« 2014年3月 | トップページ | 2014年5月 »

2014年4月

Shall We ダンス  中部日本選手権

(2014.04.28)  浜松市で中部地方のダンス選手権大会が久しぶりに開かれるというので、先日の日曜日の午後、いそいそと出かけてみた。

  ブログ子などはまだ初心者ともいえない段階なのだが、ともかく、ワルツ、タンゴ、ブルース、ルンバ、チャチャチャ、ジルバをなんとか、ぎこちないながらも踊れるようにはなった。

 ● ドレスが踊るImgp3812_1

 そこで、トップレベルの踊り方とはどんなものか、見てみたいと浜松市郊外で開かれた大会に出かけてみた。アマとプロの両部門があるが、あまりにもうますぎて、アマ部門ですら、雲の上のような演技にみえてしまった。

 レッスン教室の先生もプロ部門で出場していたのをまじかに見て、この世界の厳しさを少しは感じることができた。いつもにこやかな先生なのだが、出場中のその表情は輝いてはいたものの、別人のようなのには驚く。

 ただ、その華やかさには圧倒されたし、人生もかくありたいとも感じる。

その華やかさの秘密は、クイックターンの魅力、つまり女性の

 ドレスが踊る

というところにあるらしい。そのいったんを、ここでは写真で紹介するだけにとどめたい。

 ● 男と女と

 老いても、このときめきを、華やかさを忘れず、大事にしたい。そう誓って、夜の迫った会場を出た。

 人生成り行きとか、時の過ぎゆくままにとは言うが、人生とは一体なんなのだろう。そして、ダンスって、男と女のなんなのだろう。

 そんなことを思う一日だった。

 この日、街中の行きつけの赤提灯で一人しみじみとした時間を過ごしたことを、正直に書き留めておきたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

クビナガリュウの首 石炭・化石館で

(2014.04.28)  ブログ子は福井県出身だから、全国に名だたる福井県立恐竜博物館(勝山市)は何度も訪れている。

 Imgp3731_1_2 縁があって、先日、もう一つの〝恐竜〟博物館ともいわれる福島県の

 いわき市石炭・化石館(いわき市湯本、愛称ほるる)

をたずねた。その入り口に、全国初のクビナガリュウ、

 フタバサウルス・スズキイ(中生代後期白亜紀、約8500万年前)

の全身7割の発掘骨格とそれをもとにした全身復元像が展示されており、これにはびっくりした。全身7メートルはあろうかという長い首がなんといっても最大の特徴だろう(写真上)。

 むずかしい話はさておいて、

 いやはやたいした恐竜である。

 そう感心した。そして、思った。

 この長い首は、進化の過程で、どんな働き、あるいは生存にとって有利に働いたのだろうか

 という疑問を持った。

 ● 首長竜は海の〝恐竜〟

 そうしたら、説明の学芸員は、ちょっと残念そうに、このフタバサウルス・スズキイも含めてクビナガリュウというのは、

 Imgp3742_1_2 恐竜の仲間ではない

と話してくれた。

 わかりやすくいえば、同じ爬虫類ではあるのだが、恐竜というのは中生代の陸上に生息する巨大爬(は)虫類。これに対し、クビナガリュウは中生代の海中で泳いでいた

 海の巨大爬虫類

なんだそうだ。生物分類上、ともに「科」は海棲爬虫類のエラスモサウルス科ではあるのだが、その下の分類

 属と種が異なる

のだそうだ。

 エントランスに堂々飾られていたフタバサウルス・スズキイ

の正式な属と種は、

 フタバスズキリュウ属ススキイ種

となる。恐竜の属とは異なる。

 爬虫類(分類上の「綱」)の中のどの属に入るかというやかましい判定には、爬虫類の骨盤の構造の違いによるらしい。生物分類では、大わけのほうから、界(動物界など)、門(脊椎動物門など)、綱(魚類、両生類、爬虫類、ほ乳類の4綱がある)と細かく分類されているらしい。

 ● 首長竜の首はなぜ長くなったか?

