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2014年6月

水深1万メートルのバイク  どうなる?

(2014.06.28)  「やってみなくちゃ、わからない」をキャッチコピーにしている

 「大科学実験」(Eテレ)

Imgp4352jpg で、1万メートルの水深にバイクを置いたら、そのバイクは水深でどうなるか、という実験を、先日していたのが面白かった。水深1万メートルの水圧は100気圧。

 当然、空気の入っているタイヤはぺちゃんこだろう。

 この番組で面白かったのは、番組の冒頭で、少しイタズラをしている点だ。空気の入った大きなゴム風船を水深20メートルに沈めると、当然だが、球形だったものが、水圧で大きく上下に押しつぶされたようになる。水面近くに戻せば、元の球形に戻る。

 ここまではほとんどの人は予測できる。

 そこで1万メートル。これには、海洋研究開発機構(JAMSTEC)の水圧実験室を利用していた。

 バイクを実験容器に閉じ込め、水圧を上げていく。すると、予測どおり、空気の入ったタイヤがまずぺしゃんこに。

 いろいろな部品が水圧で、ブチブチに押しつぶされる。ある意味、恐ろしい光景である。

 だが、どういうわけか、おまけのつもりで入れた小さなゴム風船はなんと1万メートルでもその大きさも形もほとんどもとのままで、押しつぶされることはなかった。ガソリンタンクもつぶれなかった。

 何故だろう。

 種明かしは、ガソリンタンクのネジ口から水が入り込み、つぶれなかったのだ。

 風船については、初めからから、中身をすべて水で満たした水風船にしたのだ。これだと外からの圧力と内圧がどの水深でも常に等しくなり、1万メートルでも元のままと言うわけだ。おそらく、2万メートルでもつぶれない。

 とても簡単な実験だっただけに、おもわずうなってしまう大実験だったと思う。

 こういう驚きの実験というのは迫力がある。

 どこでもできる実験ではないので、番組映像は格好の学校教材だろう。

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原因の特定は心理的に決められる

(2014.06.28)  BSの放送大学「錯覚の科学」という心理学が面白い。先日の講義は

 原因は心理的に決められる

だった。ある結果を招いた原因の特定は、いろいろある中から論理的、合理的に導かれるというよりも、人間はとかく心理的に決定するというのが結論。その論理には、まちがいではないが心理的な偏りがある。

 Imgp4376 どんな偏り(心理学的にはバイアスという)があるのか。

 たとえば、他人の成功については、その人の努力や才能ではなく、よく検討もしないで外的な要因を挙げる。これに対し、自分の成功の場合は自分の能力が高かったからだと、これといった根拠もなく内因だと決め込む傾向がある。

 なるほどとだれもが納得する傾向だ。

 このわかりやすい例のほかに、

 ある結果を招いた原因について、楽観的な要因に帰属させる人と、悲観的な要因に帰属させる人がいる。

 あるいは、原因を特殊なものに限定したがる傾向の人と、全体的に広げる傾向のある人に分類される。

 たとえば、一時的で特殊な失敗事例を取り上げて、

 Imgp4379_2 一事が万事、お前は何をやらせてもダメ

というのか、それとも

 まあ、これは特殊な例だから、まだまだわからない

と特殊を強調する傾向とがある。

 ブログ子は、ある結果について、どちらかという悲観的に考える傾向がある。これについて、

 人間万事塞翁が馬、失敗は成功の元というではないか

というのが楽観的な見方。

 実は、こうした傾向はイヌなどの動物でも同じような傾向があるらしい。

 ● 錯覚を活用し、心が軽くなる人生論も

 講義を聞いて、つくづく心理学の勉強をもっと学生時代にしておけばよかったと反省した。

 こう考えるのが悲観的な原因論。

 学ぶに遅いということはない。これを機会に大いに心理学に興味を持とうというのが楽観論的、前向きな原因論。

 こうした人間の錯覚心理をたくみに活用した人生論、たとえば心理学的人生論があってもいいような気にさせてくれた講義だった。心が軽くなる人生論である。

 ( 写真はダブルクリックすると拡大 )

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再考、映画「ハンナ・アーレント」

(2014.06.27)  以前(2014年3月4日付)、このブログで、1960年代初頭のナチス大物戦犯アイヒマンの裁判傍聴記の映画

 「ハンナ・アーレント」(トロッタ監督、日本公開2014)

について、書いた。その時のタイトルは「現代の「罪と罰」」。「利己心のない悪の恐ろしさを描いた映画」と述べた。

 女性哲学者で、自らもドイツ系ユダヤ人として強制収容所暮らしを強いられたアーレントは、ユダヤ人批判をしてまでこのレポートで何を語りたかったのか。それについて述べたのだが、このブログ記事について、ときどきお叱りのメールが見知らぬ読者から届いていた。

 ● 全体主義は思考停止の凡庸さから

 一番ブログ子がショックを受けたのは、

 もっと焦点を絞り、明確にブログの結論をのべよ

という苦言だった。何が言いたいのか、わかりにくいというのだ。これには、ドイツ映画賞で作品賞や主演女優賞を受賞したというので、ブログ子も肩に力が入りすぎたのかもしれないと反省した。

 そこで再考してみた。

 この映画は要するに、

 巨悪は思考停止の凡庸さからはびこる

ということを描きたかった、というのがブログ記事の結論である。もっとはっきり言えば、全体主義の温床は、ユダヤ人も含めて国民の思考の停止あるいは欠如である、とブログ子は言いたかった。

 ニューヨーカーに発表した傍聴記のなかのユダヤ人批判は、当時よく知られていたことであり、レポートのほんの表層にすぎず、ここに焦点を当てた批判は当たらないのだ。

 裁判から浮かび上がった、もっとも恐ろしいことは、全体主義が国民の凡庸さから生まれてくるという事実である。

 これなど、いかにも哲学者らしい分析である。

 ● 「視点・論点」の指摘

 先日、ドイツ思想史の矢野久美子フェリス女学院大教授も、悪の凡庸さと題して同趣旨を指摘、冷静な分析に徹した哲学者、アーレントの勇気をたたえていた( 6月25日Eテレ「視点・論点」 )。

 この評価に賛成したい。

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味噌汁は偉大である わがクレソン論

(2014.06.25)  ブログ子は、年を取ったせいか、定年後の朝食は、和食。必ず赤味噌の味噌汁をつける。暮らしている近くでシジミの再生を目指すプロジェクトにかかわっているせいで、時にはシジミ入り味噌汁も楽しんでいる。

 ● 人生は味噌汁にあり

 通常の具は昆布などの入った簡単なものなのだが、時間があるときには

 Imgp4313 スクランブルいり卵の入った味噌汁

をつくることもある。キャベツの味噌汁もつくった。そんなこんなで赤味噌汁と野菜の相性がいいことは少しは知っていた。だから、季節の野菜を入れる。

 去年からだが、今の季節に出回っているあの苦い

 クレソン入りの味噌汁

も楽しんでいた。

 ところが、赤味噌汁とクレソンは相性がいいというコラムに出合ってびっくりした。週刊誌「アエラ」2014年6月2日号の「しあわせの白ごはん」で、筆者は料理研究家の冨田ただすけ氏。それだけでなく、厚揚げもいいと書いている。

 それではと、厚揚げをスーパーで買ってきて試してみたのが、写真。

 なかなかの出来だったことを記しておきたい。

 味噌汁は偉大である。少し大げさに言えば

 人生は味噌汁にあり

というところだろうか。

 毎朝、味噌汁を味わっている時、それは日本人に生まれて、よかったと思える瞬間ではある。

  ● 補遺 日本の朝ごはん

 Imgp4349 『日本の朝ごはん』 (向笠千恵子、2001年、新潮文庫)

  『日本の朝ごはん 食材紀行』 (向笠千恵子、2001年、新潮文庫)

  『昭和、あの日あの味』(月刊『望星』編集部編、2010年、新潮文庫)

 最初の本は、そのなかに「人生は朝ごはんにあり」という章があり、かつて読んでみたくなった本。いずれも、ブログ子の本棚に今もある本だが、いずれにも

 赤味噌汁とクレソンとの関係について、指摘しているものはない。

 そこがちょっといい。

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思考は言語で行われているか

(2014.06.25)  ブログ子は、文学や哲学であろうと、自然科学や数学であろうと、疑いもなく、

 思考はその人が習得した言語を駆使して、行なわれている

とこれまで、信じてきた。思考という知的作業が言語とは無関係とはとても信じられず、疑ったことはない。

 ● 心理言語学では否定

 ところが、先日の放送大学BS「認知心理学 心理言語学」番組(6月23日、高野陽太郎東大大学院教授)では、心理学者のほとんどは、

 思考は非言語的な操作である

と考えているという。思考は言語操作で行なわれているのではないというのだ。この思考には言語依存性はないということをさまざまな心理学的な実験結果から実証してみせていた。

