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再考、映画「ハンナ・アーレント」

(2014.06.27)  以前(2014年3月4日付)、このブログで、1960年代初頭のナチス大物戦犯アイヒマンの裁判傍聴記の映画

 「ハンナ・アーレント」(トロッタ監督、日本公開2014)

について、書いた。その時のタイトルは「現代の「罪と罰」」。「利己心のない悪の恐ろしさを描いた映画」と述べた。

 女性哲学者で、自らもドイツ系ユダヤ人として強制収容所暮らしを強いられたアーレントは、ユダヤ人批判をしてまでこのレポートで何を語りたかったのか。それについて述べたのだが、このブログ記事について、ときどきお叱りのメールが見知らぬ読者から届いていた。

 ● 全体主義は思考停止の凡庸さから

 一番ブログ子がショックを受けたのは、

 もっと焦点を絞り、明確にブログの結論をのべよ

という苦言だった。何が言いたいのか、わかりにくいというのだ。これには、ドイツ映画賞で作品賞や主演女優賞を受賞したというので、ブログ子も肩に力が入りすぎたのかもしれないと反省した。

 そこで再考してみた。

 この映画は要するに、

 巨悪は思考停止の凡庸さからはびこる

ということを描きたかった、というのがブログ記事の結論である。もっとはっきり言えば、全体主義の温床は、ユダヤ人も含めて国民の思考の停止あるいは欠如である、とブログ子は言いたかった。

 ニューヨーカーに発表した傍聴記のなかのユダヤ人批判は、当時よく知られていたことであり、レポートのほんの表層にすぎず、ここに焦点を当てた批判は当たらないのだ。

 裁判から浮かび上がった、もっとも恐ろしいことは、全体主義が国民の凡庸さから生まれてくるという事実である。

 これなど、いかにも哲学者らしい分析である。

 ● 「視点・論点」の指摘

 先日、ドイツ思想史の矢野久美子フェリス女学院大教授も、悪の凡庸さと題して同趣旨を指摘、冷静な分析に徹した哲学者、アーレントの勇気をたたえていた( 6月25日Eテレ「視点・論点」 )。

 この評価に賛成したい。

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