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沖縄のこころ、日本の心 

Imgp566520141004_2 (2014.10.06) 今年開館して20年になる硲伊之助美術館(はざまいのすけ、石川県加賀市)が記念のリサイタル&講演会を開くと親しい友人が知らせてくれた。

 開館時以来というから、ずいぶんと久しぶりなのだが、同美術館で開かれたそのリサイタルと講演会に先日、浜松市から出かける( 写真上 = 和風建築の硲伊之助美術館。右端の青い服が色絵磁器画工、海部公子さん)。

 リサイタルは、沖縄出身で世界的なオペラ歌手、翁長剛(おなが つよし)さん、講演は元沖縄県知事の大田昌秀(おおた まさひで)さん。共通のテーマは

 沖縄のこころ

だった。

 ともに協力して美術館を運営する館長の硲紘一さんや伊之助氏に師事していた海部公子(あまべきみこ)さん。彼らを慕う地元ファンや、全国から駆けつけた300人近い参加者が、木造の高い天井に渡された美しい梁の下で歓声と喝采の3時間を過ごした(プログラムは左下。ダブルクリックで拡大)。

 ● なぜ演歌「函館の女」か

 結論を、少し硬い言い方で先に言ってしまえば、

 沖縄のこころとは「日本人になりたいのだが、素直にはなり切れない」(大田氏)という、日本人に対するうらみとも、もどかしさともいえる心情

ということだろう。

 Imgp567820141004 このことを、やわらかく参加者の心にしみこむように訴えた、いわば軟派的に歌い上げたのが、翁長氏。沖縄激戦地に想いを寄せた有名な「さとうきび畑」や、イタリアオペラ「泣かない君」の後に、ちょっとしたパフォーマンスとして、最後に突然

 北島三郎の演歌「函館の女」

をやおら上着を脱いで、笑顔で歌った。

 歌詞「はるばるきたぜ函館へ」の出だしに、会場は爆笑と大喝采につつまれた。沖縄のこころが日本人の心に届いた瞬間だった。なぜなら、この歌の中の「函館」を沖縄に言い換えれば、歌はそのまま沖縄の人々が本土日本に悲しいほどに期待する

 日本人の心

になるからだ。翁長さんは、同じように海に隔てられている函館に対してはできて、なぜ沖縄にはそれができないのかと訴えたかったのだろう。

 以下、この結論に至った理由について、いくつか具体的に語ってみたい。

  ( 写真右上 = 開催の趣旨を述べる硲紘一館長(マイクを持つ右端) )

 ● イタリアの歌「泣かない君」

 10_05_0_2 硲伊之助さんの絵や九谷焼が飾ってある会場のステージに最初に立ったのは、翁長ご夫妻。奥様は巧みなリサイタル司会で会場を盛り上げた。

 オペラ歌手が本場のイタリアの歌オペラをイタリア語で歌うのは当たり前なのだが、今回のプログラムには

 「泣かない君」(L.ボヴィオ作詞、E.デ・クリティス作曲)

というのがあった。プログラムによると

 「何と美しい今夜の山、白い月明かりに包まれ、いったい君はどこにいるのだろう。僕のために泣いてくれない君が、僕を泣かせる」

というもの。いかにもドンファンの国、イタリアらしい。司会の翁長照子さんの解説によると、夫、剛さんがとても好きな歌。そんな「失恋の歌」(照子さんの言葉)のどこがいいのだろうと、歌を聞きながら思っていた。のだが、この歌の歌詞で気づいた。

 泣かない君というタイトルは、泣かない本土日本人という意味の謎かけなのだと気づいた。

 そして、上記の歌詞の「僕のために泣いてくれない」の僕とは沖縄のことであり、次の「君が、僕を泣かせる」の君とは本土日本人と言い換える。そうすれば、この歌はまさに、沖縄の人々の日本を恋しく思うが、振り向いてくれない

 失恋の歌

ということになる。うらみも含んだ「沖縄のこころ」がここにある。だから、歌った翁長剛さんも好きなのだろう。そのことを声高に言わないというところが、いかにも芸術家らしい。

 そして、翁長さんは、最後に演歌「函館の女」を上着を脱いで歌った。

 「見果てぬ夢と知りながら」「一目だけでも会いたかった」と、そのせつなさを〝熱唱〟。しかも、三番まで歌いきった。その間、顔は笑っていたが、心の中では泣いていたのではないかとも思う。

 ● 差別の北緯30度線をこえて   

 Imgp568920141004 しかし、次に壇上に立った元沖縄県知事(現在は沖縄国際平和研究所理事長)の大田さんは、冒頭の結論で述べたような「沖縄のこころ」の鬱積について明確、かつ具体的に話してくれた(写真右 = 奥の絵は伊之助作油彩「パオロ君」、1952年)

 沖縄地上戦のあった戦争末期、戦後70年近い過酷な沖縄の現実を踏まえ、また自らの沖縄戦の体験を踏まえており、話には説得力があった。

 その訴えていたところは、 

 沖縄のこころといい、日本の心とはいっても、人の命はみんな等しく平等であり、尊さでは同じじゃないか。平和を願う気持ちも同じ。

 なんすれぞ、今もって「差別の北緯30度」を設けているのか

ということに、尽きるだろう。そんな壁など、その気になれば、すぐにも越えられるではないかというわけだ。

 差別の北緯30度というのは、日本本土は屋久島、種子島まで。それより南の奄美大島や沖縄本島は南西諸島であり、(大和民族とは異なる)琉球民族という差別意識のこと。

 この差別意識によって「沖縄県民は人間扱いされてこなかった。物扱いされてきた」(大田氏)といううらみ節を醸成してきたとも講演で話していた。この差別意識こそ、日本人になりたいのだが「日本人になりきれない」正体なのだ。