 なるほど、依存性がなければ、古代ギリシャで発見された数学のピタゴラスの定理も、現代の日本人でも正しいと認識できるのはうなずける。アフリカのスワヒリ語の人たちにも、この定理の正しさは理解できるだろう。

 しかし、思考が言語操作で行なわれていないとすると、何が思考を支えているのだろうという疑問が、ブログ子には、どうしても解けない。

 ギリシャ語でなくても、どの言語で考えても、ピタゴラスの定理が正しいという結論に達するのは、思考に非言語依存性があるからではなくて、依存しているが人間の話す言語システムには、どの言語にも共通するより基本的な

 普遍的言語システム

が脳内にあるからだと考えればいい。そのシステムには各言語によって決められる未決定のパラメーター部分を持つ。そのパラメーターは、各言語ごとに後天的に習得、脳内にセッティグされる。この普遍言語システムが思考を支えている。このことが、見かけ上

 思考の言語依存性

を否定しているようにみえるだけだと考えれば、納得できる。

 第一、各民族の文化の違いが思考パターンの違いを生んでいるという思考の言語文化依存性が現実にあるではないか。このことはパラメーター説によって自然に理解される。

 ● 思考の非言語的操作とは何か

 仮に思考には言語依存性がないとするならば、思考の文化依存性をどう説明するのか、放送大学の講義では説明されなかったのは残念。

 この地球上の人類の歴史では数百、数千、いや何万の言語が生まれては消えていったはずだ。しかし、どの言語にも、その言語に意味を持たせるために必ず文法がある。文法を持たない言語は存在しない。これは思考の言語依存性を示す証拠ではないか。

 ただ、サルやイルカ、あるいはセミにも言語があるかどうか。おそらくあるだろう。あるとしたら、それは人類の普遍言語システムと同じか、異なるのかかどうか。

 それはわからない。

 ましてや、知的生命としての宇宙人、たとえば、大脳が三つもあり、その間で情報のやり取りが可能な高度な知的宇宙人と、大脳1個しかない人類が同じ普遍言語システムを持っているのかどうか。

 どんな高度な文明を持った宇宙人でもピタゴラスの定理は正しいと結論するだろうから、一見、地球人と同じ普遍言語システムを持っていると思いがちだ。しかし、地球人のシステムを抱合する、つまり矛盾しないより高度な普遍言語システムを持って思考しているとしても何らおかしくない。

 ただ、そうは言っても、どんな宇宙生物も、その思考の限界は、その普遍言語システムで決まるだろう。そして、そのソフトとしての言語システムは、普遍とはいえ、ハードの脳の構造で決まる。そして必ずハードの限界からくる思考の限界がある。つまり、いかなる生物にも、進化段階に応じて、知りえることには必ず限界がある。

 そんなことまで考えてしまった、あるいは考えさせてくれた講義であった。

 そして、ふと思った。このブログのここまでの思考も、日本語文章を綴ることでつむぎ出されたものである。日本語という言語なしには、思考の塊であるこのブログは成立しない。

 だから、思考は非言語的操作であるということは、どうしても納得できない。再び最初に戻ってしまうが、そもそも非言語的な操作とは具体的に何だろうか。

 ● 補遺 生まれたばかりの赤ちゃんの場合

 ただ、少し気になるのは、生まれたばかりの赤ちゃんは、まだ、どの言語もまったく習得していない。

 だからといって、赤ちゃんは思考していないとは言えない。機械と同じであるとはいえないからだ。

 これに対しては、赤ちゃんは、生まれたときすでに脳に刻まれている初期プログラムとも言うべき普遍言語システムの中で思考しているのかもしれない。これが正しいとすると、赤ちゃんはどの言語国の生まれであっても、みな同じ思考パターンを示すはずである。これは事実であり、正しのであろうか。

 どうも、ここまでくると思考が鈍ってきた。

 以下の写真は、ブログ子の暮らす団地の写真。

   Imgp4237_2

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浜岡原発周辺に新断層4本

(2014.06.24)  静岡新聞2014年6月19日付朝刊に

 浜岡原発周辺 新断層4本

 中電「活断層ではない」

というニュースが出ている( 写真下 )。

 昨年7月から始めた段丘部分に活断層がないかどうか、追加調査した結果が報じられている( 写真下 = 6月19日付静岡新聞朝刊。写真はダブルクリックで拡大 )。

 結果は、敷地周辺に新たに断層が4本見つかったが

 「敷地北側に認められる地層のずれを含むH断層系は、地層が堆積(数百万年前)して間もないまだ固結していない時期に形成されたものであり、地層が固結してからは活動しておらず、少なくとも後期更新世以降における活動はなく、地震を起こしたり地震に伴ってずれを起こしたりするものではないと考えられる」

と結論付けている。

 ● 活断層であることを具体的に否定

 数百万年前に地層が固着してからは、活動していないとしている。これだと当然、13万年ほど前から1万年前にあたる後期更新世から以降も見つかった断層は活動していないのだから、活断層ではないことになる。

 つまり、新たに見つかった断層はまずは活断層であるとの前提に立つわけだが、地質学的な証拠にもとづいて13万年以降活動した証拠がないという証拠を提出してこの前提を否定した。このことにより、新規制基準上、これらの断層は活断層ではないことになる(否定する具体的な証拠が提出されなければ活断層とみなされる)。

  詳しい地質調査結果は、中部電力ホームページに掲載されている。

 以下の通り。

 http://www.chuden.co.jp/corporate/publicity/pub_release/press/__icsFiles/afieldfile/2014/06/18/201406181400.pdf

06_24_0  

 

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加速する冷戦下の映画「ケイン号の反乱」

(2014.06.22)  定年後は暇なので、ブログ子は、ときどきBS放送の昔の外国映画を見ることがある。たとえば、最近では

 米映画「ケイン号の反乱」(E.ドミトリニク監督、1954年6月公開)

というのを観た。

  ところが、見ていて、なぜ1950年代のアメリカでこのようなストーリーの映画が制作され、そしてそれがまたヒットし、翌年のアカデミー賞で数々の賞をとることになったのだろうという疑問がわいてきた。

 ● 国防総省の本当の狙いは何か

 1944年という大戦中の古い米駆逐艦が舞台。細かいことにいちいち口を出す新艦長の言動に不満を持った副長などの部下が接近する台風の下、その力量に疑問を持ち、このままでは艦は沈没してしまうと判断する。そこで意を決してその指揮権を奪って〝反乱〟、見事台風を乗り切るするというストーリーである。反乱は正しかったかどうかをめぐる後半の軍法会議がこの映画のポイントなのだが、原作(1951年)はピュリッア受賞作(1952年)。

 その後、ベストセラーとなったことから、小説の映画化となったのだが、舞台が舞台だけに、当時の映画技術では米国防総省や国務省の協力がなければ制作は不可能。ところが当初国防総省は映画化には協力しない方針を示していた。なにしろ、こともあろうに戦争中の艦船での部下の反乱をテーマにしているのだから、国防省としてはとてもじゃないが協力しましょうとはならないのも無理はない。

 ● ハリウッドスターをターゲット

 ところが、国防総省は受賞(1952年)を機に一転協力することになる。

 わずか2年で映画は公開に漕ぎ着け、それがまたヒット作になる。国防総省のこの心変わりは何故起きたのだろう。そして、アメリカ国民の心をとらえ、なぜヒットしたのだろう。心をとらえた要因とは何か。

 そのことがとても映画を見ていて気になった。

 軍法会議では、どんでん返しのどんでん返しというスリリングなものになってはいたものの、結論を先に言ってしまえば、

 国防総省の狙いは国民の愛国心を今一度かきたて、団結心を強める反共映画に仕立て上げること

だったと思う。その狙いはヒットで見事に成功した。なぜなら、1955年のアカデミー賞の多くの部門で賞を獲得している。

 こう考えれば、1950年から始まったマッカーシー赤狩り旋風がハリウッドをターゲットに吹き荒れていた中、新艦長役のハンフリー・ボガードなどハリウッドの豪華一流スターが総出演といってもいいほどこぞって、しかも自ら安いギャラで積極的に出演を申し出ているのも理解できる。愛国心を示し、自分たちが共産主義者ではないことを積極的にアピールしたかったのだ。

