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2014年7月

わが冷蔵庫の記 ああ、20年

 Imgp4759_2 (2014.07.30)  連日のこの暑さで夏バテするのは人間だけでない。わが家の大型冷蔵庫もついにモーター(コンプレッサー)の音がうるさくなるなどガタがきて、ついに先日の夜ダウンしてしまった( 写真右 = 三菱電機製 )。

 近所の電気屋さんに修理を頼んだら、

 「もう寿命。だって20年以上も前の製品です。機械もくたびれますよ」

と笑った。製造年は1992年前期だったので、ついブログ子も納得。消費税率引き上げ直後とあって痛い出費だが、泣く泣く買い替えることにした。

 ● 勉強1  休むことなく気化と液化繰り返す

 転んでも只では起きないブログ子の性格からか、この際、冷蔵庫について勉強しようという気になった。

 Imgp4761 そもそも冷蔵庫の原理とは何か。電気屋さんに聞いたのだ。理系出身のブログ子だが、これまでほとんどその原理についてはよく知らなかった。

 効率的に熱を吸ったり吐き出したりする安定気体(冷媒)をコンプレッサーで圧縮して液化。すると気体が液体になるのだから、中学理科で習ったように当然だが発熱する。冷蔵庫の後ろ下のコンプレッサーのあたりが熱いのはこれである。

 その液体が冷蔵庫の上あたりの冷却装置あたりに来ると次第に圧力が下がり、気化するようにしてある。すると、今度は液体が気化し、冷媒が気体に戻るのだから、まわりから熱を奪う。これが冷蔵室や冷凍室の原理である。

 まあ、言ってみれば、

 「打ち水」

と同じ原理。

 気体に戻った冷媒はコンプレッサーの中のロータリーで圧縮される。このサイクルを、年中休むことなく、わが家の冷蔵庫は20年以上も続けてきたわけだ。

 「そりゃ、疲れるわ」

というのが、ブログ子の感想だった。

 ● 勉強2  大丈夫か、フロン対策

 製造年の1992年といえば、冷媒フロンによるオゾン層破壊の防止や温暖化対策の地球サミット(リオ宣言)が開かれたころである。

 Imgp4762 わが家の旧冷蔵庫のフロン対策はどうだったのか。

 写真からもわかるが、冷媒名は「フロン12」。

  これは、正式にはCFC12といわれているものであり、オゾン層破壊の危険のある「特定フロン」。今では製造、販売ともに禁止されている代物であった。オゾン層を破壊しにくい「代替フロン」(HCFC)ですらなかったのだ。

 ということは、旧冷蔵庫の処分にあたっては、家電リサイクル法に従って、適正なリサイクル料金を支払って特定認可工場で処分する義務があるということになる。高いリサイクル料金だったことをここに書いておく。

 ところで、ふと気づいたのだが、新しい大型冷蔵庫(日立製)のフロン対策はどうなっているのか。それを調べてみたら、

 冷媒名 = R600a

となっていた。イソブタンであり、オゾン層破壊の防止や温暖化抑制に効果のある省エネ型の

 ノンフロン冷媒

だった。一安心だが、勉強にはなった。

 ● 勉強3  目からウロコ、真空チルド室って何 ?

  チルドという言葉は何度も聞いていたが、 この20年、どういうわけか、それが何の機能を果しているのか、不明にも一度も考えたことがなかった。

 Imgp4766 思い切って、新しい冷蔵庫を持ってきてくれた電気屋さんに聞いてみた。

 「生鮮食品の鮮度を保ってくれるところ」

と説明してくれた。刺身の切り身や生魚を入れておくと、おいしさが保たれるという。しかし、それは冷凍庫で十分ではないか、と聞き返した。何が異なるのか、よくわからなかったが、調べてみて、ようやく理解できた。

 冷凍庫で冷凍すると解凍したときに細胞が破壊されるので、鮮度が落ちる。これに対し、凍りつく直前の1、2℃くらいで冷やすのをストップするチルド室は、こうした細胞破壊がないので、鮮度が、そしておいしさがそのまま保たれるという。

  肉類を入れておくのもよし、また、発酵食品、たとえば、ヨーグルト、ブログ子の好きな納豆もチルド室保存がいいという。さらには味噌もいい。

 なるほど、刺身好きのブログ子としては、この話を知っただけでも、新しい冷蔵庫を買ったメリットがあったとうれしかった。

 ● 勉強4  省エネ効果はどうか

 しかしながら、短期的には消費税、リサイクル料金、搬入費用など含め10万円もかかったのだから、省エネ効果を点検しないと気がすまない。

 Imgp4770r600a そこで、ほぼ同じ大きさの新旧の冷蔵庫の省エネ効果を計算してみた。

 ざっとみて、現状の電気代がこのまま続くとすれば年間5000円の電気代の節約になると出た。10年で5万円、また20年持ってくれれば10万円の電気代が助かる。だから、その場合、今回の短期投資は元がとれることになる。

  (発電コスト原価(1KWhあたり)は、ならした単純計算でどの電源でも10円前後だが、家庭に届いた使用利用金(いわゆる電気代)では、電力会社の儲けや原発廃炉費用の負担金などが上乗せされるので、その2倍から3倍とかなり高くなっている)。

 そんなことも、今回、具体的な計算から知ることができたのも、メリットだった。

 ● 勉強5  「安心情報キット」を庫内に

 最後に、シニアとなったブログ子などは、地区を回っている民生委員から、救急時などに必要な情報になるのだから、

 「あんしん情報キット」をぜひ冷蔵庫内に

とアドバイスを受けた。透明プラスチック製の円筒型情報箱である。冷蔵庫の正面ドアには、そのありかを示すマグネットシールもはった。

 案外、これが一番の冷蔵庫を買い替えたメリットだったかもしれない。

 ( 写真はダブルクリックで拡大できる )

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なぜエッシャーの絵「滝」にだまされるのか 

(2014.07.24)  先日、この欄で

 なぜ錯覚をするのか

ということを書いたら、ある若い女性から、

 エッシャーのだまし絵「滝」(オランダの画家、M.C.エッシャー1961年作、右図)

というのは、錯覚の科学ではどういうように説明されるのか、という問い合わせがブログ子に届いた。 110216taki_2

 ブログ子の場合、記憶の錯覚とか、思考の錯覚というのに興味があったから、あまり

 錯覚の芸術(トリック・アート)

については、よく考えていなかった。おもしろいなあ、というくらいだった。

 そこで、この問題について、少し考察し、次のような結論に達した。

 ● 背景という「新しい遠近法」の発見 

 三次元的な奥行きのある場面を、二次元のキャンバスにそうみえるように描きたいときは、よく知られているように

 遠近法の技法

を使う。十五世紀に活躍した万能の天才、レオナルド・ダ・ビンチなどは絵画制作でこの手法をたくみに活用していたことはよく知られている。

 消失点から放射状に広がる線を引き、それを基準に場面を構成する。そうすると、実際は二次元キャンバスなのに、人間の脳は立体的であるかのように認識する。決して平面であると正直には認識しない。つまり、過去の経験を織り込んだ脳自身の高度情報処理能力のおかげで、その場面は二次元場面なのにあたかも三次元の場面のように、脳が錯覚するというわけだ。

