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2014年9月

虹の橋を渡る 内側の色は ?

(2014.09.29)  ブログ子の好きなミニ番組に

 Eテレ「大科学実験」

というのがある。「だから、やってみなくちゃー、わからない」というのがキャッチコピー。毎週一回、趣向をこらした面白い実験をやって見せている。ミニ番組なのに、実験は大仕掛けというのが魅力である。しかし、その原理はこうだというような、こむずかしい話はない。理屈よりも、驚きを重視していることがうかがえる。

 ● 大科学実験、透明ガラス玉びっしり

  もう二週間も前の番組では

 虹の橋を渡る

というのをやっていた。雨粒に見立てた小さな砂のようなガラス玉をびっしりと板に張り付ける。それを野外の櫓(やぐら)に立てかけて、その上に簡単な橋をつくる。太陽の光がその無数のガラス玉にあたると、虹の橋ができた。その上の橋をスタッフが並んで渡った。

 それだけのことなのだが、この仕掛けを見たとき、ふと、

 虹の7色の並び方の原理

がきちんと理解できた。

 そのとき、メモ書きしたのが、下の図。

 10_01_0

 ● 外側は赤色、内側に青

 赤い光は青色の光よりも波長が長く、青よりも屈折の程度か小さい。逆に言えば、青の光は赤い光より鋭く曲がる。これが光の屈折の原理。

 とするならば、図の地上にいる人の目から見て、上のほうの雨粒「A」からは、太陽からやってくる白色光のうち、あまり屈折をしない赤い光だけが目に飛び込む。だから、外側で上のほうの雨粒「A」は赤く輝いている。 

 一方、青い光は赤より鋭く屈折するので、雨粒「A」からのものはほとんど人の目には飛び込んでこない。しかし、雨粒「B」のところでは、赤の光はほとんどやってこない。その代わり赤より鋭く屈折する青い光ばかりが目に飛び込んでくるはずだ。つまり、雨粒「B」は青く輝くことになる。だから、虹の下側(内側)のほうは青く見えるはず。

 番組の虹はまさに、その通りに映し出されていた。

 番組では、どちら側にどんな色ができるかということには一言も触れていなかった。しかし、板に細かい透明ビーズを貼り付けて実験するというアイデアがこうした虹の原理を気づかせるのにおおいに役立ったように思う。

  もう少しきちんと言うと、現象の本質をそこなうことなく、現実の三次元の虹を板という二次元に置き換え、わかりやすくモデル化してくれたおかげということになる。魅せる映像の力が見る者に考える機会を与えたともいえる。

 だから、やってみなくちゃー、わからない

のだ。

 ● 補遺 空に虹がいっぱい 2014年12月15日記

 この実験を解説していて、ふと思ったのだが、それは

 空に虹をいっぱい架けるには、どうすればいいか

ということだった。

 そのときは、それほど強く思わず、水の虹のほかに、もう一つ、水よりも重い塩水みたいなもので、空にスクリーンをつくれば、そこにも別の虹ができる。

 いわば、二重の虹

が見えるはずだと思った。塩水の比重は大きいので、水の場合より、赤でも青でもより鋭く屈折する。

 だから、上の図の理屈で、下に小さな虹、ただし、色の並びは水の場合と同じなができるハズと考えた。

 ところが、2014年12月の「大科学実験」の番組を見ていたら、なんと同じ考えで、塩水でもう一つの虹をつくっていた。なぜか台湾で行なわれたのだが、消防用のホースで空にスクリーンをつくり、そこに塩水虹をつくっていた。想像通り、水の虹の下側に小さいが、水の場合と色並びも同じだった。

 番組では、さらに塩水をうんと濃いものにし、もう一つホースで放水し、スクリーンをつくっていた。見事にさらに小さいのが下側にできた。三重虹である。

 空に虹がいっぱい。そんなことができる。

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言葉の海へ、辞書はそこに漕ぎ出す舟 

(2014.09.28) 先日、BSジャパンで映画

 「舟を編む」(石井裕也監督)

というのを見た。作家、三浦しをんさんの同名ベストセラー小説が原作。ある出版社の辞書編集部が舞台で、若い主人公の編集者の恋と悲哀もからませている。久しぶりに見る加藤剛さんが国語学者の編集長役で出演していた。宮崎あおいさんもいい役どころだった。

 恥かしいのだが、舟を編むという原作は読んでいない。第一、このタイトルでは中身を想像することができなかった。映画をみて、それは

 言葉の海へ、辞書づくりはそこを案内する舟のようなものである

ということらしいことがわかった。簡単に言えば

 言葉を編む

ということだろう。となると辞書編集者というのは、いわば水先案内人というわけだ。

 社会で使われてはいても、いまだどんな辞書にも載せられていない言葉を探し出す。言葉の意味、つまり語釈を的確に、そして短く記述する。そして用例も付す。

 これは簡単なようで、言葉は生き物であり、難しい。しかし、そこが辞書編集者の腕の見せ所、醍醐味なのだろう。また誇りであるかもしれない。

 ● わが「新明解」3代、40年

 Image2004 この映画はたまたま見ただけだったが、ブログ子の今後の暮らしに与えた影響は意外にも大きいと感じている。

 その第一は、三省堂の「新明解」シリーズがボロボロになり、そのたびに二回も買い替え、40年近く使い続けてきたのだが、シリーズにこだわらず、ほかの辞書との併用や比較をしながら利用していこうと、これまでの考えを少し変えたこと。

 語釈はどの辞書も同じではないことを知ったからだろう。

 写真の右側の赤い小型版「新明解」は第二版(小型版、1974年)。これは京都の大学院時代に友人にすすめられて買ったもの。

 真ん中の相当使い込んだ黒い革装のものは第三版(1983年)で、大阪で夕刊紙記者を始めたころに買ったもの。言葉の猛訓練の時代でもあったので、すぐに革装丁がボロボロになってしまった。

 次いで三代目の「新明解」が今も使っている茶色の第五版(1997年、革装丁。写真の左端)。金沢で新聞社の論説委員として働いていたころに買い替えたものである。こちらのほうは、まだボロボロにまではなっていないが、だいぶくたびれている。

 こう書き出してみると、ブログ子の職業と辞書とは深くとまではいかないが、かかわっていることがわかる。

 ブログ子の愛読書は新明解国語辞典

といっても言いすぎにはならないと思っている。

 ● 大辞林、大辞泉、広辞苑の三冊も

 第二の影響は、「新明解」の辞書以外の大型の辞書を数冊、机の下においたこと。語釈や用例を「新明解」と比較する楽しみのためである。

 Imgp5630 その第一は、たぶん、この映画の辞書づくりのモデルとなったであろう、

 『大辞林』(松村明、三省堂、1988年)

である。二冊目はこれも松村明監修の

 『大辞泉』(小学館、1995年)

である。最後は、老舗の岩波書店から出ている新村出の『広辞苑』(第三版、革装丁。1987年)。

 いずれも電子版ではない。紙メディアであり、とにかく大型は重いのが難点。

 これに対し、電子版の言葉の辞典としては、

 kotobank.jp

というのがある。わがPCにもアドレスを登録し、ときどき活用している。

 同じ言葉でも、いろいろな辞書の語釈が瞬時に比較できるように表示されるという便利さがあり、重宝している(「注記」参照)。

 ● 「日国大」は押し入れに

Imgp5631  最後に、自慢話にならぬ自慢話。

 理系出身のブログ子だが、10年ほど前ボーナスをはたいて、あの

 『日本国語大辞典』(全20巻、小学館、1982年)

を買った。しかし、年に何回か引いては見るものの押し仕入れの中にほとんど眠っている。

 何時の日か、もっと活用することになるよう、この映画を見て、誓ったかどうか、覚えてはいない。 

 ( 写真右= 日本の辞書づくりの原型となったとされる「言海」(大槻文彦、明治24年=1891年) 。ブログ子の蔵書 )

  ● 注記 PC版「日本大百科全書+国語大辞典」

 この機会に、今まであまり使っていなかった小学館の

 スーパー・ニッポニカ = 日本大百科全書+国語大辞典

も、1枚CDになっているので、PCにセットした。年表検索などPCらしい活用に心掛けたい。

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ブーメランはなぜ戻ってくるか 

Image2000 (2014.09.28)  サラリーマン時代、お別れのせん別として、ブーメラン好きの友人からもらって10年、今も、それがブログ子の机の上に飾ってある(右写真)。

 左右非対称で、裏側は真っ平ら。なのだが、写っている表側はやや上向きの曲面で、写真のように天体のデザインが美しい。

 友人には悪いのだが、投げ方がわからず、本当に戻ってくるのかどうか、一度も試したことはない。飾ったままになっていた。ましてや、

 なぜブーメランは手元に戻ってくるのか

という疑問すら持たなかった。

 ● 浜松科学館のイベントに参加

 ところが、つい最近、ボランティアをしている浜松科学館(浜松市)で、小さな子ども向けに

 ペーパーブーメランを飛ばそう !