 こんなややこしい話に付き合ってるとつい、

 Imgp3743_1 なぜ首長竜の首はあんなにも長いか

という進化論的な肝心な話がどこかにいってしまいそうだ。

 あとで、ほるる学芸員に電話で問い合わせたら

 キリンの首がなぜ長くなったかということと同様、確定的なことはいえないが、環境が大きく異なり、収斂進化ではないようだ。しかし、海中でエサ、たとえばイカを捕食するのに有利であったのかもしれない

とのことだった。しかしながら、同じ首長竜の仲間でも、首の短い、つまりカメのようなタイプの首長竜もいるということだから、こんな解釈も一筋縄ではいかないらし い。

 ● 炭坑の町と恐竜

 いわき市は昔から常磐炭田の街だったから、石炭を掘り出すための地下の情報が豊富だった。このことがこうした巨大爬虫類の発見に有利な土地柄になったらしい。

 ちなみに、いわき市はもちろん、もはや石炭の掘り出しは行なっていない。日本で石炭を坑道掘りだが、行なっているのは北海道釧路だけだという。

 ( 写真はいずれもダブルクリックで拡大できる )

 ● 補遺 アクアマリンふくしま、いわき市大震災展(ら・ら・ミュウで)

 いわき市の小名浜港には、建物がガラスの魚類のように見える海洋生物の科学博物館ともいうべき

 アクアマリンふくしま(写真)

もある。後日、じっくり見学したい施設だった。

 Imgp3753_1

Imgp3751_1_1ok

  ● 補遺2

 このバスツアーの帰途、車中で観た二つの青春映画

 「スウィングガールズ」(2004年)と「書道ガールズ!!私たちの甲子園」(2010)

は、ブログ子にとって、とても新鮮なものに思えた。

 最初のは、ブラスバンド部に新しい風を起こそうとした女子高校生たちのジャズバンドづくり。後のほうは、書道とは個人的なものであり、静かに一人自分の心と向き合うものという固定観念に対する危機感が背景。実話がもとになっているらしい

 音楽にあわせて心からわきでる書きたいものをグループで仕上げるなど、書道に協力し合う要素を加えてもっと活力を、街おこし力を、というのがテーマ。芸術は爆発だというのとも少し違う。

 いずれもコメディタッチなのがよかった。大上段に振りかぶっていない。どちらかといえば、竹中直人がジャズ好きの数学教師として脇をかためていたからか、「スウィングカールズ」のほうが作品としての完成度は高いように感じた。

 この二つの映画と並んで、いわき市と関連の深い

 「フラガール」(2006年)

も見てみたいものである。松雪泰子が出演している。1967年、常磐炭坑が閉鎖されるまでの町おこしとして、フラダンスを取り上げている。   

| | コメント (0) | トラックバック (0)

4年目の「沈黙の春」 福島浜通りをゆく

Imgp3757_12ok_2 (2014.04.22)  事故をおこした福島第一原発の地元、双葉町出身の若者(はままつ・東北交流館、右下写真)が企画した原発震災被災地ツアーに先日、浜松市から参加した。

 福島県いわき市から、いわゆる「浜通り」といわれる国道6号線など海岸沿いの道をバスで北上、双葉町近く、第一原発が遠望できるところまで現地を見て回った。

 通行許可証明書や参加者の身分証明書の提示が求められる検問所を何箇所か通り抜けての念願の取材旅行となった。

 ● 結論的な感想

 1泊2日の取材だったが、ブログ子の結論的な感想を先に要約すれば、次のようになるだろう。

 4年目を迎えてもなお、放射能の線量が高く原則人の立入りが禁止されている「帰宅困難区域」や居住制限区域という沈黙の廃墟を見て、

 津波は去ったが、人間は原発とはとうてい共存などできない

のだということを痛感させられた。ここが阪神大震災との大きな違いだった。

 Imgp3604_16_2 とくに、このことを、居住制限区域の真ん中にあるJR常磐線「とみおか」駅前の海沿いの廃墟を拝見して、思い知らされた。

 東北の春の海は取材中、鏡のように静かな海面だった。だがしかし、明るい太陽のもとで感じたのは、静かな海の奥に人間にはあらがいがたい脅威がいつも隠されているという現実だった。

  地球温暖化という避けられない問題があるとしても、 日本のこれからのエネルギー問題の「解」は原子力ではあり得ない

 Imgp3593_1_2 これがブログ子の結論である。

 以下は、この結論に納得してもらうための現地ルポである。

 ● 楢葉町 荒地に除汚土、一時保管   

 いわき市から、事故をおこした原発から20キロ圏外の広野町に入ると、すでに帰還が始まり、国道沿いにある瀟洒なガラス張りの広野町役場も業務を再開していた。なのに、まことに住民の姿はまばら。ポツンと立っていたガソリンスタンドで、原発関連作業車が給油している姿を見たぐらいである。  