  そして、映画制作が進む中、1953年1月、ダレス国務長官が

 巻き返し政策(反共政策)

を内外に向かって大々的に打ち出す。

 映画が公開される直前の1954年3月には、ビギニ環礁でアメリカの水爆実験が成功する。ようやく水爆開発でソ連に追いついた(日本ではこの成功で第五福竜丸事件が起きる)。いよいよ熾烈なソ連との冷戦がスタートする。

 ● 愛国心と団結心の鼓舞

 映画のラストシーンは、無罪になったものの被告席に立たされた副長が、新艦長の前任艦長の下で再び副長として互いに新たな任務に就くというもの。これは、

 ソ連との厳しい冷戦を乗り切るために団結しよう

と暗黙のうちに国民に呼びかけている。新艦長の心身の疲労も、こまごまとした指示も、愛国心から出たものであるということをうかがわせてもいる。

 国防総省の意図を明確に理解するために、あえて露骨な言い方をすれば、アメリカを愛するがゆえに、やむなく反乱したのである、新艦長の心が病んだのもそもそもは愛国心が強いがためである

というストーリーに映画化にあたって原作を多分に意図的に〝すり替え〟たのだ。

 要するに、この映画制作では、国防総省の協力の見返りとして、愛国心と団結心を訴える反共映画に仕立て上げさせられた。映画のヒットには、吹き荒れる赤狩りも大いに貢献したことだろう。こう考えれば、この映画は始めから、映画関係者が選ぶアカデミー賞の各部門賞が多く取れることが、ほぼ確実に約束されていた作品だったといえる。

 裏を返せば、そんなにしてでも国防省に迎合したのは、当時のハリウッド関係者が赤狩りの対象にされることを極度に恐れていたということでもある。

 〝名作〟はこのようにして生まれたのである。

 映画はその内容だけを見ていては、本当のことはわからない。この反乱映画はその典型例であろう。

 つまり制作された時代背景を見極めた鑑賞が欠かせない。この点が、今も配給会社の宣伝太鼓持ちに過ぎない幼稚な日本の映画批評の多くに欠けている点であると思う。

 たまには、意味不明の〝名作映画〟を観るのもいいものだ。

  ● 補遺 「マイレージ、マイライフ」

 この反乱映画に対して、最近の映画

 米映画「マイレージ、マイライフ」(J.ライトマン、2009年12月公開)

の背景は、すぐに気づく。この映画の主人公(G.クルーニー)がリストラ首切り通告請負人であることから、1年前にアメリカで起きた

 リーマンショック(2008年9月)

が背景にある。映画のテーマは、

 人生を生きるとは、人とつながることというものである。ましてや、不安の時代にあっては。わずらわしいからといって人間関係を絶ち、マイレージをため込み、活用するだけでは、人生は生きられない。

 そのことを、この映画はカラッとしたスマートさで伝えている。

 このように、最近の映画については、制作の社会的な背景は外国映画であってもすぐに気づく。が、古い映画ではなかなか気づかない。

 気をつけよう、甘い言葉と古い映画。

  ● 注記 映画「カルメン故郷に帰る」

 邦画にも、時代背景を知らないと、なぜこんな映画が、その時期につくられたかがわからないものがある。たとえば、以前にも書いたが、ストリッパー役の高峰秀子が主演して大ヒットした

 「カルメン故郷に帰る」(木下恵介、1951年)

である。戦後、日本人の価値観がガラリと変わった転換点の映画である。清純派の高峰がストリッパー役をやるのだから、国民の価値観の大転換なくしてヒットする映画化はむずかしい。また木下監督が日本で初めて総天然色カラーをこの映画に導入した理由もこの転換点を、見る人に十分意識させようとした結果なのだ。カラー映画にしたのには、それ自身に必然性があった。

 だが、転換点を明るく描いてはいるが、監督の制作意図は、そんな戦後民主主義の軽薄さを、疑問を投げかける形で静かに描いている。告発調でないのがいい。木下監督の持ち味である。ここが、青春映画でも、無条件に、そして底抜けに明るい映画「青い山脈」(原節子主演、今井正監督。白黒、1949年)とは質的に違う。

 こう考えると、つまり、時代背景を考慮すると、ある意味、カルメン映画は山脈映画よりも〝上等な〟映画だといえよう。

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なるほど、これでわかった「オフサイド」

Imgp4283_1 (2014.06.17)  サッカーワールドカップのブラジル大会で、リーグ予選戦が佳境に入っているが、いまさら聞けない

 オフサイド

という反則ルールがこの大会を見るようになって、ようやくなるほどと具体的に理解できた。

 今大会から、オフサイドやゴール判定について、コンピューター画像判定が導入されたからだ。微妙な場合、その線引きの様子がテレビ画面に表示される。線審の判定が正しいかどうか、これでテレビ観戦者にもわかるのだ。

 ● 蹴った瞬間でポジションは決まる

 理屈の上では、

 オフサイドとは、

 相手陣営ピッチに設定されるオフサイドポジションにいる味方選手にパスを出す反則

のことであるのは知っていた。パスを出す選手がボールを蹴った瞬間にオフサイドポジションは決まる。

 問題は、オフサイドポジションは、次の3条件をすべて満たした場合に成立する。

 第一は、蹴った瞬間、パスを受ける選手はセンターラインより相手陣営にいること

 第二は、蹴った瞬間、パスを受ける選手は蹴った選手より前(相手陣営側)にいること(つまり、後ろパスは反則にはならない)

 第三は、これがポイントだが、蹴った瞬間、攻める奥のゴールから数えて2番目の相手チーム選手よりゴールに近いポジションにいた選手が、そのパスを受けること(一番奥の相手選手は、通常、相手ゴールキーパー。相手2番目選手というのは、普通は相手DF)。

 足先の一部でも前に引っかかっていれば、その選手がパスを受ければオフサイド。こうなると、知らずにオフサイドになっているケースがあるはずだ。

 第三は、わかりやすく言えば、蹴った瞬間、ゴールキーパを除いて、相手DFが一人もいない(つまりオフサイドになっている)ところにいた選手がパスを受けることである。それはいわば先回りの卑怯な戦法とみなされ、したがって紳士淑女のすることではないとして反則に問われるというわけだ。

 一方で、第三の条件では、オフサイドポジションにいても、オフサイドになると判断して、自らはパスを受けず、ほかの選手にゆずれば、現在では反則ではない。こういう巧妙なテクニックもあるという。

 また直接ゴールを狙うキックはすべて、当然だが、パスではないのでオフサイドにはならない。ただし、ゴールキックをした場合でも、ゴール枠のポストにあたり、その跳ね返ったボールをオフサイドポジションにいた選手がキックして蹴り込んでも、得点にはならない。 

 さらに、特殊なケースだが、シュートしたとき、オフサイドポジションにいた選手がボールに触らなくても、相手のゴールキーパーに露骨な守備妨害をすると、オフサイド宣告を受け、そのシュートがたとえ入ったとしても得点にはならない場合があるらしい。

 第二の条件から、後ろに蹴らざるを得ないコーナーキックもオフサイドにはならない。スローインは、そもそも最初からオフサイドの対象外と規定されている。

 ● 避けられぬ誤審

 こんな複雑なことを線審はフラッグの上げ下げで瞬時にこなしている。思うのだが、ゴール前に攻守の選手が殺到するような場合、状況がめまぐるしく、そして瞬時に変化する場合がほとんどだが、こうなるとオフサイドをめぐるトラブルは避けられないだろう。

 当然、いや、きっとどこかで、こんなややこしいルールなんか廃止しろという声が上がってもおかしくない。

 廃止しないとしても、だからといって、ビデオ判定が優れているかどうか、即断はできない。人間が試合をし、人間が反則を判定する。これがスポーツと思うからだ。

 いちいちコンピューターにおうかがいを立てなければ、試合ができないというのではスポーツの本来の姿からはほど遠い。スポーツはテレビゲームであってはなるまい。

 それはともかく、試合を見ながら、ブログ子は、どちらかというと主審ならなんとかできそうな気がした。が、とてもじゃないが、オフサイド判定の線審などは金輪際、できそうにないと思った。

