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座頭市の目、生物の目

(2014.11.09)  偶然に見たのだが、先日、BS朝日で

 「座頭市」(監督・脚本北野武、原作=子母沢寛。2003年)

という映画をやっていた。そして、驚いたのだが、座頭市というのは、勝新太郎のはまり役だったと思っていたのに、この映画は、

 ビートたけし

だった。異色のヒーローが仕込み杖で、悪をバッタ、バッタと痛快に切りまくるというのは同じ。いわば

 必殺 座頭人

という面白さがあった。

 ● ビートたけしの「座頭市」

 映画の終盤にさしかかるまでには、数十人の「悪」をそれこそ、問答無用のめった切り、根こそぎ血祭りにしていた。それだからか、テロップに、凄惨なシーンがありますという趣旨の注意も出ていたくらいだ。いかにも北野武らしい凄みがあった。

 それぐらいしなければ、とても勝新座頭市にはかなうまいとも思った。

 ところが、最終盤では、様相がガラリと変わった。

 大勢の民衆が祭りだいこにあわせてタップダンスをするのが、ラスト。

 エンターテインメントの演出だが、驚いたのは、そのラストのラスト、盲人座頭市役のビートたけしが、ちょっとこっけいな声色で、こういったのだ。

 (私のような盲人が)「いくら(こうして)目ん玉、ひんむいても、見えねえものは見えねんだがなあ」

と。ものをみるというのは、何も目ん玉だけではないのだといいたかったのだ。耳を澄ますと空気の音が聞こえてくる。空気だけでなく、その場の気配でものがみえてくることもある。目明きは、それに気づいていない。

 そういっているのだ。目明き中心主義批判といってもいいだろう。

 鬼才の面目躍如の映画だったが、ふと思った。

 この座頭市の目、生物にもあてはまるのではないか

と。人間中心主義の愚かさを、この映画はからかっているのだ。

 これは、世の常識を疑うことをテーマにしているこのブログにとって大変に重要な指摘であると思う。

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