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ある女学生の戦争 浜松大空襲を語る

(2014.09.22)  国民の生命と財産を守るためとした集団的自衛権の容認を、安倍政権が閣議決定してまもなく3カ月。来年は敗戦70周年を迎える。

 Imgp5572 記憶のかなたに薄れゆく戦争の悲惨さやむごさを思いおこさなければとの思いで、先日日曜日、浜松市内のとあるこじまりとした学習会に出席した。

 終戦当時(1945年)、14歳(満13歳)で浜松市内の私立女学校に通学していた大村元子さん(もとこ、82歳)の

 浜松大空襲前後の体験を聞く会

である( 写真上=佐鳴台協働センター )。

 ● 前後に巨大地震が3度も

  当時、浜松は中島飛行機浜松製作所など機械金属工業の盛んなところ。また東洋紡など繊維面での軍需生産の拠点でもあった。そんなところから、米軍の攻撃にさらされやすい土地柄であった。

 終戦前年の暮れごろから空襲が始まり、大村さん家族は危険だというので市内の休業同然だった自宅のかまぼこ店から北部の二俣に縁故疎開。その間、女学生だった元子さんは市内中心部の学校に電車で通学することになった。しかし、通学とはいっても授業らしい授業はなく、焼け跡の後片付けなど勤労動員にかりだされる毎日だったらしい。

 大村さんの話や文献でこの昭和20年前後の様子を、この欄の最後に「注記」として年表にしてみた。

 約30回にもおよぶすさまじい空襲や艦砲射撃があったことがわかる。だが、加えて注目したいのは、この2年間の間に、巨大ないし大地震がなんと3回もあったことだ。東南海地震、三河地震、南海地震である。

 Imgp5566 東南海巨大地震は、終戦が間近い、しかも開戦から3年の日に当たり国民こぞって戦勝祈願が予定されていたその12月8日(1944年)の前日に起きた。軍の厳しい報道管制のため、被災者はほかの地域の様子がわからない。このことから、皮肉なことに米軍の大規模攻撃と多くの市民は受け止めたらしい(『静岡県の歴史』(山川出版)「東南海地震と戦争」)。

 事実、大村さんの体験談でも、この地震では、近くの縣居国民学校(あがたいと読む。今でいう小学校で市内東伊場にあった)などの防空壕に児童たちが避難し、生き埋めにあうという悲惨な事例が多くあった。地震を空襲だと咄嗟に判断したからだろう。元子さんは、当時、父親があわてて救出のため学校に向かったことを記憶している。

 終戦の年の2月15日の空襲では、少女だった大村さんは中心部にあった旧松菱デパートの地下にいのちからがら避難し、かろうじて助かる。国鉄の浜松駅をターゲットにした空爆だったのだろうが、どこからも助けはなく、たった一人での避難。どれほど不安だったか、想像にかたくはない。

 ● 鉄橋をひとりで渡る

 B29の空襲は遠くからでは、

 ザァー、ザァー

という音となって伝わってくる。しかし、近くでは

 ヒュル、ヒュル

という不気味な音に変わる。体験者でなくては表現できない生々しい表現である。当時の市内の様子がまざまざと学習会の参加者に伝わってきた。

 もっと具体的には、空襲を受けて、通勤電車が助信駅で運行中止となったことがある。仕方がないので、大村さんはなんとそのあと馬込川にかかる鉄橋をわたり、二俣まで歩いて帰ったという体験まで語ってくれた。14歳の少女にとって下の川が枕木から見える鉄橋渡りがいかに恐怖心をいだかせたか、想像するだにむごい。

 そのほか、戦闘機からの機銃掃射にも何度か遭遇している。あるときにはパイロットの顔までもが見えたという。

 B29約100機と、もっとも大規模な空襲となった終戦直前の6月18日。大村さんが疎開していた二俣からは、鳥羽山上空の夜空が真っ赤になっていたことを今も鮮明に覚えている。市内中心部の火災がいかに大規模だったかがわかる。

  Imgp4121_2 こんな話が続々と出てきた聞く会だったが、戦争が終わった8月15日では、これで助かったと

 バンザイ

と両手を上げて喜んだ。玉音放送を二俣で聞いた大村さんだが、これが国民一般の正直な本音であろう。

 しみじみと平和のありがたさが伝わってくる。照りつける青空からもう爆弾や焼夷弾は降ってこない。夏の日の真っ青な空が明るく澄み、そしてどんなにか高く見えていたことだろう。

 ● 閣議決定、国民に信を問え

 これこそが、平和を象徴する

 「日本の青空」

だというあの日の思いを、気持ちをもう一度、今思い出し、あるいは後世に伝えていく努力を忘れてはならないと思う。

 大村さんは、少女時代のひもじい思いの体験を土台に、今も現役で食生活アドバイザーをこなしている。福祉住環境コーディネーターの仕事にもついている。

 そんな大村さんだが、今回の集団的自衛権の閣議決定については「強引にすぎる」と批判している。直接、国民に信を問うべきだとも強調する。

 これは浜松大空襲で犠牲になった多くの人々の声なき声でもあろう。

 ( 写真右上= 大空襲で旧松菱デパートのみが残った市内廃墟の写真。浜松復興記念館において2014年6月に展示されていたもの )

 ● 注記 浜松の昭和20年

  浜松市の終戦の年、昭和20年の主な空襲や地震などを年表風にまとめると、つぎのようになる(参考文献= 『見る読む 浜松歴史年表』(羽衣出版、1995年)など)。

  ○  1944年11月    米爆撃機B29、浜松に飛来

  ○           12月07日     東南海地震(M7.9)  遠州灘に大津波

  ○      12月12日 B29、1機が浜松初空襲(焼夷弾投下)   

  ○  1945年01月03日  B29、5機、焼夷弾大量投下          

   ○       01月13日            三河地震(M6.9) 遠州灘に津波

  ○      02月15日 B29、6機の空爆で死者約150人

  ○       04月30日 B29、市中心部空襲で死者約1000人

    ○      05月19日 B29、東部、西北部空襲で死者約450人

  ○      06月18日 B29約100機の浜松大空襲。

                 焼夷弾の大量集中投下で全市壊滅。

                 死者約2000人

    ○      07月29日 夜、市中心部へ艦砲射撃で死者約70人

  ○      08月01日 約30回にわたる空襲・空爆の最後

    ○  1946年06月          天皇が浜松巡幸(工場や浜名用水視察)

  ○            12月21日     南海地震(M8.0)。静岡県内死者約300人

                                        大津波(4-6m)が東海沿岸、四国・九州に襲来。 

  ● 補遺 2014年12月5日記

  NHKの夜の情報番組「ニュースウォッチ9」に、

  隠された昭和・東南海巨大地震

が、2014年12月5日に放送された(写真右= 同日夜の番組画面から)。

 Imgp656820141205 開戦3年、戦勝祈願の前日、12月7日に起きたことから、さまざまなうわさが流れた。このことから、地震の被害状況が伏せられたり、隠されたりしたという。

 それでも、約200通もの全国アンケート調査に当時回答したものが見つかった。それによると、北陸、あるいは長野県諏訪盆地でも住宅の全壊など大きな被害が出たことが、最近の東大地震研究所の分析でわかった。

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