 いわき市に避難し、仮設住宅で暮らしていた人たちも、3年という年月の間に、半数以上がふるさと広野町に帰る気力を失っているという。

 北上して、20キロ圏内の楢葉町(避難指示解除準備区域)に入ると、殺風景な場所にコンビ二があるにはある。コンビ二の若い店員もいわき市から通勤しているらしい。利用しているのは

 第一原発作業関連専用バス

と書かれたバスの乗客がほとんど。一見、普通の路線バスのようにみえるが、そうではない。いわき市や広野町の道路沿いの簡易モーテル宿舎から作業要員を福島第二原発まで運ぶ(通勤)バスである。第二原発で防護服や線量計を身につけ、事故のあった第二原発に向かうという。

 いまだ除染中の楢葉町のバス内線量はおおむね0.1μSv/時

と比較的に線量は低い。年間許容量1mSv/年に対して、約半分くらいである。

 だが、楢葉町には、今問題になっている

 除染した放射能汚染土をつめた袋が大量に、荒地化してしまった田畑の真ん中に一時保管されている。それがツアー車窓の両側に延々と続いている(左上写真 )。

 福島県内の各地にあるこうした一時保管の仮置き場の汚染土をきちんと保管するための正式な国の

 中間貯蔵施設

については、中間保管した土などは30年以内に県外で最終処分するというのが国(環境省)の方針。2015年1月から施設に搬入開始を目指している。このため、環境省はこの3月に大熊町や双葉町両町に対し、建設の具体的な提案を示している。

  ● 今も廃墟のJR常磐線「とみおか」駅前

 常磐道を左に見ながら、さらに北上を続けると、楢葉町と富岡町の境界あたりにある福島第二原発前を通過する。富岡町はほとんどが居住制限区域であり、人は住めない。

 第二原発には排気塔はもともと3基あったのが、なぜか現地視察時には1塔しかなかった。

 Imgp3624_1jr 廃墟となったJR常磐線とみおか駅前の惨状にはおどろいた。ここは海の見える繁華街の中心。訪れたときの線量は

 0.5-0.6 μSv/時 ( 屋外 )

と、やはり高い。

 その一連の様子を写真で示すと以下の通り。

 一階がなく、ベランダの付いた二階だけが流されてきた家屋があった(写真下)。くしゃくしゃにつぶれた多数の車が折り重なったり山積みになったりもしていた。

  Imgp3637    

Imgp3644_1

Imgp3650_10386  

Imgp3654_3  

  震災で大きな津波被害にあいながらも、原発被害のなかった岩手県の三陸鉄道が震災から3年たったこの4月(2014年)、全線復旧開通を果たしたのとは、あまりにも対照的であった。

  そして、そこからさらに北上すると、いよいよ富岡町北部と第一原発のある大熊町。いずれも帰宅困難区域、入るには通行許可証(被災地元住民)と同行者の身分証明書の提示が求められる検問所(右下写真。その下はバス内での身分証明書照合の様子)

 この入り口付近では

 1.7-1.9μSv/時

と相当高い。年間にすると8mSv/年と常駐許容線量(約1mSv/年)の8倍。

 双葉町出身の件の案内者によると、

  これまでの最高は30μSv/時(第一原発に通じる入り口付近)

だったという。ツアー時の第一原発に通じる入り口付近では

 8μSv/時 (年間換算で約30mSv/年)

   環境省の基準では、20mSv/年以上は「帰還困難区域」であるから、大熊町や双葉町が今も帰還困難区域であるというのはうなづける。 

 ● 浪江町から第一原発を遠望

 今回のツアーでは、案内者の出身地で第一原発のある双葉町、たとえば、JR常磐線ふたば駅前の様子は検問所の関係で見学できなかった(左下の車は、第一原発の方向に向かう警備会社の車)。