 (写真は、ブラジル大会1次リーグ(日本対ギリシャ戦、0対0の引き分け))= 6月20日生放送のBS1テレビ画面より。「勝ち点3を取れなかったのが、なにより悔しい」(本田圭祐選手)。

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主観的な意思決定はどう決められるか

(2014.06.17)  たとえ利他的のようにみえた場合でも、人間はちゃっかり合理的な意思決定をしているものだというのが、経済学に限らず、世間一般の常識だろう。

 確率論などを駆使し期待値を弾き出し、その期待される効用を最大にするよう合理的に判断する。または判断するはずだ。

 Imgp4255jpg ブログ子も、確かにそう思っていた。

 ところが、実際には人間はそのような合理的な意思決定をしていないという。ズレている。そんな放送大学大学院「認知科学 意思決定と問題解決」番組(担当= 高野陽太郎東大大学院教授)を拝見して、ちょっとびっくりした。

 不確実性下の意思決定という認知科学の問題だが、その関心事は、ズレているとしたら、どのようにズレているのか。そのズレにはどのような法則があるのか、ということだろう。

 ● 利得局面では確実性重視

 結論を先に言ってしまえば、

 人間の意思決定は、

 数学的に完全な期待効用最大化の原理

のようなものではない。確率に対する人の反応はそのような線形ではなく、利得の場合の反応と、損失の場合の反応はまるで異なる

というものだ。

 これをより具体的に要約すれば、

 目の前の利得については、確実性を重視し、目の前の損失についてはリスクを犯してでもギャンブル性で意思決定する

というもの。利得では必要最低限の要求を満たす

 ほどほど満足化の原理

にしたがってなされているが、損失ではギャンブル性の高い選択するという。

 具体的には、プロスペクト(宝くじ)理論というのだそうだが、簡単に言えばこうだ。

 ● 損失局面ではギャンブル性

 Imgp4258 人は利得の伴う「肯定的フレーミング(枠組み)」では、

 客観的な意思決定ではどの場合でも同等の期待値であっても、ランダムに選ぶのではなく、できるだけリスクの小さい、より確実なケースだと思うような選択をする傾向

がある。これに対し、損失を伴う「否定的フレーミング」では、

 客観的な意思決定からは、どちらを選んでも期待値は同じなのだが、それでも、高いリスクを払ってでも、ひょっとするケースに期待して選択する心理的な傾向

がある。

 肯定的なフレーミングではほどほどで満足する「利得の確実性」に着目した決定をする人でも、否定的フレーミングではまったく逆の一挙損失解決に着目した不確実性の高い決定をする。

 人の確率論的な意思決定では、客観的な評価とは異なり、利得に対する意思決定のやり方と、損失に対する意思決定のそれとでは、線形関係にはない。同じ原理にもとづいていない。

 このことを、講義では、フレームミングという考え方を使って説明していたので、参考までにここに紹介しておく( 写真のダブルクリックで拡大 )。

 ● 意思決定の非線形性

  これらの図のポイントは、合理的な意思決定と人間の主観的な意思決定の関係は、原点を通るななめ45度の直線の関係にはならないということ。第二に、利得が肯定的、つまりプラスの場合と、否定的、つまりマイナスの場合とでは、曲線の形が著しく異なるということである。

 番組での説明の詳しいことは理解できなかったが、この図を見ると、いわれてみれば、その通りのような気がする。

 人間は、期待効用という単純な経済的合理性にもとづいては行動していない。そのことをうかがい知る番組だった。

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前後論法の錯覚 - ランダム現象の平均への回帰

(2014.06.17)  このブログのテーマ、常識を疑うという観点から拝見していると、放送大学がBS放送で今年から開講している

 Imgp4225_1_2 錯覚の科学

というのは、とてもわかりやすく、かつ面白い(写真上=  6月13日放送の放送大学BSテレビ画面より)。この日のテーマは、思考の錯覚の一つ、

 前後論法の誤り

について、対話形式で講義していた。

 ● 因果関係のない偶然性に注意

 前後論法というのは、以前は何々だったのが、あることをしたら、以後の状況が、別の何々に変化した場合、

 あることをしたことが、以後の状況を生み出した原因

という論法である。一見、日常生活でもよくある話でもっともらしい。が、ここには大きな誤り、つまり落とし穴がある。

 Imgp4224 それはどのような落とし穴か。

 その変化は、あることをしたこととは何の関係もない、ただの偶然に伴う統計的な

 平均への回帰(偶然のゆらぎ)

にすぎないかもしれないという可能性である。

 この論法が、偶然によるものではなく、正しいためには、

 ほどこしたあること以外に、変化の原因がない場合

で、かつ、

 あることをすれば、その変化が必ず起きる場合 

に限られる。

Imgp4221_2 右のフリップに示されているように、あることと同時発生の原因がある場合は、この論法は成立しない。

 一般に、ほかの原因として考えられるのは、

 行なったあることがあってもなくても、対象そのものが自然に変化する場合(何もしなくても変化する可能性)

 対象外に原因があるとしても、それがランダムな現象における偶然の変化に起因する場合(極端なケースの平均への確率論的な回帰現象。この場合には前後に因果関係は存在しない)

 さらには、

 そもそも変化するかしないかを調べている対象自体に、以前と以後という時間の経過とともに、欠落などの変化が生じている可能性がある場合

である( 写真 )。

 ● 対象自体の一部欠落も錯覚の原因

 最後のケースの事例としては、ダイエット効果が挙げられていた。

 Imgp4227 最初は、やせた人、太った人などいろいろな人が混じっているとしても、時間がたつにつれ、ダイエット効果があまりない人はやめてしまう。効果があると感じる人のみがダイエットを続ける。最後に効果テストをすれば、最初のうちは、効果有の人も、効果無の人も半々だったのが、効果なしの人が対象から外されていくので、次第に効果有の人の割合が増えていくようにみえる。

 こうなると、本当は何の効果もないのに、あたかも効果があったかのような錯覚に陥る。時間の経過の前後論法には、こうしたセレクション(選択)効果が働いたことによる錯覚が生じやすい。

 時間の経過に着目した前後論法の錯覚を避けるには、対象自体に欠落したケースが生じないよう、ダイエットをするグループと、しない対照グループとに分け、そのグループ間で効果の程度を比較することが必須。

 時間の経過で判断する前後論法は単純でわかりやすい。だが、その分、落とし穴がある、つまり錯覚が生じやすいことを忘れてはなるまい。

 この結論は、常識を疑う場合の必須の素養だろう。

 (写真は、いずれも放送大学同BSテレビ番組画面から)

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理系の「花と緑の物語」 

(2014.06.15)  6月、アジサイの季節になり、まちなかや、ブログ子が暮らす団地にも、あちこちに花と緑が鮮やかに見られるようになった。

 理系の「花と緑の物語」を、以下に書いてみた。

         「haikeihanawanaze.doc」をダウンロード

Imgp4238_2

 Imgp4204_2  

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冤罪をなくす3条件 月刊「世界」

(2014.06.14)  サッカーワールドカップブラジル大会が始まったが、その行方もさることながら、法務省の法制審議会特別部会の

 司法改革の行方

にかかわる答申も気にかかる。不祥事が続いている検察の改革意見書をまとめた政府の検討会議を引き継いだ特別部会なのだが、

 どうやら意見書が骨抜き、または体よく先送りにされかねない状況

なのだ。

 民間人が中心になってまとめた今春の意見書では、冤罪をなくすには、人質司法の解消(つまり代用監獄制度の廃止)、すべての裁判における取り調べの全面可視化、検察・警察側の証拠全面開示が最低必要だとした。これに対し、法制審では裁判員裁判での部分可視化以外は、いずれも「新たな検討の場に委ねる」として先送りされそうなのである。

 ● 骨抜きと先送りの法制審特別部会

 Imgp4125_1 月刊総合雑誌「世界」6月号は

 冤罪はなぜ繰り返すのか

という特集で、このままでは刑事司法改革の行方が危ぶまれるとして、

 原点はなぜ見失われたか

という座談会を開いている(写真右= 同特集より)。

原点というのは、今回の刑事司法の改革は、そもそも大阪地検特捜部による証拠改ざん事件(村木厚子さん事件、2010年9月無罪確定)に端を発している。

 この事件は、警察の留置場を代用監獄にした強引な人質取り調べと、証拠開示の不十分さから起きた。検察官の描いた都合のいい調書作成ばかりが裁判で取り上げられることに冤罪の原因がある。だから、全面証拠開示はぜひとも必要だということなどを語り合っている。

