐鳴湖シジミプロジェクト協議会(会長は静岡大学工学部大学院准教授)は、「浜名湖をめぐる研究者の会」(浜めぐ、東大農学部大学院附属弁天島水産実験所)に所属し、活動しているのが一例。

 私たちのメンバーには、生物免疫が専門の元東大教授(高木仁三郎基金「市民科学研究助成」選考委員)がいる。最近の市民のための「浜めぐ」発表会では、福島原発事故について、

 放射能汚染のコイ免疫系に及ぼす影響

について、福島住民とともに調査した結果を論文として発表している。このようにあちこちの研究会に出向いたり、発表したりしているものの、まだ、独自でシンクタンクの役割を果しているといえるまでには至っていない。

  シジミプロジェクトの参加メンバーには、ほかにも生物系、環境工学系の工学博士、理学博士、技術士など7、8人が活動している。ので、第一線の科学の成果を独自の視点から市民科学を地域に根付かせることは可能であるように思う。現在行なっている内部勉強会のあり方を開かれたものにする、ネットワークの強化などの工夫が、第四の目的のためにも今後の課題だろう。

 ● パブリックジャーナリズムとの親和性

 外部の目としてのジャーナリズムについて。

 池内さんのいう、研究者の新しい4つの評価基準をこのように具体的に考えてみると、そこには、パブリックジャーナリズムと、地域の問題解決のための市民科学との間には、お互いが補完しあえる親和性のあることがわかる。

 そもそもジャーナリズムとは

 ① よりよい社会をつくるために、

 ②  同時代におこっているありきたりではない出来事を、

 ③  批判精神をもって価値判断し、

 ④  その結果を5W1Hのニュースとして、

 ⑤ あるいはニュースにひそむ問題点を評論として

  ⑥  より早く、

 ⑦  より正確に、

 ⑧  より公正に、

 ⑨  社会に伝えていく、

 ⑩  言論活動

のことだからである。ここでのポイントは③の、批判精神をもって価値判断し、という点と、⑦の、より公正に、という点にある。

 パブリックジャーナリズムでは、③を

 市民参加による「新しい公共」の視点から批判精神をもって価値判断し

と言い換えればいい。既存の中立主義とは異なり、市民目線のジャーナリズムのこの議題設定の機能が、問題解決をめざす市民科学との親和性を生み出しているのだろう。

 ● 問題解決のための「新しい博物学」

 Imgp5980 かつて、ブログ子は、日本科学技術ジャーナリスト会議から

 求められる新しい科学ジャーナリスト像とは何か

と問われたことがある。これに対し、

 「被害を未然に防止したり、被害者や弱者の救済に活動を役立てたりするために、今後起きるであろう結果の的確な予見性であり、(科学的、合理的な)根拠を示してその内容を社会に警告していくことである」

と回答したことがある(『科学ジャーナリズムの世界』日本科学技術ジャーナリスト会議編、2004年、化学同人)

  おかしなことだが、従来、アカデミズムとジャーナリズムとは必ずしも相性は良くなかった。むしろ断絶していたというべきかも知れない。しかし、市民科学とパブリックジャーナリズムはとてもよい親和性があることに注目したい。

 社会をみる目をもった研究者、科学・技術の素養を身につけたジャーナリストという補完関係がそうした親和性を生んでいるようにみえる。

 パブリックジャーナリズムと市民科学が互いに協力し、地域の問題を取り上げる。そこから、「科学と社会」のこれまでとは異なる新しい関係、つまり

 問題を解決するための「新しい博物学」

という新しい市民科学が生まれてくるのではないか。市民をはさんで、自らも当事者意識を持ったアカデミズムとパブリックジャーナリズムの登場である。

 ブログ子のこれまでの取り組みから、二つの市民科学が収れんした

 あたらしい市民科学

にそんな大きな可能性を感じている。

 これが、池内さんの長期連載や新著にいだいたブログ子の感想である。

 ( 最下段の写真 = ブログ子も参加した「親子で楽しむ微生物の顕微鏡観察会」、浜松科学館、2014年10月 )。

 ● 注記 パブリックジャーナリズム

 パブリックジャーナリズムの具体的な実践事例の参考として、

 『シビック・ジャーナリズムの挑戦 - コミュニティとつながる米国の地方紙』(寺島英弥、日本評論社、2005)

を挙げておきたい。

 ただ、パブリックジャーナリズムには、非中立主義の弊害など大手メディア側からの根強い批判も少なくない。これに対しては、たとえば、幅広く異なる意見を求める市民フォーラムの開催など、外部の目を入れて合意形成を図るという「新しい公共」の視点を堅持することが、独善に陥らないためには大事であろう。

 「赤勝て、白勝て」の無責任な中立公平主義でも、さりとて思い込みの独善でもない。そんな「科学と社会」の関係を、アカデミズムにおいてもジャーナリズムにおいても模索したい。現代社会の科学・技術の部門でのその取り組みは、そのさきがけ、お手本に比較的になりやすい分野ではないか。

 ● 補遺 『二つの文化と科学革命』

 このスノーのリード講演とその批判、そして再考察については、

 『二つの文化と科学革命』(みすず書房、初版1967年)

に詳しい。文系と理系のぶつかりあいこそ、創造の機会をつくりだすであろう、と説いている。二つの文化の分離をなくするには、当時のイギリスの高等教育制度を根本から改革する必要があると主張し、知識人に大きな反響を巻き起こした。

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