 これに対し、20世紀の画家、エッシャーは、消失点がなくても、遠近法同様の奥行き感を人間の脳に与える「だまし絵」があることを発見した。

 つまり、消失点に頼らない

 新しい遠近法

である。事実、「滝」のなかの水路は、どこまでも平行に描かれており、どこにも消失点はない。

  なのに奥行きがあるかのように人間の脳には感じる。その秘密は、エッシャーの「滝」でもわかるが、

 場面の奥に見える背景

である。これがあるために、消失点がないのに、これまでのリアルな経験からくる脳の高度情報処理のせいで、人間の脳は背景の手前に場面があるものと、遠近感を認識してしまうのではないか。

 つまり、背景がなければ、(消失点はないのだから)ただの二次元の模様にすぎない。また、描かれた場面に水が流れているように見えるために、奥行きを感じるように目から入った情報に脳自身が過去の経験から〝高度の〟、あるいはお節介な処理をしてしまうのではないか。

 このようにして、エッシャーの「滝」では、一見

 永遠にエネルギーが取り出される永久機関、つまり永久動力源ができるかのような錯視

が起こるのだろう。

 ● 脳をだます不可能物体、不可能図形

 エッシャーの絵「滝」は二次元だから、いわば

 不可能絵画

の具体的な事例。一般的には、不可能図形というらしい。

 これに対し、二次元のキャンバスには絵としては描かれたものの、それを実際に工作することは不可能な物体というのもある。

 たとえば、ペンローズの階段。一段一段上っていくと、いつの間にか上っているつもりなのに、結局元々の階段のステップに戻ってしまうようにみえる絵である。これだと、永遠に昇りながら、グルグル同じところを回り続けなければならなくなる。ら旋上昇階段にはならない。そんな階段は実際のリアルな三次元世界では工作できない。

 この階段を利用したのが、エッシャーの「滝」なのだろう。 

  ここまで書いてきて、ふと思いついた。お節介機能が働くのはどんな場合なのだろうかと。

 「滝」の絵もそうだが、また「ペンローズの階段」もそうだが、どうやら、人間の脳は、角っこの処理において、背景との関係でお節介な機能を働かせるらしい。これが、人に奥行きを感じさせる。そう感じた。

 このほか、自然に水が高いほうに流れていくように見えたり、何もしていないのに玉が上へ上へと重力に逆らって上っていったりするように見えるのも、背景が起因する脳の高度情報処のせいなのだろう。

 ここでも、お節介な機能は「角の処理」と関係があるように思う。

 脳のお節介機能が、人間に錯視を起こさせている。お節介という便利で効率的な認識機能には、こうした脳の思い違いをも人間に引き起こしている。

 (写真は、M.C.エッシャー「滝」(1961年) = 出典不明 ) 

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なぜキャベツの葉は幾重にも丸まったか

(2014.07.20)  先日、偶然だが、放送大学の

 Imgp4673_2 植物の科学

の最終回を見た(講師は塚谷裕一)。その中で、

 キャベツはなぜ幾重にもびっしりとかたまった葉になっているか

という話をしていた。ブログ子の食卓にもキャベツはなくてはならない野菜である。しかし、一度たりとも、そんなことを考えたことはなかった。

 だから、野生のものもスーパーで売っているキャベツも同じく、びっしりと葉は丸まっていると錯覚していた。

 事実は、なんと、野生のキャベツの葉は、あんなに丸まってはいないという。言われてみれば、それはそうだろう、あんなに丸まっていれば、光を集めるという葉本来の役目は果せない。野生にはあんなに丸まったキャベツはありえないのだ。

 では、どうしてあんなものができたのか。それは人手による人工交配という品種改良の成果なのだ。食べやすいようにという人間の都合で生み出されたものというわけだ。これに対し野生のものはもともとヨーロッパ原産で、葉は大きく広がっている。

 だから、その延長で、カリフラワーやブロッコリーなんていうのも、人の食の都合を考えた品種改良の結果なのだ。

 いやはや人間というのは、すごい。いや、こわい。

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サッカーW杯、日本の〝ガラパゴス〟報道

(2014.07.21)  サッカーW杯もドイツの優勝で幕を閉じたが、ブログ子は、日本のマスコミ界の度外れた、冷静さを欠いた日本代表応援騒ぎにうんざりした。

 日本サッカーファンのレベルの低さのなせる業なのだろうが、痛烈なマスコミ批判のコラムが目についた。決勝戦直前の7月13日付中日新聞に載った「世談」欄の

 脱ガラパゴス

という秀逸コラムである。書いたのは中日新聞経済部長というのだから、びっくりした。

 日本代表の出場する1次リーグのばかげたハチャメチャ解説が終わり、日本代表の出場のない決勝トーナメントが始まったら、途端にサッカーが面白くなったと皮肉っている。真剣勝負の熱き戦いが日本抜きで冷静に見られたからである。

 日本の報道は、世界基準からかけ離れた、いわば経済用語でいうガラパゴス化があったと痛烈に批判している。いかにも経済部長らしい的を射た指摘であり、感心した。

 日本代表が早々と負けてくれたからこそ、サッカーががぜん面白く、そのすごさも堪能できたというのだから、厳しい指摘である。

 こういうのが、コラムというのだろう。 

● 補遺 スペイン型パスサッカーの追求

 決勝戦の終わったあとのコラム、

 4年後、ロシアに行こう

という産経新聞2014年7月28日付の「視線」欄も面白かった。ライターは大阪編集長、井口文彦氏。なかなかのサッカー通なのが内容からわかる。

 ただ、内容に比べ、このコラムタイトルはあまりにも凡庸である。

 要するに、内容を要約すると

 あくまでも日本は、技術で小が大を倒すスペイン型パスサッカーを追求し、ロシアに行こう

というものである。W杯の勝ち負けは「力か、技か」であり、体力の劣る日本人のの場合、攻撃力においては、結局のところパスサッカーが向いている、というかそれにならざるを得ないというわけだ。

 コラムでは、言及してはいなかったが、スペインが今回、1次リーグで敗退したからといって、日本はこの点を忘れてはならないとクギを刺したかったのだろう。

 このことを、コラムは専門的に解説して見せていた。

 だから、コラムのタイトルは

 スペイン型サッカーの追求を

というのが正解だろう。

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メタ認知のすすめ なぜ錯覚をするのか 

(2014.07.20) この4か月間、放送大学(BS)が今年度から開講した

Imgp4500  錯覚の科学

というのを視聴した。とても面白い授業だった。常識を疑おうというこのブログの目的によくかなった放送でもあったように思う。

 先日7月18日金曜日はその最後の授業で、これまでのまとめと、なぜ錯覚の科学なのかということが語られてきた。

 まとめのテーマは

 メタ認知

というものだった。

 放送をごく簡単にまとめると、

 錯覚をTPOに応じてコントロールできる批判的思考(クリティカル・シンキング)を養うこと。それが錯覚の科学の授業が目指すところ

というものだった。人の認知能力を正しく認知するという意味で、それはメタ認知とも言えるだろう。

 ( 写真は、同放送大学テレビ画面から )