 ● 再審、袴田事件にも重大な関係

 ブログ子は、浜松市に暮らしている関係で、再審が最近決定された

 袴田死刑囚事件

には関心がある。再審決定は事実上の無罪判決。これなどは、上記3条件がぜひ冤罪防止には最低限必要であることをものの見事に示唆している。

 死刑の確定判決を書いた一審裁判官自身は無罪の心証だったのに、なぜ意に反して死刑判決を書かざるを得なかったか。再審では、意見書に沿った、そして原点に立ち返った論議が必要だ。

 法曹界の見識が問われている。 

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卑弥呼の正体 = 北部九州の巫女王説 

(2014.06.14)  先日、この欄で近くの図書館に出かけた話をしたが、もう一つ、面白い月刊誌を見つけた。「歴史読本」2014年7月号で、

 謎の女王、卑弥呼の正体 徹底検証 ! 9人の卑弥呼説

というのを特集していた。卑弥呼とは、だれに比定されるのか、というのがテーマであり、この分野の9人の専門家にそれぞれの学説を述べてもらっていた。

 ブログ子は、京都で学生時代を過ごしたせいか、1970年代、日曜日などには歴史ファン仲間とよく奈良へ古代史の旅をした。それ以来、卑弥呼の墓は、なんとなくこのとき訪れた前方後円墳の箸墓古墳(奈良県桜井市)であると信じていた。その後、大規模な宮殿跡の巻向遺跡が近くから出土したから、九州説ファンには気の毒だが、これで卑弥呼邪馬台国は畿内説にほぼ決まりだと早合点していた。

 ● 説得力のある推論

 Photo_2 9人の学説では出雲族説、外国人説など面白かったが、思わずうなってしまったのが、

 卑弥呼の出身地は北部九州の遺跡からしか追えない

として、

 平原(ひらばる)1号墳(かつて伊都国があった福岡県糸島市)

に埋葬されている巫女王こそ、卑弥呼の正体であるとの「北部九州巫女王説」。高島忠平氏の論考である(写真= 同月刊誌から)。

  この墳墓からは2つの耳飾(イヤリング)が出土しており、当時の墓制からみて埋葬者が女性であることはほぼ間違いないという(この点では箸墓の場合より、説得的である。また大量の破鏡も墓室から見つかっている)。

 さて、なぜ追えないのか、という理由である。

 その理由が説得的であった。こうだ。

  魏志倭人伝によると、そもそも卑弥呼なる女性は「三十国で共立された女王」であり、鬼道にたけていたと書かれている。

 だから、弥生時代末期という当時にあっては「こうした巫女王成立過程と成長過程が読み取れるのは北部九州以外にはない。巫女王成立の歴史的過程が読み取れないところには、卑弥呼のような巫女王は浮上できない」というのだ。

 その上で、卑弥呼は三十国のどこかの国の出身だと合理的に推理している。

 つまり、著者の高橋氏は「ほかより抜きん出て四十面といった破鏡で封じ込められた強大な巫力・呪力を持つ人物ということになると、(平原1号墳の被葬者が)卑弥呼であってもよい」と、考古学的な状況証拠をもとに歴史学的に推論、断定はさけながらも結論付けている(写真下= 同特集より。写真のダブルクリックで拡大)。 

 ● 平原1号墳墓の築造年代に疑問点

 Imgp4127_2 ただ、この論考では触れられていないが、副葬品などから総合的に割り出した平原1号墳墓築造年代が2世紀後半と、卑弥呼の活躍した年代(3世紀前半)より、やや早いのが気にはある。考古学的な誤差の範囲内かどうか、この点を除けば、この学説、なかなか説得力がある。

 1号墳があと少なくとも50年下って築造されたことが明確になれば、卑弥呼時代と重なり、整合性としては申し分がない。これがブログ子が論考を読んだ感想である。この点を高島氏はどう説明するか、聞いてみたい気がする。

 この学説は、卑弥呼は北部九州で生まれ、育ち、その後に畿内で共立治世を行なったとする点で、邪馬台国九州説と畿内説の〝折衷案〟であるともいえそうだ。

 ● 唐突感のある箸墓古墳= 卑弥呼説

 歴史上の出来事というものは、前後の脈略もなしにある日突然立ち現れてくるものではない。歴史的な必然性という順序を踏んで進むものであるという視点から考察したこの学説の今後に期待したい。

 その点で、箸墓墳墓=卑弥呼説には唐突感があり、弱点があるといえるであろう。

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研究事故調 ねつ造のなくなる日

(2014.06.07)  STAP細胞の小保方論文がついに2本とも、小保方晴子理研ユニットリーダー自身も同意の上、取り下げられることになった。

 これにより、STAP現象は仮説の段階にとどまり、現象の実在を証明するのは、今後の研究に委ねられることになった。仮に現象そのものは存在するとしても、その実証は「白紙」に戻ったといえる。

 ● 白紙に戻ったSTAP細胞

 今後の研究不正の再発を防止するという意味で理研の責任は重大である。

  理研による再現実験のほうの中間報告も今夏にも公表されるが、今年の日本国内重大ニュースには確実にこれら一連のニュースが取り上げられるであろう。科学ニュースでは、トップかもしれない。

Imgp41476  そんな中、月刊総合誌「文藝春秋」6月号に

 実は医学論文の7割は再現不可能 

 小保方捏造を生んだ科学界の病理

という論考が掲載されており、具体的な再発防止を提案している点で注目したい。日本分子生物学会の副理事長、中山敬一九大教授の特別寄稿である( 写真右 )。 

 この論考では、頻発するねつ造など研究不正を根絶するために

 研究不正事故調(査委員会)

をつくろうということを提案している。

 提案によると、具体的な根拠を示して不正の疑いが出てきた場合、研究事故調には研究ノートなど1次資料など論文に直結するデータの提出を求めたり、データの保全を原著者に対し指示したりできるという機能を持たせる。こうした提出や保全ができない場合、不正があったとただちに認定されるという厳しさである。

 研究事故調はそれらをもとに数か月以内に、不正の有無について、著者の言い分も聞き取り中間報告をまとめ、公表するという。

 ● 再現性をチェックする汎用ロボットの導入

 理研以外にも、今回のようなねつ造などの不正がこれほど頻繁に起こるようになるとこうした強制力も止むを得ない気がする。検討に値する。

 ただ、案としては結構だが、皮肉ではなく、重要な論文に限るとしても、研究事故調のメンバーはあまりに忙しくなり、対応できないという事態に陥らないか心配ではある。

 もう一つ、この論考で注目されるのは、

 研究成果の再現性を検証、チェックできるヒト型汎用ロボットの導入

を提案していることだ。論考の著者、中山教授が所属する九大の研究室の試験用ロボットでは、人手では再現がほとんどできないか、あるいは10回のうちせいぜい1、2回なのに対し、このロボットでは10回が10回とも見事に再現できるという。その気になれば、5年でかなり普及させることができる。遅くとも10年後にはほぼ定着するという。

 中山教授は、こうしたロボットの普及は、研究や実験の手法の標準化にも役立つと自信を示している。

 医学研究分野の現場からの具体的で、効果の期待できる提案であり、耳を傾けたい。

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6月18日大空襲 浜松の〝終戦記念日〟

Imgp4116_1 (2014.06.13)  一般に、終戦記念日というのは、8月15日(1945年=昭和20年)と思っているかもしれないが、戦後生まれで浜松市に暮らすブログ子としては、この写真展を拝見し、

 浜松の〝終戦記念日〟は6月18日

だと悟った。この写真展というのは、今、浜松復興記念館(浜松市)で開かれている

 昭和の浜松写真展

のことである。昭和20年のこの日の大空襲や遠州灘からの米艦船による艦砲射撃で、浜松は完全に廃墟となってしまった。

 ● 旧松菱デパートのみ残った廃墟

その時の廃墟の写真が大きく展示されていた(写真上=撮影者や出典はこの展示では明らかにされていないが、空襲に参加した米爆撃機B29からの爆撃直後の空撮だろう。写真のダブルクリックで拡大)。

 この空撮によると、左上のJR(旧国鉄)浜松駅周辺も廃墟であり、残っているのは右上近くの今もある旧松菱デパートビルのみ。中央の大きなビルは今の浜松中央郵便局であり、かろうじて残っているだけの惨状。

