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自らもデータと実験の時代  - 科学報道の新しい可能性 

(2014.10.15)  今年の科学界の重大ニュースでは、STAP細胞騒動は確実に上位に位置づけられるであろう。この悪い意味のニュースは、ひょっとすると、青色発光ダイオードで日本人3人が今年のノーベル物理学賞を独占したという、うれしいニュースよりも上位かもしれない。

  STAP騒動はそれほどの衝撃があった。

● STAP騒動の何が問題なのか

 その衝撃度のなかで最も深刻だったのは、論文中の多数の写真の使いまわしなど、ねつ造、でっち上げの事実が研究者、あるいは科学報道にたずさわるマスメディア界からはまったく指摘されてこなかったことだ。なのに、一般の人の間からは論文発表とほぼ同時に「おかしい」との声が次々と上がったという事実は、異様だった。

 それどころか、マスメディア界では、論文絶賛一色だった。いかに科学ジャーナリズムには自律性がないか、またその裏返しである科学者依存体質が染み付いているかが、このことからもわかる。Image1984 もっと広く言えば、マスメディア界は、発表ジャーナリズムに浸りきっている。

 福島原発事故でも、科学報道はずっと戦後一貫して、根拠薄弱な「安全神話」を振りまいていた。政府や電力会社の太鼓持ちだったことは言うまでもない。

 これに対し、科学報道はどう変わるべきかという大特集を組んだところもあることは、以前のこの欄で紹介した( 右写真= 「Journalism (ジャーナリズム) 」2014年8月号 )。

 ここで高名な科学史・科学哲学者の村上陽一郎氏は

 「メディアは専門家からの過度な働きかけに対して合理的に対応できるだけの見識を備えよ」

という長ったらしいタイトルのトップ論考を書いている。

 その通りなのだが、問題は「見識を備えよ」というが、日々のスクープ合戦のなかで、具体的にどうすれば見識を備えられるのかということである。

 記者クラブで出されるニュースリリースの引き写しである発表ジャーナリズムが堕落であることは記者たちにもよくわかっている。起きてから騒ぎ立てるセンセーショナルなジャーナリズムがいかにも愚かであるかということも自覚している。いつの間にか問題がうやむやになる尻切れトンボジャーナリズムが報道の欠陥であることも、もちろん承知している。

 夜討ち朝駆けの古臭いスクープ合戦から科学記者はこの環境からどう抜け出したらいいのか、それが具体的にわからないのである。

 Imgp5839200604 宵越しのニュースは持たない

というその日暮らしのヤクザ商売さながらの体質からどう抜け出したらいいのか、それがわからない。

 そんなことから、アメリカでも、この10年、たとえば右写真のように

 「回復不能」に至る米ジャーナリズム

というような解説記事まで頻繁に出される始末なのだ( = 3万人のための情報誌「選択」2006年4月号 )。 

 ● アメリカから 活路のデータジャーナリズム 

 そんな折、BS1で

 メディアの明日 データジャーナリズム

という番組が先日10月13日夜放送されていた( シリーズ3回目、左下写真 = 右端がデジタルメディアに詳しい藤代裕之法政大准教授 )。

 この10年、ネット、地上デジタル放送などデジタル技術の急速な進展で、今、米ジャーナリズムにどのような環境変化が起きているのかということを取材したドキュメンタリーである。テレビはデジタル化されたが、伝え手の記者たちの頭、意識は相変わらず昔のままのアナログでいいのかという問題意識である。これでは回復不能なのも無理はない。

 Imgp5827_2 ところが、アメリカで起きている現実についての結論を先に言えば、回復不能どころか、急速に活況を呈し始めているというのだ。

 こうだ。

 番組では、「プロパプリカ」の取り組みを紹介していたが、記者の問題意識にしたがって、質や目的の異なるさまざまな公開データ群のなかから必要な情報を検索し、その解析が自社でできるよう独自のプログラミング技術を解発し、導入している。

 その実践内容を一言で言えば、記者の持つ問題意識にそってすでに公開されているデータから収集、そこから新たなデータを自ら生産する、いわば

 データジャーナリズム

の台頭である。

 記者自身がプログラミング言語を身につけ、市民が判断できるよう、わかりやすい形でデータを読者に提供するジャーナリズムである。つまり、どこからか特ダネをどこよりも早く取ってくるスクープ合戦ではなく、自らわかりやすく料理したデータをあらたに生産し、提示する。

 視点の提示ではない。判断する、あるいは問題解決のためのわかりやすいデータの提示である。

 こうした取り組みが進んでいるのは、情報のデジタル化の進んでいるアメリカだけではない。アルゼンチンの「ラ・ナシオン」でも、権力を監視する、あるいは巨悪をあばく強力な武器としてデータジャーナリズムが急速に進んでいる現状も紹介されていた。

 そこではデータ入力で市民ボランティアが協力するなど一般市民も巻き込んでいる点が注目される。権力の監視や巨悪に立ち向かうには、メディアだけに任しておけばいいというような他人事ではなく、わが事として真剣に問題に向かう意識なくしては事はならない。

 ボランティアの参加は、経費節減策ではない。広く問題への関心を高めるための手段なのだ。この意味では、地域のコミュニティとかかわり、主体的に問題解決に参加するパブリックジャーナリズムの一分野ともいえよう。