というイベントがあった。そのチラシ( 写真最下段 )を見たら、この機会に、戻ってくる原理はともかく、子供たちにまじって、あるいは一緒に

  作って、飛ばしてみよう

と思い立った。そこでボランティアとして手伝いに出かけた。飛行原理をあれこれ考えるより、まず、体をつかって試してみようというわけだ。

 参加してくれた子どもたちは、たいてい母親と一緒で、小学校に入学する前がほとんど。だから、親子でつくるブーメランといったほうがいいかもしれない。

 Imgp5605 左右長さの違う「く」の字型をつくるのかと思ったら、右写真のように、120度ずつ離れたまったく同じ長さの3枚羽根の風車型(ボール紙)であったのには、とても驚いた。

 羽根となる三枚の細長い長方形のボール紙の一方に切れ目を入れ、120度の間隔をおいて中心で互いにかませるだけなのだ。拍子抜けするほど簡単なもので、これまた二度びっくり。

 かませた跡は、中心部をホッチキスでとめる。これで出来上がり。なのだが、こどもたちに喜んでもらうために、表側にする羽根に、好きな色を塗ってお絵かきをしてもらった。器用なこどもなら、15分ほどで完成。

 この工作時点での感想は、

 こんな対称なつくりでは、手元には戻ってくるはずがない。非対称な「く」字か、「へ」の字にしなくてはならないのでは

というものだった。これには相当の自信があった。しかし、そのあとには驚きの結果が待っていた。

 ● びっくりの連続だった投げ方

 出来上がったのだから、さあ、みんなで広い館内で飛ばそうとなった。のだが、ここからが、大学院まで出た理系人間であるはずのブログ子にとっては、またまた驚きの連続だった。

 三枚羽根を床面に水平に投げるのかと思ったら、なんと、床面に垂直、つまりたて投げにする

というのだ。水平投げ、つまり横投げで試すと、戻ってくるどころか、前方で急上昇、天井に激突してしまった。その後、真下にポトンと落ちてしまう。

 投げ方のコツの第二は、手首のスナップを利かせて、ブーメランに回転(自転)を与えること

だという。この二つのコツをこどもたちに〝伝授〟すると、なんと、対称な風車型ブーメランはちゃんと戻ってきた。

 Imgp5604 これには、こどもたちと一緒に

 不思議、不思議、不思議 !

と大はしゃぎしてしまった。あまりにも、不思議なので、何回も試したのだが、何回やっても、クルクル自転しながら、ゆっくり左へ、左へとカーブを描きながら手元近くにきちんと戻ってきた。

 その様子を丁寧に観察すると、次のようなことがわかった。

 ブーメランを右腕でスナップを利かせて、少し前に向かって押し出すように「たて投げ」する。と、自転しながら、絵を描いた表側が少しずつ上を向きながら左に大きくカーブ。投げたとき床面に垂直だった表側が次第に床面に水平に近づきながら、手元に戻ってくる。戻ってきたときには、絵を描いた表側は完全に床面と平行になり、自転軸は垂直な上向きになっていた。

 その動きは、まるで、

 起き上がりこぼうし

のようだった。

 こどもたちが、こうして投げている様子は上の写真の通り。

 ただ、気になったのは、ブーメランには左右の区別はないのに、なぜ、いつも左へ、左へとカーブしながら、手元に戻ってくるのかという点。右へ、右へとカーブして戻ってきてもなんら原理的にはおかしくない。なのに、それがないのはなぜか。

 あらためて、三枚かませたブーメランの設計図(上図)を眺めてみた。

 全体の形に左右はない。が、中心部のかみ合わせ方に左右の違いがあることに気づいた。上の図では、反時計回りに120度離れた次の紙の切れ目の手前部分を下にしてかませている。同じことをさらに120度離れた紙にほどこす。さらに三枚目も手前の切れ目を下にしてかませている。

 かませるときのかませ方で、かませる相手の切れ目の手前の紙の部分を、さっきとは逆に、上にしてかみ合わせると、きっと、右へ、右へとカーブする

という推理が成り立つのではないか。

 やってみたら、確かに、今度は何度やっても右へ、右へと、みごとにカーブした !  ただし、今度は裏側を上、つまり次第に天井に向けるように戻ってきた。   

 さらに、面白いことに気づいた。

 このイベントに参加する前までは、ブーメランは風がないと戻ってこないのではないか、と漠然と思っていた。が、ご覧のように風のない室内でも、十分にクルクル自転しながら、カーブを描いて、おきあがりこぼうしよろしく、ちゃんと手元近くに戻ってくる。

 これで気づいたのだが、航空機同様、戻るブーメラン遊びには原理的に風は必要ない。必要なのは抵抗としての空気があればいい(ただ、風がある場合、追い風状態というのは、この遊びではやりにくいだろう。言い換えれば、風がある場合には向かい風の状態で楽しむのがコツ)。真空中ではきっと、ブーメランは手元には戻っては来ないだろうと予測する。クルクルと自転しながら前に行ったままになる。左にも右にも旋回しない。

 しかし、真空という意味を理解するのは、こどもたちにはちょっと難しいだろう。この実験について、だれか、やってみてはどうだろうか。

 ● なぜブーメランは「く」の字か

 Image2001_6 それにしても、わからないのは、対称型でも戻ってくるのに、なぜ、本物のブーメランはわざわざ非対称の「く」の字、あるいは「へ」の字なのだろう。

 これは、このイベントでは、いくら考えてもわからなかった。何か実用上のわけが必ずあるはずだ。

  それはともかく、10年間、ほったらかしにしてきたブーメランの動きをきちんと把握できたことはうれしかった。

 原理を頭で、つまり理屈で理解することは大事。だが、観察することも非常に大事であることを思い知った一日だった。

 NHKの教育テレビに「大科学実験」というミニ番組がある。この番組のキャッチコピーは

 「だから、やってみなくちゃー、わからない」

である。観察や実験結果を帰納的に考察し、その原理を解明するという手法は、りっぱな科学的な思考だと思う。

 ● 数学者が原理を解説

 そう思って、いろいろネットで調べたら、なんと、

 大阪経済大学の数学者、西山豊さんが、最近、

 ブーメランはなぜ戻ってくるのか

という解説を以下で丁寧にしているのをみつけて、またまたびっくりした。

 http://www.osaka-ue.ac.jp/zemi/nishiyama/math2010j/boomerang_j.pdf

 イベントでの疑問や観察結果を踏まえて読んでみた。その結果、ものの見事に、上記のすべての疑問に、慣性モーメントという古典力学の用語の下に、明解に答えてくれていた。

 最後に残った、どうしてもわからなかった「へ」の型の疑問は、

 ブーメランの飛行の安定性を高めるのに役立つ

とあった。実用性という観点から必要なのであり、戻ってくるか来ないかという機能には関係ない。このことを図入りで見事に解説している。今回のイベントでも明らかなように、戻ってくるというブーメラン機能は対称羽根でも十分にOKなのだ。こういうのを

 目からウロコ

というのだろう。

 ブーメランは何千年も昔の古代人が編み出した狩猟のための道具らしい。より確実に獲物を取るためには、道具の機能の安定性は不可欠なのであろう。さらには弓矢のような一回限りの使い捨てではない。何度も使える立派なリサイクル品なのだ。

 こう考えてくると、ブーメランというのは驚くべき知恵の集積であると、ほとほと感心したことを最後に付け加えておきたい。

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黒い秀吉 面白くなってきた大河ドラマ

(2014.09.26)  先日、日曜日夜久しぶりに

 NHK大河ドラマ、軍師 官兵衛 

 第38回 追い込まれる軍師

を見て、秀吉(竹中直人)がとびきりの悪役に変身していたのには、びっくりした。完全に主役の官兵衛を食っていた。

 ● なぜ利休は死を賜ったか

 Imgp564438_2 しかも、番組の最後のほうは、

 なぜ利休は秀吉から死を賜ったのか

という戦国時代の大きな謎を解く茶室シーンが描かれていた(秀吉が西日本をほぼ制覇した1590年前後の時期。当時の東日本はまだ徳川家康/小田原北条の勢力圏という微妙な時期でもある)。

 この席で秀吉の朝鮮出兵を思いとどまらせようとした官兵衛。これに肩入れする利休。そのことが秀吉の勘気に触れたから死を賜ったのではないかという、なんとも大胆な新説をにおわすような場面だった(写真上= 9月21日夜放送のNHK総合テレビ画面から)。

