再論 春樹氏はなぜ文学賞をとれないか
(2014.10.09) 昨年のいまごろも、村上春樹氏はなぜノーベル文学賞を取れなかったのかというテーマでブログを書いた。書いたのだが、その後しばらくして、これを読んだある若い女性の春樹ファンからこっぴどく反撃され、ほとほと困ったとも書いた。
ブログ子の主張が正しいかどうかは、次の発表でわかると「捨て台詞」風に書いた。のだが、案の定、今年も受賞しなかった。
● 取り巻きが障害に
しかし、だからといって、春樹文学の表現方法の独創性は認めるが、作品のなかに出てくる「謎」のなかに含まれているはずのメッセージ性が不明確というブログ子の指摘は正しかったとまでは言わない。言わないが、今年もかまびすしい「文学賞なるか」という発表直前のメディア騒ぎ( 写真= 10月7日付中日新聞 )を見ていると、
取り巻きのミーハーファンがなくならない限り、受賞はムリ
と強く感じた。ひいきの引き倒しになっていて、さらし者の春樹さんが、ちょっとかわいそうな気がしないでもない。もっと辛らつに言えば、
このままでは、ひいきのひき殺し
になりかねないのだ。
● 思わせぶりな「謎」
同時に、春樹氏も、思わせぶりに「謎」にもったいをつけるだけでなく、その中身をきちんと文学的に昇華した形で表現することが、受賞には不可欠だろう。このことは春樹ファンを覚醒させるのにも役立つはずだ。
独創性に優れているだけでは、アンパンマンのやなせたかし氏にも、宇宙戦艦ヤマトの松本零士氏にも、すでにおよびがかかってもいいはずだ。が、いっこうにそんな風はない。
それとも、ひょっとすると、ノーベル文学賞の古い体質の選考基準と村上文学の新しい表現基準とは大きくズレているのかもしれない。つまり、ノーベル賞の評価基準は社会性とか、歴史性という現実との苦闘を評価において大事にする。これに対し、村上文学はそれらが希薄というズレだ。希薄というか、「謎」かけでごまかしている。そんな気がする。
それはともかく、何につけても、とかく取り巻きというのは、傍若無人で厄介なものだ。
今回も、そのことを痛感する。
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