 Imgp3698 そこで、いくつかの検問所を通り抜けて北から南の第一原発を遠望した。浪江町には荒れた田畑に10数頭の牛が放し飼いにされていた。

 遠くに太平洋が見える荒れた田畑の中には津波で運ばれてきた漁船があちこちに捨て置かれていた。がれきも大量に放置されていたが、ほとんどは漁具類であった。

 浪江町と双葉町の境界あたりからは事故をおこした福島第一原発の排気塔やクレーンなどの一部が遠望できた。

 風向きの関係か、持ち込んだ線量計では

 線量は0.1μSv/時

 近くに設置されていた線量モニタリングポストでも、同程度だった。

 双葉町側では津波の痕跡もなまなましく、3メートルくらいの高さまで到達いていたことが家屋の窓ガラスの横泥スジで確認できた。

 バスを降りて、双葉町出身の案内で双葉町について説明を聞いたが、まずは原発震災のこの現状を全国の人々に知ってもらうことが東北出身者のつとめであると強調していたのが印象に残った。

 感傷的な言い方かもしれないが、4年目になっても鳥の声ひとつ聞かなかった「沈黙の春」の浜通りを取材して、原発に未来を信じた自分の愚かさをしみじみと感じたことを正直に書いておきたい。

  ● 4月19日付福島民報から

 Imgp3655_1_2 ツアー中の4月19日付きの福島民報によると、

 政府が18日に発表した福島県内の

 年間被曝推計(帰還した場合)

では、林業が最も高く2.3mSv/年、次いで農業の1.9-1.2mSv/年。

 平均ではなく、生活パターンによってそれらも変わりえる。

 Imgp3674_1_2 この民報は、

 福島第一原発、凍土壁認可 結論持ち越し

   規制委 着工時期、混迷深まる

として、規制委が技術的手法に新たな指摘をしていることを伝えている。

 ● 福島民報「論説」から

 この日の民報「論説」は

 本県への誤解偏見

と題し、一部雑誌に掲載された「福島に蔓延する「タカリ体質」」という記事に対し、

 反論含めた情報発信を

と訴えている。執筆した論説委員は「タカリ体質」を示す具体的な資料は少なく、取材相手の「感想」あるいは推測にもとづいていると記事を批判している。内容の正否よりも見出しが「独り歩き」しがちだと懸念している。

 これを読んでジャーナリストとして強く感じたことは、

  やはり現場を踏むことの重要性

である。遠く離れた東京にいては原発震災のおそろしさや現状はわからない。

 現地に立って考え、ものをいう

 これこそが基本だということを改めて教えられた。

  このツアーについては、2014年5月14日付中日新聞に記事が出ている(写真をダブルクリックすると拡大)

 05_18_0_120140514

 また、以下に、第一原発が南に遠望できる浪江町と双葉町の境界付近(浪江町請戸地区)の被災の現況をいくつか紹介する(最下段写真は浪江町からみた福島第一原発遠望)。 

Imgp3710

Imgp3684_1jpg   

Imgp3687

Imgp3703_1

| | コメント (5) | トラックバック (0)

薬になる「クスリ」の話

(2014.04.18)  びっくりもしたが、やっぱりそうか、という記事が、最近の「週刊現代」(4月5日号)の大特集に掲載されている。

 Imgp3479_120140405病気はクスリでつくられる

 特効薬を販売したら、「うつ病」患者が2倍に急増 !

  あまつさえ、日本薬剤師会会長の

 「患者よ、クスリを捨てなさい」

にはびっくりした( 写真 )

 ブログ子も、もう10年以上、うつの気があるからだが、そして今もときどき思い出したように処方薬を飲むから、なおのこと驚いた。

 しかし、上のタイトルをはっきりと裏付ける数字として、大特集にはこんな具体的な数字が出ている。

 2000年に抗うつ薬の特効薬「パキシル」が発売された。そうすると、発売前の1999年までの日本では年平均43万人で、患者数が横ばいだったのが、発売3年後には70万人を突破。2005年にはなんと90年代の倍増の92万人に急増したというデータが示されている。