 利休が切腹したのは、1591年。つまり、出兵の前年であり、出兵をいさめ秀吉の勘気に触れたことが原因と考えてもおかしくない。見事に歴史のつじつまが合う。

 しかも、この茶席には、出兵推進派の石田三成も同席していたというドラマ設定。

 ここで官兵衛との確執が見事に描かれる。官兵衛・黒田長政父子がなぜ関ヶ原の戦いで石田三成の西軍につかなかったのかというその遠因をうかがわせるような仕掛けである。10年後、家康の東軍に長政がつく原因をそれとなくにおわす、にくい演出ともいえるだろう。

 ● 大胆な新説が2つも登場

 さらに、しかも、この茶席のあと、また利休の仲介で官兵衛と、なんと徳川家康が、同じ茶室で密会し、意気投合するという演出になっていた。

 いずれのドラマ設定も史実にはない、のだろうが、戦国好きのブログ子としては、

 十分ありえた設定

だと感心した。歴史のつじつまが合うのだ。

 ドラマでは、秀吉が負けた戦は、家康が勝った長久手の戦いだけであり、しかも、官兵衛はこの戦闘には関与してなかった。

 この史実をもとに、ドラマでは家康に

 「あの戦いは、官兵衛殿が軍師として従軍していなかったからこそ、勝てた」

と言わしめている。この歯の浮くようなせりふも大胆な新説だ。家康演じる寺尾聡の面目躍如の演技ぶりがすごかった。完全に主役の岡田准一を食っている。

 しかも、その伏せんとして、秀吉の正室、おねが官兵衛に、側室の茶々を溺愛する秀吉をいさめてほしいと何かと接近するという意味深長なシーンまで用意されていた。

 常識的にはありえない設定であり、これまたびっくりした。天下人になり、悪人に変身する秀吉への包囲網の中心に官兵衛がいるというストーリー設定だからである。

 ● 入れ知恵したのは誰 ?

 Imgp5629 こうなってくると、第39回「跡を継ぐ者」をぜひ見なくては、という気になる。

 それもこれも、今年の大河ドラマは、3、4月に大幅に視聴率が落ち、

 下手をすると10%を切る

のではないかという関係者の恐怖心があったからだろう。

 作・脚本を担当している前川洋一さんという人はどういう経歴かは知らない。しかし、当初の計画を大幅に、しかも大急ぎで書き替え、新説を取り入れ、最近ではようやく、10%台後半にまで持ち直したらしい。

 思うに、先ほどのような二つもの大胆な仮説を前川さんに入れ知恵したのはだれだろう。おそらく戦国史が専門の歴史家であろう。となれば、〝犯人〟はずいぶんと限られる。サービス精神旺盛な静岡大学名誉教授のあの人かもしれない。

 ● 低視聴率がバネに

 この番組を見ての感想的な結論は、

 大河ドラマの場合、視聴率が予想外に悪くなるというのも、いいものだ

というもの。それを跳ね返そうと必死になり、番組が引き締まるからである。この大河ドラマの前半のように史実を追うだけなら、退屈なだけであり、大河ドラマはいらない。

 もう一つ、豊前の宇都宮家の一揆で宇都宮鎮房(しげふさ)とその嫡男・朝房(ともふさ)とのごたごたを描いたこの回についての感想をいえば、黒い秀吉を描きたいがために、中津城主12万石という一地方のどうでもいいごたごたを

 大河ドラマという刺身のツマ

として上手に使っていたということ。

 こうなると、脚本の前川洋一さんというのは容易ならぬ切れ者ということになる。

 そうかどうかということは、上記の新説をどう組み込んでいくのか、それを見極めるこれからのドラマ展開でわかるだろう。

 (写真下= 利休はなぜ死を賜ったかという謎に挑んだ山本兼一渾身の『利休にたずねよ』2008年。利休の鮮烈な恋と美学が死を招いたとする新説。血なまぐさい大河ドラマの新説とはずいぶん異なるのが面白い)

 ● 補遺

 利休にまつわる今回の番組については、ブログ子が読んだ

 吉川英治『新書太閤記』(1941年)にも、司馬遼太郎『新史太閤記』(1968年)にも、また舟橋聖一『太閤秀吉』(1977年)にも描かれていない。事実かどうかはともかく、斬新な仮説であることはほぼ間違いない。

 ● 補遺の追記 『秀吉と利休』 2014年10月27日記

 上記で朝鮮出兵説という「斬新な仮説であることはほぼ間違いない」と書いたが、これはブログ子の勇み足、というか無知だった。

 というのは、文化勲章受賞の小説家、野上弥生子さんが

 小説『秀吉と利休』(中央公論社、1963年)

でこの仮説でもって描いているからだ。この原作に基づいて華道家の勅使河原宏さんは監督として

 映画「利休」(1989年)

を公開している。俳優は、利休を三國連太郎、秀吉を山崎務、北政所(おね)を岸田今日子という豪華さ。

 この映画で、利休は秀吉の朝鮮出兵について秀吉に面と向かって猛反対している。そのことが直接の原因となり、利休は秀吉から蟄居を命じられたり、死を賜ったりしたというストーリーになっている。ラストシーンは、人工的なしつらえの薄暗い竹林のなかを死に装束姿の利休がたった一人入っていくという設定だった。いかにも、草月流の監督らしい演出だった。

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中学生の夏休み理科自由研究をのぞく

Imgp5592 (2014.09.25)   ボランティアをしている浜松科学館(浜松市)で、今、

 夏休み理科自由研究

の優秀作品をロビーで公開している。

 市内の学校から応募してきた児童・生徒の作品のなかから金賞、銀賞、銅賞の順にずらりと冊子本にして展示されている(写真上)。どんな中身の内容なのか、実際にページを開いてのぞいてみることができる。

 ● 浜松科学館で

 理系ではあるが、ブログ子などは、いいかげんな自由研究をしてきたというおおいがたい引け目がある。そこで最近の作品に関心を持ったのだが、驚くべき実力を発揮している作品が並んでいるのには、卒倒するほどに驚いた。

 Imgp5594 たとえば、金賞の作品

 鉱物結晶における多様性の研究 Part2

   オイラーの多面体定理は鉱物結晶に適用できるのか

という作品(写真中)。著者は浜松市立曳馬中学校3年、山田蓮君。

 Part2というのは、2年生のときのものをさらに発展させた研究という意味。その2年のときの最初の作品は、写真の右端に写っている。これはなんと、昨年平成25年度の

 野依科学奨励賞(国立科学博物館)受賞研究

なのだ。

 この最初の研究では、オイラーの多面体定理(「注記」参照)を手がかり、あるいはベースにしている。実際に山田君が野外で収集した鉱物の結晶を分類した結果、収集した黄鉄鉱の結晶については、まだまだ複雑な、つまりもっと多様なものが存在していても数学的にはおかしくないとの結論を引き出している。

 ● 7年間の観察と考察まとめる

 Imgp5598_2 この結論を確実にするために、さまざまな仮説を立て、それに基づいて多面体をつくり、多面体をいろいろな角度から切断し、定理と比較するなどの実験までしている。

 今年の作品は、それをさらに発展させている(写真下)。

  ここまで来ると、数学的な条件を満たしていて、自然界にそんな結晶がいろいろ存在していてもおかしくないのに、なぜか自然界には存在しない、あるいはほとんど存在しない場合、そこにはどういう物理条件や化学結合が結晶内に働いているから、そうなったのかという物性論的な議論ができることになろう。

 このように、この研究には、野外調査、実験室での観察、数学的な分類、仮説の設定、実験による仮説の検証という一連の発見的なアプローチが見事に展開されていた。

 逆に、そこから、ある鉱物の結晶について、まだ見つかっていないが、かならずこういう形の結晶がみつかるだろうという予見性も出てくる。

 この成果は7年間にわたる継続した観察や考察の結果まとめられたらしい。それにしても、いやはや、いまどきの中学生の理科力はすごい。

 こういう若い能力を伸ばすのはどうしたらいいか。つくづく考えてしまった。

 そんなことを思い知らされ、また考えさせられたロビー展示だった。

 (写真はいずれも、写真のダブルクリックで拡大できる)

 ● 注記 オイラーの多面体定理

 多面体とは、複数の頂点を結ぶ直線の辺と、その辺に囲まれた平面によって構成される(穴のない)立体。

 このように定義された多面体について、その頂点の数をX、面の数をY、辺の数をZとすると、その間には

 X +Y-Z = D-1   Dは次元(2次元空間なら2、3次元なら3、4次元なら4)

が成り立つ。今考えている結晶は三次元空間だから、D= 3、つまり、

 X +Y-Z = 2

となる。

 このようにX、Y、Zは気ままな自然数ではありえない。X、Yが決まれば、自動的にZは決まってしまう。

 さらにこの定理から一般的には、元素には周期律があるように、

 鉱物結晶にもX、Y、Zに関する一定の規則、つまり周期律がある

という仮説も成り立ちそうである。定理と自然界とのズレ、ギャップを研究するのも面白そうだ。つまり、数学的な周期律に対し、自然界には埋まらないギャップがあるのはなぜかという問題である。