 戦前の赤レンガ造りのりっぱな浜松駅もこのとき、木っ端微塵になったのだろう。

 この写真を見ると、写真中央に川(新川)が流れている。現在はこの上に遠州鉄道(赤電)のレールが走っている。

 会場には、このとき使われた艦砲射撃の爆弾の残骸や、焼夷弾の残骸などが展示されているが、そのすさまじい破壊力にはたまげた。

 戦後生まれのブログ子などは、焼夷弾の仕組みや破壊力がどういうものかこの展示説明でようやく具体的に理解できた。

 ● 戦火潜り抜けたある古本屋で

 展示を拝見した後、そんな戦火を潜り抜けて、今月6月で創業80年を迎えた浜松市内の古本屋さんをたずねた。

 Imgp4112_12 ブログ子の行きつけの古書店で、池町(浜松市中区)にある親子三代続いている典昭堂(現社長=大石邦男、写真左)である。この店も戦中には浜松中心部(伝馬)に店舗を構えた。しかし、近所への気兼ねからおいそれとは疎開できず、結局大空襲で焼失。戦後は浜松市内には10数件の古本屋(一部は貸本屋も兼ねていたらしい)があった(現在は数件)。

 当時は、古本屋というのは、店先に電灯をつけた〝夜の商売〟だった。昼は別の商売をしていたというのだ。店舗の広さも今の半分くらいと狭かった。また、寺社のお祭りの日には露天商として古本を販売していたらしい。

 ● いくさの跡 いたましかりし

 戦中、戦後の復興を体験した70代の老社長によると、

 復興が始まったのは昭和30年代

という。そういえば、復興記念館には、昭和天皇の御製(浜松市、昭和32年)に

 Imgp4122 いくさの跡 いたましかりし この市も

 火影(ほかげ)あかるく にぎはへ(わえ)る 見ゆ

という歌がかかげられていた(写真右)。

 まもなく、そのいくさの終わった「6月18日」がやってくる。

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科学エッセイの楽しみ

(2014.06.13)  アジサイの季節の先日、久しぶりに近くの図書館を訪れて、いろいろな雑誌を閲覧してきた。そのなかに、

 Imgp4204 科学月刊誌「科学」(岩波書店)6月号

が「科学エッセイの楽しみ」という特集を組んでいたを見つけた。何人かの執筆者が楽しみ方や楽しかった体験をエッセイ風に書いている。

 ブログ子は最近、小説ばかり読んでいたので、この機会に一念発起

 『朝永振一郎著作集』(全12巻、みすず書房、1981年)

を読破しようと決意した。ノーベル物理学賞を受賞した朝永さんは現代理論物理学者だが、科学エッセイの名手として知られるからだ。

 ただ、ちょっと工夫して、理系の朝永さんとほぼ同時代を歩んだ文系の井上靖さんの

 『井上靖エッセイ全集』(全10巻、学習研究社、1984年)

もあわせて、交互に読んでみたい。

 Imgp4288 朝永さんにはブログ子は基礎物理学研究所(京都大)で研究会の仲間たちと一緒に1回お会いしている。1970年代であり、亡くなる5、6年前の晩年だったと記憶している。

 井上さんとは直接お会いしたことはないが、「私と文学」とか、「私の金沢四高時代」とかというテーマの講演会には数回出かけたことがある。

 いずれのエッセイもすでに読み始めているが、なぜもっと早く読まなかったかと悔やんでいる。とにかく、面白い。

 読み終えたら、多分来年の今ごろ、その読後感をこの欄に書いてみたい。

 いよいよサッカーワールドカップブラジル大会が始まるが、たまには、ふらっと図書館に出かけるのもいいものだ。

 ( 写真下= 読み始めた朝永振一郎著作集 1 = 鳥獣戯画と、井上靖エッセイ全集第5巻=北の王者 )

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定年後に必要なもの 教育と教養、ン ?

(2014.06.12)  ブログ子も定年後を迎え、暮らしている浜松中心部をぶらぶらと歩いていたら、

 Imgp4201ok 定年退職後に必要なもの

   それは教育と教養

というお寺さんの玄関先におかれた法話掲示板に出合った(浜松市中区)。別にどうということもないので、読まずに通り過ぎようとした。しかし、ひょいと眺めて、つい笑ってしまった。

 その心は、〝きょう行く〟ところがあることと、

 〝きょう用〟があること

だというのだ。なるほど、その通りだと感心した。

 毎日、行くところとやることがある。これが元気の出る定年後ライフのポイントというわけ。

 単なる駄洒落とはいえないことろがにくい。

 (写真= 浜松市中心部の街路樹に咲くアジサイ、2014年6月)

 

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空海の風景 日本人とは何ぞやの旅

(2014.06.11)  司馬遼太郎さんが、連載「街道をゆく」で同道した画家の安野光雅さんに

 Ok_2 自分の作品で一番気に入っているのは何か

と聞かれて、

 『空海の風景』かなあ

とこたえたという。朝日新聞2012年5月ごろの「読書欄」に出ている安野さんが語るエピソードである。

 この話は、司馬ファンのブログ子にはいつも気になっていた。それではいつか、読んでみようとは思っていたが、しかしなかなか機会がなかった。

 ● 宇宙原理の総合理論化果たす

 定年で暇ができたので、思い切ってつい最近、単行本で読んでみた( 写真 = 中央公論社、1975年。「注記」参照 )。

 このエッセー風小説を読んでみて、なるほどと納得した。司馬さんのすべての小説のテーマは

 日本人とはなんぞや

というものだが、その旅を司馬さんの自由な想像力を広げてまとめた作品であることに気づいたからだ。

 今から1200年も前、日本に真言密教を導入したのが空海なのだが、読後感を今風に一言で言えば、

 私はお墓の中にはいませんの「千の風になって」(新井満のCD)と同じ境地が空海の思想であり、それはまた今の日本人の中にも脈々として受け継がれてきた

ということだった。だからこそ、このCDが爆発的にミリオンセラーになったのであろう。その理由がわかったような気がした。

 宇宙の原理といったような抽象性の高い密教思想に共感する土壌を今もなお多くの日本人は感性としては持っている。これは1000年前の空海の思想の影響であろう。中国思想のような物事の現実性や具体性をことのほか好む儒教的な文化とは異なる土壌である。もともとの密教の輸入元だった中国では、すっかり密教的な思想は消え去っているのとは大きな違いだ。

 このことは

 日本人とはなんぞや

ということを考えるとき、重要な視点だろう。つまり、空海の影響よりももっと前、平安時代はるか以前の現世利益の秘術を修行によって得ようとした、たとえば「役の行者」につながる考え方かもしれない。それが素朴ではあるが、日本独自に土着していたからだろう。

 空海はそれを洗練された総合理論として仕上げた。それが後世に残ってきたと考えられないか。

 ● 怪物などではなかった 

 もう一つ別の感想としては、

 空海も人間だ

ということだった。ねたみも、そねみも大量に持って人生を歩んだ。決して怪物などではなかった。司馬さんが、好きな作品としてこの風景を選んだのも、ひとつにはそのことがわかったからだろう。 

  ● 注記 2014年9月2日記

 空海については、空海の思想そのものを掘り下げた

 『空海の思想について』(梅原猛、講談社学術文庫、1980年)

がある。

 Kukai_2 現世、この世界を肯定する密教思想の魅力を解説している。梅原氏は、空海の風景について辛らつな批判をしているので、一読してみる価値はある。この批判で梅原と司馬は、最後は仲直りはしたものの、以後「犬猿の仲」となったらしい。

 近著では、空海学会幹事長の竹内信夫さんの

 『空海の思想』(ちくま新書、2014年)

がある。中世の弘法大師信仰によってベールにおおわれてしまった本当の空海の姿を、空海のテキストの本格的な校訂作業を通じて明るみに出している労作。

 そこから、

 日本文明とは何だったのか

という展望を開いてくれている、あるいはあらためてわれわれに再考させてくれているらしい(2014年8月24日付中日新聞朝刊「読書欄」評者=篠原資明京都大教授)。

 これは司馬さんの

 日本人とは何ぞや

というテーマにも肉薄することでもあろう。

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鏡の中の世界 - 脳を錯覚させるイン浜松科学館

(2014.06.11)  先日、この欄で、脳はなぜ錯覚をするのかという

 思考の錯覚

について、話した(5月25日付)。人間の思考には、つまり脳の働きには、ある一定の前提をおくなど、クセがあるということを述べた。それを防止するには四分割法によって合理的に対応しようとも書いた。