  ● 補遺 錯覚の科学

61nkc0zn6rl__aa160__2   最新の心理学研究の成果を、わかりやすく解説した近刊に

 『錯覚の科学』(C.チャブリス+D.シモンズ、文春文庫)がある。ハーバード大での科学実験で克明に解明した脳というものの驚くべき真実。

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ビットコイン グローバル仮想通貨の正体

(2014.07.15)  どういう経緯か知らないが、あるニュースサイトに、つい最近、

 米連邦捜査局のFBIが押収ビットコインを競売に

というニュースを見つけた。

 ● 実体のない〝レアもの〟

 ブログ子は、これを見て、

 ビットコインというグローバル仮想通貨のあやしげな正体

を見た気がした。

 要するに、そしてわかりやすく言えば、ビットコイン(BTC)とは、一見、グローバルに売り買いできるところから国際的に通用する通貨のようにみえはするが、紙幣や硬貨とは違い

 実体のない〝レアもの〟

なのだ。その正体とは、競売によく出てくる有名画家の絵画や貴重本、あるいはビートルズの直筆手紙と同じ。しかも、ビットコインの場合、それはデジタル上にしか存在しない。

 手持ちのビットコインを交換取引サイト(たとえば、米クラーケン社)で売り、円やドルに換えたり、その逆、円やドルを支払ってビットコインを手に入れることは、その手数料を払えばできる。しかし、ビットコインそのものは、お札と違い、現実のリアルな世界では決して見ることができない代物なのだ。

 株式の投機以上に乱高下するのも無理はない。

 こう考えると、儲け話にさとい中国人が投機的に我先にと、ビットコインに飛びついている現状も理解できる。

 ● 何が信用を支えているか  

 円やドルといった通常のリアル通貨の信用は、発行する政府の信用に基づいている。信用力が高まればその通貨は高くなるし、信用力が低下すれば、その通貨は安くなる。

 これに対し、発行主体のないビットコインの売り買いのベースとなる信用は、取引記録の売り買い履歴そのもので決まる。ビットコインを買うということは、そのビットコインが経てきた交換記録を買うことである。

 そのため、その記録が偽造されないように、あるいはハッキングされないように高度の暗号化技術が、その履歴の記録において使われているという。

 仮にそうだとしても、つまり、取引記録が高度の暗号化で仮にハッキングできないとしても、売り買いサイト取引会社のシステムをハッキングすることはそれほど困難ではない。

 ここにビットコインのウイークポイントがある。

 事実、2014年春、日本のMT.GOX取引所はハッキングされ、経営破たんした。ビットコインが消滅したらしいが、勘ぐれば、ハッキングした犯人は、その会社自身であり、最初から持ち逃げする計画破たんだった可能性もある。

 ● 新規発行はどうなっているか

 ビットコインには、通常のリアル通貨のように、紙幣発行権を持つ中央銀行はないのだから、ビットコインの新規発行はどのようにして行なわれているか、という問題がある。

 取引所を通さず、どのようにビットコインを新規に獲得するかという問題である。これが、マイニング(採掘)という手法。

 簡単に言えば、これは

 自らリアルマネーにおける中央銀行のような役割を担う

というのだ。

 もう少し詳しく言うと、取引生データから顧客や消費者の購買パターンを〝掘り起こす〟マイニングで、システムは、その掘り起こした人にその掘り起こした分に見合う

 新規ビットコインを発行する

という仕組み。まさに、中央銀行がやっていることを個人が行なう仕組みだ。

 中国ではこのマイニングという金鉱掘りに、多数のパソコンを使って大もうけしようと狂奔しているあやしげな姿が報じられている。先日のBS1のドキュメンタリーWAVE

 密着 ビットコイン 最前線

である(BS1 2014年7月5日放送)。

 心配なのは、当然だが、リアルマネーと同様

 マイニングで、無制限なインフレを引き起こさないか

ということだ。ある日突然、ビットコインという〝レアもの〟の交換価値がほとんど無価値になってしまわないかということである。

 あるいは、政府のビットコイン取引の口座開設抑制や封鎖措置、あるいは消費サービスの停止決定で、ビットコインの信用力が極端に低下し、いわば〝紙くず〟になってしまわないか。そのリスクは大いにあるだろう。

 ● Suica、nanaco TOICA、Edyの電子マネー 

 ビットコインと似たような地域通貨は、発行主体が企業であるが、これまでにもあることはあった。

 代表的なものは、かつての

 電話料金支払いのためのテレホンカード(前払い方式)

であり、最近では便利にサービスを受けるための

 JR東日本の「Suica」カード

あるいは、「nanaco」カード、JR東海の「Toica」カードが有名。いわゆる電子マネーである。

  いずれもそれ自身は取引の対象ではない。換金性も基本的にはない。交換ではなく、利用することが中心である。したがって、取引市場はないに等しい。〝レアもの〟は別にして、通常の使い方では、値上がりしたり、値下がりしたりすることもない。

 ● だれがシステムをつくったのか

 ビットコインは、その意味で、こうした従来の地域電子マネーやプリペイドカードとは、根本的に異なる。つまり、交換の目的が、より便利にサービスを提供することではない。投資・投機の対象であることだ。少なくとも現状はそうだろう。

 そこに、中国人の暗躍の余地があり、ビットコインのいかがわしい正体がある。

 この現状を乗越え、ビットコインを、より便利にサービスを受けるためのものに変えていくには、どうすればいいのか。

 大変に難しい問題だと思う。

 なにしろ、こうしたビットコインのシステムを創ったのはだれなのか、日本人という説もある。が、今のところ不明ということ自体、そのいかがわしさを象徴している。

 まったくの素人ながら、ブログ子は、レアもののビットコインには危惧すべき点が多々あると感じている。

 ● 本当の恐ろしさとは

 もっと単純な言い方をすれば、

 仮にそうしたいかがわしさがないとしても、ビットコインには

 あまりに便利で、

 使いすぎる

という落とし穴があるということだ。ビットコインの本当の恐ろしさは、この消費拡大というワナかもしれない。人間のあくなき消費癖を巧に突いている。

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下士官たちの「二百三高地」

(2014.07.14) 数年前、司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』を原作とするスペシャルドラマ

 「坂の上の雲」

をNHKは3年にわたり、3部構成で放送した。

 日露戦争をテーマとしたものだったが、毎回、ドラマ冒頭に流された「まことに小さな国が、開花期を迎えようとしていた」とのナレーションは、よく覚えている。そして国家の目指すところと、実力主義人材登用という個人のめざすところとが一致した「まことに、幸せな時代だった」という明治の明るさが、どうやら結論だった。