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ある女学生の戦争 浜松大空襲を語る

(2014.09.22)  国民の生命と財産を守るためとした集団的自衛権の容認を、安倍政権が閣議決定してまもなく3カ月。来年は敗戦70周年を迎える。

 Imgp5572 記憶のかなたに薄れゆく戦争の悲惨さやむごさを思いおこさなければとの思いで、先日日曜日、浜松市内のとあるこじまりとした学習会に出席した。

 終戦当時(1945年)、14歳(満13歳)で浜松市内の私立女学校に通学していた大村元子さん(もとこ、82歳)の

 浜松大空襲前後の体験を聞く会

である( 写真上=佐鳴台協働センター )。

 ● 前後に巨大地震が3度も

  当時、浜松は中島飛行機浜松製作所など機械金属工業の盛んなところ。また東洋紡など繊維面での軍需生産の拠点でもあった。そんなところから、米軍の攻撃にさらされやすい土地柄であった。

 終戦前年の暮れごろから空襲が始まり、大村さん家族は危険だというので市内の休業同然だった自宅のかまぼこ店から北部の二俣に縁故疎開。その間、女学生だった元子さんは市内中心部の学校に電車で通学することになった。しかし、通学とはいっても授業らしい授業はなく、焼け跡の後片付けなど勤労動員にかりだされる毎日だったらしい。

 大村さんの話や文献でこの昭和20年前後の様子を、この欄の最後に「注記」として年表にしてみた。

 約30回にもおよぶすさまじい空襲や艦砲射撃があったことがわかる。だが、加えて注目したいのは、この2年間の間に、巨大ないし大地震がなんと3回もあったことだ。東南海地震、三河地震、南海地震である。

 Imgp5566 東南海巨大地震は、終戦が間近い、しかも開戦から3年の日に当たり国民こぞって戦勝祈願が予定されていたその12月8日(1944年)の前日に起きた。軍の厳しい報道管制のため、被災者はほかの地域の様子がわからない。このことから、皮肉なことに米軍の大規模攻撃と多くの市民は受け止めたらしい(『静岡県の歴史』(山川出版)「東南海地震と戦争」)。

 事実、大村さんの体験談でも、この地震では、近くの縣居国民学校(あがたいと読む。今でいう小学校で市内東伊場にあった)などの防空壕に児童たちが避難し、生き埋めにあうという悲惨な事例が多くあった。地震を空襲だと咄嗟に判断したからだろう。元子さんは、当時、父親があわてて救出のため学校に向かったことを記憶している。

 終戦の年の2月15日の空襲では、少女だった大村さんは中心部にあった旧松菱デパートの地下にいのちからがら避難し、かろうじて助かる。国鉄の浜松駅をターゲットにした空爆だったのだろうが、どこからも助けはなく、たった一人での避難。どれほど不安だったか、想像にかたくはない。

 ● 鉄橋をひとりで渡る

 B29の空襲は遠くからでは、

 ザァー、ザァー

という音となって伝わってくる。しかし、近くでは

 ヒュル、ヒュル

という不気味な音に変わる。体験者でなくては表現できない生々しい表現である。当時の市内の様子がまざまざと学習会の参加者に伝わってきた。

 もっと具体的には、空襲を受けて、通勤電車が助信駅で運行中止となったことがある。仕方がないので、大村さんはなんとそのあと馬込川にかかる鉄橋をわたり、二俣まで歩いて帰ったという体験まで語ってくれた。14歳の少女にとって下の川が枕木から見える鉄橋渡りがいかに恐怖心をいだかせたか、想像するだにむごい。

 そのほか、戦闘機からの機銃掃射にも何度か遭遇している。あるときにはパイロットの顔までもが見えたという。

 B29約100機と、もっとも大規模な空襲となった終戦直前の6月18日。大村さんが疎開していた二俣からは、鳥羽山上空の夜空が真っ赤になっていたことを今も鮮明に覚えている。市内中心部の火災がいかに大規模だったかがわかる。

  Imgp4121_2 こんな話が続々と出てきた聞く会だったが、戦争が終わった8月15日では、これで助かったと

 バンザイ

と両手を上げて喜んだ。玉音放送を二俣で聞いた大村さんだが、これが国民一般の正直な本音であろう。

 しみじみと平和のありがたさが伝わってくる。照りつける青空からもう爆弾や焼夷弾は降ってこない。夏の日の真っ青な空が明るく澄み、そしてどんなにか高く見えていたことだろう。

 ● 閣議決定、国民に信を問え

 これこそが、平和を象徴する

 「日本の青空」

だというあの日の思いを、気持ちをもう一度、今思い出し、あるいは後世に伝えていく努力を忘れてはならないと思う。

 大村さんは、少女時代のひもじい思いの体験を土台に、今も現役で食生活アドバイザーをこなしている。福祉住環境コーディネーターの仕事にもついている。

 そんな大村さんだが、今回の集団的自衛権の閣議決定については「強引にすぎる」と批判している。直接、国民に信を問うべきだとも強調する。

 これは浜松大空襲で犠牲になった多くの人々の声なき声でもあろう。

 ( 写真右上= 大空襲で旧松菱デパートのみが残った市内廃墟の写真。浜松復興記念館において2014年6月に展示されていたもの )

 ● 注記 浜松の昭和20年

  浜松市の終戦の年、昭和20年の主な空襲や地震などを年表風にまとめると、つぎのようになる(参考文献= 『見る読む 浜松歴史年表』(羽衣出版、1995年)など)。

  ○  1944年11月    米爆撃機B29、浜松に飛来

  ○           12月07日     東南海地震(M7.9)  遠州灘に大津波

  ○      12月12日 B29、1機が浜松初空襲(焼夷弾投下)   

  ○  1945年01月03日  B29、5機、焼夷弾大量投下          

   ○       01月13日            三河地震(M6.9) 遠州灘に津波

  ○      02月15日 B29、6機の空爆で死者約150人

  ○       04月30日 B29、市中心部空襲で死者約1000人

    ○      05月19日 B29、東部、西北部空襲で死者約450人

  ○      06月18日 B29約100機の浜松大空襲。

                 焼夷弾の大量集中投下で全市壊滅。

                 死者約2000人

    ○      07月29日 夜、市中心部へ艦砲射撃で死者約70人

  ○      08月01日 約30回にわたる空襲・空爆の最後

    ○  1946年06月          天皇が浜松巡幸(工場や浜名用水視察)

  ○            12月21日     南海地震(M8.0)。静岡県内死者約300人

                                        大津波(4-6m)が東海沿岸、四国・九州に襲来。 

  ● 補遺 2014年12月5日記

  NHKの夜の情報番組「ニュースウォッチ9」に、

  隠された昭和・東南海巨大地震

が、2014年12月5日に放送された(写真右= 同日夜の番組画面から)。

 Imgp656820141205 開戦3年、戦勝祈願の前日、12月7日に起きたことから、さまざまなうわさが流れた。このことから、地震の被害状況が伏せられたり、隠されたりしたという。

 それでも、約200通もの全国アンケート調査に当時回答したものが見つかった。それによると、北陸、あるいは長野県諏訪盆地でも住宅の全壊など大きな被害が出たことが、最近の東大地震研究所の分析でわかった。

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向こう傷を恐れるな 誤報生む原因

 (2014.09.12)  先日、朝日新聞の木村伊重社長が会見し、5月20日付朝刊1面トップで報道した福島原発事故にかかわる「吉田調書」の記事を、あたかも所長の指示を無視しその場から所員が逃げ出したかのような間違った印象を読者と関係者に与えたとして取り消し、同時に読者と東電など関係者に謝罪した( 写真上)。

 Image1997 つまり、記事は、十分な確認作業が行なわれず、事実に反する重大な誤報だったことを認めた。

 別途、社長は、これまで同社が報じてきた一連の従軍慰安婦問題を検証した8月5日付朝刊1面( 写真中 )で、いわゆる吉田証言は虚偽だったとして取り消しはしたものの、検証作業の指揮をとった最高編集責任者が謝罪しなかった点についても

 「事実に基づく報道を旨とするジャーナリズムとしてより謙虚であるべきだと痛感している」

と述べるとともに、会見翌日の紙面でおわびを社長名で掲載した。居直りともとれる検証特集だったが、一転、社長による事実上の謝罪をしたことになる。また、証言取り消し自体についても「遅きに失した」として会見で謝罪した。

 こちらの記事についても、日韓など国際関係にも重大な影響を与えた虚報であったことを社長自らが認めた形である。

 さらに、この検証特集の結果について、ジャーナリストの池上彰氏が同社連載コラム欄で「訂正、遅きに失した」と論評しようとした原稿を、同社が一時掲載を見合わせた点について、言論の自由の封殺にあたるとの厳しい批判( 写真最下段 )が相次いだことを認めた上で、明確な謝罪はなかったものの、社長として責任を痛感しているとも述べた。池上氏に対する事実上の社としての謝罪であろう。

