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文学における「二枚舌」の発見          ドストエフスキーの『罪と罰』

(2014.01.03)  NHK紅白歌合戦の〝裏番組〟として放送大学(BS)で、ロシア文学者の亀山郁夫さん(東京外大名誉教授)が

 ドストエフスキーと現代

という特別講義をしていたのが、面白かった( 写真= 12月31日夜放送の「放送大学」テレビ画面より )

 Imgp2521_1 19世紀後半のロシア、舞台はペテルブルグ。ロマノフ王朝の皇帝権力が絶大であったため、自由に文学活動ができない。そんな制約の中で、新しい文学表現として「二枚舌」の手法を駆使し、真意を込めたもう一枚の舌を小説の深層に隠し、生きながらえながら『罪と罰』という名作を世に出したというのだ。裏の意味は何か、小説が謎解きのパズルのようになっていて、小説に深みを加えているのだ。

 ● 人間精神の新しい表現法

 その真意とは、たとえば「一億倍の罪を起こすことになる」という主人公、ラスコーリニコフに投げつけられた言葉である。皇帝暗殺のことであり、ひいては21世紀の現代の「テロの時代」を予見する謎の言葉でもあるという。

 また、この主人公の名前にも、現状を破壊し、改革するものという意味が隠されているというのだから、驚く。登場人物の配置や行動、あるいは謎のような話し方にも表の意味とは異なる裏の意味がある。

 こうなると、当時の政治情勢から必要に迫られて生み出された二枚舌という文学手法ではあるものの、この手法は人間精神のあり方の表現方法として新しい可能性を開くものといえるだろう。

 真の文学は、貧困と戦争、そして抑圧のなかから生まれるというが、殺人を犯したこの主人公同様、自らもシベリア送りを経験しているドストエフスキーにとって、そして人間にとって、何が幸いになり、何が不幸を呼び込むことになるのか、よくわからないという好例だろう。

 ● 目的は手段を正当化するか

 恥ずかしながら、ブログ子も『罪と罰』は、高校生のとき読みかじった。

 しかし、それは、単に

 (社会正義の実現という)目的は(殺人という)手段を正当化するか

というのがテーマだと今まで、単純に思っていた。表の意味は確かにそうだろう。

 これに対する高校生のときの結論は、手段は選ばなければならない、手段は正当化されないというものだったと記憶する。どんな手段でも許されるのは、現実とは無縁の小説、仮想現実のなかだけだとも思い込んでいた。

 今でも、基本的人権の侵害に対する名誉毀損さえなければ、表現の自由があり、仮想現実の世界では、どんな手段でも正当化されると思っている。

 高校生のときには、この程度の理解であったように思う。今のように、目的のために手段を選ばなかった場合、つまり、殺人を犯した場合、

 社会のせいにせず、自らの傲慢さと罪に、どう向き合うべきか

などという高尚なことはとんと思いが至らなかった。しょせん、理系人間の浅はかさと恥じている。つまり、罪を犯した場合、

 再生はあるのか

というテーマである。この小説の真の、つまり表と裏に共通するテーマである。

 それにはまず「罪」の意識を持つことだとドストエフスキーは、娼婦、ソーニャの

 まず、大地にひざまずきなさい

という言葉を借りて、言いたかったのだろう。

 ● ロシアの復活も大地にひざまずくことから

 次に、そしてそこから、ドストエフスキーが真に問いかけたかったのは、

 再生へ、宗教に魂の救済を求めるべきか

ということだったと思う。ここにシベリア送りという「罰」が登場する。キリスト教においては、人間は罪深いものである。罰からのキリスト教的な救済という問題につながっていく。

 ドストエフスキーの人生も、政治犯としてシベリア送りがあり、そこでの宗教的な生活から復活、再生が始まっている。その復活が最初に結実したのが、この『罪と罰』なのも偶然ではない。

 ロシアには、聖母マリアという意味の「母なる大地」という言い方がある。ロシアの復活はその母なる大地から始まるというのがロシア人共通の確信である。主人公、ラスコーリニコフも、罪を意識し、大地にひざまずくことから再生への道を歩む。

 『罪と罰』でドストエフスキーが二枚目の舌で表現したかったのは、 主人公同様、ロシアの復活もまた、広大な母なる大地にひざまずくことから始まるということだったように思う。

 問題は、その場合、誰がひざまずくのかということ。小説では明確ではないが、二枚舌手法から言えば、当然、

 皇帝自らひざまずく

ということになる。おどろくべき巧妙な二重構造になっている。

 さらに、ドストエフスキー自身にとっても、この大作を書き上げることで、自らの魂の救済を宗教に求めたといえよう。この小説の心理描写が真に迫るものがあると言われる所以も、このせいに違いないということに気づいた。

 つまり、この小説は、ドストエフスキー自身に捧げた、いわば三重構造の「罪と罰」なのだ。 

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