 ● 映画制作の意図とは

 知らなかったという不明を恥じなければならないが、そしてどういう時代背景があったのかわからないが、このドラマが放送される30年前にも、日露戦争を取り上げた大型映画があった。

 東映映画「二百三高地」(舛田利雄監督、1980年、原作はない)

である。明治天皇役を三船敏郎、伊藤博文役を森繁久弥、乃木希典役を仲代達矢が演じていた。夏目雅子も登場して話題を呼んだらしい。

 この映画が、先日、BS-TBSで放送されのを見た。

 ブログ子が長く暮らした金沢の第九師団も登場し、金沢弁の「だら」という懐かしい言葉も何度か出てきて、懐かしく見ていた。

 そして、ふと、この映画は何を意図してつくられたのだろうか、ということを考えながら見るようになった。

 それを解き明かすにおいて、第九師団の下士官役、あおい輝彦、その恋人役、夏目雅子の恋物語がかぎであることに気づいた。

 先に、結論を言ってしまえば

 今も昔も、開戦で一番ひどい目にあうのは、敵味方ともに、大将でも、政治家でもない。下士官たちであり、最前線にかりだされて、無残な死を強いられる大衆なのだ。そのことを極端な形で「203高地」は語っている

というものである。

 ● TBS放送の意図は集団的自衛権反対

 BS-TBSが、集団的自衛権で政治が大きく揺れているこの時期にこの映画を放送したのは、このことを多くの人に伝えたいが為であろう。この目的は、すさまじい人的な被害を出した「203高地」の攻防でものの見事に描き出しており、果たしていたと思う。

 この映画のテレビ放映意図は、集団的自衛権反対を訴えることなのだ。

 ● さだまさしの主題曲「防人の詩」

 このことをはっきりと裏付けるのが、さだまさしがこの映画の主題歌として歌った

 「防人の詩」

である。さきもりのうたと読むらしいが、「おしえてください」で始まる。「シクラメンの香り」と並んださださんの名曲である。

 なんと、このうたのもとは、世間の無常を歌った問答歌の「万葉集」第3852首の

  鯨魚(いさな)取り 海や死にする 山や死にする 死ねれこそ 海は潮干て 山は枯れすれ

なのだ。

 意味は、海は死ぬだろうか。山は死ぬだろうか。(もちろん)死ぬからこそ、海は潮が干るし、山は草木が枯れるのだ、というぐらいのところだろう(1973年「日本文学大系7」万葉集より)。

 もう一つ、この映画のポイントは、子どもたちを教える教師であり、戦地で死ぬことになる若き下級士官(あおい輝彦)の妻役を演じた

 夏目雅子

である。夫がかつて立った同じ教壇に残された

 美しい日本

という白墨の筆跡を、映画ラストシーンで教師となった妻もまた、それをなぞり、書こうとするが、涙なくしてそれを書ききれなかった。

 美しい日本のためには「なせばなる、なさねばならぬ」式の単純な戦争肯定と受け取る向きもあるだろう。

 が、愛する夫を戦地で失い、子供たちとともに遺された妻の悲しみは、深い。いくら美しい日本をつくるためとはいえ、戦争はダメだと無念のなみだを流したと解釈すべきであろう。

 戦争で人を殺し、殺されて、何の「美しい日本」なのか

という告発でもある。

 この意味で、この映画の真の主役は、乃木第三軍司令官(仲代達矢)ではなく、下士官の妻、夏目雅子だったと思う。

  ● 日露戦争開戦から110年

      - 「美しい日本」の正体

 ひるがえって、日露戦争開戦から110年。

 かつて『美しい日本へ』(文春新書、2006年)を大々的にかかげて安倍晋三氏が登場、第一次安倍内閣をつくった。この本で安倍首相は、海外から批判の強かった「醜い日本」から美しい日本を目指すには、まず自律の精神が大事であることを強調している。

 最近では、この〝完全版〟と称して

 『新しい日本へ - 美しい国へ完全版』(2013年、文藝春秋社)

という本まで出版している。

 今回の映画は、美しい日本とか、新しい日本とかいうものの正体を、奇しくもあばいているといえるだろう。

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映画「第五福竜丸」は何を訴えたのか 

(2014.07.11) 映画監督だった新藤兼人さんがなくなって2年がたつが、先日、新藤さんが資金難のどん底の中で執念の制作となった

 ドキュメンタリー映画「第五福竜丸」(1959年)

を見た。幻のドキュメンタリーと言われたのが、事件から60年の今年、DVD化でなんとかよみがえった。

 南太平洋でビギニ水爆実験に遭遇、死の灰をかぶった乗組員23人。そのなかで最初になくなった無線長、久保山愛吉さんの死亡までの日々をほぼ忠実に追ったもので、愛吉役を宇野重吉、その妻役を乙羽信子が演じている。

 ● 「内部被曝」の恐ろしさを描く

 Imgp4395_2 観終わって、

 この映画は何を訴えようとしたのか

ということが気になった。

 結論を先に言えば、

 広島、長崎の原爆症という、放射線を直接あびる恐ろしさを描いたというよりも、「死の灰」という環境にまきちらされた放射能物質による「体内からの被曝」の恐ろしさを、久保山さんの死を通じて、まざまざと描き出し、告発したもの

といえるだろう。直接に「ピカドン」にあわなくても、降ってくる放射性物質が体内に取り込まれることで「放射能症」を引き起こす。この映画はその恐怖をつぶさに、そして具体的に映像化した。

 原爆、水爆の爆発瞬間の恐ろしさというよりも、その後にじわじわとやってくる体内に残留した放射能を持った物質の恐ろしさを描いたのだ。久保山さんの場合、それは6か月にわたる闘いだった。

 こうしたことが、ある程度知られるようになったのは、ずっと後の井伏鱒二の異色の小説、

 『黒い雨』(1966年、新潮社)

である。しかしそれが深刻な現実となって目の前にあらわれたのは、放射能症の後遺症に苦しむ多くの住民を生んだチェルノブイリ事故(1986年)、あるいは日本では、直接被曝ではあるが2人の作業員が事故3カ月後に多臓器不全で死亡した東海村JCO臨界事故(1999年)ぐらいからである。

 ● 死因は死の灰かぶった「放射能症」

 2009年に発見された久保山さんのカルテによると、

 死因は「放射能症」

である。死の灰をかぶったことによる肝臓機能障害など多臓器不全が直接の原因。東大医学部付属病院で直後に行なわれた解剖の結果、肉眼で見ても、骨髄や肝臓、脾臓などほとんどの内臓がはっきりと通常とは異なる変化を示していた。

 このことから、アメリカ側の言うような単純な血清肝炎(売血輸血に伴うウイルス感染)とは片づけられない。このことは、当時の生き残り乗組員、大石又七さんの手記『死の灰を背負って』(1991年、新潮社)でも、治療にあたった日本側医師団から直接聞いた話としてかなり具体的に証言されている。

 ● 新藤監督の先見性に驚く

 新藤監督は、この映画を制作する前、すでに

 「原爆の子」(1952年)