 ● 後ずさりする勇気

 誤報や虚報については、ジャーナリズムにかかわってきたブログ子としても、他人事ではない。身につまされる思いがあるが、今回の会見はおそらく、日本新聞界において前代未聞の事態といえるだろう。

 Image1998 誤報を恐れるあまり、誤報の心配のない

 発表ジャーナリズム

に無気力に甘んじるか。それとも、知る権利に積極的にこたえていくために、あえて、いわゆる「向こう傷を恐れない」突撃精神で取材するのか。

 むずかしい判断である( 向こう傷とは、顔、額に受ける傷のこと)。が、少なくとも独自スクープ記事の場合、はやる功名心をおさえ

 疑わしきは報道せず

という、後ずさりする勇気がほしい。後ずさりとは、正面を向いたままうしろに下がることであり、ひるむという意味はない。一呼吸待つ勇気、余裕と言ってもいいだろう。

 ● なぜメディアは繰り返すのか

 誤報や虚報の原因について、朝日新聞元記者だった後藤文康氏は、著書『誤報 新聞報道の死角』(岩波新書、1996)で次のように書いている。

 Image1993 少し長いが、紙面審査の経験の長い同氏の経験がにじんでいるので、スクープの落とし穴がなぜ起きるのか、その分析結果としてここに引用したい。

 「深刻な誤報の多くは未確認情報を、ほかの情報源によるクロスチェックなしに報道するところに発生する。しかも記者やデスクが、この習慣に身を任せていると、特ダネをめぐる競争心、功名心にはやり、刻々と締め切り時間が近づくという状況の中では、後からみると、「なぜ、こんな不確実な情報が通ってしまったのか」と信じがたいほど、組織全体がノーチェックになったような暴走、大誤報が生まれてくる」

 さらに後藤氏は

 「新聞の歴史上、誤報は繰り返され、今日、(繰り返す誤報により)市民生活を侵し、 世論を誤らせる危険はむしろ高まっている」

とも指摘する。後藤氏の時代よりはるかに進展した今のネット環境の下では、世論を誤らせることによる社会的な悪影響は一層大きいだろう。

 そんなことは百も承知のメディアが相変わらず、あるいは一層、誤報や虚報を繰り返すのはなぜなのだろうか。

 それは、スクープ合戦などの攻めぎあいに勝ち抜くために、あるいは「知る権利」に積極的にこたえるためには、いわゆる

 向こう傷を恐れるな

という勇ましい考え方があるからだと後藤氏は同書で指摘する。確かに新聞社などメディア側に今も昔も公然と存在している。上記の二つの誤報・虚報事件もそうだが、ジャーナリズムのこの時代錯誤的な突撃精神が、人権の無視あるいは軽視を引き起こしている。

 後藤氏は、向こう傷論は、メディア側の独りよがりか、傲慢な論理であると批判している。ブログ子も、古い体質の一つの現れであり、社内に思考停止を生む向こう傷論に対するこの指摘は正鵠を射ていると思う。

 ● 確認、確認、確認

 今後、同社第三者人権委員会の審理に注目したいが、自戒を込めて、次のこともあらためて記しておきたい。

 正確なニュースを生み出すには、三つのことが不可欠である。確認、確認、確認。なんなら、もう一つ確認。

    - 『増補改訂 現代ジャーナリズム入門』(扇谷正造、角川文庫、1984年)

 著者の扇谷(おうぎや)氏はジャーナリストで、元朝日新聞記者、論説委員、評論家。

 もう一つ、米ジャーナリスト、W.リップマンも

 ニュースと真実とは区別しなければならない

とも書いている( 『世論』(岩波文庫、原著=1922年) )。

 ニュース、即真実とは限らない。真実はそのかけらであるニュース同士の関連付けから浮かび上がってくる。誤報や虚報に惑わされないで真実に近づくための読者の新聞ニュースの読み方をいみじくも示唆したものとして、この言葉を受け止めたい。

 ● 注記 虚報と誤報の違い

 虚報とは、記事が取り上げた外形そのものが存在しない報道のこと。いわゆるでっち上げ、ねつ造、作り話のことである。

 「ジミーの世界」(ワシントン・ポスト紙、1980年)記事のように記者自身がでっち上げた場合、今回の吉田慰安婦証言のように取材対象者自身の作り話の場合がある。

 これに対し、誤報というのは、外形は存在するのだが、記事内容が著しく実態と異なる場合である。記者の裏づけ取材の不十分さと社内デスク体制のずさんなチェックが主な原因。思い違い、早合点もある。今回の吉田調書の誤報はまさにこのケース。

( 以下の写真は、JR浜松駅のキオスク店頭で2014年8月30日撮影 )

Imgp5088will   

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動物の行動も進化論で決まるか

(2014.09.12)  たまには、昔の教養大学講義を聞くのもいいものだ。先日、動物行動学者の日高敏隆氏が、放送大学の「アーカイブス もう一度みたい名講義」 で、

 動物の行動と社会

というのを行なっていた。初回放送は、今から20年以上も前の1992年。そのなかの「行動のおこる仕組み」について、黒板を使って解説していた。黒板というのは最近ではほとんど使われておらず、なつかしい授業の気分を味わった。

 黒板を使ってくれると、あらかじめ用意されたパワーポイントスライドを見せられるのとは異なり、講義内容についてその場で考える時間が与えられるような感覚になり、理解が進む。

 ● 氏か、それとも育ちか

 授業のポイントは、動物の行動は、氏か、育ちかということ。つまり、遺伝的に決まっているのか、それとも、後天的な学習によるものか、というテーマ。

 結論的に言えば、この授業の初回放送時点では、

 動物の行動は生まれながら、つまり生得的にプログラムされたものに基づいている。が、そのプログラムされた行動のきっかけとなるのは後天的な学習や置かれた環境による

というものだった。つまり、動物の行動の半分は先天的に決まっており、残り半分は後天的というものだった。

 遺伝的な氏も、環境要因の学習(育ち)も大事

というわけだ。

 この授業ではふれられていなかったが、このことは、

 生きた昆虫の行動を調べたA.ファーブルのように、行動はすべて本能で決まっているというのでも、さりとて、C.ダーウィンのいうように、行動のすべては環境に振り回されているというのでもない

ということになりそうだ。

 両極端ではないとすると、

 遺伝と環境がどのように組み合わさって、動物の行動が決まるのか、専門用語で言えば、解発されるのか

ということが問題になる。

 ● 社会生物学の登場

 このことを解説していたのが、日高講義であった。

 さらにこれを推し進めると

 (人間も含めて)動物の行動も、ほかの肉体的な形質と同様に、(個体重視の下で、しかも遺伝的な変異と自然選択という環境を組み込んだダーウィン)進化論で決まるのだろうか

ということが問題になる。

 Image1988 後のテーマ設定は動物行動学のE.O.ウイルソンの浩瀚な著作で展開されており、その後20年にもわたる大論争を欧米で巻き起こした

 『社会生物学』(1975年)

のテーマである( 写真の本『社会生物学論争史』(原著=2000年、みすず書房邦訳=2005年)は、その論争史を克明に跡付けしたたもの)。

 結論を先に言えば、ウィルソンは、このテーマ設定に対し、人間の行動は遺伝的な変異の自然選択の結果だとして「YES」と答えたのだから、大論争に発展する。人間の行動も、個体の子孫を残すための身体進化論と同じ原理で決まる。これは、いくらなんでも飛躍がすぎる、極端なダーウィン原理主義として物議をかもした。

 肉体は進化論で論じられるかもしれない。が、行動を決める人間の心までもがダーウィン進化論では決まらないと人間、特にキリスト教信者は信じたいから、大反発が起きた。政治問題、あるいは宗教的、社会的問題にもなった。

 ● 遺伝と環境の組み合わせの4側面

 それは、ともかく、前のほうのテーマ(遺伝と環境の組み合わせ)についての日高講義は以下の通りだった。

  動物の「刷り込み」の発見者、K.ローレンツの動物行動を、きっかけ(リリーサー)から行動の解発までの、主として4つの側面に分けて手短に紹介していた。

 第一は、行動の仕組み。

 何がきっかけで生得的な解発機構が働き、それが行動となって現れるかを調べる神経行動学が大きく発展したという話。

 第二は、行動の生存価。

 これは、行動生態学あるいは社会生物学的にアプローチによって解明が進んでいる。動物のある行動はどういう得をするから怒るのかということの解明である。

 たとえば、種の維持という得なのか、それとも、個体の子孫を維持するという得なのか、という問題である。

 その得、つまり効用というのは、1960年代まではその動物の属する「種の維持」説が有力だった。ローレンツ自身もこの説に基づくモデル(心理流体学的モデル)で、刷り込みなどの観察結果を科学的に解析している。