 この話を逆にして、脳内の情報処理のパターンとも言うべき、そのクセを手玉にとって脳を錯覚させるには、どうすればいいか、考えてみた。

 Imgp4154_1_2 通常、脳は、現実の世界というリアル世界を前提として、目から入ってくる情報を処理、それに基づいて手足などの運動を司る運動神経に指示を出す。たとえば、机の上に置いた円などの図形を直接見ながら、絵をなぞる「お絵かき」は、幼稚児にも簡単にできるのはそのためだ。

 それでは、その円の絵を、あるいは星型でもいいのだが、鏡に映し、もとのリアルな世界の図を見ないで、鏡に映った絵だけを見て、絵をサインペンなどでなぞる「お絵かき」をしたら、どうなるのだろう。

 こんなイベント「試してみよう さかさまお絵かき」が先日、浜松科学館(浜松市)で小学生低学年や親子を対象に開かれた(写真上)。

 ● さかさまの世界を再現

 大勢の子供たちが押しかけ、大変な賑わいだったが、結論を先に言うと、

 そんなのは、簡単と思うかもしれない。が、大人も含めて、ほとんどの人は、にっちもさっちも行かなくなり、手が動かず立ち往生してしまう。みんな、アレアレレと大騒ぎ。その真剣なまなざしにはほとほと感心した。それを見たお母さんたちも子供に混じって挑戦したが、思うように手が動いてくれず、たじたじの様子。小さな子どもの中には、どうしても最後までできずに泣き出してしまった子もいたらしい。

 Imgp4167_1 詳しい仕掛けは右図。箱の前に、鏡を立てかけ、直接絵が見えないようにした覆いの下に置いた絵を、鏡だけ見ながらなぞる。

 ブログ子もやってみたが、いかなこれができない。

 悔しいので、下の図のようなメモをつくって考えてみた。

 つまり、種明かしは、鏡に写った図をなぞる場合、右、または左へなぞりたいときは、現実の絵同様、その通り、それぞれ右または左になぞればいい。

 しかし、鏡を見ながら上または下にサインペンを持った手を動かしたいときには、現実の場合とは逆、つまり、それぞれ下または上にペンを移動しなければならないのだ。

 なぜなら、鏡の中の世界は、リアルな現実とは、メモ図にも示したように「さかさま」だからだ。鏡の位置に対して、鏡に写った像は現実の絵(実像)とは対称の位置にはあるが、実は逆さまの虚像なのだ。

 Ok ボランティアとして、みなさんのお手伝いをしながら、観察したり、感想を聞いて、はたと気づいた。たいていの人は、メモ図の記号、C、D、E、Fといった角っこでにっちもさっちもいかなくなり、脳が大混乱に陥る。

 この謎は、この領域では、メモ図にも書いたように

 素直なリアルな世界と、逆移動を神経に指示しなければならない虚像の世界とがちょうど半分ずつ重なっていて、そのことが脳を最大限に錯覚させているのだ。脳は、鏡の世界を虚像であるとは思っていないのが原因。

 メモ図で、このような理屈をはじき出したブログ子だったが、円の図はともかく、それでも星型(写真下)のような比較的に難しい図形をなぞるのは容易ではなかった。

 赤いサインペンのギザギザは、大脳が目からの情報をもとに手を動かす運動神経に指示を出す場合の〝戸惑い〟の程度を如実に示している。

 Imgp4168_1 簡単な仕掛けではあるが、大変にショッキングな科学イベントであったと思う。なにしろ、家でも簡単にできる不思議な科学であり、子供たちの科学心を育てるのには格好といえそうだ。

 蛇足だが、参加した親子連れの若いお父さんは、ショックのあまり、右利きなのに左手にペンを持って、この困難を乗り切ろうと頑張っていた。

 いいアイデアとは一瞬思ったが、効果があったか、どうか、ブログ子には自信がない。

 (写真はいずれもダブルクリックで拡大できる)

  ● 補遺 朝永振一郎著作集

 ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎さんには、名エッセー

 鏡のなかの世界

というのがある。

 たとえば、『朝永振一郎著作集 1 鳥獣戯画』(みすず書房、1981年)である。初出は、今から50年も前の雑誌「数学セミナー」1963年1月号。

 今回のイベントとまったく同じ話やそのほか鏡の持つ不思議な性質が縦横に語られている。その不思議さを心理学も含めて、物理学者らしく、さまざまな角度から検討しているのが面白い。これを読むと、鏡に映った世界(鏡像)というのは、プロの物理学者も悩まし続けているまことに奇妙なテーマであることがわかる。

 古典力学の世界では、われわれの実像世界で起こることは、鏡の中の世界でもまったくそのまま通用する。しかし、極微の素粒子の世界では通用しない。

 つまり、このエッセーで朝永さんは「素粒子の法則は鏡映に対し不変性を持たない」と語っている。これが、素粒子物理学の大法則

 パリティ非保存

である。話をここまで持っていく力量の高さなど、朝永さんの「光子の裁判」と並んで、科学の不朽の名エッセイとして今も、親しまれている。かつてブログ子も読んで、いたく感心したのを今も覚えている。

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人はなぜ誤解するのか

(2014.06.05)  このブログを読んでくれる読者はありがたい。以前、この欄で

Imgp4110_1  思考の錯覚

あるいは

 記憶の錯覚

というのを書いたが、ある読者から、その感想とともに、関連で

 『誤解学』(新潮選書、西成活裕)

という新刊書が出ていると知らせてくれた。そんな学問があるわけがないと思ったが、著者は東大先端研教授であることを知った。それにしても、新しい学問であろう。

 読んでみたが、記号論理学のような話が延々と出てきて、内容を誤解するまでにも至らないほど、難しかった。ただ、宇宙工学の専門家らしい緻密さには感心した。

 誤解を生まないよう、科学・技術論文の作成ではさまざまな工夫をする。そのことを熟知している人が書いた誤解学だけに、ある程度説得力があった。文系のようなあやふやな論ではない。その意味で、この分野は、いずれ歴とした実証性のある「学」になるかもしれない。

 そうなれば、誤解を与えない話し方、書き方ルールというものも、科学的な根拠をもつ技術として、教育のなかに位置づけられ、普及していくだろう。

 ● はしょりすぎが原因

 以下、私見である。

 誤解とは、ある人の行動や言説について、論理的にはいくつかの解釈ができるはずなのに、ある特定の解釈や帰結のみに偏って理解することである。

 その場合、なぜ人は誤解をするのであろうか。

 西成さんは、いろいろむずかしいことを言っているのだが、誤解を恐れず簡単に言ってしまえば

 省略をしすぎることで起きる

ということになろう。いわゆるはしょりすぎである。

 そのとき、受け手側の思い込み、先入観あるいは偏見、さらには手前勝手な発想や付け加え、憶測、そして、記憶の錯覚、思考の錯覚なども重なって、誤解を生むというわけである。

 真意をつかむことのむずかしさが伝わってくる。また、真意は唯一つとは限らないことも誤解を生む原因だろう。

 ● 誤解はなくならず、必要悪

 それでは、世の中から誤解をなくすることはできるか。

 送り手と受け手の情報の非対称性があるかぎり、なくならない

とブログ子はこの本を読んで感じた。

 だから、西成さんは、

 (一時的に)悟る、つまり、真意を伝えることをあきらめることが肝心

と説いていたのが面白かった。つまり、簡単に言えば、冷静になるよう冷却期間を持てということだろう。

 西成さんは最後に、

 誤解は必要悪

とも語っていた。誤解は、人と人との間に情報のひずみをもたらし、それが社会の活力源になるからだというのがその理由。

 かつてブログ子は、ある大学で

 マスコミュニケーション論

を数年、講義していた。この経験から言うと、誤解学は、世論形成にも大きな影響を与える力があるように感じた。誤解を与える「ワンフレーズ政治」のあやうさである。

 はしょりすぎ政治の危険性だけでなく、テレビ放送、あるいは140文字以内のツイッターなどのSNSなどのあやうさの背景も知ったように思う。

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原発倫理にも踏み込んだ差し止め判決

(2014.05.31)  福井地裁が、大飯原発3、4号機の運転差し止めを命じた今回の判決(5月21日、樋口英明裁判長)は、

 「生命を守り生活を維持するという、人格権の根幹部分に対する具体的な侵害のおそれがあるときは、侵害行為の差し止めを請求できる」

とした点で、

 原発倫理にも踏み込んだ判断

として、高く評価できる。

 ● 人格権を前面に

 判決は、この基準に照らし、本件原発の現在の安全性を具体的に吟味し、

 「本件原発の安全技術及び設備は、確たる根拠のない楽観的な見通しのもとに初めて成り立ちうる脆弱なものと認めざるを得ない」

と結論付けている。

 また、判決は「多数の生存そのものに関わる権利と電気代の高い安いの問題等を並べて論じるような  (中略)  こと自体、法的に許されない」とまで言い切り、電力会社側の主張を一蹴している。