という映画も撮っている。その意味では、内部被曝の恐ろしさを描いた「第五福竜丸」への思い入れは並々ならぬものがあったであろう。

 福島原発事故後の今でこそ、放射線と同時に、環境にまきちらされた放射能物質による内部被曝の恐ろしさは一般に認識されている。が、事件のおきた60年前にはそうした認識はほぼ皆無であったろう。新藤監督の社会派らしい鋭い感覚が、独立プロの真骨頂を見せ付けるかのようにこの映画をつくらせたのであろう。

 ● 原発事故「3・11」後への教訓

 100歳でなくなる直前まで、新藤監督は、このほか「午後の遺言状」(1995年)、「一枚のハガキ」(2011)など、戦争をにくむ映画を撮りつづけた。

 今回の幻のドキュメンタリーとも言われた映画を見て、ブログ子は、

 新藤監督の先見性

に驚くばかりである。

 この先見性は、「3・11」という原発事故後の日本に多くのことを語ってくれていると思う。

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PK「ルール」を学ぶ サッカーW杯

(2014.07.11)  先日、W杯サッカー(ブラジル大会)の1次リーグの始まったばかりの段階で、

 なるほど、これでわかったオフサイドルール

というのを書いた(6月17日付)。

 ● 守る側の反則ルール

 ところが、あるサッカー通らしい読者から、

 オフサイドのルールは攻める側のもの

という指摘を受けた。つまり、これに対し、ゴール前の守備側の反則ルールを知って、初めてサッカーの面白さが倍増するという指摘だ。

 大学時代にサッカーの授業を受けたが、オフサイドが主なルールであり、守備側の主なルールはとんと忘れていた。

 ゴール前のペナルティ・エリア内で守備側が、ボールを持った攻撃側選手の足を引っ掛けるなどの反則(ファール)

のことを思い出した。これを犯すと、攻撃側のPKとなる。守備側としては、1点取られる重大な局面である。

 そのことを承知で、守る側の選手は目の前の失点を防ぐために、あえて反則(PK)をするのか、それとも、正攻法で防御するのか、攻撃側のオフサイドを計算に入れながらの攻防が見ものだというのだ。

 W杯というのは、攻撃側のオフサイド反則あるいはペナルティ・エリア内での守る側の反則について、リプレーをしてくれるので、その様子がよくわかるのが、面白い。

 それにしても、こんな攻防を、線審としては瞬時にさばかなければならないのだから、負担が大きいだろう。

 この小さなブログでも、読者がいろいろ教えてくれるので、ありがたい

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SF映画「ゴジラ」 第1作の歴史的な意義

(2014.07.11)  先日、BSのプレミアムシネマで

 日本初のSF映画「ゴジラ」(東宝、1954年11月公開)

を見た。60年回顧映画だ。志村喬や宝田明が登場する。長い眠りについていた巨大怪獣、ゴジラが水爆実験で目を覚ます。それが突然、東京湾に現れ、そして都内に上陸し放射能まみれになって暴れまわるというストーリー。傲慢な人間への自然界からのしっぺ返しを描いた映画だろう。

 原作はないのだが、映画づくりの準備は、なんとビギニ水爆実験で第五福竜丸が被曝した1954年3月直後の4月から準備に着手。4か月ほどの撮影でその年10月に完成。11月に公開、大ヒットした。

 この映画の結末は、人間が発明した科学・技術、一瞬にして水の中の酸素を取り除いてしまう物質によって、ゴジラは海中で窒息死してしまう。

 そして、古代生物学者役の志村喬が、映画の最後で

 「あのゴジラが最後の一匹とはいえない。このまま水爆実験が続く限り」

というような台詞で終わる。ゴジラの逆襲があるかもしれないと予言しているのだ。その第一作は、明らかに第五福竜丸事件を材料にした冷戦を背景とした反戦映画なのだ。

  日本初のSF映画は冷戦映画だった。

 ● 世界初は「月世界旅行」

 『世界SF映画全史』(北島明宏、2006年)によると、世界初のSF映画は

 「月世界旅行」(1902年、フランス、米映画)

 ストーリーは、砲弾型ロケットで月に行くというはちゃめちゃな話。つまり、夢のあるというか、宇宙ものだった。このことが、海外では「宇宙戦争」(1953年)、「2001年宇宙の旅」(1968年)など宇宙や宇宙人をテーマにした壮大な脱地球映画がSFの大きな分野、あるいは主流を占めるに至る。

 これに対し、日本のその後のSFは、現実を背景にしたゴジラ映画や「日本沈没」(1973年)など地球映画にとどまってしまった。宇宙にまで目が届かなくなってしまった。

 つまり、米映画は壮大な見上げる未来ビジョン映画をつくり続けたのに対し、日本は現実から目を離すことが出来ずこじんまりとした現実重視の四畳半SFに終始したという違いが生まれたように思う。

 日本のSFには、海外のような知的センスのあるはちゃめちゃがなかった。このことは自由に想念を広げることが出来るというSFの最大の魅力を大幅に損なう結果を生んだように思う。

 一言で言えば、日本のSF映画は、アニメ映画をのぞけばあまりに現実的であり、まじめすぎた。極論すれば、SF映画の名に値しなかった。

 ● 1990年代まで地球怪獣に終始

 ゴジラを生んだ日本SFだが、残念に思うのは、これを発展させて、

 なぜ地球外怪獣、エイリアンを生み出せなかったか

ということである。地球で暴れまわる地球怪獣映画に堕してしまった。島国根性から抜け出せなかったし、抜け出そうとしなかったといえそうだ。

  ゴジラのシリーズ映画は、ゴジラ誕生30周年( 補遺 )、40周年を経て、なんと1990年代まで続いた。そこには新しい可能性を開く試みや哲学はなにもなく、ただただ地球怪獣の第一作をそのまま踏襲しただけであり、惰性の制作だった。

 ここでも極論を言えば、日本のSF映画は、人情映画「男はつらいよ」寅さんシリーズと基本的に同じだった。日本のSF映画には、SF的なことは何もなかった。

 これには、この間、斜陽化する一方の邦画界だったため、一定の興行成績が確実に期待できることから、それにしがみつき、新境地に挑むあるいは打ち切る勇気がなかったのだろう。

 ● 世界に通用する出色の出来

 この意味で、1954年の第一作は、技術的にはともかく、哲学的には問題点をしっかり捉えており、SF映画として世界に通用する出色の出来だったといえるだろう

  ● 補遺 制作30周年「ゴジラ」(1984)

 この映画では、伊豆大島の三原山にゴジラが出現し、都内を暴れ回るというストーリー。途中、稼働したばかりの静岡県の浜岡原発(映画では井浜原発)を襲い、原子炉から出る放射能をすべて吸い取ってしまう。どうやら、ゴジラは放射能をエネルギー源としているらしい。

 さらに、第一作ゴジラが本格的な冷戦がスタートした時につくられたのに対し、16作目に当たるこの映画では、冷戦末期とあって、米ソがなんとなく、協力しあっているような雰囲気があった。