 これに対し、1970年代のウィルソンは、種ではなく

 個体の子孫の維持

が生存価値であるという学説をとなえている。事実、『攻撃 悪の自然誌』(みすず書房、1970年)のローレンツの「種の維持」説を批判している。しかしながら、

 「動物の行動が生物のほかの形質と同様に進化(つまり、ある遺伝的変異が別の種に広まっていくこと)や自然選択の文脈で扱えることをわれわれに説得力をもって教えてくれた」

と高くその業績を『社会生物学』のなかでたたえている。つまり、ウィルソンはC.ダーウィン以上にダーウィン原理主義者だったのだ。

 第三は、行動の発達という側面からの研究である。個体の中で、行動様式はどのように発達するかという問題である。

 たとえば生殖に関係のない子供が、大人になるとどのようにして生殖に励むようになるのかという仕組みの解明である。具体的に言い換えれば、リリーサーによる行動はどのように発達するかということである。

 第四は、行動の進化の側面。

 行動はどのような仕組みによって、適応的な進化をしていくかという問題にあたる。つまり、進化の対象は個体か、それとも種かという進化生物学的なテーマの設定である。

 個体は種の維持ではなく、自分の個体をふやすように行動し、適応的に進化する。環境に適応的な行動をした種が維持される。これに対し、非適応的な行動をした種は滅びるというのが、ローレンツ流の考え方。

 これに対し、ウィルソンは、かつてのダーウィンに戻って、個体の子孫の維持説をとる。

 以上をまとめると、

 生存価=種の維持派。1970年代前半まで。K.ローレンツ

 生存価=個体の子孫維持派。1970年代後半以降。E.O.ウイルソン。C.ダーウィン。

ということになる。この間で社会生物学論争が起きるのである。

 進化の対象は種であるという『主体性の進化論』をかかげた今西錦司は、どちらかと言えばローレンツ派。ただ、同じ種維持派ではあっても、行動が遺伝と環境とで決まるとしたローレンツに対し、

 変わるときがきたら、種は変わるべくして一斉に変わる

という点で大きく異なる。種内の個体はどれも平等という考え方である。

 今西に言わせれば、動物の行動は、遺伝と環境がかかわるだけでなく、動物自身の主体的な働きかけで決まるという考え方である。自然選択などというものを否定した独自の今西自然学である。

 一言で言えば、動物が行動するとき、いちいち環境におうかがいを立てたりはしないということだろう。もっと主体性のあるものだというわけだ。

 第一、親から子へ、子から孫へ、遺伝的な突然変異が遺伝するなんていう悠長なことをしていては、種は絶滅してしまうというわけだ。

 これに対し、個体維持派のウィルソン学派は、個体は肉体的にも行動パターンにおいても平等ではないとする。そこに競争があるというのだ。このことは、基本的には人間の行動にも当てはまるというのである。

 ● 『今西錦司伝』( 斎藤清明、2014年)

 こうなると、上記の浩瀚な論争史を批判的に読み込むとともに、

 『今西錦司伝 すみわけから自然学へ』(ミネルヴァ書房)を読み解くことも必要になってくるように思う。いつの日か、これらの本を読破してみたい。

 ともかく、ブログ子は、この日高講義が行なわれていたころに亡くなった今西錦司といえば、独自の進化論者だと単純に思い込んでいた。が、ローレンツのように実は

 動物行動学者

だったともいえることに気づいた。動物の行動の進化論的な側面に、主体性の進化論という挑戦的な言い方で、生態学的な光を当てた人物だったのではないか。

 これが、『私の進化論』(思索社、1970年)や『主体性の進化論』(中公新書、1980年)の正体ではないか。

 ● 1970年代は一大転換期 今西進化論の再評価

 こう考えると、1970年代は、中立説の登場など生物の進化論や、ウイルソンの社会生物学の登場など、動物行動学=社会生物学の一大変革期、あるいは一大転換期であったことがわかる( 補遺参照 )。

 こう考えると、西欧流ではない今西進化論にあらためて光をあて、再評価する必要があるような気がする。

 偶然に拝見したのだが、日高講義はなかなか刺激的な授業だったように思う。

  ● 補遺 今西進化論への批判

 日本の生態学、とくに進化生態学に与えた悪影響なども含めて、今西進化論に対する厳しい批判については、今西錦司さんがなくなる直前にまとめられた

 「講座 進化」(東京大学出版会、柴谷篤弘・長野敬・養老猛司編)

のなかの

 第二巻 進化思想と社会

 現代日本の生態学における進化理解の転換史( 岸由二、1991 ) 

がある( 写真左 )。

 Image2070_2  岸氏の批判の厳しさの一例を、論考から挙げると、旧ソ連時代のルイセンコ理論と同列に論じた上で、今西進化論の時代背景には

 「個人主義と集団主義、競争主義と平和主義、等々の標語でしばしば表明される現代日本に深く浸透したショウビニスチックな対欧米(正確には対英米)ナショナリズムの構図に今西進化論が哲学的にも通俗的にも迎合しつつ喧伝された事実」

があり、これこそ今西論説の核心を構成していると〝断罪〟している。

 時代に迎合したとするこの断罪を、死の床にあったであろう今西氏本人はどのような思いで聞いただろうか。できれば聞いてみたかった。

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「御製」とセットで真実を知る 昭和天皇実録

(2014.09.11)  先日、宮内庁は、ようやくまとまった昭和天皇実録を公表した。20世紀の87年間を生きたその動静を克明に、そして公式に記録したものであり、近現代史の専門家にとって、その内容を確かめる作業を通じて、今後貴重な基礎史料という評価もなされるだろう。

 Image1992 一方、専門家ではない私たちにとって、この公表や今後の出版にはどんな意味があるのだろうか。

 実録には天皇自身の「肉声」はほとんど出てこない。政治的な側近あるいは侍従たちの記録が主なものである。

 このことを考えて結論を先に言えば、実録と、それを補う昭和天皇のそのときどきの思いを歌に託した、いわゆる「御製」をセットで考えることで、昭和史の真実が浮かび上がってくるのではないかということである。

 この意味で、今回の実録は、専門家の作業とは別の大事な史料であると思う。

 ● BSフジ、日テレ情報番組でも

 先日の公表と同時に、BSフジ「プライムニュース」やBSテレ「深層ニュース」で、近現代史の専門家をスタジオに招いて、実録のポイントとなる点について解説していた。そこには、秦郁彦さんとか、所功さんとか、日本現代史の専門家が、歴史家らしい目で微に入り細をうがって論じていた。

 その話から、どうやら、これまでの定説と著しく異なる事実は今の段階では出てきてはいない(「注記」)。

 Image1990_3 しかし、だからといって、専門家にとって史料的な価値が低いというものでもないだろう。

 ブログ子が、昭和天皇を今上天皇としてまじかに拝見したのは、大阪での夕刊紙記者時代、1986年5月11日の全国植樹祭(堺市・大仙公園)。これに先立って天皇が近くの仁徳陵を参拝したときである。そのとき撮ったのが、右の写真。

 亡くなる2年前のことであり、おそらく元気な姿を全国民に広く知らしめた最後の場であったように思う。

 このとき、天皇がどんな歌を詠んだか、覚えていないが、生涯600首以上を公表しているらしい。

 その中の大半を歌の解釈とともにまとめた『昭和天皇の御製』(国柱会本部編、平成元年=1989年)もある( 写真 )。歌の背景を知ることで、歴史的な事実を背負ったそのときどきの天皇の思いが、より強く伝わってくるようになる。

 歴史の真実を、史実だけでなくもっと多面的にとらえる。ここに国民一般にとって今回の公表の大きな意義があろう。

 ● 昭和を冷静に見つめ直す好機

 亡くなって四半世紀、昭和天皇は稀にみる激動の昭和史の中心人物。その心中を多面的に深く理解する。多面的な理解は、昭和という現代史を、側近に都合のいい立場から見るのではなく、御製という天皇自身が国民に直接語りかけた、いわば国民の側から歴史を見直す出発点、あるいは土台でもある。

 実録がまとまった今が昭和を冷静に見直したり、見極めたりする好機ではないか。

 この実録の公表と今後のその公刊を近現代史の専門家だけの占有物としてはなるまい。

 ● 注記

 月刊「文藝春秋」10月号(2014)には、早速、実録の衝撃について特集、3人の歴史家が鼎談している。が、タイトルに反して、これといった新事実の発見はなかったらしい。

 逆に言えば、これまでわかっていた定説を覆すような記述は、今回の実録にはあえて掲載を避けたというのが真実であろう。

 はっきり言えば、実録は事なかれ主義の編集方針で編纂された。大筋で言えば、これまでの定説を追認する内容になっている。

 その追認をより深めるには、御製とセットで考える必要があり、また専門家は隠された真実の掘り起こしに一層の努力が必要である。

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STAP騒動で、科学報道は変わったか

(2014.09.09)  「小保方論文」再現実験の検証委員会中間報告。また理事会中間報告である研究不正に対する行動計画もそれぞれまとまり、理研「STAP」研究不正騒動は峠をこえたような感がしないでもない。