 原発の危険性についてはこれまで、ほとんど人格権という価値には踏み込まず、もっぱら科学の成果のみを総合し、判断されてきたものとは、この判決は大きく異なる( 注記 )。仮に科学的に合理的に判断したとしても、そこには不確実性が伴うことを考慮してこなかった(補遺 )。 

 ● 司法の失敗、くり返すな

 Photo_2 この点について、福島原発事故直後の憲法記念日を前にした定例の記者会見で、当時の最高裁判所長官は、ほとんどの原発訴訟で裁判所が国と電力会社の主張を認めてきたことについて、その感想を問われ

 「あらゆる科学の成果を総合し、原子力安全委員会などの意見に沿った合理的な判断がされているかに焦点を当て、司法審査してきたと理解している」

と述べている( 『原発訴訟』(海渡雄一、岩波新書) )。ほとんどの原発訴訟に弁護士としてかかわってきた海渡氏は、このような司法審査は

 司法の失敗

であると厳しく同書で批判している。

 今回の判決は、国民の常識的な判断を受けたものであり、司法の失敗を繰り返さないためには、上級審はこの判決を真摯に受け止める必要があろう。

● 補遺 原発は人類の「負の遺産」

 ブログ子は、金沢在住時代、北陸電力の志賀原発1号機の差し止め控訴審(名古屋高裁金沢支部)を取材したことがある。1998年9月の判決は、差し止め自体は認めなかったものの、

 「原発は人類の負の遺産であることは否定し得ない」

と初めて、原発の安全性に問題があることを認めている。ただ、このときの判決では、負の遺産の部分があるのは事実としても、原発の当否は「国民が選択すべき事項」であり、裁判所が判断することではないと逃げた判示となった。

 ところが、事故後の今回の判決では、

 「福島原発のような事態を招く具体的な危険性が万が一でもあるか( 中略 )の判断を避けるのは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しい」

と断じている。これまで消極的だった裁判所が事故後の最初の差し止め判決で安全性の判断に積極的に関わる姿勢を打ち出したことは、地裁レベルとはいえ画期的といえる。

  ● 注記 志賀原発2号機の井戸謙一判決(2006年3月)

 唯一の例外は、志賀2号機(北電)の運転差し止めを命じた判決(金沢地裁、井戸謙一裁判長、2006年)。これは、ブログ子の金沢在住時代に出た判決であり、思い出深い。

 この井口判決を要約すると、原発耐震性の想定が、たとえ国の安全基準に合致していても、その基準自体が実際に起こりうる地震規模の実態を反映したものでない場合、具体的な危険性が生じると推認できるのだから、差し止めの対象になりうるというもの(国の原子力安全委員会は、この指摘に驚き、この判決後、ただちに基準見直しに着手している)。

 その上で、判決は住民の利益は生命、身体なのだから、たとえ公共性があったとしても、一企業の経済的な利益より優先されると判示している。

 これは、人格権を明確にうたった今回の樋口判決に通じる考え方である。

 また樋口判決では、具体的な危険性として、想定した地震規模(具体的にはガル数)が、実際に起こりうると推認されるケースよりも過小に評価されていることを指摘している。これまた、福島原発事故前に出された井口判決に通じる考え方だろう。

 この意味で、井口判決は、その後、控訴審、最高裁で取り消されはしたが、福島後によみがえり、さらに裁判所の責務とは何かに鋭く踏み込ませるきっかけを与えた歴史的な出来事といえる。 

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石田純一「わが人生最高の10冊」

(2014.06.01)  こんなことを言えば、偏見もはなはだしいとしかられるかもしれない。そして失礼な話だが、実はブログ子は、俳優の石田純一さんについては、これまで半分バカにしていた。だが、その理由に確たる根拠もなかった。

 ● モテるための読書とは言うが

 ところが、「週刊現代」2014年5月10・17日号の

 わが人生最高の10冊「モテるための読書で人生が劇的に変わった」

という読書エッセイ( 写真 )を読んで、

 これはなかなかの人物かもしれない。すくなくとも芯がある

ということに気づいた。

  最初は、タイトルのモテるための読書うんぬんというので、うんざりした。しかし、ともかく読んでみて、プロの文章ではないが、内容がしっかりしていると思った。10冊の本を紹介しているのだが、実際に読んでいなければ書けないことも盛り込まれている。そんなことはちゃらちゃらした人間にはとうていできない。

 しかも紹介した本には、うならせるものが多い。選択の視点がいい。つまり、どこにでもある話をとり急ぎこねまわしたようなインチキ紹介ではない。

 冒頭部分で、第一位に選んだのは、なんと古風な中村天風さんの本。

 そして一転、たとえば、2番目に挙げた『ビジョンナリー・カンパニー』。これについても

 「会社にとって一番の財産はカリスマ経営者でも、生み出す商品でもなく、その会社自体だと定義つけたのがすごい」

と喝破している。いくら、大学の商学部でマーケティングを学んだからといって、こういうところに目をつけるのは、容易ではないはずだ。

 ● 能ある鷹は爪をかくす

 06_01_01_2 そして、最後に、最近読んだ1冊として

 『原発メルトダウンへの道』(NHK ETV特集取材班著、新潮社)

を紹介している。紹介の仕方も、

 「僕が素晴らしいと思ったのは、「原子力政策研究会」なる会合(の会話)を録音した100時間を超えるテープの中で語られる、原子力を推進してきた方々の赤裸々な話で構成されていること。」

とポイントを突いている。これからの日本のエネルギーをどこに託そうかと考える上で重要だとの意見も添えている。

 ブログ子も、かつての科学技術庁主導のこの勉強会の肉声記録の重要性を痛感しており、石田さんのコメントについては、その通りだと思う。

 そのほか、

 第3位 『官報複合体 権力と一体化する新聞の大罪』(講談社)

 第10位『宇宙誌』(徳間文庫)

も取り上げるなど、あえていえば歴史書や小説がないのはややさびしいが、選択のメリハリと選択視野の広さには、ほとほと感服した。

 イケメンの石田さん、モテるうんぬんと、自分をあえてごまかしてはいるが、相当なインテリである。

 能ある鷹は爪をかくす

といえば、買いかぶりすぎか。

 確かなのは、浅薄なのは、根拠もなく偏見をいだいたブログ子のほうだということである。

   (写真は、ダブルクリックすると拡大)

 ● おまけ 私の「人生の10冊」

 参考のため、出あいの書、あるいはありきたりではない

 わが人生の10冊

を挙げるとすれば、次の通り。

 『新明解国語辞典』(三省堂)

  『悪魔の辞典』(A.ビアス、こびあん書房)

 『NOTO 能登・人に知られぬ日本の辺境』(P.ローエル、十月社)

  『私の進化論』(今西錦司、思索社)

  『細胞の意思』(団まりな、NHKブックス)

  『逆システム学』(児玉龍彦ほか、岩波新書)

  『唯脳論』(養老猛司、ちくま学芸文庫)

  『徳川家康』全18巻(山岡荘八、講談社)

  『敦煌』(井上靖、講談社)

  『増訂 日本古代王朝史論序説』(水野祐、小宮山書店)

  『太陽系大地図』(小学館)

    できれば、

 『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(S.フィッツジェラルド、角川文庫)

 『天平の甍』(井上靖、中央公論)

 『脳の中の幽霊』(V.S.ラマチャンドランほか、角川書店)

も、ありきたりではない出あいの書として挙げておきたい。これらは、いずれも、どこにでもある、いわゆる「不朽の名著」ではないことに注意してほしい。不朽の名著に名著なしと、あえて心得たい。

 ただ、司馬ファンとしては、ありきたりだが、

 『竜馬がゆく』全5巻(司馬遼太郎、文藝春秋社)

もいい。装丁の異なる二種類の本で、二、三度も読み、今も書架に入っている。

 この作業を通じて、世間には、聖書とか、万葉集などありきたりな、あるいは読んでもいないのに格好をつけるために取り上げている「私の一冊」がなんと多いことかと気づいた。

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