 なんのことはない特効薬ができると、患者は減るどころか、かえって急増する。そんな珍現象があちこちで起きているらしい。

 ● クスリは「毒」である

 うつ病のクスリに限らず、この特集で薬剤師会長が意を決して

 クスリは「毒」である

とあえて宣言している。必ず何がしかの副作用があるという意味だ。だから、むしろクスリは効かないものと心得よ、というのだ。それどころか、

 よく効くクスリは副作用のリスクも高い

というのが常識。病院、医院で処方するクスリは、このハイリスク薬なのだ。

 なのに日本人はとかく、病院で処方してもらうクスリはただ、処方されないとなんだか不安になり、

 クスリをください

と医師に要求したりする。こっけい至極というべき現象であろう。高齢化とともにクスリの副作用に対する抵抗力も弱くなり、ますます

 クスリは「毒」である

ということが真実味をおびる。件の会長はそう警告する。なのに高齢者ほど、クスリ信仰が根強い。こうなると日本のクスリ事情は異様としかいいようがない。

 酒、たばこの飲みすぎに注意する。とともに

 クスリの飲みすぎにも注意

すべきなのが、現代なのだ。

  ● 移行中の「包括払い」方式が背景

 ただ、注意すべきなのは、こうした発言には背景がある点だ。

 薬を売れば売るほど、それに連動して儲けも多くなるという

 医療費の出来高払い制

から、コストが売上高に連動しない

 包括払い制

に現在、移行中という事情である。この新しい方式では、病気ごとに、患者一人当たりの支払い上限が決められている。これだと、制限のない出来高払いに比べて、かなり医療費全体を抑制できる。医療機関にしても、むやみに薬を出しても、儲かるどころか、かえって損をするケースも出てくる。

 別の言い方をすれば、患者ごとに、無駄な薬は出さないなど、診療の効率化が求められることになる。これまでのような出来高払いでは必要のなかった経営の効率化も医療機関に求められるようになった。

 診療の効率化では、診療行為の標準化を図り、むやみに、あるいは好き勝手に薬を出さないなど、厚生労働省が音頭をとった改革も進んでいるらしい。

 このことが、薬剤師会会長の発言の真意なのだ。単に患者を思っての正義心からだけの発言ではないことに注意すべきである。同時に、日本人は薬好きという通弊を改める意識改革も患者側に求められていることを忘れてはならないだろう。

 それはさておき、病気は気から、そしてクスリからというのも本当だろう。副作用がある分、薬のほうがこわい。

 薬になる「クスリ」の話だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

親父の「電卓」 

Imgp3545_4  (2014.04.15)  生涯現場で働くブルーカラーだった塗装工の親父がブログ子に譲ってくれたものに

 電卓(オムロン8、立石電気= 写真上)

というのがある。1975年ごろに発売されて、値段は1万円くらいだったという。当時の大卒初任給が9万円台だったから、相当な高級品である。

 しかし、8桁の精度ではあるが、掛け算など四則演算しかできない。それで親父の仕事には十分間に合った。だから、親父には電卓のボタンにある「√(ルート)」には、どんな機能があるのか知らなかった。今の中学生ならどんな落ちこぼれでも、その意味は知っているだろう。

 実は、この集積回路(IC)を組み込んだ電卓オムロン8、発売から40年近くたった今でも、ブログ子は重宝している。

 小型化を可能にするこの集積論理回路(ICチップ)と、プログラム可能なマイクロプロセッサー(通称、その形からゲジゲジ)の組み合わせから、今で言うPC(小型汎用計算機=PC)が登場する。人のやりたいことを機械(ゲジゲジ)に伝えるプログラミング言語もいろいろなものが開発されはじめていた。フォートランとか、PL1などはブログ子にとっては懐かしいプログラミング言語である。

 このように1970年代は、人がボタンを押し、1対1で直接指示する電卓から、人が言語を使ってやるべき仕事をゲジゲジのわかるプログラミングにし、プロセッサーでそれを一括して処理させるPCへと向かう変革の時代だった。

 Imgp3547_2 ブログ子も1970年代、大学院で研究していたとき、理系ということもあり、この面での先端を走っていたアメリカから

 プログラム可能な卓上計算機

 テキサスインストルメント(TI)Programmable 58C

をわざわざ「輸入」して購入した思い出がある。操作のマニュアルはすべて英文。今も十分使用可能であり、大切に保存している( 写真中 )。さまざまな機能がボタンについているのがわかる。当時のお金で10万円以上したと記憶している。

 ● 今年は電卓50年

 計算機は、そろばん、計算尺をへて、手回しの機械式(タイガー計算機)から、モーター駆動の電動式へと発展してきた。それがすべての操作を電子式にした卓上電子計算機が、日本で初めて発売されたのは

 コンペット(シャープ= 早川電気、1964年。写真下= 注記)

