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人の行動は氏か、育ちか  読書ノート

Imgp2269 (2014.03.01)  簡単に言ってしまえば、25年にもわたる表題のような欧米の生物学論争を、社会学者によって克明に論じた2巻本が

 『社会生物学論争史』(ウリカ・セーゲルストローレ、みすず書房、2005年。原著= 2000年)

である。この10年近く読もうと思ってはいたのだが、なかなか手が出せなかった。が、ひまもできたので、ついに読んでみた。

 もともとの論争の出発点は、浩瀚な

 『社会生物学』(E.O.ウイルソン、原著 = 1975年)

であった。どこが論争を呼んだのかというと、行動の基盤はすべては生物学的に決っており、人間を含めてその行動の体系化は可能であるとした点である。アリ研究の世界的な大家のウィルソンのことだから、アリについてはそうかもしれない。しかし、人間は違う。人は遺伝子の操れ人形ではないというのが普通の生物学者の反応だった。

 ちょうどこのとき、高名なダーウィン原理主義者の生物学者、R.ドーキンスも

 『利己的な遺伝子』(原著 = 1976年)

を出版していたから、論争に火がついた。

 ● 社会生物学論争史

 ブログ子の結論は、人間の行動は

 氏も育ちも大事である

というものだが、研究者となると、ましてや社会学者がかんでくると、そうもいかないらしい。えんえん25年間も論争が続いたが、もともとのウィルソンが嫌気がさして、別の分野の研究に鞍替えしてしまったことで、1990年代前半、論争は下火になったらしい。

 ブログ氏に言わせれば、

 科学の効用は引き出すことはできても、価値を自然から引き出すことなどできない。価値は社会がつくりだすものだからだ。

 したがって生物学的事実からなんらかの政治的な結論を引き出すことなどできない。にもかかわらず、人間はどういう類推からか、あるいはアナロジーからか、単なる事実発言を、その事実の効用から、それを発言者の政治的な見解であるかのように、都合よく、あるいは短絡的に考えてしまう。

 単なる事実にすぎないのに、そうではあるまいと考える社会がこうしたすり替えを生んでいる。

 これが、ブログ子の読後感であった。

 ● 1990年代、サイエンス・ウォーズへ

 この本をようやく読み終えて、はたと気づいた。こうした論争は何も生物学だけに限らない。生物学者同士ではなく、物理学者と社会学者という学問間に飛び火した。

 いわゆる1990年代前半のアメリカで起きた物理学者たちと社会構成主義の社会学者たちの間に展開された

 サイエンス・ウォーズ

である。発端は

 『高次の迷信』(P.グロス/ H.レビット。原著=1994年)

である。いわば、現代「科学論」論争である。これも結局

 『知の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用』(A.ソーカル/J.ブリクモン、2000年。原著 = 1998年)

によって、ややえげつないやり方ではあるが、構成主義のいかがわしさを公然と証明して見せた物理学者のほうに軍配が上がる。

 ● 輸入学問の日本の悲しさ

 その後、サイエンス・ウォーズがどうなったかは知らないが、

 『サイエンス・ウォーズ』(金森修、東京大学出版会。2000年)

という解説本が、科学論研究者によって出ている。

 残念なのは、こうした問題に対して、日本ではほとんど論争らしい論争がなかったことだ。

 これは、学問というものの大きな枠組みは、海外から輸入されるものであり、与えられるものであるという日本人のメンタリティのせいだろう。輸入学問の悲しさが今も尾を引いている。

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