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『昆虫記』のファーブルは何を語ったか

Imgp4499 (2014.08.01)   晩年、30年をかけて書き上げた「昆虫記」(全10巻)で知られるフランスのA.ファーブル。「昆虫学的回想録」と名づけられたこの著作について、先月、NHKのEテレ「100分 de 名著」の番組が毎週1回、計4回にわたって紹介した。

 1910年完成というから、今からおよそ100年前に完成したこの本の解説にあたったのは、フランス文学者で昆虫好きでも知られる奥本大三郎さんだった。

 ● 息子へのレクイエムとして

 この本は、早世した、そして自分の志を一番受け継いでくれると信じていた次男の息子、ジュールのレクイエムとして、息子に語りかけるよう、わかりやすく書かれているという。決して学術論文調ではないのは、そのためだ。

 そこで、『種の起源』(1859年)で知られるイギリスのC.ダーウィンとほぼ同時代に南フランスで生涯を送ったファーブルは、

 この本で何を伝えたかったのか

そのことについて、ここにまとめておきたい。

 ● 種の多様性高める進化論

 第一。

 浩瀚なこの本の最終的な結論は、

 「(個体の)死は終わりではない。より高貴な生への入り口である」

ということだろう。より高貴な生への入り口とは

 生命は、食べる食べられるという循環を通じて、種の多様性を創り出していること

をさす。個体の死は種の多様性という新たな「生」につながっている。個体の死は終わりではない。

 この事実を、具体的な昆虫の生活史を生きたまま観察することでファーブルは息子に伝えたかった。

 種の多様性をになっているという意味では、どの種も平等であり、また種のなかの個体についても、無駄な生、あるいは無駄な死というものはない。

 これが、60年にわたり昆虫を観察しつづけてきたファーブルの到達した結論なのである。

 思うに、生態系が健全性を保っているということは、この「種の多様性」をより高めていることをさすといえるだろう。

 その意味では、個体の生や死に無駄なものはない。

 この結論から考えると、

 種の進化論というのは、

 ダーウィンの言うような、環境にどれだけうまく適応できるかという

 下等から高等な個体を生み出す自然選択あるいは弱肉強食のプロセス

などではない。そうではなく、

 種の多様性を高める平等な過程

のことであるということになろう。優勝劣敗思想とは無縁の平等思想の進化論に到達したのである。

 ● 本能とは何か

 第二。

 ファーブルは、昆虫の世界において、

 本能とは何か

という点を具体的に明らかにし、それを伝えたかった。

 狩りバチの獲物を生け捕るときの麻酔術など、もともと具わっている本能の精妙さ、見事さは驚くべきものであることを明らかにした。

 この本能の見事さ、精妙さからすると、神の存在を必要としないダーウィン進化論では、昆虫の生態はとうてい説明できない。本能というものは、小さな遺伝的な変異が偶然積み重なってできあがったというようなものではない。まさに神の御技としか考えられないというわけだ。

 ● 後戻りできない本能の愚かさ

 一方、本能の愚かさというのも、ファーブルは実験と観察から見事に示している。例としては、カベヌリハナバチの巣づくりを取り上げている。

 昆虫は、なぜか、状況の変化に応じて作業を中断、手順をやり直すという

 後戻り

ができない。本能のほかに知能が備わっている人間からみるとほんのちょっとのことなのに、

 後戻り作業

ができない。

 Imgp4498 これは、ブログ子が思うに、昆虫の脳の構造と機能の関係性のためだと思う。つまり、昆虫には、脳構造の制約から物事に前後関係や因果関係を知る手がかりとなる

 時間概念を認識する脳機能がない

からではないか。

 だから、おそらく、昆虫には、未来も過去も存在しない。あるのは現在だけなのだろう。わかりやすく言えば、昆虫にとってこの宇宙は時間のない世界なのだ。

 この意味では、ダーウィン進化論もファーブルの考え方も、自ら状況を判断し、次の行動を選択するという意味の

 主体性のある進化論、主体性の生物学

を否定していることになる。そんなことができるのは知能を備えている人間だけだというわけだ。これまたわかりやすく言えば、

 知能とは、時間感覚が認識できる能力

ということになる。

 動物については、大きく分けて、今から数億年前の古生代、

 昆虫類などの節足動物を含む旧口動物と、哺乳類など脊椎動物を含む新口動物

にわかれた。

 だから、主体性の進化論があるとすれば、それは少なくとも新口動物にかぎられるということになる。

 生命誕生時の細胞にも、旧口動物の昆虫にも、新口動物の人間にも、自発性という意味の「意志」はともにある。物質やエネルギーには外界に反応するだけで「心」というものがないのとは、ここが根本的に異なる。

 しかし、その心が宿っている生き物に自ら判断し次の行動を選択できるような主体性があるかどうかは、また別なのだ。心が宿っているためには、自動的な自発性ではなく、時間的な因果関係を理解した判断プロセスが必要なのだ。つまり、知能が不可欠なのだ。

 まとめると、脳が主体性の機能を備えるためには、少なくとも

 その生物に本能以外に、知能があること

が欠かせないことになる。このことをファーブルは、本能の愚かさの観察を通じて私たちに示したというべきかも知れない。本能と判断能力を持つ心の働きの違いを指摘し、

 なぜ生物に心が宿ったのか

という深遠な問題を突きつけたともいえよう。物質やエネルギーには心はないのに。

 ここには、物質、エネルギーのほかに、もう一つ、情報(の処理)という要素が深くかかわっているように思う。

 ● センス・オブ・ワンダーの感性を

 第三。

 最後に、ファーブルは、

 自然の不思議さに驚嘆する感性(センス・オブ・ワンダー)を持とうといいたかったのだと思う。

 生き物は神が創ったのか、それとも自然界が創り出したものか、そのいずれであっても、人間がこの感性を持っていないかぎり、自然が持つ奥深さは知りえない。

 そんなことをファーブルは、昆虫という、哺乳類とは別系統の(旧口)動物を通じて語りたかったのだろう。

 この感性を自らも持ったことが、元数学・物理教師だったファーブルが不朽の博物学者としてその名を歴史に残すことになった大きな要因だったと思う。 

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