 値段は、なんと当時の車の値段ぐらいしたそうだ。この年には、シャープ以外にもカシオなども電卓を発売しており、日本でいっせいに電卓開発競争が始まったらしい。

 1964年は、

 アメリカのIBM社が汎用大型計算機IBM360

を世界発売を始めた年でもある。鑽孔した紙カード(デック)でプログラムを入力するバッジ処理だった。ブログ子も、大学共同利用電子計算機センターまで、デックを大工道具のような要領で担いで出かけた。1970年前半によく利用したが、アメリカの底力を見せ付けられたことを覚えている。

 1964imgp3533_1 ● BSフジ「ガリレオX」

 先日、民放BS「ガリレオX」で

 50年目の電卓

というのを見た。シャープ、カシオなど、電卓の開発競争にしのぎを削った当時技術者だったシニアが何人か登場していた。

 ブログ子よりも少し先輩に当たる人たちだったが、その開発にかける熱情が今でも伝わってきた番組だった。

 ● 注記

 コンペットの写真は、2014年4月13日放送の

 BSフジ「ガリレオX  50年目の電卓」

番組画面から。

 ● 補遺 

 計算機、電卓やPCの発達史については、

 東京理科大学神楽坂キャンパス近代科学資料館

にその実物陳列があり、常時公開されている。

 新宿区神楽坂1-3(電話 03-5228-8224)

JR山手線「飯田橋」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

胡蝶の夢  読書ノート

(2014.04.10)  年度変わりのこの2、3週間、少しひまをみて、以前から読んでみたいと思っていた司馬遼太郎さんの大長編

 『胡蝶の夢』(新潮社版、全5巻)

を読んだ。

 ● もうひとつの幕末史

 読んだ感想を一言で言えば、

 日本という「この国のかたち」がどのように出来上がってきたのかということを、蘭学や蘭方医学を通じて、幕末の身分制度の崩壊のなか、これでもか、これでもかというぐらいに鮮やかに描かれていた

Imgp3371_1 というものだった。

 司馬さんの小説の生涯のテーマ

 日本人とは何ぞや

という問いかけに、見事にこたえた作品だと思う。牢固として存在し続けてきた身分制度に焦点をあてた

 もう一つの幕末史

といってもいい小説だった。

 ペリー来航があったにせよ、なぜわずか10年であんなにも簡単に幕藩体制が崩壊してしまったのかということが、よくわかった。本当の崩壊の原因は社会が成熟するに連れて身分制度というものが逆に社会の不安定性を加速させ、機能不全に陥っていたという内部要因があったのだ。そこにペリー来航という衝撃波が日本を襲ったに過ぎない。世界に飛び出すことを夢見たその典型が脱藩浪士、坂本龍馬の活躍だったのだろう。

 もうひとつこの小説で、「この国のかたち」として浮かび上がらせたものに、今もそうだが、

 日本の学問スタイル

がなぜ暗記学問であり続けてきたのかということを描いている点がある。奈良時代以来、漢学、蘭学、西欧学に一貫して流れている日本人の共同思考として、

 優れた学問というのは海外から来るものであり、国内のものはまがいもの

という思考である。学問とは、あるいは研究というものの大枠は輸入されてくるものであり、日本人はそれにちまちまと改良する。これが学問であるという固定観念が「この国のかたち」として今も定着している。その遠因、淵源をつまびらかにしている。

 ● 卑屈さ生んだ精緻な身分制度

 以下は、読みながらメモしたその読書ノートである。

 第一。 タイトルの胡蝶とは、幕末の身分制度のなかで右往左往する蘭方医たちのこと。ひらひら舞いながら西洋医学という花粉をあちこちにまきちらしはした。しかし、それは身分制度を崩壊させる一因にはなったものの、その後肝心の運んだ花粉そのものの効果は何ほどのものであったかは、わからない。

 こうした胡蝶の夢ともいうべき事柄は幕末だけに限ったことではあるまい。今もある。

 第二。 未知の学問分野を自ら構築するという発想がない。このことを著者の司馬さんは伊之助という異能の人を通じて、日本人のある意味の典型として、痛烈に描いたのではないか。このことは決して幕末の学問に限らない。身分制度がなくなったはずの現代においても「この国のかたち」として牢固として残っているように思う。

 たとえば、学問とは輸入されてきた原書を暗記することだという考えは、奈良時代以降日本の学問の基本スタイルであった。やさしい例で言えば、英語を学ぶことは、英文解釈重視のことであり、何時の時代も英会話は軽視されてきた。