 検証報告では、小保方氏が参加しない形では少なくとも再現は成功していない。改革報告では、当該組織を半減するとした行動計画は改革委員会から求められた「解体に相当」すると自ら評価、結論づけている。

 いずれの場合も、今後、最終報告書がまとめられるという。

 ● 科学報道の現状の検証とけじめ

 Image1985 そこで、論じたいのは、理研の体質うんぬんの話ではない。この半年以上、騒ぎに騒いだ科学ジャーナリズムや科学報道のあり方についてである。

 理研は当事者として、不十分とはいえ、すくなくとも検証や改革についてけじめをつけた、あるいはつけようとしている。

 これに対し、小保方絶賛一色だった科学報道のジャーナリズムでは、その危うさの検証やそれに基づくけじめを行なおうという動きは、ないといっていいくらいに大変ににぶい。

 あいかわらず、発表ジャーナリズムに寄りかかり、ことが起きてから騒ぐ事件待ちジャーナリズムであり、最後はうやむやの尻切れトンボジャーナリズムのままなのだ( 注記を参照 )。

 依然として日本には科学ジャーナリズムは不在であり、自律したジャーナリストはきわめて少ないままなのである。

 一言で言えば、現状は多様なものの見方を封じるセンセーショナルな

 一過性ジャーナリズム

だけが、大手をふって闊歩している。

  今必要なのは、理研を責めることではない。ジャーナリスト自身による科学報道のありかたの検証とけじめ、そしてその実践である。

 ● 科学の欠点や限界を報道する視点

 そんな検証の萌芽というべき雑誌の特集号がようやく登場してきた。

 科学報道はどう変わるべきか

という大特集を雑誌「Journalism (ジャーナリズム)」(2014年8月号、朝日新聞社)が組んでいる( 写真上 )。

 研究者側からは、科学の欠点や限界を報道する、あるいは科学者だけでは対応できない問題に取り組むなどが提案されていた(池内了名古屋大学名誉教授)。社会と科学の関係が強い場合が、それにあたる。

 絶賛一色にそまった今回の騒動を反省するという意味では、科学報道を立て直す有効な報道のあり方だろう。

 このことは、科学ジャーナリストのほとんどが総懺悔した福島原発事故でもいえることなのだ。

 また、科学ジャーナリスト側からは、今のような特ダネニュース競争に明け暮れるのではなく、そのニュースを科学史の座標に落とし考察や論評をする手法や能力の開発を訴えていた(尾関章氏。朝日新聞元科学記者)。

 その通りだろう。つまり、速報主義からの離脱である。自律した科学報道にはこれが欠かせないことは明らかであろう。

 ● 科学者を特集した「現代思想」8月号

 もうひとつ、雑誌「現代思想」8月号も科学者を大特集している(青土社)。主に文系の読者を対象にしているせいか、サブタイトルが

 Imgp5077 科学技術のポリティカルエコノミー

とあいまいなのは、ご愛嬌である。だが、この特集で鋭かったのは

 「小保方」事件を超えて

  STAP細胞があぶりだす科学の歪んだ構造

という論考である(榎木英介氏。科学ジャーナリズムや若手研究者の育成問題に詳しい大学病理学医師)。若手研究者の現場の実態を具体的に述べていた。このことが、なぜこんな事件がおきるのかというその温床をあばくのに説得力を持たせている。

 そして、最後につぎのような文章で結んでいる。

 「STAP細胞の問題が問うのは、科学者コミュニティが、そしてそれを支える国民が、科学研究を行なう環境をどう構築すべきか、ということなのである。また、この問題は科学コミュニティだけの問題ではない。三十五歳のポスドク(博士研究員)が民間企業に職を得られないという硬直した雇用環境は、非正規雇用の労働者の置かれた状況と変わることはない。そして、「ねつ造」が起こるのは科学者だけではない。冤罪が繰り返される警察の捜査や食品の産地偽装をはじめとして、枚挙に暇がない。私たちは、「小保方問題」「理研問題」を超え、自分たちの問題としてこの問題を捉え、行動していかなければならないのだ。」

 そのとおりであると思う。しかし、それだと、この論考のサブタイトルは、より適切には

 STAP細胞があぶりだす社会の歪んだ構造

ということになろう。こうすると視野の広い論考だと読者にわかる。

 ● 問われている「報道の社会的無責任」

 Image1986 それはともかく、こういうことを科学ジャーナリズム自身が指摘してこそ自律した科学報道であり、気楽な発表ジャーナリズムから脱却する道であろう。

 理研騒動は、科学ジャーナリズムも変わらなければならないことを、白日のもとに暴き出した。

  今、問われているのは

 ジャーナリストの社会的な責任

なのだ。

 報道の自由が、報道の無責任さを助長することがあってはなるまい。

  ● 注記 一過性のジャーナリズム

 この問題については、ブログ子は10年ほど前から指摘し続けている。たとえば、

 『科学ジャーナリズムの世界』(日本科学技術ジャーナリスト会議編、化学同人、2004年)

である。

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『大西洋漂流76日間』を読む なぜ耐えられたか

Imgp5281_2  (2014.09.08)  「身近な気象学」という放送大学の講義を聞いていて、こんなすごい本が紹介されるとは思ってもみなかった。

 『大西洋漂流76日間』(S.キャラハン、ハヤカワ文庫NF、1986)

である。どういうわけか、科学ジャーナリストの翻訳。

 1982年2月、赤道貿易風の吹く大西洋のど真ん中で起きたヨット遭難事故。当の遭難者自身による日記をもとにしたドキュメンタリーである。ヨット設計者だった著者がたったひとり大海に放り出され、漂った76日間にわたる記録なのだが、一番の関心事は

 なぜ生きのびられたのか

ということだろう。食料も持ち出す暇もなく、救命ゴムボートに乗り移り、たった一人でどのようにして航海できたのだろう。 

 赤道近くの焼けつくような、ヒリヒリする酷暑にまず耐えなければならない。飲み水をどのようにして確保したのか。食べるものはどうしたのだろう。

 そうした肉体的なこともさることながら、夜の真っ暗な海に漂う恐怖、サメに襲われるのではないかという悪夢。それらをはねのけ、長期にわたる精神的なストレスにどう耐えたのだろうか。

 たいていは、絶望のあまり、数日で死にいたるというから、驚異的な出来事にはちがいがない。

 そんな疑問をもちながら、それこそ一気に読んだ。

 ● 運を引き付けた4つの決め手

 結論を言えば、生き延びることができたのは、運もあったのだろうが、次の4点が決め手ではなかったかということだった。

 第一は、狭いボート生活だったが、ただただ多忙だったこと。余計なことを考えている余裕はなかった。このことが、この手記を読むとよくわかる。

  とにかく、よく動いた。食料のための魚とり、真水づくり、円形ゴムボートに次々と発生するトラブルの対応と修理、手元のありあわせのものを利用しての救助用の凧づくりなどなど、陸地にいるときよりも忙しそうだった。

 第二は、ヨット設計者としてセーリング(航海術)やサバイバル術に長けていたこと。

 第三は、日記をつけているなど、冷静な判断力を持ち続け、自己をコントロールできたこと。物事をその場限りにしないで、周到に状況を判断する習慣が身についていたことは生きのびるチャンスを大きくひろげたと思う。とても、刹那主義ではこの突然の難局は乗り切れなかっただろう。

 ● 先の見通しを具体的に知る努力

 第四、これが大きく効いたと思うが、ともかく少しずつではあっても、目的地のカリブ海の島々に近づいているのだということを自ら確信できるよう行動したこと。このことが生きのびるのだという執念と希望を失わせなかったことにつながったと思う。

 それもあと何日で到着すると弾き出し、それを自分に言い聞かせ、奮い立たせていた。まったく目印のないところで、漂流している方向を知り、ボートの速度をおおよそ割り出していたのは、驚異的だった。

 事実、鉛筆でつくった簡易な天測器でほぼ正確な位置をつかんでいた。手先が器用だったことも幸いした。

 先の見通しを具体的に知ろうとした、そして知ったことが76日間の苦闘を支え続けたのだ。

 これは、私たちの人生のすべてにいえることだろう。

 この本を読むと、

 人生に絶望というものはない。あるのは運を引きつける努力と自らがつむぎ出す希望に向かう行動だけである

ということが、痛いほどわかる。

 人生論なるものは世に山ほどある。が、これほど読む者の心を打つものは、マア、ないだろう。

 ● 補遺 『太平洋ひとりぼっち』(堀江謙一、1962)

  ヨットマンによる似たような話は、太平洋単独横断成功の手記としては

 『太平洋ひとりぼっち』(堀江謙一、文藝春秋。1962)