 ● ジャーナリズムの科学化

 いずれのケースでも、解析されたデータをほかのメディアも自由に使える

 解析データの共有化

がすでに始まっていた。

 こうなってくると、夜討ち朝駆けのアナログ記者というイメージは消え、

 プログラミングのできる記者、解析能力を身につけた記者、そして問題意識を持った記者

というのがこれから求められるジャーナリスト像ということになりそうだ。靴底をすり減らして足で稼ぐ記者から、頭脳と指先で稼ぐ記者像へ、今、

 ジャーナリズムのデジタル化

はその環境を否応なく大きく変えようとしている。このことが、番組から強く伝わってきた。

 どう変わるのか、予測はなかなか難しいが、一言で言えば、

 これまでのように主として人に取材するから、データへも取材する

という変化であろう。

 従来も、これからもジャーナリズムの本旨は権力の監視、巨悪をあばくことにある。その場合、情報のデジタル化にふさわしい、つまり情報の受け手、読者が当事者意識をもてるような伝え方の時代に、ジャーナリズムは入ったといえるだろう。

 裏を返せば、小回りの効かない大手メディア、あるいはそこで働く〝おじさん記者〟たちにとって辛い時代が始まろうとしていると言ってもいいだろう。

 以上をまとめると、データジャーナリズムとは

 問題意識にそって仮説を立て、それを証明するために、つまり、問題解決をするために、デジタル技術を駆使し、既存公開データ群から自ら新たなデータを掘り起こすというデータ取材をし、それを社会にわかりやすく提示する言論活動

ということになる。この意味で、データジャーナリズムは実証科学の一分野であることを目指しているとも言える。

 こう考えると科学ジャーナリズムはその先駆けとなれる分野であろう。

 ● 東北大震災から 実験ジャーナリズム

 Imgp5789 こうしたデータジャーナリズムをより積極的に、というかメディア側がより能動的に問題解決のために駆使しようという取り組みが

 専門家と組んだ実験ジャーナリズム

の試みである。

 この件では、日本は福島原発事故を契機に世界に先駆けているように思う。

 たとえば、

 NHKシリーズ「メルトダウン」(2013年3月総合テレビ放送)

である。この欄でも逐一紹介したが、原発事故の調査資料をもとに関係者の証言インタビューや、原子炉設計者や放射能などの専門研究者とNHKがチームを組むことで事故の深層に迫るシリーズ。事故の原因を推定し、仮説を立てる。それだけでなく、実験装置を組み立ててて、実際にシュミレーションし、仮説の検証までジャーナリズムが関与していた。

 これは、いままでなら尻切れトンボで終わるのに、事故後も原子炉で何が起きていたのかという問題にメディア自身が関わる、

 いわば実験ジャーナリズムである。

 この点をいち早く指摘したのが、ジャーナリストの田部康喜氏である( 写真 )。

 ●日本ではメルトダウンの原因解明で

 本来、こうした原因に関する再現実験は日本原子力学会が事故報告書作成の前提として行なうべきことだった。が、それを学会が安易に放棄したことにともなってメディア側が積極的に乗り出したことからできた成果だった。

 その結果、メルトダウンはどのような原因で起き、どのように進行していったのか。このことを具体的に解明することは、事故の再発防止には絶対に欠かせないものだ。この点については、従来は

 冷却できなくなった核燃料は燃料自体がもっていた崩壊熱で融けたと説明されている。しかし、最近では複数の原子炉設計者や研究者から、

 核燃料を溶かしたのは燃料自体ではなく、燃料をおおっている被覆管のジルコニウム合金と水の化学反応で生じた熱によってメルトダウンが起きた

とする重大な指摘が出ている。

 Image2017 たとえば、日本原子力研究開発機構上級研究主席だった田辺文也氏(指摘は著書『メルトダウン』(岩波書店、2012) = 写真)や日本原子力開発研究機構の前身、日本原子力研究所の元東海研究所副所長の石川迪夫氏( 著書『考証 福島原子力事故炉心溶融・水素爆発はどう起こったか』で指摘 )

  こうしたことやメディア側の積極的な実験検証を受け、日本原子力開発機構は、最近、

 冷却できなくなった炉心の溶融過程を検証する実験

に着手した。これは事故再現のシナリオに異論が出ているからだろう。

 実験ジャーナリズムにもさらにこうした検証実験に、密着した取り組みが期待されるのではないか。  

  ● 「公平中立」こえ実態あばく 凋落から再生へ

 これまでのメディア、とくにどの新聞では超然卓立

 公平中立

を旨としている。しかし、何度もこの欄で指摘したように、このもっともらしい不偏不党主義は部数拡大のためのものにすぎない。「赤勝て、白勝て」では真実を暴き出すのは、よほど難しい。問題解決するためには、公平中立では限界がある。

 データジャーナリズムや実験ジャーナリズムには、公平中立をこえ、巨悪をあばいたり、真相をあぶりだす大きな可能性を持っているといえるだろう。

 一言でいえば、公平中立の無責任な時代から、自ら客観データを提示したり、仮説の検証をしてみせる時代に入ったといえるだろう。

 その意味では、デジタル化や実験化でジャーナリズムは日本でも

 凋落の時代から再生と活況の時代

に入ろうとしているのではないか。

 Imgp5841_2 かつて、今から30年近く前、

 ジャーナリズム危機の中の客観報道論争

というのが起きた(「新聞研究」1986年)。戦後、ジャーナリズムが危機に陥るたびに客観報道とは何かが論争となっていることは、

 『客観報道とは何か』(中正樹、新泉社、2006 = 写真右)

に詳しい。

 そして今。かつての客観報道論争とは次元の異なる

 デジタル化時代における客観報道のあり方論議

が必要なように思う。

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