 この映画もまた地球怪獣映画であることには変わりがない。

 ブログ子が唯一、注目したのは、20代の沢口靖子が登場していたことである。この映画の制作された時期に、ブログ子は彼女を大阪で一度だけ取材したことがあったからだ。彼女の父親は当時、大阪市交通局に勤めていたことを今も覚えている。 

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科学・技術を見直す「ダークツーリズム」

(2014.07.12)  「光」を観ると書いて、観光と書く。この伝で言えば、

 「影」を観る

というのは、どういうのだろう。そんなことを、一度もブログ子は考えたことはなかった。

 ● 「影」を観にいく

 先日、富士ゼロックスの季刊誌

 「グラフィケーション」(2014年7月号)

というのを、見ていたら、観光学者の井出明さんがインタビュー記事で

 戦争、災害、事故など近代の悲しみの跡を訪ね、受け継ぐ旅

が、ダークツーリズムであると語っていた。近代の科学・技術を見つめ直す旅でもあるわけだ。

 そういえば、ブログ子も、この春、旅行会社企画の福島県富岡町のJR富岡駅など津波や原発事故による放射能の傷跡を見て回るツアーに参加した。

 これなども

 原発事故ダークツアー

なのだろう。ただ、ブログ子は企画に参加して、地域の負の歴史を目の前にして、あるいは体感して、どんな意味があるのだろうと、帰りのバスの中で考えあぐねた。なかなか納得いく答えが出せなかった。

 ● わが事として何度でも

 しかし、このインタビューを読んで、

 近代の科学・技術を見つめ直す旅である

ことに気づいた。単に悲惨な状況を覗き見する、人の不幸を見に行くというのとは、ダークツアーは違う。実感を持って、人の悲しみを自分のこととして受け継ぐ行為なのだ。

 だから、他人のうらやましい環境や状況について物見に行く観光のように1回行けばいいというものではない。自分のこととして受け入れるのだから、何度でも同じところに出かけ、考えるということが大事であるということがわかった。

 ここに観光とダークツアーの違いがある。  

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集団的自衛権、閣議決定はまやかしだ

(2014.07.05) 今回の集団的自衛権についての安倍内閣の性急な閣議決定は、結論的に言えば

 まやかし

であるといえるだろう。辞書によると、まやかしとは、

 それらしく見せかけた、ごまかし

のこと。それとは、今回で言えば、決定の中にある

 「国民の生命、自由及び幸福追求の権利を守るためのやむを得ない」措置

のことである。

  国民のための措置のように見せかけてはいるが、実はこの決定は多国間の集団安全保障への道を開くひそかな地ならしなのだ。

 以下、そのまやかしの根拠を具体的に指摘してみたい。

 ● 「憲法の基本変わらない」のウソ  

 第一のまやかし。

 そもそも歴代自民党内閣、たとえば1972年の見解などが繰り返し、集団的自衛権は行使「できない」と明言していた。これに対し、閣議決定では「できる」と180度変更した。のに、「憲法解釈の基本的な考え方は変わらない」(決定後の安倍首相会見発言)と強弁したのは、まやかし以外の何者でもない。

 決定にあるような「グローバルなパワーバランス変化」など国際情勢が変わっただけであるという強弁は、憲法は、粘土細工のように時の政権の恣意で自由に解釈してよいとする道を開くものであり、憲法をないがしろにするのもほどがある暴言といえる。

 そればかりではなく、粗雑で、現実離れした現状認識に立っているのが一層問題である。これは、まやかしを押し通そうとする結果であろう。

 戦前の旧軍部が「自存自衛」を口実に、近隣諸国に侵略戦争を仕掛けてきたことを思い出すまでもなく、

 いつか来た道

であることをわすれてはなるまい。

 ● 落とされた切迫性の要件 集団安保に道

 第二のまやかし。

 もう少し、各論的にまやかしを指摘すれば、閣議決定には集団的自衛権容認の3条件のなかに

  切迫性という第4の大事な歯止め

が抜けている点だ。1972年見解には「急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とした文言が、今回の決定では、こっそりカットとされている。

 行使容認の今回の新3条件では、

 「明白な危険」の予見性があること

 国民を守る適当な手段がほかにないという不可避性があること

 必要最小という限度性があること

である。しかし、

 「明白な危険」が目の前に迫っている切迫性があること

をこっそり落としているのだ。これがないと、

 多国間の集団安全保障における武力行使の一体化

も容認できることになろう。切迫性があれば、一般的な「武力行使の一体化」はできず、集団的自衛権に限定されざるを得ないからだ。

 閣議決定は2国間の集団的自衛権だけの容認だったはずなのに、そして集団安全保障には言及がないのに、多国間の集団安保の「武力行使の一体化」にまで道を開くことできるというトリックを、決定はひそませている。

 事実、閣議決定にあたって作成された政府の非公開想定問答集では、集団安全保障条約に基づく武力行使について「許容される」と明記されている(中日新聞6月28日付朝刊1面「集団安保ひそかに容認」)。

 Imgp4449 与党合意さえできてしまえば、あとはいくらでも拡大解釈できる余地を残すという政府や自民党側の計算がみえるようだ。

 同様の指摘を外務官僚側の動きから暴き出したのが、2014年7月6日付朝日新聞「検証・集団的自衛権」(写真右)= 「集団安保」潜ませた外務官僚」。 

 まとめると、集団安保には言及していないはずの今回の決定が、実は集団安保の武力行使を許容できるようにも解釈できる余地を残した。これが具体的な第二のまやかしだ。

 このほか、集団的自衛権の行使対象国の定義「密接な関係にある国」があいまいであることを外務省も認めたとの記事(中日新聞7月1日付)などがある。

 逆に言えば、これらや、切迫性の要件を閣議決定で意図的に落としたことは重大な問題を今後引き起こすだろう。

 ● 補遺 7月2日付の各紙「社説」検証

 特集 集団的自衛権、各紙「社説」検証

 今月初めの集団的自衛権の閣議決定について、72日付各紙朝刊の社説を、地方紙、全国紙、その他に分けて検証しました。新聞によってずいぶん論調が違うのが、具体的にわかります。

 ① 中日新聞「9条破棄の暴挙」

    「静岡」には社説なし

 地元紙の中日新聞は「9条破棄に等しい暴挙」と主張、現実感の乏しい議論をなじっています。1面では論説主幹が現行憲法には海外での戦闘には加わらないという「越えられぬ一線」があるとして、政府や国会に再考をうながしました。

Imgp4401  一方、静岡新聞はどういうわけか、社説の掲載がありません。このような極めて県民の関心度の高い重要な政治テーマに社論を掲げないようでは、県民の信頼にこたえる使命のあるメディアの責任が問われかねません。ただ、社説対向面の2面の論壇でタカ派識者が「行使の意志、中国への抑止力」と論評しています。

 その一方で、読者(中面)のページで、社外ジャーナリストが安倍政権の暴走で「日本への信頼壊すな」とハト派的な寄稿しています。どうやら、同紙はタカ派に肩入れしているようです。