 差別の実態として、大田さんは、戦前の明治憲法下でも沖縄は差別され、戦中も差別され、戦後の日本国憲法下ですら沖縄施政権が返還される1972年までの24年間差別され続けてきたと具体事例を挙げて、強調する。戦争末期の慶良間諸島の住民集団自決もその具体例である。

 だが、そうしたしいたげられた歴史を持つだけに、沖縄県民は人権を大切にしよう、憲法を守ろうという意識は強い。観念ではない経験に裏打ちされた「命こそ大事」という皮膚感覚も鋭いという。

● 芸術と政治の共鳴

 Imgp569220141004_3 しかし、普天間基地の辺野古移設を焦点とする来月11月の沖縄知事選挙を前に、沖縄独立論すら沖縄では再び聞かれるようになっているという。このままでは、だれを知事にするかという本土と沖縄の確執の中で、さらにはせめぎあい、軋轢の中で、あるいは

 流血が起きる可能性もある

と太田さんは強く危惧する。 

 その真意は、戦後ずっと繰り返してきた沖縄に対する差別意識を再びここでも繰り返すようなら、という意味だろう。

 大田昌秀さん、88歳。沖縄のこれからの未来については多くを語らなかったが、

 老兵はいまだ去らず

という印象を強く持った。 

 美術館という色彩の調和空間で開かれた今回のリサイタルと講演会には、軟派と硬派の絶妙なハーモニーがかもし出されていた。

 もっとはっきり言えば、芸術と政治の響きあい、共鳴があった。

 ● 過去に目をつぶる者は

 しかも、そのハーモニーや共鳴にはおしなべて哀調を帯びていた。このことが、今焦点となっている基地移設問題に限らず

 戦後の日本全体をもう一度考え直す新たな機会

をブログ子に与えてくれたように思う( 写真右は、しめくくりのあいさつをする海部さん )。

   過去に目をつぶる者は、

          未来に対しても盲目である

    -  R.ワイツゼッカー  ドイツ連邦議会演説( 補遺2 )

  Imgp569020141004

Imgp566120141004

( 美術館に隣接して建つ九谷吸坂窯工房兼住居。約350年前の古九谷窯跡近くにあった民家を移築したもの。いずれの写真も、ダブルクリックすれば拡大できる )

 ● 補遺 井上ひさし「木の上の軍隊」  2015年1月5日記

 沖縄の心というものが、どういうものか、翁長さん、大田さんそれぞれが歌ったり、語ったりしたのだが、実は、演劇でも、

 沖縄のこころ

を上演したものがあることを、つい最近知った。亡くなった劇作家、井上ひさしさんの遺作

 「木の上の軍隊」(BSプレミアム)

である。本土出身の上官と、沖縄出身の新兵ふたりが、終戦を知らないまま2年間、沖縄の小島の木の上で米軍の動きを監視しながら生活したという実話をもとにした芝居(こまつ座)である。2014年春に上演されたもので、小島というのは、実話では沖縄本島からすこし離れた伊江島のこと。

 芝居の最後で新兵(藤原竜也)が、上官に向かって

 「(本土に)守られているはずなのに、(それに)おびえ、おびえているのに、信じようとする」

というせりふをぶつける。

 「にくみながら、信じる。信じながら、にくむ。もう、(沖縄の心は)ぐじゃぐじゃなんです」

というのもある。これに対し、上官のほうも

 「2年間、お前(新兵)を理解できなかった。それがしんどかった」

という心情を吐露している。

  しんどいテーマを、深刻ぶらずにおもしろく演じていたと思う。

 知ったのだが、井上ひさしさんの信条は、

 むずかしいことをやさしく

 やさしいことをふかく

 ふかいことをおもしろく

 おもしろいことをまじめに

というのだそうだ。その通りのまじめな公演だったと思う。

  ● 補遺2 ワイツゼッカー死去 2015年1月31日 記

  このワイツゼッカー演説について、ある読者から次のようなコメントが寄せられた。

 ナチスドイツのユダヤ人大量虐殺に対する深い反省の演説として有名だが、この言葉は正しくは、 

 過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目である

というものではないかという指摘(戦後40年にあたる1985年5月の演説)。

 よくよく調べてみたら、その通りだった。訂正したい。

 同時に、この読者からは、この名演説の意義は、この言葉のあとに続く次のような文言を省略しては、成り立たないとのお叱りを受けた。

 その言葉とは、

 (だから)われわれは、若かろうが、年を取っていようが、等しく過去を受け入れなければならない。

というもの。

 その通りで、ブログ子もこの言葉を追加したい。

 東西分断の状況のなか、この言葉で元大統領は、根拠のない民族差別意識が生んだ過去の悲劇について国民に向かってあらためて強い反省と現在における団結を呼びかけた。

 それは、日本人の場合も同様で、根拠のない民族差別意識が生んだ沖縄の悲劇は、戦後70年の現在、国民が等しく受け入れなければならない現在の団結問題だと思う。

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