神は宇宙のどこに? 思考の境界線
(2014.01.24) 高名な宇宙物理学者の池内了氏が
集英社の月刊読書情報誌『青春と読書』
にこの1年間連載していた
宇宙論と神
がこの2月号で最終回となった( 写真 )。大学院生時代と少しも変わらない、いかにもまじめな池内さんらしい謙虚さでつづられており、ブログ子は毎回、楽しみに拝見していた。
宇宙における神の存在
だったが、最終回は
神は何処に? - わけがわからないものの導入
だった。
● 池内「居場所探しは永遠に続く」
池内さんの結論を、手短に言えば、わけのわからないものが次々と出てきて、結局
「宇宙における神の居場所探しは永遠に続く」
というもの。神の居場所はなくならないのではないか、というわけだ。
この結論は、池内さんと同世代の、かの宇宙物理学者、S.ホーキング博士の最近の結論、
この宇宙を創るには神の居場所は必要なかった。いわゆるM理論などの物理学で十分
と結論付けたのとは、大きく異なっている。
● ホーキング博士は〝王手〟
ホーキング博士は、その著書『THE GRAND DESIGN』(2010)の最後において、人類の宇宙論研究3000年の歴史において、ようやく人間が神に〝王手〟をかけたという意味のことを書いて、結論としている。この理論を得たことで、少なくとも将棋で言えば〝詰めろ〟がかかったらしい。
この件については、NHK総合、NHKBS放送などでもこの一年、何回も放送されていたから、よく理解できないながらも、なんとなく納得した読者も多いのではないか。
こうした結論の違いを生んだのには、宇宙論、宇宙物理学の話ではあっても、仏教圏の池内、キリスト教圏のホーキングというように、神に対する文化的な背景の違いも影響しているであろう。時間と空間を超越した存在という点では同じでも、人間との距離感が、われかれで異なる。
● 脳の構造が宇宙論を決める
ブログ子の意見は、次に述べる理由によって、結論としては池内氏のものと同じである。その理由とは、要するに、
宇宙論とはいっても、結局、それは人類を含めた生き物の脳が生みだした産物に過ぎない。アメーバーであろうがなんであろうが、脳の構造は、その生物の進化段階で決まる。とすれば、脳の構造から決まる思考様式には必ず進化的にこえることのできない一定の境界線が進化段階ごとに存在する
ということ。つまり「思考の境界線」という物理的な壁の存在である。
学問の進歩とはこの境界線の限定された内側において、少しずつ壁に近づいていく道のりのことであろう。
わかりやすく言えば、これは現在の人類の脳構造では、決して解けない数学の難問がいつか必ず出くわすことをも意味する。解けるためには、脳構造の進化的な変化が必要というわけだ。たとえば、素数に関する未解決のリーマン予想もそのひとつかもしれない(注記)。
ここから、神の居場所探しとは、つまり具体的に何のことかというイメージが自然な形で浮かび上がってくるであろう。また、生物が進化する限り、思考の境界線をめぐっての神の居場所探しは、狭まるにしろ、広がるにしろ永遠に続くことになる。
この結論は、池内氏と同じなのだが、違うのは、ブログ子の場合では、神の居場所が丸まった次元数のなかや、「わけがわからないもの」のなかへと、どんどん遠のいていくのではないという点だ。
宇宙を考えている生物の思考の境界線が進化に連れてどんどん広がっていく、あるいは退化することで狭まっていくというように、考えている主体側の進化状態に依存して、神の居場所はダイナミックに変化するということだ。
思考の境界線内で論ずることのできたのが、ニュートン力学の世界。これとは違って、宇宙における神の居場所探しという思考の境界線をめぐる宇宙論においては、宇宙という客体と、それを考える主体の脳構造とは、分離できない。互いに別々の話ではない。脳の構造が変化すると、それにつれ神の居場所を示す思考の境界線も変化する関係にある。
言い換えれば、神の居場所探しをめぐる宇宙論から得られる内容は、その宇宙論を考えている生物の脳の構造と強くカップリングしている。
これが、二人の高名な宇宙論学者とブログ子の基本的な考え方の違いである。
● 主体と客体分離できるか
この違いをはっきりさせるために、宇宙を創った神は天才数学者かと思われるほどに、かくもこの宇宙は数学的に見事に記述される点を考えてみる。いわゆるM理論はその典型あるいは極致だろうが、見事なのは何故なのか、という問題。
数学は人類の脳がたかだか数百万年であみだしたものにすぎない。宇宙の年齢からすればごく最近の、しかも一瞬の出来事なのに、どうしてそんな見事なことが可能なのか、不思議である。
このパラドックスは、
人間を含めて生物の脳は自然の一部である
と考えれば、解ける。自然界の間では一定の原因には一定の結果が伴うという因果律が存在すると考えさえすれば、自然の宇宙を、自然の一部である人間の脳が生みだした数学で論理的に正確に記述できるのは、ある意味当然である。少なくとも不思議ではなくなる。
こうしたカップリングを考慮せず、神に対して〝王手〟をかけたとするホーキング博士。その結論は、40年にわたる研究の集大成として、そう思いたい気持ちはわからないでもない。が、失礼ながら、進化生物種としての人間の知には常にのりこえることのできない壁が常に存在することを見落とした誤りか、もしくは思いすごしであろう。神は、その壁の向こう側にいる。
● 知りえることには限界がある
脳構造の限界から、その生物の進化段階に応じた真理の一部を手に入れることはできる。このことは池内氏の考察もホーキングのそれも例外ではない。
しかし、人間を含めて生物がどんなに進化し続けても、誰もが望む宇宙のすべての真理を定式化できる、いわゆる真の大統一理論を手に入れることは、永遠にできないだろう。なぜなら、現在の体制から生物として生存できるよう体のつくりを変化させるには、無条件ではありえず、当然構造上の限界があるからだ。このことは脳の進化には一定の制約があることを意味する。
すなわち、今のM理論によって、神には王手はかからない。そればかりか、遠い将来においても依然として思考の境界線という生物としての壁が、宇宙物理学者の前に立ちはだかっていることは間違いない。
このように知り得ることには一定の限界があるというのは、現在の地球人だけでない。過去に存在した、あるいは未来に存在する高度文明を持つすべての宇宙人や生物に共通して言えることである。
これがブログ子の結論である。
もうお分かりと思うが、最後に、このブログのタイトル「神は宇宙のどこに?」の答えは、
脳構造が決める「思考の境界線」の向こう側におられる、ということになる。神は身近に、そしていつもわれわれとともにいるということになる。
ただ、身近といっても、キリスト教圏ではより隔たって、仏教圏ではより近くにという違いがあるだけであろう。
● 注記 リーマン予想と不完全性定理の関係
リーマン予想と、ゲーデルの不完全性定理とを混同してはならない。不完全性定理とは、現在の人類よりもはるかに進化した生物が、その驚くべき論理を駆使して、どんなに巧妙に公理を設定したとしても、真か偽かを判定できない命題が、必ず1つは存在するという定理。つまり、この定理は、進化の如何にかかわらず厳密に成り立つことを、現在の人類の脳構造で証明してみせたのがミソ。はっきり言えば、この不完全性定理は、思考の境界線の内側の問題として解決した。
これに対し、未解決のリーマン予想は思考境界線をこえた外側の、つまり進化に伴う人類の脳構造の問題かもしれないということである。そうだとすると、人類の進化がもっと進まないと、たとえば、3つの大脳を持つ人類にまで進化しないと、一つ大脳の人間では予想は解けないかもしれないという、不確定性定理にはない基本的な違いが、リーマン予想にはある。
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