 ②  朝日、毎日、赤旗は暴挙派

     産経、日経、読売は容認

 朝日新聞の社説は「この暴挙を超えて」と題し、強兵への道は許されないと主張しています。毎日新聞は「歯止めは国民がかける」との論調。野党が賛否バラバラで歯止め役を果たさなかったことも批判しています。

 これに対し、産経新聞は「「助け合えぬ国」に決別を」と主張、閣議決定を積極的に支持しています。さらに、今秋にも改定の日米安保指針と決定を担保する法整備を急げと、政府に発破をかけています。日経新聞も同様に「助け合いで安全保障を固める道へ」と政府決定を評価しています。衰える米警察力の補完に注目しているようです。

 Imgp4399  読売新聞は「抑止力向上へ意義深い「容認」」。

 今後、防衛指針に閣議決定を反映させよと勇ましく進軍ラッパを吹いています。同紙はこのテーマに特段の関心を示していましたが、このことは、政治部長自ら1面準トップ「真に国民を守るとは」との論説でもわかります。それは閣議決定で「対米連携を深めること」だと政府見解と一致する意見を述べています。

 「しんぶん赤旗」は「この歴史的暴挙、国民は許さず」と主張。決定は9条をくつがえすものだと言葉をきわめて批判しています。

 ③ NHKは「どっちつかず」派

 右傾化の進むNHKも注目されます。7月1日深夜の「時論・公論」では、安全保障担当のベテラン解説委員が「憲法解釈変更 その先は ?」と、新しいNHK会長の顔色をうかがうような、どっちつかずの論評をしていました。放送法で公平中立を義務付けられているメディアの限界を感じました。

  ただ、その先は?という問いかけで、集団安全保障にかかわる「武力行使の一体化」にまで、踏み込んで解説していたのは注目に値します。閣議決定では、この点について、国際的な集団安保も容認できることをにじませてはいるものの、明確には言及していないからです。

Imgp4389 

Imgp4386

Imgp4392

 ( いずれも、7月1日深夜のNHK「時論・公論」テレビ画面から)

 

 

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「思考の錯覚」が擬似科学を生む 

(2014.07.04)  このブログでは、これまでに何回か、思考の錯覚という面白い心理学について、語ってきた。BS放送大学の心理学講義「錯覚の科学」(菊池聡担当)というのに刺激されたのだが、先日も

 Imgp4421_2 科学的思考と錯覚

というのが面白かった。

 特に、

 思考の錯覚が擬似科学を生む

というのだ。この考え方で科学と非科学の関係を図に示していた(右図= 同放送大学テレビ画面から)。

  この図の詳しい説明はなかったが、言葉で少し補足すると、こうなる。

 ● 科学知とは何か 反証可能性と予言性

 まず、図左側の科学知というのは、

 知の内容が正しいかどうか、客観的に検証できる反証が用意されていること、つまり反証の可能性の明示があることと、内容が四分割法(フレーム)などが駆使されているなど論理・合理的であるもの

ということ。講義ではこれだけだったが、通常はこのほかに、予測ができる予言性や実験での再現性が求められる。

 Imgp4428 何でも説明可能な〝理論〟は意外に思うかもしれないが、反証例を明示できないので科学理論ではないことになる。

 非科学知というのは、このうち1つでも欠けている知のことを指すことになる。

 だから、こう考えてくると、意外にも、何でも説明できるダーウィン流の進化論(『種の起源』)は科学理論ではないことになる。こういう事実が明らかになれば、私の理論は間違っていることになるという検証可能な事例を挙げることができていないからだ。

 ● 地震予知はどうか

 予言性がないという点では、

 大学などで取り組んでいる地震予知などは科学知ではない

ことになる。せいぜい図のなかにあるように、いずれは科学知の仲間に入るであろう

 プロトサイエンス

の地位にとどまっている。当たるも八卦、当たらぬも八卦のレベルなのだ。その予言が当たることもあるが、当たらないこともあるというのでは科学の名に値しない。

 それでは、地震雲という前兆現象をとらえての予知というのはどうだろう。

 これは明らかに科学知ではない。

 講義でも論じられていたが、四分割法というフレームでその論理性や合理性を検証してみると、根本的に科学知ではないことがわかる。

 わかりやすく言うと、前兆であるはずの地震雲が本当に地震を予知する前兆であるかどうかは、地震が起こった後にしかわからないからだ。そういえばというようなあいまいな現象を前提にしたのでは、科学知とはなり得ない。つまり、

 地震雲予知は擬似科学、せいぜい人間の思い込みからくるものであり、悪意のない擬似科学 

ということになる。血液型性格判断も、人間の思い込みからくる

 バーナム効果

が働いた結果であり、なんら予見性はないので、疑似科学である。講義では、このことを実証する実験を紹介していた。

 ● グレーゾーンはりっぱな科学の対象

 図にある、科学的な外観を備えてはいるものの意図的な詐欺科学というのは

 人間が持つ「思考の錯覚」を巧みに悪用、つけこむ場合

である。科学的な外観を採りながらの詐欺商法と変わらない。科学的な外観を備えていないオカルトサイエンスも科学的な根拠が明確ではないので、疑似科学であるが、霊感商法など詐欺商法とすれすれの関係だ。

 ただ、注意すべきは、科学知と非科学知の間には、幅のあるグレーゾーン領域があること。

 これは科学知ではないが、科学知になり得る領域であり、グレーゾーンは研究者のホットな研究対象には十分なり得る。UFO研究、テレパシー研究などの超常現象はこれであろう。

 ● 反証可能性提唱した泰斗、K・ポパー

  Imgp4430_2 この講義を聞きながら、久しぶりに

 科学哲学の泰斗、K・ポパーの

 『実在論と科学の目的』(岩波書店、2002)

を読み返してみたくなった。放送でもポパーが紹介されていた。

 また、科学的な装いをまとったインチキな社会科学に対する科学者(物理学者)たちの奮闘を劇的に描いて見せた歴史的な著作

 『「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の乱用』(アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン。2000)

もなつかしい本である。

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秋野不矩美術館を訪ねて

Imgp4432 (2014.07.10)  10年ぶりぐらいに、静かな山の中の秋野不矩美術館(浜松市天竜区二俣)に出かけた。日曜日の午後だったが、その静かなアプローチやそこから眺められるたたずまいにホッとした(写真上の2枚)。森に隠れるようにひっそりと建っているのがいい。いかにも女性らしい画家専用の個性的な施設である。

 館内を見て回った感想を一言で言えば、画業後半期の画風は

 やわらかいタッチで、平山郁夫さんのような描き方に似ている

というものだった。こういう言い方は、失礼な言い方かもしれないのだが、正直に言えば、シルクロードの平山郁夫さんに対し、

Imgp4434  インドの秋野不矩さん

というイメージを持った。

 たとえば、「ヴァラーハ」(1992年)。そのほか、「廃墟 II」という作品。1988年のインドへの旅行で目にした砂漠気候のカッチ地方の廃墟が描かれている( 写真右下= 同館が販売している絵葉書から)。