 暗記学問からは自らの発想を学問に付け加えて発展させるという姿勢が欠落してしまう。学問の成果は秘匿するものといういびつな通弊が根強くあった。本物の学問は何時の時代も、外からやってくるもの、輸入されてくるものという発想である。

 ● 主張しない日本人の原因

 第三。P.ローエルなど、明治以降の日本人論には、

 日本人には「自我」がない、個性がない

とよくいわれる。これは何故だろう。

 徳川幕藩体制の根幹の身分制度のなかで人々は

 世間が自分をどう思うかという「世間気(せけんぎ)」

に押しつぶされてしまった結果ではないか。対人関係である身分制度は、分、あるいは分際をわきまえることを前提とし、そのことを礼法にかなった美徳として成り立っている。精緻な身分制度の結果、世間気から卑屈さが生まれ、それが日本人から自我を奪った。個性とも言うべき自らを声高に主張することを、世間気を強要する身分制度が押し殺してしまった。

 日本人とは何ぞやと生涯問い続けた司馬さんは、この小説で、そのことを具体的に描いたのだと思う。幕藩体制の安定化のために編み出された精緻な身分制度が、つつましさを育んだが、同時にその後日本人に必要以上の卑屈さを身につける結果となり、それは現代にも根強く残っている。

 国際社会の中で自らを主張しない

 「顔のない日本人」

の不気味さ、卑屈さの正体とはこれであろう。 

  ● 補遺 江戸時代の身分願望

 江戸時代の身分願望については、研究書として、

 『江戸時代の身分願望 見上がりと上下無し』(深谷克己、吉川弘文館、2006)

がある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

耳に残った「耳のかゆい」話

(2014.04.06)  「耳が痛い」というのは、

 相手の言うことが自分の欠点に触れていて、聞くのがつらい

という意味だ。だれでも経験がある話。

 Imgp3407 ところで、

 「耳がかゆい」というのは、どういう意味か。

 私の愛用している「新明解国語辞典」によると、

 他人に自分のうわさや批判をされて、平静な気持ちでいられない

という意味。STAP細胞論文で渦中にある若い研究者、小保方晴子さんも今は、そんな心境だろう。

 そんな人でなくても、ブログ子もそうだが、平凡な人生を送っているシニアにも、たいていそんなことは、人生、一度ならずある。

 ところが、今年になって、ブログ子はここ2、3か月、何がきっかけかは分からないのだが、

 本当に右耳の中がときどきかゆい

ということに悩まされていた。左耳は大丈夫なのに、右だけが耳穴(外耳道)を少し入ったところが思い出したようにかゆくなる。何かが詰まっているような感覚になる。

 親しい人に耳の中をのぞいてみてもらったのだが、目立った異常はない。

 仕方なく、見えないもっと奥の鼓膜のあたりに耳あかがたまっているのかもしれないと、綿棒や耳掻きのようなもので、掘り出せるのではないかといじってみた。

 そうすると、なんだか、余計にかゆくなる頻度が増してきたように感じた。

 そんなこんなで、ついに近所の耳鼻科医院に出かけた。

 60年以上の人生で初めて耳鼻科に行ったのだが、医学博士の学位まで持っている先生曰く。

 「かゆい原因は、あれこれ耳穴をかくからだ」

と即答してくれた。かかなければ、耳はかゆくならない。かくから耳穴の皮膚に傷がつき、ますますかゆくなる。かゆくなるのは生体からの「かくな」という警告なのだ。そればかりか、自然の生体反応で耳は耳あかを外に出そうとしているのに、かくことでかえってそのあかを奥の鼓膜のほうに押し込む逆効果になっているのだそうだ。せっかくの生体の仕事をじゃましているのだ。

 そういって、先生は奥の鼓膜近くに詰まっていた耳あかをあっという間に取り除いてくれた。そして、かゆみ止めをサッとひと塗りして治療は完了。

 以後、耳のかゆみは完全に消えた。

 中耳、内耳も含めて耳は、通常、ほかの動物の場合も含めて人が耳の中を一生いじらなくてもいいように、耳あかや老廃物を自ら処理できる自前の仕組みを持っている

として、綿棒などの耳かき道具不要論、さらには廃棄論を診察室で話してくれた。

 この話は、何も耳だけには限らないように思った。自然治癒力というべきか、人体の巧妙な仕組みをもっとよく知り、大切にしたい。

 耳に残る先生の話だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年3月 | トップページ | 2014年5月 »