がある。

 ベストセラーとなり、またただちに映画化もされた。が、ブログ子には、正直、これより失敗談のほうがはるかに得るところが多かった。

 もう一つ、1970年4月に起きた米有人月着陸宇宙船遭難の7日間の一部始終をまとめた

 『アポロ13号 奇跡の生還』(新潮社、1994年)

も挙げておきたい。ただ、これは、遭難の宇宙飛行士自身によるものではない。その分、当時の様子をビビッドに伝えるものとはなっていないのが残念。しかし、アメリカの技術力の底知れなさを世界に認めさせる壮大なる出来事ではあった。

 この生還でも、チーム力を生かし、ネバーギブアップ精神が見事なまでに発揮されていたのは間違いない。

 ただ、この三冊に共通するのは、

 陸地のありがたさ

である。再び不動の陸地に戻りたい。これが、孤独や恐怖と闘い続けた彼らをして、生きる希望の土台となった。

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魚はなぜ横向きに描くか 常識を疑おう

(2014.09.05)  シニアとなったブログ子も、夏なのだから、やはり日常を離れて夏休みをとりたいと、とあるサマースクールに先日、参加した。

 Imgp5132 行き先は、琵琶湖北西岸の安曇川近くの小さな川。そこでの生き物探しなのだが、親子連れ、学生たちにまじって、高齢者仲間3人が魚取り用の網やバケツを担いでの1泊旅行となった。夜は野外でワイワイとバーベキューを楽しもうというごくごく安上がりなサマースクールだった。

 ● サマースクール2014安曇川に参加して

 こういう場合、たいていは日常生活からは思いつかない「ハッとする話」や体験をするものだが、また、それを期待して参加したのだが、やはりそんなことに出合った。

 川で魚を取るということで、このスクールでは、川や魚の見分け方に詳しい専門家が同行していた。その人が、

 魚はたいてい真横向きに描くが、人間の場合のように、目や顔を真正面から見る観察も大事

という趣旨の解説を、川遊び体験後の夜の学習会で披露してくれた( トップ写真 。写真右 = 展示ケースの中の魚は捕ったばかりのカワギス )。

 Imgp5124 つまり、常識を疑おう

というのだ。そういえば、たとえば左下の写真の図鑑でも、表紙ばかりか、本文の魚もほとんどが真横からだけしか描かれていない。美しい縞模様がよくわかるからだろう。また専門的な魚類図鑑もたいていそうなっている。

 しかし、魚がどの仲間に入るのか、その種類を見分けるには、体の縞模様がよくわかる横からだけではなく、真正面から、さらには下から観察する。このことが、確かな識別には非常に重要であることは、科学的、合理的であるばかりか、ある意味当然だといえよう。

 なぜなら、そこから、魚は人間とよく似た体形をしていることがわかるからだ。

 ● 今森光彦さんの昆虫写真展

 Imgp52412013 こんなエキサイティングな話を、子供たちや夜のくつろいだ雰囲気の中で聞いていたら、ふと、5年前の夏(2009年)、静岡市にある静岡アートギャラリーで開かれた

 写真家、今森光彦「昆虫4億年の旅」写真展

というのを思い出した。

 昆虫の目や顔をほぼ真正面から撮り、しかも、人間の顔の大きさにまで引き伸ばして展示していた。昆虫の表情のなんと豊かで、ユーモラスなのだろうという印象が今も記憶に鮮明に残っている。

 昆虫というのは、何億年もの遠い昔、人間の先祖と分かれたので、人間とはほとんど無縁の、いわば虫けらの存在だと思っていた。が、ブログ子は、この写真展を見てから、虫けらと思っていた昆虫も人間とあまり変わらないと確信するようになった。

 今回の夜の学習会では、昆虫だけでなく、さらに魚たちの仲間でも、より一層、真正面からみることが重要であることを理解した。人間と魚とは、顔、手足の付き方、さらには体形は基本的に同じなのだということがよくわかった。

 ● 生きた魚の見方が変わった

 Imgp5211_2 こうなると、翌日のサマースクールで訪れた琵琶湖博物館の生きて泳いでいる魚類の観察もこれまでとは、まったく異なる視点で観察するようになった

 つまり、魚を下からも見るようになったのだ(写真右= 琵琶湖博物館水族展示のギギ)。また真正面からも見るようになった。

 そして、さらに偶然、先日拝見した今森光彦さんのかかわったプレミアムBSのミニ番組

 命の小宇宙、田んぼ

の見方もずいぶん変わった。この番組は、サマースクールと似たような琵琶湖に流れ込む川の上流の田んぼ(棚田)でのナマズなどの魚や水生昆虫の生態を美しい映像でとらえたものである。

 どういうように変わったか。

 それは、昆虫というものを横からだけではなく、人間の顔を見るのと同様、真正面から観察するようになった。

 そのことを示す参考として、以下のようにテレビ画面を眺めたということをここに書いておきたい。

 画面いっぱいに映し出されたこれらのゲンゴロウもタガメも、サマースクールの川遊びでブログ子自身が網やザルですくい取ったものと同じ種類のものだった。それを真正面から眺めるようになったのだ。

 このように、生き物の生態観察の視点、仕方が具体的にわかった旅行だったと思う。

 ● 追記 「陸の水」サマースクール報告 2014年11月14日記

 このスクールの実施内容報告については、日本陸水学会東海支部会ニュースレター「陸の水」No66(2014年11月14日発行)に詳しい。(閲覧希望者は、最後にあるブログコメント用の通信メールにてご連絡ください)。

 ● 追記2  古代湖、びわ湖

 湖としては途方も長い歴史を持つびわ湖の成り立ちについては、琵琶湖博物館の専門学芸員による次のような解説があります。

 http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/203233.html  

 これを読むと、もともとは琵琶湖は三重県伊賀市あたりにあったらしい。400万年かけて北上してきたという。そのエネルギーは何か。この「視点・論点」はとても参考になる。 

 (以下は、いずれも2014年9月5日放送のBSプレミアムミニ番組「命の小宇宙 田んぼ」のテレビ画面から)

 Imgp5245

Imgp5246_2  

 

 

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芭蕉の義仲寺を訪れて

Imgp5174ok (2014.09.04)  ちょっとした機縁で知り合った仲間たちと、念願の

 義仲寺(ぎちゅうじ、大津市馬場1丁目)

を訪れた( 写真 )。琵琶湖畔が目の前の国指定の史跡で、しかも写真の山門の真ん前が旧東海道になっている。

 寺内奥には松尾芭蕉の墓所( 写真左下 )がある。かの有名な辞世の句、

 旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻る

という文字が、墓の隣りの大きな句碑にくっきりと刻まれていた( 写真下 )。句碑の大きさは、人の背丈をかなりこえた大きなものだった。

 中学校の教科書に出ていた芭蕉の俳句に出合って50年、ようやくその墓参りができたことがうれしかった。

 Imgp5160 義仲寺でいただいた由緒書によると、元禄7(1694)年10月、芭蕉が大阪でなくなる直前、この句とともに、

 「骸(から)は木曽塚に送るべし」

との遺言を残したことで、ここに葬られた。

 木曽塚というのは、平安末期の

 木曽義仲(源義仲)の墓所

のこと。義仲は平家討伐の挙兵を行ない、朝日将軍となった人物である。

 その墓がもともとからこの寺にあったのを、芭蕉はしきりに句会などでこの寺を利用していたことから知っていたのであろう。

 ブログ子は、義仲がこの寺あたりで敗死したことは、吉川英治の『新平家物語』を読んで知っていた。が、芭蕉と隣り合わせに葬られていたとは知らなかった。

 さらに、この小説にも出てくるが、側室だった巴御前の塚も、なんと、義仲の墓の隣りに寄り添うようにおかれてあったのにはびっくりした。寺の入り口には、巴地蔵堂まで設けられていた。

Imgp5162_1  巴塚の少し後ろには、芭蕉の

 古池や蛙飛こむ水の音

というのもあった。

 現在のこの寺では、芭蕉が句会をしばしば開いていた場所は無名庵と名づけられた。句会や詩吟の集いの場になっており、付近の市民に開放しているらしい。また、史料館まで具わっていたのには感心した。

 1時間足らずの墓参りだったが、古池やの句の横には

 木曽殿と背中合せの寒さかな( 又幻(ゆうげん) ) 

という句もあり、訪れてよかったとの思いを一層強めさせてくれた。

 以下の写真は、上= 巴御前塚、下=義仲の墓(左端に巴塚の一部が写っている)。義仲忌は毎年1月の第3日曜日に営まれる。いずれも義仲寺で撮影( 写真のダブルクリックで拡大できる )

Imgp5157_2 

Imgp5158

 ● 芭蕉翁の座像に扇子を供える「奉扇会」

 寺内の翁堂(写真下)では、毎年5月の第二土曜日に奉扇会が執り行われる。

 Imgp5169

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