 「沼」(1991年)というタイトルの絵では、増水した泥沼の中で水浴びをする水牛の群れを高いところから見下ろすように描いている。全体的に薄暗い色調なのがいい。

  07_07_2_2 そういえば、チケットのデザイン図版に使われた作品(写真下= オリッサの寺院、部分、1998年)も、どことなく、平山郁夫さんの画風に似ているような気がした。

 力強いというよりも、静かな宗教的なものが伝わってくる。

 秋野不矩さんが文化勲章を受けたのが1999年、亡くなったのは2001年、91歳。

 そんな贅沢な時間を過ごした1、2時間だったと思う。

 07_07_0

  ● 補遺 不矩美術館の景観配慮について 2014年8月14日記

 この美術館のアプローチがとても心地よいものである理由とは何だろうか。そんな思いがあったが、放送大学の「環境デザイン 第14回」(仙田満東京工大教授)の講義を聴いて、ようやく理解できた。

 周りの自然環境のなかで、建物が一体感をかもし出しながら、近づくにつれてその視覚的な様相が少しずつ変化していくというストーリー

になっているからなのだ。短く言えば、心理学的な環境デザインという基本手法を取り入れている。

 もう少し、立ち入った言い方をすれば、この美術館は、緑多い天竜という自然環境に敬意を払ってつくられている。建物が自ら主張しない謙虚さをもっている。

 だから、訪れる人々にある種の心地よさを与えているというわけ。

 これとは対照的に、ブログ子が金沢市で働いていたときに出入りしていた建物は、周りの歴史的な建物を真上から睥睨するようなつくりになっていた。秋野不矩という画家の人柄がしのべるようで、ブログ子はつくづく感心した。

 こうなると、

 建築は人なり

ということになりそうだ。

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日本人の顔を真っ青にしたサッカーW杯 

(2014.07.02)  「世界を青く」という勇ましいキャッチフレーズで始まったが、サッカーW杯ブラジル大会の1次リーグ戦を終わってみれば、日本勢は3戦で1勝もできないで

 日本人の顔を真っ青に

してしまう、無残な敗退を喫してしまった。

 ● 歴然、日本勢は格下

 現在、決勝トーナメントの胸突き八丁であるが、これらを見ていて、つくづく、

 日本代表は、はっきりと格下、二線級

という印象を強く持った。

 決勝トーナメントに出てくるチームは、どこでも、ボールを奪った後の対応がすごい。相手ゴールにせり上がるように、あるいは攻め上がるように殺到する。しかも、たいていはトップスピードで次のプレーに入っている。日本にはこうしたことはほとんどなかった(1次リーグ初戦のコートジボワール戦では、極端な守りで逆転負けしたのは、今回の日本勢の実情をものの見事に象徴している。と同時に、これが今回のすべてだった)。

 そして、その恐ろしいまでの勝利への執念。それは、PK戦をみればわかる。

 16チームが戦う第一回トーナメント、たとえば

 コスタリカ対ギリシャ( 1対1でPK戦。コスタリカ勝利)

にしても、

 ブラジル対チリ(1対1でPK戦。ブラジル勝利)

にしても、ふらふらの疲労困憊の中、すさまじい執念でPK戦を勝ち抜く。

 ● 1次リーグ、4アジア勢1勝もできず、敗退

 しかし、冷静に分析すると、日本勢ばかりを責めるわけにはいかないかもしれない。

 何しろ、ほかのアジア勢、韓国、オーストラリア、イランのアジア4チームあわせても、1次リーグで1勝もできなかったからだ。しかも、どのチームも最下位で敗退している。

 この共通性はどこからくるのか。こうなると、ザッケローニ監督ばかりを責めても、仕方がないように思う。

 ● 合理的な敗因分析を

 ここから、 アジア人の身体能力も含めたきちんとした、つまり論理的、合理的な敗因分析が、これからのW杯戦略ではとても重要だといえそうだ。

 とかく身体能力うんぬんという安易な議論になりそうだが、それよりも、むしろ、アジア人はほかの地域よりも、こうした徹底した分析能力で劣っているのかもしれない。

  Imgp4275

 なぜなら、積極的に攻めた日本が0対0で引き分けたギリシャ戦。ギリシャは堅守で引き分けるという巧みな作戦など戦術が光った。日本は駆け引きで負けていた。その後、ギリシャはコートジボワールに勝ち、見事逆転、まんまと決勝戦に滑り込んでいる。

 決勝トーナメントでは、上記のようにコスタリカにPK戦では負けた。が、試合そのものは、素人のブログ子が見ても、コスタリカを翻弄する試合運びをしていた。

 これといったFWがいないなか、相手によって巧妙に作戦を変化させているのがよくわかる。

 敗因分析では、日本はおおいにギリシャに学ぶべきではないか。このどこに今学ぶべきかを知っただけでも、今回の大会は意義があったと思う( 補遺2 )。身体能力うんぬんの議論をする前に、考えるべきことは多い。

 (  写真は日本対ギリシャ= BS1テレビ画面より )

  ● 補遺 攻め勝つサッカー

 7月2日付静岡新聞「核心核論」は、失敗を恐れず得点機を狙う

 攻め勝つサッカー

というのが、世界のサッカーの趨勢であるとの論説を掲げていた。これは、いわば「守り勝つサッカー」が信条のギリシャ戦略とは真反対。だが、一つの見方である。

 寄せ集めの選手による、しかもわずか1か月という短期決戦のW杯の勝負では、もはや中途半端な戦略は通用しなくなっているのかもしれない。

  ● 補遺2 世界はシュート・カウンターの時代

  W杯ブラジル大会がドイツの優勝で幕を閉じた直後のBS1「FIFA ハイライト」(2014年7月15日午前)をみてみたら、大会現地取材や現地で試合の実況解説をしたサッカー解説者、宮沢ミシェルさんが、おおむね、次のように日本代表について、総括していた。

 「今、世界のサッカーは、(相手のミスをとらえ、攻守を一瞬で逆転させ、守備が整わないうちにシュートする)シュート・カウンターの時代である。

 だから、攻守にバランスがとれていないと、世界では勝てない。攻撃力だけでは勝てない。日本は守りに課題がある。まだまだ日本サッカーの歴史は始まったばかり」

として、守りの重要性を強調していた。

 つまり、攻め勝つサッカーとは、攻撃力サッカーのことではなく、趨勢のシュート・カウンターに備える守り勝つサッカーのことだということだろう。

 そういえば、あのブラジルサッカーも、守りの乱れを突かれ、準決勝でドイツのシュート・カウンターで大敗したのだ。攻撃力の中心、FWネイマールがケガで欠場したから、負けたのではない。守備力で負けた。

 一方、ドイツの強さは、ゴールキーパー(GK、ノイヤー)のカウンターに備えた守備力にあったことを忘れてはならないだろう。

 上記したように、これが堅守のギリシャ代表に学ぶことが多い理由だろう。

 「守備力は最大の攻撃なり」の時代といえまいか。 

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